◆強さ◆

弱くて儚い女だと思っていた。

これから先ずっと俺が守っていかないといけないと思っていた。だけどその想いは翌日には覆されていた。

美桜は辛く悲しい過去の全てを話した後、俺の腕の中で眠りに落ちた。

頬には涙の跡を残して。

しばらくその寝顔を眺めてから俺は美桜をベッドに運んだ。

ベッドに寝かせても起きない美桜を抱きしめて俺も眠りに就いた。

昨日も寝てねぇーし、今日も海で遊んだ俺は隣にいる美桜の存在を感じながらすぐに眠りに落ちた。

目が覚める度に美桜が隣にいる事が夢じゃない事を何度も確認した。

美桜が寝返りを打つ度にどこかに行ってしまうような気がして自分の身体に引き寄せ抱きしめる腕に力を込めた。

大きな喜びと小さな不安を抱えた俺は美桜より先に目が覚めた。

隣でスヤスヤと眠る美桜の顔を眺めていると、サイドテーブルの上にあるケイタイが振動と低い音を響かせた。

ケイタイを手に取り液晶を見ると“マサト”の文字。

美桜が眠っている事を確認してベッドを出た。

寝室からリビングに移りソファに座ってタバコに火を点けた。ケイタイの通話ボタンを押し耳に当てる。

『おはようございます』

すぐに聞こえて来たマサトの声。

その話し方で今、マサトが事務所にいる事が分かる。

「おはよう。なんかあったのか?」

『いいえ、昨日頼まれた件ですが……』

「あぁ」

『一週間以内には全て終わりそうです』

「そうか、分かった」

『……それから……』

突然マサトの声が小さくなった。

「うん?」

『親父にはちょっと体調が悪いって伝えてますから』

誰よりも人に対する気遣いが出来るマサト。

その行動にはいつも感心する。

美桜がここにいる事を知っているマサトは俺が事務所に行かなくてもいいように既に動いてくれていた。

「ありがとう、助かった」

『いいえ、たまにはゆっくりしてください。何かあったらすぐに連絡を入れますから』

マサトはそう言って電話を切った。

タバコを灰皿で揉み消してから、俺は寝室のドアを開けた。

さっきと同じ体勢で眠っている美桜は熟睡中らしい。

音を立てないようにベッドに近付いて美桜の顔に掛かっている髪を除けた。

吸い込まれるように頬に唇を寄せた。

透き通るように白い肌はとても柔らかかった。

栗色の髪を撫でながら額にも口付け俺は再び寝室を出た。

無邪気な寝顔で無防備な美桜の傍にいると男の俺は相当の忍耐力が必要だって事に気付いた。

油断すると理性が吹っ飛びそうになる。

寝室を出た俺はバスルームに向かった。

平常心を取り戻すように昨日の夜と同じようにシャワーの温度を下げる。

そのお陰で頭の中がスッキリした。

美桜が起きたら今日は何をすっかな……。

ここに住むなら必要なモノを揃えねぇーとな。

買い物にでも行くか。

そんな事を考えながらシャワーを浴び終えた。

脱衣場で身体を拭いて、その後いつもの癖で上半身は何も身に着けなかった。

元々が暑がりだから、家に居る時はそれが普通だった。

一人暮らしだから誰にも気を使う必要が無かった。

昨日の夜はしっかりとTシャツを着ていたのに、その時は今日の予定を考えた所為で浮かれていたのかもしれない。

いつもと同じようにハーパンを穿いた俺はドア側に背中を向けて髪をタオルで拭いていた。

美桜が起きたらまずは飯を食わせねぇーとな。

近所の喫茶店にでも連れて行くか。

……てか、アイツは寝起きはいいのか?

その時、真後ろで音がした。

ドアが開く音。

「……蓮さん……」

その声に自分の顔が緩むのを感じた。

声がした方に視線を移すと美桜が立っていた。

「目、覚めたのか?美桜」

「……」

「お前も、シャワー浴びるか?」

「……」

「美桜?」

「……」

美桜はその場に立ったままボンヤリと俺を見つめていた。

呼び掛けても口を開こうとしない。

……寝ぼけてんのか?

「どうした、美桜?」

「……蓮さん……背中……」

「背中?」

その言葉でやっと美桜が固まっている理由が分かった。

すっかり忘れていた。

自分の背中に在るモノの存在を……。

美桜にはきちんと話したかった。

有耶無耶にして誤魔化せる問題じゃない。

美桜に理解して受け入れて貰わないといけない事。

だからこそ様子を見て、美桜が落ち着いたら話そうと思っていた。

俺の仕事の事も、過去の事も、ケン達の事も、背中のこの刺青の事も……。

……順番が狂ったな……。

今更、自分のいつもの習慣を悔やんでも遅い。

俺は固まっている美桜の腕をつかんでリビングに向かった。

ソファに腰を下ろした俺はタバコに火を点けた。

「……話そうと思ってたんだ」

「……」

「別に隠そうと思ってた訳じゃない」

「……。」

「俺、極道なんだ」

「そう」

美桜の声は小さかったけどハッキリとそう呟いた。

そう言ったきり何も言わない。

俺に失望する言葉も驚きの言葉も興味本位な言葉も発しない。

……まさか……。

泣いたりしてねぇーよな?

恐る恐る美桜に視線を向けて見た。

そして、俺は絶句した。

いつの間にかテーブルの上に置いていた俺のタバコをくわえて火を点けていた美桜が満足そうな表情で煙を吐き出している。

……なんでだ?

なんでコイツは優雅にタバコをふかしてんだ?

しかも、なんで満足そうな表情してんだよ?

ここは、深刻そうな表情をするとこじゃねぇーのか?

