第10話

 頭痛がした。頭の痛みで目が覚めた。目を開いてまず初めに見えた天井は白かった。

 指先に、なめらかな布の感触を得る。それがシーツでだと気づくまでに十秒はかかった。

 体の上には軽い布団がかけられている。服は襲われたときのままだ。意識はまだ朦朧としている。

「起きました?」

 横から女の声があった。聞いたような声だった。

「ずいぶん寝ていましたね」

 鬱陶しい、低い声。

「今日、十二月二十六日ですよ」

 首を動かして視界にいれた女を見て、冬子の意識は一気に覚醒した。

 蛇女。

 九月にVRCの前で冬子に声をかけてきた女だ。

 その女が、ベッドサイドの椅子に腰掛けてこちらへ微笑みかけている。それは確かに冬子が「蛇女」と認識していた女だったが、以前とは妙に印象が異なっていた。少し伸びた髪はベッタリとした黒色で、身につけているものは白い麻の胴衣のような服だ。ピアスをすべて外している耳には、無数の小さな穴が開いている。

「あなた、なんでここに」

 冬子は頭痛に顔をしかめながら半身を起こした。部屋を見渡せば、そこはダブルベッドと蛇女が座っている椅子、それに安っぽい木製のタンスがあるばかりの殺風景な部屋だった。

「ここ、ワールドホープ?」

「そうですよ。お察しが早い」蛇女は割れた舌先をちろちろと出す。「あなた、誘拐されたんですよ」

「あなた、ホープの人だったの?」

「わたし、一応あなたよりも一回りくらい年上なんですけど、口の聞き方を工夫されたらいかが」

「以前会った時、あなたはホープのことを他人事のように話していた。今は、違うの?」

「起きたばかりで、体調は大丈夫かしら」

「ここはホープの合宿所?」

 蛇女は嘆息し、唐突にベッドの端へ座った。

「ちょっと黙ってください。矢継ぎ早にうるさいわ。あなたはわたしの背中を見て。わたしは壁を見るから。そうすれば少しは落ち着くでしょ」

 一瞬冬子は激昂しかけたが、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。蛇女の背中は、見る側が狼狽するほど薄くて狭い。

「確かにあなたの言う通り、九月時点でワールドホープはわたしにとって他人でした。わたしはゴシップ誌に記事を売るしがないフリーライターですけど、芸能人のスキャンダルや政治家の汚職より、変身症に関する取材に時間を割くことのほうが多かったんです。ワールドホープについても、新興の変身症感染者や家族の支援団体だってこと、でもあまり良い評判もないってことで興味を持って取材の一環で近づきましたけど、あちらさんが全然相手にしてくれなくてね。しょうがないから外堀を埋めようと思って、わずかなネタを手がかりにあなたに会いに行ったの。九月はそういういきさつ。だけど、十月半ばくらいに急にホープの方からわたしに連絡がありました。『うちの広報官にならないか』って」

「広報官?」

「そ。大幹部待遇として迎えるから、ジャーナリストのあなたに広報官としてワールドホープのすばらしき活動を世に知らしめてほしいって。わたしはジャーナリストではないし、そもそもジャーナリストに広報としての性格はないわ。なにを頓珍漢なこと言っているんだろうと思ったけど、内部事情を探れるならいいかと思って引き受けたわけ」

「原因?」

 嫌な予感がした。

「元守衛長ですよ」

 やっぱり、と冬子は下唇をかむ。

「あなたへの意趣返しがしたくて、いまの変身症施策に反対している団体に片端から協力を願い出たそうです。第一声は『変身症研究センターで行われている野蛮な人体実験をやめさせたい』と言って。でも、そのあとですぐに定年前に懲戒解雇になったことの恨み言、特に若い女の職員が自分を陥れたと虚実ないまぜの話を垂れ流していたそうで、どこの団体も信用しなかったそうよ。これは、カイナンが元守衛長から聞いた話を確かめるために、それらの団体に聞いた話だから本当でしょう。だからこそ、ワールドホープはあいつを抱え込んだわけ。元守衛長が林野さんを恨んでいることを利用して、朽木離苦を陥れるために」

「それは、八星救輪廻の欲求?」

「そうね。あの人は子供の頃の環境に執着している。そこには、始終一緒にいた朽木離苦が必要」

「わたしは、人質として誘拐された?」

「ええ。大幹部たちは元守衛長にあなたをストーキングさせていました。でも、十月末からあなたはいっさい研究センターから出て来なくなった。その直前、駅ビルの服屋でクリスマスイブに出かけるための服を買いに行きましたよね? そのときにあなたが店員とした会話の一部を、元守衛長は聞いていました」

 冬子は自分が着ている服を見下ろした。試着した中でこれが一番似合っていると言った店員、彼女は確かに甲高い声で「クリスマスイブ」と発していた。自分が装おうとしたせいで、こんなことになってしまっているのか。悔しさのあまり、冬子は握った拳を震わせた。

「だから、こんなに都合よくわたしを連れ去ったのね」

「ええ。都合よく、睡眠剤まで用意して。それにしても、よく眠っていましたね。セツが『こんなに寝るほど強力な薬じゃない』って心配して、わたしにあなたの様子をみるよう命じたわけ」

「たぶん、寝不足だったから……そんなことより、あなたはワールドホープに潜入しただけ? それとも、もうミイラになった?」

「ミイラ取りがミイラ、にはなっていないから安心してください。わたしはあいつらが言う『楽園』なんて信じていないから」

「あなたは広報官としてなにをやっているの?」

 蛇女は首をふった。

「なにも。なにもやっていません。ワールドホープのスタッフになることを応諾した直後に東京の事務所がたたまれてしまって、ここへ連れてこられた。現状、わたしの仕事は何もない。」

「ここは? なんなの?」

「ここは合宿所。UNGウイルスの感染者の親族などを保護するための施設だと聞いていたけど、そうじゃない人もたくさんいます」

「たとえば、葦手もあのような?」

「アシデモア?」

「十月くらいに、VRCへ収容された。他に、刷毛目寿美礼や笹蔓紹太も。三人とも、ここのスタッフで、UNGウイルスに汚染された血液を投与された人たち。ここのスタッフだったって聞いてる」

「ああ、『楽園の儀式』に出たスタッフね。確かに、スタッフになる人たちは変身症と直接の関係がない若者が多いかも。その三人は血液を投与された後に体調がおかしくなったから、都内の病院へ運んだって聞いているけど、わたしがここへ入る少し前のことだから詳しくはないですよ」

「少し違う。虫になって死んだ人は楽園へ行ける、人々を楽園に導けると言われて、その血液を投与された後、三人は抗生剤を過剰投与されて急性腎不全に陥った。ホープの大幹部たちは、彼らの体調不良の理由がわからなかったから、三人を生かしたまま都内の道に置き去りにした。三人はそれぞれ脅されたり、思い込まされたりしてなかなか二ヶ月以上もホープのことを黙秘していた、これが真実です」

「そう」蛇女は顔半分を冬子に向けた。「なるほど、としか感想が出てきませんね。そういうことを、簡単に実行してしまうやつらだから」

「ホープは、人を殺してる?」

 蛇女はうなずいた。

「わたしが来てからも、二人消えてる。わたしはまだ現場に立ち会ったことはないけど、たぶん殺して、墓地に埋めてますね」

「墓地があるの? 合宿所なのに?」

「ここは、『救済の法』のノガレを忠実に再現しているんですよ。建物の配置も、畑の位置も、墓地も。ここへ来て、中を案内してもらった時に気づいたの。以前『救済の法』事件の資料で見た施設内の見取り図とまったく一緒だって」

「それは、八星救輪廻が『救済の法』を復活させようとしているってこと?」

 蛇女は首をふる。

「あの人にはそういった情熱も、そのたぐいの欲望もありません。ワールドホープを新しい『救済の法』にしよういう企みは、大幹部の三人にある」

「セツとエノスとカイナン?」

「そう。わたしも本名は知らないけれど、もともとは八星救輪廻が働いていた老人介護施設にセツの祖父が入所していて、面会に来たセツが八星と出会ったことが始まり。『救済の法』事件のとき、セツは小学生だったそうだけど、事件のニュースを聞いて『怖い』と思うより『ワクワクした』って。人を集めて宗教を信じさせるだけで、その人たちの人生を操れるってことを知って、ワクワクしたって。そのセツにとって、事件の生き残りで首謀者の息子である老箱神知はヒーローだった。ネットで調べてその半生も本名もほとんどを知って、でも、事件後の老箱がどうしているかはわからなかった。それで祖父と面会するために訪れた施設で老箱を見たとき、体が震えたと」

 冬子は大きく顔をしかめた。

「わたしには理解できない」

「わたしだって同じですよ、理解なんかできない。でもセツはインターネットを通じて知り合ったエノスとカイナンに声をかけて、老箱を持ち上げてワールドホープを設立したんですよ」

「NPO法人だって嘘をついて」

「そう、NPOの申請なんてしていない」

「さっきわたしが話した三人の件がきっかけで、警察はワールドホープを捜査してる」

「それ、どこまで進んでいます?」

「この合宿所を見つけようとして見つけられていない。葦手さん、刷毛目さん、笹蔓さんの証言だと、合宿所に連れて行かれるまでに目隠しをされていたのと、それぞれ所要時間が異なっているために場所が割り出せていないみたいで。山の中だとはわかっているんだけど」

 蛇女は眉を顰めた。

「それ、騙されてますよ」

「どういうことですか」

「ここ、山の中じゃないですもの。北関東の片田舎の林の中。手頃な土地を買って、近所の業者に建てさせたの」

「でも、三人とも山の中だって言ってた」

「そう思い込まされていただけ。柵の外には出るなって言ってあるし、周囲は木が鬱蒼と茂っているから山の中だって言われれば納得してしまう。みなさん、ここへ連れてこられるときには目隠しをしているし」

