第11話
警察は敷地内へ入った後、速やかに白装束の集団を確保し、道場の中へ集約した。大幹部三人は警察車輌に連行され、穏やかに眠ったままの八星は念のため近くの大学病院へ搬送された。
冬子は合宿所の個室へ移動を指示され、警察から事情聴取を受けた。苦味が立ち会ってくれたが、知らない刑事二人に矢継ぎ早に質問されて時系列と感情が混乱することもあった。それを指摘されてさらに混乱する。疲れていた。早く寝たかった。朽木は別室で聴取を受けていると言う。朽木が八星に麻酔薬を打ったことは傷害にあたるのか? 刑事に訊いても答えてくれなかった。刑事は冬子がワールドホープと関係があったのではないかと疑った。そんなわけはないと主張したとき、頭皮から土がこぼれた。足元へ落ちた黒い土と、ひどく破けたストッキングを見て、ひどく虚しさを感じた。それでも刑事の追撃は終わらず、冬子は気力だけで答えを重ねた。聴取が終わる頃には空は白く明けていた。
冬子の聴取が終わっても、別室の朽木の聴取は続いていると言う。
「老箱に薬を打っちゃってますからね、まあ検挙はされないでしょうけど、たっぷり絞られているとは思いますよ」
冬子の監視係なのか、苦味は聴取が終わった後も部屋に残った。
「新景さんは。あの人、発砲しましたよ」
「それは管理局内での処分になるでしょ。報告書を書いて終わりなんじゃないでしょうか」
「来ている警察は、東京の警察なんですか? そもそも、ここはどこなの?」
「警察は東京と地元の混成部隊です」
土地の名前を聞いたが、冬子は知らない場所だった。県名からして、東京から数時間は車でかかると予想することくらいしかできない。
「わたしの誘拐、大ごとになっていますか?」
ええ、と苦味はうなずいた。
「林野さんが誘拐された日、朽木さんはミーティングが長引いて職場を出るに出られない状況だったようです。守衛さんの話によると、林野さんが退勤された十分後に朽木さんは守衛所の前を通ったそうです」
「十分後」
冬子は愕然とした。その十分さえ我慢して待てば、こんなことにはならなかったのか。
「朽木さんはタクシーで店に向かったそうですが、あなたは来ていなかった。一時間待っても来ない、だから食事はキャンセルして、変身症研究センターの最寄駅まで戻ったそうです。それで駅からセンターへの道を歩く途中で、放置されているハイヒールを見つけたと」
「それがわたしの靴とは、朽木先生は知らないはずです」
「でも、異変があったことを感じたようですよ。すぐに僕に連絡をくれましたが、正直なところ、成人女性が数時間行方知れずになっただけでは警察も動けませんから、その時点では何もお力になれませんでした」
「それは、ごもっともだと思います」
「朝まで待って、あなたは出勤されなかった。朽木さんは林野さんが実家に帰っていることはありえないと主張しましたが、試しに僕がご実家に伺ってみました」
「わたし、職場のことで親に嘘をついていて、お手間取らせたと思います。すみません」
「いえ」苦味は苦笑した。「ご両親もはじめは僕のことを詐欺か何かと思われたようですが、事態が飲み込めると、『うちの娘は変身症なんかに関わるようなろくでなしじゃない』と勘違いされました」
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
「他にもいろいろおっしゃっていましたが、まあいいです。林野ご夫妻があなたを自分たちの人生の付属物くらいにしか思っていないことは、よくわかりました。捜索願はVRCから出していただきましたが、僕の上司が『どうせ家出だ』と言って捜査らしい捜査はできなくて。一応、僕が勝手に付近の防犯カメラはチェックしたのですが、特に何も見つけられず、時間ばかりが経ってしまって、申し訳ありませんでした」
「苦味さんは悪くありません。事態は、コレキシさんが朽木先生を訪ねてから動いたのですか」
「はい。彼女、八星から命じられてここから出たために所持金がほとんどなく、ヒッチハイクを繰り返してやっと東京にたどり着いたと言っていました。だから、到着が遅くなったと。カネの管理をしている大幹部は、彼女をあまり信用していなかったようで十分な交通費を渡さなかったそうです。その彼女をつかったことは、八星のせめてもの反抗だったのかもしれません」
「反抗」