そんな俺の視線に気付いたらしい美桜がタバコを指で挟んだまま顔を動かした。

「……?」

俺の顔を見た美桜は不思議そうに首を傾げている。

しばらく俺の顔を見つめて何かを考えていた美桜がハッとしたように口を開いた。

「ごめんなさい!!蓮さんのタバコ勝手に吸っちゃって……」

は?

タバコ?

「……いや、タバコぐらいいくらでも吸え」

そうは言ったものの……。

気にするとこはそこじゃねぇーよな……。

……多分……。

まさか、俺の話を聞いていなかったとか?

「美桜、お前、俺の話聞いてたか?」

俺の質問に動きを止めた美桜。

……やっぱり聞いてなかったのか……。

「蓮さんが、極道さんって話?」

……。

聞いてんじゃねーか。

聞いててなんでこの反応なんだ?

「お前、俺の事怖くねぇーの?」

「怖い?蓮さんを?なんで?」

「『なんで?』って・・ヤクザだし、背中に墨が入ってるからか?」

「なんで、疑問形なの?」

「……お前ツッコむところ間違ってる……」

「……うっ……」

悔しそうに顔を歪めた美桜が小さく溜め息を吐いた。

「別に怖くないよ」

「……?」

「私、ヤクザさんがどんな事するのか、いまいち分からないんだけど……でも、蓮さんは蓮さんに変わりはないんでしょう?」

「あぁ。でも、さっき墨見て怖がって固まってたじゃねぇーか」

「ん?……あれは、固まってたって言うか見惚れてたの」

は?

見惚れてた?

……マジかよ……。

俺は胸を撫で下ろした。

でも、それは一瞬の事だった。

安心した俺の頭は冷静に働き始めた。

蘇る記憶。

俺の背中を見た瞬間の美桜の表情。

それは、見惚れている表情なんかじゃなかった。

大きな驚きと小さな恐怖が入り混じった表情。

一年以上も見てきた俺が気付かないはずはない。

でも、美桜の反応に気付いても俺はどうしてやる事も出来ない。

この刺青は俺にとっては身体の一部みたいなモノ。

刺青なんて違和感があるのは彫って一週間ぐらいだ。

肌に傷を付けて色を入れているだけだから、その傷さえ癒えれば後は身体の一部になるだけ。

時間が経てば経つほど彫っている事さえ忘れる程身体の一部になるんだ。

しかも、俺の周りには刺青を彫っていない奴の方が珍しいくらいだ。

それが、俺が生きている世界。

でも、美桜は違う。

だから、驚くのも怖がるのも無理はない。

それが分かっているのに俺にはどうしてやる事も出来ない。

俺の過去を消す事も……。

刺青を消すことも……。

美桜の知らない世界から抜ける事も……。

「もう一回見せて」

「あぁ」

俺は美桜に背中を向けた。

「……綺麗……」

美桜の口から零れ落ちた言葉。

その言葉を俺は素直に嬉しいと思った。

だから俺は自然と笑みを零した。

背中に感じる美桜の指の感触。

冷たい指が俺の背中の上を動く。

「くすぐってぇーよ」

「この龍の眼、蓮さんの眼に似てる気がする」

美桜が呟いた。

「そうか?」

「うん」

美桜の指が動きを止めた。

「……ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「……蓮さんは蓮さんだよね?」

「あぁ」

「蓮さんは、いつも私の傍にいてくれるんでしょ?」

「俺は、いつも美桜の傍にい。」

「どんなときでも傍にいてくれる?」

「どんなときでも美桜の傍にいる」

「何があっても傍にいてくれる?」

「何があっても美桜の傍にいる」

「絶対?」

「あぁ、絶対だ」

そう答えた瞬間、背中に感じた感触。

指ではないとすぐに分かった。

温かくて柔らかい感触。

「それなら、私は大丈夫」

「……?」

「蓮さんが極道の世界の人でも気にならない」

俺は思わず振り返った。

俺と瞳があった美桜がニッコリと微笑む。

それは凛とした微笑みだった。

……あぁ、俺は勘違いをしていた。

美桜は弱いだけの女じゃない。

俺から守られるだけの女じゃない。

こいつは人を受け入れる強さを持った女なんだ。

こいつは俺の背中に隠れて生きるような女じゃない。

俺の横に並んで堂々と歩ける女なんだ。

俺は美桜の身体に手を伸ばしてその身体を引き寄せた。

小さくて弱そうで儚いイメージの美桜。

だが、美桜は凛とした美しい強さを持っている。

……俺が生まれて初めて惚れた女は桜の花みたいな女だった……。

「忘れないでね?」

美桜が俺の胸に顔を埋めたまま呟いた。

「うん?」

「さっき言ったじゃん」

「さっき?」

「『タバコぐらい、いくらでも吸え』って……」

「あ?」

「だから、私がタバコ吸っても怒らないでね」

「……お前……それは、そういう意味じゃねぇだろ?」

「……だって、言ったじゃん……」

美桜は下から視線だけを動かして俺を見た。

……おい、おい……。

それは反則じゃねぇーか?

挑発か?

こいつは俺を誘ってんのか?

……。

……そんなはずねぇーか……。

こいつはそんな事が出来る女じゃねぇーな。

多分、この言動も計算じゃなくて、天然だろう。

美桜に見つめられた俺が強く『吸うな!!』なんて言えるはずもなく……。

「あんまり吸いすぎるなよ」

結局、許してしまった。

「うん!」

美桜が満面の笑みを浮かべて嬉しそうに頷いた。

この時、俺と美桜の力関係が決定してしまった。

その力関係がこの先ずっと維持される事に俺はまだ気付いてなかった。

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