第10話

 ロレンスが城内に与えられている私室で館へ行く準備をしていると、王子が訪ねてきた。少しやつれたような表情をしているのが気にかかった。

「こうして朝日を見ると、昨日のことが夢のように思えるね」

「現実ですよ。残念ながら」

「そうだね」

 しばらくユリウス王子は、黙ってロレンスが身なりを整えるのを見ていた。

「今日は館へおいでになりますか?」

「初日だからね。行ったほうがいいかな」

「まるで興味がないような言い方をしますね」

「そういうわけではないんだけど……昨日母上が妃候補を教育するという条件で、猶予期間が出来た時には、ほっとしたよ」

 ユリウス王子は素直に言った。幼い時から王や妃にも言えないことをロレンスに言うことがある。ロレンス一人の時を見計らって、そばをうろうろしながら愚痴や不安を吐露すると、落ちつくようである。

「同い年のエセルはつきあう女の子を探して楽しそうなのにね。充分に時間をかけて、じっくりと考える猶予がある。私は一晩で相手を探して、結婚をしなければならないと思うと、少し嫌になってしまった」

 それは二十八にもなってまだ浮いた噂もない自分を含めてのことだろうか、とロレンスは思う。まあ、王子のせいにはしたくないが、妃が決まって王子が落ちつけば、今度こそ自分もそうした時間を取れるようになる。

「でも昨日選んだのはいい子ばかりみたいだからね。好きになれると思う」

 ユリウスはにっこり笑うと、自分も支度をしてくるから待っているようにと告げて、部屋を出て行ってしまった。

 いい少年なのだが。やはりまだ時期が早すぎるのだろうか。

 だが代々の国王は、王太子時代に必ずこうしてきた。ユリウス王子だけが免れるわけには行かない。それに万が一夫婦仲が悪くなろうが、最悪の場合は愛人でも持てばいいだけのことではないか。ユリウス王子をこういって慰めてやれれば一番なのだが、王子に悪い影響を与えそうでちょっと言えないでいる。


「ロレンス」

 廊下へ出たところへ、ユリウス王子の剣術の教師であるガブリイルが声をかけてきた。武術で有名な家門の出である。歳は二十五。武に優れているだけあって体躯も立派で男前、話題も豊富と女たちの人気も高い。その辺も自分とは対照的だと笑ってしまうが。

 昨日のパーティーにもいたはずだが、姿を見た記憶がない。王子より先に、会場外にお嬢さん方を誘っていたようだ。

「妃候補には剣術は教えないのか?」

 ロレンスは首をすくめた。あからさまな言い方に下心が見えるが、まあ妃候補たちのそうした面を知るのも良かろう。女性なら自分や王子が相手で十分かとも思うが……。

「お望みでしたら、一度授業を組み込みますよ。ただし手加減はして下さい」

 世間慣れしているガブリイルの意見を聞いてみるのも悪くない。

 どうも王子の趣味もあまり一般的でないような気がしていたので、客観的な意見も欲しかった。

「ところでお主、妃候補の家庭教師とやりあったそうだな」

 にやにやしながらガブリイルが顔を覗き込んでくる。背丈はそう大差はないが、体格差がありすぎる。青白くてひょろっとしたロレンスと、浅黒く筋肉質のガブリイルはさまざまな意味で対照的だった。

「一方的に説教されたと言うほうが正しいです」

「ほほーう。学者様に説教」

「なんです? その言い方は」

 やけに大げさに聞いてくる。

「結構いい女らしいじゃないか。頭がいい奴はうまいこと考えるもんだ」

「何言ってるんですか」

 確かにアリスでなくカレンの方に重点を置いて選んだようなものだが、別にそんな下心はない。城の男たちは、城の中に若い女性がいると言うことで妙に浮ついているようだが、ロレンスに言わせればあの実物たちを見たら甘い幻想も抱けなくなる。そう言ってやりたかったのだが、王妃になるかも知れない女性たちである。後々のことを考えると口に出せなかった。




「あら、こんな簡単な計算もできないの? やあねえ」

 アリスが勝ち誇って言った。年上のくせに四則計算さえ満足に出来ないのなら、十歳のアリス以下の頭しか持っていないということではないか。

「うるさいわね。こんな大きな数字のつく買い物なんかしたことないし、大金を三十二で割るなんてこと、普通の生活ではしないわ」

 食堂のテーブルでは妃候補たちが並んで席について数学の問題を解いている。アリスの横ではセイリーンが頭をかかえながら、落ちつきがなく唸っている。しょせんこんなものよね、とアリスはほくそ笑んだ。アリスも算術は苦手だが、ずいぶん長いことカレンに直されながら勉強してきたものだ。