「ええ。まあ実際はよくわかりませんが。どちらにせよ、コレキシさんから話を聞いた朽木さんが管理局と僕に連絡をして、この収拾につなげてくれました」
「この場所は、コレキシさんが話すまで、警察はまったく知らなかったんですか」
「まったく」苦味は潔く言い切った。「まず、刷毛目寿美礼さんたちの証言から、『山の中』だと思っていましたから、東京近郊の『山』を捜査範囲としていました。この辺は、確かに周囲に山はありますが、この土地自体は平地ですからね。盲点でした」
「老箱神知が、事件を起こすとは思っていなかった?」
「社会に打撃を与えるような事件を起こすとは思っていなかった、が正確だと思います。公安は夏に彼らが行ったUNGウイルス感染者の血液入手を、あまり重要視していませんでした」
「なぜ」
「一回きりで終わりだろうと。そもそも、本来はそう簡単に入手できるものではありませんから」
「現実には二度目があった」
言いながら、冬子は首を傾げる。
「そもそも、わたしが飲んだ血液は、本物だったのでしょうか」
「はい」苦味は顔に憐憫を浮かべる。「十二月二十八日、つくばの特殊感染症研究機構から持ち出されています。持ち出しの発覚は翌二十九日。すぐ警察に届けられ、容疑者の判明が三十一日の朝でした。ちょうど、コレキシさんが朽木さんの元へたどり着いたのと同じ頃です」
「ポスドクが、持ち出したんですか」
「金につられてやったそうです。一回盗めば三百万円の条件だったとか。その男も、ここの場所は知らなかったわけですが」
冬子の脳裏につくばの杉平所長が浮かぶ。被害者とはいえ、管理体制の責任は問われることになるだろう。
「コレキシさんによって、ようやく事の重大性が露見して、我々も動けたわけです。彼女には感謝をしなければいけない」
そうですね、と冬子は同じる。
「それと、八星救輪廻にも。――八星がコレキシさんを朽木先生の元へ遣わしましたから。彼はもう、ここを終わらせたがっていました。嫌気がさしていたようです、大幹部たちに寄生されているだけの状況に」
ただそれだけのことで八星やコレキシを許せるわけではない。同情できるわけでもない。だが、
「もう、わたしは埋められて死ぬことを受け入れていましたから」
死ぬ前に、もう一度、朽木の顔を見られるとは思わなかった。
「だから、彼らに、感謝します」
そして祈ろう。
祈りながら死のう、と冬子は思う。
彼らが、救われる日が来るように。
「林野さんには、お気の毒なことです。元職員をかばって血を飲んだと」
「かばったつもりもありませんが」
「血液は、変身症を発症してから採取されたものだそうです。そうなると、感染率は98パーセントですよね」
少し胸が痛んだ。目の前の男は、これで冬子は十年先に死ぬまで隔離される運命だと思い込んでいる。
そのとき、苦味の胸ポケットからバイブ音がした。モバイルフォンが鳴っているようだった。
「お仕事ですか? どうぞ、お出になって」
「いえ、家族からのメッセージです。あけましておめでとう、と」
「そういえば、年が明けたんですね」
「ええ。今年も帰省できなかったので、姪っ子にお年玉を振り込まないと」
「苦味さんのおうちは、誕生日にはちゃんとお祝いされますか?」
苦味は唐突な質問に当惑したような表情を見せたが、「お祝いはしていますよ」と笑う。
「お祝いというか、それこそ感謝ですね。誕生日とは、祝う側と祝われる側双方が、家族がいる、生きていることへの感謝を示す日だと両親から教わりました」
そうですか、と冬子は穏やかに言った。
まともに誕生日を祝ってもらった経験は、十年前の十七歳のときだけだった。
ケーキを前に、バースデーソングを歌ってもらった。
確かにあの時、冬子はセンセイの存在に感謝していた。
あの瞬間が、それ限りが、おそらく人生で最も幸せだった。
一月一日が夜にさしかかる頃、合宿所を出ることができた。警察の聴取もさることながら、管理局における冬子の処遇決定に時間がかかった。
「検査をしなければなりませんが、林野さんは感染している確率が高い。そのため、ひとまず隔離施設へ収容されることになりました」
朽木と共に冬子の部屋に入ってくるなり、新景は宣言した。
「幸い、変身症研究センターの一室が空いていると伺っています。林野さんは、その部屋へ収容、正月明け早々には検査を受けていただきます」
「空室って、福寿青賀さんの部屋ですか」
新景の肩向こうで、朽木がうなずいた。
