07 リーチ・フォー・ザ・ムーン




 白い空間。


 どこからか警報のように長く鋭い悲鳴が空気を切り裂く。


 金属を引っ掻いたような「キー、キー」甲高い音。


 岩がこすれ合ってぶつかり合うような「ゴッゴッ」と重い音。


 悲鳴が聞こえたと思われる方角へと目を向ける。


 また聞こえた。


 氷水を浴びせられたかのような寒気に襲われる。次の瞬間には地震と、それとは異なる大きな衝撃が襲いかかってきた。


「……次から次へと、目まぐるしいね」


 冷や汗をかきつつ、あえて声に出して呟いた。自分は平静だと、言い聞かせるために。


 息が詰まるような湿気が充満している。


 そこは不気味な広場で、地面は蔓で分厚く覆われていた。まるで眠る蛇の群れ。


 辺りは妙に明るいが、黒い霧が立ち込めている可笑しな場所だ。

 しばらく呆然と風景を眺めているしかできなかった。


 白い光が、ぼんやりと、空間全体を照らし出している。空間の奥に行くにつれて極めて曖昧な状態になり、薄く白い膜が幾重にもべっとりと貼られているようだった。


 そこに黒い霧がかっている。


 まるで俺の行く先を暗示するかのように。


 意図的に隠し、不安を煽り、嘲笑う黒い霧は、この大地のあちらこちらを覆っていた。


    ▼


 不意に、しゅるしゅると何かが近づいてくる音。鋭い匂い、新鮮な血の匂いが鼻をく。


 黒い霧からそれが飛び出した。

 慌てて後ろに飛び退る。

 さらに距離をとる。


 それは三本のイカの足に似た触手だった。腹側に吸着カップ状の口があり、小さな牙が無数に生えている。掴まれただけで肉を削ぎ取っていくような形状だ。声帯まで備えているのか「ピギィ――ッ!」と耳障りな声で鳴いて霧の奥へと帰っていった。


「⋯⋯」


 また、地震。いや、これは――足音だ。


 薄く白い膜の濃淡の向こうに巨大な影。

 まるで朝靄(あさもや)にそびえ立つビル群のような威容の生物。

 体高は八十メートルはあるだろう。馬のような首と頭部のシルエット、口元からは数百、数千の触手がうねっている。さっき襲いかかってきた触手とは何か関係があるのだろうか。触手は深海魚の生物発光のように、赤い光を明滅させていた。

