◆距離感◆②

◆◆◆◆◆

眩しい日差し。

途絶える事のない人の波。

楽しそうな表情。

見慣れている繁華街の駅。

いつもと違うのは空の主役が月ではなくて太陽って事ぐらい。俺が繁華街にいるのは殆どが夜。

昼間の繁華街に俺がいるって事自体が珍しい。

ケイタイの待ち受けの時計は正午を少し過ぎた時間を表示していた。

約束の時間までまだ30分以上もある。

……なんか眠ぃーな……。

昨日、美桜と別れた後、戻って来ない事を確認した俺は自分のマンションに帰った。

とりあえず、シャワーを浴びて、キンキンに冷えたビールを喉に流し込みながら急ぎの仕事の書類に目を通した。

だけど、書類の内容は一切頭に入らなかった。

浮かんでくるのは美桜の事ばかり。

ちゃんと帰ったか?

なんで帰りたくねぇーんだ?

明日の朝飯はちゃんと食うのか?

……そんな心配まで俺がしなくてもいいか……。

初めて見た笑顔。

そう言えば怒ったりもしてたよな。

あいついろいろな表情をするんだな。

当たり前か生きてるんだし。

……てか、今読んだ書類ってどんな内容だったっけ?

……。

「……今日はもう寝るか……」

俺は持っていた書類をテーブルの上に置き残りのビールを飲み干した。

……眠れねぇーし……。

全ての灯りを消し暗い部屋。

いつもならベッドに入ればすぐに眠れるのに……。

今日は眠れない。

目を閉じると浮かんでくる顔。

……まったく、俺は初めて恋をした学生かよ?

そんな自分に苦笑してしまう。

……!?

ん?

……ちょっと待てよ……。

俺って今まで女を好きになった事があったか?

俺は記憶を辿った。

そして、気付いた。

……ない……。

別に女が嫌いって訳じゃない。

でも、ケン達とツルんでる方が女といるより全然楽しかった。……それに……。

俺に近寄ってくる女は、俺が好きなんじゃなくて俺の肩書きや親父の金と権力を自分のモノにしたいだけ。

そう気付いてから俺は彼女を欲しいとは思わなくなった。

寄ってくる女と適当に遊んで楽しめればいい。

一定の距離さえ超えさせなければ……。

その所為か寝た女達は全員名前ぐらいしか知らない。

興味が湧かないから知りたいとも思わない。

俺って相当捻くれてるよな……。

まぁ、仕方ねぇーか。

これが俺なんだし。

……てか、外が明るくなってきてねぇーか?

カーテンの隙間から見える外が真っ暗じゃなくて薄暗い程度になっている。

……強めの酒でも飲んで寝るか……。

俺はベッドから起き上がるとキッチンに向かった。

棚からウォッカの瓶を取り出しショットグラスに注ごうとした。

「ウォッカはまずいよな?」

酒を飲んで寝るならショットグラス一杯くらいじゃ眠れない。この瓶なら最低でも半分は飲む。

今日は車を運転するし……。

しかも、隣には美桜を乗せて……。

「……」

俺はウォッカの瓶を棚に戻し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し寝室に戻った。

結局、一睡も出来なかった俺は待ち合わせの三時間も前にベッドから抜け出した。

シャワーを浴び準備を整えて地下の駐車場から運転をして繁華街の駅に着いたのは正午前だった。

早過ぎじゃねぇーか?

時間を見て大きな溜め息を吐いてしまった。

どんだけ俺は張り切ってんだよ?

苦笑した俺は車の周りを行き交う人を見て妙に感心してしまった。

……みんなこんな時間から元気だな……。

時間が経つにつれて襲ってくる眠気。

このままじゃ待ち合わせの時間には爆睡してるかもしれない。そう思った俺は車から降りた。

締め切った車内には届いて来なかった賑やかな話し声や笑い声が耳に飛び込んでくる。

「暑ぃーな」

夏特有の強い日差しが容赦なく照りつけてくる。

暑さと賑やかさでさっきまで負けそうになっていた眠気が少しだけ遠のいた。

『あれ、蓮さんじゃない?』

『うそっ!!マジっ!?』

『なんでこんな時間にここにいるの!?』

離れた所から聞こえてくる話し声。

……。

……知り合いじゃねぇーよな?