「福寿さんは三十日に蛹化が完了し、水槽へ移動させた」
「わたしはまだこちらで後始末をしていくので、尾籠がお二人をお送りします。彼にはわたしの車のキーを預けてありますので、早々に出発されたい」
「わかりました。ご手配、ありがとうございます」
部屋を出る折、新景は冬子を呼び止めた。
「残り2パーセントに賭けましょう、林野さん。2パーセントは、感染しないのですから」
冬子は作り笑いを向けることしかできなかった。不自然な表情は、新景も気づいただろう。だがそれが、すでに感染していることの申し訳なさをごまかすための笑顔とは考えもしないに違いない。
合宿所の玄関には、冬子が道へ落としたハイヒールが揃えられていた。
「きみの靴でよかったか?」
道端にころがっていた靴を、朽木が持ってきてくれたのだろう。冬子はうなずき、素足を靴の中へ滑り込ませる。土でひどく汚れたワンピースをまとっていても、靴を履けば背筋が伸びた。
警察や管理局の調査官らしき人々がまだ大勢いる中を、冬子と朽木は突っ切った。林の外に複数停車している警察車両に紛れて、新景の車がアイドリングをしていた。
「お疲れ様です、林野さん、朽木さん」
運転席には尾籠が待機していた。二人が乗り込むなり、「申し訳ありません」と謝る。
「わたしの任務は林野さんの輸送です。あなたがたの逃亡防止のため、途中のサービスエリアなどに寄ることは禁止されています。お疲れでしょうが、このまま東京まで走ります」
「尾籠さんこそ、徹夜の上、運転していただいてすみません」
冬子が謝ると、尾籠は「いえ」と首を振った。
「警察車輌で行く案もあったのですが、まるで犯罪者のようだと新景が反対しまして、わたしが運転役を任せられました。わたしもこれで良かったと思っています。安全運転で行きますので、景色を楽しむなり、睡眠をとるなり、ご自由になさってください」
相当に気を遣わせていることに、冬子は申し訳なさを感じたがどうしようもない。
「いま、周囲にはマスコミも張り込んでいます。朽木さんはその格好だから関係者に見えるかも知れませんが、林野さんは、念のためこれを被ってください。できるだけ目立たない方がいいです」
尾籠は助手席からブランケットを取り上げて冬子へ寄越した。冬子は前屈みになり、渡されたブランケットを頭にかぶる。
そろり、と車が発進した。車外の喧騒が聞こえる。尾籠が何回か、短いクラクションを鳴らした。それから十分して、ようやくスムーズに走り出す。
「林野さん、もう大丈夫ですよ」
尾籠に言われ、冬子が起き上がると、車窓には見知らぬ田園風景が広がっていた。舗装された車道の両側に、細い歩道があり、その向こうには畑が広がっている。
「こんな景色が、あるんですね」
茫然とつぶやいた。死の二日前に見るとは思っていなかった風景だった。
「明るい」
空は曇っていたが、あたりは明るかった。
「ここはのどかですが、すぐそこに大きな街がありますから、そこの明かりが雲に反射しているんでしょう」
尾籠は努めて普通に世間話に応じてくれている。
車は、犬の散歩をしているカップルとすれ違った。
重装備のバイクに猛スピードで追い越された。
騒ぎながら歩く若者たちの集団を、追い越した。
それぞれの営みが、過ぎていく。
唐突に、目から涙があふれた。
「林野さん?」
朽木が声をかけてくれたが、涙は止まらない。
「わたし、わたし……、なんで」
言葉にならず、嗚咽ばかりが口から漏れた。全身で泣いていた。尾籠は何も言わず、バックミラーに様子を伺うこともせず、淡々と車を前に進める。
「疲れているんだ、きみは」
どうしてこんなに泣いているんだろう。
なんで、と言いつつ、何を質そうとしているのかもわからない。
疲れているから、なのだろうか。
そんなに疲れているだろうか。
自分でもわからない。
「寝なさい。起こさないから」
朽木は冬子の肩を抱き寄せ、自身の膝の上へ強引に冬子を寝かせた。冬子はされるがまま、朽木の細い太腿を枕にした。
冬子の肩を、朽木はゆっくりと、時間を刻むようにたたく。はじめは泣きじゃくり、朽木のユニフォームを涙で濡らしていた冬子も、手のリズムに安堵して、だんだんと睡眠の淵へ落ちていった。
一月二日の明け方前、変身症研究センターに到着した。
車寄せに、白衣姿の村名賀が待機していた。
朽木に揺り動かされるまで熟睡していた冬子は、上司の姿を車窓に認めて思わず居住まいを正した。
