第9話

 エントランスから三階へ上がり、臨床部へ戻る途中の廊下で向こうから来る安瀬および村名賀と鉢合わせた。村名賀が朽木に話しかけたので、冬子は目礼し、一人で廊下を先に進んだ。

 仕事場へ戻るなり、インターネットで「徳坊龍二郎」を検索サーチにかけた。所属党や本人のホームページは言わずもがな、さまざまなニュース記事やメディアのサイトがヒットする。本人のホームページのトップに掲示されている写真はスポーツマンらしいすっきりとした風体で爽やかな笑みを浮かべていた。

「失礼します、総務部の金保です。林野さん、いらっしゃいますか」

 部屋のドアを半開きにして室内を見渡す自分より少し年かさの女性職員に、冬子は手をあげた。何か荷物を抱えた金保は、ホッとした顔をして入室してくる。

「宅配便です。セキュリティ便なので、サインをいただけますか」

 郵便物は五つだった。いずれも小さな段ボール箱や封書であり、四隅をガムテープで補強されている。送り主は、すべて国立特殊感染症研究機構。つくば本部をはじめ、仙台、名古屋、京都、広島支部だ。冬子は金保がさしだしてきた書類にサインし、荷物を受け取った。

 どの荷物も心当たりはただ一つ。四日前に出した情報提供依頼に基づいた、データ。しかし到着が早すぎる。速達便で出した依頼文書が三日前に本部および各支部へ届いたとして、今日データが届くには昨日までに対象収容者の抽出を終え、データをディスクに移行させなければならない。いくら研究主任の朽木が添状を書いたとはいえ、各所がこうまで急ぐように競うようにしてデータを用意する理由にはならない。

 冬子はあっけにとられながらも開封した。同じ風体のディスクが五枚積み上がる。変身症研究機関で使用している電子カルテは全国共通の専用ソフトだが、ディスクにはロックがかかっているため手元のカルテでは開かない。セキュリティ解除専用の端末から取り込む必要がある。

 冬子は情報システム管理部に電話をした。奈丸という男性職員が応答する。事情を話すと、「いま時間があるので、来てもらえればインポートしますよ」と言ってくれたため、冬子は即座に立ち上がった。

 情報システム管理部はセンター内のパソコンや電子カルテの管理を行う部署だ。臨床部と同じくらいの部屋にみっしりとデスクが並び、各パソコンが稼働している。部屋の横にサーバールームがあるためか、冷房が効いてひどく寒い。冬子が奈丸を呼ぶと、奥の方から手が上がった。

「急にお願いしてしまって、すみません」

「いいええ、別に、そんな時間をくうことでもありませんから」

 三十そこそこの年齢の奈丸は、分厚いメガネをかけ髪をスポーツ刈りにしていた。専用機があるデスクに移動し、五枚のディスクを彼に渡すとマニュアルなどを見る様子もなく作業を始める。

「これ、収容者のカルテですか? どんな感じでまとめるんです?」

「一件一件読んで、リストに落とし込んでと考えています」

「全部読むの大変じゃないですか? よければ、アナライズソフトにエクスポートしますけど」

「できるんですか?」

「電子カルテ内のフォルダで見られるようになります。書き込まれている内容をエクスポートすると、その時点でリスト化されて閲覧しやすいですよ。その生データの必要な記載にマーキングすれば後でまとめて抽出できますし、マークをあらかじめカテゴライズしておけばマッピングして分析に役立てることもできます。もし、これで作成したグラフなんかを論文に挿入したいなら、依頼してもらえればOA系パソコン用に加工したデータを取り出すこともできますし」

「それ、全部教えていただけますか」

 ディスクからデータを取り込んだあと、冬子は奈丸からソフトの操作を一通り教えてもらった。気づけば一時間ほど経過している。

「すみません、だいぶお時間いただいてしまって」

「いいええ。研究職の方でも、たまに使い方のアドバイスを求めて問い合わせされる方がいらっしゃいますからね。わからないことがあったら、いつでもいらしてください」

 重ねて礼を言って、冬子は情報システム管理部を後にした。廊下を歩きながら、作業工程が短縮された事を素直に喜んだ。


 翌日、特殊感染症管理局の尾籠という職員が来館した。前日の定時間際に葦手、刷毛目、笹蔓に面会申し込みをしている。当日になって面会の必要性を訴える新景よりはマシだな、と冬子は思う。

 尾籠は新景より二期下だと言った。男子中学生のような体型で、少女のような顔立ちだった。挨拶をした時、彼の唇の赤さに、冬子は一瞬見とれた。

「うちの新景が何度もお邪魔して、おそらくその度にご不快な思いをさせてしまっていて、申し訳ありません」

 面会の前にいったん応接室に通すと、椅子に座る前に尾籠は謝罪した。

「確かに、新景氏とお会いして不快感を覚えない日はないですね」

 もはや朽木は歯に衣を着せる努力すらしない。尾籠に着座を勧めつつ、「職場の方も大変でしょう」と上っ面の言葉で労う。

「はあ」尾籠は困ったように頷きながら、椅子に座る。「わたしは実家が新景と近く、幼稚園から大学まで同学の仲なので慣れてはいるのですが……我々は若いうちは頻繁に異動があるものですが、新景は今の上司以外引き取り手がなく、入省二年目に配属された現部署から一切動いていません。わたしも二年前に現在の部署に配属されたとき久々に新景と会ったのですが、調査の先々でも相手を不快にさせることがほぼ毎回で申し訳なく思っています」

「その新景氏は、今日は?」

「上司と霞ヶ関へ行っています。特殊感染症法の改正に関するワーキンググループの会議に呼ばれて、上司は現場の業務がこれ以上過多にならないように運ぶために、口の立つ新景を連れて行きました。千葉支部の血液紛失事件に関連して、研究機関の管理締め付けが厳しくなることは必至、その締め付けをどこまで抑えさせるかが我々にとっての焦点です」

「それは、ぜひとも頑張っていただきたいですね。こちらも、余計な業務が増えることは望みません」

 その朽木の言葉を聞いて、尾籠は表情を柔らかくした。

「葦手、刷毛目、笹蔓へ面会させていただく前に、わかってきたことをお話しさせてください。まず、ワールドホープの八星救輪廻、これは彼の本名ではありません。彼の名前は老箱神知のままです」