……てか、知り合いなら話し掛けてくるだろーし。

俺はひたすらシカトする事にした。

……けど……。

気が付くと人集りが出来始めていた。

面倒くせぇーな。

睡眠不足と暑さが俺のイライラ感を増長させる。

話し掛けてくんじゃねーぞ。

待ち合わせの時間まであと……15分か……。

……あと15分我慢すれば……。

……てか、美桜は本当に今日ここに来るのか?

初対面の奴との口約束。

果たしてアイツは守るのだろうか?

……もし、来なかったら……。

ここでひと暴れするってのはありだろうか?

……親父にバレたりするか?

バレたら……多分面倒くせぇーな。

まぁ……バレても知らねぇーフリすれば大丈夫か……。

ん?

感じた視線に何気なく振り返ると……。

一瞬にして吹き飛んだイライラ感。

俺は自分の顔が緩むのが分かった。

不安そうな表情から安心したような表情に変わった美桜が駆け寄って来た。

「よう」

「おはよーございま-す」

「もう、昼過ぎだぞ」

「あぁ!そうか……じゃあ、こんにちは」

「はいはい。なんか適当だな。お前」

「そうかな?」

「まぁ、いいけど」

込み上げてくる笑いを堪えながら助手席のドアを開けた。

今はまだ美桜が俺と一緒にいるところを人に見られない方がいい。

助手席に座った美桜はキョロキョロと忙しそうに視線を動かしている。

「どこか、行きたいところあるか?」

「うーん」

流れる沈黙。

真剣な表情で悩んでいる美桜。

……こいつ、やっぱり……。

「なぁ、美桜」

「うん?」

「お前って、優柔不断だろ?」

「……!!」

みるみるうちに美桜の顔が引きつっていく。

「な……なんで分かるの!?」

「うん?」

「……実は、人の心の中を読めるとか?」

そう言いながら美桜はドア側により俺との間に距離を取った。

「あ?そんな訳ねぇーだろうが。てか、なんでお前、俺から離れてんだよ?」

「……心の中を読まれるかと思って……」

心の中を読む?

俺は超能力者なのか?

「……ってことはお前は、俺に読まれたらマズい事を考えてんだな?」

「……!!」

「図星か」

一体、どんな事を考えてんだ?

「……別に読まれてマズい事なんて考えてないもん……」

「本当か?」

……てか、コイツは天然か?

なにをどう考えたら俺が超能力者になるんだよ?

しかも、まだそう思ってるみてーだし。

天然っていうか、純粋っていうか……。

「……からかわないで……」

美桜が横目で睨んだ。

その表情がツボに嵌った俺は我慢出来ずに吹き出した。

「お前、面白いな」

「……」

いつもはピンク色の頬が赤く染まっている。

そんな美桜を見ていると心が和む気がした。

「お任せでいいか?」

「うん」

美桜が笑顔で頷いた。

真っ青に澄みきった青空が広がっている。

車の運転は嫌いじゃない。

どちらかと言えば好きな方。

しかも、今日は隣に好きな女が乗ってるし。

女を自分の車に乗せるのは初めての事。

こだわりって程の事じゃねぇーけど……。

自分のマンションの部屋や車は俺がリラックス出来る場所。

そこに入って許せるのはごく限定された人間だけ。

その限定された人間ってのは素の自分を見せれる人間。

……やっぱり俺って捻くれてるよな……。

「昨日は、まっすぐ帰ったのか?」

「うん」

美桜が小さな声で呟くように答えた。

その表情を見て美桜は本当に帰りたくないんだと確信出来た。

「帰りたくなかったんだろ?」

美桜は驚いた様に俺の方を見つめている。

そんなに驚くことか?

……もしかして、こいつ……。

自分で気付いてねぇーのか?

思っている事が顔に出やすいってことに……。

本人が気付いていないらしい事に気付けた俺はさっきにも増して気分が良くなった。

「……なんで分かるの?」

不思議そうに首を傾げる美桜。

「ん?顔だよ」

「顔?」

「あぁ。お前の顔見てたら、何を考えてるのかが分かる。」

「……!?」

美桜が慌てたように両手で自分の顔を隠した。

「なに隠してんだ?」

……おい、おい……。

しかも指の隙間から、目だけ出してこっちの様子を伺ってるし……。

「お前、すげぇー分かり易い」

「分かり易い?」

「あぁ」

「……」

思い詰めた表情の美桜。

「そんなに、ショックか?」

俺は前を向いたまま尋ねた。

「……別にショックじゃない。ただ驚いただけ……」

驚いた?

