◆旅行②◆

「美桜、そろそろ出るぞ」

「もう少し待って!!」

リビングの窓の外には青空が広がっている。

部屋にはクーラーが効いていて暑さは感じないけど、間違いなく外は暑いはず。

ソファに座っている俺はタバコに火を点けた。

灰皿には、吸い殻が溜まっている。

今日、起きてから美桜はずっと忙しそうに走り回っている。

一緒に朝から入った風呂でさえ、美桜はバタバタと出て行った。

『もう、出るのか?』

いつもは、じっくりと浸かるバスタブから飛び出した美桜。

『うん!!忙しいから!!』

『忙しいって……』

俺の言葉を最後まで聞くことも無く美桜はバスルームのドアを勢い良く閉めた。

……。

……。

なにがそんなに忙しいんだ?

一週間の旅行。

確かに荷造りは大変だった。

『最低限の荷物だけでいいぞ』

俺が美桜にそう言ったのは、旅行に行く一週間前だった。

一週間の旅行と言っても、宿泊するのはサービス満点のリゾートホテル。

手ぶらでフラリと立ち寄ったとしても、何も困る事なんてないくらい必要なモノは何でも揃っている。

服だって、ランドリーサービスがあるから、そんなには必要ない。

今、夏休みの美桜はほぼ毎日一緒に俺の実家に行っている。

旅行に行く為に、通常の仕事プラス一週間分の仕事が前倒しになっている事務所内は軽くパニック状態。

親父も俺も多忙を極めていた。

そんな俺が美桜の旅行の準備にまで、手が廻るはずも無く……。美桜の買い物や準備は綾さんが引き受けて、付き合ってくれた。

綾さんに頼むのは多少の心配があったものの、2人で仲良く買い物に出掛けたり、買い物から帰ってきた美桜の満足そうな笑顔を見るだけでそんな心配は吹っ飛んだ。

美桜には、同性の人間と過ごす時間も必要なんだ。

そう思うと綾さんの存在は大きい。

時に、母のように……。

時に、姉のように……。

時に、友達のように……。

美桜に接してくれる、綾さんは大切でありがたい存在。

俺には務まらない存在なんだ。

美桜にかけがえのない存在だから、任せていても大丈夫だと思って油断していた。

それに気付いたのは、出発の前日だった。

仕事もなんとか一段落して、翌日の準備もあるからといつもよりも早く帰宅した俺と美桜。

自分の準備なんて一時間もあれば、終わるだろうと俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出しソファに腰を下ろした。

『飲むか?』

隣で優雅にタバコの煙を吹かしている美桜に俺は尋ねた。

『ダメだよ!!』

いつもは嬉しそうに頷く美桜が首を横に振った。

『は?なんで?』

『準備しなきゃ!!』

……準備?

『俺の準備か?』

『あっ!!そうか。蓮さんも準備まだだもんね。一緒にしよっ!!』

『は?』

『えっ?』

『……もしかして……』

『……?』

『……まだ終わってねぇーのか?』

……そんなはずねぇーか。

この一週間、昼間は綾さんと親父の家に行ってたけど、夜は毎晩俺がパソコンを睨んでいる間バタバタと準備らしき事をしてたしな。

もしかして、俺の準備を手伝ってくれるつもりとか?

そんな想像は次の美桜の一言で儚い妄想となった。

『なんか、全然終わらないの』

『……』

……終わらない?

そんなはずねぇーだろ?

荷造りなんて1時間もあれば充分だろ?