「八星叶廻が養子にとったのではなかったのですか」

「戸籍上、その事実はありませんでした。たしかに、『救済の法』事件の後、老箱神知は八星叶廻に引き取られています。しかし、養子にはしていません。叶廻は養子にしたがったようですが、八星側の親族が反対したみたいですね。叶廻の夫がその四年前に病死しており、彼の財産はすべて叶廻が相続しています。土地も含めて総額二十億円程度、それが老箱神知の手に渡ることを嫌ったようです。その八星叶廻も今から三年前に亡くなりました。その際、資産の半分を神知に譲るといった内容の遺言状があり、遺産分割はその通りに執行されています」

「神知は、その十億円を使ってワールドホープの活動を行っているということですか?」

「おそらくは」尾籠はうなずいた。「老箱は八星叶廻の養育によって中学、高校を卒業しましたが、いずれにおいてもクラスメイトから暴行罪、強要罪、侮辱罪にあたる加害を受け、まともに通学できていません。大学は地方の公立大学に進みましたが、そこでも氏名から出自が知れ渡り、学内に居づらくなって一年目で退学しています。退学後、八星叶廻のもとには戻らず、都内でさまざまな職を転々としていました」

「なぜ、叶廻の家にもどらなかったのでしょう」

 尾籠は返答を逡巡した。

「八星叶廻は、周囲に対して老箱を『犬』と言っていたそうです。虐待の事実は確認されていませんが、普通の家庭環境とは言えなかったのだろうと推測されています」

「神知の、大学を辞めたあとの動向は?」

「アルバイト先や就職先でもすぐに出自を知られることが多く、いずれも長続きしていません。ただ、最後の仕事となった介護施設のヘルパーは、五年と唯一長続きしていた仕事だったのですが、三年前に突然退職しています。おそらくは、八星叶廻の財産を受け取ったために働く必要がなくなったのでしょう」

「警察は、神知が介護施設で働いている間に彼に対するマークをやめたとか」

「定期的に彼を観察していた回数を削減したようです。もともとの事件が社会に対する攻撃ではなかったこと、彼自身に危険な兆候が見られなかったことが理由だそうです。でも、その隙に、老箱は行方をくらまし、その後、ワールドホープを立ち上げています。ワールドホープがNPO法人でないことはご存知かと思います。宗教法人でもありません。ただ、そう名乗っていただけの団体です。少なくとも判明している活動内容は、変身症に対する人権侵害撲滅の訴え、感染者家族のサポートです。そのために、駅前で街宣活動をしたり、事務所を構えて相談にのったりしています。また、感染者家族の居所を調べ、直接接触するなども行っていました」

 冬子は、夏に駅前で受け取ったワールドホープのチラシを思い出した。あのチラシを配っていた人たちは、どうしているのだろう。

「ワールドホープが接触した感染者家族や、事務所に出入りしていた人々から聞き出せた話によると、団体は老箱一人よって立ち上がったものではなく、補佐している三人の若い男たちの尽力が大きかったようです」

「セツ、エノス、カイナンですか」

「はい。老箱を主宰として鎮座させ、団体の活動内容を決めたり実行した人物は、その三人でした」

「神知は、傀儡ということですか?」

「実際はわかりませんが、もしかしたらあるいは。以前、朽木さんは新景におっしゃったようですね。セツだのエノスだの『親子』を連想させる名前は不自然、と」

 朽木は首肯する。

「これ、おそらくは老箱が与えた名前ではなく、三人の男たち自身が自分でつけた名前だと思われます。ワールドホープは老箱のものではなく、三人の男たちのもの。そう仮定すれば、『救済の法』と似ているようで異なる点があることも理解できます」

 朽木は背中を背もたれに預けて思案顔を作った。「その三人の男について身元は?」

「そこまではわかっていません。わたしが話した内容も、ほとんど警察から提供された内容です。管理局は、ワールドホープで使用された感染者の血液を盗んだ人間の特定を主に担っています」

「警察は、ほかには」

「詳細はまだ、わかりませんが――……先日の刷毛目寿美礼の話から、もしかして殺されている人がいるのではないかと疑っているようです」

「急に、合宿所からいなくなった人たちのことですか」

「はい。その合宿所の場所もつきとめられていないので、なんとも言えませんが」

「警察が、ここに収容されている三人の調査に来ることはあるでしょうか」

「おそらく、近々」

 朽木は息をついた。

「尾籠さんもご存知でしょう、俺も『救済の法』事件の生き残りです。そのとき、警察にはさんざん嫌な思いをさせられました。あいつらは根掘り葉掘り、こちらが知りもしないことまで言えと要求してくる。うちで預かっている感染者を、同じ目に遭わせたくありません」

「心中お察しします」尾籠は眉根を寄せた。「なるべく彼らがここへ来ないよう誘導しましょう。実際、刷毛目寿美礼や笹蔓紹太からは証言を引き出せていますし、それらを公安に流す形で捜査を進めてもらうよう取り計います。新景が交渉すれば、あちらも無理強いはしないでしょう。もし、公安が直接こちらに連絡をとってきたら、わたしに教えてください。どうにかします」

「ありがとうございます。心強いです」

「あの、よろしいでしょうか」冬子は二人の会話に無理に割って入った。「ワールドホープからいなくなった人は殺されているかも、と憶測が出ているとおっしゃっていましたが、それなら、どうして刷毛目さんたちは生きて合宿所から出されたのでしょうか」

 朽木も尾籠も冬子を見た。まるで今まで疑問にも思っていなかったという顔をしていた。

「ワールドホープからしてみれば、感染させた後に病気になった人は単なるお荷物だったのではないでしょうか。その荷物を手放すにあたって、なぜ殺さず、街中へ置き去りにしのでしょう」

