番外編 ◆蓮さんの大家族◆

蓮さんと付き合い初めて2度目の夏を迎えた。

日に日に大きくなっていく蓮さんの存在。

一年前の夏に比べるとその存在感はとっても大きい。

どんな事があっても蓮さんは私のペースに合わせてくれる。

私が前に進んでいる時は隣を歩いてくれる。

私が道を見失ったら大きな手で導くように引っ張ってくれる。私が見えない未来が怖くて足を止めたら、ゆっくりと背中を押してくれる。

『俺はいつでも美桜のそばにいる』

一年前、蓮さんが私に言ってくれた言葉。

その言葉を、口先だけの約束なんかじゃなくて、態度で示してくれている蓮さん。

蓮さんの大きな愛情と優しさに包まれている私は、毎日を楽しく穏やかな心で過ごす事が出来ている。

私の蓮さんに対する気持ちもこの一年間で大きな成長を遂げた。

“好き”が“大好き”に……。

“一緒にいたい”が“ずっと一緒にいたい”に……。

今でも日々大きくなっていく私の気持ち。

あの日、ゲームセンターの前にいた私を見つけてくれた事に……。

あの時、ナンパ男に絡まれていた私を助けてくれた事に……。

手を差し伸べてくれた事に……。

感謝せずにはいられない。

“ありがとう”

“大好き”

“ずっと一緒にいたい”

言葉にして伝えるのは、とても恥ずかしくて勇気がいる。

でも、いつかは口に出して伝えたい。

溢れる程の想いを言葉に載せて……。

◆◆◆◆◆

眩しい日差し。

澄みきった青い空。

キラキラと光りを放つアスファルト。

車道の両サイドに植えられた大きな木の鮮やかな緑の葉が目を引く。

車が大きな建物の前で静かに停まった。

窓からその建物を眺めていると運転席のドアが開き閉まる音が響いた。それから、すぐに開けられた助手席のドア。

差し出される大きな手。

私は迷う事なく、その手に掴まり車を降りた。

車外に立った瞬間に鼻を掠めた匂い。

瞳を閉じ耳を澄ますと微かに聞こえる波の音。

真夏の日差しはとても強いのに、そう感じないのは周りにあるたくさんの木々のお陰かもしれない。

私が着ているマキシ丈のワンピースのスカートを時折揺らす心地いい風。

「……美桜」

瞳を閉じていた私の耳に届く低くて優しい声。

聞き慣れたその声にゆっくりと瞳を開けた。

眩しさの所為で視界が色を取り戻すのに少し時間が掛かった。何度か瞬きを繰り返し、私の視界に映ったのは、声と同じように優しく穏やかな笑顔で私を見つめる漆黒の瞳。

「……海の匂いがする」

「あぁ、この建物の裏に海がある」

「本当に!?」

「あぁ」

蓮さんと初めて行ってから私は海が大好きになった。

ここは、私がいつもいる繁華街とは全然違う。

繁華街が人工的な街ならここは間違いなく自然に囲まれた街。

今日は蓮さんの組の旅行の日。

年に一度開催されるらしく、結構大きなイベント。

組の人達を“家族”みたいな存在だという蓮さん。

だから、この旅行も“家族旅行”らしい。

その家族旅行に私も参加していいと言って貰って私は今日をとても楽しみにしていた。

私にとって“家族”というものは強い憧れを抱くもの。

もしかしたら、蓮さんは私のそんな気持ちに気付いているのかもしれない。

だから、この旅行にも私を誘ってくれたのかもしれない。

蓮さんだけじゃない。

私が参加しないと暴れると言ったお父さんも……。

お仕事が忙しかった蓮さんの代わりに旅行のお買い物や準備に付き合ってくれた綾さんも……。

本当の家族じゃないけど、本当の親以上に私の事を可愛がってくれて気掛けてくれるお父さんと綾さん。

いつか、本当に私の両親になってくれたらとても嬉しいと思う。

こんな事を考えてしまう私はとても欲張りなのかもしれない。

「美桜」

私は蓮さんの声に現実に引き戻された。

「うん?」

「暑くねぇーか?」

サングラス越しに私を見つめる心配そうな漆黒の瞳。

「大丈夫」

私が頷いたのと同時に少し離れたところから声が聞こえてきた。

『お疲れ様です』

低い男の人の声に視線を向けると、慌てた様子で数人の人達が駆け寄って来ていた。

……?

……誰?

その人達は蓮さんのすぐ傍で足を止めると深々と頭を下げた。

……間違いない。

この人達は蓮さんの組の人達だ。

何度も蓮さんに連れられて事務所にいっているにも関わらず、私は組の人の顔を未だに覚えていない。

スーツを着ていなかったらマサトさんぐらいしか分からない。蓮さんの組は人数が多過ぎるうえに、みんなが黒いスーツを着ている。

だから、全員が同じ人に見えてしまうのは、きっと私だけじゃないはず……。

こんなこと蓮さんにはカミングアウト出来ないんだけど……。

もしかしたら、何度か話したら、マサトさんの事が分かるように他の人の顔も覚えられるのかもしれない。

でも、学校に送ってくれるマサトさんは別として、他の人達と言葉を交わす機会はほとんどない。

綾さんのお家ですれ違った時に挨拶をする程度。

まぁ、もし話す機会があったとしても人見知りが激しい私には、何を話せばいいのかさえ分からないんだけど……。

あれ?

そう言えば……。

今日は黒スーツ姿じゃない。

ラフな感じの服装で、バカンスモード全開だ。

……でも……。

バカンスモード全開でも厳つさ溢れる独特の雰囲気とキビキビとした切れのある動きは誤魔化しようがないようで健在だった。

『頭、お疲れ様でした。』

“頭”というのは蓮さんの組での肩書きで、よく分からないけど“あだ名”みたいなものらしい。

「あぁ。」

蓮さんが頷くと、その人達が私に視線を向けた。

『美桜姐さんも疲れたでしょ?』

私のあだ名は“姐さん”。

私だけじゃなくて綾さんも“綾姐さん”って呼ばれている。

蓮さん曰くこれがこの世界の決まりらしい。

最初は、慣れる事が出来なかったこのあだ名も、今ではなんとか返事が出来るようになってきた。

慣れる事は出来ないけど……。

私が蓮さんの傍にいる事を決めた瞬間から私がこの世界で生きることは決まっていたんだと思う。

蓮さんはこの世界で生きているんだから。

だから、私がこの世界の決まりに従うのは当然なんだ。

それは私が自分で選んで決めた事なんだから。

だから、少しでも馴染めるように努力をしないといけない。

蓮さんの隣で堂々と出来るように……。

「私は大丈夫です。ここに着くまでぐっすりと眠っていましたから」

一瞬、驚いた表情を浮かべたその人達。

だけど、すぐに厳つい顔を崩し、ニッコリと笑った。

蓮さんも優しい笑顔で私を見つめている。

『そうですか。だったら、今からたくさん遊べますね』

「はい!!」

私は大きく頷いた。

「親父は?」

蓮さんが尋ねた。

『今、プールの方にいらっしゃいます』

私の頭上で交わされている会話。

「何時頃着いた?」

『昼前には到着されました』

「やっぱりな」

蓮さんが、鼻で笑った。

それを見た、組の人達も苦笑している。

……?

……なんだろう?

「美桜」

「うん?」

「今日、年甲斐もなく一番張り切ってる奴を見に行くか?」

……年甲斐もなく?

……一番張り切ってる人?

誰だろう?

『……ブッ!!』

一生懸命考えていたら……。

突然、吹き出した。

それは、蓮さんでも私でもなく……。

『す……すみません!!ちょっと失礼します!!』

吹き出したのは、さっき私に厳つい顔を崩し、優しい笑顔で話し掛けてくれた人だった。

その人は、私達に背中を向けて、大きな肩を小刻みに揺らしている。

「ヤマト、笑い過ぎだろ」

蓮さんが悪戯っ子みたいな瞳で声を掛けた。

『す……すみません!!』

“ヤマト”と呼ばれたその人は焦った様子で笑いを飲み込もうとしている。

……でも……。

ヤマトさんは、何かがツボに嵌っているらしく、お腹を押さえてしゃがみこんでしまった。

そんなヤマトさんの様子を見た蓮さんも楽しそうに笑い出し、その笑いはあっという間に他の人達にも感染していった。

……何故かは分からないけど……。

私も可笑しくなっていつの間にか笑っていた。

さっきまで、厳つさを全身から醸し出して冷静に蓮さんと話していた人達が、今はお腹を抱えて楽しそうに笑っている。

そのギャップに少しだけ驚いたけど……。

そんな一面もあるんだと私は改めて発見した。

みんなの笑顔は、太陽の光よりも眩しくてキラキラと輝いていた。

◆◆◆◆◆

私の肩を抱いた蓮さんの隣をさっきまで大爆笑していたヤマトさんが歩いている。

蓮さん曰く、“年甲斐もなく、今日一番はしゃいでいる

人”を今から見に行くらしい。

いつもと同じようにホテルの出入り口に堂々と車を停めていた蓮さん。

ヤマトさんの笑いが何とか収まると他の人達は『車を移動してきます』とエンジンが掛かっている車に乗り込んだ。

どうやら、蓮さんの車を駐車場に停めてきてくれるらしい。

蓮さんは『あぁ、頼む』と言って私の肩に腕を廻して、建物の中へ足を進めた。

何気なく振り返るとヤマトさんは車に乗っている人に何か指示を出していた。

……あんなに大爆笑していたのに……。

・・蹲って大爆笑していたのに……。

今いた人達の中では、ヤマトさんは一番立場が上らしい……。

多分、ヤマトさんは、蓮さんよりも年上。

マサトさんとヤマトさんはどっちが年上なんだろう?

蓮さんの組の人達は歳を予想するのがとても難しい。

普段は厳つい雰囲気を纏っているから落ち着いて見えるけど、さっきみたいに時折見せる表情はあどけなくて幼くも見える。蓮さんもスーツを着てお仕事をしている時と、ケンさん達と遊んでいる時とでは表情も纏っている雰囲気も全然違うし……。

……。

……。

……っていうか、マサトさんって何歳だっけ?

……。

……。

……!!

……知らない……。

私、マサトさんが何歳か聞いた事がない!!

マサトさんと初めて会ってからもう一年も経つのに……。

ほぼ、毎日学校にも送ってもらってるのに……。

私は、衝撃の事実に軽い眩暈を感じた。

……知らないと気付いた途端、ものすごく気になってきた。

……でも、今更、蓮さんに聞くのも……ねぇ?

……。

……よし!!

今回の旅行中にさりげなく、調査してみよう。

あっ!!そうだ。

マサトさんの奥さんにも今日会えるんだった!!

奥さんと仲良くなって、さりげなく奥さんに聞いてみればいいじゃん!!

