第12話
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ゆっくりと瞼を開いたとき、強烈な光が目に降りそそいだ。
徐々に慣れてくると、それが蛍光灯の白い光であることを理解する。
冬子は仰向けに寝かされていた。
ここはどこなのだろう。
はっきりしない意識のまま眼球をぐるりとめぐらせた。
変身症研究センターの収容フロアの居室ではなかった。
もっと狭い部屋。
点滴棒があった。
いくつかの管が体につながっていた。
心電図モニターがあった。
手を握ろうとして、痛みが走った。
針で刺されるような痛みだった。
それでも、なんどか握ったり放したりを繰り返すうち、筋肉が柔らかくなるのを感じる。
足を動かそうとした。
つま先を伸ばそうとした。
なにかおかしかった。
動かしているはずなのに、動いている感覚がなかった。
足はついているのだろうか。
首を曲げて下半身を見る。
布団の下に、足があることを示す膨らみがあった。
体を起こそうとした。
腹筋に力を入れようとするが、背中が少し浮いただけだった。
ここは病院か?
首を動かして枕元を見る。
ナースコールらしきものがあった。
手を伸ばそうとした時、腕につけられた点滴の管がひっぱられ、点滴台が傾いた。
コマ送りのように倒れる点滴台が床へ落ちる間際、「あ」と気づいた。
――わたしは、生きている。
真空地帯のようにすべての音が断絶される。
――虫じゃ、ない。
光が世界に発散していく。
――わたしは、人間。
――――人間のままの、わたし。
床へ転がった点滴台を呆然と見つめた。生きている事実が、濁流のように思考を満たした。
――朽木先生は?
目は朽木の姿を探す。
「朽木先生、先生……」
自分の声が、静寂を破った。
「――離苦さん!」
そのとき、勢いよく部屋のドアが開いた。
「林野さん……? 目が、覚めました……?」
首を向けると、そこには見ず知らずの若い女性がいた。看護師とおぼしき白衣を着ている。彼女はあんぐりと目と口を開けていたが、次の瞬間には踵を返し、背後に叫んだ。
「村名賀先生! 林野さんが目を覚ましました!」
村名賀? 冬子は混乱する。どうして病院らしき場所に、村名賀部長がいる?
大きな足音が近づいてくる。看護師を押しのけるようにして入室してきたのは、村名賀部長その人だった。
「林野さん!」
村名賀は冬子のベッドサイドに走り寄り、手を握った。
「大丈夫か、意識は、わたしのことはわかるか」
「村名賀先生、ここは」
「セントラル西病院のICUだ。きみは、勝ったんだ」
村名賀は口角から唾を飛ばした。
「きみは変身症を克服した。人類がUNGウイルスに勝てることを証明したんだ」
冬子は村名賀を、そして足元を見た。病棟のスタッフらしき、医療従事者たちが何人もそこへいた。彼らは冬子を見て、おもむろに拍手を始めた。涙ぐんでいる者もいる。拍手は冬子を包んだ。だがそんなことはどうでもよかった。
「朽木先生は?」
冬子は朽木を探した。村名賀がいるのに、どうして朽木がいないのだろう。白衣の人々の向こう側にいるのではないかと目をこらしたが、見つけられない。
「朽木君は」
村名賀は言い淀んだ。
「ここにはいない」
じゃあどこへ、と聞きかけたとき、冬子は察した。
「村名賀先生」
「彼は勾留されている。……みなさん、少し話をしたいから、外していただけませんか」
ドア付近にいたスタッフたちは奥の方へ戻っていった。そのうちの一人が丸椅子を差し入れ、ドアを閉める。
村名賀は倒れた点滴台を立て、針の状態や心電図モニターを確認すると椅子へ座った。
「きみたちには、まったくやられた」
「申し訳ありません。騙しているつもりは、ありませんでした」
「うん。話は朽木君から聞いた。きみたちが他人を害する目的で不正を犯し続けていたわけではない。感染を自覚し、注意して生活をしていた。法律上、きみに罪はない」
「でも、法律上は、朽木先生が」
「だから、朽木君は勾留されている。特殊感染症対処特別法の根拠であるWHOの指針はUNGウイルスに感染した時期を問わず感染者を隔離せよという人権を無視したたわ言だ。……たわ言に、なったんだ」
村名賀は長く息を吐いた。
「一月二日、きみが意識を失った後も下血が止まらず、輸血用の血液を手配し、臨床部の先生方を呼び出して緊急オペを行った。わたしはまさか、自分が手術の介添をするなんて思わなかった。野戦病院よりも設備が整っていない状況で、きみの腹を開いた鼓先生の迫力に気圧された」
「鼓先生が」
「彼女が持っていた手術器具を使って。それがなければ、きみは一月二日の時点で死んでいた」
以前、鼓が前職を辞めた際の記念で持ち出したという滅菌パックの手術器材を見せびらかしていたことを思い出す。
「開腹したとき、すでに骨盤内の臓器の一部が溶けていた。どうしようもなかった。大腸と膀胱、子宮を丸ごと、それから小腸の一部をその場で取り除いた」
冬子は布団に隠れた自身の下腹部を見た。この中にあったものが、ない。
「ベッドの上は血の海だった。セントラル西病院に貸し出しを要請した人工呼吸器もぎりぎりとのころで間に合った。輸血もどうにか運んでもらえた。それでも何度もきみは死にかけている。そのたびに心臓を圧迫した。そのせいで、肋骨が二本折れている」
言われてみれば、みぞおちの位置にぐるりとバンドが巻かれている。折れた骨を固定しているらしい。
「そうしている間に朽木君がきみの血液を検査して、一月三日、陰性の結果を得た」
陰性。
「治療が奏功した……?」
「そうだ。本来なら万歳讃賞すべきだが、それどころではなかった。結果が出た時、きみはほとんど死にかけていたからだ。陰性の証明をもって、きみをここへ受け入れてもらった。VRCからの搬送があと半日遅ければ手遅れだっただろう」
しかし村名賀は、手放しに喜んでいるとは思えない、苦しげな表情をした。
「投与したⅢ型のウイルスの副作用は、きみから五体満足の状態を取り上げた。排泄器官がだめになったから、人工肛門と人工膀胱がとりつけてある。子宮や付属器もすべて取り去ってしまったために、生殖はできない。それから」
「神経障害ですか」
先んじる冬子に、村名賀は重くうなずいた。
「手を動かすと、ピリピリとした痛みを感じます。上半身を上げようとすると痛みが走る。なにより、下半身の感覚がありません」
そうか、と村名賀は短く応じた。
「投薬とリハビリを行えば、ある程度までは回復するそうだ。だが、腰から下は」
「一生動かない、ですか」
「目覚めたばかりのきみに宣告するのも酷だが」
いいえ、と冬子は首をふった。
「命があるだけでも」息を吸って、吐く。「大きなことです」
「そうか。気を遣わせてすまない」
「それより、村名賀先生は、どうしてここへ」
「きみの経過観察と称して非常勤医員として雇用してもらった。この一ヶ月、一日に数時間はきみの様子を見に来ている」
「一ヶ月も経っているんですか」