 尾籠は困ったような顔をした。「言われてみればそうですね。わたしはただ単に、自分たちの手に負えなくなった三人を捨てたのだと思ったのですが」

「それについてもこのあと三人に聞いてみましょう」朽木が席を立ち上がる。「今日は時間がかかりそうだ。早く行きましょうか」

 聴取対象の三名には、あらかじめ尾籠の来訪を伝えてあった。それぞれ、尾籠が持参した千葉支部に出入りする業者の顔写真を見たが覚えのある人物はいなかった。尾籠は新たな証言を引き出そうといくつかの質問をしたが空振り、刷毛目と笹蔓からは「知っていることはすべて話してある」と言われてしまう。

 最後にまわした葦手は刷毛目、笹蔓以上に時間がかかった。前回、新景が来た時に行わなかった千葉支部の職員の写真確認も行ったためだ。しかしそれも空振りだった。すべての写真確認が終わった頃には、葦手は疲れを隠さずベッドの中で枕を抱いて丸まってしまった。

「葦手さん。ごめんなさい、もう少しお話しできませんか? お話ししてもらえたら、ご飯をおかわりしてもいいですから」

 ここのところ葦手の大食が激しいため、食事を制限させ、運動指導をしていた。ようやく痩せすぎの域からは脱していたが、今度はその病的な食べ方を冬子は心配していた。しかし今日は特別と甘言する。

「はーちゃん、ほんと?」

「本当。今日の夕飯はハンバーグですよ」

 葦手は目を輝かせて起き上がった。枕を胸元で抱えたまま「なにを言えばいいの?」と小首をかしげる。

「葦手さんは、感染後に薬を投与され、体調が悪化した後に八星救輪廻や他の大幹部から何か言われましたか?」

 尾籠の質問に葦手は首を振った。「どうしたのか、ってきかれただけ」

「なんて答えました?」

「つらいって」

「そうしたら、彼らは?」

 葦手は幼児がむずかるような顔をした。尾籠が対応を図りかねたのか、戸惑うように冬子を見る。冬子は思考を回転させた。――嫌なら話さなくていいと言ってしまうか。それともさらに追求するか。

「葦手さんは、つらいって彼らに伝えた時、どうしてほしかったですか?」

冬子が問うても葦手は表情を変えない。「うーん」と小さく唸り、「だまってほしかった」とつぶやいた。

「いろいろ話していたから。殺そうか、とか、埋めようか、とか」

 殺そうか――……「葦手さんの目の前で、八星が?」

「わたしの目の前で。やつほしさん、はだまっていたけど、ほかのセツさんとか。じゃまだったみたい、わたし。だから殺そうかって」

「あなたの目の前で、そんな相談をしていたんですか?」

 葦手は簡単にうなずく。「あのひとたち、わたしのことバカだっておもっていたんだもの」

 視界が歪むような錯覚を冬子はおぼえる。――そんな理由って、あるか。

「どうして、葦手さんは殺されなかったのか、わかりますか」

「ウイルスにカンセンしても、こんなに苦しむなんてありえない、もしかして新しいウイルスで、もう虫になっちゃうんじゃないかって、ここにおいておくとキケンだから捨てましょうってカイナンさんが言ってた。ほかのひとたちもうなずいてた。そのかわり、ちゃんとクチドメしましょうねって。きんじょに捨てると足がつくから、こんざつしているところ、都会にでもおいておけば誰かがどうにかしてくれるでしょうって」

 尾籠が「信じられない」とつぶやいた。

「雑だ。いくらなんでも雑。そいつら、自分たちの罪を隠す気はあるんでしょう。でも、やり方が雑すぎる」

「信念などないような連中なんでしょう」朽木は息を吐く。「葦手さん、それで、あなたがたは東京につれてこられたんですね」

「そうよ。もどりたくなかった。でもくるしくなくなったから、もどってよかった。それに、あったかいご飯がたくさんたべられるし」

 まずかったの、と葦手はひとりごちるように言った。

「味もにおいもしなくって。すてられて、ビョーインにはいって、ようやくあじがもどってきた」

 冬子、朽木、尾籠は顔を見合わせた。

「――味覚障害?」

 尾籠がつぶやく。「ほかの二人は?」

「そういえば、笹蔓さんが似たようなことを……」冬子は記憶をひっぱりだす。「新景さんが来た時の聴取で、言っていました。それで、二十キロ痩せたと。てっきり、個人の問題かと思って気にしていませんでした」

「刷毛目さんは、何も言っていない」と朽木は首をひねる。

「でも、二人に共通して味覚障害が、出ますか普通」

 尾籠がたたみかけるように言うが、朽木は「ここで出る答えではないでしょう」とにべもない。

「葦手さん、いつから味がわからなくなりましたか?」

 冬子が訊くと、葦手は「ミーティングルームでねるようになってから、何ヶ月かして」と言った。「いつからか、ちゃんとはおぼえていない」

「同時多発的な障害とすると、薬物性が考えられるでしょうか」

 尾籠の推論に、冬子は妙な違和感を自身の記憶に感じる。――なんだ、なにか思い出せそうな。

「デトックスウォーター」ひらめくよりも先に口が動いた。「葦手さん、デトックスウォーターって飲んでましたか」

「みんなのんでたよ」葦手の答えはあっさりしていた。「タダでのませてくれた。おいしくないみずだけど、すっきりするからって。なまえをしらないおねえさんは、『デトックスは気持ちの問題でしょ』って言ったら、つぎからミーティングルームに入れなくなってた」

「刷毛目さんが言っていたんです、苦い水をデトックスウォーターと言って飲んでいたと。宗教っぽい感じがしたけど、別にそれを売りつけるわけでもなかったって。それ、なにか薬が入っていたんじゃないかと思うのですが」