「捜査を撹乱するために山の中だと思い込ませた?」

「そ。こういうことが起きたとき、ちょっとでも場所を見つけられる可能性を低くするため」

「八星や、大幹部たちは警察の手が及ぶかもしれないことを念頭においているの?」

「違法行為ばかりですからね。いずれは、と思っているようです。ただ、八星救輪廻はハリボテ。大幹部たちは八星救輪廻を担ぎ上げておけば、いざ逮捕された時にはすべての罪を八星になすりつけられると考えている」

「ワールドホープって、なんなんですか」

「セツとエノスとカイナンで作った、玩具箱です。一番の玩具は、八星救輪廻」

 気分の悪い話だ、と冬子は顔をしかめる。

「その玩具のご機嫌をとるために、大幹部はわたしをさらった?」

「ええ、あなたを人質に、朽木離苦をここへ呼び出すために」

「もう、朽木先生に連絡はしたの?」

「まだです」蛇女は明言した。「あなたがちゃんと目を覚ますかわからなかったし、それに、何日間かはあなたの行方がわからない方がいいって八星は言っているそうです」

「なぜ」

「朽木離苦を苦しませるため。恋人が行方不明になって苦しむ彼を想像するだけで楽しいって」

「はあ?」冬子は思わず声を上げた。「恋人? わたしたちはそんな関係じゃありませんよ」

「そんなこと、わたしにはどうでもいいですよ。でも、すくなくとも八星救輪廻はそう思ってる。そう思って、あなたを憎んでる。八星にとって、朽木離苦は自分だけのものだから」

 冬子の胸の内に後悔が一瞬にして湧き上がり、渦巻いた。全部わたしのせいだ。八星に会おうと言った、それは自分だ。あのときの会談が原因でこの状況を誘発したのなら、それはすべて自分のせいだ。

「八星はまだ、わたしがここにいることを朽木先生に知らせていないんですね?」

「ええ」

「お正月が明けるまで、朽木先生への連絡を待ってもらうことはできない?」

「どうして」

 蛇女は訝しげに振り返った。まさかわけを話すわけにもいかない。いま、仕事に打ち込んでいる朽木の邪魔をしたくはない。一月三日になれば自分の蛹化が始まる。それまでに、どうにかして死ねば、朽木が研究に費やす時間のロスを少しでも減らすことができる。

「とにかく、迷惑をかけたくないの」

 それだけ、冬子は言った。蛇女は詮索するように冬子を見たが、やがて肩をすくめた。

「むしろあなたは、ワールドホープから迷惑を被っているほうだと思いますけど」

「あなたは、いつまでここにいるの? 下手したら、犯罪の片棒を担ぐことになるんじゃない?」

「潮時はそろそろ近づいています。あなたの誘拐を、知っているわけだし。おそらく、朽木離苦への伝達係にはわたしが任命されます」

「大幹部じゃなくて?」

「八星はたぶん、わたしを伝達係にします。伝達係としてここから離れたタイミングで、わたしはホープから足を洗う。ここは、深入りするにはやばすぎる」

「その後は、ここでのことを面白おかしく記事にするの? 肖像真心子にしたのと同じように?」

「それが、わたしの仕事ですから」

「肖像さんは、高校生だった。本来なら、大人が守るべき対象だった。それなのに、あなたがあんな記事を書いたせいで、あの子は死んでから世間に殺された。何度も何度も、他人の忌憚ない悪意で名誉を傷つけられた。それは、殺人と同じことです」

 蛇女は目をすがめた。

「肖像真心子も、コンビニ店長の貝桶も、彼らが悪いとわたしは思っていますよ。そういうことをしたのだから」

「そういうこと?」

「変身症になってもおかしくないこと」

「肖像さんはウイルスに感染していなかった!」

「でも、不安になるようなセックスをした、それはハイリスク行為です。人間にとって、禁忌にすべきこと。そんなことをしてもなお、人権が守られるなんて安穏としているなら、思い上がりも甚だしいわ」

「人間にとって禁忌にすべき? 禁忌を破れば人権剥奪もやむなしということ? そう考えるほうが思い上がってる」

「林野さん、あなた、変身症のせいで大事な人を失ったことがありますか」

 冬子は一瞬、返す言葉を失った。

「わたしは大好きな人を失いました」

 昔の恋人が変身症を発症して自殺した、と冬子が脳内で文章を構築する間もなく、蛇女は話し始める。

「以前勤めていた会社の先輩です。これでも前は証券会社勤めだったんですよ。先輩は女性だったけど、営業部で常に売り上げ一位を死守していました。わたしは彼女に心酔していた、彼女の一挙手一投足を真似て、成績も彼女に追いつこうと必死になって仕事をしていました。なにより、彼女がわたしを良く面倒見てくれたことが嬉しかった。でも、十年近く前、彼女の弟が、変身症を発症して蛹化の最中に自殺した」

 冬子は思わず蛇女を凝視した。

「彼女の弟は有名な私立の女子校で教師をしていました。教師だろうが聖職者だろうが、病気になる時はなるでしょう。でも、週刊誌がそれを取り上げたとたん、先輩に対する実態のないゴシップも死体に湧く蛆虫のように発生した。先輩はなんの関係もなかったのに。誰も先輩を守らなかった。わたしも守ることができなかった。先輩は会社から追い出されるように辞めて、辞めたその日に特急電車の前に身投げしました」

 センセイは自分に姉がいると言っていた。センセイが死んだあと、学年主任の数学教師が「変身症の家族の風当たりは強いし、今頃どうしているか」と案じていた、その、家族。

「先輩が退職した日、わたしは彼女のあとをつけていました。なにか声をかけたかった、でもなんて言っていいのかわからなかった。迷っているうちに駅に着いて、彼女はおもむろにホームから線路へ飛び降りました。体が電車にぶつかる音、ブレーキ音、周囲の悲鳴が、耳に残る。散らばった肉片や、血の生々しい臭いが、鼻腔に残る。残っています、今も残っています。美しかった先輩は、わたしの目の前でぐちゃぐちゃになりました。すべては先輩の弟のせい。彼が変身症なんかを発症しなければ、先輩がみじめに死ぬこともなかった」

 憎悪が滲む声音。

「だからわたしは殺す側にまわったんです。UNGウイルスなんかに感染するようなリスクを冒す奴は、徹底的に叩きます。無関係な奴らが先輩を私刑にしたように、わたしも誰かを殺します。そうしなければ、UNGの感染は永遠に繰り返される」

 冬子は思わず前のめりになって「だめです、そんなの」と諌めた。

「あなたのその考え方は、負の感情の循環にしか、なりえない」

「著名人でも一般人でも、男でも女でも、子供でも老人でも、わたしは平等に叩きます。そうすることで、人は自衛するようになる。感染すれば家族に迷惑がかかる、自分の名誉が傷つけられる、それらが抑止力になれば、愚かな新規感染者が増えなくなる。感染という循環を止めるための、必要悪です」

 あなたは間違っている、と冬子は叫びたかった。しかしできなかった。蛇女の薄い背中は小さく震えていた。

 自分ばかりが不幸だと思っていた。センセイの変身症発症で、見知らぬ他人が、センセイとはなんの関係もないはずの他人までが苦しんでいることを、想像したことなどなかった。

「あなたのことに限って言えば、誰も悪くなかったです」冬子は絞り出すように話す。「その、感染した男性も。自分が望んで感染したわけではないんですから。彼には恋人がいたし、その恋人は彼が感染したことでいまも苦しんでいる」

「十年近く前のことですよ。どうしてあなたがそんなことを言えるんです?」

 わたしが彼の恋人だったからだ、とは言えなかった。言えない代わりに、「何人もの感染者と接していれば、そういう想像もできます」とつぶやくしかできなかった。

「お題目で綺麗事。関係のない他人はいっつもそう」吐き捨てるように蛇女は言った。「気持ちの痛みを体の痛みで抑えることが生きる術だと想像することもできない、安全地帯のすクソ虫ども」

 蛇女は自身の腕に視線を落とした。無数の切り傷で硬く盛り上がった皮膚がそこにはある。会社員時代にはなかったのであろうピアスの穴も、数え切れないほど耳にある。ここまで傷をつけるために要した時間は、短いものではなかっただろう。

「長話をしてしまいました」蛇女は、震える息を吐いて冬子に向き直った。「あなたが目覚めたら八星を呼ぶよう言われているんです。あなたの希望である、朽木離苦への連絡が正月明けにできるかどうかはわかりませんが、話すだけ話してみます」

 蛇女はすっくと立ち上がって部屋を退出しようとする。

「待って」冬子は思わず呼び止めた。「あなたの名前、ごめんなさい、もういちど教えてください」

 蛇女は振り返り、自嘲するように顔を歪めた。

「コレキシです。コレキシ、ミオコ」

 耳慣れない音にどのような字をあてるのか冬子は訊きかけたが、コレキシは扉の向こうへ姿を消した。

 後に残され見渡した部屋は、殺風景でいて生活感を感じられる奇妙さがあった。強いて例えるならホテルに近い。だが、ホテルのようなホスピタリティは微塵も感じられない。なぜダブルベッドなのだろう、なぜタンスがあるのだろう、と考え、ふと朽木の話に思い至る。娘の楽を生贄にさしだした朽木の両親は、教団から個室を与えられたと――『救済の法』で限られた信者のみに与えられた個室、それを模したのではないか。そう思ってしまうと、自分が座っているダブルベッドがおぞましく感じられて冬子は床へ足を下ろした。スリッパなどもなく、ストッキング越しにカーペットの起毛を鬱陶しく感じる。