「ああ。Ⅲ型ウイルスによる治療結果の発表を半月前に行った。それから毎日、このことがメディアに取り上げられない日はない」
人類が半世紀振り回された感染症から別離するための、きざはしなのだ。無視できるわけがない。
「だが、その発表の日に朽木君は逮捕された。いや、正確には彼自ら管理局へ出頭した」
「発表の場に、朽木先生はいなかったのですか」
「ああ」
冬子は息をつき、微笑んだ。
「朽木先生らしいですね」
村名賀も同調した。
冬子がセントラル西病院で手術を受け、ICUへ入院したその日、変身症克服の契機を讃えるニュースとともに、その研究者が一人の感染者の存在を十年隠し続けていたことが事件として世界へ発信されたという。
「以来、VRCの電話は鳴りっぱなしだ。賞賛と抗議が、ちょうど半々」
「対応していただいている方々に、申し訳ないです」
「ああ。だから、少しでも抗議が減るように朽木君が対策を残していった」
「コレキシミオコさんですか?」
村名賀がうなずく。
「できれば、林野さんも早く彼女に会ってほしい」
「わかりました。――今日にでも」
「体は大丈夫なのか」
「大丈夫かどうかと聞かれれば、大丈夫ではないです。あちこち痛いですし、足が使えないとか、骨盤の中がごっそりないとか、ショックではないと言えば嘘です。でもそれ以上に、わたしの命があること、それによって大勢を巻き込んでしまっていることを考えないと」
朽木は「きみと穏やかに過ごせるように」などと言っていたが、それは遠い夢だと冬子は明瞭に自覚していた。
一時間後、冬子のベッドサイドにはコレキシミオコがいた。
「ふつう、ここにではわたしではなく、安瀬さんやあなたのご同僚が座るものでは?」
コレキシは着座するなり呆れたように言い放った。
「ワールドホープの件では、朽木先生に助けを求めていただいてありがとうございました」
「わたしの力ではないですよ。八星救輪廻が大幹部とぎくしゃくしていたからこそ、わたしが伝達係に選ばれただけで」
コレキシは九月に会ったときと同じような格好をしていた。耳にはいくつもの安全ピンがぶら下がっている。
「そんなことより、あなたがオモトさんの弟の彼女だったなんて聞いたときには卒倒しそうになりましたよ」
「おもと?」
「千歳万年青。わたしが好きだった、会社の先輩」
ちとせ。
千歳万年青。
センセイが教えてくれた、彼の姉の名前。
冬子は思わず息をのんだ。
「千歳冬青」
ずっと忘れていたセンセイの名前だった。
思い出した。
ちとせ、そよご。
自分の名前と似ている名前。
一度も呼ぶことがなかった名前。
「わたし、忘れていた。千歳先生の名前。わたしを好きになってくれたのに、ウイルスをうつされて、死なれて、辛くて悔しくて、名前を忘れてしまっていた」
目の端から涙がこぼれ出た。ようやく思い出せた。冬青。思い出もなにもかもとっくに地中へ埋めた後で、今日になって、人間としてあらためて生まれた今日になって、思い出すなんて。
「だいたいのことは朽木さんから聞いています」
コレキシはカバンからハンカチを出して冬子の涙を拭った。
「彼からわたしに、記事を書くよう頼まれた時は驚きました。わたしは下衆な記事を書くただのライターです。まさか、こんな仕事を依頼されるなんて思わなかった。わたしを使ってくれている出版社に企画として持ち込んだら、記事ではなく本として出版することになりました。内容も、朽木さんから聞いた話をもとにあらかた仕上がっています。あとはあなたのお話をきくだけ」
「どうして引き受けてくれたんですか。わたしは、あなたが言うところの『変身症になってもおかしくない』ハイリスク行為によって実際にUNGウイルスに感染していた人間です。しかも、あなたが好意を抱いていた人の、弟からうつされている」
「確かにそうね」コレキシはハンカチをしまう。「UNGウイルスに感染するリスクを犯す奴は徹底的に叩いてきた。老若男女問わず。それが、感染の抑止力になると思っていたし、それがわたしの正義だから。申し訳ないけど、その考えは変わっていません。だから、この仕事も贖罪のために引き受けたわけじゃない」
ただ申し訳なさがあるんですよ、とコレキシは言う。
「何も知らなかったとはいえ、あなたを『関係のない他人』と言ってしまった。あなた自身も感染者だったのに。その罪悪感を相殺したいだけ」
「罪悪感」
「それに、朽木さんたちによって変身症が撲滅されるのだとしたら、もうわたしの仕事が感染の抑止として必要になることもないわけで、わたしも次のステップに歩き出さないといけないと思った。ただそれだけのこと」
コレキシは淡々と話す。
「一応、わたしは喜んでいるんですよ。もう、万年青さんのようなひとが出ないかもしれないって思うだけで、朽木さんにも、治療を受け入れて生きているあなたにも、感謝があふれる」
コレキシはカバンの中から名刺入れを取り出した。
「以前、あなたはわたしの名刺を見もせずに捨てました。今度は受け取っていただけますか」
さしだされた名刺には、「此岸深桜子」と名前が印字されている。
冬子はうなずいて、その名刺を受け取った。しびれる指先で、なんとか持つ。
「此岸さん」
「はい」
「よろしくお願いします」
ええ、と此岸は小さく笑い、手帳とボイスレコーダーを取り出した。
「それにしても、ワールドホープに深入りしなくて良かったわ。変に関わってしまっていたら、わたしも逮捕されていたかもしれないし。そうしたらこの仕事もひきうけられなかった。三日ほど警察に留め置かれて、その後も何回か呼び出しくらってますけど」
「仕事に支障はないんですか」
「ええ。むしろ警察から情報を聞き出せてちょうどいいかも。警察から解放された翌々日に朽木さんから連絡をもらって話をきいて、その翌日にはあなたの実家に伺って」
「行ったんですか。あの両親のところへ」
「まあ。そうしたら、ちょうど家を出ていく用意をしていたところでした」
「家を?」
「世間からの中傷を恐れたんでしょうね。あの家も売り払うと言っていました。あなたには秘密にしていた貯金がそれなりにあるんですって。そのお金で地方に引っ越すと」
強かな人たちだ、と冬子は呆れてしまう。
「林野さんは、これでいいと思っていますか?」
「今のわたしには、ここで生きていることと、これから関わってくれる方、支えてくれる方との繋がりだけがすべてです。かつて、親である立場を笠に着て自分の人格を侵害してきた二人の――他人の行方なんてわたしには関係ありません」
それから此岸と五時間ほど話を続けた。冬子の生い立ちと家庭環境、千歳冬青との交際、感染後の生活やVRCでの仕事について、とにかく細かく話した。それらを此岸はボイスレコーダーに記録し、メモを取り、看護師に面会時刻の終了を告げられるまで質問を繰り返した。
「お聞きしたいことはあらかた聞けましたので、今日のお話をもとに原稿を仕上げます」
「よろしくお願いします」
退室しようと立ち上がった此岸は、つと何気なく「あなたは強いですね」と言った。