「なんのために?」尾籠が言う。「なんのために、味覚や嗅覚を麻痺させるんですか?」

「そんなこと、わたしに聞かれても」

「葦手さん、デトックスウォーターを飲んで、気分が変わったことなどはありませんでしたか? 酔っ払ったようになるとか」

 朽木の質問に、葦手は首をふった。「なんにもかわらなかった。かなしいきもちも、つらいきもちも。おなかが水でタプタプになっただけ」

 ふむ、と朽木はまた思案する。「幻覚作用を引き起こすようなものでもなさそうだ。単純に、味覚や嗅覚を鈍らそうとしたように思える」

「だから、なんのために」

 問う尾籠に対し、朽木は面倒そうに「それは警察が調べることでしょう。さっさと情報をながせばいいじゃないですか」と返答する。

「まだ、なにかきく?」

 いよいよ疲労を見せ始めた葦手は、ほとんど泣きそうな顔になっていた。

「ごめんなさい、葦手さん。尾籠さんは、まだなにか聴取事項はありますか?」

「いえ、今日は、とりあえずは」

 葦手に対する聴取も打ち切られた。一同は刷毛目の部屋へ戻り、デトックスウォーターと嗅覚や味覚について訊く。

 再び現れた三人に驚く様子を見せつつも、刷毛目は「前々から、味覚は変よ」と言った。

「どうして今まで言わなかったんですか」

 問う冬子に気圧されたのか、刷毛目はぽかんとした表情で「それは、なにか大事なことなの?」と逆に言う。

「今までのストレスが原因かと思っていたのよ。もうすっかり慣れて、しょうがないと思っていたし。まるっきりご飯の味がわからないわけでもないし」

「同時に収容されている葦手さんや笹蔓さんも似たような症状が出ているんです。葦手さんは自然治癒しているみたいですが。もしかして、デトックスウォーターに原因があるんじゃないかと思ったんですが、水に何かをいれていたとか、心当たりはありませんか」

「心当たりって言われても、わたしも、他の人も、出された水を飲んでいただけだから」

三人の味覚や嗅覚障害の原因が薬剤性か否か、結論を下すには決定打が足りない。尾籠は「持ち帰って検討します。警察に情報提供するかも含めて」と言って帰っていった。

 臨床部へ戻る道すがら、前方から総務部の金保が冬子を見つけて「あ」と声をあげた。その胸には荷物を抱えている。聞けば、昨日同様セキュリティ便を渡しに臨床部へ行ったが、冬子が席を外していたために戻ろうとしていたのだという。リストにサインし、冬子は金保から荷物を受け取った。荷物の差出人は国立特殊感染症研究機構の札幌支部、福岡支部、そして千葉支部だった。

「いくらなんでも早すぎます」

 歩きながら冬子は疑問を呈する。

「昨日の時点で他の支部からのデータ提供もありました。今日、これですべてそろったことになります。ちょっと早すぎると思いませんか」

「それは、あれだ。きみが研究申請書に村名賀部長のサインをもらったとき、つくばの杉平所長がいただろう。杉平先生がきみへのデータ提供を迅速に行うように各支部に呼びかけた」

「あの人が?」冬子は目を丸くした。「どうして」

「時間もないようだし、と」

「朽木先生、わたしのこと、まさか喋ってないですよね」わたしの余命があと少しであること、と声をひそめる。

「話すわけがない。きみが言っただろう。二ヶ月で仕上げると」

「でも、どうしてそんなご厚意を」

「これからキャリアを歩む若い人を支援する。それが徳坊東一郎のDNAだよ」

 冬子は思わず胸の荷物を強く抱いた。会ったこともない初代センター長が、自分を支えてくれているような気がして背筋がのびる。

 臨床部に戻ると、朽木のデスクの上に麻葉の死体から採取された組織の解析結果が記された書類がおかれていた。二人の帰室に気づいた長門が、「その書類、さっき届いたのでおいておきましたよ」と声をかけてくれる。

「毒液の内容……」

書類をぱらぱらとめくっていた朽木はあるところでピタリと手をとめた。そのまま冬子に数字を見せてくる。

「ヒスタミンの量が、さらに倍増していますね」

 うん、と朽木は自席に座った。

「アゲハをとりあげられた結果、攻撃性を増したことは、麻葉さんにとってそれだけ怒りが強かったと考えて良いでしょうか」

「子供をとりあげられた結果、母虫にとって、だよ。虫は意識を有しない。麻葉さん自身は、蛹化が完成した時点で人間として死んでいる。だから、虫としての怒りも苦しみも理解していない」

「……そうですね。すみません」

 仮に自分がそうなっても、自分が人間の意識を持ったまま怒り狂うことも悲しみに沈むこともないのだ。理解していても、胸の内は乾く。

 冬子は余計なことを考えないようにするため、荷物の梱包を解き、ディスクを確認すると情報システム管理部の奈丸に電話をかけた。要件を伝えながら、今日中に各支部と杉平所長へ送る礼状の作成を今日中に終わらせること、麻葉に関する論文を今週中に仕上げることなど、実行すべき事柄を頭の中でリストアップしていた。


 後日、刷毛目と笹蔓の血液を検査にかけ亜鉛の値を確認してみると、標準よりも大幅に低値だった。亜鉛キレート作用として内科専門医の梶川に治療薬の処方を出してもらうこととなったが、鼓班も朽木班も梶川から説教を受けた。

「収容時の問診! これちゃんとやっていればもっと早くから治療が始められました。て言うか、異常そのものは聞いていたんですよね? 収容時の状況が特異な人たちですが、それに振り回されずに我々は目の前の生身の人間に対し、誠実に職務遂行しなければいけません」

 これをきっかけに、梶川主導で収容時の問診や日々の体調管理に関するマニュアルと運用が整備されることとなった。それに伴って、整形外科専門医である倉橋は収容者の運動指導を監督することとなり、消化器外科専門医の鼓は収容者の外科手術の方法を模索することとなった。

 ――雰囲気と状況が、急に変わってきた。

 あるとき冬子が変化に対する感想を鼓に漏らすと、一度外科医をリタイアしたはずの医師は「だって研究助手の林野さんが頑張っているんだから、パートとはいえ研究者の肩書きを持ってるわたしたちがやらないわけにいかないでしょ」と笑った。

 麻葉に関する論文は予定通りにまとめ上げ、朽木の査読を経て村名賀へ提出した。感染した経緯から蛹化、成虫化、交尾後の共食い、産卵と抱卵、アゲハの孵化と、母子別離後から死亡までについて時系列を記載、状態の観察と検査結果から考察した。