俺は嫌な予感を感じた。

『……美桜』

『うん?』

『明日の荷物はどこに置いてる?』

『へ?あっちの部屋だけど?』

美桜が指差したのは玄関の方。

俺は、ソファから立ち上がり美桜が指差した先へと向かう。

リビングを出て、玄関に一番近い部屋のドアを開けた。

この部屋は本棚や机を置いている部屋。

美桜がこのマンションに来る前は、この部屋を仕事部屋として使っていた。

美桜と一緒に住むようになってから、俺の仕事部屋はリビングに代わった。

持ち帰ってきた仕事は、美桜が見える所じゃないと集中出来なくなった。

学校の課題をしている美桜と同じテーブルで仕事をする俺。

出来る限り同じ空間で同じ時を過ごしたい。

そう思うようになってから、この部屋は物置部屋と化していた。

その部屋のドアを開いて俺は絶句した。

『……!?』

部屋の入り口で固まっている俺にパタパタと足音が近付いてくる。

その足音に俺は尋ねた。

『どれを持って行くんだ?』

『えっ?どれって……全部だけど』

『……全部……』

『あんまり多いと持って行くのが大変だから、これに入るだけにしようと思ったんだけど……』

『……』

『持って行きたいのに、入らない荷物がまだあるの』

そう言って美桜は部屋の奥を指差した。

そこには、いろんなモノが山積みになっていた。

『なぁ、美桜』

『うん?』

『俺、言ったよな?』

『何を?』

『「荷物は必要最低限でいい」って……』

『うん。だから、少なく纏めようとしてるんだけど……』

『……』

……少なく?

日本語間違ってねぇーか?

これって少ないのか?

……。

……。

いや……どう考えても少なくはねぇーだろ。

しかも、全然纏まってねぇーし……。

俺は美桜が『少なく纏めた』と言う荷物に近付いた。

部屋の中央に置かれた3つのキャリーケース。

これってどう見てもLサイズだよな?

その傍には、キャリーケースに入りきれなかったらしい荷物が入ったトラベルバックが2つ。

それにさえ収まりきれなかったらしい荷物が山積みにされている。

……美桜が女だからか?

男の俺とは違って必要なモノが多いのかもしれない。

……それにしても多くねぇーか?

『美桜』

『うん?』

『ちょっとこっちに来い』

『……?』

部屋の入り口で不思議そうな顔をしながらも美桜は俺に近付いてきて、隣に腰を下ろした。

『これ、開けてもいいか?』

『うん!!どうぞ!!』

笑顔で頷いた美桜を確認してから、俺は一番端にあったキャリーケースを開けた。

『……美桜……』

『なに?』

『これは必要か?』

『うん。これが無いと眠れないかもしれない』

『……でも、お前は寝る時、俺の腕枕で寝るよな?』

『うん!!』

『だったら、必要ねぇーだろ?』

『……』

『……』

『そうだね』

しばらく、考えた後、満面の笑みを浮かべた美桜。

旅行に枕を持って行こうという発想は、一体どこから出たんだ?

俺はキャリーケースに堂々と入っていた枕を取り出した。

……それが始まりだった……。

次々と出てくるいろいろなモノ。

『これは必要なのか?』

『うん!!かなり必要!!』

『……そうか。なら、浮き輪かビーチボールかどちらか一つにしような』

『え~!!』

『他の奴も持ってくるんだから、貸して貰えばいいだろ?』

『……』

『どっちにする?』

『……浮き輪……』

『よし』

俺は、キャリーケースからビーチボールを取り出した。

次は……。

でかっ!!

『……美桜、シャンプーはホテルに置いてあるぞ』

『えっ?そうなの?』

『あぁ、てか、なんでわざわざこんなデカいのを準備したんだ?』

美桜が準備していたのは、家で普通に使うサイズのデカいボトル。

シャンプーにコンディショナーにボディソープ、丁寧にトリートメントまで……。

『一週間分プラス海やプールに入った後を考えたらこの位が妥当かなと思って』

……全然妥当じゃねぇーだろ……。

『ホテルにあるからこれは要らないな?』

『うん!!』

別に、『これじゃないとダメ!!』というこだわりも無いようなのでキャリーケースから取り出されたデカいボトル達。

……次は……。

俺は隣に置いてあるキャリーケースを開けた。

……!!

