第5話

 息子の相手をしていたせいで城に到着するのが遅れてしまった。イサベラは回廊を

早足に急いだ。城に出向くのは考えてみれば初めてのことだ 。

「イサベラ」

「あら、お久しぶり」

 イサベラは微笑んだ。会いたくないオトコに会ってしまったものだわ。

「な……何をしているんだ?」

 男は宮廷の役人だった。そしてイサベラの元夫でもある。

 男はため息をついた。さすがに元夫だけあって、ルキウスはイサベラの意図を最初から見抜いていた。

「なにも……そこまで……。すまない」

 イサベラは禿げかけた男の頭を撫でたくなった。昔から真面目で融通がきかない。何でも自分のせいにしたがる。本当に困った男だ。

「あなたに業務上横領をさせるよりはいい考えだと思わない?」

 ルキウスは城の財務を担当している。ちょいとひねれば借金を返済するだけの金を出すことも立場的には簡単だろう。だが、ルキウスはこれまで誠実を旨としてきた。無論彼にも弱さはある。本人は気づいていないが、人より弱いほうだろう。親しい者の窮地を見てしまったら、それが出来る立場にある以上、誘惑に負けてしまうことも充分考えられる。イサベラは彼が常に自分に律してきたのを知っている。だから夫が悪い考えにとりつかれる前に身を引いたのだ。

「……本気なのか?」

「最後のチャンスだものね。頑張ってみるわ」

 ルキウスは目をそらした。息子のクイントゥスの半分の抗議もない。冴えない役人。イサベラは格式だけはある貴族の出の女だった。金に困った父が彼に借金をし、イサベラを借金のかた代わりに嫁に差し出した。その時から腰が低かった。もっと堂々としてもいいのに、気後れがあるのか、何一つ反対したことがない。離婚も渋々ながら最後には承諾した。この物足りなさ。

 イサベラはルキウスを見てはじめて、夫がこんな男だから、やり直したいと思ったのだと気づいた。

「見つけたぞ!!」

 ルキウスはびくりとして振り返った。イサベラは既に身構えている。武門の出で女でも武術だけは仕込まれてきた。素手でもルキウスを守りきるくらいの自信はあった。

「クイントゥス……」

「お前……何をしてるんだ」

 二人は絶句した。ルキウスはある意味で元妻の出現よりも驚いた。二年ぶりに見る息子は不思議な恰好をしていた。


「これしか城に入る方法がなかったんだよ!!」

 女物のドレスをまとって現れたクイントゥスは、肩で息をしながら母親に駆け寄った。短髪で化粧もない。遠目にも異様だったが、招待状があったので通されたのだ。

「こんなとこまできて、いい歳して! 冗談じゃすまされないだろ。帰るぞ!」

 クイントゥスは傍らにいるのが父親であることに気づくと母親の腕を掴んでいた力を緩めた。

「父さん……」

 宮廷に仕える父親の姿を見たのは初めてだった。パーティーに出席することはないが、祭典の日だけあって礼服を着ている。クイントゥスの知っている父とは別人のように見えた。

「父さんからも言ってよ、こんな馬鹿、やめさせてよ」

 他に方法がないとは言え、王子と結婚だなんて正気の沙汰ではない。万が一にもこんな女が妃となることはないが、国家のためにもやめさせなくてはならない。

 だが懇願を無視し、父は目をそらした。

 その表情から父がこの女の好きにさせる気なのだと気づいた時、クイントゥスは愕然とした。相手の気持ちを尊重すると言えば聞こえはいいが、全くの放任ではないか。なんて頼りのない……。母がこの男を捨てたのも仕方がないと思った。


「ルキウス。こちらのご婦人は?」

 ルキウスは声のした方を向き、丁寧に頭を下げた。

「そ、それがしの遠縁のものにございます」

「ほう。いくつだ?」

 自分と同じか、やや上だろうか。随分立派な服装をしている。待てよ、とクィントゥスは考えた。今日城の中でパーティーに出席する、自分に近い年齢の男……?

「は」

 ルキウスはイサベラを振り返り「三十です」と答えた。少年はクイントゥスを見つめた。

「いや、こっちだ。勇ましいな。名前は?」

 はっと気づくとクイントゥスは短剣を手にしていた。母を刃物で脅してでも連れ帰る気だったが、人の気配がした時には母を庇うかのような位置に立っていた。冷静になって考えれば、クイントゥスに武術の手ほどきをしたのは母なのだ。庇わなければならないタマではない。

 イサベラは突然、何を思ったのかクイントゥスの腕をとった。

「わたくしの妹、クインティアでございます」

 クイントゥスの手に入れた招待状は、同い年の従妹クインティア宛のものだった。病弱で今日のパーティーには参加することが出来なかった娘だ。とっさに彼女に頼って招待状とドレスを借りて、ここに来たのだ。父方の一族にはこの名の女が多かった。

 何を言い出す、とクイントゥスは叫ぼうとしたが、父にもしっかりと口を押さえつけられていた。信じがたい思いで必死に暴れたが、父に泣くような小声で、頼むから静かにしてくれと言われた。

 少年は興味深げにクイントゥスを見つめた後、ルキウスに「話がある」と言った。


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