 そのとき、ノックもなくドアが開いた。黒い人影を認めた瞬間、冬子は部屋の最奥の壁へ飛び退くように背中をつけた。

「そんなに怖がらなくてもいいではありませんか」

 入室は、八星救輪廻ひとりだけだった。

「怖がってなんかない。ただ、近づかないでほしいだけ」

 壁紙の凹凸を指に感じながら、冬子は八星を見据えた。

「べつに、あなたを殺そうとも、犯そうともしているわけではないのですから、そう睨みつけなくても」

「わたしを大幹部に誘拐させた張本人の言葉なんて信じられるわけがない」

 八星は「困りましたね」と眉尻を下げ、それまでコレキシが座っていた椅子へ腰を下ろした。

「僕が彼らにあなたの誘拐を命じたわけではありません。彼らが善意で行ったまでのこと」

「あなたがワールドホープの主宰でしょう? 部下のコントロールはあなたの責任ではないの?」

「そうですね。その点においては、謝罪します」

「この後、どうするんですか。わたしをエサに、朽木先生を呼び出すの?」

 八星は冬子を窺うように見る。

「そうすることが、大幹部の目的です。離苦は、恋人のあなたを放ってはおかない。違いますか」

「違う。わたしと朽木先生は恋人じゃない。ただの上司と部下です。わたしに人質の価値なんてない」

「本当に?」

 冬子は言葉に詰まった。ただの上司と部下と言うには、大きな罪を共有してしまっている。しかし、何をされても言うわけにはいかない。八星の瞳は見れば見るほど深淵めいて吸い込まれそうな感覚に陥る。

「さっさと殺して」絞り出すような声で言った。「朽木先生はきっと来ない。まだ連絡はしていないんでしょう? それなら、わたしをさっさと殺してどこかへ捨てて。そうすればあなたたちの罪は露見しない。あの大幹部は、人を殺し慣れているでしょう? それなら、わたし一人殺すくらいわけないはず。これはいい提案だと思いませんか」

 突飛な申し出にも八星は驚きを見せず、むしろ薄く笑みを浮かべた。

「あなたは自分が犠牲になることで、離苦を守ろうとするつもりですか」

「それは、どうせ」あと八日後には人間ではなくなるのだから、と言いかけて「わたしなんて、べつに生きていなくっても」とごまかした。

「人生を悲観すべきなにかが、あなたにあったのですか」

「悲観すべきことがないまま死ぬ人と、そうではない人、どちらが多いと思いますか?」

 冬子が話をはぐらかすと、八星は「さあ」と人懐っこく笑う。「僕は、ただ死ぬだけの人間です。死ぬまでただ、生きているだけ」

 悟っていると言うよりは、諦めているかのような物言いだった。

 楽園を求めた『救済の法』そのもののようだと冬子は思う。業病に抗うことをあきらめ、むしろ利用し、そして何十人もが命を落とした。この男もきっと、「ただ死ぬ」までの間に何人もの他人を巻き込むのだろう。

「グレーテ」

 八星は足を組み直した。

「僕の妹になりませんか」

「なんですか、それ」冬子は眉をひそめる。「グレーテは、グレゴールの妹の?」

「そう。グレゴールが人間だった時は彼から搾取し、彼が虫になったあとは彼を厭い見捨てた――この世における、不条理の象徴。それすらも僕は愛します。あなたが僕にとっての、不条理になるとしても」

「わたしは誰にとっての不条理にもならない。わたしは、不条理から解放された次の未来を望むから」

 たとえ、そこに自分がいなくても。

「あなたの行いは、愛することではなく、何も変えようとしていないだけ。苦しい現状に顔を背けて安住しているつもりになっているだけ。わたしは、あなたを尊敬できません」

 非難されても八星は顔に笑みをうかべたままだった。微笑んではいるが雰囲気は能面そのもの、作られた表情の奥にある闇に手をつっこんだらそのまま引きずり込まれてしまいそうな、得体の知れなさを湛えていた。

「離苦には、彼自身がここへ来ること、その際にⅡ型の血液を持参することを要求します」

「Ⅱ型の? いま、VRCにⅡ型の収容者はいませんよ」

「過去の収容者の血液を冷凍保存してあるでしょう? それでかまいません」

「検体の外部持ち出しはできません。セキュリティチェックが厳しくて、どんな細工をしても不可能です」

 いや、朽木の場合いざとなったらセキュリティ突破も画策するかもしれない。ふと可能性が頭によぎるが、冬子は考えないことにした。

「あなたの命がかかっていれば、彼はどうとでもするでしょう」

「それは買い被りです。わたしは朽木先生にとってただの部下。第一、血液を手に入れてどうするの」

「僕がその血を受け入れて、みんなを楽園につれていきます」

 冬子は「は?」とまばたきをした。意味がわからなかった。

「あなた自身が、虫になるの?」

「いいじゃないですか。『救済の法』の教祖の息子が虫になって、多くの人を楽園に連れて行くんです。『救済の法』には経典も聖典もありませんでした。哲学も物語もない、教祖のエゴだけに支えられて成り立っていた宗教です。『救済の法』の最後の事件だって、教祖が教団運営に疲れたから実行されたもの。僕はあれを超えてみせます」

「教団運営に疲れた? 楽園に導くと言って実行したのではないの?」

「教団の末期のころ、信者にどれだけ子供を産ませても、病気や自殺、出産で人はどんどん減っていきました。その責任を問う声が上がり始めていたうえ、グレートマザーの生まれ変わりが、教祖よりも力を持つようになった。当時、教祖は七十過ぎ、グレートマザーの生まれ変わりはまだ四十代。マザーは専横的にふるまうようになり、教祖はそれが疎ましかった。でも、自分には権勢を盛り返す力もなく、最後の威厳を振り絞って信者全員道連れにした心中を決行した。自己中心的な新興宗教のトップらしいでしょう。その宗教の最終結末として、教祖の息子が『楽園への引導』と称して世界に恐怖を与えるのです。最高のクライマックスだと思いませんか」

「あなた、何がしたいの?」

「ですから、楽園への導きを」

「本当は、どうしたいの?」

 八星は急に押し黙った。その顔からは笑みが失われている。

「あなたは、以前会ったとき、変身症によって差別された人々を救うために活動していると言っていました。それに、あなたの名前、救輪廻は、迷いの世界で何度も生死を繰り返す人々への救いを表すと。それは、嘘なの?」

八星は冬子から視線を逸らした。

「救いとは、感動だ」

 唐突に声音が変わる。

 その声に、抑揚はなかった。

「人は救われたと感じたとき、歓喜する。つまり感動している。それは心の動きでしかない。同じものを見ても感動するやつとしないやつがいるだろ。感動なんて、結局は当人の素質で決まる。救いも同じだ。ある説教をして、それで救われるやつと救われないやつがいる。救われたと思ったやつは、状況が変化していなくても救われたと思う。つまりは気の持ちよう。宗教に必要なスキルはどうすれば相手を『救われた』気にさせられるか、相手が望む言葉を編み出せるかというテクニックだけだ。わかるか? 神様なんていない。他人が言う神なんて錯覚だ。救いは与えられるものではなく、自らの中で生み出すものなんだから」

「それならそれでもいい。あなたが、生み出すきっかけを与えれば」

「人が人に何かを与える? それができると言う人間は、単に自惚れているだけだよ。僕はそこまで自分に酔えなかった」

 それは、悔悟を感じさせる言い方だった。

「僕は、何をしたって虚しい」

 乾いたつぶやきに、引き裂かれるような苦しみがにじんでいた。

「八星さん。あなたの考えに、大幹部たちも賛同しているの?」

「話しているわけがない。あいつらは僕を利用した新世代の宗教法人ごっこをプレイしたいだけ」

「それならどうやって、朽木先生に血液を持ってこさせるつもり?」

「大幹部以外の幹部を遣いに出す」

「それでうまくいくの?」

「知らない」

 八星は明らかに苛立っていた。視線は床を移動し、足を小刻みに揺すっている。

「だいたいあいつらが僕に断りもなく勝手やってるんだ。三人に血液を投与したのだって、僕は血液を入手した後に計画を知らされた」

「三人って、葦手さんたちのこと?」

「葦手もあと刷毛目寿美礼と笹蔓紹太! 大幹部は勝手に血液を入手して、投与する人間まで勝手に決めた。僕は反対したんだ。でも大幹部は『今更イベントを中止にはできない』なんて言いやがって血液を投与して、挙句三人を放り出した」

「あなたは反対したの?」

「反対したよ」

 八星は恨みがましく冬子を睨め付けた。

「でも僕は、ここの王様であるためにあいつらの言うことを聞かなければならないんだ。また近いうちに同じことが起きる、でも僕はそれも黙認する。みんなの前では、大幹部のやることはすべて僕の発案としてふるまっている」

「また誰かを感染させるの?」

「まだ、あいつらは血液を入手できていないけど」

 不意に八星は腰を上げ、冬子の前へ仁王立ちした。鼻先の間が十センチもない。

「お前と離苦が何の関係もない? 嘘も大概にしなよ。僕と居酒屋で会ったとき、お前たちはいかにも恋人然としていたじゃないか。なんで僕ばかり馬鹿にされないといけないんだ」

 あ、と思ったときには八星の手が冬子の頬を打っていた。

「まだ数日は離苦に連絡しない。あいつが気を揉む姿を想像しただけで笑えてくるよ」

 そう言った八星の目は、いっさい笑っていなかった。

「お前は口答えするな。抵抗するな。楽と同じように、されるがままに受け入れろ」

 その言い様、何一つ自分の思い通りにいかず無鉄砲な計画を立てる様は、癇癪持ちの子供のようだった。

「わかりました。わたしは何も言わない。あなたの計画も、誰にもしゃべらない。でも一つだけお願い。わたしをストーキングしていた、元守衛長がここにいるなら、会わせて」

「元守衛長?」八星は片頬をつり上げた。「あのおじさんか。確かにいるけど、そのうち殺されるんじゃないかな。お前を誘拐することにしか利用価値がなかったから」

「会わせて」

「会ってどうする」

「拝んだ顔に唾を吐く」

 八星は何かを探るように冬子の目を見ていたが、不意に目を逸らして「ついてこい」と背を見せた。

 部屋を出ると、廊下には黒いスーツ姿の若い三人の男がいた。セツとエノスとカイナンであろうことはすぐに見当がついた。三人ともまったく違う容姿だが、まったく同じ人物に見える。気味が悪くて冬子は目を逸らした。

