◆旅行①◆
鬱陶しい梅雨ももうすぐ終わりを告げようとしている7月の初旬。
朝から降っていた雨が上がり雲の隙間から青空が見える。
雨で濡れているアスファルトが久々に顔を出した太陽に照らされて輝いていた。
「今年の旅行は盆前に一週間ぐらいで予定してるけど、大丈夫か?」
商談という名目の昼食会の帰りの車内。
今日は“組長”という肩書きではなく“社長”という肩書きを背負った親父が俺の隣でタバコに火を点けながら尋ねた。
「あぁ」
俺は窓の外を眺めながら答えた。
毎年、恒例となっている組員全員参加の旅行。
親父が組長を務めているウチの組。
繁華街をはじめこの街はもちろん県内でもその勢力は衰える事を知らない。
組織と言えば世間の風当たりも冷たく国家権力さえも敵。
今の時代そんな中でしのぎを削って金を稼ぐ事は大変な事。
そういう状況下で組を支えているのは親父や俺ではなく組員達。
『組の人間は家族同然の存在。幹部はもちろん末端の人間もだ』
ガキの頃から親父は俺にそう言い聞かせてきた。
だから俺も当然のようにその教えを学んだ。
トップの人間は下の人間を何があっても守る義務がある。
組に所属している人間はもちろんそいつらが大切にしている人間も含めてだ。
親父もこの教えをじいちゃんから叩き込まれたらしい。
じいちゃんはひいじいちゃんから……。
そうやって代々引き継がれてきた教えは組織のトップである組長という立場の人間が守り続けてきた。
今回の旅行はそんな組員達に日頃の感謝の気持ちを示すもの。
この行事も先代の頃から引き継がれている行事の一つ。
毎年、参加者は200人を越す。
組員はもちろん、その嫁さんや子供、結婚していない奴は彼女を連れて行く事が条件になっている。
日頃、組織内には厳しい上下関係が存在する事も事実。
でも、この期間中は無礼講で大騒ぎをする。
「行き先はいつもの所だろ?」
俺もポケットからタバコを取り出した。
「あぁ」
親父が煙を吐き出しながら答えた。
旅行の行き先は決まっていて毎年同じ。
親父が知り合いと共同で出資している避暑地のホテル。
そこを借り切って連日連夜大騒ぎをする。
まぁ、これだけの人数で、しかも俺達が泊まれる場所なんて限られている。
「参加するよな?」
短くなったタバコを灰皿に押し付けている親父。
「当たり前だ。去年も参加してねぇーんだ、今年は俺がいねぇーと始まらねぇーだろ?」
「……お前の話じゃない」
「はぁ?」
「お前が参加するのかしないのかはさほど重要じゃない」
「……」
「重要なのは美桜さんが今年の旅行に参加するのかどうかだ」
……一応、俺は組で“若頭”の肩書きを持っている。
若頭って言えば、組のNo.2だったはず。
No.2って事は次期組長襲名の最優力候補なのに……。
組の行事である旅行に俺の存在はあってもなくてもさほど困らないらしい。
「……もしかして……」
親父が暗い声を出した。
声だけじゃない。
表情まで暗くなっている。
「……んだよ?」
「美桜さんは行かないのか?」
「どうだろうな?」
「あ?」
「俺が行かねぇーなら美桜も行かねぇだろうな」
「は?お前は行かないのか?」
「別に俺は行っても行かなくてもさほど困らねぇんだろ?」
「……」
「……」
「……蓮」
「ん?」
「今年、お前は強制参加だ」