俺、なんか驚くような事言ったか?

「なんで?」

「初めて『分かりやすい』って言われた」

「は?初めて?」

何言ってんだ?

こんなに分かりやすいじゃねぇーか。

「うん。『何を考えてるのかわからない』ってよく言われる。」

……あぁ。

そういう事か。

「そいつらは、美桜のことをちゃんと見ていないから分からないだけだ。俺は、お前をちゃんと見てるから分かる」

俺をその辺の奴らと一緒にしてんじゃねぇーよ。

どれだけお前の事を見てたと思ってんだよ。

……てか、話し掛けられなかっただけなんだけどな……。

……。

なんか俺、すげぇーかっこ悪くねぇーか?

そんな事を考えていると目的地のレストランが見えてきた。

美桜は今日起きてから絶対なにも食ってねぇーような気がする。

駐車場に車を停車し、窓の外を眺めている美桜に尋ねた。

「今日起きてから、何か食ったか?」

振り返った美桜が俺の顔を見つめながら考えている。

「そういえば、何も食べてない」

「やっぱりな」

俺は溜息を吐いた。

「飯、食うぞ」

車を降りた俺は、助手席のドアを開けた。

美桜が、シートベルトを外し車から降りた。

俺は助手席のドアを閉め左手を差し出した。

一瞬、俺の手を見つめた美桜が自分の手を差し出した手に重ねた。

暑い夏にも関わらずひんやりとした小さな手を俺は包み込んだ。

何度か訪れた事のあるレストラン。

店の中からは海が眺められる。

ピークの時間は味と窓から見える景色の所為で混み合うけど今の時間帯ならちょうど人も少ないはず……。

しかも、繁華街とは違い知り合いの人間と会う確率も少ない。ケンやヒカル達は大切な仲間。

だからこそ美桜にも分かって欲しい。

あいつらの良さを……。

その前に恐怖心や固定観念を与えたくない。

今はまだ時間が必要だ。

通された窓際の席。

相変わらず美桜はメニューを片手に悩んでいる。

そんな美桜を見ていると笑いが込み上げてくる。

その時、美桜がふと視線を上げた。

「なんで、笑うの?」

「いや。相変わらず悩んでんなと思って」

美桜は、頬を膨らませた。

「肉食え、肉」

「……お肉……」

「肉、嫌いか?」

首を横に振る美桜。

「なんか、食えないものあるか?」

「……にんじん……」

「にんじん?」

「うん」

神妙な顔で頷く美桜。

……。

……にんじん?

にんじんってあのにんじんか?

にんじんが嫌いって……。

こいつは小学生か?

「やっぱりガキだな」

笑いながら言うと美桜は顔を真っ赤にして俯いた。

あんまり笑うと怒ったりするか?

怒った顔も可愛いんだけどな……。

俺は、水を飲んで笑いを抑えると、近くにいた店員に目で合図を送った。

注文を終えても美桜は俯いたままだった。

今度顔を上げる時には、どんな表情をしてるんだろう……。

美桜の顔はいくら見ていても飽きない。

それどころかいろいろな表情を見るのが楽しくて堪らない。

ようやく顔を上げた美桜は俺と瞳が合うと焦ったようにオロオロと目の前のグラスに手を伸ばした。

グラスに口を付けて水を一口飲み、美桜の視線は窓の外に向いた。

しばらく動いた視線が一点で留まった。

……?

その視線を辿るとそこには一組の親子。

若い両親と幼い子供。

幸せそうな家族の姿。

子供が好きなのか?

……違う。

もし、そうならこんな悲しい瞳なんてしねぇーよな……。

『親に捨てられたから施設にいるの』

美桜が昨日言った言葉。

平然と言ってたけど……。

親に捨てられて平気な奴なんているはずがない。

平気なフリをしてたけどあの時こいつは今と同じ瞳をしてた。どうすれば美桜を笑顔に出来るんだろう?