「……どうかしたか?」

その声に視線を上げると、蓮さんが怪訝そうに私の顔を見下ろしていた。

「なにが?」

「難しそうな顔をしてると思ったら、急に落ち込んだような顔したり、かと思えば突然、ニヤニヤしてみたり……」

……それって……。

「もしかして、私、気持ち悪い人だった?」

「まぁ、微妙に……」

……!!

……危なかった。

ここが、まだホテルの中じゃなくて良かった。

私が気持ち悪い人に変身している所を、蓮さんの組の人に見られちゃったら、蓮さんが恥ずかしいじゃん!!

……誰にも見られてないでしょうね?

私は、周りを見渡した。

うん……大丈夫みたい。

「……良かった……」

私は、胸を撫で下ろした。

「何が良かったんだ?」

「何の話?」

「は?」

「えっ?」

私と蓮さんは不思議そうにお互いの顔を見た。

なんで、蓮さんたらこんなに不思議そうな顔をしてるんだろう?

そう思った私は、心の声が口に出ていた事に全く気付いていなかった。

「……そう言えば……」

「……?」

私は相変わらず不思議そうな表情の蓮さんに尋ねた。

「荷物は降ろさなくていいの?」

今朝、蓮さんが車のトランクに積んでくれた、2個のキャリーケースとトラベルバッグが1個。

それと、蓮さんにバレないように私がこっそり乗せたバッグが一つ。

そのバッグの中には、私が厳選したお菓子がたくさん入っている。

あのバッグはなにがあっても持っていかないといけない!!

「心配しなくても、部屋に運んでくれる」

……運んでくれる?

……誰が?

……まさか……。

「ヤマトさん達が?」

「いつもなら、そうだけど今日は違う」

「……?」

「一応、今日はあいつらも仕事が休みだからな」

「休み?」

「あぁ、今日は休みだ」

……そうなんだ。

今日はお休みだから、みんなスーツを着ていないんだ。

私は、納得してしまった。

「じゃあ、誰が運んでくれるの?」

「ん」

蓮さんは足を止めて後ろを振り返り、顎で指した。

私はそれを辿るように視線を動かした。

蓮さんの車のトランクが開いていてそこで何かを言っているヤマトさんとそれを笑顔できいているおじさん。

おじさんの方は制服を着ているから、多分ここの従業員さん。

……なるほど。

あの人が運んでくれるんだ。

その証拠に、おじさんが車から丁寧な手付きで荷物を降ろし始めた。

「ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「車はホテルの人に動かしてもらわないの?」

「あぁ、あれは信用出来る奴にしか運転させたくない」

……だからなんだ。

さっき、蓮さんが『頼む』って言った時、嬉しそうな表情であの人達は車に乗り込んでた。

きっと、あの人達は蓮さんから信頼されている事が分かっていたから嬉しそうだったんだ。

私も、いつか蓮さんにそう思って貰える日がくるんだろうか?

蓮さんから信頼して貰える日が……。

今はまだ、私が蓮さんに頼るばかりだけど。

いつか、私が蓮さんを支える立場になりたい。

心の底から、私はそう思った。

「ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「私が車の免許を取ったら、蓮さんの車を運転させてくれる?」

「免許?」

「そう、免許」

「お前、免許欲しいのか?」

「う~ん。免許が欲しいっていうか、いつか車の運転がしてみたいから、免許は必要でしょ?」

「……免許か……」

蓮さんは、難しい表情で何かを悩んでいる。

……?

なに?

何をそんなに悩んでるの?

私、また変な事を言った?

「蓮さん、どうしたの?」

「なぁ、美桜」

「なに?」

「免許を取るのはいい。お前が俺の車を運転したいなら、好きなだけ運転していい。でも、車の運転をするのは俺が許可した場所だけにしてくれるか?」

えっ?

いいの?

私が蓮さんの車を運転してもいいの!?

「許可……例えば?」

「組の敷地内とか」

「とか?」

「……」

「……?」

「……まぁ、そのくらいだな」

……はい?

蓮さん、『とか』って言わなかった?

『とか』って事は複数形でしょ!?

……なんで、一カ所限定なの?

しかも、その限定が“組の敷地内”なんて……。

あり得なくない!?

……そんなの怖すぎだし……。

もし、敷地内で私が軽くぶつけちゃったら……。

どうなるの?

……。

……。

無理。

軽く想像してみたら、かなり怖かった。

……やっぱり、止めておこう。

“組の敷地内”限定でしか、運転出来ないなら、免許なんて要らないし……。

てか、なんで限定されるんだろう?

「どうして、限定なの?」

「ん?」

「免許があったら、どこででも運転できるんじゃないの?」

「あぁ、そうだな……でもな……」

「……?」

「心配なんだ」

「……心配?」

「間違いなく、お前は免許を取って最初の運転で事故ると思う」

「……はい?」

真剣な表情で言い放った蓮さん。

その表情を見たら、蓮さんが冗談を言っていない事は、私にも理解出来る。

冗談なんかじゃなく、本気で不吉すぎる予言した蓮さん。

「……なんで、そんな事が分かるの?」

「そんなの簡単だろ?」

「簡単?」

「俺がそんな気がするからだ」

「……」

そんな気がする?

根拠とかがある訳じゃなくて、ただ『そんな気がする』だけ?

……。

ダメだ。

全然、意味が分からない。

しかも、蓮さんがなんでこんなに自信満々なのかも分からない。

「まぁ、お前が免許を取れる歳になるまで、時間はたっぷりある。だから、じっくり考えろ」

……なにを?

一体、何をじっくり考えればいいの?

全く分からなかったけど、それ以上、蓮さんに聞く事は出来なかった。

蓮さんの車の横で色々と指示を出していたヤマトさんが、私達に駆け寄ってきたから。

「お待たせしました。荷物は全て部屋の方に運ばせました」

「あぁヤマト、悪ぃな」

「いいえ、全然」

そう言ってにっこりと笑みを浮かべたヤマトさんは、やっぱり少しだけ幼く見えた。

「親父がお待ちかねです」

ヤマトさんが建物の中を掌で指した。

「行くか」

「うん」

私の肩を抱いた蓮さんの隣をヤマトさんが歩いている。

蓮さんとヤマトさんの楽しそうな会話を聞きながら、ふと思った。

……ちょっと待って……

確かさっきヤマトさんは『親父がお待ちかねです』って言ったよね?

今、私達が向かっているのは、お父さんの所で……。

蓮さんは、さっき『年甲斐もなくはしゃいでいる人を見に行くか?』って聞いたよね?

……もしかして……。

年甲斐もなく一番はしゃいでいるのは……お父さんなの!?

いやいや、そんなはずはない。

お父さんはいつも冷静で優しくて落ち着いている大人の男の人だし……。

お父さんがおおはしゃぎしている姿なんて全く想像出来ないもんね。

……でも……。

もしもだけど……。

お父さんがはしゃいでいるなら……。

ちょっと見てみたいかも。

ガラス張りの高い天井からロビー内に差し込む陽の光。

その光は人工的な灯りよりも明るく、そして優しくその空間を照らし出していた。

解放感溢れる造りのロビーに足を踏み入れた瞬間に非日常な雰囲気に包まれる。

その空間にいた人達が、蓮さんに気が付くと頭を下げた。

いつもなら、この動きに低くてドスの効いた声もセットだけど今日は聞こえてこない。

でも、どんなにラフな格好でも、厳つい表情と機敏な動きはやっぱり健在で、そこにいた人達が蓮さんの組の人だと私にもすぐに分かった。

きっとみんなお休みだから。

私は一人でそう納得した。

歩いていてすれ違うのはホテルの従業員さんらしき人と蓮さんの組の人らしき人達ばかり。

どうやら、このホテルを借り切っているというのは本当らしい。

ロビーから続く通路を進むに連れて聞こえてくる、賑やかな声。

たくさんの声と笑い声からは楽しそうな雰囲気が伝わってくる。

その声を聞いているだけで、私までワクワクしてしまう。

ヤマトさんが一歩前に出てドアを開けてくれた。

その瞬間、空調が効いている建物の中に生温い空気が流れ込んできた。

それと同時に一際大きくなった声。

その声を聞いた途端、私の足は自然と止まった。

それはドアの向こうにたくさんの人がいる事を悟ってしまったから……。

どうしてもっと早く気付かなかったんだろ?

自分の鈍さ加減に自分で呆れてしまう。

今まで何とも無かったのにたくさんの人がいる事に気付いた途端、とてつもなく緊張してきた……。

「美桜?」

「姐さん?」

急に足を止めた私を不思議そうな表情で見つめる蓮さんとヤマトさん。

「……どうしよう……なんか……すっごい緊張してきた」

「……今更かよ?」

蓮さんが呆れたように苦笑している。

「姐さん、大丈夫ですよ。」

優しい口調と優しい笑顔のヤマトさん。

「だ・・大丈夫なんですか?」

「えぇ、大丈夫です」

……はい?

ヤマトさん?

ここは、何が大丈夫なのか具体的に言って欲しいんですけど ……。

ヤマトさんがどんな根拠があって『大丈夫』だと言い放ったのかが全く理解出来てない私。

唖然と見つめても、相変わらず笑顔を絶やす事もそれ以上、口を開く様子もないヤマトさん。

「行くぞ」

私が『緊張する』と言ったのをしっかり聞いていたはずなのに……。

蓮さんは私の肩を抱いたまま、ドアを潜ろうとしている。

もちろん、肩にガッチリ腕を廻されている私も必然的にドアを潜らなければいけない。

「ちょっ!!蓮さん!!待って!!」

「あ?」

「まだ、心の準備が出来てないの!!」

「心の準備?」

「そう!!この緊張感に勝つ為には心の準備が必要なの!!」

「それには、何秒くらい必要なんだ?」

「何秒?……蓮さん、何を言ってるの?」

「は?」

「心の準備が“秒”で出来るはずないでしょ!?」

「……」

「せめて……5分……いや、10分くらいは……」

「却下」

「……は?却下?」

「時間の無駄だ。行くぞ」

……無駄?

全然、無駄じゃないし!!

むしろ、かなりの勢いで重要だし!!

私がそう叫ぶ前に蓮さんは肩に廻している腕に力を込めた。

それは、力という程では無かったのかもしれない。

ただ、私の肩を抱いて足を踏み出しただけ。

でも、その場で固まっている私の身体を動かすには充分だった。

ドアを潜ってすぐに私の瞳に移ったのは、プールの中で遊ぶたくさんの子供達の姿だった。

小さな浮き輪に必死で捕まっている子供もいれば、小学生や中学生くらいの子達もいる。

えっ!?

……これって……。

水泳教室かなにか?

あんなに緊張していたのに……。

そんな、緊張感なんてあっという間にどこかに吹っ飛んだ。

「美桜」

「うん?」

「あれ」

蓮さんは、プールの中央を指差した。

私はその指先を辿るように視線を動かした。

……あれ?