「林野さん、無事だったか」
冬子が車を降りるなり、村名賀は安心したように息をついた。
「ご迷惑を、おかけしました」
冬子が頭を下げると、村名賀は「そういうことは、やめるんだ」と両断した。
「部署のみなさんと安瀬センター長には先ほど連絡を入れておいた。みなさん安心なさっている」
遅れて降車した尾籠が村名賀に挨拶し、管理局の判断をあらためて伝えた。村名賀はすべて受け入れ、「あとのことは、わたしどもにお任せください」とうなずく。
「本来は、林野さんの収容を確認するまでわたしが付き添うべきですが」尾籠は三人の顔を順々に見た。「みなさんのことを信頼して、ここまでにしたいと思います。一月四日、またおうかがいします」
尾籠が去った後、村名賀は「部屋は用意してある。なにか持ち込みたいものはあるか」と訊いたが冬子は首を振った。
三人は建物内へ移動する。臨床部へ寄ることなく、収容フロアまで上がる。
普段は防護服を着たりカルテを用意したりする準備室や器材庫を通り抜け、何もない空間、前室へ立つ。
――「おはようございます」
スピーカーから、男性の声が降ってくる。
――「警備部の岩田です」
「おはようございます」村名賀が応じる。「先ほど連絡済みの通り、わたしの部下、林野に感染の疑い濃厚であるため、管理局からの命令で収容します。居室は609号室。特例として、わたしと朽木研究員の防護服着用は免除いただきたい」
――「承知しました」
音もなく扉が開く。目の前に、真っ白なリノリウムの床が伸びている。
――「林野さん」
収容フロアへ一歩踏み出そうとしたときだった。スピーカーから名前を呼ばれた。
――「あなたのプライバシーを重んじて、検査結果が出るまでは609号室のカメラとマイクをオフにしておきます。ゆっくり、やすんでください」
冬子が礼を言う前に、スピーカーの音声は遮断された。
609号室はたった数日前まで人がいた気配がないほど、狂いなく整えられていた。
本来なら、十年前に入っていなければならなかった部屋。
……――「六面真っ白のつまらない部屋で、発症するまでの十年を過ごす」
高校生の時、検査ルームで朽木に言われた言葉を思い出す。
発症するまで過ごす期間が、たったの一日になった、その不正を、二日後からは朽木一人に背負わせなければならない。
「安瀬先生が林野さんに会って無事を確かめたいとおっしゃっていたが、今、先生はつくばにいる。立て続けに発生した血液の盗難事件を受けて、全国の特殊感染症研究機構の支部長と安瀬先生が招集され、昨日から対策会議が開かれている」
「まだ、お正月も明けていないのに、ですか」
「緊急を要することだ。正月もなにもない」
それで良かったような気もする。安瀬に会って、どんな顔をすればいいのかわからない。
「一月四日、検査部の方が出勤したらすぐに血液検査を行う。それまでは、ここで静養を。――なにか食べたいものは」
村名賀の気遣いに、冬子は首をふった。誘拐されてから一週間、ろくな食事は出なかったためか、急にまともなものを食べても吐きそうな気がした。
「そうか。何かあれば、遠慮なく言ってほしい。わたしも朽木君も、センター内にいる」
「ありがとうございます」
「村名賀先生、このあと、わたしと林野さんで話をしても良いでしょうか」
朽木の申し出に、村名賀は部下二人をまんじりと見た。
「防犯カメラはオフになっているんだったか」
問題ないだろう、と村名賀は許可を出し「あまり長居はしないように」とだけ注意して、先に部屋を出ていった。
二人残された空間で、冬子は急に落ち着かなさを感じた。
「とりあえず、座ろうか」
それぞれが椅子に腰掛けた。
「すみません」
「何を謝る」
「先生のユニフォームを、濡らしてしまいました」
違う。そんなことを謝りたいのではない。
冬子は焦るが、適した言葉が口から出てこない。
「他人の服で拭いた涙は、早く乾くものだ」朽木は神妙に言う。「泣いた本人はそのことに気づかない」
「どういう意味ですか」
「きみを助けられるかもしれない」
冬子は呆ける。意味がよく、わからなかった。
「成虫化後も、福寿さんと交尾をしなくてすむということですか」
「違う。もっと根本的なことだ。きみの体内にあるUNGウイルスを、消滅させることができるかもしれない」
嘘、と冬子は空笑いをした。
「だって、研究、研究なんて、まだまだ全然、Ⅲ型の実験だってついこの間始められたばかりで」