「行きてぇのーか?」

驚いたように美桜が俺の顔を見た。

「え?」

「海で遊ぶか?」

首を横に振った美桜。

「ん?海は嫌いか?」

「ううん」

「じゃあ、なんで?」

美桜は小さな声で答えた。

「……私、海に入ったことないから……」

……やっぱり、美桜の悲しい瞳の理由は……。

「したことがないなら、してみようぜ」

「でも、何にも準備してきてない……」

「大丈夫だよ、タオルは車にある。服が汚れたら帰りに買ってやるよ」

俺の顔を見つめていた美桜が瞳を輝かせて頷いた。

いつもは、笑っていてもどこか悲しみを含んでいる瞳が初めて輝いた。

俺はそれが単純に嬉しかった。

「飯、食ったら行こうぜ」

「うん」

俺はどのくらい美桜を笑顔にしてやれるんだろう?

俺と一緒にいる時は、少しでも多く笑っていて欲しい。

そんな想いが胸の中に広がっていた。

注文していた料理が運ばれてくると、美桜は大きくて茶色い瞳をより一層大きくしていた。

にんじんが嫌いって言ってたけど、本当に苦手らしい。

一切れだけ食べるように鉄板の上に残していると、美桜は丸飲みしやがった……。

普段は大人っぽい表情をしているのに、時折見せる年相応の一面。

どっちが素の美桜なんだろう?

一緒にいると、どんどん興味が湧いてくる。

食事を終えた俺達は店を出てさっきまで眺めていた海に向かった。

車を停めている駐車場から階段を下るとそこには視界の限りの海が広がっている。

駐車場から海までの僅かな時間。

その時間でさえ俺は美桜に触れていたいと思った。

差し出した手に自分の手を重ねながら美桜は言った。

「ここにはナンパ男もキャッチ男もいないと思うよ」

苦笑する美桜に俺は答えた。

「小せぇー事は気にすんな」

俺はナンパ男やキャッチ男がいる心配をしていた訳じゃない。美桜は手を繋いで捕まえていないとどこかに行ってしまいそうな気がした。

……たまに頬を撫でる風と共にどこか俺の手の届かないところに消えてしまいそうな気がしていたんだ……。

◆◆◆◆◆

生まれて初めて海に来たらしい美桜。

普通、夏になるとガキの頃に親が連れて行くもんだと思ってた。

美桜はそんな当たり前のような経験がない。

それも、美桜の悲しい瞳の理由かもしれねぇーな。

砂浜に立った美桜は眩しい日差しに瞳を細めて青い海を眺めていた。

その横顔を見た俺は息を飲んだ。

まっすぐな視線からは今まで気付かなかった強さが感じられた。

小さくて頼りない身体がなぜか大きく見えた気がした。

砂浜に座り込んで靴を脱いでいると、美桜が隣にちょこんと座り履いていたサンダルを脱いだ。

手を繋いで波打ち際に向かう美桜の表情が強張っている。

……怖いのか?

波打ち際で俺が足を止めると美桜は寄せては帰す波を黙って見つめていた。

何度目かに波が帰した時、美桜は小さく頷いた。

……?