「あなたに言うことでもありませんが、千歳冬青はつくづく最低だと思います。あなたのような人を、こんな目に遭わせて」
「わたしが強いかどうかはともかく、あの人は確かに最低です。教え子に手を出した時点で千歳冬青は超えてはいけない線を超えていました。わたしは彼から束の間の幸福をもらったけれど、それでも彼の行いは許されない。その罪は死んだからといって免責されるものではありません」
でも、と冬子はつぶやいた。
「此岸さん。万年青さんが亡くなったことの因果関係はたしかに千歳冬青の変身症発症にあります。だからと言ってあなたまで万年青さんを殺した連中と同じ側に行く必要はなかったはずです」
肖像真心子の顔が脳裏に蘇る。
死んだ肖像の尊厳に傷がついた、そのきっかけは此岸が作った。
「此岸さんの苦しみが、いつか癒えてほしい。わたしにできることは、協力させてください」
「わたしの苦しみ?」
そんなものがあるのか、とでも言いたげな表情だった。
「苦しいから、他の人を巻き込んだのでしょう?」
冬子はかつて蛇女と認識していた女を見上げた。
此岸深桜子は視線をうろつかせた末、泣きそうな顔で、「そんなこと、初めて言われました」と笑った。
此岸が退室し、面会可能時刻が過ぎたころ、看護師が「ご面会の方がいらっしゃっているんですけど、まだ大丈夫?」と顔をのぞかせた。
看護師の背後には、安瀬センター長がいた。
「安瀬先生」
思わず起きあがろうとして失敗する。体の中心に激痛が走った。
「そのままにしてください。わたしも、面会時間外に無理言って入らせてもらってますから」
看護師は「早めに切り上げてくださいね」とだけ言って部屋から離れる。
「安瀬先生。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「まあ、そうですね。ご迷惑と言われれば、大変なことにはなっていますが」
顔色は良さそうですね、と安瀬は冬子の横に座る。
「食事は」
「まだです。明日から、リハビリと治療が始まるそうです」
「なにか食べたいものはありますか。好きなものはなんでしょう」
その言い方は、朽木が収容者に対して聞く質問とまるで同じだった。仕事をしていた日々が反芻されて、冬子は思わず唇を噛む。
「林野さん?」
「すみません。働いていたときを思い出してしまって。朽木先生も、収容者のみなさんにそうやって聞いていたんです。懐かしくて」
「そうですか。あなたと朽木君が担当していた方々は、他のチームに割り振っているそうです」
「仕事を増やして、申し訳ないです」
「そのことで臨床部の方が迷惑に思っているかはわかりませんが」安瀬は優しく笑う。「少なくとも、みなさんあなたが生きていることを喜んでいます」
冬子はなにも言葉を返せなかった。
「501号室の笠松航さん、ずっと食事をしていなかったそうですが、Ⅲ型血清投与の話を聞いた日、夕飯を完食しました。それ以来、毎日食事を摂っているそうです」
「笠松さんが」
「他の収容者の方々も、部屋から出たあとの人生を考える人が非常に多い。あなたの生存は、おそらく、すべての感染者の希望です。だから、あなたは回復に専念しなさい。それ以外のことは考えなくていい」
「でも」
「もともとは朽木君がいけない。高校生だったあなたをたぶらかして、囲って、実験台にした」
冬子は眉をひそめた。あまりにも安瀬らしくない言い方だった。
「――とは、世間に流布されている憶測の一つです。わたしはそうでないと信じていますし、他の職員も大概はそうでしょう。ですが、あなたがたを知らない第三者ほど適当なことを無責任に言うものです。世間には根拠のないバッシングが渦巻いています」
「そうなることは、予測していました」
「ただし少なくとも、ここにいる間はあなたは守られています。ですから、なにも気にせず治療に専念してください。火消しは我々が引き受けます」
それが我々の役目です、と安瀬は言った。
「収容者の苦悩を今まで放置していた我々には、少しでも状況を改善するための努力が必要です。――――あなたの論文を読んで、より一層、強く思いました」
「わたしの論文」
「そうです。あなたが朽木君のデスクの上に置いていった論文です。拝読しました。そして、すでにのVRCホームページに公表してあります」
え、と冬子は言葉を失った。
職員の論文を直接ホームページに載せるなど、これまであっただろうか。いや、ない。通常は、科学誌への投稿を行い、掲載されれば、その情報が公表される。
「アクセプトなど待っていられません。その間にも世論はどんどん形成されます。あなたが自分のためだけに意地汚く十年の歳月をむさぼっていたのではなく、感染者のために仕事に従事していたことを証明する必要がありました」
それに、と安瀬は続ける。
「今後は、収容者の精神ケアも重要視されます。治療のプロトコルができれば、社会復帰のための支援も必要です。VRCはその取り組みを先駆けて行うことで、施設の価値を高める必要があります。何事においても常に一歩先を走らなければ、民間の研究機関は生き残れない。これを機に、VRCの有り様は変わります。感染した人に入院してもらい、治療するための施設に転換します。あなたの論文はその指標と象徴になる」
「指標と、象徴」
「ええ。もちろん、研究機関としての性格は残しますよ。まだまだ解明しなくてはならないことがたくさんありますから」
そう言った安瀬はすこぶる嬉しそうだった。
「あの焼却炉を使用しなくてもいい時代が来たのです」
雪持諭留の遺体が焼却炉で焼かれた日を思い出す。そういえば、そのような会話を交わした。あの晩夏が、ずいぶん遠いことのように思えた。
「VRCに、あなたの籍を残しておきます。復帰に何年かかってもかまいません。一緒に、新しい世界を走りましょう」
笑いかける安瀬に、冬子はまっすぐ「はい」と答えた。
翌日、冬子が意識を取り戻したことを報じるニュースが速報で流れたことを主治医から聞いた。同時に、本格的なリハビリと治療が始まる。主治医の花川戸、担当医の粂寺、和藤、曽我、担当看護師の阿古屋、大磯、政岡、理学療法士の八重垣らのチームの伴走によって、徐々に回復していった。
目覚めてから一週間ほど経ったころ、「聴取」と称して特殊感染症管理局の新景と尾籠が来院した。
新景は入室するなり、気難しげに顔を歪ませる。
「朽木さんが出頭してきた日から、わたしの気分は最悪です。彼に手錠をかけたときのわたしの気持ちを想像してみてください。想像できますか? いや、できないでしょう」
「朽木先生はいま、どうされているんですか」
「しかも、あなたが十年前に発症途中で自殺した高校教師の恋人だったなんて」
「朽木先生も、新景さんが取り調べているんですか」
朽木さんは勾留中です、と新景の後ろに控えていた尾籠が割り込む。
「在宅起訴になるとは思いますが、今は世間のバッシングもひどいですし、彼の保護者であった徳坊東一郎氏の弟が現総理であるとか、それまでの経緯とか、もろもろ考慮した結果、本人保護のため勾留が継続されるそうです。直接の取調べは検察が行っていますが、捜査には我々も協力しています」