「あ?」
……さっきと全然、話が違うじゃねぇーか……。
「もし、参加しないなら旅行の期間中は山ほど仕事を残して行くぞ。それから、これは父親として話しているんじゃない。組長として話しているんだ」
ニッコリと笑みを浮かべた親父。
……でも、眼が全然笑ってねぇ……。
どうやら、俺は脅されてるらしい。
組長が組員を脅してんじゃねぇーよ。
俺の口からは溜め息が漏れた。
……親父は美桜の事が可愛くて仕方がないらしい……。
初めて美桜を親父と綾さんに会わせてからもうすぐ一年。
あの日、美桜は顔を真っ青にして緊張していた。
何をどう考えたのかは未だに分からねぇーけど『私は組長に殺されたりするの!?』とかなりの勢いで動揺していた。
顔を合わせる度に機関銃の如く話し掛けてくる綾さんとはすぐに打ち解けることが出来た。
でも、親父に慣れるまでには多少の時間を要した。
あの頃は、親父に挨拶をする美桜の顔が微妙に引き攣っていた。
親父もそんな美桜に気を使って適度な距離を置いていた。
そんな美桜と親父。
一年近くが経った最近ではいろいろと話すようになってきた。『お父さん』
親父の事を“組長”と呼んでいた美桜がある日を境に“お父さん”と呼ぶようになった。
もちろん面と向かって“組長”なんて呼んでいたわけじゃない。
俺との会話の時限定の呼び名。
美桜が親父に何かを話掛ける事なんて滅多になかったし、もしそういう場面があったら『……あの……』と恐る恐る声を掛けていた。
『……お父さん……』
初めて美桜にそう呼ばれた日、親父は一瞬驚いた表情を浮かべた。
でも、それはほんの一瞬の事だった。
次の瞬間、親父は嬉しそうに顔を崩した。
照れくさそうに頭を掻きながら……。
その日から親父の美桜に対する溺愛っぷりは加速するばかり……。
『娘って可愛いなぁ』なんてほざいてみたり、挙句の果てには、実の息子の俺に『どうしてお前は娘に生まれて来なかったんだ?』なんて意味不明な質問までしてくる始末。
しかも、美桜が家に遊びに来る日は外での仕事を入れないようにしていることも俺は知っている。
「……他の奴が遊んでる時に、俺だけ仕事なんてやってられっかよ……」
「じゃあ、参加決定だな」
顔を見なくても分かる親父の嬉しそうな声。
そんな親父に苦笑してしまった。
◆◆◆◆◆
その日、仕事を終えた俺は、いつもと同じように聖鈴に車を走らせた。
走り慣れた道を通り、聖鈴に到着した俺は定位置に車を停めた。
窓を少し開け、取り出したタバコに火を点ける。
窓の外には下校中の生徒達。
ふと昇降口に視線を向けると、小走りにこっちに駆けてくる見慣れた人影。
長い髪が久々に顔を出した陽に照らされて栗色に輝いている。自分の顔が綻ぶのが分かる。
まっすぐに車に向かって駆けてくる美桜。
昇降口から車まで数十秒。
そのたった数十秒でさえもどかしく感じて、俺は指に挟んでいたタバコを灰皿に預けて車を降りた。
ドアを後ろ手に閉めた瞬間、胸に感じる少しの衝撃と温もり。俺は迷う事無くその小さな背中に腕を廻した。
「おかえり」
「蓮さん、ただいま!!」
胸に埋めていた顔を上げて、美桜がニッコリと笑った。
その笑顔は離れている時間に感じた不安を取り除いてくれる。
付き合い始めてもうすぐ一年。
でも、俺の不安は無くなる事がない。
