第5話
国立特殊感染症研究機構の千葉支部で収容者の血液が入ったサンプルが紛失していたことを臨床部の面々に情報共有すると、全員が呆れ、次に怒りをあらわにした。収容者から採取した検体の厳重管理は研究機関として絶対であり、不用意に感染を広めないための必定である。基本行動が守られていないことに、他所事ながら皆が皆、感情移入をする。
「うちもあらためて、管理方法の再確認と徹底が必要ですね」
部員のみのショートミーティングにおける長門の発言に、朽木が「俺からセンター長に進言します」と返答した。
「村名賀部長を通さなくて良いんですか」との質問は長門である。
「あの人はいま、それどころではないですから。――麻葉さんが、産卵していました」
部員たちの反応は、小さく声を上げる者、息をのむ者、それぞれだった。
「胸部に三つ、卵がついています。床や壁に産みつける様子はなく、このまま、孵化まで抱卵を続けると思われます。先ほど、村名賀先生にこのことを報告したら、水槽の前へ飛んでいきました。もしかしたら、孵化するまでそこから動かないかもしれません」
それは明らかな軽口だったが、村名賀がじっとしていられないのは確かだろう。
「鼓先生。タロウさんの様子はどうですか」
冬子が問うと、鼓は肩をすくめる。
「何も話さないわ。食事も睡眠も摂っているから、死ぬことはなさそうだけど」
「ゼロイチさんとゼロニさんも似たような態度です。三人はもしかしたら、千葉支部が紛失した血液を何者かによって投与されたのではないかと管理局は疑っているそうです」
鼓は「了解」とうなずいた。「根気よく語りかけるわ」
ショートミーティング終了後、冬子はデスクの一番上の引き出しを開けた。文房具に埋もれてほとんど見えなくなってしまっている名刺を取り出す。NPO法人ワールドホープの、八星救輪廻。冬子はその名刺を持って、朽木を廊下に連れ出した。
「朽木先生、この人と知り合いなんですよね」
名刺を見せると、朽木はあからさまに嫌そうな顔をする。
「子供の頃の知り合い、それだけだ。二十年は会っていないし、昔だって親しかったわけではない」
「わたしにこの名刺を渡してきた時、この人は自分たちの活動を『変身症によって差別された人々を救うために活動している』『人類を変身症から救うために取り組んでいる』と言いました。こういう草の根活動をしている組織なら、わたし達や管理局とは違う情報を持っているかもしれません」
「違う情報ってなんだよ」
「だって、怪しいじゃないですか。人類を変身症から救うためと言って、おかしなことをしているかも」
「やめたほうがいい。余計なことに巻き込まれるかもしれない」
冬子は眉をひそめた。
「朽木先生。この人、何者なんですか?」
朽木は暗い顔をして息をつく。
「二十一年前の『救済の法事件』。それの生き残りだ」
え、と冬子は二の句をつげない。二十一年前に、新興宗教の法人がUNGウイルスⅡ型を幼児に感染させ、幼児は蛹化、成虫化した末に信者たちを食い殺した事件。生き残りは、教祖の息子ただ一人。
「そいつ自身が宗教活動を主導していたわけではなかったし、今もそういった話は聞かない。だが、そのNPO法人の活動内容は胡散臭いと思わないか。無駄に関わるべきではない」
「以前、この人、朽木先生に電話してきましたよね。何か用があったんじゃないですか」
「そのNPOへの勧誘だよ。すぐ断った」
「朽木先生は、この人とどういう関係ですか」
「ただの幼なじみ」
そこまで聞いて、「立ち入りすぎた」と冬子は気づいた。朽木はいつもと同じ乾いた表情だが、聞かれたことをあまりよく思っていないだろう。
「すみません、先生」
「いいよ。その名刺は俺が預かるから」
朽木は冬子から名刺を取り上げようとした。だが、冬子は名刺を両手の指でつまんで離さない。
「林野さん、手を離しなさい」
「これは、わたしがもらったものです」
「きみ、俺に隠れて連絡取ろうとするつもりか」
「そんなことしません」
「しないなら名刺なんていらないだろ」
朽木は長く息を吐いた。「わかったよ」と名刺から手を離す。
「俺が連絡をとる。会うなら俺も一緒に行く。だから、名刺は渡してくれ」
「いいんですか」
「不安だから、胡散臭い団体の奴にきみ一人で会わせたくない」
ほら、とさしだされた朽木の掌に、冬子は名刺をおいた。朽木はそれを白衣のポケットにつっこむ。
「日時はいつでもいいな?」
「はい」
「つまらない話しかないと思うが」
やれやれとでも言いたげに息を吐きながら朽木は臨床部へ戻っていった。後に残された冬子は、「突っ走ってしまっただろうか」と後悔にも似た反省をする。新しい収容者たちの名前だけでも知りたい、手がかりだけでもほしい気持ちだけだったが、関係のないところまで掘ってしまったような気がした。
朽木はすぐに八星救輪廻に連絡をとってくれた。約束は翌々日の十九時に、駅前の個室式の居酒屋で対面することになった。朽木は「それまでにゼロイチ、ゼロニ、タロウのうち誰か一人でも情報を話してくれれば約束はキャンセルだ」と言ったが、三名が急に心を開くことはなかった。