――「虫の母性は攻撃性を増幅させ、虫の存在そのものが人間の脅威であることをあらためて示した。二度と、『母』たる虫を誕生させるべきではない」

 冬子から論文を手渡された村名賀は、その場で表紙をめくり、一分程度で完読した。そのくせして、結びの一文をひたすらしつこく、大きな飴玉を口に含むように何度も小声で読み上げる。

「きみがこういう意見であることはわかったが、I型とI型の交配実験の機会があれば、わたしは迷わず実行するよ」

「部長に意見するつもりはありません。わたしは過程から導き出せる自分の考えを記したまでです」

 まあ、構いないが、と村名賀は自身のデスクに論文をおいた。

「これの発表のタイミングはわたしが決める。異存は」

「ありません」

 異存などあるものか。冬子は一礼をして部長室を出た。自分の仕事の軌跡が残り、誰かを動かし、何かを変えるきっかけになればそれでいい。まだ、もう一つの論文もある。デスクに戻り、スリープ状態のパソコンの画面を呼び戻す。時間はないが、仕事はまだまだ、やり尽くせる。止まらない昂揚と焦燥が、冬子を突き動かしていた。


 十二月に入って、アゲハが死んだ。

 半月以上の絶食を経て、子供の虫は死んだ。

 最後の一週間などほとんどじっとしていたが、まれに足を小さくさざめくように動かした。餓死とはいえ、見た目の体の大きさは甲殻があるためにほとんど変わっていない。アゲハがただの容れ物となった朝、冬子は毛布にくるまったまま時間が経つことも忘れて虫の死骸を見つめた。通常は病理生理部による解剖が行われるところだが、Ⅲ型に対するmRNA転写阻害薬が未開発であるため、遺骸は水槽の中へ放置されることとなった。空調を調節し、湿度を最低限に抑えることによって腐敗を避ける。うまくすれば標本になるだろうと村名賀は言ったが、冬子は自分がアゲハなら腐ってこの世から完全に消え去ることを望むだろうと考えた。自分を誕生させて、そして殺した人間たちの視線を永久に浴び続けることは嫌だと、そこまで考えて必要以上にアゲハに感情移入していたことに気づいた。

 アゲハが死ぬまでの間に、ワールドホープに関する捜査はなんの進展も見せなかった。『合宿所』の場所を捜す警視庁公安部が葦手、刷毛目、笹蔓に対する調査のために来館した。尾籠との約束では公安をVRCには入れないようにするとのことだったが、新景の口八丁をもってしても止められなかったそうだ。新景が何を言ったか知らないが、警察の神経を逆撫でするような発言をぶちかましたのだろうと冬子は想像した。やたら体格がいい公安の刑事二名は、申し訳なさげに小さな体をさらに小さくする尾籠を同伴して三名の聴取に臨んだが、期待していた成果は得られなかった。

 新景や尾籠が取り組んでいる千葉支部の血液紛失事件に関しても同様だ。千葉支部の職員はもちろん、契約している企業の社員、研修生である学生や他研究機関の研究員なども調べたが、盗み出した犯人と言える人物はいなかった。ワールドホープで葦手ら三人に投与された汚染血液は、もしかしたら千葉支部で紛失したものとは別なのではないかという推測も出されたが、かと言ってそこから新しい事実を手繰り寄せられたわけでもなかった。

 アゲハが死んで、冬子は水槽室で寝る理由がなくなった。いつものように0時過ぎまで論文を書き進め、夜が更けてもパソコンの画面から視線を離さない朽木をおいて地下一階の仮眠室へ降りると、部屋の前に一般検査部の多ヶ谷部長が立っていた。

「多ヶ谷先生、どうされたんですか」

「待っていたのよ。あなたがここを自分の部屋にしていると聞いて。虫の子が死んだから、ようやくここで寝るんでしょう? その前に、ちょっとお話いいかしら」

 多ヶ谷は冬子の返事を待たずに仮眠室へ入ってしまった。冬子はなにがなんだかわからないまま後に続く。

「殺風景ね。寒いし」

「多ヶ谷先生。何か御用ですか」

 電気と暖房をつけながら冬子が問うても、多ヶ谷は微笑むばかりで答えない。どっかと椅子に腰掛け、「あなたも座れば」と促すので、冬子は言われるがままベッドの端に座る。

「村名賀先生の研究はどうなっているの? 朽木先生も手伝っているんでしょ?」

「わたしはよくわかりません。Ⅲ型に対応するmRNA転写阻害薬が開発されるまで、実験もストップらしいです」

「Ⅲ型、ね」多ヶ谷は皮肉たっぷりに言い放つ。「自分たちで新しい遺伝子型を作ってⅢ型なんてよく言うわ。もっと別の名前にしろっての」

「多ヶ谷先生は、交配実験には反対ですか」

「交配実験自体は、嫌ァな感じよ。無駄になる実験なんてないけど、嫌な感じ。もともと人間だった生物同士を、人間の都合で交尾させるなんて」

「アゲハは、通常の虫よりも学習能力があって、体力の向上も目覚ましかったんです。人間の都合で交尾させた結果、人間が脅威だと思う命が生まれてしまいました。そしてそれを、私たちは殺した。――後味が、悪すぎます」

「アゲハって、虫の名前?」

「はい。朽木先生がつけました」

「あの子も結構、ネーミングセンスがちぐはぐね」

 返事に困り、冬子はあいまいにうなずいた。

「あの子の配属が決まった時にね、徳坊先生のコネで入職したんだって人事に聞いてさ、わたしはコネなんて嫌いだから初めは反感しかなかったの。しかも、言われたことしかやらないし、聞かれたことしか話さないし。頭がいいからなんとなく医学部に入れて、やりたいことがないからコネを使っただけのつまんない奴だと、わたしは彼を評価していたんだけどね」

「なにかあったんですか」

「入職二年目の一月に、急にやる気を出し始めて、『新しい検査法の開発をする』って周りも巻き込んで、今のABO型検査を開発した。あの子にリーダーシップとか推進力とかがあるなんて思わなくって、驚いたのよ。この子ならこの部署を任せられると思った矢先に、自分から異動を願い出て臨床部に行っちゃうでしょう。あらためて、何やってんだこいつ、と思ったわ。あの子がやる気を見せた時期が、十年近く前。――そのとき、なにがあったんだろう」

