第8話

 はかない夢だった。舞い上がっていた気持ちが一気に沈んだのは、王子の誕生パーティーの翌朝のことだった。

 セイリーンは現実が甘くないことは知っているつもりだった。少なくとも館の女たちの中では一番辛酸を舐めてきた方だったから、簡単には物事を信用しない。だが、今回だけは違うと思っていた。王子の妃候補に選ばれ、うら若き令嬢たちで優雅に娟を競うのだと思っていた期待は、初日から裏切られた。

「皆様、起床ですわよ」

 とドアを開けて入ってきたのは誰あろう、昨夜上品に微笑んでいた王妃だった。エプロンを身につけ、頭には三角巾を巻いていたので最初はわからなかった。が、アリスがその女性を「王妃様」と言うので気づいた。突然入ってこられた時には腹が立ったのだが、早起きには慣れていたので素直に従って良かったと胸をなで下ろす。

 一同は起きると王妃と同じような恰好をさせられた。クインティアは眠いのか呆然としていて、特に反論もなさそうだった。姉のイサベラはまだ寝ているという。なんてずうずうしい女だろう。

「今から市場へ買い物へ出掛けます」

「……なんで」

 思わずセイリーンが声に出すと、王妃はやはりにっこりと笑って言った。

「これから王子が妃を決めるまで、ここではみなさんは自炊するんですのよ」

「……えええええっ!?」

 アリスの声の方が大きかった。クインティアはうつろな眼をしてやはり何も言わない。どうもやる気のない娘だ。三人のうちでただ一人、王子自らが推薦したという噂だが、こんなののどこが良かったのかと思う。

「そ、そんな、ユリウスさまのご意志ですの?」

 セイリーンもショックだった。妃候補とは言え、働かなくてはならない。これでは実家と大差がないではないか。なんでこんなところに来てまで料理や買いだしなんか。城には腕のいいコックもいるだろうに。なんてもったいない。

 セイリーンにとっての城での生活の楽しみの半分が消えた。

「初日ですから私がお手本を示しますが、今度からは皆さんで交代で行って下さいまし」

 空が白みかけた城壁の裏口からこっそりと出ると、王妃は城下の市場へと娘たちを案内した。人々は王妃と知らずに平気でぶつかってくる。人込みに混じると王妃と妃候補たちもおかみさんと娘たちである。中にはなじみらしく、王妃と気さくに挨拶をする中年女もいた。知らないということは恐ろしい。

「カ、カレン。どうしよう」

 背後でアリスが家庭教師に相談する声が聞こえる。貴族の小娘は料理なんてしたこともないのだろう。この分だと自分が一番熟練者だろうとセイリーンは思った。やはり自慢にもならないし嬉しくもないが。

 野菜、果物、肉、魚、卵、牛乳、花のみならず市場では多様な雑貨まで売られていた。一同ははぐれそうになりながら並んだ屋台の一つの前で止まった。

「ここではお野菜を買ってね。新鮮なものを選んで、できればまけてもらって下さいな。最初は無理でしょうけど、そのうち顔なじみになっていいものが手に入りやすくなりますから」

 アリスは王妃の言葉を大まじめにうなずきながら頭にたたき込んでいる様子だったが、セイリーンには常識にすぎなかった。更にクインティアは興味もなさそうにぼーっとしている。

「キャベツを下さいな」

 おっとりと王妃が主人に頼むのを、うずうずしながら眺める。やはりこの人も貴族の娘だ。品がよすぎる。

「どうしよう。包丁なんて持ったことないわ」

 まだアリスが半泣きになりながら、カレンに訴えている。

「うるさいわね、あたしが十歳の時にはトリさばいてたわよ」

「トリを射たことならあるけど……」

 クインティアがぼそりと呟いた。狩猟に出たことでもあるのだろうか。貴族だか資産家だという触れ込みだが、たいしたご趣味だ。

「これって妃選出になにか影響あるんですか?」

 ここぞとばかりにセイリーンは王妃に尋ねた。これならいける。王子が家庭的なのが好みだったらこいつらの敵じゃない。独走体勢だ。

「いいえ。ただ、みなさんの生活がかかっているだけですわ。王家としても、やはり飢え死にされると困りますから」

「……」

 次の瞬間、セイリーンは王妃から買い物かごを奪い取ると、先程買ったキャベツを店主に突き出していた。

「おっちゃん、これ古いでしょ! おとなしく新しいの出しといで!」

 こんな奴らと一緒に生活したら、ろくなものが食べられないに違いない。

「料理はあたしがする。その他はしないでも生きられるんだから、全部あんたたちがやってよね」

「なによ。仕切らないでよ」

 アリスが命令されたのが悔しいらしく、むっとして言う。

「クインティアは薪割りでもしてよ。あんた力仕事強そうだし」

 クインティアは特に文句もないのか素直にうなずいた。まったく覇気のない、と思ったが、まあいいだろう。

「なんなのよ、ちょっと!!」

「掃除と洗濯なら、あんたとセンセで充分でしょ。決定決定」

「カレンは関係ないじゃない」

「そりゃたいした戦力にはならないだろうけど、どうせ助けてもらうんでしょ? 一緒じゃないのよ」

「だ、だからって勝手に決めないでよね」

「だったらあんた、薪割るか、トリ絞めるかするっての!?」

 悔しさのあまり、アリスは顔を真っ赤にして唸った。

 知るか。こんな奴の言うことに従っていたら全部「下働きだったんでしょう」と自分に押しつけられるのが関の山だ。

「まあ、なんてみなさん素直なんでしょう。もうなんでも言い合えるほど仲良くなったようですわね」

 王妃は嬉しそうに言ったが、セイリーンもアリスも、王妃の前でいい子を演じて点を稼ぐよりも、自分のプライドを守ることを選ぶ女だった、ということに尽きた。

 見るとカレンも家事一般は得手ではないのか、蒼白な顔をしていた。ざまあみやがれ、とセイリーンは思った。やはり世界は自分の都合のいいように動きはじめていた。


 クイントゥスは鶏の入ったかごを持って市場を後にした。このままはぐれたふりをして逃げてしまおうかと考えていたのだが、セイリーンが鋭く眼を光らせていて、「逃がさないわよ。力仕事はあんたって決めたんだから」と荷物を押しつけてきたのだ。これはもう逃げられない運命なのだろうか。

「図体でかい割りには力ないのね」

 勝手なことを言う奴だと思うが、まあいい。こんなのが本当に王妃になったらどうなるのだろうと思うが、今は国の将来よりも自分の人生の方が大事だ。もう一人の子供の方は、なんでここまで尊大になれるのだろうとは思うが、母に比べればまだまだ可愛いものだ。だがいかんせん幼い。五年後なら通用するだろうが、幼すぎる。とすれば、やはり妃になるのはセイリーンだろうか。それもあってはならない気がするが。

「ホント、無愛想ね。なんでユリウスさまはあなたなんてお選びになったのかしら」

 アリスがしみじみと言う。精一杯刺々しいのが滑稽だったりする。五つも年下の女の子に意地悪をされ、何も反論しない自分が悲しく思えてくる。だが体格差、男女差、年齢差を考えれば本気で幼女の言動に傷ついている方が虚しい。それにもしかしたら将来王妃になる少女だ。逆らう気力もないが、おとなしくしておこう。

「そーだ、あんたの姉さんには水汲みやってもらおうっと。館に住む以上、やっぱり公平じゃないとよね」

「そうよ。それくらい当然だわ」

 アリスも賛成した。やれるものならやってみろ、とクイントゥスは思った。

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