冬子と朽木は、退勤時間になると二人でセンターを出た。前日に、朽木から「格好は、セミフォーマルに準じた感じで」とドレスコードを指定されていた冬子は、何を着ていくべきかわからずクローゼットにあった就職活動の際に着てそれっきりにしていたスーツを着用した。朽木もスーツ姿だったが、無地の黒いスーツは、喪服のようにも見える。守衛所に退勤の挨拶をした時、これから仕事で外出なのかと聞かれたが、二人は適当に「いってきます」と言った。
朽木の名前で予約された居酒屋は、駅前繁華街から少しはずれた場所にあった。シンプルな外観の、落ち着きがある店構えだったが、わざわざ服装を指定されるような店とも思えなかった。入店する直前、朽木は「以前、滝縞の家の前で会った時、八星は黒いミニバンで滝縞夫妻をつれていったんだよな」と冬子に確認した。その通りだと冬子がうなずくと、「わかった」とだけうなずいた。冬子がなんのことだかわからないまま、朽木は先に店へ入ってしまう。相手はすでに来店しているようだった。
一番奥の個室を案内された。個室と言っても、卓を薄い壁で仕切っただけで、室内はほとんど身動き取れないほど狭い。
八星救輪廻は上座側に座っていた。冬子と朽木を見るなり、笑顔で片手をふる。
「会ってもらえるとは思わなかったよ、離苦」
「俺が会いたいと言ったわけではありません。カミトモさん」
不機嫌を隠さず言いながら、朽木は着座する。その横に座りながら、冬子は「カミトモ?」と朽木の顔を見た。
「ほら、お嬢さんが不思議そうな顔をしている。今の僕は『八星救輪廻』だから、そう呼んでくれないかな」
「仰々しいお名前で」
朽木は店員を呼んで三人分のグラスビールを勝手にオーダーした。
「僕は、お酒は飲まないよ」
「俺たちだって飲みに来たわけではありませんよ。こういう店では、なにか頼まなければならないでしょう」
「二十年ぶりの再会で、それはないんじゃないかい」
八星は冬子を見てニコリと笑う。
「以前、滝縞さんの家の前でお会いしましたね。やはり、離苦のご同僚でしたか」
「林野です。八星救輪廻さん、でよろしかったですよね」
「ええ。離苦がややこしいことを言いましたが――」
個室のドアがノックされ、ビールとお通しが運ばれてきた。店員はすべてをセットしてすぐに退出する。
「以前の名前は、オイバコカミトモと言いました」
老箱神知と書くのだと、本人は説明した。
「離苦はあなたに、僕のことをどこまで説明していますか」
冬子は朽木の横顔を伺った。特に口出ししようとはしていないため、「『救済の法事件』の生き残りであると」と小声で言った。八星は薄い笑みを顔に浮かべてうなずいた。
「その事件のあとに、叔母にひきとられて『八星』という家の養子になりました。ただ、下の名前も珍しく、稀に事件関係者であると知られることがあったため、成人してから『救輪廻』に変えたわけです」
「自分で考えたんですか、そのおかしな名前は」
朽木が皮肉をたっぷり込めて聞いたが、八星にその皮肉は届いていないようだった。「いい名前だろ」と彼は言う。
「輪廻から救う、だから『救輪廻』だ」
朽木はわざとらしく舌打ちをした。
「まだ、あなたは親の支配下にいるんですか」
「いないよ。僕は、親とは関係ない。あいつらが死んだ時から、僕は自由なんだから」
「それなら、輪廻など宗教色の濃いことを」
「いいじゃないか。迷いの世界で何度も生死を繰り返す人々への救い。人助けを人生の信条とする僕にはぴったりだ」
「公安は、あなたをマークしていますか」
「いや」八星は首を振った。「成人して何年かするまでは見張られていたけど、介護施設でおとなしく働いていたらそのうちいなくなったよ。警察だってそんなに暇じゃないんだろ」
八星は冬子を見て笑う。
「僕の親は、『救済の法』の教祖で、彼らも合わせて六十九名の死者が出た『救済の法』事件を起こした張本人なんですよ」
けろりとした告白は、その内容を既知とする冬子にとって驚くべきことではなかったが、それを笑いながら言う八星には気味の悪さを感じた。
「あなたは六十九人を見殺しにしました。教祖の腰から道場の鍵をとって、混乱に乗じて外へ出て、道場に鍵をかけた。まだその時点では生きている信者は何人もいたはずです。それなのに、閉じ込めた。――反省を、していないのですか」
「なぜ反省をする必要があるんだろう」
棒読みの話し方だった。問い詰めた朽木も、戸惑うように口をつぐむ。
「僕がとった行動は、世間から褒められたよ。信者たちを閉じ込めたことによって、道場の外に被害が広がらなかった。信者たちは逃げなかったし、なにより、虫も」
少しだけ、八星の目が見開かれた。
「虫は、そうだ、きみの妹だったね」
え、と出そうになった声を冬子は飲み込んだ。その事件で信者を襲った虫は、信者である夫婦の、六歳の娘が強姦によってⅡ型に感染させられた虫だった。
「きみと、きみの両親と、僕の両親の目の前で、どこの馬の骨とも知れない臭い中年男に犯された妹。名前はラクちゃん。楽園の楽。彼女をさしだせば信者全員が楽園へ行けると言われて、きみの両親は娘を強姦させた。あの道場の祭壇の前で、楽ちゃんは裸にされて、泣いていた。泣き声は、道場の外で待っていた僕にも届いていた」
冬子は朽木の様子を伺うことができなかった。八星の言うことがにわかには信じられなかった。しかし、嘘なら朽木はすぐに否定をするだろう。それがないとはどういうことか。
「そんな昔話をするために、あなたに会いにきたのではありません」
朽木の声は毅然としていた。