「あなたたちは、素知らぬ顔でわたしと会っていた。そのことがわたしには許せません」
憤慨する新景に、冬子は「すみませんでした」と素直に謝った。
「わたしはあなたたちに、高校教師の件の担当がわたしだったことも話しましたよね? そのときになにか申し訳なさなどを感じなかったわけですか」
「千歳冬青の件の担当が新景さんだったことは、驚きました」
「驚いただけですか」
「でも、ワールドホープに誘拐されたときに、来てくださってありがとうございました。血を飲んだわたしを心配してくださったことも、申し訳なく思っています」
「まあでも」新景は息を吐いた。「あなたが元気そうでよかった。いや、元気というには語弊があるのかもしれませんが」
「元気です、わたしは。これから生きることが、わたしの責任ですから」
そうですか、と新景は手近にあった丸椅子へ腰掛けた。
「十年前のことを確認させてください。十年前の一月三日、あなたは千歳冬青と性行為をした。その後千歳は変身症を発症、自殺。学校での集団検査の日、あなたは欠席していたため、後日、VRCが運営している出張検査ルームで朽木さんと出会った。当時の事実関係はこれで合っていますか」
「はい」
「一週間後、検査結果を伝えた朽木さんはあなたに陽性であることの秘匿を持ちかける。そのうえで、五年後、あなたにVRCへ入職することを課した」
「その通りです」
「陽性結果の隠蔽にあたって、朽木さんはあなたに条件を出しましたか」
「条件?」
「カネとか、性的なこととか」
「まったくありません」
「なぜ、朽木さんはあなたの結果を隠したのでしょう」
「亡くした妹さんがわたしと同い年で、同情されたからです」
「同情ですか」
新景は息をつき、「尾籠」と背後の部下へ声をかけた。
「俺はなにか聞き逃していることはあるか?」
「えっと」尾籠は、それが最も確認すべきことのように、「林野さん、検査結果を知ってから十年間、生活には気をつけられていましたよね?」
「誰ともセックスはしていませんし、献血にも行っていません」
「ありがとうございます。――新景係長、大丈夫です」
「了解。――では、林野さん、あなたに対する聴取はこれで終わりです」
「こんなのでいいんですか?」
「おおかたは朽木さんから聞いています。今日は事実の確認をしたかっただけです。だいたい、変身症をなくせるかもしれない発見をした科学者をいつまでも勾留しておく裁判所も野暮なんですよ。裁判なんかさっさと終わらせて放免すればいいんです」
「検査結果の改竄は、懲役十年か五千万円以下の罰金ですよね? どうなりそうですか」
「わかりませんが、満期満額なんてことはないでしょう。彼はあなたの検査結果を改竄することによって利益を得ようとしたわけではないですし、あなたに対する指導も行っていた。なにより、彼の生い立ちは十分情状酌量の材料になります。あなたと妹さんを重ね合わせたなんて主張すれば、同情も得られるのではないでしょうか。どれだけ朽木さんに不利益が生じない結果になるかは弁護士次第ですが、徳坊龍二郎氏が手配しているそうですから、安心なさってよろしいかと」
徳坊龍二郎の名前はむしろ、聞けば胸に淀みが生まれる。安瀬と村名賀、朽木に赤西前センター長の殺害を指示した男だ、どこまで信頼できるのかわからない。
「浮かない顔ですが」
「いいえ、別に」冬子は首を振った。
「リハビリはきついですか」
「はい。でも、ここ数日で手を握ることはできるようになりました」冬子は両手をゆっくり閉じたり開いたりしてみせる。「まだ、ペンやお箸は持てませんが」
「足は、もう動かせないとか」
「そのように聞いていますが、絶対ではありませんから。今、膀胱も肛門もストマですが、いずれ再生細胞治療を受ければ、臓器の復元ができるかもしれないと主治医から言われています」
「再生細胞治療は、確か赤西前センター長時代に貴センターで発明された治療法ですよね。まだ、保険承認はおりていないのでは」
「最近、特許が認められたそうです。発明した先生は他の研究機関に移られていますが、村名賀先生が連絡を取ってくださって、治験として治療にご協力いただけそうです」
そうですか、と新景は表情を柔らかくした。
「あなたが死人のように落ち込んでいたらどうしようと思っていたのですが、そんなことはなくて良かったです」
「心配していただいて、ありがとうございます」
「もしもあなたが虫になってしまっていたら、あなたたちの法律違反は単なる違反でしかなかった。ですが、あなたが変身症を克服した瞬間に、あなたたちの反抗は正当化されたのです。いや、世界はあなたを正当化せざるを得なくなった。あなたがたが病気という不条理に勝ったことによって、抑圧や差別、制限といった不条理は否定されるしかなくなった。あなたがたは、不条理を否定する勇気を世界に与えたのです。そんなあなたが鬱々していたら、世界の喜びは半減します」
「新景さん。わたしたちは、反抗のために不正を犯していたわけではありません」
「変身症に対する差別などの不条理は感じていたでしょう?」
「わたしたちは、自分のために不正を犯しました。だから、罰は受けなければいけないと思っています。確かに治療法が見つかったことは素晴らしいですが、世界に勇気を与えたなんて思っていません」
「でも、世間はそう思うんですよ。変身症の差別は人々に平穏を与えるためにありました。朽木さんは司法によって罰を受けますし、あなたも平穏を脅かしたとして、またルールを破ったとして世間から誹りを受けるでしょう。ですが、それ以上にあなたがたは英雄だ。特に林野さんは、死ぬかもしれない実験を受け入れた人物として感染者の希望になる」
「わたしは、そういうシンボリックな存在にはなりえません」
新景とは似たような言い合いを、初対面のときにも交わしたなと冬子は思う。
「わたしはただの人間として生きてきました。これからも、それは変わりません。確かに研究面では重要なサンプルかもしれませんが、それとわたしの人間としての存在価値は別物です」
「初めてお会いした時、成虫化した麻葉砥誉泉が交尾相手のオスを食ったことは、女性から男に対する怒りの抗議だと言いました。女性は弱い。それが事実で、わたしはそうあって欲しいと思っています。ですが、あなた方の功績の前に、その考え方は間違っていました。あなたは人間として生きるための闘争に勝ったでしょう。病気という不条理、人権侵害という不条理に勝った。あるがまま望むまま、自由を得るための、人間として前進するための勝利です。そこに男も女も、親も子も、病気や障害の有無も属性も状態も関係がない。あなたは不条理に勝った、その事実だけがある」
「確かにそうかもしれませんが、それはわたしだけの力ではなく」
「わたしはあなたがたを称賛します。おそらく世界も同じように称賛するでしょう。世間の一部があなたがたを非難しても、それは人間が歩むべき一路を邪魔するものではありません。わたしはあなたがたに胸を張って生きていってほしいと思います」