 冬子は多ヶ谷を見た。多ヶ谷も冬子を見た。笑ってはいたが、その目は何かを探るように眼光鋭かった。

「なにが、あったんでしょうか」

 冬子は笑った。うまく表情がつくれない。

「この間、アゲハちゃんを母親から引き離した日にあなたたちの血液サンプルが一般検査部に提出された」

「そういう規定ですよね」

「違和感があった。あなたと朽木先生の血液が入ったポーチを開けたときに。妙な違和感。どちらもA型で、どちらも同じ色で、雰囲気で」

「血の雰囲気ですか?」

「あるのよ。血の佇まい。個人個人で違うの。でも、あなたたちの血液は同一人物のものに見えた」

「一般検査部の部長が、非科学的なことをおっしゃるんですか」

「こんなこと、学会では言わない。ただわたしの日常の感想だからね。実際に同一人物の血かどうかなんて、検査してみないとわからないわけだし」

「検査、されたんですか」

「一般検査部にはそこまでの機械はない。ゲノム解析部に行かないと。でも、ゲノムの機械を使わせてもらう口実が思いつかなくてね、やめた」

 冬子は内心安堵したが、悟られないように目を伏せた。

「あなた、九年と数ヶ月前に駅前の検査ルームに来ているでしょう」

「え?」

「朽木先生の検査法が特許を取得した日、彼がやる気を出し始めた頃になにがあったんだろうと思って検査結果を見ていたの。その中で目が止まったデータファイルが、高校教師の変身症発症にともなう集団検査のやり残しで、検査ルームに来た生徒の結果。受検者の氏名欄に、あなたの名前があった」

「確かに、十七歳のときに検査を受けていますね」

 冬子は動揺していないふりを装う。

「negativeだった」

「はい」

「その時の検査官が、朽木先生だった」

「ええ。そのときに変身症に興味を持って、ここへ入職しました」

「そのnegativeにも、違和感があったの」

「データに入力されている文字ですよね?」冬子は笑った。「negativeの文字に、佇まいがあるんですか?」

「なんとなく調べてみたのよ。当時使っていた検査ツールの開発にはわたしも加わっていたから、データの解析は簡単。そうしたら、書き換えられた痕跡があった」

「こんせき」

 冬子はもう一度笑った。

「negativeでなければ、なんだったんですか」

「無理に作り笑いしなくていいのよ」

「わたしはこれまでの検査でもずっとnegativeでした。多ヶ谷先生がおっしゃる書き換えが行われていたのだとしたら、negativeの前はなんだったんですか」

「ネガの反対はpositive」

「検査結果がうまくでなくて、手打ちされたとかでは」

「それなら再検査にまわされる。そうでなくても、当時の検査ツールだって精度はほぼ百パーセントよ」

「完全に百パーセントではなかったわけですよね」

「間違える確率は、性行為でUNGウイルスに感染する確率より低い」

「0.0002パーセント以下ということですか」

「その検査結果を見た翌年、あなたが入職したときにはさらに驚いた」

「もし多ヶ谷先生のおっしゃること、つまり書き換えが本当なら」

「本当ではなかったら、あなた、こんなところに寝泊まりして生き急ぐように仕事をしなくてもいいんじゃないかしら。もっとゆっくりのんびりしたっていいはず」

「臨床部が診ている収容者の方々には、収容後に精神疾患を発症する人が少なくありません。自殺をした人も何人もいます。つくばに特殊感染症研究機構が初めて設立されてから二十七年、全国の収容施設で自殺した人はトータルで一九八九人。総収容者数四八九〇人のうち約四十パーセントです。VRCはとても少ないほうで、多い支部だと年間十五人を超えています。月に一人以上は自殺しているんです。わたしはこの数字を、機構の本部および各支部からデータを取り寄せて初めて知りました。調べてみても、誰も統計すらとっていないんです。ただでさえ収容することで人権を奪っているのに、その後のケアを、わたしたちは怠り続けているんです。わたしは早くこのことを世界に発表して、収容者のケアの必要性を訴えたい、それだけです」

「収容者は、患者ではなく研究対象。悪く言えばマウスだからね。マウスのメンタルケアなんて、普通は考えないでしょ」

「毎日ちゃんと回診していれば、相手をマウスだなんて決して思えません。そのおっしゃりようは、軽蔑します」

「軽蔑、ね。たしかに、わたしは収容者を人間だなんて思ったことがなかったからな」

 それが研究者の普通の感覚でしょ、と多ヶ谷は言い放つ。

「カルテから、鬱状態が改善した人、自殺を思いとどまった人を抽出してどんなやり取りが奏功したのかもまとめています。逆のパターンも同様に。たぶん、一般の人と収容者とでは、精神医学的なアプローチも異なってくると思うんです。とにかくわたしは、事実を列挙してまとめて世の中に示したい。わたしがまとめたことを全部おいていくから、あとはちゃんと、正しい方向へ進めていって欲しい、それだけです」

「ねえ、林野さん。わたしはあなたがた二人を応援しているの。だからちゃんと二人で話して、よりよい選択をしてほしい」

「すみません。わたしは、論文を書き上げることしか考えられなくて」

「今のところ、あなたの検査結果に疑問を抱いている職員はわたしだけ。他の人からも同じ疑問を持たれないよう、注意しなさい」

 多ヶ谷は椅子から立ち上がった。

「注意するもなにも、わたしは、生きて仕事をしているだけですから。わたしからこれ以上、なにも奪わないでください」

 自然、冬子は多ヶ谷を見上げる格好となる。多ヶ谷のその顔は、やるせなく笑っていた。


 翌朝、六時すぎに臨床部へ行くと、すでに朽木がパソコンに向かってメールを打っていた。冬子が昨夜の多ヶ谷の訪問を報告すると、「あの人、勘がいいから」と朽木は手を止めた。