「懺悔部屋に連れて行く。大丈夫だよ、彼女は逃げない。きみたちは後ろからついてこい」

 いかにも威厳があるように言って、八星は歩き出した。冬子は戸惑いながらもその背中に続く。ついてくる三人の男たちの足音が妙に廊下へ響き渡る。前から歩いてきた若い女が慌てて廊下の端に寄る。その女はコレキシと同じ白い装束を着ていた。

「今の人も幹部ですか?」

「あの子はスタッフだよ」

 いくつかのドアの脇を通り過ぎ、階段を登ってさらに廊下を歩いた先に、一人の男性が木製の椅子に腰掛けていた。三十歳過ぎと思えるその男性も白の装束を着用しており、そのほかには首に鍵付きの紐をかけていた。

「お疲れ様」

 八星が気軽に声をかけると、男性は機敏に立ち上がり一礼をした。頭を上げた後で、不審げに冬子を見る。

「この子はお客さん。いま中にいる人と会わせたいんだけど、開けてもらえるかな」

 男性は「はい」と歯切れ良く返事をし、首にかかっている紐を手繰り寄せて鍵を手にする。男性によって開けられたドアの向こうには、三つの独房のような部屋があった。いずれも鉄格子がはめられており、中には一畳ほどの空間が確保されている。そのうちの奥に、元守衛長は足を抱えて座っていた。着ているワイシャツやズボンはひどく皺がよっている。頬がこけ、目の下の隈もずいぶんと濃い。

「お久しぶりです、元守衛長」

 冬子が声をかけると、囚われた男はハッと顔を上げた。その瞳に希望を抱く光を見て、冬子は泥を飲ませられたような気分になる。

「この人たちがわたしを誘拐するために、あなたの行動が役に立ったと聞きました。VRCを懲戒解雇されたことの恨みですか? あなたの処分はVRCの幹部が決めた、その処分の原因はあなたが肖像真心子さんの情報をマスコミにリークしたからでしょう。わたしは関係がありません」

「こっちは退職金がなくなったんだ」元守衛長は噛みつくように話す。「VRCが設立された当初から、組織に貢献してきたのに。前の警備会社の方がよほど給料は良かった、だがVRCは退職金が前の会社の倍になると聞いたからこそ転職した。なのに、あと一ヶ月のところで懲戒解雇だなんて受け入れられるわけがないだろう」

「あなたの退職金なんてどうでもいい。あなたの軽はずみな行動のせいで、肖像真心子は死後に多くの中傷を受けました。それは二重三重の殺人です。あなたは一人の高校生を何度も何度も殺しているんです」

「言っている意味がわからないな。あの子は自殺だろう。わたしはあの子が死んだ後にコレキシさんと会った。誹謗中傷の責任はわたしにはない」

「あなたのせいで、肖像真心子の尊厳が奪われたという話です」

「妻がいる中年男と車の中で何度もセックスするような子供に、尊厳なんてあるわけがない」

 本当に唾を吐こうか、と冬子は思ったが、やめた。同じ言語を喋っているのに、相手の主張を理解しない人間がいることに驚きすらおぼえていた。

「あなたはどうしてここへ入れられているか、理解しているんですか」

「知るか。あんたの横に立っている男に聞いたらどうだ」

 八星はわかりやすく嘆息した。

「僕はあなたの名前を知りません。知りたいとも思えない。人間の価値はすべて平等、でもそれはすべての人間が日光を浴びる権利があると同義であるにすぎません。あなた自身の行動こそ、あなたに真の価値を与える。僕は、あなたが価値のある人間とは思わない。つまらない感情で死者を貶める愚か者が」

 セツとエノスとカイナンが賞賛するように拍手する。八星は右手をあげて拍手をやめさせた。元守衛長は顔を真っ赤にして唇をわななかせた。そんな初老の男を、冬子はむしろあわれだと、つきはなすように思う。

「元守衛長。わたしは、あなたと理解しあえることを望むべきで、あなたが間違った認識を持っていることを根気強く説明するべきなのでしょう。でも、そんな気力がわかないほど、あなたを憎む気持ちのほうが強い。――こんな自分を、最低だと思う」

 八星に「もういいです」と伝え、冬子は元守衛長に背を向けた。還暦を過ぎた男は何かを喚いたが、なんと主張しているかわからなかった。

 冬子は部屋を出たときと同じようにして、廊下を連行された。目覚めた部屋へ戻ると、セツだかエノスだかカイナンだか、三人の男の一人が「食事は朝晩二回届けさせます。室内にあるシャワーとトイレはご自由にお使いください。服の替えやタオルが必要なら、食事の際にお申し付けください」と言った。冬子は「ああ、はい」と生返事をしながら、まるで特徴のない男の顔を穴が開くほど見つめた。


 監禁生活が始まった。人生最後の数日間が始まる冒頭で監禁されるなら、一人で職場を出るのではなかったと冬子は痛烈に後悔した。何もない部屋でできることなど寝るくらい。ベッドへ横になって模様もシミもない真っ白な天井を見上げながら、いまごろ朽木は何をしているだろうなどと考える。食事がキャンセルになってしまったことが申し訳なくて、冬子は何度もため息をついた。探してほしくなどない、そんな暇があったら仕事をしていてほしい。心配するくらいなら、冬子自身が逃げ出したのだと見当違いな解釈を持って欲しい。そうやってひとつ願うごとに泣きたくなってどうしようもなくなる。

 朝晩の食事は質素だった。粥のようなものと、ひまわりの種のような木の実と、野菜のような葉っぱ。なんだかよくわからないものを、饗応されるがまま食べた。食べ物を持ってくる人物は毎回異なっており、それぞれに「どうしてここへいるんですか」と訊いたが、誰も答えてくれなかった。食事の係は声を発することなく、膳を持ち、下げていく。味気なかったが、食事の時間は決まっているようで、時計も窓もない監禁においてその時間は非常に重要だった。

 夕飯が終われば簡単にシャワーを浴びた。用意された白い装束に袖を通すことはせず、誘拐された時に着ていたワンピースを着続けた。シワも寄り、なんとなく臭ってくるような気もして、鬱屈した気分が倍加する。

 飲料水は毎日二リットルのペットボトルが与えられた。刷毛目などが言っていた『デトックスウォーター』かと警戒し、喉が乾けばシャワーヘッドから水を飲んだ。

 そうして三日が過ぎた。

 三日の間、八星が部屋を訪れることはなかった。冬子が間違っていなければ、カレンダーは十二月二十九日だった。仕事終わりは昨日だ。本来なら、仕事を終わらせて蛹化まで穏やかに過ごすだけのはずだったのに、と冬子はあらためて忸怩たる思いに囚われる。このまま監禁が続けば、この部屋で蛹化を迎えることになるかもしれない。それまでに、なんらかの手段で死ななければとも思う。一番有効な手段は、食事の際に運ばれる箸で喉を突くことだろうか?

 こう、うまく喉の奥まで箸を入れて、思い切って、と冬子がベッドに横たわったままシミュレーションをしていると、ドアがノックされた。朝食は数時間前に食べたばかりだった。夕食には早すぎる。返事をする前にドアは開けられた。八星が一人、顔を険しくして立っている。

「どうしたんですか」冬子は反射的に起き上がり、対角線の壁際へ立つ。「朽木先生に連絡するの? それとも、元守衛長を殺す?」

「どちらかといえば、後者が近いかな」

 八星はベッドの傍の椅子に腰掛けた。

「大幹部が、Ⅰ型の血液を手に入れた。それを、懺悔部屋の男に投与することとした」

「どこからⅠ型の血液を?」

「エノスの大学の後輩が、ポスドクとしてつくばの特殊感染症研究機構に出入りしているみたいでね。昨日、年末の大掃除の最中にどさくさに紛れて持ち出したらしい」

「その人は、ワールドホープとの関係は」

「ない」八星は即答した。「エノスが高い金を払ってやらせた」

「もしかして、葦手さんたちに投与した血液も同じ人に?」

「それは別の後輩にやらせたそうだよ。やはり高額なバイト代を支払って」

「嘘でしょ。お金くらいで、そんなこと」UNGウイルス感染者の検体の持ち出しは、法律でも厳しく制限されている。そうでなくとも、無断の持ち出しは窃盗罪だ。

「実際に行ってしまうほどの高額な金銭だったんだよ。僕のカネだけどね」

 冬子は唇を噛んだ。盗んだ者がワールドホープの関係者でないなら、葦手たちに協力してもらった写真の照合は徒労だったわけだ。

「Ⅰ型の血液を、元守衛長に投与するの? あの人は、ワールドホープの関係者じゃないでしょう?」

「だからこそだよ。前回は血液投与後に三人の体調がおかしくなった。そのときは理由がわからず、このまま虫になるんじゃないかと恐れた大幹部が三人を東京へ棄てた。離苦から話を聞いて、三人の体調不良が血液投与ではなく抗生剤の過剰投与が原因だって気づいたし、みんなにも話した。でも、幹部たちは三人と同じことが起きることを恐れてスタッフやメンバーへの投与を尻込みしている。彼らはこの敷地の外へ出ることを忌避している。ここから棄てられることを恐れている。だから、あの男に白羽の矢が立った」