繋いでいた俺の手をゆっくりと解いた美桜。

美桜は波を見つめながら小さな手で俺の腕にしがみついてきた。

それから恐る恐る海水に足を浸けた。

足が海水に触れた瞬間、美桜の身体がビクッと反応した。

「どうだ?冷たくねぇーか?」

ゆっくりと顔を上げた美桜がニッコリと微笑んだ。

「うん、気持ちいい」

……良かった。

その顔を見れただけで俺は嬉しくなった。

それから、俺達は服が濡れるのも全く気にせずに遊んだ。

溢れる程の人がいるのに全く視界に入らなかった。

俺の視界に映るのは美桜だけ……。

俺の耳に届くのは美桜の声だけ……。

流れる時間も忘れて俺達は笑っていた。

初めて女と2人でいて楽しいと思えた。

◆◆◆◆◆

あっと言う間に陽は傾きあれだけいた人も疎らになっていた。駐車場に続く階段を上っていく。

途中、美桜が立ち止まり今までいた海を見た。

「どうした、忘れ物か?」

俺が顔を覗き込むと美桜は首を横に振った。

「……楽しかった……」

美桜のその一言で俺は嬉しくて笑みを零した。

途中、着替えの洋服を買ってそれから晩飯を食った。

その間も楽しそうに俺に向かって笑い掛ける美桜を見る度に想いが大きくなる。

離れたくない。

ずっと俺の傍にいて欲しい。

繁華街の駅に着く頃には、陽は完全に沈み辺りは闇が支配していた。

繁華街に近付くにつれて想いに比例するように大きくなる不安。

もうすぐ美桜が俺と過ごす時間は終わりを告げる。

その後、美桜が施設にまっすぐ帰るなら、俺は想いを隠す事が出来る。

……でも……。

こんなに早い時間に美桜が繁華街から離れる事が無いって事は分かっている。

……昨日と同じように強制的に帰らせるか……。

俺は待ち合わせした場所と同じ所に車を停めた。

美桜がシートベルトを外す。

「どうもありがとうございました」

座席のシートから身体を起こして深々と頭を下げる美桜。

「あぁ」

俺は前を向いたまま視線をチラッと向けて答える事しか出来なかった。

……多分、美桜は気付いている。

俺が強制的に施設に帰せようとしている事を……。

いつもと変わらない態度を装っているけど、微妙に焦った表情をしてるし……。

俺が気付かないとでも思ってんのか?

「なぁ、美桜」

ドアを開けようと俺に向けていた美桜の小さな背中がビクッと揺れた。

「うん?」

「やっぱ、施設の近くまで送って行く」

そう告げてサイドブレーキを下ろそうと手を掛けた。

ドアに掛けていた手が慌てたようにサイドブレーキを持った手を押さえた。

今日、何度も触れた小さくて冷たい手。

その手が震えていた。

「……大丈夫だから……」

絞り出すような小さな声。

「……」

「……まだ早いし……いつもの所で時間潰してから帰るから……」

「……やっぱり……」

俺の口から溜め息が漏れると美桜は視線を逸らすように俯いた。

「お前、この辺の治安が悪いことは知ってるよな?」

美桜は俯いたまま頷いた。

「今までお前に何も無かったのは奇跡だ。だけどな、奇跡は長くは続かねぇ。怖い思いをしてから後悔しても遅いんだよ」

「……」

「夜の繁華街は中学生のお前が来るような所じゃない」

俺の言葉に美桜は着ていたワンピースのスカートを握り締めた。

自分がキツい事を言ってるのは分かってる。

……だけど美桜を一人で繁華街に行かせる事は俺にはもう出来ない。

「……分かってる……」

掠れて震えている声。

「……分かってる……でも……1人で……部屋に……いるよりは……全然……マシだもん!!」

言い終わらないうちに美桜の瞳から大粒の涙が頬を伝った。

拭われない涙は重力に逆らう事もなくワンピースに落ちては吸収されていく。

俺は手を伸ばして小さな背中を撫でた。

涙は我慢しなくていい。

流したいだけ流せばいい。

次々に溢れ落ちる涙。

泣いている美桜に対して俺は背中を撫でて傍で見守る事しか出来ない。

……もし、美桜が話してくれたら……。

……もし、助けを求めてくれたら……。

……もし、頼ってくれたら……。

俺は速攻で動けるのに……。

◆◆◆◆◆

しばらくして涙が止まった美桜が小さく息を吐き出した。

「……蓮さん……あの……ごめんなさい……」

赤く充血した瞳が痛々しい。

「迷惑を掛けてごめんなさい」

……迷惑?

こいつが俺になんか迷惑を掛けたか?

いつもは人の目を見て話す美桜が俺から視線を逸らした。

「今日はすっごく楽しかった」

視線を逸らしたままいつもよりも早い口調でまくし立てた。

「それじゃ、さようなら」

再びドアに手を掛ける美桜。

俺は溜め息を吐いた。

本当はこんな事したくねぇーけど……。

車内に響いた音に美桜の身体が固まる。

「まだ、話は終わってねぇーぞ」

美桜がゆっくりと振り返った。

「俺をナメんなよ。お前の行動が読めねぇーとでも思ってんのか?」

美桜が諦めた様に溜息を吐いてシートに身体を沈ませた。

でも、視線だけはドアや少しだけ開けている窓に忙しなく向けられている。

……まだ、逃げようと企んでんのか?

「……で、どうするんだ?」

俺は前を見たまま問い掛けた。

「……ここで降りる……」

小さな声だけどはっきりと答えた美桜。

……こいつ……。

見た目とは違って頑固者なのか?

「あ?」

ついいつもの癖で低い声を出すと美桜は俯いてしまった。

……しまった……。

昨日から気を付けてたのに……。

こんな声を出したら引くに決まってるよな。

……失敗した……。

「お前、あそこにいて怖くねぇーの?」

出来る限り穏やかな口調で話し掛ける。

美桜が少しだけ視線を上げた。

「……怖くない」

美桜の言葉に嘘がねぇー事は瞳を見れば分かる。

……でも……。

その言葉に嘘がないからこそ、俺は焦った。

女にとって拉致られたりレイプされる事はこの上なく屈辱的で恐怖を感じる事なんじゃねぇーのか?