「先日、変身症研究センターに氏名不詳の三人の男女が収容されました。全員、二ヶ月前に急性腎不全を発症し、新宿の路上から近隣の病院へ緊急搬送されています。三人とも、名前や住所、経歴、腎不全を発症した理由や、UNGウイルス感染の心当たりなど、まったく話してくれず、厚生労働省特殊感染症管理局も、我々も、調査に難渋しています。変身症に関わるNPO法人を運営しているあなたは、この三人についてなにか知りませんか」
一瞬、八星の瞳孔が収縮した。彼はすぐに薄く笑みを浮かべるが、それは取り繕っているように
も見える。冬子はわずかに首を傾けて朽木を見遣った。目が合った朽木は、かすかにうなずく。
「なんのことだか」八星はわざとらしく小首をかしげる。「UNGウイルスに感染した人の家族を僕たちは支援している。その、名無しさんたちの家族らしき人からのコンタクトは、今のところないかな」
「彼らは路上で動けなくなっているところを救急搬送されました。近辺の防犯カメラには、黒いミニバンから彼らが出てくる映像が残っています」
わずかに、八星の眉が動いた。冬子はただただ息をのむ。朽木が言う防犯カメラの映像など存在しない。朽木がカマをかけていることに、冬子はひどく緊張していた。
「そのミニバンのナンバーですが、以前、この林野が滝縞家の前で見たあなたの車のナンバーと同一だったようで」
八星の視線が冬子に刺さる。冬子は緊張していることを気取られないよう、口を開かず、ただうなずいた。八星は首を傾げる。傾げて、眉をひそめた。
「あなたの昔からの癖。嘘をつく時、首を傾げて、眉をひそめる――全然変わっていませんね」朽木がたたみかける。「知っていることは話したほうがいい。あなたに非があるのかどうかは、話を聞いてから判断します」
「なにをもって判断するんだ。法律のもとに人権侵害を許されているきみたちが正義ぶるなんて、片腹痛い」
「収容されたうちの一人は『えらばれた』と言い、別の一人は『騙された』と言いました。何に選ばれて、騙されたんでしょう」
「さあ。たちの悪い詐欺にでも遭ったんじゃないだろうか」
八星は目の前にあったグラスをとり、中のビールを一気に飲み干した。
「僕をたたいても何もでてこないよ。――林野さん、彼は目の前で犯される妹を見て助けようともしなかった男ですよ。こんな男と一緒にいるより、僕たちと人助けをしませんか。その方がよほど、生きている実感が湧きますよ」
冬子は小さく首を振った。八星の仕事がどんなに褒め称えられるような行いであっても、この男のもとへは行きたくないと思った。
「そうですか」八星は人好きのする笑みを浮かべる。「僕が『救済の法』教祖の息子だから警戒しているならば、それはとても残念なことです。僕はあの残虐な親とは違い、真に人を助けるために活動しています。このことだけはわかってほしい」
「林野さん、聞く耳を持たなくていい。神知さん――救輪廻さんと呼んだ方がいいのか? あなたは子供のころから少しも変わっていない。さっきのナンバープレートの件も、反応しなければいいものを、素直に喋ってしまった。そういうあなたを慕う人間もいるのかもしれないが、少なくともあなたは変身症に関わらないほうがいい。必ずあなたを利用して、なんらかの害をなす人間が現れる」
「そう言うきみはどうして変身症研究センターなんかに勤めているんだい。きみこそ、変身症に関わることなく、過去を忘れて生きればいいじゃないか」
「これしか生き方がなかった。それだけです」
へえ、と八星は笑う。
「僕も同じ言葉を返そう。公安のマークが外れて、僕はようやくやりたいことができるようになった。お前は僕に口出しする権限なんて持っていないよ」
「――わかりました。きっと、あなたにこれ以上たずねたところで何も教えてはくれないでしょう。我々はあなたに関わりません。あなたも、今後いっさいのコンタクトをとることは控えていただきたい」
「せっかく再会できたのに、残念だ。また子供の頃のように、仲良くしたいと思っていたのに」
「子供の頃も仲が良かったわけではなかったでしょう。俺はあなたの父親から、あなたの世話係をまかされていただけだ」
「懐かしいね。離苦兄ちゃん、と呼んでいた。せっかく会えたことが惜しくなってきたよ。金輪際、勧誘はしない。でも、こうやって交流を結ぶことは許されないだろうか」
「勘違いされないでください。うちに収容された正体不明の感染者について、あなたがなんらかの情報を持っていないかと一縷の望みをかけたからこそ、俺はこの場をセッティングした。俺は、あなたの両親に妹を殺されています。いまさら懐かしむ理由などありません」
朽木ははっきりと言って、八星を見据えた。八星は笑みを崩さない。向いに座る男は、まるで人形のように笑っていた。
「そうだね。僕の両親は、きみの家族や、それ以外にもたくさんの人を道連れにした。申し訳ないと思っている。親は罰を受ける前に死んでしまった。だから、僕は親のかわりに罪をあがなう」
「そんなことはいいんですよ。あなたはあなただ。あなたが犯した罪を超える罰など受ける必要はありません」
「人は生まれながらに罪を抱えている。その罪に与えられた最大の罰が変身症」八星は歌を詠むように滔々と語り始めた。「これは試練だ。我々はこの恐怖に打ち克つことで楽園へ行ける。人類を代表して我々はこの罰を甘んじて受けよう。罰を克服する皆は聖人だ。聖人には楽園への永住が約束されている」