「できました」

 ペンを置いたクインティアが、低い声でロレンス師に紙を突き出した。向かいの席に座って書き物をしていたロレンス師は、意外そうに顔を上げた。

「早いですね。答えもあっていますし」

「……ルキウスに教わりましたので」

 得意になってもいいところを、クインティアはしまったという顔をした。思わずアリスは振り返った。部屋の隅に椅子を置いたユリウス王子が、やはり興味深そうにクインティアを見ていた。

「さすが、財務官ルキウス殿のご親族」

 とロレンス師は感心したようだ。

「すごいじゃん、クインティア」

 セイリーンが呑気に手を叩いている。この状態では自分にはどんなにしたって解けないということはわかっているので、諦めたようだ。

「殿下、お茶でございます」

 朝は食事の準備もしなかったクインティアの姉、イサベラがいそいそと出てきて王子の前にティーセットや軽食のついたワゴンを運んできた。お茶を出すときの装いとも思えない、仰々しいドレスや化粧が気にかかる。

「構いなく」

 ユリウス王子は素っ気なく答えて、傍に立っていたカレンを呼んで小声で尋ねた。

「ロレンスと言い合いになったそうだけど?」

「と、とんでもございません」

 カレンは真っ赤になってちら、とロレンスを見た。言いつけたわね、という視線である。彼の方は軽く手を振って否定した。

「昨日のように眼鏡ははずさないの? 化粧もしていないようだけど」

「は?」

 さすがにカレンはきょとんとして王子を見つめた。アリスもカレンが気になって二人を見た。いざとなったら自分が助け船を出さねばならない。勉強を放棄したセイリーンや、終了したクインティアも注目している。

「し、したほうがよろしいでしょうか?」

「どう思う? ロレンス」

 ロレンス師は困惑したような顔をして、「ま、女性は着飾った方が、場が華やかになっていいですね」と答えた。

「だって」

 カレンもどう返事したものか、はあと呟いた。なるほど、とアリスは思った。王子はロレンス師にカレンを近づけようと思っているのだ。十九と二十八。結構歳の差はあるが、ロレンス師は見た目は結構若い。カレンなら着飾れば美人だし。なかなか悪くはない。二人とも教師をしているだけあって頭がいいし、話題もあいそうだ。いかんせん、両人とも異性に対してぎこちなさすぎるが。

「それじゃ私は先に失礼します。みなさん、頑張ってください」

 王子はにこにこと師を見て意味ありげに笑うと、見学を終えて出ていってしまった。イサベラは「ではお見送りを」と一緒に行ってしまった。一体なんなのだ、あのおばさんは。

 しばし呆然としていたカレンは、我に返るとアリスの所へやってきた。

「ちょっとカレン、これはチャンスよ」

「そんなこと言われても困ります」

「だってあなたがロレンス師とくっつけば、わたしの評価だってあげてくれるじゃないのよ」

「それは不正です」

 セイリーンが言いかける前に、カレンがきっぱり言い返した。

「とにかく。今のうちにそんなやぼったい恰好やめて、もっと女らしい服に着替えて来なさいよ。化粧もして。いいわね」

 昨夜とはうって変わって、カレンは長い髪を二本の三つ編みにし、飾り気のない質素なドレスを着ていた。当然ながら、突然監禁されることになったので、準備もなにもできなかった。衣装は箪笥の中に適当なものが用意されていたのを着てきた。入り用なら頼むことができる。特にアリスはサイズがあわなかったし、セイリーンは贅沢を実行するつもりでいる。

 カレンは渋っていたが、セイリーンは聞くともなしに聞いていたらしく

「あんた、この子の教師やってるんだったら、ちゃんとしないと。まるでこの子を勉強馬鹿に育ててるみたいに思われるよ」

 それだ。今までアリスがカレンに対して言いたかったのは。言いだせなかったのは長い友情があるせいなのだが。それでもフォローは入れておく。

「カレンだって正式な場に出る時は髪も結うし、化粧もするのよ。ただ、普段やらないだけで」

「今って普段なの? 今じゃならいつ本気でやるの?」

 セイリーンが言うと、カレンは黙ってしまった。そういう言い方をしなくても、とアリスは怒りかけたが、カレンは素直にうなずいた。

「そうですね。今は国王陛下のお膝元にいるのだし」

 カレンが出てゆくと、それまで黙って聞いていたクインティアが、ぼそりと言った。

「へえ。余裕あるんだな。そんなことして。もし王子があんたたちでなく、あの人選んだらどうする?」

 一瞬しまった、とアリスは思った。性格は問題があるにしても、カレンにそれなりの身なりをさせたら、充分通用するだろう。カレンは王子より三つ年上なだけだ。アリスより年齢差はない。それに。今更ながらだが、ユリウス王子も趣味が真っ当とは言えなさそうな気がしてきた。

 アリスが答えに窮すると、セイリーンは自信満々に答えた。

「関係ないでしょ? あんたたちの誰かを妨害したり足を引っ張る必要なんてないもの。王子はぜーったい、あたしを選ぶんだからね」


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