「そこまでして、なぜ投与したがるの」

「ウイルスのキャリアを作りたいんだよ。キャリアを一人、無事に作り出せたらそこから徐々に感染者を増やす」

「血液感染も性行為による感染も、UNGウイルスの感染率は0.0002パーセントです。元守衛長をキャリアにしたとしても、順調に組織全員を感染させられることはない」

「いいんだよ、確実に感染しなくても。大幹部たちは、人々を楽園に導きたいだけなんだから」

「楽園に導く、つまり人を弄びたいということ」

「そうだね。そう言ったほうが、正しい」

「あなたはどうして、そのことをわたしに?」

「この組織は十年ももたない。それなのに、Ⅰ型のキャリアを作ろうとするなんて馬鹿げてる。でも、それを言っても誰も聞くわけがない。みんな、自分に都合が悪いことは聞きたくないからだ。ちゃんと聞ける判断力のある奴らが、こんなところへ来るわけがない」

「判断力がある人たちは、あなたたちが殺したんでしょう?」

「大幹部がね。僕の目に見えないところで、僕にわかるように殺したよ。裏にある墓地には、墓石のない土饅頭が定期的に増えている」

「わたしにどうにかしてほしいの?」

「そこまで期待していないよ。お前にできることなんてないじゃんか」

 要は、愚痴を言いたかっただけか。気づいた冬子は憤慨した。

「その血、本物なの?」

 話しながら冬子は考える。

「本物だっていう、証拠は? 金に目がくらんだバイトが、適当に血液みたいな液体を作っただけかもしれないじゃない」

「それは、わからないけど」

「わたしだったら、確かめられる」

 は? と八星は嘲笑う。

「なに言ってるんだ。検査のための機械を持ってきているわけでもないくせに」

「血には、佇まいがあるの」言いながら、冬子は口の端を上げた。「個人個人で、違うんだから」

「なにを非科学的なことを」

「非科学的よ。でも、五年も感染者の血液採取をしてきたんだから、わたしは。感染者の血液は、見ればわかる。匂いを嗅げば、目をつぶっていてもわかる」

それは多ヶ谷の言を借りた大いなるはったりだった。血液の見分けなど、つくわけがない。それでもどうにか、いける気がした。

八星は非常に疑りぶかい目で冬子を見た。冬子は笑みを崩さない。

「わたしに確かめさせて。その血液が本当に感染者の血液かどうか」

 緊張した空気が部屋に充満して爆発しそうだった。八星は見定めるように冬子を見る。顔だけではない、肩、腕、指先、腰、足、つま先。全身を見て少しでもおかしな動きをしていれば指摘してやろうとしているのではないかと思えるほど、蛇のように粘着じみた視線だった。

「確かめられるのか? 本当に」

「真剣な話です。本当に」

 八星はまだ思案げにしていたが、「わかった」とつぶやいて立ち上がった。

「お前を信じる。僕の信頼を裏切ったら、お前を殺すし、離苦も殺す」

「朽木先生にはいつ、連絡を?」

「お前が血を見分けたら」

 そう、と冬子はうなずいた。朽木なら状況を察して、下手な行動はとらないだろう。すなわち、八星に求められるがままの来訪はないはずだ。自分は殺されて、朽木は来ない。それで、いい。

「儀式は明日だ。その直前に、確かめろ」

 八星は、つと目をそらして部屋の隅に冬子がおいている未開封のペットボトルを見た。

「飲まないのか、水」

「デトックスウォーターなら、味覚が変になるんでしょ」

「デトックスウォーターには薬を混ぜている。お前に提供している水は単なる水道水だ。お前は、スタッフでもメンバーでもないから」

「薬って」

「お前の言う通りだ。味覚異常を引き起こす」

「なんで、そんなもの」

「欲を抑えるため。味覚がなければ、食欲もわかない。欲は俗世のものだ。欲から離れれば、楽園に近づける」

 淡々と言った後ですぐ、八星は「嘘だよ」と自嘲した。

「僕が味覚異常だから。みんなが僕と同じになるように。僕の辛さはみんなで共有すべきだ」

 八星は「飲めよ。僕を信用しろ。僕もお前を信用するんだから」と言い捨てて部屋を出て行った。

 冬子は信じられない気持ちで四本のペットボトルを見つめた。どこにでもありそうなそれが、急にあってはならないものに思えた。

 考えるより先に体が動く。

 冬子は二本のペットボトルを抱えてトイレへ向かった。

 ペットボトルの中身を便器に流す。

 一本のボトルを空にするたび、トイレのレバーを押した。

 ボトル四本分の水は簡単に下水へ流れていった。

 空になった四本目のボトルを、冬子は力なく床へ落とした。

 朽木と食べた料理のすべてを、もっともっと味わえばよかったと、ボトル同士がぶつかり合う空虚な音を聞きながら後悔する。


 その日の夕飯はコレキシが配膳した。彼女は部屋へ入るなり「スタッフに代わってもらいました。あまり長居はできません」と前置きした。

「あなたが血を見分けると聞きました。そんなこと、できるんですか」

「詳しいことは話しません。コレキシさん、あなたが朽木先生のところへ行くんですよね?」

「おそらくは」

「そのときに、起きたことをすべて話してください。それだけで大丈夫です」

 断じる冬子に対し、コレキシは不審を隠さない。

「血を見分けることが、できるんですか」

「できると言ったら?」

「信じない」

「だったらそれで、構いません」

「目的はなに?」

「無益な感染者を増やさないこと。これは、あなたの信念と一致すると思いますが、どうでしょうか」

 傷だらけの女は、冬子をまじまじと見た。

「確かにそれは、そうだけど」

「成り行きに任せてください。わたしにはわたしの、あなたにはあなたの役割がある」

 コレキシは冬子の真意を探ろうとしているのか、思案げに首を傾げていたが、やがて「わかった」と食事が載っている盆をデスクの上においた。

「無茶はしないほうがいい。それだけ忠告しておきます」

 言い捨て、コレキシは部屋を後にする。冬子は盆の上の粗末な食事を眺め、息をついた。


 翌朝、大幹部のうちの一人が朝食のかわりにやってきた。男は冬子が名前を訊いても答えない。黒いスーツを着た特徴のない顔の男は、「ついてきなさい」とだけ言って部屋を出た。冬子を縛り上げることもしない。冬子を信頼しているのか、冬子を侮っているのか。どちらにせよ自分が行うべきことを決めていた冬子は、おとなしく男の背中に従った。

 男は建物の中を歩き、階段を降り、外へ出た。男は建物内において紐靴を履いていたが、冬子はストッキングを履いただけの裸足だった。その裸足に気遣うことなく、男は外へ出た。冬子も履物の必要性を訴えることなく、土の上を黙って歩いた。

 あたりはその奥が見えないほど木が鬱蒼と茂り、その向こう側は果てしなく空だった。いくつかの鉄塔と配電線が見えるばかりで、およそ建物は見えない。晴れた空にぼんやりと膜がかかっているような穏やかな冬の朝だが、一歩進むごとに足の裏が焼けているような痛みを感じるほど地面は冷えていた。

 少しばかり歩くと、一つの建物が現れた。板張りの壁、ひとつしかない観音開きの扉の平家作りの建物は異様な雰囲気を放っていた。

「道場です」

 案内する男が言う。ここが、と冬子は思う。六歳の朽木楽が犯され、成虫化して『救済の法』の信者たちを殺した場所。目の前にある建物はそれを模しただけだが、気持ちは怯む。

「主宰と幹部、スタッフが待っています」

 男は道場の扉を開けた。中は薄暗かった。それもそのはずだ、光源は窓のない室内の照明は燭台に灯された蝋燭の炎だけ、それが中の人々を囲むように点在している。

 案内役の男は靴を脱いで板張りの室内へ入った。冬子は土に汚れた足のまま、冷たい板の上へ足をのせる。奥へ鎮座する祭壇の前には、八星が正座していた。その八星を崇めるように、黒いスーツの大幹部と白い装束の十数名が座っている。

 冬子は案内役に促されて八星の隣へ進んだ。

「座って」

 八星は自身の真横の床を指す。冬子は彼に向かって正座をした。

「血液だ」

 八星の前にはペンケースのような板状の缶があった。八星がそれを開けると、クッション材の上に寝かせられたスピッツがある。確かに、中には液体が入っていた。

「見分けろ」

 目の前にさしだされた缶から、冬子はスピッツをつまみあげた。色はついている。だが、薄暗がりのせいでどのような色なのかは判別がつかない。

「こんなに暗いとよくわかりません。開けて、匂いを嗅いでもいいですか?」

 冬子は当然の権利であるがごとく主張する。もとより、暗くなくともそのつもりだったがもっともらしい言い訳が立つ環境を相手方が用意してくれていた。八星は顔をしかめたが、「仕方ない」とスピッツの開栓を許した。

 冬子はゆっくりとスピッツを塞ぐゴムの蓋を開けた。スピッツの縁を鼻先につけ、匂いを嗅ぐふりをする。皆が神妙に注目している、その視線が無遠慮につきささっていることを感じる。特に八星は生唾を飲みかねないほど緊張している。冬子は、十分に間をおいた。

 そしておもむろにスピッツの縁を口にくわえ、かたむけ、一気に飲み干した。

 味も匂いも感じないまま一息に、血と思しき液体を自らの中へ流し込む。

 誰かの「あ」という声が遠くに聞こえたときには、一滴残らず喉元を過ぎていた。冬子は空になったスピッツを祭壇へ投げつける。

 乾いた音をたてて、スピッツは割れた。八星は目を丸くしている。他の者も同様だろう。

「元守衛長を感染させることは許さない」

 これ以上、感染者を増やしてはいけない。

「さっさと殺して。わたしはもう感染しているかもしれないから、血や体液が出ない方法がいい。ベストな殺し方を教えてあげる。生き埋めよ。感染した人間を土に埋めても害はない。埋められた人間がそのまま死んでも生態系に影響を与えないことは、ヨーロッパで行われた実験によって保証されている。だから、この敷地内にわたしを埋めても、あなたがたを襲う心配はない」