……あの人って……

もしかして……

「お……お父さん!?」

子供達の中心にいたのは紛れもなくお父さんだった。

水に濡れている髪を無造作に後ろに流していて、いつもと髪型は違うけど優しく穏やかな笑顔と子供達を見つめている漆黒の瞳は間違いなくお父さんだった。

「な?年甲斐も無くはしゃいでる奴がいただろ?」

その声に視線を上げると蓮さんが悪戯っ子みたいな顔をしていた。

その隣には、いつの間にかそこに来ていたヤマトさんが苦笑気味に立っていた。

「う……うん」

蓮さんの言う通り、お父さんは子供達の面倒を見ていると言うよりは、一緒に遊んでいるという感じだった。

繁華街では、誰もがその名前と存在を知っている。

繁華街を仕切り、その辺りで一番の勢力を誇る組の組長さん。そんな、お父さんが子供達と本気で遊んでいる。

多分、この光景は自分の目で見てみないと信じられないと思う。

噂とかで聞いても信じる人なんていないはず。

私なんか、自分の目で実際に見ているのに、この光景は夢かもしれない……なんて思ってしまう。

「ガキが好きなんだ」

蓮さんが視線をプールの中央に向けたまま呟くように口を開いた。

「うん」

『そうなの?』なんて尋ねる必要は無かった。

お父さんの子供達を見つめる瞳と……。

子供達がお父さんを見つめる瞳……。

それを見れば尋ねる必要なんて無かった。

私も施設にいたから分かる。

子供は自分を無条件に可愛がってくれる大人を判断出来る。

その人の外見がどんなに厳つかろうが……。

その人の人相がどんなに悪かろうが……。

その人がどんな肩書きを持っていようが……。

子供には関係ない。

余計な情報に惑わされず人を判断出来るのは子供だけなのかもしれない。

ふと視線を上げると蓮さんはとても穏やかな表情でプールを見つめていた。

蓮さんだけじゃなくて……。

ヤマトさんもプールサイドにいるたくさんの人達も……。

その場にいた人達がみんな穏やかな表情でプールの中で遊ぶ子供達とお父さんを見つめていた。

夏の強い日差しがプールの水面に反射してキラキラと輝きを放っている。

私は眩しくて瞳を細めた。

そんな私にお父さんが気付いてくれた。

笑顔だったお父さんの顔がより一層嬉しそうに崩れた。

「美桜さん!!」

お父さんの笑顔はすぐに私にも感染した。

「お父さん、こんにちは!!」

「こんにちは」

「楽しそうですね」

「あぁ、楽しい。」

無邪気に笑ったお父さんに私は蓮さんと顔を見合わせて笑ってしまった。

「綾も首を長くして待っていたよ」

お父さんはそう言って私達がいる方とは反対側のプールサイドを指差した。

そっちを見てみると、ビキニ姿の女の人が大きく手を振っていた。

「あ……綾さん!?」

隣で大きな溜め息を吐いた蓮さん。

その溜め息を聞いて、大きく手を振っている人が綾さんだという事が確定した。

「蓮さん、行こう!!」

私が服を引っ張ると蓮さんは再び溜め息を吐き、ダルそうに呟いた。

「……疲れるな……」

綾さんに手を振り返していた私はその言葉を全く聞いていなかった。

私が手を振ると綾さんは手招きをした。

「蓮さん、早く!!」

「あぁ」

中央にあるプールを迂回するように、プールサイドを歩いていく。

プールサイドにいた人達が目の前を歩く私達に注目しているのが分かった。

一度は吹っ飛んだ緊張感に再び襲われた。

私は微かに俯いて深呼吸をした。

それから、ゆっくりと顔を上げた。

まっすぐに前を見つめて歩く。

繁華街で大分、慣れたと思っていた。

だけど、ここを歩くのはかなり緊張する。

だって、ここにいる人達は、繁華街で視線を向けてくる人達とは全然違う。

繁華街で視線を向けてくる人達は私や蓮さんと同じくらいの歳の人がほとんど。

でも、今ここにいるのは蓮さんよりもずっと年上の人達。

しかも、いつもはスーツで隠しているはずの豪華絢爛な絵を晒している。

その光景はかなり圧巻だった。

「また、緊張してんのか?」

「……うん」

「別に緊張することなんてねぇーだろ?」

「……いや、普通緊張するでしょ?」

「……そうか?」

「……野菜……」

「は?」

「人前で緊張した時は、その人達を野菜だと思えばいいって麗奈に教えて貰ったの」

「へぇ、それは試してみたのか?」

「……うん、一応……」

「……で、どうだった?」

「どう頑張ってみてもお野菜には見えない」

「だろうな」

蓮さんは楽しそうに笑った。

いつもなら、蓮さんが楽しそうにしてたら私も楽しくなるのに……。

今日は無理。

楽しくなんてなれない。

油断したらすぐに俯きそうになる顔を上げているだけで、私は精一杯。

どんなに頑張ってみても笑うなんて絶対に無理。

……っていうか、この緊張感はいつまで続くの?

今日中には無くなるの?

それとも、帰るまでずっと続いたりするの?

帰りまで続くとしたら、私の精神力は持つのだろうか?

「俺も知ってるぞ」

「知ってる?何を?」

私は蓮さんの顔を見上げた。

「緊張を解く方法」

「本当!?」

「あぁ」

……もう、蓮さんったら……。

そんな方法があるなら、もっと早く教えてくれたらいいのに!!

「それってどうやるの?」

「ん?試してみるか?」

……当たり前でしょ!?

ここから、綾さんの所に辿り着くまで、まだかなり距離がある。

このままだと、綾さんの所に辿り着く前に私が緊張の所為でどうにかなっちゃうかもしれないし……。

一刻も早くその方法を伝授して貰わないと!!

「うん!!」

私が大きく頷くと蓮さんは足を止めた。

それから、私の肩に廻していた腕を一度離し、今度は私の肩に掌を置いた。

……?

何をするんだろう?

私が首を傾げていると、蓮さんは腰を曲げた。

正面から私の顔を覗き込んだ蓮さん。

至近距離にある蓮さんの顔に私の心臓は猛スピードで動き始めた。

「蓮さん?」

「うん?」

「なにしてるの?」

「緊張を解きたいんだろ?」

そう言って、蓮さんは色っぽい笑みを浮かべた。

も……もしかして……。

私の記憶が正しかったら、蓮さんがこんな表情をする時って……。

しかも、この体勢は……。

……うん、多分私の予想は間違ってはいないはず。

「ちょっ……!?」

『ちょっと、待って!!』って言おうとしたのに……。

私はその言葉を最後まで言う事は出来なかった。

一瞬にして真っ白になった頭の中。

驚き過ぎて閉じる事さえ忘れていた瞳。

その瞳に映ったのは伏し目がちな漆黒の瞳。

唇に感じるのは、柔らかくて温かい感触。

湿った物体が私の唇をなぞるように動いた後、遠慮なく口内に侵入してきた。

侵入した瞬間から、我がもの顔で自由に動きまわるそれが舌だという事は考えなくてもすぐに分かった。

息苦しさとその動きに飲み込まれそうになった時、ゆっくりと解放された唇。

私からゆっくり離れた蓮さんと瞳が合った。

いつもこの瞬間がキスをしている時よりも照れてしまう。

伏せ気味の蓮さんの視線が、唇が離れるにつれて上に上がってくる。

そして、私と瞳が合うと蓮さんは妖艶な笑みを浮かべる。

その表情はとても色っぽくて綺麗。

男の人にこんな言葉を使っていいのかは分からないけど……。

その言葉がピッタリで、他に合う表現なんて見つからない。

いつの間にか私の頬に添えられていた蓮さんの大きな手。

その手が、私の頬を優しく撫でた瞬間、

『あっ!!蓮兄ちゃんがチュウしたー!!』

子供の声が響き渡った。

その声が悪夢の始まりだった。

湧き上がった大きな歓声。

幾重にも重なったその声は学校や繁華街でよく聞く歓声よりもかなり低い。

至る所から聞こえる口笛。

そして、楽しそうな笑い声。

その歓声で、私は現実に引き戻された。

な……なに!?

状況が飲み込めず辺りを見渡して、私は固まった。

プールサイドにいる人達がみんな私と蓮さんに注目している。ひぃぃぃぃっ!!!!!

「これで、緊張しねぇだろ?」

「は……はい?」

「これだけの人前でキスしたんだから、歩くのなんてなんともないだろ?」

得意気に言い放った蓮さん。

・・・。

・・・。

・・・。

そんなはずないじゃん!

確かに歩くのは恥ずかしくなくなるかもしれないけど、それ以上にキスをしているところを見られた事がものすごく恥ずかしいし!!

『頭!!仲いいっすね!!』

『自分達の事は気にしないで下さい!!』

『どうせなら、もっとどうぞ!!』

笑い声と共に聞こえてくる声に私の顔は異常なくらい熱くなっていく。

いやぁぁぁー!!!!!

悪夢のような状況に声を発する事も出来ずに、呆然と立ち尽くしていた私。

そんな私とは対照的に蓮さんは至って普通。

普通な上に余裕の笑みを口元に称えている。

……実は、蓮さんは人前でも全然平気でキスが出来る人だったりする……。

繁華街を歩いている時。

ショップで買い物をしている時。

車に乗っていて信号待ちをしている時。

カフェでお茶を飲んでいる時。

学校への送り迎えの時。

蓮さんは言葉を交わすような感じでキスをする。

その度に私は蓮さんに言う。

『蓮さん!!』

『あ?』

『こんなところでキスしちゃダメ!!』

『なんで?』

『人に見られたら恥ずかしいじゃん!!』

『そうか?』

『は?』

『あ?』

『蓮さんは恥ずかしくないの?』

『恥ずかしい?なにが?』

『……人に見られるの……』

『全然。人の目なんて気にする必要ねぇーじゃん』

蓮さんはいつもそう言って鼻で笑う。

……そりゃあ、私だって蓮さんとのキスが嫌いな訳じゃない。

……だけど……。

キスはもちろん恋愛さえ初心者の私には、ハードルが高すぎる。

いつまでも止む気配のない歓声。

さっきとは違う意味で頭が真っ白になった。

いつの間にか耳に入る“声”は“音”になった。

働かない頭では言葉の意味が理解出来ない。

意味が分からない言葉は音にしか聞こえない。

その時、俯いていた私の視界の端に動く小さな影が映った。

その小さな影は小さな足音と共にこちらに近付いてくる。

その小さな影が小さな女の子だと働かない頭で認識出来たのは、その女の子が私の真っ正面で足を止めた時だった。

『ちょっと!!』

今まで音しか聞こえなかった耳にその女の子の言葉が鮮明に響いた。

ピンクに白いドット柄の水着を着た女の子が両手を腰に当てて私の顔を見上げている。

可愛らしい顔の女の子。

だけど、その表情は明らかに不機嫌な感じ。

眉間にシワを寄せて睨んでいる。

……えっと……。

私はとりあえず辺りを見渡した。

どんなに見渡しても、その女の子の鋭い視線の先には私しかいない。

私は膝を曲げその場にしゃがみこんでその子と視線の高さを合わせた。

あんなに止まなかった歓声がいつの間にか水を打ったように静まり返っている。

小さな子供と接した事のない私は恐る恐る話し掛けてみた。

「……どうしたの?」

『蓮にチュウしないで!!』

「……えっ!?」

『蓮は私の彼氏なの!!人の彼氏とチュウしちゃダメなんだよ!!』

その女の子は真剣な顔で言い放った。

「か……彼女!?」

『そうだよ!!くるみが大人になったら、蓮はくるみと結婚するんだから!!』

「結婚!?」

『だから、蓮とチュウしないで!!』

「く……くるみちゃんは何歳?」

『は?7歳だけど、それがなに?』

「……ううん、なんでもない……」

……大変だ……。

まさかのライバル出現だ。

しかも、7歳の……。

……7歳だけどかなり強敵な気がする……。

「くるみ」

私達の頭上から降ってきた声。

つい今まで不機嫌丸出しだったくるみちゃん。

だけど、その声を聞いた途端一変した。

『蓮!!』

蓮さんの顔を見上げて嬉しそうな笑顔を零しているくるみちゃん。

くるみちゃんの小さな身体がフワリと宙に浮いた。

軽々とくるみちゃんの身体を抱き上げた蓮さん。

「くるみ、久し振りだな。元気だったか?」

『うん!!蓮も元気だった?』

「あぁ、くるみは相変わらず可愛いな」

『蓮だってかっこいいよ!!』

……なに?