『……美桜、このケースの中に入っているものは全部置いていけ……』

『えっ!?全部?』

『あぁ、全部だ。』

二つ目のキャリーケースはまるで小さな子供のおもちゃ箱のようだった……。

トランプやUNOなどのカードゲームが数種類に一体どこで手に入れたんだ?というようなオセロや将棋まで……。

その中でも一番場所を占領していたのは、俺がゲーセンで取ってやった、ちょと間抜け面のクマのぬいぐるみだった。

『このぬいぐるみはなんで持って行こうと思ったんだ?』

『へっ?そこに隙間が出来てたから、何となく入れてみたらピッタリだったの』

『……』

『……』

呆然と言葉を失った俺と、そんな俺をニコニコと笑顔で見つめる美桜。

『……これは、全部置いていこうな?』

『……はい』

キャリーケースは残り一個。

次は、一体何が出てくるんだ?

俺は恐る恐る最後のキャリーケースに手を伸ばした。

中を覗き込んで……。

『……』

これは、普通だよな?

着替えに水着に下着、そして化粧品が入ったポーチ。

旅行用の荷物らしい中身に俺は胸を撫で下ろした。

それから、美桜を宥めたり説得したりしながら荷物をキャリーケース一個とトラベルバック一個に纏めた。

『蓮さん、すごい!!』

なんとか最小限に纏めた荷物を見て、美桜が感動していた。

時計に視線を向けると2時間も経っていた。

ついでに、自分の準備も終わらせようと思った俺は美桜が持って行こうとしていたキャリーケースに必要なモノを詰めた。

所要時間は30分。

……やっぱり、旅行の準備なんてこんなものだよな。

俺は軽い疲労感を感じながらタバコに火を点けた。

並んだ2つのキャリーケースと1つのトラベルバック。

それらの存在感に新鮮さを感じる。

『蓮さん』

『ん?』

『楽しみだね』

穏やかな笑みを浮かべた美桜。

『あぁ』

ガキの頃から何度も行った事のあるこの旅行。

いつもは、やたらと色々な視線に晒される俺達が人の目を一切気にする事なく、自由にバカ騒ぎ出来るからそれなりに楽しかった旅行。

それでも、自ら「旅行に行きたい」と思った事はなかった。

まだ美桜に片想いをしていた頃は、正直行きたくなかった。

繁華街を離れる事に大きな不安もあった。

だからって何かしらの理由を付けて参加しない訳にもいかない。

その頃の想いがある分、今年は美桜も一緒に行けるという事が言葉では言い表せないくらい嬉しい。

俺は、タバコを灰皿で押し消し、隣にいる美桜の背中に手を廻した。

そして、美桜の肩に頭を預けた。

『蓮さん?どうしたの?疲れちゃった?』

美桜の小さな手が俺の頭をゆっくりと撫でる。

『……本当は……』

『うん?』

『お前が旅行に行かなくて暴れるのは、親父だけじゃない』

『えっ?』

『……多分、親父以上に俺が暴れる』

美桜の前ではいつも強くありたいと思う俺が美桜にこんな事を告げたのは、あの頃の自分を思い出したからかもしれない。『蓮さんとお父さんが暴れたらせっかくの旅行が台無しになっちゃうね』

