後編
「スリル……そんなの感じなくていいよ。とりあえず安全第一でここから脱出してくれ」
「スリルを感じなくていいって、なんで?」
首を傾げて彼女は問うた。
「なんでって……それは、リスクを被ってほしくないからだ。君が俺以外の誰かに見つかったら、最悪の場合、不審者及び不法侵入者として警察が呼ばれる」
流石にネガティブシンキングが過ぎたか? ただ、万が一の場合がある。彼女には悪意がなさそうだから、悪人扱いを受けてほしくない。
「なるほどリスクが怖いか……。でも、それが楽しいんじゃん」
楽しいとはつまり、彼女はマゾヒストなのだろうか。生憎、俺にはそういった趣味は無いので彼女のことを理解できそうになかった。
「ドキドキするようなシチュエーションがないと退屈だよ。今日だって、暇だったから下界に降りて来たんだよ」
「そんな簡単に天国と現世は往来できるのか?」
彼女が天国に住んでいるのかは定かではないが。
「いやそんなことよりも、本当に早めに抜け出したほうがいい。もう夕日が落ちかけているし、君のために言っているんだ」
どうにかして彼女を説得しようと試みるも俺の思い通りにはならないどころか、彼女は小さく溜息を吐いて呆れ顔をおもてに表した。
「あなたの人生ってつまらなそうだね」
遽然として少し癪に障る言い方をされてしまった。
心なしか彼女の目が弱い者を憐れむような、慈しむような温かいものへと変わった。
しかし、なんだか俺の生き方を否定された感覚があり、その温かさが逆に突き刺さる。なので俺は黙っていられなかった。
「つまらないんじゃない、フラットなんだ。プラスの要素がなければマイナスの要素もない。そんな平穏、穏やかで、ゆったりとした生活が結局は一番なんだよ」
「……? それがつまらないんじゃ……? 起伏がない人生なんて退屈で退屈で仕方ないじゃん」
俺は眉を
「だから、その起伏が煩わしいだろ。例えプラスの出来事が起きても、やがてゼロになってしまえば差はマイナスになる。そんなことになってしまうくらいなら初めから何もなければいい」
何もしなければ、何も起こらない。何も起こらなければ、何も変わらない。変化が一様に良い方向へシフトするとは限らない。
リスクが少しでもあるのなら行わないのが吉だ。変化がないということは、マイナスもないということなのだ。
「ふぅん……じゃあ……どうして私に話しかけてきたの?」
「え?」
意図が汲み取れない質問に、思わず声が漏れてしまう。それでも俺は偽りなく答える。
「それは……君のことが気になったからだ」
言うと彼女はニヤリと口角を上げた。
「ほら、結局あなたは新しいことを欲している。刺激が欲しくて好奇心に身を任せたんだ」
勝ち誇ったかのように見下ろしながら解説し始める彼女なのだが、俺は理解ができずに首をかしげてしまった。
「どういうことだ?」
「フラットがいいなら、私に話しかけないよね」
挑発的な笑みを浮かべたまま俺を見据えると、乳白色の艶やかな脚をブラブラと振った。
「あなたは自分では気づいていないだけで、刺激を求めているんだよ。本当に平坦な人生を送りたいのなら、ロボットにでもなって工場で働いたらいいよ」
俺は何も言葉にできず立ち尽くしてしまう。反駁ができないということは、納得を意味するのだろうか……。
「いい退屈しのぎになったよ。ありがとね」
机の上に立ち上がった彼女は大きく伸びをする。心なしか後ろの翼も彼女と呼応するようにピクリと動いた気がした。
「あっ」
急に彼女が廊下の方を指さした。反射的にそちらへ顔を向けてしまう。しかし数秒目を凝らして何かを探したものの、誰も、何もなかった。
「なんだよとつぜ……」
振り返ると、もうそこに彼女はいなかった。音もなく跡形もなく、まるで最初からいなかったように姿が消えていた。
だが俺は足を動かさずに、彼女がいたであろう机をしばらく見続けた。
女性は少し不思議があった方が魅力的というものだ。いや、本当のところは非現実を目の当たりにして動けなくなっているのだろう。
彼女は本当に天使だったのか、今となっては知る術はないが、彼女との一瞬の会話は確かに記憶に残っている。
また会えたらと、胸の内に秘めて、窓の向こう側の眩しい夕日を眺める。
なんでもない夕暮れの。 利零翡翠 @hisui_hisui
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