この恋人同士みたいな甘い会話は……。

なんか、見えないハートがいっぱい飛んでるような気がするんですけど……。

くるみちゃんは唖然としている私をチラッと見下ろして鼻で笑った。

勝利宣言!?

……私、負けたの!?

7歳の女の子に彼氏を奪われたの!?

くるみちゃんの顔から蓮さんの顔に視線を移すと……。

……笑ってる……。

ドロドロな三角関係が発覚したのに……。

しかも、蓮さんには二股疑惑が掛かっているのに……。

くるみちゃんを抱き上げている蓮さんは声を押し殺して笑っていた。

ふと周りを見渡すとプールサイドにいる人達は相変わらず私達に注目している。

なぜか、笑みを浮かべて……。

プールの中にいる、お父さんも苦笑していた。

「美桜」

その声に視線を向けると、うずくまっている私に蓮さんがくるみちゃんを抱えている反対の手を差し出していた。

いつもの癖でその手に掴まると、強い力で私を立たせてくれた。

私が立ち上がると、蓮さんは手を放して、腰にその手を添えた。

……なに?

そう思った瞬間、蓮さんは私の身体を自分の方に引き寄せた。いつもと同じ、私と蓮さんの距離感。

一緒にいる時は、いつも身体の一部が触れ合っている。

この距離感は私が一番安心出来るはずなのに……。

……睨まれてる……。

くるみちゃんがすっごい睨んでるんですけど……。

蓮さんに抱き抱えられているくるみちゃんと抱き寄せられている私。

至近距離で睨まれた私は後退りしそうになった。

……っていうか、蓮さんの手が無かったら確実に数歩下がっていたに違いない。

最高に気不味さを感じた時、女の人が駆け寄って来た。

『すみません!!』

その人は、私に向かって深々と頭を下げた。

こ……度はなに?

まさか、またライバル出現!?

『くるみ!!邪魔しちゃダメでしょ!!いらっしゃい!!』

『くるみは邪魔してないもん!!ママこそ邪魔しないで!!』

くるみちゃんは、頬を膨らませている。

なんだライバルじゃなくて、くるみちゃんのママか……。

良かった。

私は胸を撫で下ろした。

「くるみ、あとで一緒に遊ぶか?」

蓮さんのその言葉で、くるみちゃんの膨れていた頬がぺったんこになった。

『うん!!』

「よし、じゃあもう少し待っててくれるか?」

『いいよ!!』

くるみちゃんが笑顔で頷くと蓮さんは、私の腰から手を離してくるみちゃんを降ろした。

『蓮、また後でね』

「あぁ」

蓮さんがくるみちゃんの頭を撫でると、くるみちゃんはママと手を繋いでその場を離れて行った。

くるみちゃんの小さな背中を見送っていると、また足音が近付いて来た。

……もしかして、またライバルじゃないでしょうね!?

嫌な予感を感じつつ、視線を向けると……。

「……!?」

そこには、猛スピードでこっちに来ている綾さんの姿。

しかも、なぜか顔が怒っている。

……綾さん!?

一体、どうしたの?

「美桜?どうした?」

私の顔を覗き込む蓮さん。

だけど私は猛スピードでこっちに近付いてくる綾さんから目が逸らせなかった。

綺麗な顔の綾さんが不機嫌な顔だと、その迫力はかなりのもの。

尋常じゃない空気は察知出来たのに……。

恐怖の余り、私の口からは言葉が出てこない。

言葉を発そうとしても、唇は動くのに声が出ない。

近付いてくる綾さんを見つめている私の視線を辿るように蓮さんが振り返った瞬間……。

「蓮!!」

「……!!」

「……痛ぇ……」

綾さんのいつもより低くて明らかにドスの効いた声が響いた次の瞬間、蓮さんはおでこを手で押さえて俯いていた。

ひぃぃぃ・・・!!!

私はその状況に声にならない悲鳴を上げた。

周りの人達も息を飲んでいるのが分かった。

これだけたくさんの人がいるのに、誰一人として口を開こうとはしない。

私はただ呆然とその光景を見つめていた。

しばらく続いた静か過ぎる時間。

それを破ったのは、蓮さんだった。

「……てめぇ、何やってんだ?」

低い声でそう言った蓮さんが押さえていた額から手を離した。

顔を上げた蓮さんはすでに閻魔大王に変身していた。

その閻魔大王は私がいつも見る閻魔大王よりも数段、恐かった……。

「あんたこそ、何やってんのよ?」

閻魔大王に変身した蓮さんにそう言った綾さんは恐怖の女王を通り越して鬼みたいだった。

「あ?」

「は?」

鋭い眼で睨み合う閻魔大王と鬼姫。

2人のその眼を見ただけで、私の身体は自然と後退した。

「俺がてめぇに何をした?」

「私にじゃないわよ」

「あぁ?だったらなんでてめぇに俺が殴られなきゃいけねぇーんだ?」

蓮さんの言葉に綾さんは深い溜め息を吐いた。

「……分からないんだったら、教えてあげるわ」

綾さんがニッコリと微笑んだ。

……?

綾さんの微笑に私は嫌な予感がした。

それは、私だけじゃなくて……。

その場にいた人達がゴクリと唾を飲んだ。

みんなが不安そうな表情で見つめる中、綾さんが一歩前へ出た。

向き合っていた蓮さんとの距離が縮まった瞬間、綾さんの両手が蓮さんへと伸びた。

その手は蓮さんの首に巻きつく。

「綾さん!?」

私の口がやっと言葉を発した。

だけど、その声は綾さんには届いてはいなかった。

綾さんは、蓮さんの首を絞めたまま怒鳴った。

「あんた、こんな所でキスなんかしてんじゃないわよ!!美桜ちゃんが困ってるでしょ!!」

綾さんの言葉に驚いた表情を浮かべたのは蓮さんだけじゃなかった。

全く予想すらしていなかった綾さんの言葉に私の身体はビクッと揺れた。

……えっ!?

綾さんが怒ってるのって……。

私の為!?

どうやら、綾さんが怒ったのは、蓮さんがみんなの前でキスをして、私が困っていたから。

……困ってたっていうか恥ずかしかっただけなんだけど……。

少しの勘違いはあったものの綾さんはそんな私の為に蓮さんの首を絞めて怒ったらしい。

綾さんが私の事を想ってくれる気持ちを素直に嬉しいと思った。

綾さん、ありがとうございます!!

私のために怒ってくれて……。

蓮さんの首まで絞めてくれて……。

……。

……。

……えっ?

……首を絞める?

綾さんが蓮さんの首を絞めて……。

大変!!

蓮さんが危ない!!