「調査しようとしないだけありがたい。――それより、林野さんに朗報。Ⅲ型のmRNA転写阻害薬、バークレーの変身症研究所が開発に成功した」

「え?」

「これで、実験ができる」

「それって、たしか来年になるって言っていませんでしたか」

「うちだけで行う場合は来年になると思われた。つくばの杉平先生がツテのある先に呼びかけてくれて、手を挙げた研究機関がいくつかあった」

「アゲハのデータ、渡してるんですか」

「世界で解析したほうが進みは早い」

「特許とかどうするんですか」

「それは知財管理室がうまくやってくれる。きみは心配しなくていい」

 嬉しくないのか、と朽木は冬子を見た。

「いえ――……なんとなく、ぜんぶ朽木先生や村名賀先生が成功させて、名声からなにからぜんぶ手にしてほしかったなって思ってしまって」

「意外とつまらないことを気にするんだな」朽木は笑った。「人の命がかかっているんだ、名声なんて道路の塵のようなものだろう。誰も気にとめない」

「すみません」

「もうひとつの報告は、新しいシーケンサーが購入されることになった」

「新品ですか」

「最新だ」

「村名賀先生の実験に、今年度の予算はつかないのではなかったですか」

「実験に対する予算ではなく設備費として計上されることになった。研究管理課と経理課と購買課が頑張ってくれて、クリスマスには納品される」

「そうですか」

「いままで数日かかっていた解析が、一日で終わる」

 感情の発露こそ大袈裟ではないが、朽木はまるでクリスマスプレゼントを楽しみにする子供のようだった。数日が一日になる。その差がなんだと言うのだろう。いままで四十年も進まなかった治療法が、その数日の差で見つかるなど、冬子には思えない。

「朽木先生も村名賀先生も、さらにお忙しくなりますか」

「忙しいことは変わらないが、どうした」

「ごめんなさい、変なことを訊いて」

 冬子は顔を背け、自分のデスクに向かった。情けない表情を見られたくなかった。

 人類が変身症を克服する日を朽木は最大の楽しみとしているのに、自分がそこへ立ち会えないことが悔しくてならなかった。


 翌週には、バークレー変身症研究所から提供されたレポートをもとに治療開発研究部においてⅢ型対応のmRNA転写阻害薬が製造された。その日から、朽木は回診時以外ほとんど冬子の隣からいなくなった。動物実験室やゲノム解析部に入り浸っている。食事もほとんどろくにとらなくなり、配膳部に村名賀ともども食事の提供の中止を依頼した。冬子自身もパソコンの画面をにらめながら食事をすることが多くなってしまっている。寝る間も惜しく、目の下には常にクマができていた。朽木も同じで、もはや寝袋すら使わず、臨床部の床へ倒れるようにして寝ている夜が続いている。

 そうして、十二月二十四日を迎えた。

 その日の回診が終わって臨床部へ戻ったとき、倉橋から609号室の福寿青賀が蛹化を始めたと報告を受けた。Ⅰ型の、男性。現在三十八歳。二十八歳の頃に交際していた相手が変身症を発症したことから検査を受け陽性が判明、以降九年超収容されていた。もともと企業のラグビー部に在籍していたが、現在はラガーマンであったことなど想像もできないほど体格は貧相になっている。冬子が臨床部に戻ってきたとき、すでに室内のテレビモニターは福寿の部屋のカメラ映像を流していた。長身の男の髪はほとんどが白くなっており、うつろな目でぼんやりと宙を見つめている。

 ――わたしが年明けに虫となれば、この人と交尾、させられるのか。

 胸の内がザッと粟立った。朽木に何か求めようとして彼を振り向きたかったが、冬子自身どんな言葉をかけて欲しいのかわからない。そうしている間にも、朽木は「じゃあ、俺は実験室にいるから」とテレビモニターを一瞥することもなく部屋から出て行ってしまった。

 その日の正午、冬子は論文を書き上げた。読み返し、最後の修正をしてデータを保存した瞬間、気持ちに鳥肌が立った。恐怖とは異なる、高揚感ゆえの鳥肌だった。

 振り向いた隣のデスクに朽木はいなかった。仕方ないので、保存したばかりのデータを印刷して紙の左肩をクリップで止め、朽木のデスクの真ん中においた。朽木のデスクは綺麗に整頓されていた。研究に加えて通常業務の資料や閲覧の必要がある書類などがあったが、それらもわかりやすくファイリングして重ねられている。その調和を乱すように、冬子は自分の論文をそのデスクへおいた。

 臨床部の誰にも、論文を書き上げたことを言わなかった。初めに言う相手は朽木でなければならないような気がした。

 そのあとも、何気ない顔で昼食をとり、普段通り仕事をこなした。息を吐く、息を吸う。そんな当たり前のような行動を、心がけた。

 パートタイマーの面々が退勤する時間になり、さらに定時を過ぎて長門も帰宅した。臨床部には冬子一人が残された。

 冬子は椅子に座ったままぽかんと執務室内を眺めた。それぞれのデスクが壁を向くようにして整然とならべられ、中央の開いたスペースには段ボールが無造作に置かれている。朽木が新しく通信販売で購入したのだろうか、見慣れないエナジーバーの箱が増えていた。仕事納めは二十八日だ。ここで仕事をするのも、あと四日。あと四日で、臨床部の面々とは別離することとなる。今日、論文を書き上げられてよかったと冬子は心底安堵した。仕事納めの日にまで論文に追われていては、最後の業務の日々も落ち着いて過ごせない。あとの四日は、ただただ静かに誠実に、与えられた仕事に望みたかった。

 一息をついて、冬子はテレビモニターを見上げた。今朝から蛹化が始まった福寿は、朝と変わらず宙を見つめている。自分とこの人から生まれる虫の子供に、朽木はどんな名前をつけるのだろう。未来を見据えた良い名をつけてくれるだろうか。考えかけて目頭に熱っぽさを感じた冬子は、思考を振り払うようにテレビモニターを消し、臨床部を後にした。