数秒の沈黙の後、朽木が乾いた拍手を数回打った。
「あなたのお父上がよく言っていた言葉だ。まだ覚えていたんですか」
「後継者として育てられたんだ。忘れたくても忘れられないよ。でもね、僕はこの考え方には反対だ。人は生まれながらに罪を抱えている? 冗談じゃない。人は生まれた時は無垢だよ。その無垢な人間は、罪を抱えているのではなく、罰を背負って生まれてくるんだ」
「罰ですか」
「子をなしたという、親の罪をあがなうために子は生まれる。人間が犯す最大の罪は生殖だよ。子供をつくることだ。ひとつの命が生まれれば、その数の分だけ苦痛や不幸が増える。生まれなければ苦しむこともないのに。苦しみは悪だ。そして人間が生まれなければ苦しみが生まれることはない。つまり、人間がいない世界こそ、本来僕たちが最も理想とする場所じゃないか? それなのに人間は目先の性欲にまかせて子をなす。無間地獄だよ。生まれた子は、罰を受けていることを知らないまま大人になり、親と同じことを繰り返す。苦しみは親に帰属している。それをカモフラージュするために、親は感謝されるべき存在とされ、親に砂をかけることは蔑視される。人間が都合よく作り上げた幻想だ。だから僕は、人は生まれながらに罪を抱えているのだと言う人間を信用しない。僕たちは、この世に生まれた瞬間から罰を受け始めているんだ。僕が背負う罰は、普通の人々より重く大きい。あの両親から生まれた子供なんだから、それは背負わなければならない」
朽木は語る八星を見て眉一つ動かさなかった。八星が言い終えた後も思案げに間をおき、「忘れればいいんですよ」と言葉をおいた。
「原罪は父なる神に対するアダムの反逆です。あなたは神話の人間ではない。親の過ちを忘れて、あなたは一人の人として生きるべきだ」
「世の中にはもっと苦しんでいる人が大勢いるよ。僕は、苦しんでいる者同士で共助していくことを選んだ」
「あなたの人生に他人を巻き込むのですか。自分を中心として人を集める行為は、まるであなたの両親が行った愚行と酷似している」
「言うだけ言ってろ。きみは『救済の法』から離れて人並みな生活を送っているのかもしれないけど、僕はちがう。僕はずっと苦しんでいる。僕は『老箱神知』という業から逃れられない。だからこそ、ほかの苦しむ人々を救う使命がある」
八星は、冬子を見た。「林野さんは、どう思いますか」
「わたしは」
聞き惚れていたとは朽木の手前言えなかった。そうか、わたしは生まれなければ、苦しいことも辛いことも経験しなくて済んだのか、と納得してしまったなどと、言えなかった。ただ、一方で八星の考えを受け入れる人間は世間の多勢ではないことも理解していた。
「そういう考えもあっていいと思います。考えは、人それぞれです。わたしたちは、感染者のご家族を積極的に助けることができません。それを歯痒く思うこともあります。でも、わたしは今の職場で働きます。今の職場で、わたしは以前とは少し変われたと思うから」
そうですか、と八星は穏やかに言った。
「林野さんには林野さんの、考えがあるんですね」
「ええ。――でも、参考までに聞かせていただけませんか。以前、わたしがお見かけした滝縞夫妻は、どこにいらっしゃるんですか」
「世間の罵声が届かないところです。お二人とも、非常に消耗していらっしゃったから、しばらく隔離して、気持ちを落ち着けていただきたいと思っています」
「それは、どこですか。具体的に、住所は」
「残念ですが、お教えすることはできかねます。保護している人たちの安全を考慮して、場所はトップシークレットにしてあります。林野さんを信用していないわけではないけれど、もしも他の人に場所が漏れてしまったら、そこからどんどん膾炙して、ただ、無分別な馬鹿が嫌がらせに来るかもしれませんから。でも、僕らの活動に興味を持っていただけて嬉しいです。また、お会いしましょう」
冬子はあいまいにうなずいた。八星は様式美のような笑みを浮かべる。
「離苦も、もちろん昔のような関係を僕は望んでいないし、今の僕の活動に協力してほしいとも言わない。でも、昔のよしみを思って今後は新しい関係で付き合いができればいいと思っているよ。その気になったら、また連絡がほしい」
朽木は返事をしなかった。八星はそれも織り込み済みであるとでも言うかのようにうなずき、腰を上げる。
「今日はありがとう。また、いつか」
八星は無駄のない動作で個室から出て行った。冬子と朽木は狭い部屋に残される。
冬子はこの後どうしていいかわからず戸惑った。思いがけず朽木の過去を知ってしまった。それも、有名な事件の被害者家族の遺族だった。朽木を見遣ると、目が合った。
「……朽木先生も、当事者だったんですね」
「そうだな」
返事は乾いていた。これ以上、なんと声をかけていいかわからない。いたたまれず、目の前のビールグラスを手にしようとした時だった。
「このあと、まだ時間は空いているか」
朽木の方から声をかけてきた。冬子は出しかけた手を引っ込め「はい」と、正面を向いたまま答えた。
「店を変えよう。先に外へ出て、タクシーを拾っておいて。支払いは俺がしておく」
え、と冬子は思う。どこへ行こうと言うのか。聞く間もなく、朽木は席を立ち始める。彼に促され、冬子は店の外へ出た。