 瞬間、八星は立ち上がり、冬子の髪を引っつかんだ。

「どういうつもりだ」

 仁王立ちした八星は、握りしめた拳を震わせている。

「だから、元守衛長を感染させたくないから」

 冬子は痛みに顔を歪めながらも抗弁した。

「あの男はお前を逆恨みしている、つまらない人間だ」

「そうだけれど、関係ない。無益な感染を、わたしは許さない」

「だからってお前が感染することはないだろう!」

 八星は力任せに冬子を床へ叩きつける。

 手をついた床は、ひどく冷たかった。

 冬子はすでに感染している。しかし、それを彼らに言うことはできない。

「救輪廻さん、どうしましょう」

 立ち上がった大幹部の三人が、わらわらと前へ出てくる。八星はどっかと腰を落とし、苦々しくため息をついた。

「いい。この女は懲罰房へ入れろ」八星は顔を上げ、幹部やスタッフたちに宣言した。「我々の、遂行すべき儀式を阻害した。罰を与えなければならない」

 八星は、老箱神知ではなく八星救輪廻、すなわちワールドホープの主催としての正しいふるまいを冬子へ見せつけた。

 大幹部二人によって冬子は脇を抱えられた。不安げな表情で成り行きを見守る幹部やスタッフの中に、コレキシを見つける。冬子は彼女に向かって「おねがい」と口を小さく動かした。コレキシが読み取れたかわからなかったが、彼女は冬子を見て意を決したように浅くうなずいた。

 冬子は引きずられるようにして表へ出された。そのまま連行された先はおそらく敷地の外れに位置するのだろう、木の密度が他よりも一層濃い場所へ場違いにすえつけられたコンテナの前だった。

 なるほど、と冬子は思う。この中に閉じ込められてしまえば、外へ助けを求める声が届くこともない。

 一人の大幹部が冬子から手を離し、コンテナの扉を開けた。中へ入ると、板によって三つの部屋に分けられているようだった。そのうちの一つの扉が開かれ、冬子は蹴られるようにして中へ入れられた。

 天井が低かった。立つことは不可能、正座していくらかの余裕があるかどうか、それほど天井が低い。わずかな光をたよりに見渡した内部も、四隅へ簡単に手が伸ばせるほどだ。

「救輪廻さんのお沙汰が出るまで、ここで反省していなさい」

 まるで台詞を諳んじるように言い、大幹部は扉を閉めた。瞬間、目の前は闇に落ちる。

 目をどんなに見開いても、目の前は闇だった。手のひらで触れてみる天井や壁は冷たく、木の板はところどころささくれだっていた。

 少しばかり臭う。獣のような臭いだ。いや、人か。人体の臭い。実際にここを『懲罰房』として使用しているのだろう。見せかけの模造品ではない。この臭いは、以前閉じ込められていた人物の残滓なのだと、冬子は察する。

 すぐに殺してくれればいいのに、と暗闇の中で考える。もうあとは死ぬだけ、とわかっていれば、狭い場所での暗闇もたいして怖くはなかった。それは諦めというより悟りに似ていた。

 とはいえ、成虫化し、生きている最中に扉を開けられることは避ける必要がある。虫として生きている間に扉を開けられれば、間違いなく目の前の人間に喰らいつくだろう。コンテナから這い出て、敷地内にいる人間をも襲うだろう。この林の中で殺されればいいが、ワールドホープが虫を殺せる銃器を所持しているとは思えない。林の外へ出てしまえば、無関係な一般人に危害を加えることとなってしまう。

 やはり殺される前に死んでしまう方が間違いないか。冬子は舌を噛み切ろうとしたが、うまくいかない。出血すらしない。そもそも、自力で舌を噛み切ったくらいで死ねるのか。ストッキングで首を吊ってはどうだろうかと思ったが、壁に触れる限りフックのようなものはなかった。死ぬにも道具が必要だと思い知る。食事のときに出された箸を隠し持っておくべきだった、と後悔した。

 仕方がない。待つしかない。冬子は諦めた。どのように時間を過ごそうか考え、刷毛目寿美礼がよく瞑想していたことを思い出した。気持ちを落ち着かせるにはいいかもしれない。冬子はあぐらを組み、手のひらを上にして膝の上に載せた。瞼を閉じて、長く深く、呼吸を繰り返す。

 雑念が浮かぶ。桂樹軒へ行けなかったこと。朽木にも、職場にも迷惑をかけていること。失踪となれば警察へ届けられただろうか。その場合は実家へも露見するだろう。父母はどんな反応を見せたか。彼らの言動が、職場への迷惑になってはいないか。

 息を吸った。息を吐いた。雑念を過去のものにした。わたしはわたしだ。二十七年近く生きてきた、一人の人間だ。誰からも否定されることは許さない、人間そのものだ。

 吸った息が呼吸器官を通して全身の細胞へ行き渡る。吐いた息が床を伝って地面へ渡る。ただ感じる。脳が浮遊する感覚。引力とは別の力に引っ張られるような感覚。ひらすらに、息を吸って吐いた。

 ふたたび扉が開かれた時、冬子はまだ人間だった。はっきりと覚醒しており、体に変化は生じていなかった。瞼を透かして感じる光を、弱い雨のように感じた。

 ゆっくりと目を開けると、懐中電灯を持った八星がいた。

「出ろ」

「何日経った?」

「三十六時間」

「朽木先生には」

「遣いを出した」

「朽木先生は、来た?」

 八星は首を振った。

「もう一度、機会を与える。僕の妹にならないか? そうすればお前を手厚く迎えよう。変身症を発症するまで、大切に保護しよう。僕がお前のグレゴールになる。だからお前は僕のグレーテになれ」

「その話はお断りしたはずです」

「僕は離苦からも見棄てられた。僕は兄弟だと思っていたのに。僕には理解者が必要だ。死にたがるお前は、きっと僕とわかりあえる」

「わたしは誰の不条理にもなりません。また、誰かから不条理を与えられたら、どうにかして抵抗します。それがわたしの理想です。だからわたしは、理解しがたいあなたの妹になんか、ならない」

 そうか、と八星はうなずくでもなく、残念がるでもなく、ただただ淡々と了承した。

「お前を殺そう。望み通り、生き埋めだ」

 八星は外へ向かって「来い」と声をかける。八星が立ち上がると同時に大幹部の二人が懲罰房の中へ腕をのばし、冬子を引っ張り出した。男たちは荒縄のような紐で雑に冬子を縛り上げ、引きずるように外へ出る。

 屋外は夜だった。月はない。雲もない。新月の晴れた夜空には、いくつもの星が煌めいている。空気は乾き、澄み、冴えていた。冬子は寒さに身震いした。足元から伝う冷却が腰から脳天まで一直線に体内を駆ける。奥歯が鳴る。鳴り止まない。寒さで頭がどうにかなりそうだった。

 八星を先頭に連れて行かれた先は、木で囲まれた墓地だった。木が円形に囲む地面のそこここが不自然に盛り上がっている、どう見ても墓地だった。土饅頭、と言った八星の言が耳に蘇る。墓碑があるものは少なく、ほとんどが更地の墓だった。墓碑も、大きめの石をそれらしくおいただけの原始的なものだ。

 そのなかで、一箇所だけ掘られた穴があった。かたわらには三人目の大幹部が大きなスコップを携えて立ち、その足元には土の山がある。あの穴へ入れられるのか、と冬子が察した矢先、穴から唸るような人の声がした。

「誰かいるの?」

 大幹部が冬子の背中を押し、穴の中を見せた。五十センチメートルほどの浅く横に長い穴には、胴と足首を縛られ、猿轡をかませられた元守衛長が仰向けに横たわっていた。

「お前が嫌うこの男と墓を共にするんだ、気分はどうだ」

 元守衛長と目があった。ほとんど涙目で、懇願するように唸っている。

「最悪ね」

 冬子は八星を睨めつける。

「せっかくわたしが助けた命なのに。八星さん、無駄に人を殺して、あなたになんの利益があるの」

「お前は馬鹿だな」八星はあざけるように薄く笑った。「僕は、利益なんか考えて生きるような俗物ではないよ」

 八星が手を挙げると、大幹部の一人が冬子の髪の毛を無造作に束ね、首筋のあたりでざくざくと切った。刃物は、はさみではなくナイフのようだった。

「それを離苦に送りつけよう。たっぷりと後悔させてやる」

 冬子は自分の肩越しに、大幹部が握りしめる髪の束を見た。

「あなたは、朽木先生を自分のモノだと勘違いし続けているのね。だから、こんなに醜悪なこともできる」

「勘違いじゃないよ。真実だ。離苦は僕と離れるべきではなかったんだ」

 八星が「さっさと黙らせろ」と指示を出すと、大幹部のうち二人が冬子を抱え上げ、元守衛長の隣に寝かせた。洋服越しに、元守衛長の体温を感じる。その男が何かを言う。おそらく「助けて」といったたぐいの言葉だ。穴の中を八星と大幹部が見下ろしてくる。四人の視線がつきささる。冬子はかまわず息を吸った。周囲など関係ない、自分は胸をはって死ぬだけだ。

 大幹部の一人がスコップで土を掬い上げ、乱雑に穴へ放った。土の重みが腹へのしかかる。元守衛長は叫びに似た声をあげた。もうひとすくい、土が胸へかけられる。冬子は口を真一文字に結び、目を固くつぶった。

 そういえば、と冬子は思う。そういえば、十年近く使っていたキーケースを、職場の敷地内に埋めたのだった。実家の鍵とセンセイの家の鍵がついたままの、キーケースだ。死に様がキーケースと同じになる。自分が葬ったものと同じ末路をたどる。結局逃げられなかったのかと、冬子は、思う。