私は慌てて2人に駆け寄った。

駆け寄ったって言っても数歩だけど……。

とりあえず、駆け寄った私は綾さんの腕を掴んだ。

「綾さん!!」

綾さんの手を蓮さんの首から離そうとするけど、ビクともしない。

蓮さんも、少しぐらい抵抗してもいいのに、微動だにせず、綾さんを鋭い眼で見下ろしているだけ。

そんな蓮さんを睨むように見上げている綾さん。

蓮さんの首には、綾さんのきれいに手入れしてある爪が食い込んでいる。

このままじゃ、蓮さんが窒息する前に首が爪で裂けるかもしれない……。

そんな、不吉な予感が脳裏に浮かんだ私は背伸びをして、綾さんの手を蓮さんの首から引き離そうとした。

どんなに力を入れて、綾さんの手を引っ張っても、その手は全く動かない。

「あっ……綾さん!!手を離してください!!」

綾さんの細い腕に捕まり縋るように私が言った時、誰かが動く気配を感じた。

私の横を二つの影が通り過ぎた。

ひとつの影はマサトさんだった。

そして、もうひとつの影はヤマトさん。

ヤマトさんは綾さんの背後に立った。

『失礼します』

そう言って、私がどんなに頑張っても離れなかった綾さんの手を蓮さんの首からいとも簡単に離した。

綾さんの手が離れた瞬間に、マサトさんが素早く2人の間に立った。

まるで、蓮さんを守るかのように、マサトさんは綾さんの方を向いて立っていた。

「マサト、退け」

低い声でそう言ったのは、蓮さんだった。

綾さんと蓮さんが言い合いをするのはいつもの事。

そんな2人のやり取りにも私は慣れているつもりだった。

見て見ぬフリをしていれば……。

気付かないフリをしていれば……。

すぐに収まっていた。

でも、今日は何かが違う。

私は胸騒ぎを感じていた。

私が知っている限り、マサトさんが2人の間に止めに入る事なんて一度もなかった。

蓮さんの鋭い視線は前に立っているマサトさんを通り越して綾さんに向けられていた。

「蓮さん!!」

私はずっと握っていた綾さんの腕を放して、蓮さんの腕を掴んだ。

自慢じゃないけど……。

私の嫌な予感はよく当たる。

予感が現実にならないように……。

私は身体全部を使って蓮さんの左腕にしがみついた。

『ケンカの時は、利き手を使わない』

いつだったか、ケンさんに教えてもらった言葉が頭に浮かんだ。

運良く、私の目の前には蓮さんの左腕があった。

もし、私の勘が当たってしまったら……。

蓮さんが動かすのは、左腕だと思った。

「マサト」

「はい」

「退けなさい」

「申し訳ありません。綾姐さんの言葉でもそれは聞けません」

マサトさんがはっきりと言った瞬間

乾いた音が響いた。

私の嫌な予感は珍しく外れた。

大きく振り上げられ宙を切ったのは、蓮さんの腕じゃなくて、綾さんの腕だった。

その腕が振り下ろされたのは、マサトさんの頬だった。

さっきまで、私が掴んでいた綾さんの右腕がマサトさんの頬に当たり乾いた音を響かせた瞬間、私の身体が大きく揺れた。速さを増す鼓動。

小刻みに震えだした手足。

感じた息苦しさ。

蘇った記憶。

振り下ろされた、綾さんの手と私の記憶の中にある“あの人”の手が重なった。

頬を叩かれたのはマサトさんなのに……。

なぜか、私の頬にも痛みが走ったような気がした。

蓮さんが綾さんに何かを怒鳴っている。

その声が、“あの人”の声と重なった。

頭がクラクラする。

……違う……。

ここに“あの人”はいない。

いるはずがない。

……大丈夫……。

……大丈夫……。

激しく言い争う蓮さんと綾さん。

そんな2人を必死で止めようとしてるマサトさんとヤマトさん。

その光景を、私は映画を見るような感覚で見ていた。

すぐ傍から聞こえているはずの怒鳴り声が、古いスピーカーを通した音のようにくぐもって聞こえる。

目の前の光景が、映りの悪いスクリーンを見ているように霞んで見える。

真夏の太陽に照らされ、身体は火照っているのに、体内を流れる血液は氷みたいに冷たい。

全身から冷や汗が噴き出す。

胃の辺りがムカムカして気持ちが悪い。

身体から力が抜け、地面に吸い込まれそうな感覚に包まれた時、私の頬に冷たい水の雫が一滴かかった。

静かに私達に近付いて来たその人は、低くて威厳のある声で言った。

「場所をわきまえろ」

その口調は決して穏やかなものなんかじゃなかった。

でも、私はその声を聞いて、安心した。

綾さんと蓮さんの言い争いが終わる事が確信できたから・・・。

2人を止められる人はこの人しかいない。

私は、掴んでいた蓮さんの腕を放した。

力が入らず崩れていく身体を支える事が出来ない。

私はその場で意識を手放した。

「美桜!!」

蓮さんの声が聞こえたけど、私は返事をする事が出来なかった。

意識を失う瞬間に私の視界に映ったのはお父さんの背中に浮かび上がる色鮮やかな刺青だった。

激しく燃え上がる炎の中で、

剣を握り締め

縄を振り翳し

胡座を掻くその姿は威圧感が溢れていた。

閻魔大王や恐怖の女王でも敵わないくらいの恐い表情には怒りが満ちていて鋭く険しい眼でこっちを睨んでいた。

恐ろしい瞳なのに、私はその瞳を恐いと思わなかった。

上手く言えないけど……。

その瞳は憐れみと慈しみの色を含んでいるような気がした。

◆◆◆◆◆

瞳を開けると一番最初に見慣れない天井が視界に映った。

私はその天井をぼんやりと眺めていた。

ぐっすりと眠って目覚めた時のような気分。

だけど、なぜ私がここで寝ていたのかが分からなかった。

「大丈夫かい?」

心配そうなその声にゆっくりと視線を動かすと、

そこには声と同様に心配そうな漆黒の瞳が私の顔を覗きこんでいた。

同じ漆黒の瞳。

でも、それは蓮さんの漆黒の瞳じゃなかった。

「お……お父さん!?」

私は、身体を包み込んでいた白いシーツを跳ね除けて飛び起きた。

「まだ、ゆっくり横になっていなさい」

お父さんはベッドの脇に置いてある椅子から腰を上げると、私の両肩を支えるようにベッドに寝かせてくれた。

それから、私が跳ね除けたシーツを手に取ると、私の身体を覆うように掛けてくれた。

お父さんの前で横になっている事を申し訳なく思いつつも、せっかくの好意を断る事も出来ず私は言われるがまま、もう少しだけこのままの体勢でいる事にした。

それでも、私が気になるのはこの状況の事で……。

どうして、私はここにいるんだろう……。

どうして、私はここで寝ていたんだろう……。

どうして、お父さんは心配そうに「大丈夫かい?」って聞いたんだろう……。

どうして、ここには蓮さんじゃなくてお父さんがいるんだろう……。

疑問は増えていくばかり。

だから、私は恐る恐る口を開いてみた。

「あの、私……」

「熱中症だよ」

私が質問をする前に、お父さんは答えてくれた。

「……熱中症?」

「陽が当たる所にずっといたから……」

丁寧に原因まで教えてくれた。

どうやら、私は熱中症で倒れてしまったらしい。

「悪かったね」

「えっ?」

突然のお父さんからの謝罪の言葉に、私は驚いた。

なんで、お父さんが私に謝るんだろ?

「嫌な思いをさせてしまったね」

……嫌な思い?

……。

……。

あっ!!

そうだ!!

私の頭の中でバラバラだったジクソーパズルのピースが組み立てられるようにお父さんの言葉が繋がった。

「あの!!蓮さんと綾さんは……」

やっと思い出した!!

私が倒れる寸前までの出来事。

次々に浮かび上がってくる記憶。

感じた緊張感。

唇を塞ぐ感触。

鳴り止まない歓声。

怒った綾さんの顔。

蓮さんの頭が叩かれた鈍い音。

お互いに睨み合う、蓮さんと綾さんの瞳。

蓮さんの首に食い込む、鮮やかな赤いネイルの塗られた爪。

2人を止めようと間に入ったマサトさんとヤマトさん。

振り上げられ腕。

宙を切った掌。

響いた乾いた音。

蘇った記憶。

目の前で繰り広げられる光景に過剰な反応を示した私の身体。「大丈夫かい?」

再び、お父さんの口から発された質問に

「……はい、大丈夫です」

私は頷いた。

「良かった」

お父さんは笑みを浮かべた。

とても、安心したように……。

安心したようなお父さんを見て、私も少しだけ安心した。

お父さんが、今、笑えるって事は、蓮さんと綾さんの争いはもう終わってるって事で……。

気掛かりだった私も大丈夫だったから、こんな笑顔なんだと思う。

それに、まだ終わってなかったら、きっとお父さんはここにはいないはず。

だって、2人を制することが出来るのはお父さんしかいない。私は、知っている。

恐怖の女王だって……。

閻魔大王だって……。

お父さんには、敵わない。

知っているけど……。

知っているからこそ、私は安心感と不安感を抱いてしまう。

「……お父さん」

「うん?」

優しくて穏やかに答えてくれるお父さん。

「あの……蓮さんは……」

「心配かい?」

「……はい……」

私が小さな声で答えるとお父さんは困ったように苦笑いした。

……?

なに?

どうしたの?

困ったように苦笑しているお父さんを見て、私の方が困った。「蓮と綾は今ちょっと……」

“ちょっと……”その続きはなに?

私は、瞬きをするのも忘れてお父さんを凝視していた。

「2人とも悪戯が過ぎたから、ちょっとお仕置き中なんだ。」

……えっ?

おしおき?

……おしおき……。

……お仕置き……。

は?

お仕置き!?

えっ!?

お仕置き!!

頭の中で“お仕置き”って言葉がグルグル回っている。

“お仕置き”ってあの“お仕置き”?

子供が悪いことをした時にされるあれ?

驚きのあまり呆然とお父さんを見つめていると、お父さんは頭を指でポリポリ掻きながらやっぱり困ったように笑っている。

……いや、いや……。

お父さん、困っているのは、私の方ですから……。

「……蓮さんと綾さんが“お仕置き”中なんですか?」

「あぁ」

「その“お仕置き”って一体……」

「なんだと思う?」

「えっ!?」

ちょっと、待って……。

確か、先に質問したのは私のはず。

なのに、なんで私が質問されてんの!?

分からないから質問したのに……。

そんな私を見て、お父さんは遠慮気味に笑う。

「“お仕置き”中の綾と蓮を見てみるかい?」

蓮さんと綾さんはどんな、“お仕置き”を受けてるんだろう?

綾さんと蓮さんに“お仕置き”って言葉が全くもって結びつかない。

……気になる。

すっごい気になるんですけど……。

「……はい……」

私が頷くと、お父さんが静かに立ち上がった。

「起きれるかい?」

「大丈夫です」

そう言って私は、フカフカのベッドから身体を起こした。

大きな手が伸びてきて、背中を支えてくれる。

お父さんのさり気ない気遣いが蓮さんとカブった。

蓮さんのさり気ない心遣いは天下一品。

例えば……。

道を歩いている時は必ず車道側を歩いてくれていたり、

お店に入る時は必ずドアを開けてくれて、先に私を中へ入れてくれたり、

座る時は、必ず椅子を引いてくれたり、

私が、蓮さんの車の助手席に乗る時は必ずドアを開け閉めしてくれたり……

挙げ始めるとキリがない。

その動きの全てが当たり前の事をしてるって感じで、

意識しなければ気付かないほどさり気ない。

さすがは親子。

改めて、お父さんと蓮さんは親子なんだと実感してしまった。ベッドを降りるとお父さんは、薄いレースのカーテンが引いてある大きな窓を指差した。

その指に導かれるように私は大きな窓に近付いたいた。

私の隣で見守るように、ゆっくりと足を進めるお父さんの大きな手が、私の腰の辺りを支えるように添えられている。

でも、その手が直接私の身体に触れる事はない。

拳一個分くらいの隙間を開けて私に付いてくる。

それが、気遣いなんだってすぐに分かった。

もし、その手が私の身体に触れていたら、私はその手が気になって仕方ない。

お父さんが、倒れた私の心配をしてくれてる気持ちは分かるし、その気持ちを嬉しいとも思う。

でも、蓮さん以外の男の人に触れられるのには抵抗がある。

やっぱり私は、まだ子供なんだと思う。

大人になったら、そういう事も含めて考えられるようになるかもしれない。

でも、子供の私が触れられていたいのも、触れていたいのも、だだ一人だけ。

その人以外に触れられる事に大きな抵抗を感じてしまう。

多分、お父さんはそんな私の気持ちをお見通しなんだと思う。だから、この隙間は存在する。

窓の傍まで近寄ると、お父さんは私よりも一歩前へ出て素早く引いてあるカーテンと窓を開けた。

窓の外にはバルコニーがあり、そこには真っ白いテーブルと椅子が置いてあった。

お父さんが先に外に出て、手すりの傍に立って手招きしている。

私は、お父さんの傍へ行こうと外に足を踏み出した。

生温い空気に包まれて、初めて部屋にクーラーが効いていた事に気付いた。

お父さんの隣に立って、手すりに手を掛けた。

そこから見えたのは、さっきまで私がいたプールだった。

私が今いる部屋からプールが見える。

どうやら、私がいる部屋は、このホテルの結構、上の階らしい……。

微かに聞こえる賑やかな声に私は胸を撫で下ろした。

さっきまでの張り詰めた空気はもうそこには無かった。

ここからでも充分、楽しそうな雰囲気が分かる。

「視力は良いのかい?」

その言葉に階下のプールから視線を移すと、私と同じように手すりに持たれ掛かっているお父さんが私を見ていた。

……?