美桜がクスクスと笑っている。

『……だな。美桜が参加してくれて良かった』

『なんか、責任重大だね』

『あぁ』

『……蓮さん、ありがとう』

『ん?』

『私を“家族旅行”に連れて行ってくれて』

美桜の声が微かに震えていた。

俺は、背中に廻している腕に力を込めた。

◆◆◆◆◆

「お待たせ!!」

勢い良く開いたリビングのドア。

俺は、声がしたほうに視線を向けた。

そこには、リゾートバージョンの美桜が立っていた。

いつもは、ミニのワンピースを着る事が多いのに、今日は足首まで隠れるワンピース。

長い栗色の髪は、頭のてっぺんで団子みたいに纏められている。

髪を上げている所為で俺と揃いの3つのピアスが輝いている。俺の目の前に立った美桜がスカートを少しだけ持ち上げクルクルとまわった。

スカートが空気を含み柔らかく揺れている。

俺は、クルクルとまわっている美桜の手首を捕らえて自分の方に引っ張った。

「きゃっ!!」

小さな声と共に膝の上に感じた重み。

甘い香りが俺の鼻を掠めた。

その香りも一緒に、俺は腕で包み込んだ。

その時、気が付いた。

美桜の頭のてっぺんにある2輪の小さな桜の花。

俺は人差し指の爪ほどの大きさの桜の花に触れてみた。

「可愛いな、これ」

「でしょ?この前、麗奈と交換したの。」

「交換?」

「そう、麗奈に進学祝いで向日葵のピンをプレゼントしたら、麗奈もこれを私の為に準備してくれたの」

「麗奈の“花”は高等部でも健在なのか?」

「もちろん。中等部の時よりもパワーアップしてるよ」

「そうか」

麗奈は美桜に初めて出来た親友。

中等部と同じく、高等部に進学してからも同じクラスになれた事を美桜はとても喜んでいた。

美桜と麗奈と海斗とアユム。

学校内ではいつも、何をするにも4人一緒らしい。

「お前によく似合ってる」

「そう、私もお気に入りなんだ」

「俺のお気に入りはこっちだけどな」

美桜の耳元で囁き、腕に力を込めた。

耳が弱点の美桜。

いつもは長い髪が邪魔をするけど、今日は無防備だ。

俺の腕の中にある美桜の身体がビクッと揺れた。

美桜の頬が赤く染まった。

困ったような照れたような表情が可愛くて、俺は美桜の唇を塞いだ。

◆◆◆◆◆

マンションを出たのは昼前だった。

今日、宿泊予定のホテルまでここから車で2時間強。

現地集合なので、それぞれがホテルに集まる。

集合時間なんて決まってねぇーし、今日の晩飯までにホテルに集まればいい事になっている。

……でも……

組のほとんどのヤツがホテルに到着しているはず……。

親父と綾さんは大のイベント好き。

なにかイベントあるって言うと、年甲斐もなく誰よりも張り切る2人。

多分、今日も朝から出掛けているはず。

下手したら、日が昇る前に家を出ているかもしれない。

組の人間はそんな2人の行動を把握している。

『親父と姐さんが出掛けているなら、俺達も……』

従順な組員達は早々にホテル目掛けて車をぶっ飛ばしているに違いない。

「美桜、途中で昼飯食っていこうな」

俺は助手席でニコニコとご機嫌な美桜に声を掛けた。

「うん!!」

「何が食いたい?」

「サラダ」

「それと?」

「……それだけ」

「あ?」

「あ……あとスープとか?」

俺の口からは溜め息が漏れた。

美桜はあんまり飯を食おうとしない。

出逢った頃に比べれば、なんとか三食まともに食うようになったけど……。

俺の目を盗んで、隙があれば食事を抜こうとする。

理由を尋ねても『面倒くさい』とか『最近、ちょっと太ったから』とか……。

飯を食うのに面倒くさいって言われても、いまいち理解してやれないし、

太ったって言っても1キロとか2キロとかの次元。

命に関わるくらい太ったって言うなら俺だって食事制限に協力してやる。

……てか、むしろ美桜はもう少し太った方がいいくらいだ。

どうせ、今日だって『ホテルのプールで水着を着る時にお腹がポッコリ出ちゃうから……』とか、そんな理由に違いねぇ。

……まさか……

また水着姿でアーピルしようとか企んでるんじゃねぇーだろうな?

……一体、誰にアピールするつもりなんだか……

……。

……。

……いや……。

……それって……。

ダメだろ?