 地下一階でシャワーを浴び、仮眠室へ戻った冬子は、髪を整え、化粧を始める。一ヶ月ばかり練習してきたからか、ずいぶん上達した。ファンデーションはムラなく塗り、チークをほのかにのせ、コンシーラーでクマを隠し、アイシャドーは上品に、アイラインはくっきりと、アイブロウはやわらかな曲線で、迷うことなく施した。汗ばんだユニフォームを脱ぎ、この日のために買ったワンピースを着る。黒を基調としたワンピース。胸の部分だけジャガード織で千鳥格子柄の布が使われている。足元はスパンコール付きのストッキングに黒のハイヒール。首元には華奢なネックレス。冬子は、鏡を見た。最後に赤い口紅をひく。

 普段の自分とは別人だった。

 ――変われるのだ。

 自分が何かをするだけで、何かに挑戦してみるだけで、自分自身は変われる。

 十年近く前。

 朽木は冬子をこの建物へ閉じ込めなかった。

 懲役十年、または罰金五千万円。

 自分の十年は、朽木を閉じ込めるための十年と釣り合う価値があるだろうか。

 五千万円の価値があるだろうか。

 何も変えようとしなかった。

 変わろうとしなかった。

 変わろうとしなかったことの罪は重い。

 冬子は背後のベッドを見た。

 自分はここで蛹化する。

 完全に蛹化を終えたあと、朽木と村名賀で福寿の水槽へ運ぶのだろう。

 そこで成虫化し、つぎの命として目覚めた時には本能で同じ水槽内にいるオスと交尾するのだ。

 そして、交尾した相手を栄養として食い、産卵する。

 ――いやだ。

 腹の奥の虫が、「ぞわり、」と蠢いた。もうすぐだ、もうすぐお前も、こっち側だ、とささやくように「ぞわり、」と、いるはずもない虫が無数の足で冬子の臓腑を撫でる。

 叶うなら、もう一度十年をやり直したい。やり直しの十年で、さまざまな経験をしたい。論文を二本書いて満足か? それで仕事をやり遂げたつもりか? 化粧をして着飾ったくらいの変化で驚くのか? 違うだろう。

 ――もっともっと、もっと生きたい。

 だがそれも叶わない。

 もともとが朽木の法規違反で成り立った十年だ。これ以上は口にすることも許されない、贅沢。

 冬子は深く呼吸した。腹の中の虫を――自分の心の中の虫を、おさえつける。

 もう、時間だ。出発しなければ、予約に遅れる。

 真新しいコートに袖を通した。貴重品を小さなバッグに詰め替える。

 いってきます。

 仮眠室から一歩踏み出し、その扉を閉めるとき、背後へ小さくつぶやいた。


 臨床部の部屋へ戻っても、そこには誰もいなかった。朽木が戻ってきた気配もない。試しに朽木のモバイルフォンへ架電してみたが、着信音が鳴るばかりで一向に応答されない。動物実験室やゲノム解析部など、いそうな部署の固定電話へかけてみようとしたが、同じ結果になるような気がしてやめた。朽木が約束を忘れているはずはあるまい。おそらく実験かなにかで手が離せないのだろう。冬子は付箋に「先に行っています」とメモをし、朽木のデスクへおいた自分の論文の表紙にはりつけた。

 消沈しながら守衛所の前を通ろうとすると、当番の星野が「おでかけですか」と声をかけてくる。冬子は曖昧にうなずいて、退勤した。

 タクシーを拾おうかと考えたが、正面の道を走る車はいずれも自家用車ばかりであった。あきらめて駅までの道を歩くことにする。靴のヒールが舗道をたたくたびに音が夜の空気へ響く。息を吐けば、真っ白だ。緑地のあたりは点々と街灯があるばかりで人の気配はない。

 楽しみにしていたはずの日だ。それなのに、気分は重い。暗い。辛いと感じたままでいいわけがないことはわかっているが、それでも。

 ふと、目線を前方へ向けた。ない、と思っていたはずの人の気配があった。車道には、黒いミニバンが停車している。

 見覚えがある車だった。滝縞吉信の家の前で、滝縞夫妻を載せたミニバンだと気づくまでに五秒かかった。その五秒の間に、車から人影が二人降りて冬子目指して足早に歩いてきた。

 刹那よりも早く冬子は逃げる必要性を感じた。踵を返し、VRCへ走り出す。否、走る格好でつっかかるように前へ進む。走れない足元。履き慣れない靴。――ハイヒール。

 夜の暗がりに響く足音が背後へ迫る。あ、と思ったときには背中を鈍器のようなもので殴られていた。

 衝撃と吃驚。遅れてやってくる痛み。頬に触れた地面の冷たさで、自分が舗道へ倒れたことを認識した。

「たすけ」

 せめて守衛所の星野へ声が届けば、と喉を振り絞ろうとしたが、無防備な背中に誰かが乗った。その人物に後頭部から顔を地面に押しつけられて叫ぶことは叶わず、そのうえ、右腕を宙へ捻りあげられた。

 ――殺される。

 ――この連中、人を殺せる。

 恐怖が稲妻のように体をつんざく。

「なんなの、あんたたち」

 黒い影の一人が冬子の左手首を地面へ押さえつける。ちくり、とした痛みが走った。注射針。静脈になにか入れられている。

「やめて!」

 抵抗しようとするが、男二人におさえつけられてどうすることもできない。だれか道を通らないかと願うが、VRC職員の退勤はピークタイムを過ぎていた。もともと人通りがまばらな道だ。都合のいい通行人を求めたところで望みはない。

「ゆるさ、ない――……」

 頭の中がふわりふわりとする、おかしな感覚に陥った。目を開けていられない。睡眠剤か。ふざけるな、と思いながらも目が回る。――今日はわたしが楽しみにしていたはずの日なんだ、あんたたちにぶち壊されてたまるか。

 後頭部を押さえつけていた人物が、冬子を抱え上げた。その拍子にバッグと両足の靴が地面へ落ちる。男たちは構うことなく、車へと急いだ。

 後部座席へ投げるように寝かせられた。紐のようなもので足も手も縛られ、毛布らしきものを頭も含めた全身へかけられた。視界が真っ黒になる。

 濁流へ飲み込まれるように意識が遠のく。おろして、と言うが声にならない。車のエンジンがかけられ、発車したときにはもう、眠りの淵へと落ちていた。

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