「十二月二十三日の夜、Ⅰ型に感染させたマウスに、Ⅲ型のウイルスを感染させてみた。翌日、マウスは死んでいたが、その遺伝子を解析してみたら、遺伝子型がⅠ型からⅢ型へ置き換わっていた」
「どういうことですか」
「Ⅲ型がⅠ型を攻撃して、感染者の体を支配した」
「それは、どういう」
「Ⅰ型のマウスにアゲハのウイルスを感染させると、アゲハのウイルスにあるタンパク質が、Ⅰ型の標的RNAを急速に老化させ機能を阻害し、果てにⅢ型の遺伝子に置き換えた。Ⅲ型が炎症性タンパクの分泌現象を加速度的に増進させたために、Ⅰ型が耐えきれなくなって消滅した」
「具体的に、どうなるんですか」
「Ⅲ型のウイルスをⅠ型感染者に投与する。その後、定められた時間内にⅢ型用のmRNA阻害薬を投与すれば、Ⅰ型感染者から――きみの体からUNGウイルスそのものが消滅することになる」
冬子は目をしばたかせる。
「わたしの体から、ウイルスが消滅するんですか」
「正直なところ、必ず成功するとは言い切れない。一匹目のマウスは死んだ。その後、実験を重ねて、Ⅲ型のウイルスを投与してから、mRNA阻害薬を投与する有効時間も計算した。計算は正しいと思う。だが、生身の人間に試したわけではない。どんな副作用が出るか、そもそも死なないで済むかもわからない。だが、何もしなければ、きみは明日から七日目には蛹化が完了し、さらに七日後には虫になる。きみを、このまま、なにもしないまま虫にはしたくない」
だから、と朽木は言った。
「だから、治療をさせてくれ。今日しかない。明日には蛹化が始まる。ウイルスと薬を投与できる、それは今日だけだ」
「その実験が成功して、わたしの体からウイルスが消えたら」
「治療だ」朽木は強調した。「その治療が奏功すれば、きみは変身症を克服した初めての人類となる」
大仰な言い方に、現実感を見いだせなかった。目の前の朽木は真剣だった。平常は死んで何日も経った魚のような目が、今日ばかりは光を宿していた。
「わたしなんかが、『初めて』でいいんでしょうか」
「悪いわけがない」
「わたしは十年も感染を隠して、他の感染者と接してきました。そんなわたしが、克服なんておこがましいと思いませんか?」
「俺がきみの感染を隠した。きみにここへ入職するように指示した、それも俺だ。俺だけが責められればいい」
「法的にはそうなります。でも、わたしだって同罪、一蓮托生ではないですか」
「だったらなおさら、なにもしないまま、きみの蛹化を見届けたくない」
「朽木先生は、巴まひるさんにがんの治療を行う際には、彼女に治療の選択を与えましたよね。わたしに、選択権はないのですか」
「以前、俺の一部だと考えてもらえないかときみは言った。俺は自分の一部を失わなければならないのか」
朽木が拳でテーブルを叩いた。
明後日以降も生きるという選択肢が唐突に目の前におかれ、戸惑った以上に不安があった。一月三日で死ぬのだという覚悟があったときには、生きることへの欲求があった。だがそれは、これまでの人生を後悔したうえでの欲求だった。現実的に今後も生きるとして、自分はその欲求を満たせるだろうか。なにより、確実に発生するであろう外部からの非難に耐えられるだろうか。
肖像真心子が死んだ後に、彼女に対して発生した誹謗中傷が脳裏に蘇る。もしも自分が生きた場合、あの中傷の嵐に晒されて生きていくことが、できるだろうか。
「不条理は人を絶望に陥れる」
朽木の目は冬子を捉えて離さない。
「だが、不条理を乗り越えるのも人間だ。俺は乗り越える側の人間になりたい。きみが俺と一蓮托生だと言うなら、きみはこちら側に来て欲しい。頼むよ。俺に救わせてくれ。俺は楽を救えなかった。知愛子先生のときだって何もできなかった。もう、目の前で誰かを失いたくない」
考える余地のない選択かもしれない。だが、冬子は考えた。虫になることと、治療を受けることを天秤にかけた。とっくに受け入れていたことと、現実として受け止めきれていないこと。人間としての意識を失って交尾させられることと、人間として生きつつも非難を受け続けること。
――どちらだ。
冬子は立ち上がった。
「Ⅲ型がⅠ型を食ったなんて、概念的です」
朽木は冬子を見上げる。
「俺たちは概念に縛られている。だったら、それを利用して――その先の、自由へ行こう」
冬子はうなずいた。