繁華街から少し離れているせいか、なかなかタクシーは通らなかった。何台か乗用車を見送った後で駅方向にヘッドライトを光らせるタクシーが見つかり必死になって手を上げた。タクシーが冬子の前に停まると同時に、店から朽木が現れた。
タクシーに乗るなり、朽木は住所と横文字の店名を指定した。ドライバーはナビゲーションシステムに住所を入力して車を発進させる。朽木がそらんじた店名は聞き覚えがあった。西麻布のフレンチレストラン。広報部が募金のための説明会後に接待で利用する店だ。店主の厚意で、その接待の時の費用は全額を店が負担してくれている。
「朽木先生。そのお店って」
「飲みなおす。あいつと会う前から、こう嫌な気分になることはわかっていた。河岸を変えないと仕切り直しにならない」
「お店の予約は」
「とってあるから大丈夫だ」
「わたし、フレンチなんて」
食べたことがない。マナーもわからない。
朽木は冬子が言わんとしていることを察したのか、「大丈夫だ。個室を頼んであるから」とだけ言って車窓に目を向けた。
それきり会話は途絶えた。ドライバーがいる手前、何を話そうにも話しにくい。冬子も反対側の車窓を眺めながら、居心地の悪さを感じていた。
渋滞もなく、タクシーはスムーズに店へ到着した。エントランスの脇へ掲げられた銀色の小さなプレートには『Soleil de Printemps』と店名が刻印されている。朽木に先導されてエントランスをくぐると、グレイヘアをオールバックに撫で付けた男性ウェイターの折り目正しい出迎えがあった。
「有田さん、こんばんは」
「離苦さん、お久しぶりです。お待ちしておりました。ご案内いたします」
有田、と朽木から呼ばれたウェイターは、冬子にも笑いかけてから二人を案内した。通された部屋はそれなりの広さで真ん中に二人がけのテーブルセットが鎮座している。照明が明るかった。だが、嫌な明るさではなかった。調度品、内装も上品にまとめられていて、冬子は少し落ち着くような心持ちにさえなった。
有田に椅子を引いてもらい、冬子は座した。朽木も同じように席につく。目の前には、すでにカトラリーセットがならべられ、ナイフとフォークの間にはナフキンが載った皿がある。
ウェイターは「ホール責任者の有田と申します」と冬子に一礼し、飲み物のオーダーを尋ねた。冬子が戸惑っていると、朽木が「林野さん、アルコールは」と訊くので首をふった。朽木はうなずき、有田に向かって「彼女にはジュース、俺はお酒を、なにかおすすめをお願いします」とオーダーした。有田はうやうやしく承り、いったん退室する。
「あの有田さんは気心が知れている。きみも信頼していい」
「先生、わたし、困ります。フレンチなんて全然マナーもなにもわかりません」
「だから個室にしたんだよ。周りの目は気にならないだろう? 有田さんも、ここのオーナーも古い付き合いだから、会話も大概のことは問題ない」
ノックがあってドアが開いた。有田がグラスとボトルの載ったトレーをテーブルのサイドまで運ぶ。冬子にはぶどうジュース、朽木にはシャンパンが提供された。ぶどうジュースは採れたてのぶどうを店の厨房でジュースにしたものだと言う。朽木がグラスを持ち上げた。冬子はなんだか気恥ずかしさを感じながら自分もグラスを持ち上げる。何に対する乾杯だろう、二人とも特に何も言わず、それぞれ一口を飲んだ。甘くて豊かな葡萄の香りが、口から鼻腔につきぬけていく。冷たいジュースが喉から食道を通って胃へ流れていく。たった一口で、少し気分が落ち着いたことに冬子は静かに驚いていた。
朽木のグラスにシャンパンを注ぎ足すと、有田はオードブルを持ってくると言って退室した。
「先生も、仕事でこのお店を利用されたんですか」
「いや、プライベートで。――目の前のナフキンは膝の上に広げるように。口元が汚れたら、ナフキンの端を折って拭いなさい」
朽木が目の前でレクチャーするようにナフキンを広げるので、冬子も同じようにした。そうしている間にオードブルが運ばれてくる。秋刀魚と秋野菜のマリネだという。
「フォークとナイフは外側から順に使う。こうやって持って」
冬子は朽木の見様見真似でカトラリーを持つ。普段は握るようにして持つせいで、綺麗な型で持つことが難しい。朽木が有田に目配せすると、有田が「失礼します」と冬子の背後にやってきて右手に手を添え、正しい持ち方を教えてくれた。
「本当はどうでもいいんだよ、マナーなんて。あまり気にしすぎても楽しくはない。こういうことは経験だから。食事のついでに、新しいことを知る、身につける、上達する経験を楽しめばいい。きみはそれが楽しいと知っているはずだ」
有田の助力によってなんとか形になり、ようやく料理をフォークにさして口に運んだ。食べたことのない味だった。おいしい、と思わず口に出る。不思議な香りのコレは何かと聞くと、松茸だと教えられる。
有田が退室すると、「この店は、徳坊先生が懇意にしていた店だ」と朽木がつぶやくように言った。
「徳坊先生がイギリス留学中、フランスから観光に来ていたオーナーシェフと知り合って、以来親しくされていた。ドネーション説明会のあとで料理を無償提供してくれたのも、その縁あってのこと」
「そうだったんですか」
「初めて聞くか」
「はい。どうして、料理の無償提供なんて、とは思っていましたが」
「まあ、そうだな」
「もう少し、わたしは周囲の事情を知ったほうがいいのでしょうか」
