三
あの日から一日前のことを話したい。
「ありゃ、紙がない」
同じ部活の後輩がいきなり頓狂な声をあげた。
「職員室、取り行く?」私が訊いた。
「いいんですか、先輩!」
「これくらい、いいよ」
「じゃあ、頼みます!」
「りょーかい」
ともに頓狂な会話をして、私は気取った風付きでしゃなりとピアノ部の部室を出た。
――テスト期間でしょ? もう一人の私が再び話しかけた。――ああ。
私は職員室を避けて、文芸部室へと走るように向かった。私は部室の扉を叩いた。
「誰だ、あんた」
ドアを思い切り開かれて、驚いて目を瞑った。そして、目を開くと眼鏡をかけた長身痩躯の男が立っていた。その男は下を向いて、その先には、左手で目が眩みそうなほど明るい液晶のスマートフォンを操作していた。以前、生徒会で会ったが、眼鏡ゆえに敏捷そうなこの擦れっ枯らしはこの部活の部長だ。――三年生は成文律を堂々と破るヤンキーだからねえ。――腹に一物がありそうで、怖いんよね。
「ピアノ部のアヤノです」
「アヤノ……? ああ、全国大会に出てた人か」
たしかに全国大会出場は素晴らしい成績であり、片手間でする人間ではできないことだった。しかし、高尚な人間だと卦体の悪い噂が瞬く間に広まった。張子の虎のような称賛は欲しくなかった。
「……ええ、そうです」
私は一瞬目を閉じて、返事した。
「何の用だよ」
「楽譜を書きたくて、紙が欲しいんです」
「じゃあ、入れ。おい、紙取れ」
部室には男子二人、女子二人しかおらず、廃部寸前の人数だった。もちろんその中にはアセビがいた。遠くから、彼は黙々と紙に文字を羅列しているのが一眼で解った。私はその紙の文字に感興をそそられ、覚えず彼の向かい側の椅子に座った。
『漁火が水平線へ』
『山火事』『無邪気』
『破壊と創造』
という題名の本が重なったものを隣に、甘美な言葉が乱雑に書かれたノートに幾つもいくつも書いていた。
「どうして気づいたの?」
彼の顔は、厚い瞼で石包丁のように聊かに鋭く、聡さを携えながら、濃い眉と緩やかな鼻筋が誰よりも凛々しかった。
「クラシックが好きなだけだ」
「君らしくて羨ましい」
彼は沈黙した。私は急に気弱になり、決まりが悪いように立った。
「紙をもらいに来たんだけど……」
彼は無言で私の右後ろを指差した。
「ありがとう」
私は紙を十数枚手に取り、部室を立ち去った。
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