「……はい……」

突然の質問の意味が分からずに私は戸惑いながら答えた。

「そうか。だったら見つけられるかな?」

「……?」

……やっぱり私にはお父さんの言いたい事が分からない。

お父さんはそれ以上、何も言わずにプールに視線を落とした。だから、私も視線を落とした。

お父さんは、何を言いたいんだろ?

ここで、私に何を見せたいんだろ?

“お仕置き中”の蓮さんを見せてくれるって言ってたけど……。ここから、見える光景に“お仕置き”と結び付きそうなものなんて何もないのに……。

お父さんの言葉の意味が分からない私はボンヤリとプールを眺めていた。

蓮さんは、今頃どこで何をしてるんだろ?

せっかく一緒に旅行に来たのに……。

ずっと一緒に過ごせると思ってたのに……。

今、蓮さんが私の傍にいない事が寂しい……。

蓮さんに会いたいな……。

……。

……。

……ん?

プールの中央にいる男の人。

子供に囲まれている男の人。

アッシュブラウンの髪の毛。

……あれって……。

「……蓮さん!?」

たくさんの人の中にいても分かる。

間違うはずがない。

「よく分かったね」

お父さんの驚いたような……感心したような声。

……やっぱり間違いない。

蓮さんの姿を見ると顔が緩む。

蓮さんの周りにはたくさんの子供達。

耳を澄ますと、聞こえてくる子供のはしゃぐ声。

その声を聞いていると心が和む。

お父さんが“お仕置き中”なんて言うから一体何をさせられているんだろうと思ったら……。

「楽しそうな“お仕置き”ですね」

「うん?楽しそう?」

お父さんが不思議そうな声を出した。

「はい」

「きっと蓮には一番辛い“お仕置き”だと思うけど……」

「えっ?」

ツラい?

子供と遊ぶ事が?

なんで?

……もしかして……。

蓮さんは子供が嫌いとか?

もし、子供が嫌いなら……。

確かに、子供と遊ぶのは辛いかもしれない。

「……お父さん」

「うん?」

「質問してもいいですか?」

「あぁ、どうぞ」

「蓮さんは、子供が嫌いなんですか?」

「子供?」

「はい」

「……?……いや、どちらかと言えば好きだと思うけど……」

「じゃあ、なんで、子供と遊ぶ事が辛いんですか?」

「えっ?」

「……?」

「子供と遊ぶ事が辛い?どうして、そう思ったのかな?」

「……お父さんが、蓮さんにとって一番辛い“お仕置き”だって……」

「……なるほどな……」

「……?」

「あれは“お仕置き”じゃないよ」

お父さんが、プールを指差した。

「えっ?違うんですか?」

「あぁ、違う」

「じゃあ、“お仕置き”って……」

「見せてあげたかったよ。」

「なにをですか?」

「俺が、“お仕置き”の内容を蓮に言った時のあいつの顔」

「……蓮さんの?」

「あぁ」

お父さんは何かを思い出したように笑っている。

「知ってるかい?」

「……?」

「蓮の弱点」

……は?

……蓮さんの弱点?

「……蓮さんに弱点なんてあるんですか!?」

「一応、あいつも人間だからね」

そう言われてみれば……。

確かに蓮さんは人間だ。

……たまに、閻魔大王に変身するけど……。

それでも、人間には違いない。

だけど、蓮さんに“弱点”があるなんて思えない。

蓮さんが人間だと言うことはなんとか理解できるけど……。

あの蓮さんに“弱点”なんてあるはずがない。

だけど、お父さんの口調は蓮さんに“弱点”があるような言い方だったし……。

首を傾げていると、お父さんは楽しそうに私を指差した。

「……お父さん?」

「蓮の“弱点”は君だよ」

「えっ!?……私が……蓮さんの弱点!?」

「あぁ。でも、“弱点”だけじゃないけどね」

「……?」

「蓮は君次第で弱くもなるし強くもなる」

「……えっと……」

「難しいかな?」

「……はい、かなり……」

「そうか。違う言い方をするなら……」

お父さんの視線が一度、宙に向けられてから数秒後、私の顔へ戻ってきた。

「蓮の傍に君がいる限り蓮はいくらでも強くなれる」

「……強くなれる?」

「あぁ。でも、美桜さんが蓮の傍から離れる事があったら、あいつは崩れてしまうだろうな」

「……蓮さんがですか?」

お父さんはニッコリと笑顔で頷いた。

「蓮にとって君の存在は大きい。あいつが表す喜怒哀楽は全て美桜さんに関わる事だと言ってもいいんじゃないかな。」

「……そんな事は……」

「『ない』と思うかい?」

私の言いたい事を先に言ったお父さんに私は驚いた。

……もしかして……。

お父さんも人の心が読めるとか!?

……まさかね……。

……。

……。

いや、有り得なくはない。

お父さんと蓮さんは親子だし……。

蓮さんの人間離れした能力はお父さん譲りなのかもしれない。「そんなに見つめられたら照れるんだけどな」

……どうやら、私はお父さんの顔を無意識のうちに凝視していたらしい……。

「ご……ごめんなさい!!」

思わず謝った私の声は、想像以上に大きかった。

自分の声にビックリした私は焦って自分の口を押さえた。

そんな私を見て、お父さんは穏やかに笑っている。

あまりにも恥ずかしくなった私は、お父さんから視線を逸らして俯いた。

「蓮はね、君と出会ってから変わったんだ」

私の耳に低くて柔らかい声が落ちてきた。

恐る恐る視線を上げてみると、お父さんはもう私を見てはいなかった。

お父さんは目の前に広がる自然豊かな景色を眺めていた。

繁華街とは全然違う景色。

生温い風が頬を撫でる。

大きな木の葉が風で揺れ微かな音を奏でていた。

「蓮には内緒だよ」

お父さんが悪戯っ子みたいな表情で言った。

私が蓮さんに隠し事を出来るはずがないんだけど……。

これから、お父さんが話そうとしているのは、きっと蓮さんの事。

そう確信した私は頷いた。

「あいつは、幼い頃から感情を表に出すのが苦手だったんだ」

ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた、お父さんの声に私は集中した。「嬉しい時に大喜びをすることも、悲しい時に涙を流すことも、楽しい時に声を出して笑う事も……そんな人として当たり前の事ですら、あいつは心を許した人間にしか見せようとしなかった」

「……」

「アイツが素の自分を見せる相手はごく少数で限られていた。誰だか分かるかい?」

「……ケンさんですか?」

「あぁ。ガキの頃からケンの前ではありのままの自分を出していた。まぁ、あいつがそんな風になったのは、ほぼ俺の所為だ」

「……お父さんの所為?」

「あぁ。蓮は生まれた時から人としてまともな道を歩める確率は0%だったんだ」

「……えっ?」

「母親の腹の中で、男として命を授かった瞬間から、跡取りとして組を継ぐ事は決まっていたんだ。その運命は、あいつの意思では変える事が出来ない」

「……」

お父さんの“運命”いう言葉に、私は胸を締め付けられた。

同じ“運命”という言葉でもその内容によって意味とその言葉から連想するものは大きく変わってくる。

例えば、恋人同士が出逢った事や今一緒にいる事を“運命”という言葉で表現するなら、その“運命”という言葉はとても甘美でフワフワと柔らかい印象を持つ。

だけど、蓮さんの人生を指し示す“運命”って言葉は……蓮さんを縛り付ける鎖のような印象を受けた。

「蓮は、一度も自分の運命に逆らおうとしたり反抗しようとした事はない」

「……」

「きっとあいつは家業の事や俺の職業の所為で何度も嫌な想いや悲しい想いをしている」

「……嫌な想い?」

「あぁ、あいつはガキの頃から人間の残酷さと非道さを嫌ってほど見てきてる」

淡々と言葉を紡ぐお父さん。

私は、顔を前に向けたまま視線だけをそちらに向けてみた。

下からこっそりと見上げたお父さんは漆黒の瞳に、鮮やかな新緑を映している。

でも、お父さんは景色を眺めている訳じゃない。

お父さんは、記憶の中の蓮さんを見ている。

確証はないけどそんな気がした。

「そういう大人を蓮に見せたのは、俺なんだ」

「……」

「あいつに極道家業の後継者としての教育をしたのも俺だ」

「……」

「その結果、あいつは冷酷な人間になったんだ」

……冷酷?

「蓮さんがですか?」

蓮さんと“冷酷”って言葉が全然結びつかない。

「信じられないかい?」

どうやら、私はまた顔に出していたらしい。

「……はい」

私が知ってる蓮さんは冷酷な人なんかじゃない。

とても優しくて、いつも温かい愛情で包み込んでくれる。

たまに、閻魔大王に変身するけど……。

そんな蓮さんだって、冷酷だと思った事は一度もない。

「蓮は、君と出会って変わったんだ」

穏やかな口調で紡がれた言葉に私は顔を上げた。

そこには、やっぱり穏やかな表情のお父さんが私を見下ろしていた。

「……変わった?」

「あぁ」

「……あの……それは、どんな風に?」

「そうだな……」

「……」

「人間になった」

「えっ!?」

「……?」

驚いた私は、再び大きな声を出してしまった。

「『人間らしくなった』って事は、蓮さんは人間じゃなかったんですか!?」

「えっ?」

驚いているお父さんを見て『しまった!!』と思った。

……動揺のあまりとんでもない質問をしてしまった……。

「……いや……違うんです……」

なんとか、誤魔化そうとするものの言い訳なんて浮かばない私は小さな声でオロオロと言葉を紡ぐ事しか出来ず……。

そんな私を見て、お父さんは驚いた表情を崩し、クスクスと笑いを零した。

「俺の言葉が悪かったな。一応、人間ではあったよ。ただ、人間らしくはなかったけど」

笑いを飲み込んだお父さん。

「人間らしくなかったんですか?」

「あぁ。感情を表に出そうとしないから、周りの人間は、蓮が何を考えているか分からなかった。唯一、蓮を理解出来たのはケンやマサトやヒカル、それにチームの幹部くらいだったはずだよ。マサトもヒカルも元は別のチームの人間だったからそうなるまでに大分時間が掛かったようだし」

「……」

「あいつの話は、聞くつもりが無くても耳に入ってくるからね。繁華街でケンカなんてしたらすぐに俺のケイタイが鳴っていた」

お父さんは苦笑いを浮べた。

その瞳は、“組長”の瞳じゃなくて“父親”の瞳だった。

「あいつは手加減ってものを知らないから……」

困ったように言葉を発したお父さん。

「……手加減?」

「あいつが本気でキレたら手がつけられなくなるんだ」

呆れたように溜め息を吐いたお父さんの視線の先にはプールの中で子供達と遊ぶ蓮さんがいる。

「しかも、感情を顔に出さないから相手も蓮がどのくらいキレてんのか分からないんだろうな。挑発し過ぎた事に気付いた時には手遅れって感じで……」

「……」

「相手が動けなくなっても攻撃を止めようとしないから、周りにいる人間が苦労する」

「……苦労って……」

「周りが見えなくなってるから、敵か味方かの判別さえ出来ないんだ」

お父さんはなぜか笑ってるけど……。

……この話、全然笑えませんから!!