美桜は、俺の肩書きや過去を全て受け入れてくれている。
俺の周りじゃなくて俺自身を見てくれている。
俺が美桜を必要としているように美桜も俺を必要としてくれる。
不安になる必要なんて何もないはず……。
……でも……。
俺の不安は無くならない。
……いつか美桜が俺の前から消えてしまうかもしれない……。
美桜の事を知れば知るほど。
好きになればなるほど。
愛すれば愛するほど。
美桜が俺にとって大切な存在になればなるほど。
失う事が怖くなる。
今まで怖いものなんて一つも無かった。
美桜と出逢って初めて自分が弱い人間だと知った。
美桜に話し掛ける男を全員殴り倒してしまいてぇー衝動を必死で抑えている俺は独占欲の強い人間だと初めて知った。
俺は、弱くて独占欲の強いちっぽけな男。
そんな俺が美桜の傍にいていいのだろうか。
その想いが俺の不安を一層大きくする。
「……蓮さん?」
「うん?」
「どうしたの?」
「……いや……帰るか?」
「うん!!」
俺は助手席のドアを開けた。
そこに迷う事無く乗り込む美桜。
微かに残る不安感を振り払うように俺はドアを閉めた。
「久しぶりの青空だね」
助手席で話す美桜の声が弾んでいる。
「そうだな」
「うん!!」
窓の外を嬉しそうに眺めている美桜。
「ドライブでもするか?」
「うん!!」
美桜の顔が輝いたのを確認した俺はハンドルを切って行き先を変えた。
繁華街を抜けて、車を走らせる。
俺の隣では、美桜がご機嫌で車内に流れる歌を口ずさんでいる。
「なぁ、美桜」
「ん?」
「旅行、行くか?」
「旅行?」
「あぁ」
「いつ?」
「盆前」
「何日ぐらい?」
「多分、一週間ぐらい」
「いっ……一週間!?」
「あぁ」
なんで、こんなにびっくりしてんだ?
「私と蓮さん、2人で行くの?」
「いや、2人じゃねぇーな。200人ぐらいになるんじゃねぇーか?」
「……はい!?」
「……?」
「……大変だ……」
「あ?」
「蓮さん、大変!!」
「何が?」
「耳がおかしくなったみたい!!」
「耳が?おかしい?」
「今、200人で旅行に行くって聞こえたの!!200人で旅行なんて行ける訳ないのに……」
「……いや……そう言ったんだけど……」
「は?」
「組の旅行だからどう見積もってもその位の人数になる」
「……」
「その人数も最低の人数だ。だから、それ以上になるかもしれない」
「……組の旅行……」
「あぁ、そうだ」
「それってこの前、楓さんのお店で話してた旅行?」
「覚えてるのか?」
「……えっ?覚えてるけど?」
前を見ていても感じる視線。
チラッと視線を向けると不思議そうに首を傾げた美桜が俺を見つめている。
その表情が『どうして、そんな事を聞くの?』と尋ねている。「あの時、結構飲んでたから、酔ってて覚えてねぇーかと思ってた。」
「……けない……」
小さな声で美桜が何かを呟いた。
……?
なんて言ったんだ?
「うん?」
俺はハンドルを操りながら美桜に視線を向けた。
「忘れられる訳ないじゃん!!」
「は?」
「あの旅行の話、酔ってても絶対に忘れたり出来ない。むしろ、あの話を聞いて酔いなんかすっぱり醒めちゃったし!!」
「そ……そうなのか?」
「うん!!」
何故か自信満々で言い放った美桜。
……微妙に鼻の穴が膨らんでねぇーか?