「ずけずけと詮索されて気分を害する人もいる。俺もそうだ。だから、きみと一緒に仕事ができたのかもしれない」
「それは、他人にどこまで踏み込んでいいのかわからなくて」
「あれこれ聞かれても面倒だ。説明したところで、他人は理解するふりでやり過ごす、それが関の山。さらにたちの悪い人間は、自分が理解できる内容に変換して勝手に納得する。矮小化だよ。だから俺も、昔のことについて誰かに話すことはなかった」
今は聞いてもいいのだろうか。冬子は手を止めて朽木を見る。朽木はそんな冬子の様子を見て、かすかに笑った。
「気分のいい話ではないんだ」
「朽木先生は、なぜ、自己満足でわたしの感染を隠したのですか」
冬子は朽木の目を見る。腐りかけの魚のように生気のない瞳。
「わたしはたぶん、あなたについて、もっと早く知るべきだったと思います」
朽木は「そうか」と言い、「手は休めなくていいから」と食事を促した。
「俺の両親の話だ」
両親、と聞いて冬子の手元が止まると、朽木は「今から手を休めてどうする」と薄く笑った。
「父も母も不安が強い人たちだった。何に対する不安かと言うより、生きることに対する漠然とした不安だったんだろうと思う。両親の出会いはある新興宗教だった。二人とも二十歳そこそこで入信したが、その宗教は、内部分裂があって数年で解散、その直後に二人は交際を始めた。子供を作るつもりはなかったようだが、たまたま俺ができたから結婚したらしい。両親は結婚しても俺が生まれても変わらず、俺が二歳の時にそろって新しい新興宗教に入信し、出家した。それが、神知の両親が興した宗教、『救済の法』だった」
オードブルを食べ終わる頃に、ワゴンを押して有田がやってくる。朽木がナイフとフォークを揃えて右下に傾けるようにして置くので、冬子もそれに倣う。下げられた皿の次に、かぼちゃのポタージュがおかれる。正面の奥においてあるスープスプーンを使用するよう朽木は言う。「音をたてないように」と添えられるので冬子が緊張すると、有田が去り際に「美味しく食べていただければいいんですよ」と微笑んだ。
「両親が『救済の法』に入信した三十四年前は、UNGウイルス感染者がこの国でも増加の兆しを見せていたし、その二年前にはWHOが『変身症特別対応隔離策』を提言して、実質、UNGウイルス感染者の人権剥奪が世界的に容認された。そのタイミングで変身症と絡めた宗教を興したことはビジネス的に言ってしまえば成功したということになるんだろう」
話の合間にスープを飲む。甘くて優しい味だった。「すするんじゃなくて、流し込むようにすればいい」と朽木から言われたので、そのようにすると確かにスープをうまく口へ入れることができた。
「その教祖の親は北関東のある地域の地主で、一帯を守る神社の管理を行っていた。両親が死に、神社や土地を相続した時の教祖は三十二歳だった。相続するなり教祖は神社を廃社し、東京に出て新興宗教を立ち上げた。だが運営はうまくいかず、六十になるまでの間に、四つの宗教を起こしては潰した。奴が、人生の最後に故郷へ戻って始めた宗教が、『救済の法』だった」
下手でも三十年やっていれば宗教運営のノウハウは蓄積されたようだった、と朽木はつまらなそうに言う。
「人々は得体の知れない病気に対して無知だった。教祖はそこにつけこんで『変身症は天啓』だとデタラメを説き、フリーマンの感染源となった初源の虫を『グレートマザー』としてあがめた。その話が心に響く連中もいて、俺の両親もそうだった。自分たちが感じていたこれまでの不安を、変身症で解決できると信じて入信した」
「変身症は病気なのに、それに救われると思うなんて」
「ある意味で奇跡のようだったんだろう、人間が巨大な毒虫になるという現象は。一種の現実逃避だ。――ありがちだが、教祖は入信した者にお布施を要求した。出家を希望する者には全財産を提供させた。入信すると、まず都内に設置した『道場』で法話を聞き、ヨガの真似事をして、瞑想する。教祖は瞑想のコーチングがうまかったようだ。長時間の瞑想をして、『宇宙とつながった』などと言って感動した入信者もあったらしい。神秘体験は宗教の始原であり、究極でもある。教祖は、神秘体験らしいことを経験させて、出家させることに長けていた。出家すると、北関東の山間に設けられた小さな『ノガレ』で共同生活を送ることになる。その土地は、教祖が親から相続した私有地だった。小さくてささやかなコミュニティだった」
「二歳から、ずっとそこへ?」
「そう。十五歳になるまでノガレから一歩も出なかった。小学校も中学校も行かなかった。ノガレの中に『学校』が作られ、子供たちはそこで信者から勉強を教えられた。勉強と言っても教科書はない。簡単な算数、畑の耕し方、木の実やきのこの種類、料理の仕方、つまり自給自足で生活するための知恵や工夫ばかり教えられた。ノガレでは人工物をなるべく排除しようとしたんだよ。人間は生まれたときは清らかだが、俗世にいるうちに汚れてしまう、汚れを落とすための修行の一環で、『文化』をことごとく排除した。だから、文字すら教えられなかった。ノガレでの生活は浄化であり、発する言葉の一つ一つが懺悔になると教えらえた。その上、子供は大人の小間使いという扱いだった」
「どういうことですか」