「美桜」

「は……はい?」

「ホテルに着いたら、すぐにプールで遊ぶか?」

「そ……そうですね」

……間違いねぇ。

こいつが俺に敬語を使う時は動揺してる時だ。

美桜の企みは、なんとしてでも阻止しねぇーと……。

「じゃあ、ホテルに行く途中に美味い中華のバイキングの店があるんだ。昼飯はそこでいいか?」

「バ……バイキング!?」

「あぁ」

「……しかも中華……」

「ん?好きだったよな?中華」

「えっ!?う……うん」

「決定な?」

俺は美桜にニッコリと微笑み掛けた。

『キャンセルは受け付けねぇーぞ』という思いを込めて……。「……!!」

俺の心の声に気付いたのか美桜は一瞬、顔を引きつらせた後、諦めたように頷いた。

「……うん」

阻止成功。

俺が正面を向き直して、笑みを浮かべた事に美桜は気付いてなかった。

◆◆◆◆◆

「……苦しい……」

昼飯を食い終わり、店を出て駐車場に停めていた車の助手席に乗り込んだ美桜が腹を押さえている。

そんな美桜を見て、俺は密かに満足感と達成感を感じた。

美桜は自分の皿に載っているものは絶対に残さない。

それを知っている俺は、次から次に料理を皿に載せた。

「……蓮さん……」

「うん?」

「こんなに食べれないって……」

「頑張って食え。水の中で遊ぶんだからいっぱい食っとかないと体力が持たねぇーぞ」

「……」

結局、美桜は皿に載っていた料理を全部たいらげた。

デザートも含めて。

「もう、だめ……しばらく動けな。」

力無く、そう言った美桜に俺は吹き出してしまった。

「ホテルに着くまでゆっくりしてろ」

そんな美桜に手を伸ばし、頭のてっぺんにある団子を崩さないように撫でた。

「……うん」

小さく頷いた美桜が、頭の上にある俺の手を捕らえて、膝の上まで持っていき両手で握り締めた。

小さな手にも関わらずキュッと握る力は思った以上に強かった。

「美桜、どうした?」

「……お腹いっぱいになったら、なんだか眠くなってきちゃった……」

そう言った美桜の瞳は今にも瞼がくっ付きそうになっている。「着いたら起こすから、しばらく寝ておけ」

「うん」

小さく頷いた美桜が、瞳を閉じた。

それを確認してから、俺はエンジンを掛け、サイドブレーキを下ろし、車を発信した。

しばらくすると、美桜が両手で握っている俺の手に規則正しい呼吸のリズムが伝わってきた。

無防備で無邪気な美桜の寝顔。

何度も見た寝顔。

その寝顔は何度見ても飽きる事がない。

何時間でも見ていられる。

美桜が眠れるのはリラックスしている証拠。

『・・夢を見るの・・・』

あの日、俯いてそう言った美桜の悲しくて辛そうな声が今でも頭から離れない。

あの頃は眠る事を恐れていた。

深夜の繁華街に1人でいた理由もそこにあった。

今でもたまに夢を見る事がある。

体調が悪い時や不安が重なった時、美桜はあの夢を見る。

夢を見た翌日は夜ベッドに入る事も躊躇っている。

それを美桜は口に出さないけど、充分伝わってくる。

だから、俺は明るいリビングのソファで美桜を膝の上に載せ、その小さな身体を守るように抱きしめてずっと話し掛ける。

美桜が眠りに就くまで……。

俺は美桜に何もしてやれない。

真っ青な顔で震える美桜を抱きしめてやることしか出来ない。未だに背中に残る傷痕を撫でてやる事しか出来ない。

……できる事なら……。

あの夢を見せないようにしてやりたい。

美桜の中に残る辛い記憶を全て消してやりたい。

美桜が毎日、ただ楽しく笑っていられるようにしてやりたい。だけど、なに一つとしてそうしてやる事が出来ない。

もし、もっと早くに俺が美桜と出逢っていたら……。

俺は美桜に何かしてやれたのだろうか?

もし、もっと早くに俺が美桜と出逢っていたら……。

その小さな身体に永遠に残る傷痕を付けなくて済むように出来たのか?

もし、もっと早くに俺が美桜と出逢っていたら……。

俺は美桜の辛さを少しでも軽くしてやれたんだろうか?