「……でも……」
「……?」
「あの時の話では、参加者は100人くらいって言ってなかった?」
「あぁ」
「なんかかなり増えてるような気がするんだけど……」
「旅行に行くのは組員だけじゃねぇーんだ」
「……?」
「そいつらの彼女や家族とかも参加する」
「彼女さんや家族さんも?」
「あぁ。今回の旅行は組の人間に日頃の感謝の気持ちを示す旅行なんだ。その組員を支えてくれているのはその家族や彼女だ。だから、みんなで一緒に行く」
「そうなんだ」
「あぁ」
「なんか、修学旅行みたいだね」
「修学旅行っていうより家族旅行だな」
「家族旅行?」
「他の組は分からねぇーけど、ウチの組はでけぇ家族みたいなもんだ。組員の大切な存在も含めてな。だから修学旅行じゃなくて家族旅行だ」
「……なんか……」
「……?」
「そういうのって温かいね」
「温かい?」
「うん、そういう関係って温かくて羨ましい」
まっすぐに前を見つめている美桜の茶色の瞳が寂しそうに揺れている。
「羨ましいのか?」
「……うん」
「そうか……でもな、その感情は間違ってる」
「えっ?」
「行くだろ?」
「……行くって……旅行に!?私が!?」
「他に誰がいるんだ?」
「……行ってもいいの?」
「当たり前だ」
「本当に私が行ってもいいの?」
「行ってもいい?じゃなくてお前が行かないと落ち込むヤツがいる」
「落ち込む?」
「いや、落ち込むくらいじゃ済まねぇーな。もしかしたら、暴れるかもしれねぇーな」
「……!?」
「残念ながらそいつが本気でキレたら止めれるヤツなんていねぇーし」
「……」
「被害者続出だな」
「……蓮さん……」
「うん?」
「それ、誰の話?」
「親父」
「お父さん!?」
美桜が驚いたように瞳を丸くしている。
「親父はお前と一緒に旅行に行く事を楽しみにしている」
俺の言葉に美桜は嬉しそうに表情を崩した。
「……行きたい!!」
「良かった。これで被害者が出なくて済む」
美桜が楽しそうに笑った。
……瞳に涙を浮かべて……。
美桜は家族の温もりを知らない。
だから、少しでもその温もりを知って欲しい。
これから、ゆっくりと時間を掛けて。
俺がそれを教えてやる。
俺の中で小さな決意が湧き上がった。
「どこに行くの?」
嬉しそうに顔を輝かせた美桜が俺の顔を覗き込んでくる。
「避暑地のホテル」
「200人以上も泊まれるの?」
「貸し切りだから大丈夫だ。一般客はいねぇーから大騒ぎ出来るぞ」
「そうなんだ」
「プールもあるしホテル所有のプライベートビーチもる。」
「じゃあ、水着持っていかないとね」
「水着は必需品だな」
「だよね!……あっ!!」
「どうした?」
「……やっぱり水着は地味で目立たない系限定?」
「……」
「ち……違うの!!去年、蓮さんに買って貰った可愛い系の水着を着たいとか思ってませんから!!」
「……思ってんだな?」
「……!!」
相変わらず美桜は嘘がつけないらしい。
動揺した時に出る癖も健在だ。
「……両方持っていったらいい」
「両方?」
「一週間もホテルにいるんだ。2人で遊べる時間も充分ある。2人の時は、好きな水着を着たらいい」
「うん!!」
別に、美桜に可愛い水着を着せる事が嫌なんじゃない。
可愛い水着を着た美桜を他の男に見せるのが嫌なだけ。
だから、他に人がいないなら美桜が水着を着ても問題はない。むしろ大歓迎だ。
楽しみが一つ増えた。
「……そう言えば……」
「どうした?」
「マサトさんは彼女さんいるの?」
「彼女はいねぇーな」
「そうなんだ。」
美桜はガックリと肩を落とした。
……?
なんだ?
なんで、マサトに彼女がいねぇーからって美桜が落ち込むんだ?
「じゃあ、夜は3人でトランプとかゲームとかしようね。」
「あ?無理」
「えっ!?」
「……」
「……蓮さん、酷い……」
……ひどい……。
……ひどい?
……酷い?
俺が酷い!?