新景は黙りそうにない。冬子は尾籠に視線を投げて助けを求めた。尾籠ははっきりと「申し訳ありません。この人も疲れているんです。昔から、自分の発言に酔うことでストレスを発散する癖があって」と言って困り顔を作った。
「新景係長、ひとつ、林野さんにご報告すること。わたしから、よろしいですか」
背後から尾籠に肩をたたかれ、新景は「ああ」とようやく口をとめる。
「特殊感染症管理局のネットワークから、感染者リストを削除することが決定しました」
冬子は尾籠の顔を見て目をしばたかせた。「あの、プライバシーを晒しているリストを?」
「そうです」尾籠はうなずき、やわらかな笑みを浮かべる。「今回のワールドホープ事件は社会から憎悪を向けられた家族が、救いを求めて取り込まれてしまったことも一端にあります。また、治療法を見いだせた今、変身症の脅威は以前と同等とは言えなくなりました。患者が感染を克服したあと、また、家族がこれまで通り生きられるように、そのプライバシーを守ることに転じたのです」
「つまり」新景は特別な宣言をするかのように咳払いをした。「この国はUNGウイルス感染者に対するギロチンを手放したということです。今後、感染者――つまり患者は社会保障の対象として扱うことになります。林野さん」
新景は、冬子をしっかりと見つめた。
「我々は、ようやく人間らしさを取り戻すことができようとしています。あなたたちの、おかげです。感謝します」
特殊感染症管理局の二人は、深々と頭を下げた。冬子は自分の中で火花のような光がはじけるのを感じた。それが驚きと喜びだと気づくまで、ただ目をしばたかせていた。
翌日には朽木の弁護士である熊鉢という男が村名賀に連れられてやってきた。四十代に見える男はやたらと笑顔で物腰が軽く、クマと言うよりオランウータンを思わせた。高校の教師である徳坊龍二郎の妻の教え子らしい。熊蜂は時系列や冬子の心情などを確認し、最後には「執行猶予にさせるから安心して!」と胸をはって帰っていった。その一言で安心できるほど、冬子は楽観主義にはなれなかった。
さらに数日が経って、冬子が上半身を自力で起こせるようになったころ、検察官を名乗る加澤という男が現れた。顔は四十過ぎ程度に見えたが、オールバックにした頭髪のこめかみから伸びている部分は真っ白だった。加澤はひととおり新景や熊鉢と同じ質問をすると、「結局、あなた自身の目的はなんだったのですか」と聞いてきた。
「朽木が十年前にあなたの検査結果を偽造した目的が、あなたに対する感情移入だと理解はしました。あなた自身も、十年後に死ぬとわかっていながら自由に生きることを選んだ。ですが、べつに諦めてもいいではないですか。虫になるウイルスを持ち、ろくに恋愛もできず、間違いなく十年後に死ぬなら、初めから諦めて収容されてもいいと思うのですが。あなたはこの十年、朽木の罪と引き換えになにをしたのですか」
通りのいい声で、問い詰めるでもなく、ただ自分の疑問を晴らしたいがためのように言葉を重ねる。
「普通、十年も閉じ込められることと、十年は自由にいられることの選択を与えられたら、後者をとりませんか?」
「それはそれでいいと思います。でも、自由にいられる十年間、あなたはなにをしていましたか? なにか、人とは違うことをやってみるとか、人を助けてみるとか、十年かけてやったことはないのでしょうか。あなたは、朽木に言われたとおりの大学へ行って、看護師免許を取って、変身症研究センターへ入職した。違いますか?」
冬子は眉間に皺を寄せながらうなずいた。
「就職までが、五年。言われた通りの仕事をこなして、五年。この人生の選択に、あなたの意志はありますか」
「確かにわたしは、言われた通りに生きてきました。朽木先生が言う通りの進路にしましたし、その前から、両親が言う通りに生きてきました。主体性がないと責められるなら受け入れます。でも、それとあなたが検挙する朽木先生の違法行為は関係ないでしょう」
「関係ないこともないですよ。あなたを十年もかばう価値があったかどうかも、求刑内容に関わります」
「わたしに価値があれば、朽木先生の処分は軽くなるんですか」
「最終的には裁判官が決めることですが」
のらりくらりと芯のない回答だった。
「わたしは自分で考えて行動することができませんでした。人から言われたことを当たり前のように受け入れてしまうことに慣れていました。それを窮屈に思っても、自力でどうにかしようとしなかった。だからたぶん、絶望しきれなかった」
「絶望?」
「絶望にはキャパシティがあるそうです。わたしの絶望のキャパシティは大きいんだと思います。どんな状況でもしょうがないと思って受け入れていたから、理想なんて持ったこともない、そんな人間だから、自死を考えなかった。そうする方法を知らなかった。だから十年も、ぼんやり生きた。タイムリミットが近づいて、朽木先生の経歴も知ってようやく自分の人生を自覚して、今までぼんやりしていた分を取り戻すために仕事をした。それだけです。わたしの価値はわたしの問題です。わたしの絶望は朽木先生に寄与しません」
「回答としては0点ですね」
加澤は興味もなさげに言う。
「就職活動のように、もっと上手な自己アピールをしていただきたかっただけなんですが。あなたの絶望は、わたしにとってはどうでもいいわけで」
「百点満点の回答を教えていただけますか」
「あなたと初対面のわたしにわかるわけがありません」
「馬鹿にしているんですか」
「まさか。あなたがたが真面目だという評価を下すくらいです」
「あなたがた?」
「あなたと朽木。そもそも、朽木は出頭する必要があったでしょうか。あなたがたが黙っていれば、あなたが十年来の感染者か、数日前に感染したばかりかなんて、他人にはわからず、あなたが変身症を克服した、その結果だけが残ります。ずっとしらばっくれていれば、彼は栄誉のみを手にしていたかもしれないのに」
「実験のデータを出す際には、感染してからキャリア年数の記載は必須です。ごまかせません」
「わたしが朽木だったら、ごまかしますよ。それができないあなたがたは、真面目で誠実なのでしょう」
それに、と加澤はつけくわえる。
「あなたが書いた論文を借りて読ませてもらいました。正直なところ、門外漢のわたしには評価がつけられません。でも、あなたが現状を変えたいと願っていることはわかりました。そしてなにより、最後にこんな仕事をして死のうとする人が、他人に危害を与えるために感染を自覚しながら市中で生活していたとは思えなかった。つまり、あなたがたの違法行為に感情的な悪意はないと理解しています」
もう一度伺ってよろしいですか、と加澤は問う。
「あなたが朽木の違法行為に加担した理由を教えてください」
二十七年のこれまでを思い返す。
ひとつひとつの思い出が、紛れもなく冬子を実体とする。己の性質が先か、経験が先かを問うことに意味はない。――ただここにある自分自身がすべてなのだから。