「ケンは、キレた蓮を止めようとして何度殴られたか分からないくらいだ」

「えっ!?ケンさんが!?」

「ケンだけじゃなくて、マサトやヒカルも吹き飛ばされた事があるはずだよ」

「……」

……蓮さん……

あ……暴れ過ぎだから……

「蓮がそういう人間だって分かってる奴ならまだしも全然知らない、ましてや蓮を敵視してる奴らからしたら……敵も味方も無く無表情で殴ってる蓮は“冷酷”な奴、以外の何者でもないだろ?」

「……ですね……」

「まぁ、チームを引退して組に名前を置くようになってからは、少しだけ自分でも気を付けているみたいだけどね」

「……はぁ……」

「でも、あいつは変わったんだよ」

「……?」

「君と出会ってから、喜怒哀楽をはっきりと顔に出すようになった」

「えっ?」

「嬉しい時は素直に喜ぶし、悲しい時は落ち込んで、楽しい時は声を出して笑うようになった。なによりも、変わったのは、怒っている事がはっきりと分かるようになった事だな。やっと人間らしくなったよ」

言葉を紡ぐお父さんの表情はなんだかとても嬉しそうだった。「あの……お父さん」

「うん?」

「お父さんは、分かっていたんですよね?」

「……」

「蓮さんが子供の時から……」

「……?」

「蓮さんの気持ちを……」

蓮さんを『分かりにくい』と言ったお父さん。

だけど、この話をしていたお父さんは、客観的だった。

お父さんが蓮さんの事を『分かりにくい』と思っているとは、到底、思えなかった。

「……一応、あいつの父親だからね」

照れ臭そうに鼻の頭を掻いたお父さん。

私も“何を考えているのか分からない”ってずっと言われていた。

そんな私を『分かり易い』と言った蓮さん。

生まれて初めて言われたその言葉に私は戸惑いを隠せなかった。

そんな私に、蓮さんは言った。

『俺はお前の事をちゃんと見てる。だから、分かるんだ』

自信に満ちた漆黒の瞳で……。

その言葉を聞いたから、私は思った。

お父さんは、蓮さんの事をちゃんと見ていたんだ。

蓮さんが幼い頃から、今でもずっと……。

だから、お父さんは蓮さんの“分かりにくい”喜怒哀楽もちゃんと分かって理解してたし、変化にもちゃんと気付いたんだと思う。

もし、私にもお父さんがいたら……。

……私の事をこんな風にずっと見守ってくれたのかな……。

私は、一度も会ったことのない父親にお父さんを重ね合わせていた。

「……気付かれたな」

楽しそうなお父さんの声に、私は我に返った。

「……えっ?」

視線を上げるとお父さんは声と同じように楽しそうな表情を浮かべていた。

その視線は、階下に向けられていた。

……?

私は、お父さんの視線の先を見て固まった。

……!?

そこには、さっきまでプールの中にいたはずの蓮さんが……。

いつの間にか、プールサイドで仁王立ちをしてこっちを見上げていた。

……えっと……。

もしかして、蓮さんはご機嫌が……悪いとか!?

表情は何となくしか見えないけど……。

蓮さんからは明らかに不機嫌なオーラが出てるのは分かる。

「かなり怒ってんな。」

「……ですね……」

痛いくらいの視線を感じながら、相変わらず楽しそうなお父さんと顔を引きつらせる私。

「……あの……」

「うん?」

「どうして、蓮さんは怒ってるんでしょうか?」

恐る恐る尋ねた私に、

「大丈夫だよ」

お父さんはニッコリと微笑んだ。

「……はい?」

……全く質問の答えになっていないんですけど……。

「蓮は、君に怒ってるんじゃない」

「……?」

「あいつは自分自身に腹を立てているんだ」

「……自分自身に……って蓮さんが蓮さんに怒ってるって事ですか?」

「あぁ、それと君と一緒にいる俺にも怒ってるんだろうな」

……。

……ダメだ……。

お父さんの言葉が全く理解出来ない。

なんで、蓮さんが自分自身に怒ってるいるのかも、どうして、お父さんを怒っているのかも……。

なぜ、蓮さんが怒っているにも関わらず仁王立ちでそこから動かないのかも……。

全然分かんない。

「そろそろ、解除してやるか」

「何をですか?」

「ん?この部屋への出入り禁止令だ」

「この部屋への……出入り禁止令!?」

いつの間に!?

いつの間にそんな禁止令が発令されてたの!?

「美桜さんに恐い思いをさせたからね」

「……お父さん……」

「うん?」

「まさかとは思うんですけど……“お仕置き”って……」

「あぁ、そうだよ」

「……!!」

またしても、私の言葉を最後まで聞かずに、私の言いたい事を理解したらしいお父さん。

本当に、私の言いたい事を理解しているんだろうか……。

この時ばかりは、お父さんの予想が外れていて欲しいと心の底から思った。

私のそんな願いも虚しく……

「蓮と綾にはこの部屋への入室禁止令を出しているんだよ」

「……!!」

平然と……しかもサラッと言ったお父さんの言葉に私は絶句してしまった。

……やっぱり……。

これで、全ての謎が解けた。

今、蓮さんがここにいない理由も……。

全身から不機嫌なオーラを放出しているのに、蓮さんがプールサイドで仁王立ちしたまま動こうとしない理由も……。

お父さんが“禁止令”を出したからなんだ。

「嫌な思いをさせてしまって悪かったね」

謝罪の言葉を口にしながら、お父さんは私に頭を下げた。

「お……お父さん!?」

頭を下げたお父さんに私は焦った。

……ダメ!!

私なんかに頭なんて下げちゃダメ!!

「綾には、私からキツく言っておくから……」

「……綾さんにですか?」

……お父さんは一体なんの話をしているんだろう?

綾さんがお父さんにキツく言われるような事なんかしたっけ?

不思議に思いつつ尋ねる私をお父さんはまっすぐに見つめている。

「思い出したくない事を思い出させてしまった」

その言葉に私はやっと気付いた。

私が思い出したくない事はただ1つだけ……。

遠い過去の思い出だけ……。

「……お父さん……」

「うん?」

「気付いていたんですか?」

「あぁ」

私が倒れる寸前。

綾さんが振り上げた手と古い記憶の中にある“あの人”の手が重なった。

綾さんの手はマサトさんの頬に当たったはずなのに……。

私の頬にも痛みが走ったような気がした。

それは、現実に感じた痛みじゃなくて、私の身体が覚えている痛み。

身体が記憶している痛み。

確かに、私は痛みを感じた。

だけど、私はその事を口に出してはいないはず……。

あの状況で、お父さんが“それ”に気付いてくれていた事に私は驚いた。

お父さんに、私の過去を直接話した事はない。

でも、お父さんは知っているはず。

どこまで知っているかは分からないけど……。

私が話さなくてもお父さんは特殊な情報網を使って簡単に調べる事が出来るらしい。

「綾に悪気があった訳じゃなかったんだ。もちろん、蓮にも……だけど、配慮が足りなかった」

申し訳ないという感じのお父さん。

「……いいえ、違います。綾さんや蓮さんの所為じゃないんです。あれは私が一番悪いんです」

「……?」

「いつまで経ってもあの出来事を過去に出来ない弱い私の所為なんです」

自分の弱さが本当に嫌になる。

もし、私が強くて過去の壁を乗り越える事が出来ていたら……。

蓮さんや綾さんに迷惑を掛ける事も無かったのに……。

私の弱さがみんなを巻き込んでしまっているんだ。

「焦る必要はないと思うよ」

自己嫌悪に陥っていた私の耳に穏やかな声が落ちてきた。

「誰でも生きていれば、傷を負う。人ぞれぞれ傷の大きさは違うけど、傷を抱えながら生きているんだ」

「……」

「傷を癒すには時間が必要なんだ」

「……時間……」

「あぁ、例えば身体を怪我したら、治るまで時間が必要だろ?どんなに焦っても治る事はない」

「そうですね」

「心の傷もそれと同じだよ」

「……」

「傷を治す為には、時間と環境が必要なんだ」

「……」

「傷が大きければ大きいほど1人で癒すのは難しい。だから、周りの人間の協力も必要なんだ」

「……」

「協力してくれる人間に迷惑を掛けていると思うのは間違っているんだよ」

「……間違いですか?」

「あぁ。君は人に無理強いをしている訳じゃない。蓮や綾は自ら協力したいと思っているんだ。だから、迷惑を掛けていると思う必要はないんだよ。それに……」

「それに?」

「負担ばかりを掛ける訳じゃない。小さな進歩の喜びも傷を癒せた時の大きな喜びもみんなで分かち合う事が出来るだろ?」

「……そうですね」

お父さんの優しい笑顔に私は心が軽くなった。

「手を差し伸べてくれる人間に甘える事も大切なんだよ。素直に甘えてあげる事も優しさなんだ」

「優しさですか?」

「あぁ、蓮は君に甘えられたり頼りにされたら嬉しそうにしていないか?」

……?

……蓮さんが?

嬉しそうに?

「……そう言われてみれば……」

……確かにお父さんの言う通りかもしれない。

いつも私の傍にいてくれる蓮さん。

私が不安な時は、いつも傍で支えてくれるし、私が嬉しい時は、いつも自分の事のように喜んでくれる。

私があの夢を見て眠れない日は、私が眠りに就くまで一緒に起きていて、温もりと優しさをくれる。

あの夢を見たら数日間は眠る事が怖くてたまらなくなる。

その数日間、蓮さんは私が眠るまで起きていてくれる。

嫌な顔1つしないで、それが当たり前だというように……。

そして、私がぐっすりと眠れると蓮さんは、まるで自分の事のように喜んでくれる。

眠そうな瞳で……。

「だろ?蓮は君に甘えられたり頼られたりすると嬉しいんだ」

「そうなんですか?」

「あぁ」

「……でも、私はいつも蓮さんに頼ってばかりなんです」

「うん」

「蓮さんには、いくら感謝しても足りないんです」

「うん」

「その気持ちはどうやって伝えればいいんですか?」 

「いつもはどうやって伝えているんだい?」

「『ごめんなさい。』って……」

いつも、迷惑を掛けてごめんなさい。

いつも、心配を掛けてごめんなさい。

いつまでも、壁を乗り越える事が出来なくてごめんなさい。

いつまで経っても弱い私でごめんなさい。

……そんな想いを込めて……。

その度に『謝ってんじゃねぇーよ』と蓮さんは寂しそうに呟いていた。

「簡単な事だよ」

「……?」

「君が蓮に感謝しているんだったら『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』と言えばいい』

「『ありがとう』ですか?」

「あぁ、大切な人に言われるなら『ごめんなさい』よりも『ありがとう』の方が嬉しいんだよ」

「……」

「もし、美桜さんが言われるなら謝罪の言葉と感謝の言葉どっちが嬉しい?」

「感謝の言葉です」

「だろ?」

“ありがとう”

この言葉を口に出すだけなら簡単。

だけど、感謝の気持ちを込めて伝えると、とても温かい言葉になるのかもしれない。

これからは、“ごめんなさい”じゃなくて“ありがとう”って蓮さんに伝えてみよう。

私は心の中で固く誓った。

「……お父さん……」

「うん?」

「……ありがとうございました……」

「ん?」

「なんだか気持ちが軽くなりました」

面と向かって“ありがとう”を伝えるのは、照れくさい……。

「いや……俺に相談してくれてありがとう」

だけど、そう思ったのは私だけじゃないみたいで……。

「なんだか、照れくさいな」

お父さんが照れくさそうに、鼻の頭を掻いた。

……どうやら、お父さんが鼻の頭を掻くのは照れた時のクセらしい……。

新たな発見に私は嬉しくなって、思わず笑ってしまった。

「元気になって良かった」

私を見て安心したような笑みを浮かべたお父さん。

お父さんと話したお陰で心の靄が晴れたような気がする。

柔らかい風が吹いている。

すっきりとした気持ちで感じる風はとても心地良い。

全身でその風を感じていると……。

「……限界だな」

呆れたようなお父さんの声。

……えっ?