 土が、顔にかけられる。もうひとすくい、のせられる。息ができなくなる恐怖が、いまさらになって襲ってくる。これで、死ぬのか。――死ねるのか。

 安堵と恐怖に、冬子は体を震わせた。

 そのときだった。

「神知!」

遠くに声が聞こえた。

走る足音が聞こえた。

「神知、遅くなって、すまない」

朽木の声だった。

どうして来るの。冬子は罵倒したい気持ちに駆られた。せっかく、自分が死んで落着だと思ったのに。両目の端から涙がこぼれた。急に体から力が抜けた。

「遅いよ」

 いじけたように八星は言う。

「僕のことなんか、どうでもいいと思ってるんだ」

「そういうことを言わないでください。これでもコレキシさんから話を聞いて、すぐに準備をして来たんだ。俺が来たんだから、もういいでしょう」

「信用できるかよ。お前だって、どうせ彼女のことが心配で来ただけだろう」

「それなら、まず初めに林野の所在を聞きます。それはあなたを大切だと思っていることの証左になりませんか」

「そうすれば、僕が喜ぶってわかっているからだろ?」

 八星の声は震えていた。

「やっぱり僕の一番の理解者はお前なんだよ、離苦。それなのにずっと僕を見棄てていた。その罪は重いよ」

「それが罪なら罰を受けましょう。ただし関係がない人は解放してください。林野はどこですか」

 我慢しきれなくなり、冬子は腹筋の力を使って上半身を起こした。穴の縁の向こう側に、白衣姿の朽木がいる。呼びかけようとしたが、顔から落ちた土が口に入った。苦い土を唾とともに吐き捨てる。朽木は目を丸くしてその様子を見ていた。

「仮にも彼女は人質でしょう!? 俺が来る前に殺そうとする馬鹿があるか!」

「お前が遅かったからだろうが! まだ生きているんだからいいじゃないか!」

 こちらへ駆け寄ろうとする朽木を、八星は手で制した。

「離苦は僕と話をするんだ。二人で道場へ行こう」

「話には応じます。ただし、ここから離れるなら林野も連れて行きます。信用できない彼ら三人に、彼女をあずけることはできません」

 八星は肩越しに冬子を振り返った。冬子は何も発さない。何を言っても地雷になりそうな気がした。ここは朽木と成り行きに任せたほうがいい。

「お前、邪魔をしないか」

 八星の問いに冬子はうなずく。警戒されないよう、あえて弱っている風にふるまった。実際に寒さで体力を消耗していたから、演技とも思われなかっただろう。

 八星は大幹部に「起こしてやれ」と指示をした。黒いスーツの男たちの一人が、冬子を両側から抱えるようにして立たせる。

「彼女の拘束も解いてください。彼女は逃げません」

 離苦の訴えに大幹部たちは戸惑うそぶりを見せたが、八星が顎で合図し、冬子を縛る荒縄は外された。

 冬子がゆっくりと八星へ近づくと、この土地のなかで最も偉い男は、忌々しげに手をさしだす。

「離苦が言うからほどいてやったけど、僕は信用していない。道場へ行くまで手を握れ」

 さしだされた手を、冬子は握った。ひどく冷たく、男性にしては小さな手だった。

「離苦は先を歩け。道場の場所は、わかるだろ」

 朽木は顔をこわばらせてうなずき、背中を見せた。白衣が月光を吸収して夜の林にぷかりと浮かんでいる。朽木が歩き出してから少しして、八星は冬子の手を引いた。それは乱暴に引くのではない、およそ優しい兄がいたとしたら、このようにそばへいてくれたのではないかと思えるような、動作だった。

 道場の扉は開いていた。中の燭台には火が灯されている。朽木は一瞬ためらうように立ち尽くしたが、背後から八星が「入れよ」と急かすと、振り返ることなく靴を脱いで床へ上がった。冬子たちもその背中に続き、八星は閉めた扉に鍵をかけた。一般的な内鍵ではない、扉の内側にも鍵穴があり、八星はズボンのポケットから取り出した鍵を、その鍵穴へさした。

 祭壇の前には割れたスピッツが放置されていた。血液付着を気にして誰も片付けなかったのだろうか。何を祀っているのだか知らないが、仮にも祭壇の前の不整頓をそのままにすることが通常とは思えない。

 八星は冬子から手を離し、祭壇へ背を向けるようにしてあぐらを組んだ。冬子と朽木にも座るよう促す。二人は八星の正面へ座った。

「持ってきたか」

 八星に問われ、朽木は白衣のポケットから小型のジュラルミンケースを取り出し、床へおいた。

「Ⅱ型の血液です。二本ある。変身症発症後の感染者から採取した血液だから、投与すれば十中八九感染する」

「どうしておとなしく持ってきたんだよ」

「昔から、そうしていたでしょう。あなたの言うことを、俺はおとなしく聞いていたはずだ」

「この女を返してほしいからじゃないのか」

「俺がここにきた以上、一緒には帰れないでしょう」

「僕を説得しないのか」

「説得されたいんですか?」

「僕が? お前に?」

 馬鹿にしたように、八星は笑う。

「どんな立場で説得するんだ」

「ええ。それがわかっているから説得などしない。二十一年前、俺はあなたとの関係を絶ちました。あの事件で生き残った者として、俺たちは本来支え合っていく必要があったのでしょう。俺はそれを拒み、外部の人間に救われた。あなたを顧みることなく」

「お前は、他力本願なんだよ。外の人間なんて、チャリティー気分の哀れみしか持っていないのに」

「俺は他人によって救われた側の人間だから、救われなかったあなたに考えを巡らせることができなかった」

 それは俺の罪だ、と朽木は言った。

「だから、あなたが心中を望むなら隣で死のう。その方法が、Ⅱ型への感染なら、ここにある血液を使おう」

「僕の話は聞かないのか」

「あなたのことは、わかっている」

 八星は唇を噛み、頭を抱え、またはあたりを見回すなど、落ち着かない挙動をとった。その末にあらためて朽木を見据え、「わかった」と言った。

「お前が僕と死んでくれるなら、その瞬間が僕にとって一番充実した時間だ。ここで、一緒に虫になろう」

「ええ」

「その女は」

「見届けてもらえればいいでしょう」

「ここにいれば、虫になった僕たちに殺されるのに?」

「ひとりで道場を出たとして、どうせ外で待つ三人の男に殺されるんでしょう?」

 冬子には、朽木が何を考えているのかわからなかった。言われるがままにⅡ型の血液を持参したことも不可解だが、この密室で感染を提案するなども理解し難かった。なにより、今、この二人がⅡ型に感染したとしても発症は三十日後、つまり冬子の蛹化と成虫化のほうがずっと早く訪れる。

 朽木はジュラルミンケースを開けた。中にはスピッツと注射針が二本ずつ収められている。スピッツの中には、赤い液体があった。

「まずは離苦、お前だ」

 朽木はうなずき、ジュラルミンケースを冬子の前へ押し出した。

「林野さんが俺に打って」

「朽木先生、待ってください」

「右がA型で、左がB型だ」

 妙な言い方だった。この局面で血液型などどうでもいい。冬子はさしだされたケースを見下ろした。スピッツの頭が八星の方を向く形で、縦にならべられている。右がA型で、左がB型。朽木はA型だ。A型の方を投与しろということか? いや――冬子は、B型だ。

 以前、アゲハを水槽移動させた後に行った血液採取で、「左はフェイク」と言っていた。実際には冬子の血液として提出する検体も朽木から採取した血液だから、左側の『林野冬子』のラベルが貼ってあるスピッツはフェイクであり、本来B型である冬子の検体を、A型として提出していた。

 ――それなら、左がフェイクか。

 考えが違っていたらどうしよう、と思わないではなかった。しかし、朽木と八星に注視されている中で、逡巡することはできなかった。

 冬子は、左側のスピッツと注射器を手に取った。

 スピッツのゴム栓に針を刺し、シリンジへ吸う。その間に朽木は白衣の袖を捲っていた。さしだされた腕は、以前より細くなっているように見えた。暗がりで見えにくかったが、触知した静脈に、針を刺した。

 ゆっくりと投与している間、冬子は全身が動悸しているように感じた。寒いはずなのに汗が止まらない。シリンジの奥まで内筒を押し込み、針を抜いた瞬間、自分が息をとめていたことに気がついた。

「これで、俺は感染しました」

 朽木は白衣の袖で止血した。その物言いは、不自然なほど淡々としていた。

「次は、あなただ」

 朽木は毎日使用しているボールペンを扱うかのようにスピッツと注射器を取り上げ、血液をシリンジへ吸った。八星は朽木を藪睨みしていたが、何も言うことなく腕を出した。その静脈へ、朽木は躊躇うことなく針を刺す。

「離苦、僕はあとどれくらい苦しめばいいんだ」

 自身に注入されていく血液を見ながら、八星は悲痛な表情を浮かべる。

「安楽を手に入れようとするから苦しむ。それだけのことです」

 針を抜くと、傷跡から血が吹き出した。八星はあわててシャツの袖で血を止める。

「自分は初めから何も持っていないと思えばいいんです。何も与えられることはないと、諦めればいいだけです」

「僕は常に、加害されてきた」

「与えられた加害と同じ分の救いを、あなたは他人に与えればいい」

「人は人を救わない。離苦、お前もわかっているだろ」

 朽木は答えず、優しい表情で八星を見た。

「離苦。僕は、お前のそういう顔が、大嫌いだ」

 嫌いで結構、と朽木は言った。使用されたスピッツや注射器を、すべて丁寧にケースへ戻す。

「久々に祝詞でも唱えましょうか」

「お前、覚えているのかよ」

「物心つく前から誦じていたものです。忘れるわけがない」

「『救済の法』の祝詞に、意味なんかない」

「知っています。儀式は、行うことに意味があるのです」

 朽木は八星の言いがかりなど構わず、あぐらで座り直し、胸の前で指を複雑な形状に組んだ。それを見ていた冬子に対し、八星が「印だよ。祝詞を唱えるとき、指をそうやっていたんだ」と説明する。