「治療を受けます。不確実性の方が高くても、わたしが人間を続けられる可能性があるなら、そちらを選びます。この選択であなたが救われるなら、それはわたしの救いにもなる」
そうか、と朽木は言った。良かった、と自身の手元に視線を落とす。
「きみが行方不明になっている間も、計算を繰り返していた。希望を捨てずに、間に合わせることができて良かった」
朽木は噛み締めるように言った。テーブルの上の拳は震えている。
「朽木先生」
「うん」
「抱きしめてもいいでしょうか」
少しだけ、間があった。
その数秒は、考えるためではなく、理解するための時間だった。
朽木はうなずいた。
その首が元の位置に戻る前に、冬子は椅子を後ろへ蹴って、彼を抱きしめに行った。
「朽木先生。もし、治療の過程でわたしが死んでも、後悔しないでください。それは朽木先生のせいではありません。それから、わたしが死のうと生きようと、わたし達の不正を公にする必要が出てくると思います。その時の説明や対処はすべて朽木先生に任せます。わたしはどうなってもいい。でも、朽木先生には確実にこの後の人生が、あるから」
「俺は、法に則った罰を受ける心の準備はできている。それだけだ。第三者からの非難を聞く耳など持っていない。俺の人生に対して無関係な第三者による介入があったとしても、俺は奴らを相手にしない」
朽木の手が、冬子の背中にまわされた。その手のひらは、暖かだった。
落ち着いた。
全身の筋肉が柔らかくなっていくような心持ちにさえなった。
恋情のような不安定な思慕ではない。
「朽木先生。十年間、ありがとうございました」
応じるように、朽木は腕の力を強くする。
ずっと、こうしていたいと、冬子は願った。
願いながら、腕をほどいた。
「ウイルスと薬は、どうやってこの部屋まで持ってきますか」
「研究室に設定されている盗難防止システムの解除のためのコードは見つけてあるから、たいした手間にはならない」
「無断持ち出しですか」
うなずく朽木を、冬子は「だめです」と強く否定した。
「つくばで血液の盗難があったばかりなのにそんなことをしたら、研究機関の信用がいよいよ失われます」
「でも」
「せめて、村名賀先生の許可をとってください」
「だが、村名賀先生が許可をするかどうか。仮に許可してしまったら、村名賀先生まで共犯になる」
「村名賀先生には、許可をとると同時に、安瀬センター長と管理局へ報告してもらってください。村名賀先生が報告すると同時にウイルスと薬を投与しに来てください。そうすれば、村名賀先生は共犯にはならない」
朽木はじっと冬子を見ていたが、やがて「わかった」とうなずいた。
「村名賀先生に許可をいただけるよう、なんとか説得する。それから、警備部に、俺が一人でこの部屋を訪室することの許可をとらなければいけない。朝食の時間帯だと、人の出入りが多いから、時間は十時にしよう」
「お願いします。もし仮に朽木先生が村名賀先生を説得できなくても、誰も悪くないです。大変なことをお願いしてしまって、すみません」
「そんなことはいいんだ。――だから、待っていて」
朽木は険しくなる表情を無理に歪めるように笑い、そして、部屋を出て行った。
十時までの間に、冬子はたっぷりと時間をかけて入浴を済ませた。ようやく体についた土を落とせてすっきりする。着ていたワンピースは室内のクローゼットにかけ、備え付けのパジャマを着た。
清潔な体でベッドの上へ仰向けになる。こうして見ると、部屋は本当に六面が白く、家具の存在にも関わらず殺風景だった。
他の収容者たちは起きているだろうか。今日が一月二日、松の内であることを実感できているのだろうか。
ここで十年間寝起きすることを想像してみる。自分に、耐えられるだろうか。
収容者の精神状況の分析を行い、論文にまとめはしたが、それで閉じ込められた者を救えるなどと思い上がりも甚だしいのではないか。
……――「救いは与えられるものではなく、自らの中で生み出すものだ」
八星の言葉が脳裏に蘇る。
自分にできることは、結局、寄り添うことだけだったのかもしれない。
共に生きようとすることだけだったのかもしれない。
わからない。
考えれば考えるほど、体の中へ鉛が投じられているような気がした。
簡単に答えが出るならば、そしてそれが普遍的に実現できているならば、『八星救輪廻』はいなかったかもしれない。
鉛を抱く感覚を受け入れながら、冬子は白い部屋の中で、朽木を待った。