……強がってるだけか?

「もし拉致られて、犯られても怖くねぇーのか?」

「……そんなの、全然怖くない」

美桜がまっすぐに俺を見てハッキリと言い放った瞬間、俺は美桜が座っているシートを倒していた。

俺のこんな行動なんて予想すら出来なかった美桜の身体はシートと一緒にいとも簡単に倒れた。

全く状況が飲み込めない様子の美桜。

そんな美桜の上に覆い被さった。

そこでやっと我に返ったように俺を跳ね飛ばそうと両手が伸びてきた。

その手を掴んで美桜の頭の上に抑えつける。

左手を太ももに滑り込ませた。

美桜の身体がビクッと反応した。

「……やぁっ……んっ……」

抵抗しようとする美桜の唇を塞いで少しだけ開いた隙間から舌を滑り込ませる。

美桜の身体が強張っているのが分かった。

それでも俺は唇を塞いだまま太ももから手を滑らせる。

「……んんっ……」

美桜の甘い香り。

好きな女と唇を重ね、その身体に触れて平気なはずがない。

吹っ飛びそうになる理性。

俺は必死で理性を保とうとしていた。

もし、『怖い』とか『止めて』って言えばすぐに止めてやる。

……だから……早く言えよ!!

そんな俺の願いとは裏腹に美桜の身体から力が抜けた。

……?

美桜は固く瞳を閉じていた。

その瞳から一筋の涙が零れ落ちた。

「……んでだよ……」

美桜の瞳から零れ落ちた一筋の涙。

その涙を見た瞬間、俺は言いようのない感情がこみ上げてきた。

「なんで抵抗しねぇーんだよ!!」

閉じていた瞳がゆっくりと開き俺の顔を見上げた。

そして、ゆっくりと言葉を発した。

「怖くないって言ったでしょ」

「あ?」

「私、こんなの全然怖くない」

……怖くない?

それ本気で言ってんのか?

「じゃあ、なんで、泣いてるんだよ?」

俺の言葉に美桜が不思議そうな表情を浮かべた。

「怖くねぇーなら、なんで泣いてんだ?」

俺は押さえつけていた美桜の腕を放し運転席に戻った。

「泣くぐらい嫌なんじゃねぇーのか?」

「……」

「泣くぐらい怖いんじゃねぇーのか?」

「……」

俺に向けられているまっすぐな視線。

瞳からは涙が音もなく溢れている。

その涙を見て、俺は大きな後悔に襲われた。

美桜に繁華街の怖さに気付いて欲しかった。

理性を失った男の怖さを知って欲しかった。

……泣かせたかった訳じゃない。

俺はタオルを差し出した。

美桜はそのタオルを首を傾げて見つめ恐る恐る受け取った。

「悪かった。やりすぎた」

本当は俺が涙を拭ってやりたかった。

でも、出来なかった。

俺にはそんな資格なんてないような気がした。

だから、美桜の頭に手を伸ばした。

……ごめん……。

その気持ちを込めて美桜の頭を撫でた。

タオルと俺の顔を交互に見比べていた美桜が自分の頬に触れた。

その瞬間、美桜の小さな身体が激しく震えだした。

「なんで、そんなに我慢してんだ」

「……」

「なんで、いっつも悲しそうな顔してんだよ」

「……」

さっきよりも涙は溢れ苦しそうな嗚咽が漏れ始めた。

「話せよ、美桜」

「……」

「我慢するな」

「……」

「楽になれ、美桜」

「……」

「俺が、全部受け止めてやる。お前を守るから……」

その瞬間、美桜が幼い子供のように声を上げて泣き出した。

そんな美桜を俺は当たり前のように強く抱きしめていた。

頭で考えるより先に身体が動いた。

俺の胸にしがみ付いて泣く美桜が出会って初めて年相応に思えた。

こいつは俺が守らないと……。

そう決心した瞬間だった。

幼い子供のように泣き続ける美桜を抱きしめ背中をさすりながら俺は繰り返し言葉を紡いだ。

「大丈夫」

「お前は、もう1人じゃない」

「もう、我慢しなくていい」

「感情を隠さなくていい」

何度も……

何度も……

言い聞かせるように……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る