「お前もやれよ」

「わたしも? でも」

 わからないんですけど、と言いかけると、八星は冬子の両手を手に取り、印を結ばせた。

「これでいい」

 八星は二人に背を向け、祭壇へ向かった。

 息が、吸われた。

 八星が低い声で言葉を唱え始めた。それまでの話し声とは異なる、厳かで静かな、音楽のような声だった。その上に、八星よりやや高音の朽木の声が重なる。

聴いているうちに酩酊するような調和だった。

思考がどこかへ持っていかれそうだ――と、冬子が感じたときだった。

 目の前で重い音がした。

 八星が倒れた。

 彼は右の体側を下にして倒れ込んでいた。

「八星さん」

 思わず駆け寄ったが、八星は穏やかに寝息を立てており、苦痛の表情などはいっさいなかった。

「朽木先生、何をしたんですか」

 振り返ると、朽木はとっくに印を解いていた。

「神知に投与した液体は、麻酔薬に色をつけたものだ。時間が経てば目覚める。命には関わらない」

「フェイクは、朽木先生に投与した方じゃないんですか」

「俺には、生理食塩水を染色した液体。どちらもフェイクだよ」

「じゃあ、右とか左とか言ったのは」

「そう言えば、きみは左側の方を本物ではないと判断して俺に投与してくれると信じた」

「わかりにくいですよ! わたしが気づかなかったらどうしていたんですか」

 朽木は「すまなかった」と言って八星のそばへ腰を下ろした。

「神知を説得する気がなかったとは嘘だ。馬鹿げた連中とは縁を切るよう話そうと思った。だが、ここへ着いて、まるで『救済の法』そのままの状況を見て、説得する気が失せた。実際に神知が考えていることなど知りたくもない。理解したくもない。ただ、明らかに神知は間違っていて、他人を害している、それだけはわかっている。俺たちが情状酌量をする必要はない。神知に対する判断は、社会がすればいい」

 言いながら、朽木は自身が着ていた白衣を八星の上にかけた。白衣の下の八星救輪廻は、子供のように穏やかな寝息を立てている。

 朽木は冬子に向き直り、あらためて「すまなかった」と目を伏せた。

「コレキシさんからだいたいは聞いた。申し訳ない」

「いえ、わたしも一人で勝手にVRCから出てしまって、油断していました。先生にご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「きみは、悔しくないのか。約束の食事ができなかった」

「それも仕方ありません。わたしはここで死ぬつもりでした。でも、朽木先生がいらしてくれたから。もう言うことはありません」

 朽木は冬子の手に目を落としていた。

「痩せたな」

 朽木はおもむろに冬子の手をとった。何度も「すまない」と繰り返す。その声には涙がにじむ。謝るごとに頭は垂れ、ついには冬子の膝へ額をつけるほど、朽木の体は前傾した。

「すまない」

 何と声をかけていいかわからず、冬子は朽木の手をほどいて彼の頭を撫でた。朽木は声も立てずに泣き続ける。

 朽木の背中も痩せていた。ここ一ヶ月の間ろくに食事をしていなかったからだろう。追い立てられるように仕事をしていた。冬子と違って、朽木にタイムリミットなどないにもかかわらず。

「食事のことは、本当にいいんです。早く、VRCに帰りたい。もう、それだけでいいんです」

 朽木が助けに来てくれたことだけで十分満たされていた。これ以上何かを欲すれば、ただの贅沢になってしまう。

 朽木が顔をあげた。涙でぐちゃぐちゃになった顔を、ユニフォームの肩で拭う。

「林野さん」朽木はあらたまって冬子に向き直る。「Ⅲ型の、ウイルスが」

 そのときだった。

 道場の外で、人の気配がした。

 扉に触れるような、音がした。

 冬子と朽木は揃って扉を見た。

 扉の向こう側では、話し声が聞こえる。

 朽木は一瞬にして顔を険しくした。立ち上がりかけたとき、扉が開いた。

 そこには、大幹部の三人だった。スペアキーで外側から解錠したのだろう。誰も冬子の髪の束は持っていなかった。三人は祭壇の前で倒れている八星を見て「あ」と声を上げた。

「心配するな。お前たちのリーダーは寝ているだけだ」

 朽木は、八星をかばうように立ち上がった。

「誰が企んだ? 誰が神知を唆した? 誰かではなく、お前たち三人か?」

 三人の黒い男は答えない。見れば見るほど全員が若い。子供のようだと言うより、子供そのままだ。

「罪をすべて老箱神知に被せようとしたか。自分たちの遊びのために、どれだけ人を傷つけた? お前たちに、UNGウイルス感染者の絶望が想像できるか? 神知が本当に欲しかったものが何かわかっているのか?」

「わかっていたからなんだって言うんだ」

 一人が声を上げた。

「その人は愚かだった。馬鹿だった。それを利用して何が悪いんだ。弱ければ淘汰される。八星救輪廻は滅びる側で、俺たちは生き残る側だ。そいつは虫で、俺たちは人間だ。人間は生き残るんだよ」

 自分の発言に酔っているような物言いだった。朽木が拳を握った。冬子は辺りを見回す。相手はナイフを持っていた。どうすればいい、どこかへ逃げ――

 大幹部の三人が土足のまま道場へ入ろうとした、瞬間だった。

 重い破裂音がした。

 林の方からだった。

 扉のすぐ横の壁には、小さな穴が開いている。

 少し焦げたような臭いがした。

「聞いていられませんね」

 林から覚えのある声が聞こえてきた。土を踏む音とともに現れる、新景。その量手で拳銃を構えている。

「わたしは特殊感染症管理局の調査官です。あなたたち、そこから動かないでください」

 大幹部たちは道場に背を向けた。新景はもう一度壁に向かって撃つ。発砲音が、曇り空の下に鳴り響く。

「銃を携行している以上、射撃訓練も行っています。わたしの成績は管理局の中でも比較的上位です。死にたくなければすぐに地面へ額づき、両手を背中へ回しなさい」

 大幹部たちはおののいていたが、新景がもう一度撃つそぶりを見せると、俊敏に言われた姿勢をとった。

「汚れ腐った害虫どもが」

 新景は忌々しく吐き捨てると、腰から二つの手錠を外して道場の中へ投げ入れた。手錠は大幹部たちの頭を飛び越えて、冷えた床へ落ちる。

「朽木さん、それで彼らを拘束してください」

 朽木は扉の方へ近づいた。冬子も立ち上がり、その背中に従う。朽木は床へ転がる手錠を拾い上げると、男たち三人を繋ぐようにして手錠をかけた。

「管理局が発足してから三十六年、銃の携行は発足当時から義務付けられていますが、実際に発砲した職員はいません。わたしが初めてです。とんだ仕事納めになりました」

 新景は拳銃を下ろすが、ホルダーには格納しない。

「どうして、新景さんが」

「コレキシさんから話を聞いた後、新景氏に協力を求めた。俺一人だけで乗り込むには、不安があった」

「わたしが年末返上で庁舎にいたから良かったものの。管理局の人手不足に感謝してください」新景はたっぷりと息をついた。「まったく、朽木さんの作戦を聞いた時には呆れましたよ。うまくいかなかったらどうするつもりだったのか」

「そのときのためのあなただ、新景氏」

「わたしに車を出させて、足代わりに使いましたよね。ガソリン代は請求しますよ」

「あなたがたの捜査も一気に方がつく。持ちつ持たれつでいいではないですか」

「朽木先生。新景さん。この後、どうするんですか。この人たち」

「うちの尾籠と、朽木さんから紹介いただいた警察の苦味さんで連携をとっています。そのうち、警察が」

 その時、やおら遠くの方からサイレンの音が聞こえた。静かな空へ響く人工音は、だんだんと近づいてくる。

 冬子は安堵し、朽木を見た。その朽木は、サイレンが聞こえる方角とは真逆を凝視している。つられて冬子も、その視線の先に目を向けた。

そこには人の姿が見えた。白装束の群れ。ワールドホープにとりこまれた人々。幹部なのか、スタッフなのか、もしくは連れてこられたメンバーなのか。老若男女、大人に抱きかかえられた子供までいる。皆が皆、不安そうな顔でこちらを伺っている。

「みなさん、大丈夫ですよ」

 作ったような笑みを浮かべて、新景は銃口を白装束の集団へ向けた。

「十秒数えるうちに、建物の中へ戻りなさい。さもなければ、撃ちましょう」

 集団はわずかに怯んだが、動かなかった。後ろへ引くでもなく、こちらへ向かってくるわけでもない。

「みなさん、安心してください。わたしは特殊感染症管理局の職員です。みなさんが従っていただければ、危害は加えません」

 近づくサイレン音は世界をパニックに陥れるつもりではないかと思うほどかしましい。

「十秒経ちました」

 新景は穏やかに言う。銃口は集団へ向けたままだが、引き金を引く気配はない。

「みなさん、もうこいつらに従わなくていいのですから」

「わたしは」集団の中から声が上がった。「ここから出たくない」

 声の主は、冬子にとって見覚えがある顔だった。滝縞吉信の母。頬がこけて顔色が青白くなっているが、確かに滝縞家の前で見かけた婦人だった。

「あなたたちは! わたしを救えないくせに!」

 慟哭がサイレンに重なった。

 集団から泣き声や怒声がつぎつぎと噴出する。

 骨と皮だけの人々の不安の爆発だった。

 阿鼻叫喚。怨念の塊。地面に倒れ込む数名は、つちくれと同化する。

 反対側から強烈なライトが照らされた。

「朽木さん!」

 苦味刑事の声が聞こえる。加えてぞろぞろと姿を見せる警察。

 絶望に、法治と規範が介入する。

 どこからか鐘の音が響いた。

 除夜の鐘。

 冬子はその音を意識の遠くで聞きながら、目の前の騒乱を身動き取れないまま凝視していた。

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