 飛び交う鳥のような何かの群れを引き連れてもやの中へと消えていく。


    ▼


 猿に襲われた場所から、どういうわけかまた移動したが、この移動した先もまったく安心できる場所ではなかった。


 他にどんな脅威が潜んでいるのかわかったものではない。


 この移動現象を俺自身が引き起こしているのなら、もう一度起こすこともできるはず、帰れるはずだ、できる、帰れる、そう信じる。


 呼吸を整え、元の世界を思い描く。強く、強く、鮮明に、明確に、繊細に。

 今この瞬間にまた何かに襲われたらという不安を頭から追い出し集中する。


 俺を帰せ――。


 世界が切り替わる。


    ▼


 〝bamf!〟


 音と共に、身体にまとわりついた黒い霧を拡散させながら違う場所に出現する。


「――って、くそ、こっちかっ!」


 荒廃した世界に着地した。


 俺の声に反応した猿が、驚いたような表情でこちらを見た。


 脅威も再び。再びの猿。嫌になる。


 猿は今まさにそこにいた獲物に向かって突進したはずだったのに、俺が突如消えたことに驚いているようだ。

 黒い霧の世界に五分以上はいたはずだが、しかし、猿の様子を見るにどうやらここではいくらも時間は経っていないらしい。


 俺はというと、猿の目の前から消え、放置されたワゴン車を挟んだ広場側にいた。

 猿はゆっくりと首を巡らし、俺と、俺がいたはずの場所を交互に見て、苛立ったように呻いた。


 俺を睨み、声を上げて、ワゴン車を一足飛びに跳躍し襲いかかってくる。


 なんとか対処しなくては、と動こうとしたが激しい目眩。こんな時にくそったれ、と悪態を吐こうにもそんな余裕もない。

 逃げることもできず、酩酊したような感覚にふらついた。

 立て続けの意味不明な状況にさらされて、精神が限界をきたしたのか。

 周囲の風景や光、色が溶け合い、ぐるぐると混ざり合う。

 頭の中でさまざまな感情が暴れている。

 叫び、泣き喚き、吐き出してしまいたいような気持ちになった。

 ひどく気分が悪い。


 視界の歪みもひどくなる。

 自分が立っている場所すら曖昧になっていく。

 一秒が永遠にも思える中、何分、いや何時間が経ったとしても不思議ではない。


 世界と世界の間でゆらゆらとさまよう⋯⋯──。


    ▼


 突然――喧騒が戻ってきた。


 雑踏、人のざわめき。


 自動車、信号、大型ビジョンの音と光。


 その他もろもろの雑多な音。


 まだ光の眩しさに慣れず、よろめく。


 そばを通る男女の会話が耳朶(じだ)を打つ。


「なにかあったの?」

「ああ、いっこ向こうの通りで事故があったみたい……」

「どうしたの?」

「んー、それがさ。運転手がケーサツに人を轢いたって話してたんだけど」

「うん」

「轢かれた人なんかどこにもいなかったんだよ」


 瞳が焦点を結び、視界が鮮明になる。すれ違う人の怪訝そうな顔が見えた。


 自分の格好を意識すれば、粉塵を被って真っ白になっているし、袖は切り裂かれて血の染みがべっとりだ、無理もない。


 おそらく突然パッと現れたのだと思うのだけど、それについては周りを見ても誰も何も反応していない。何らかの力が働いて認識できなかったのか、それとも、他人のことなんて誰も気にしないし、興味もない、ということだろうか。とは言え、その瞬間を目撃していたとしても、気のせい、とか、見間違いと思って自分を納得させるのが自然なのかもしれない。


 右肩を払うとコンクリートの粉が舞い上がった。

 道往く人が迷惑そうに口元を押さえた。

 正面から歩いてくる人が不快そうに舌打ちするのも見えた。

 ああ、こういうのには敏感に反応するんだなあ、と思った。


「……」


 タイミングを見て、パーカのフードをばさばさと振り、頭をわしわしとかき混ぜ、肩を払った、服を叩き、尻を払い、ズボンを上から順に叩いていく。

「うわっ」と飛び退ったさっき舌打ちした男性に、真顔でサムズアップしてみせた。


 そういえば、いつの間にか調子の悪さはどこにもない。頭は驚くほどにスッキリとしていた。


 とりあえず、今日は大学に行くのはやめだ。


 ジャケットのポッケに手を突っ込んで歩き出す。そこに指輪と手帳があることを確かめて。


    ▼


 風呂上がりに窓を開け放ち、窓枠に腰掛けて、椅子に両足を乗っける。

 午後の日差しを浴びながらコーヒーを一口。ほっと一息。

 カップを机に置いて、両手をこすり合わせて、さて、と。

 革の手帳を手に取り、開く。


「……」


 一ページ一ページ、慎重に捲っていく。

 見た目ニ十ページもない手帳だ。すぐに最後のページまでいくはずだった。

 違った。

 百ページを超えた。


「…………」


 一度、手帳を閉じ、パラパラと捲ると、やはりニ十ページもない。

 再び最初からページを手繰る。

 さっきの続きをと思いながらページを捲ると、百ページを超えたあたりの見覚えのあるところへ飛んだ。


「………………」


 さらに慎重に確かめてしばらく。

 手帳から目を離し、顔を上げた。


「……よし読めん、わかってたけどぜんっぜん読めん」


 光が滲むように薄ぼんやりとした図形の連なりとか、意味がわからない。

 書かれた文字に共通するものはいくつか見つけられるが、数が多い。文字の見た目などから、種類の違ういくつかの言語が使用されているのではと推測する。


 読むにはある程度の予備知識が必要そう。


 気付けばだいぶ日が傾いてきている。

 開け放った窓から強い風が入り込んだ。

 机に無造作に置いてあった並製本ペーパーバックが捲れ、その上に立ててあったせいで指輪が転がった。机から落ちた指輪を空中でキャッチする。


 そして決めた。


 ――もう一回、行こう。


 あの荒廃した世界へ。

 あの黒い霧の世界へ。


 たぶん、行けるだろうと思う。


 当然、危険はある。命の危険が。たった数時間前のこと、忘れたわけではない。

 死んでしまっては意味がない。


 が、しかし――。


 好奇心は猫をも殺す、というけれど、退屈は俺を殺すのだ。やはり死んでしまっては意味がない。


 ヘッドホンをして[キュリオシティ・キルド・ザ・キャット]の『ミスフィット』を聴く。

 彼らは八十年代に日本でカセットテープ(カセットテープ! 俺は見たことない)のCMに起用され、「度胸と音楽は、大人に勝てる。」なんて宣伝文句が使われていた。

 彼らは良いバンド名が思い浮かばず、自分たちの曲のタイトルからヤケクソになって『Curiosity Killed The Cat(好奇心は猫をも殺す)』と付けたという話もある。


 度胸とヤケクソ、いいじゃないか。


 俺も見習おうと思う。


 行こう。


 求めていた〝何か〟が起きたんだ。


[ザ・クラッシュ]のボーカリスト、 ジョー・ストラマーだって言っている「月に手をのばせ、たとえ届かなくても」って。

 そして俺は、ジョー・ストラマーが好きだった。


「 Reach For The Moon, Even If We Can't. 」






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