過去に後悔が残っているから、現在を悩み、未来に躊躇ってしまう。

『俺も強くなるから、お前も強くなれ』

美桜に俺が言った言葉。

その言葉を守るように美桜は強くなって必死で前に進もうとしている。

そんな美桜の全てを包み込めるような強さが俺は欲しい。

前を見つめる視界の端に今日泊まるホテルが映った。

俺は、路肩に車を停車した。

ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを上げた。

車が停まっても開くことのない美桜の瞳。

乱れることなく刻む呼吸のリズム。

「……美桜」

呼び掛けても反応しないほどの熟睡っぷり。

昨日の夜、『楽しみで眠れない!!』と興奮気味だった美桜。

遠足前夜の小学生みたいでかなり笑えた。

結局、はしゃぎ過ぎて疲れ果てて眠ったのは時計の針が深夜を指す頃だった。

しかも今日だってケイタイのアラームがなる前に起きていた。朝起きるのは、なによりも苦手なはずなのに……。

「……思いっきり寝不足じゃねぇーか」

頬に触れてみても、額に掛かる前髪を掻き上げても美桜が起きる気配はない。

……もう少しだけ、寝かせてやるか……。

無防備な美桜の唇に触れるだけのキスを落として、俺はタバコをくわえた。

◆◆◆◆◆

「……美桜」

「……」

「美桜」

「……」

「美桜ちゃん」

「……」

「紺野さん」

「……」

「美桜」

「……」

……ダメだ。

全然、起きねぇ。

鼻を軽く摘んでみても、

頬を突っついてみても、

身体を揺すってみても、

美桜は全く起きない。

……こうなったら……。

俺は美桜の耳元で囁いた。

「眼薬点すぞ」

その瞬間、今まで何をしてもピクリともしなかった美桜が勢い良く飛び起きた。

「……無理!!」

美桜の目薬嫌いも未だに変わる事なく健在だ。

飛び起きた美桜は、引きつった表情で辺りを見渡している。

「おはよう、美桜」

「……おはよう……」

まだ寝呆けている美桜。

実は、こんな美桜をみるのも俺の楽しみの一つだったりする。「もうすぐ、着くぞ」

「……着く?」

今の美桜には状況が全く理解出来ていないらしい。

「あぁ、ホテルにもうすぐ着く」

「……ホテル……あっ!!そうだった!!」

……やっと起きたか。

「眠れたか?」

「うん、ぐっすり。今、着いたの?」

その質問に、時計に視線を移すと一時間近くが経っていた。

「あぁ、途中道が混んでた」

「そっか。ごめんね、蓮さん」

「ん?なにが?」

「私だけ眠っちゃってて……」

「別に謝る事じゃねぇーだろ。昨日もあんまり寝てねぇーんだ。今のうちに寝とかねぇーと思いっきり遊べねぇだろ?」

「……うん」

美桜が大きく頷いた。

そんな美桜を見てふと浮かんだ疑問。

俺は、まだ眠そうな瞳でバックからタバコを取り出した美桜に尋ねた。

「なぁ、美桜」

「うん?」

「お前、プールで泳げるのか?」

「うん!!いつもは泳げないけど今日は泳げる!!」

自信満々で言い放った美桜。

……。

いつもは泳げないけど、今日は泳げる?

……。

……。

どういう意味だ?

いつもは泳げねぇーなら、今日だって泳げねぇーんじゃねぇーか?

……まさか……。

まだ、寝ぼけてるとか?

その割にはなんでこんなに自信に満ち溢れた表情してんだ?

これは、もう少し寝かせるべきか?

「いつもは泳げねぇーんだろ?」

「うん」

「じゃあ、何で今日は泳げるんだ?」

「ん?今日は持ってきてるから」

「持ってきてる?なにを?」

「浮き輪!!」

……なるほどな……。

そう言えば、昨日ビーチボールと浮き輪をどっちかしか持っていけないって言ったら、迷う事なく浮き輪を選んでたな。

「だから、今日は泳げるの」

瞳を輝かせて自信満々の美桜。

……。

……それって、泳げるっていうよりも、プカプカ浮いてるだけだろ……。

それも浮き輪の力を借りて……。

ツッコミどころ満載だけど口には出せない。

これだけ得意気な美桜には言えるはずがない。

浮き輪に必死で掴まってプールに浮いている美桜が簡単に想像出来る。

そんな美桜を見てみたい気もする。

「行くか」

「うん!!」

俺は車を動かした。

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