冬子は、加澤を見据えた。
「それがわたしの人生だからです」
「諦めですか」
「いいえ。これは、受容です」
加澤は思索を巡らせるように「そうですか」とゆっくり言った。
「歴史的な科学的発見と、その内にあるスキャンダル。この二つに世間はたいそう注目し、メディアは大衆を熱狂させようと扇動しています」
「はい」
「でも、あなたたちは一生懸命生きている。そういう人間は、他人からは理解されない、あるいは過剰に賞賛されるものです。あなたは他人からどう扱われようと、あなたらしく生きられますか?」
「わたしには朽木先生がいます。一人で立つことが無理なら先生を頼ります。逆に朽木先生が立てないでいたら、わたしが支えます。おそらくわたしたちは一人でも生きていけます。でも、信頼できる人がいれば、立てなくなっても前へ進めると思います」
加澤は穏やかに冬子を見つめて「わかりました」とうなずいた。
「それなら、朽木にどのような処分が下ろうとも動じず待っていてください。検察はあくまでも冷静に司法判断を求めます。同情はしません。世間の声は雑音です。朽木のバックに徳坊総理がいることも関係がありません。それが我々の仕事ですから」
加澤が退室しようと腰を上げかけたとき、冬子は迷いながらも彼を引き止め、尋ねた。
「八星さんは、どうなりますか」
「老箱神知ですか」加澤はわざわざ言い換える。「わたしの担当ではありませんが、十人も殺していますから、彼の極刑は免れないかと」
「八星さんが、一人で十人殺したわけじゃないでしょう」
「老箱自身が、殺人はすべて自分一人でやったと豪語しているそうですよ。傲慢かつ驕り腐った態度で」
冬子は目を丸くした。
「まさか。もし、彼が関与していたとしても、大幹部だって手を下しているはずです」
「つまり、老箱があなたに話した内容と、彼が検察に主張する内容に、矛盾があると」
「少なくとも、わたしには真実を語っているように思えました。」
加澤は思案するように自分の顎に指をそえた。
「老箱は、部下たちをかばっているのでしょうか」
「あの人が、そんなことをするとも思えません」
「それなら、自分を大きく見せようとしているのか」
「なんのために」
「見栄でもなんでもありうるでしょう。老箱に関する資料を読みましたが、自我形成が不十分なのではないかと思いますね。彼はいまもモラトリアムのただなかにいる。自分の居場所を選ぶことも、作ることもできなかったから」
冬子は思わず留置所でポツンと座る八星を想像した。恨みこそあれ同情はない。だが、どこかで誰かが正しく導いてさえいれば、愛していれば、その人生も少しは変わったかもしれないと思えば、八星に対する心情に悲しみが混じる。
「何が真相か、真相が解明されるかもわかりませんが、いずれ、林野さんにも別の検察官がお話を伺うこともあるでしょう。もしかしたら、出廷を願うことになるかもしれません」
「そのときには、ご協力します」
「ええ」
加澤は部屋のドアを開ける直前、思い出したように「この病院、花壇が充実した中庭がありました」と冬子を振り返った。
「車椅子に乗れるようになったら、行ってみるといいです。春になれば、花がきっと美しい」
春が終わるまでに間にあうだろうか。まだペンも箸もろくに握れず、座位の保持も体に負担がかかる。
冬子の不安を察したのか、加澤はゆっくりと笑いかけた。
「大丈夫ですよ。季節はめぐります。今年の春に間にあわなければ、来年を待てばいい。来年なら、朽木と一緒に見られるかもしれません」
そして、言葉をひとつひとつおくように「あなたに佳い人生があることを願います」と言った。
加澤の訪問の翌日、冬子はICUから一般病床へ転棟した。
一般病床といっても、運ばれた病棟は十五階建ての最上階、VIP専用のフロアだった。冬子は恐縮しきりだったが、プライベートの保護とセキュリティ面からVIPフロアへの入院は必須と言われた。冬子が移動した部屋は、三ランクあるVIPルームの中の二ランク目だった。十二畳ほどの部屋のなかにベッドとソファセット、冷蔵庫などの家電が据えつけられている。広い窓は空の存在を強く主張し、周囲の景色を見せつけた。遠くには新宿のビル群も見える。費用はどうなっているのかと村名賀に訊けば「きみが心配することではない」とにべもなかった。
転棟した日から食事が始まった。味付けが塩だけの全粥で、介添がなければ進まない食事だったがそれでも美味しかった。温かさが全身に染み渡っていくのを感じながら、朽木はちゃんと食べられているのだろうかと気にかかる。冬子の状況は村名賀や安瀬が伝えてくれているようだが、自分から会いに行きたかった。せめて手紙を、とも思うが、まだ字が書ける状態ではない。パソコンのキーボードも思うように打てない。皆が焦らなくていいと言う。違う、と冬子は思う。焦っているのではない。これは欲求だ。
転棟した日には、此岸から郵便が届いた。出版する本の原稿だという。冬子は看護師にたしなめられるのも聞かず、脇目もふらずに一気に読んだ。冬子と千歳冬青の性行為や、朽木の精神状態が不安定だったことについては簡潔に書かれていたが、基本的には事象は詳細に、感情を抜きにして記録されていた。朽木が関わってきた研究についても原稿を費やしている。冬子や朽木のことだけではなく、此岸自身についての記載もあった。記者になった経緯や仕事内容を包み隠すことなく記している。末尾には、「不条理は我々に混乱をもたらし、過ちを犯させる。外的不条理が与えられることによって、人間は潜在的に保有する不条理的行為を発動させる。我々はそのことを自覚して初めて、不条理を克服したと言えるのだ」とあった。
原稿のタイトルは、『変身症』。
書籍はその後、間をおかずに出版された。売り上げは爆発的にのび、各所で話題をひっさらっていると、此岸から報告があった。
一般病床に移動してから一週間後、鼓の訪問があった。彼女は冬子の顔を見るなり「生きててよかった」と相貌を崩した。
「ほんっと。びっくりしたんだから。一月二日、電話が鳴った瞬間、なんだか胸の内にざわっと嫌な風が吹いてね、応答してみたら想像の斜め上の事態になっているじゃない。臨床現場を離れて五年、VRCに入職して三年。まさか緊急オペをすることになるなんて思わなかった。――もうちょっと、早くセントラル西との手術連携を構築できていれば、わたしが場当たり的な執刀をすることもなかったんだろうけど」
鼓は寝たままの冬子の体をしみじみと見つめた。
「朽木先生がね、泣いていた。瀕死状態のあなたをセントラル西に送り届けた日、地下の仮眠室でずっと泣いていた。心配になって仮眠室のドアを少しだけ開けて様子を見ていたんだけど、結局声はかけられなかった」
ねえ、と鼓は冬子の顔を見る。
「あなたは、これでよかった?」
冬子はためらうことなくうなずいた。
「わたしは、生かしてくださったことに感謝しています」
鼓はじっと冬子を見つめ、やがて頬をゆるませた。