「大人はとりわけ汚れが強いから、子供よりも修行の時間が必要とされた。それに比べて子供は大人ほど汚れていないから、労働は子供が行うべきだと。――掃除も料理も洗濯もすべて子供がやった。幼い子供の世話は年嵩の子供が担当した。大人は食事のとき以外は道場で教祖と共に修行をすることが多かった。大人が行う労働は、子供の監督くらいだった」
「そんなの虐待じゃないですか」
「子供たちはそれが当たり前だと思っていた。俺も、世界中どんな土地の子供も同じ生活をしていると思い込んでいた」
急に目の前のパンプキンスープが胃の中で重量を増した気がした。あと数口分、すくいあげることは容易だが手が進まない。朽木は止まってしまった冬子の手元を見て「やめようか」と言ったが、冬子は首をふった。朽木の真似をして器をかたむけ、残りのスープを丁寧にすくって完食する。
タイミングを見計ったかのように、有田が次の皿を持ってくる。鮭のポワレだという。トマトソースと付け合わせのバジルが練り込まれたポテトサラダが目に鮮やかだった。あわせてパンもサーブされる。
「動物性タンパク質は、いっさい食べなかった」
有田が白ワインを注いでいるが、朽木はかまわず話を続ける。
「魚も。ノガレの近くに小川が流れていたが、魚を採ってはいけないと言われていた。人間は知恵と工夫で生活することができるのだから、動物のように他の命を奪うことはないからといって」
朽木はしゃべりながら目の前の鮭にナイフを入れる。有田はワゴンにのせていたリンゴジュースのグラスを冬子の前へおいて退室する。
「俺が四歳の時、二つ下の神知の世話を言いつけられた。神知は俺がノガレに来た後に生まれた子供で、それまでにも遊び相手になることはあったが、子守は無茶だったよ。だが、子供に無理難題を乗り越えさせることこそ、大人の役割とされていた。神知が怪我をしたら俺が監督係の大人から殴られた。神知が他の子供を泣かせても俺が殴られた。神知が好き嫌いをすれば俺が食事を取り上げられたし、神知がおねしょをすれば俺が一人で共用トイレの掃除を一週間やるはめになった。トイレと言っても水洗じゃない。汲み取りだよ。神知は五歳くらいまでおねしょ癖が治らなくて、俺はほとんど一年中トイレを掃除していた」
食事中だったな、と朽木はつぶやいた。冬子は気にしていないことの意思表示のために鮭を口に入れる。オリーブオイルが香ばしく、魚の身はふっくらとしていた。
「殴られることも嫌だったが、一番の苦痛は懲罰房に閉じ込められることだった。ノガレには食料が少なく、子供はいつもお腹を空かせていた。教祖の息子も変わりなかった。神知はたまに厨房に忍び込んで、おにぎり一個とか、きゅうりとかを盗んでいた。でもあいつは、二回に一回は失敗するんだ。そうすると俺も連帯責任で、一緒に懲罰房にいれられた」
「懲罰房って、どんな」
「コンテナの中に作られた、窓もない真っ暗い部屋。高さは一メートルくらい。広さは一畳もない。そこへ押しこまれ、鍵をかけられる。真っ暗闇でなにも見えない。コンテナの中だから、耳を澄ましても外の音は聞こえない。神知は大声で泣いて、その泣き声が鼓膜に響いて辛かった。それに、あいつはすぐ失禁した。狭くて、わずかな通気口しかないからすぐに臭いがこもる。二人で入り口を何度も、手に血が滲むまで叩いてようやく外に出られた。短くて半日、長くて二日」
「誰も、疑問視しなかったんですか」
「そういう信者は排除されていた」
排除? 冬子が怪訝に眉根をあげると、朽木は「文字通り」と言った。
「教祖の方針に異議を唱える大人は、翌日には姿が見えなくなっていた。一般の信者たちには『信仰を広めるために旅に出てもらった』と説明されていたが、そんなわけはない。あとでわかったが、大幹部が殺していたんだよ。死体は山の中に掘った穴へ捨てられていたそうだ。教祖を盲目的に信用する信者ばかりが一番多い時で八十人ほど残ったが、その集団は狂気の塊だよ」
食事の手が止まってしまう。朽木は冬子の様子を見て、「話、やめるか」と気遣うが冬子は首を振った。嫌な話と料理の美味しさは別だった。「続けてください」と言いながら、冬子は付け合わせも口にする。
「食事は三食、だが精進料理に毛が生えたような粗末なものだった。大人も子供も痩せていた。栄養が不足している上、集団生活をしているから感染症がはやればひとたまりもなく、毎年冬になるとただの風邪で何人か死んだ」
「病院にはかからないんですか」
「病院に行けば、人工物である薬を投薬されることになる。ノガレでは、敷地内で育てていた漢方だけで凌いでいたんだ。しかも、医者や薬剤師はいない素人医療だった。でも、その生活をみんな、特に大人は喜んでいた。我々は原始に戻りつつある、と言って」
くだらないよな、と朽木はつぶやく。魚料理を食べ終えると、有田がメインディッシュを持って来た。目の前におかれたステーキは、上品に小ぶりではあるものの見たことがないほど分厚かった。付け合わせの野菜も華を添えている。朽木には赤ワインが、冬子には柿のジュースが提供される。
「変身症による恐怖を餌に信者を集めた宗教で、しばらくは過度に外界を遮断するコミューンとして運営されていた。ノガレの中で暮らせる人数にも限度があったから、その外での勧誘活動もあまり積極的に行われなかった。教祖は信仰を広めたいわけではなく、自分を崇めてくれる人を集めたかったのだと思う。だから、対外的にあまり派手な活動はしなかった」