「は!?なんで!?」
「……蓮さんとマサトさんは仲良しだと思ってた……」
「確かに仲は悪くねぇーな」
「じゃあ、なんで?」
「何が?」
「夜、マサトさんが寂しいじゃない!!」
「別に寂しくはねぇーだろ」
「は?」
「あ?」
「せっかくの旅行なのに夜、ホテルの部屋で1人で過ごすなんて寂しいに決まってるじゃん!!」
「……1人じゃねぇーよ。マサトは嫁さんを連れてくる。ホテルの部屋も嫁さんと一緒だ」
「……嫁さん?」
「あぁ」
「嫁さんって奥さん?」
「あぁ」
「奥さんってマサトさんの奥さん?」
「……他人の嫁さんだったら大問題だよな?」
「そうだね。大問題だね……って違う!!」
美桜が俺の腕を掴んだ。
それは、触れるとかの次元じゃなくて勢いと力が込められていた。
「……!?」
その勢いの所為で、ハンドルは大きく動き、車体の進行方向が変わった。
俺は慌ててハンドルを戻しブレーキを踏んだ。
急ブレーキを踏んだせいでタイヤの軋む大きな音と共に車体は路肩で停まった。
大きな衝撃は無かったものの助手席の美桜の身体はシートの上で跳ねた。
無意識のうちに俺は左手で美桜の身体を抑えていた。
……危ねぇ……。
無事、車が停車した事に俺は胸を撫で下ろした。
でも、それは一瞬の事だった。
美桜の身体を守る為に差し出した左手。
その左手にしがみついている美桜。
その小さな手が微かに震えている。
「美桜、大丈夫か?痛ぇーとこはないか?」
俺は右手で持っていたハンドルから手を離し、俯いている美桜の顔を覗き込んだ。
「……してるの……」
美桜が弱々しい声を発した。
やべぇ。
どこか痛いとか?
さっき俺が急ブレーキを踏んだ時に打ったのか?
俺は全身から血の気が引いていくような感覚を感じた。
……とりあえず、病院へ……。
軽くパニック状態の頭を必死で動かし一番近い病院を思い出す。
……そうだ!!
確か、この近くに救急病院があったはずだ。
連絡……してる暇なんてねぇーな。
俯いたまま動かない美桜を見て、俺の心臓は動きを速める。
「美桜、病院に行こうな……」
頭を撫でようとした右手を美桜が勢い良く掴んだ。
なんだ!?
この期に及んで、また『病院はイヤ!!』とか言い出すんじゃねぇーだろうな?
美桜の病院と薬嫌いは半端じゃねぇ。
……だが、今はそんな事を言っている場合じゃない。
美桜が嫌がっても連れて行くしかない。
「美桜……」
再び顔を覗き込んだ瞬間、美桜が言った。
「マサトさんって結婚してるの?」
「・・は?」
俺の顔をまっすぐな視線で見つめている美桜。
……どこか痛いんじゃねぇーのか?
てか、なんで今、その話なんだ?
……まさか……。
「なぁ、美桜。どこか痛くねぇーか?」
「へ?全然」
……やっぱり……。
俺の口から溜め息が漏れた。
その溜め息は、美桜が無事だった大きな安堵感とこの状況にも関わらず少し思考がズレている美桜の神経の図太さに対する感心だった。
俺は、少し落ち着こうとタバコを取り出し火を点けた。
吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出してから尋ねた。
「マサトがどうしたって?」
「マサトさん、結婚してるの?」
「あぁ。言ってなかったか?」
「聞いてない!!」
「そうだったか?」
俺は記憶を辿った。
……。
……。
確かに言ってねぇーかも。
この様子じゃマサトからも……聞いてねぇーよな。
……しくじった……。
もっと早く話しておけば良かった。
どうせなら、マサトが一緒の時に……。
『今度、マサトがいる時に詳しく話してやる』って言って美桜は納得してくれねぇーかな。
至近距離にある美桜の顔。
下から見上げている瞳は真剣そのもので、頬が膨らんでいる。
……。
……。
無理だな。
美桜は俺が話すまで視線すら逸らそうとはしないはず……。
しかも、時間が経てば経つほど頬が膨らんでいるような気がする。
このままだと美桜が本気で不機嫌になるのも時間の問題だ。
……仕方がない。
……マサト、すまない……。
俺は心の中でマサトに謝った。
本来なら、こういう話はマサトがいる時にするもの。
……だけど、美桜に軽く睨まれた俺が上手く話を誤魔化す事なんて出来るはずもなく……。
「……マサトは結婚している」
呆気なく事実を吐いてしまった。
「……結婚……」
「……。」
「……マサトさんが……」
「……」
「……」
俺から美桜が視線を逸らす事もなく。
俺を見つめる瞳が丸みを帯び大きく開いていく。
堅く閉じていた口が開き、膨らんでいた頬からは空気が抜けた。
パクパクと動く唇。
金魚みてぇーだな、こいつ……。
「……美桜?」
「……」
「あんまり瞳を開くと目玉が落ちるぞ。」
「……」
「おい」
「……」
目の前で手を振ってみても全く反応なし。
「美桜」
「……」
柔らかい頬を指で突っついても反応なし。
一体どこまでトリップしてんだ?