「そう言ってくれると、すごく助かるわ」
これ、あずかってきた、と言って鼓は持参した紙袋の中身をベッドの上へ広げた。
「配膳部の緒光さんから。病院のパジャマは味気ないだろうからって」
それは白いワンピースだった。半袖で、前がボタンで止められるようになっている。
「汚れてもまた作るからって言ってたよ」
鼓はたたみかけるように「広報部の喜川さんは、またドネーション説明会の手伝いをして欲しいから早く帰ってきて欲しいって」と笑う。
「臨床部のみんなも、また一緒に仕事をするつもりでいるから。林野さんの論文、発表されてイロモノ的に注目されたけど、わたしはあの内容をもとに今後の収容者対応の指針を作れると思ってる。今後、治療内容が確立すれば、ほとんどの収容者が退所できる。その後で、損害賠償訴訟が懸念されているの。元収容者や家族たちはおそらく国を相手取って訴訟を起こす。せめて、収容されている期間は適切なケアがされていたと言われるように、わたしたちは今からでも対応を考えていかなければならないわ」
冬子は思わず頭を下げた。その衝撃で痛みが走ったが構わなかった。自分が必要とされていることに、感謝した。
「わたしも、もっと仕事ができるようにフルタイムで働くことにした。あとちょっとで、セン西との手術連携が構築できそうなの。セン西の器材や人材を借りて、うちでオペをできるようにする。オペ患第一号も決まってるんだよ。507号室の巴まひるさん。今やってる抗がん剤のスケジュールがすべて終了したら、乳房を全摘する」
「巴さんが」
「まだ、変身症発症までは期間がある。後遺症のリスクを犯してUNGの治療をするより、乳がんの治療を急いだ方がいいという判断になったの。彼女はとても、生きる気でいる」
抗がん剤治療を始めると決めてから自立心をむき出しにした巴だったが、彼女の自由の実現が現実的になっている。
「あと、城環医科大学の精神科にわたしの先輩がいるんだけど、その人が林野さんの論文を読んで一緒に研究したいと言っているの。退院したら、院に来てもらえないだろうかって。城環医科大なら、VRCから電車で通えるし、VRC職員と院生の二足の草鞋もありなんじゃないかしら」
冬子は目をしばたかせた。
「わたしで、いいんでしょうか」
「あの論文を書いたあなただからこその誘いだよ」
「でも、論文は、わたし一人では書けませんでした。データの収集も、データの活用も、それ以前に、わたしが臨床部で働かせてもらっていなければ」
「わかってる」鼓は冬子を励ますようにうなずいた。「仕事なんて、一人でできるものじゃない。そんなの、誰だってそうだよ。だけど、あなたが生み出した成果なの。だから、胸をはっていい。そしたら次は、あなたが誰かを支えるの。助けるの。そうやって物事は回っていくんだから」
冬子がなにも言えないでいると、鼓はうなずいて、「それからね」と重ねる。
「多ヶ谷先生がお辞めになった」
「どうして」
「あなたたちの不正を、結果として正当化しようとしていることに納得ができないって」
仮眠室で真実を問われたときのことを思い出す。
「わたしは、多ヶ谷先生の職を奪ってしまったんですね」
「気にしない方がいい。多ヶ谷先生は責任を持って自分の身のふりを決めた。あなたが自分を責めたら、それは傲慢よ」
冬子は苦く感じながらもうなずいた。
「わたし、できる以上のことに取り組みます。そうでなければ、生きている意味がない」
鼓は「うん、そうして」とうなずき、冬子の手を、両手で包んだ。
村名賀から「徳坊さんがきみに会いたいと言っているが、どうする」と訊かれたとき、冬子は「徳坊博士は亡くなっているじゃないですか」と答えた。その後ですぐ、村名賀が言う「徳坊」が「徳坊東一郎元センター長」ではなく、「徳坊龍二郎総理大臣」であることに気づいて思考が止まる。
「どうして、わたしに」
「はじめて変身症を克服した人に、その国のトップが会うことが不自然ではない。なにより、朽木君の肉親みたいなものだ。会いたいと思っても不思議ではない」
冬子は村名賀をじっと見つめた。
「会いたくないと言っても、通りませんよね」
きみが会いたくないと言うのもわかるが、と村名賀は加える。
「朽木君から聞いているんだろう。赤西前センター長のこと」
冬子の手に思わず力が入った。目の前の上司も赤西前センター長を殺した一人なのだと思うと、途端に気持ちが固まる。
「わたし達は自分たちの行いを後悔はしていない。それは徳坊さんも同じだ。きみに後ろめたい気持ちで接する気持ちなど一片もない。ましてやきみに恩を売るつもりもない」
そして徳坊龍二郎来院の段取りが組まれた。
朝から雨が続く日、夜になって国のトップは訪れた。徳坊は部屋を一望したあとで人払いをした。
その男はテレビで見るより若々しかった。七十歳手前とは思えないほど肌艶が良く、頭髪は豊かで筋骨隆々としている。その足元、グレーのスーツの裾は雨が滲んでいた。
「はじめまして」
冬子は首を上げて、会釈した。顔がこわばっていることが自分でもわかる。
「座ってもよろしいですか」
「どうぞ」
徳坊はベッドサイドに腰掛けた。人好きのする笑みを浮かべて、ベッドへ寝たままの冬子を見る。
「素敵なパジャマですね。この病院の備品ですか」
「これは、職場の人が作ってくれました」
「そうですか。思いやりのある人がいるのですね。お加減はいかがですか」
「少しずつ良くなっています。長時間の起床は辛いので、寝たままの対応で申し訳ないですが」
「わたしが無理言ってお訪ねしたのですから、お気遣いは無用です。いずれは、車椅子で外へ行けますか」
「春のうちを目標にしています」
それはよろしい、と徳坊は満足そうに言う。深いバリトンが、妙に心地いい。
「離苦があなたに世話になったと聞いています。あの子は、兄夫婦の子供みたいなものだから、わたしも伯父として、あなたには感謝しなければならない」
「わたしの方こそ、朽木先生にはお世話になりました。朽木先生がいなければ、わたしはここにいませんでしたから」
「離苦の不正には、あなたを巻き込んでしまった。例の本が広く読まれた結果、世間はあなた達に同情的だが、それでも今後、生きにくさを感じることはあるでしょう」
「それは、とても瑣末なことです」
それよりも、と冬子は徳坊を見た。
「わたしはあなたに会いたくはありませんでした。朽木先生は、あなたの指示で、赤西前センター長を」
殺した、とみなまで言わなかった。セキュリティが万全といえど、どこに人の耳があるかわからない。
徳坊は表情を崩さなかった。威厳を保った笑顔は、まるで頭骨に張りついているかのようだった。
「そのおかげで、彼らの研究は進み、あなたを生かすことができました」
「それには感謝します。感謝している以上、わたしも同罪です。離苦さんの罪は、わたしの罪です」
なるほど、と徳坊は言う。
「あなたにも罪をかぶせてしまったわたしを、恨んでいますか」