十時ちょうどに、朽木はあらわれた。
彼は防護服を身につけていた。
「きみの栄養状態が悪いから補液をするために入室したいと警備部に言ったら、医療行為をするなら防護服を着ろと言われてしまった」
「村名賀先生は」
「驚かれた。驚きすぎて叱責すらなかった。だが、俺ときみの計画は理解してくれて、ウイルスと薬の持ち出しの許可を得た。今頃は、安瀬先生に報告してくれている」
冬子は思わず安堵のため息をついた。その様子を見て、朽木は防護服の下で笑う。
なんとも不思議な気分だった。いままで防護服の内側にいたが、今は防護服の外側にいる。世界が、違う。
朽木は薬品を入れるための金属トレーと、輸液ポンプを持参していた。輸液ポンプは、巴まひるの抗がん剤治療のため、セントラル西病院から貸与されているものだった。冬子がそのことを指摘すると、「巴さんの次の治療は来週だから大丈夫だ。mRNA阻害薬を、これで投与する」と返答される。
朽木はバスケットからmRNA阻害薬のパックを取り出して輸液ポンプへ取り付けた。キッチンタイマーをセットし、手元へおく。冬子の右腕に駆血帯を巻く。準備を調えてから、朽木は最後にⅢ型のウイルスが入ったスピッツを出した。
「無造作ですね」
「研究室から持ち出すときに、あまり大仰にしていても不自然だろう」
スピッツの中の液体は紫色をしていた。虫の体液そのものの色だった。
「アゲハの血清だ」
ぬらり、と光る液体を、朽木は注射器で吸い上げた。シリンジの中へ、血清が溜まる。
「アゲハが、わたしを生かしてくれるかもしれないんですね」
防護服越しに朽木が血管を探す。指が何度も前腕の内側を行き来する。ここだと決めた場所をアルコール綿で消毒される。朽木は狙った部位へ針を刺し、駆血帯を解いた。
冬子の顔を確認し、朽木はゆっくりと内筒を押し込み始めた。
少しずつ、血清が冬子の静脈に入っていく。
心なしか、鼓動が早くなった。
朽木の顔を見ると、ただただ針先に集中し、簡単な手技にも関わらず額から汗が垂れている。
冬子は生唾を飲み、無意識に下唇を噛んでいた。
注射器の中が空になるまで、一分を要した。
針を抜き、バスケットの中の廃棄ボックスへ注射器を収納すると、朽木はタイマーを押した。
「これが鳴ったら、mRNA阻害薬を入れる」
「何分後ですか?」
言われた時間は、思っていたよりも短かった。朽木は手早く、点滴のための留置針を冬子の腕に刺し、いつでも滴下を始められるように準備をする。
「間に合って、良かった」
あとは輸液ポンプのボタンを押すだけの状態まで整えたところで、朽木はつぶやいた。
「新型のシーケンサーを買ってもらえていなかったら、おそらく間に合っていなかった。Ⅲ型のmRNA阻害薬の開発も、他施設に協力してもらえていなかったらまだここになかったかもしれない」
言いながら、朽木は冬子の手を握る。
「いや、違うか。それだけではない、この四十年の研究者や関係者の努力が、すべてここへたどり着いた」
冬子はうなずいた。
うなずきながら、腹の奥の方に違和感を覚えていた。
粘膜を内側から撫でられるような、違和感。
「もし、これでウイルスが消滅したら、桂樹軒へ行きたいです」
違和感をごまかすために、冬子は笑った。
「ステーキを、食べたい」
「桂樹軒――」懐かしむように、朽木の目元が優しくなる。「クリスマスイブの日、きみをテーブルで待っていたら、知っている人が声をかけてくれた」
「知っている人?」
「雪持さんの奥さん――雪持満月里さんが、ホール係として働いていた」
冬子は目を丸くした。
「どうして」
「向こうも忙しそうで詳しいことは聞けなかったが、諭留さんが亡くなったあと、働き始めたそうだ。別人のように溌剌としていた。俺たちが来るのを、楽しみにしてくれていたそうだ」
最後に会った雪持満月里は、夫が死んだ後に遺体を引き取れないことをひどく嘆き、悲痛な表情を浮かべていた。この世のすべての悲しみを痩せた肩にのせたような人だった。
「それは、絶対に行かないといけませんね」
うん、と朽木はうなずいた。
「林野さん、この治療が成功しても、俺の不正は公表されることになる。バッシングを受けるだろう。それをなるべく抑制するために、コレキシさんに、記事を書いてもらおうかと思う」
「あの人に?」