……こうなったら……。
俺は、美桜の胸に手を伸ばした。
掌に感じる感触。
……ん?
また、デカくなってねぇーか?
去年、買った水着は着れるのか?
そう思いながら軽く指を動かした瞬間、美桜が動いた。
俺の顔を見つめていた視線が下に下がった。
そのまま、自分の胸に視線を向けた美桜。
自分の胸の上にある俺の手をまじまじと見つめている。
……やっと帰ってきたか。
そろそろ、手を退けた方がいいか?
「……いつ……」
美桜が小さな声で何かを呟いた。
「うん?」
その言葉が聞き取れなかった俺はもう一度聞き直そうと美桜の顔に耳を近付けた。
「マサトさん、いつ結婚したの!?」
美桜が叫んだ。
車内に響き渡った美桜の声。
もし、俺が後部座席にいたとしても充分過ぎるくらいに聞こえる声だった。
……その声を俺は至近距離で聞いてしまった……。
「……!?」
俺は、咄嗟に美桜に近付けていた左耳に左手の人差し指を突っ込んでいた。
耳の奥で軽く耳鳴りがしている。
……もしかして……。
俺が、胸を触っていたから嫌がらせか?
これは、計画的犯行なのか?
「ねぇ、蓮さん!!マサトさんはいつ結婚したの!?」
……どうやら、美桜は俺に胸を触られている事より、マサトがいつ結婚したのかが気になるらしい……。
気にするとこ、間違ってねぇーか?
「マサトが結婚したのは、ウチの事務所に入った頃だ」
「そんなに早く!?」
「あぁ」
「……そうなんだ。奥さんはどんな人?」
「どんな人?・・一言で言ったら、小さい女だな」
「小さい?それは、何が小さいの?……もしかして、身長とか?」
「あぁ。マサトと並んだらかなり小さく見える」
「そっか~」
美桜が嬉しそうに笑った。
多分、美桜は自分の身長が低い事を気にしているから、マサトの嫁さんに親近感を感じているんだろう。
……分かり易いヤツ……。
そんな美桜に笑いが込み上げてくる。
「会ってみたいな」
「マサトの嫁さんか?」
「うん!!」
「もうすぐ会えるだろ?」
「えっ?」
美桜は不思議そうな表情で首を傾げている。
「お前も旅行に行くんだろ?」
「あっ!!そうだった!!」
嬉しそうに笑った美桜。
その笑顔は、雲の隙間から顔を出した太陽のように眩しく輝いていた。
「ところで、お前はいつ気付くんだ?」
「は?」
全く気付いていない美桜。
「俺はこのままの方がいいけど。」
俺は、美桜の顔から視線を下に落とした。
「……?」
俺の視線を辿るように視線を下ろした美桜が・・・。
「……!!蓮さん!?」
再び、でけぇ声を出した。
この反応からして、美桜は全く気付いていなかったらしい。
俺の右手の存在に。
普通、すぐに気付くだろ?
どんだけ、鈍いんだよ?
……いや、鈍くはねぇーよな……。
「蓮さん!!胸に手が当たってる!!」
……の状況で当たってる方が不自然じゃねぇーか?
「当たってるんじゃなくて触ってんだ」
「……!!」
美桜の顔が真っ赤に染まっていく。
その表情に、我慢の限界に達した俺は吹き出した。
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