「感謝はしています、でも、反感のようなものも抱えています。だから、お会いしたくなかったんです。お会いすれば、自分の感情がどちらかに振り切れてしまうかもしれないような気がして」
「わたしはそこまで人に影響を与えられる人物ではありません。そんな心配は無用です」
総理大臣が何を言っているんだ、と冬子は抱く怪訝を表情へあらわにする。それを見て徳坊は人懐こく笑った。
「あなたにも罪をかぶせてしまった罪滅ぼしとは言わないが、ある提案をさせてください。わたしには子供がいません。我々の、養子になりませんか」
「どういうことですか」
「言葉通りの意味です。我々の籍に入らないかというお誘いです」
「どうして」
声が強張る。
「わたしを養子にすることで、なにかメリットがあるんですか」
「これはわたしの妻からの発案です。妻は長年、地元で高校の教師をしていますが、今年度末に定年で退職することになっています。そしてセカンドライフ、次に自分がすべきことして、変身症患者や、その家族に対する支援を行いたいと言っています。あなたの論文を読んで、ぜひあなたに手助けをして欲しいと」
「でも、養子になる必要はないですよね」
「加えて、此岸氏が書いた本を読み、あなたに同情しています。親を棄てたあなたの、親代わりになりたいと」
「徳坊のおうちは、代々政治家なんですよね? わたしを政治的ななにかに巻き込もうとしていませんか」
「それはまったく」徳坊は両の手のひらを見せる。「わたしは今の任期を全うしたら引退するつもりです。選挙区は誰か適当な若手に任せます。政治家としての徳坊の家は、わたしの代で終わりにします。親戚にも支援者にも、口は挟ませません」
冬子は信じることができず、眇で徳坊を見た。一方の徳坊は快活に笑う。
「とどのつまり、次の世代の進路を先祖がどうの家がどうので縛りたくないだけです。兄は幼少時から政治家になる者として育てられましたが、高校生になって自分の行きたい道を主張しました。反対する両親に、わたしは、兄の代わりに自分が家を継ぐと申し出ました。正直なところ、わたしは家の存続も政治もいっさい興味はありませんでしたが、自分の犠牲によって兄が進みたい道に進めるなら、それでよかった」
「どうして、自己犠牲なんて」
「兄のことが好きで、尊敬していました。理由はそれだけです。兄が成功するためならなんでもしました。兄の害になる存在はすべからく排除しました」
「だから、あなたは赤西前センター長を」
徳坊はうなずいた。
「わたしは、兄の死後に、VRCを堕落させようとした赤西が憎かったのです」
「赤西前センター長と徳坊博士の確執がなんだったのか、ご存知なのですか」
「あなたは、それを知りたいのですか」
冬子は言葉を出すために息を吸いかけて、しかし黙止した。知りたいか知りたくないかと問われれば、知りたい。だが、「知りたい」と言ってしまえば自分自身を損ねるような気がした。
「あなたがそれを知りたいとしたら、その欲求は好奇心ではなく、下衆で軽薄な卑しさです」
徳坊は冬子の考えを見透かすように滔々と喋る。
「兄と赤西の問題は二人だけのもの、それ以外の人間は誰であろうと名前のない第三者にしかなりえません。わたしも同じです。だからわたしは、単に赤西を許したくない自分自身の欲得を満たすことしか頭にありませんでした」
その言い方は、二度とこの件を口に出すなと暗に迫っているように聞こえた。
「わかりました」冬子はうなずく。「わかりました。確かにわたしは、当事者でも関係者でもありません。無闇な詮索は、徳坊博士を軽々に扱うのと同じことでした。申し訳ありません」
素直に謝ると、徳坊は満足そうに「よろしい」とうなずく。
「仮に、わたしがあなたたちのことを警察へ話したら」
「たいしたことではありません。その情報は握りつぶされますし、あなたは社会から消えます」
消える、という意味がどこまでを指すのか、冬子には判別しかねた。
「それに、あなたがそのような愚かな行為をするとは思えません」
侮られていると感じる。
しかし、まさしく徳坊の言う通りだった。冬子は、赤西殺害を告発するつもりなどない。罪の共有は業として背負うにとどまる。
「徳坊総理は――……徳坊総理の、引退後の去就はお決まりなんですか?」
国の長は、待ち望んでいた質問だと言わんばかりに破顔した。
「引退したら、地元のサッカークラブの試合をすべて応援しに行きたいです。それくらいですかね」
夢を語る男の目は、とても真剣だった。
「観客席に座ったとき、他のサポーターから顰蹙を買わないようにまっとうな仕事をした上で引退したいと思っています。わたしは基本的に自分のことしか考えていません。わたしが穏やかな老後を過ごせるなら、国民のご機嫌取りくらいわけもないことです」
なんだそれは、と冬子は思う。呆れながらも、思わず口の端が緩んだ。
「養子の件は、考えさせてください。受けると受けないとにかかわらず、奥様とはお話をさせていただきたいです。わたしが力になれることがあれば、ご協力します」
「それはありがたいことです。断られることも想定していました」
「徳坊先生やあなたがいなければ、いまの朽木先生はいませんでした。わたしが朽木先生に会うこともなかったでしょう。徳坊家に対する恩は返したいと思います」
そうですか、と徳坊は顔をほころばせる。
「わたしも兄も、自分たちの次の世代が同じことにならないように、子供をつくりませんでした。妻も、そのことに賛同してくれる人を選んだ。我々がどんな考えを持とうと、実子がいれば外野は当たり前のように後継だと祭り上げます。そのことを理解してくれる妻でしたが、内心では子供を欲しかったのかもしれません。あなたを養子に迎えれば、きっと妻はあなたを大切にします」
冬子はファーストレディの名前を知らなかった。徳坊は「彼女はわたしの仕事には関わっていませんから」と愛おしむように言って「徳坊真祈子」の名前を紹介した。
「それと、これはお願いですが、退院されたら兄の家に住んでもらえませんか。兄が死んだとき、離苦に譲渡を申し出たのですが断られてしまった経緯があります。以来、無人の状態です。業者に管理を委託していますが、人が住まない家はいずれ死んでしまいます。あなたが住めば、離苦もついてくるでしょう。バリアフリーに必要なリフォームは行いますから、あなたがたの住まいとして使ってください」
確かに、退院後の住居がない冬子にとっては願ってもない話ではあったが、すぐに応諾するには過分なことでもあった。それをわかってか、徳坊は「これも、よく考えてお返事をください」と笑う。
「人類は不条理に打ち勝った。歴史はあなたと離苦を記憶します。だからこそ、これからもさまざまな辛苦が待っているでしょう。我々はあなたがたが愛おしい。だから助ける。それだけのことです」
徳坊龍二郎はこの後も公務があると言って、短い謁見を切り上げた。彼が部屋のドアを開けるころには、スーツに滲んだ雨はすっかり乾いていた。
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