限界?

何が?

不思議に思いつつ視線を上げると、

私の視線に気付いたお父さんが下を指差した。

「……?」

その指先を辿るように視線を動かして、お父さんの言葉の意味が一瞬で理解出来た。

お父さんとの会話に夢中になり過ぎてすっかり忘れていた。

……蓮さん……顔がものすごく恐くなってるんですけど!?

さっきにも増して不機嫌なオーラを全身から醸し出している蓮さん。

「これ以上、放っておいたら被害者が出るかもな……」

お父さんが不吉過ぎる予言をした。

だけど、その予言が現実のものになるのは時間の問題のような気がする。

……しかも、被害者って……。

一体、誰が被害者になるの!?

私は、蓮さんの近くにいる人達に必死でテレパシーを送った。早く、蓮さんから離れて!!

でも、私なんかの心の声が人に伝わるはずもなく……。

それどころか、蓮さんの不機嫌なオーラにすら気付いている人はいない。

……これは、ヤバイ……。

「あの……私……ちょっと行ってきます!!」

私はバルコニーの手すりに背中を向け走りだそうとして……

手首を掴まれた。

「行くってどこに?」

そんな質問と共に……。

……はい?

被害者が出る前に蓮さんを止めないと……。

せっかく戻った雰囲気がまた悪くなってしまうのに。

「お父さん!!」

焦り過ぎた所為で、強い口調になってしまった私の言葉に、

「えっ?」

微かに驚いた様子のお父さんはまったく私の行動が把握出来ないって感じで……。

「被害者が出る前に蓮さんを止めないと!!」

私は、早口で説明してみた。

「あぁ……なるほど」

小さく頷いたお父さん。

やっと危機的状況を理解してくれたらしい。

「私、行ってきます」

再び宣言して走り出そうとしたけど……。

「あの……お父さん、手を離して貰えますか?」

ガッチリと掴まれている手首。

「ダメだ」

……。

……。

さっき、ちゃんと説明したのに……。

お父さんは、この危機的状況を理解してくれたと思ったのに……。

どうやら、全く伝わっていなかったらしい。

お父さんは、私の手首を放すつもりは毛頭ないらしく……。

……っていう事は、私が蓮さんを止めに行く事は出来なくて……。私が行っても、暴れる蓮さんを止める事は出来ないかもしれないけど、被害者になりそうな人を避難させたりは出来るかもしれないのに……。

「……えっと……」

この切羽詰まった状況を説明したいのに、適当な言葉が出てこない。

「美桜さん」

「は……はい!!」

「とりあえず部屋の中に戻ろうか」

「は……はい!?」

「せっかく気分が良くなったのに、暑い所にずっといるとまた倒れてしまうよ」

「……はぁ……でも……」

「涼しい部屋で冷たい飲み物でも飲もう」

有無を言わせないお父さんが私の手を引いて、部屋の中へと足を進める。

「いや……あの……お父さん!?」

半分引き摺られるように、私はクーラーの効いた部屋の中に連れてこられた。

さっきまで寝ていたベッドのある部屋の隣には、ソファとテーブルがある部屋があった。

そこのソファに強制的に座らされ、やっと私の手を解放したお父さんが「ジュースでいいかい?」私に問い掛けてくる。

「あっ……はい」

思わず答えてしまった私。

……いやいや……。

今は呑気にジュースなんて飲んでる場合じゃないんですけど……。

「はい、どうぞ」

私の目の前に、グラスに入ったオレンジジュースが置かれた。

……一体どこから持って来たの?

そう思いつつ視線を動かすとでっかいテレビの横に小さな冷蔵庫があった。

その上の棚には、グラスが並んでいる。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

軽くパニック状態に陥っていたせいか、それとも、熱中症になったせいかは分からないけど……。

私の喉はカラカラに渇いていた。

目の前にある、氷の浮かぶオレンジジュースがものすごく美味しそうに見える。

……飲みたい……。

でも、私が優雅にオレンジジュースを飲んでいるうちに蓮さんが暴れ始めたら……。

やっぱりジュースなんて飲んでる場合じゃない。

一刻も早く、お父さんにこの状況を理解してもらって、蓮さんを止めに行かないと……。

そう思うとグラスに手を伸ばす事が出来なかった。

「オレンジジュースは嫌いかい?」

グラスから視線を動かすとお父さんが私の顔を覗き込んでいた。

「いえ……嫌いじゃないんですけど……」

「うん?」

「あの……蓮さんが……」

「あぁ、蓮か。すっかり忘れてた」

……!?

……忘れてた!?

ある意味すごい。

この状況で蓮さんの事を忘れる事が出来るなんて……。

いろんな意味で私はお父さんを尊敬する。

さすがは組長。

肝が据わっているというか……。

器が大きいというか……。

なんというか……。

お父さんは、ポケットからケイタイを取り出すとボタンを押し、耳に当てた。

「……蓮を……」

どこに発信したのか、お父さんはそれだけ電話の相手に告げると電話を切ってしまった。

それから、私に視線を向けると、

「すぐに来るから、君はゆっくりジュースを飲んでなさい」

にっこりと微笑んだ。

◆◆◆◆◆

お父さんの言葉に従って、冷たいオレンジジュースを飲んでいると、勢い良く部屋のドアが開いた。

『美桜!!』

『美桜ちゃん!!』

ドアが開いた瞬間、声が聞こえた。

その声に、私は安心感に包まれる。

視線を向けなくても、声だけで分かる。

私の向かいのソファに座っているお父さんが声を押し殺して笑っている。

私の視線に気付いたお父さんは、とても楽しそうな表情で……。そんなお父さんを見ていた私は、バタバタと慌ただしい足音が近付いて来たと思った瞬間……

「……!?」

身体を勢い良く押し倒された。

今まで座っていたソファになぜか寝そべっている私。

真横からタックルされてそのままの体勢で倒れてしまった。

一瞬にして視界の角度が変わった。

さっきまで笑っていたお父さんが驚いた表情で私を見つめていて……そんなお父さんを状況が飲み込めない私は呆然と見つめ返した。

『……おい』

呆れ果てたような声が聞こえ、私はそっちに視線を動かそうとしたけど……。

誰かが私の身体の上に乗っていて思うように動けない。

……。

……えっと……。

……何が起きたの?

状況を把握しようとなんとか動く首から上だけを動かしてみると、私の視界に映ったのは柔らかそうな茶色い髪の毛。

そして感じるのは私の全身を包み込んでいる柔らかい感触。

……もしかして……。

『……てめぇ、マジでいい加減にしろよ』

『うるさいわね。美桜ちゃんと私の時間を邪魔しないでよ』

うん・……間違いない。

私を押し倒して覆い被さっているのは、綾さんだ。

そして、さっきから呆れた声を出しているのが、蓮さん。

『美桜が潰れたらどうするんだ?』

『あら、私はそんなに重くないわよ』

……確かに重くない。

重くはないけど……

腕に胸が当たってるんですけど!!

腕に感じるフワフワ感。

……綾さん……。

見た目だけでも、大きいと思っていたけど……。

これは、想像以上に大きい。

……どうしたらこんなに大きくなるんだろう?

……てか、同じ女なのにこの違いは……。

『いい加減にしねぇとマジでキレんぞ』

その言葉と同時に私の身体は自由になった。

『もう!!本当に邪魔ばかりするんだから』

『それは、俺のセリフだ』

組長から“お仕置き”を受けていたにも関わらず相変わらずな閻魔大王と恐怖の女王。

相変わらずだけど……。

さっきみたいな緊迫感はない。

その違いは、私にも分かった。

蓮さんも綾さんも暴言を吐いている割には、どこか楽しそうだし……。

そんな2人を見ているお父さんも困ったように笑ってて……。

だから3人を眺めている私もなぜだか笑っていた。

ついさっきまでの出来事が嘘のように感じる。

もしかしたら、夢だったのかもしれないと思ってしまうくらい和やかな雰囲気がそこにはあった。

クスクスと声を出して笑っていると、蓮さんが私に視線を向け、その視線を辿るように綾さんも私を見た。

「美桜、大丈夫か?」

「美桜ちゃん、大丈夫?」

見事にカブった2人の声。

蓮さんと綾さんはいつも言い合いばかりしてるけど、本当はとても仲良しなんだと思う。

お互いに言いたい事をはっきりと言うから、たまに衝突してしまう事もある。

でも、はっきり言えるのは、お互いをしっかりと信頼して大切に思っているから。

どうでもいいと思っている相手には、自分を分かって貰おうとは思わないからあんなに激しく衝突する事はないだろうし、2人の間に信頼関係が無かったら、その後にこんな雰囲気を作る事なんて出来ないと思う。

きっと、衝突しながら蓮さんと綾さんはお互いを知ってきたんだと思う。

それが分かってるから、お父さんも困った表情をしながらも滅多に口を挟まないんだ。

さっき、2人の間にお父さんが入ったのは、きっと私の為。

お父さんは、みんなの事をよく見ている。

だから私の異変にも、いち早く気付いてくれた。

お父さんは、いつも優しくて穏やかな瞳でみんなを見守ってくれている。

本当の“お父さん”を知らない私も、組長を見ているとなんとなく“お父さん”という存在がどんなものなのか分かったような気がする。

「うん、もう大丈夫」

「……良かった」

蓮さんと綾さんが安心したような笑みを浮かべた。

まだ、私は過去の壁を乗り越えてはいない。

今回の事で、改めて分かった。

自分の弱さに焦りを感じる。

……だけど、それ以上に、蓮さんと綾さん、そして2人を見守るお父さんの関係性も分かった。

私は、その関係が羨ましくてたまらない。

いつか、私もその“輪”の中に入りたいと思った。


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深愛2~The only wish~1 桜蓮 @ouren-ouren

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