「肖像真心子に対する誹謗中傷を発生させた原因であることはわかっている。でも、あの人がここへ来た時、きみのことを助けてくれと俺に言った。たぶん、それは本心だったはずだ。もしかしたら、協力を仰げるかもしれない。メディアの力で、世論を動かす」
「できるでしょうか」
「やってもらう。実際にあの人の記事で、大衆の負の感情は操作された」
「でも」
非難を受け入れなければ、不正を行った十年の償いはできないのではないか――言いかけた時、朽木は「俺が、そうしたいんだ」と優しく強弁した。
「きみと穏やかに過ごせるように」
その一言で、反論する術を冬子はなくした。冬子は思わず、短く息をつく。
「朽木先生が、そうおっしゃるなら。コレキシさんと連絡はすぐにつきますか」
「あの人、あの身なりでもなぜか名刺だけは持っていた。ちゃんともらっているよ」
「名刺……」自分も、夏の終わりに受け取っていた。「わたしも彼女から名刺を渡されましたが、すぐに捨ててしまいました。名前すら見ずに」
そういえば、と冬子はさらに思い出す。
「十年前、検査ルームで朽木先生からいただいた名刺も、その後すぐに、破いてしまいました。あなたの名前を見て、神経を逆撫でされて。離苦なんて、人を馬鹿にしたようだと思ってしまって」
「俺の名前は八苦の一つ、愛別離苦が由来だ。名前は、親が子供に最初に与える呪いだよ。実際、その通りになった」
「そんなこと、言わないでください」
体の違和感が、大きくなる。
「八星さんが言っていました。『人は苦しみから離れることはできない。それなら、支え合うことが正しい選択だ』。それも確かに、正論なのかも知れません。わたしは、今後生きることができても、きっと苦しみと無縁ではいられない。でも」
言いながら、朽木の手を強く握り返した。その自分の手のひらは、ひどく汗ばんでいた。
「林野さん? どうした?」
朽木も異変に気づいた。
急に下腹部を刺すような痛みが襲った。
「朽木先生、もし生き続けることが許されるなら、わたしは、愛を込めて、あなたの名前を、呼びます。呼ばせてください。わたしはあなたを支えます。わたしはあなたから離れない。だから」
「そんなことよりどうした、大丈夫か」
下腹の痛みは強くなるばかりだった。痛みのあまり声が上がる。腰から頭まで雷電のように痛みが走る。思わずもんどりうった。
「林野さん!」
朽木の声が遠くに聞こえた。
――まずい。
少しでも油断して意識を手放したら。
――死に、ひきずりこまれる。
冬子は痛みに耐えながら目を見開いた。
「だから、先生も、わたしの」
息が上がる。
「名前を、よんで」
呼吸が苦しい。
「林野さん!」
朽木が両腕をつかむ。
その力すら、痛みにつながる。
タイマーがけたたましく鳴った。
朽木は我に帰り、輸液ポンプのボタンを押す。
痛みは止まらない。
脈打つように、体の中で何かが暴れている。
見たはずもない死んだマウスの姿が脳裏をよぎる。
これまでに見てきた、虫たちの姿が浮かぶ。
虫の紫色の体液が強烈に視界へ蘇る。
下半身に湿りを感じた。
痛みに耐えながら濡れているあたりを触ると、手のひらにべったりとどす黒い血がついていた。
性器出血なのか下血なのかもわからない。
唐突に、天井から非常ベルの発報音がけたたましく降ってきた。
――「朽木先生、どうしましたか!」
朽木がコールペンダントを押したのだろう、そのことを理解するより先に、張り詰めた岩田の声が降ってくる。
「すぐに村名賀先生へ、臨床部の先生たちを呼び寄せるように伝えて!」
指示する朽木の声は、非常ベルの音にまぎれる。
「それから輸血の手配を! B型だ!」
鼓膜どころか全身の肌を叩くような、ベルの音。
殴られているような、切りつけられているような、いくつもの痛みが体全体で生じている。
理性が脳幹から転げ落ちていきそうになる。
「林野さん!」
五感が麻痺していく。
目も開けていられなくなった。
「はやしの、林野……――冬子‼︎」
名前を呼ばれ、うっすら目を開けた。
朽木の防護服は、冬子の血で汚れていた。
赤い赤い赤い赤。
白い防護服に赤い血。
白い部屋。
綺麗な部屋。
赤い汚れ。
――人間の、血。
――――わたしの、血!
ベルの音が消えた。
自分が意識を手放したのか、ベルの発報が止められたのか。
わからないまま、知らない暗い空間へ落下していくような体感を得た。
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