二人は肉を食べた。冬子が恐る恐る入れたナイフは簡単に肉を裁断した。先にすべてひと口分ずつ切り分けようとすると、朽木に「ひと口食べるごとに切りなさい」と窘められる。口に入れた肉は弾力があり、それでいて簡単になくなった。体の芯から安心するような美味しさだった。
「俺が九歳の時に妹が生まれた。楽――楽園へ導いてくれることを期待して、名付けられた」
肉を食べ終わると、朽木がパンを残ったソースにつけて食べるので冬子も真似をした。妹、と聞いてどきりとするが、顔に出さないようパンを飲み下す。
「ノガレは常に出産ブームだった。さっき言った通り冬は何人かが死ぬし、外から新規で入村する信者も少ない。『グレートマザーの子孫を残すため』として、信者は教祖夫妻との性行為が義務付けられ、教祖によって性生活をコントロールされていた」
「どういうことですか」
「言葉通り、単純に。加えて、ノガレの外で生まれた子供は、十六になれば教祖夫妻から手ほどきを受けて生殖活動に参加しなければならなかった。俺は教団が終わったときにまだ十五だったから参加することなくすんだ。だが、ノガレの中で生まれた子供は『完全に清らかな人間』として、十二歳から『完全に清らかな人間』同士で次の世代を産むことを強要された」
「それって、さっきの八星さんは」
「教祖の息子も例外ではない」
胃が蠕動しかけ、あわてて柿のジュースを飲み干した。甘やかな味に意識を集中させる。
「配偶者の有無に関係なく、教祖は子作りのための組み合わせを決めた。だから、妹の父と俺の父は違う可能性が高い。だが、そんなことは関係なく妹は可愛かった。俺は神知とあわせて妹の世話もすることになった。始終いっしょにいるうちに、神知は自分の妹のように可愛がってくれて、俺はそれが嬉しかった。それまで、わがままで自制のきかない神知を嫌っていたが、神知は俺と一緒に妹の世話をするようになって俺の言うことも聞くようになったし、人に迷惑をかけることもしなくなった。俺が世話係から殴られる回数も激減した。懲罰房には入らなくなった。それだけでも俺は妹に感謝した。それに、妹は俺を困らせることはなかったし、誰に対しても素直だった。どうしてこんなに可愛い子が俺の妹なのかと不思議に思ったことは何度もあった」
「子供の頃、妹さんを連れてノガレから逃げ出そうと考えることはなかったんですか」
「なかった」即答だった。「ノガレにはテレビもなく、外の世界のことがまったくわからなかった。外の世界の存在は知っていたが、イメージできないところへ逃げ出す勇気はなかった。それに、ノガレでの生活は嫌なことが多かったが、それが全世界共通で当たり前だと思っていたから、逃げ出す意義も見出せなかった。ノガレで育った子供は、ノガレのルールを受け入れるしかできなかった」
私有地である一つの山の中しか知らない子供だった人が、いま目の前で自分にマナーを教えている。理解と想像が追いつかなかった。
「次はデザートだ」
朽木が口の端をナフキンで拭くと同時に、有田が入室し、目の前の食器やグラスをワゴンの上へ載せていく。コーヒーか紅茶か問われ、朽木が「コーヒーを」と言うので同じものを頼んだ。
「楽の写真はないが、顔ははっきりと覚えている。他の子と同様に痩せていたが、白い頬はふっくらとしていた。農作業で日焼けしている子ばかりだったが、楽はどんなに日なたへ出ても色の白さを失わなかった。目は大きくて、唇は紅。声は鈴のようで、足音は雪が落ちるかのようだった。――ただ、この記憶が本物なのか自信がない。もしかしたら、俺が作り上げた、偽の記憶かもしれない」
それは、楽が朽木の中に生きているということではないだろうかと冬子は考えたが、口にしなかった。それはあまりにも単純で稚拙な分析だった。
有田が持ってきたデザートはイチジクのソルベとスイートポテトだった。コーヒーにはミルクと砂糖が添え置かれる。有田は「この部屋の次の予約はありません。お好きなだけ、いらっしゃってください」と言って退室した。
「妹が六歳になった年、一人の男がノガレへ連れられてきた。東京の道場で、信者に相談をした男だ。性行為をした女がⅡ型を発症して自分も感染しているかもしれない、怖い、助けてくれ、という内容だ。――男は乱交パーティーの主催者だった。女は男が主宰するパーティーに初参加していた。そのパーティーの参加者は男女四名ずつ、そのうち管理局による検査を受けた男は主催者以外の三人、その三人全員が感染していた。主催者は管理局から逃げ、そして道場へたどり着いた。男の話を聞いた大幹部は教祖に伝達し、教祖は男をノガレへ迎え入れた。その時点で男は蛹化が始まっていた。教祖は、男を利用することにした」
目の前のソルベの端が水っぽくにじんでいた。朽木は「先に食べよう」と冬子を促す。デザートスプーンを取り、ソルベをすくい上げた。甘酸っぱいイチジクの味が、口の中の細胞へ染み渡る。ただ黙々と食べていく。スイートポテトは上品でありつつも懐かしいような、優しい味だった。目の前の皿のデザートが、ずっとなくならなければいいのにと思った。なくならなければ、朽木は妹の話をしない。聞きたくなければ、「聞きたくない」と一言言えばいい。朽木は無理強いしてまで話すことはしないだろう。だが、それは憚られた。話したくて話す内容ではない。それならなぜ話すのか。わたしが聴くべきタイミングだからだ、と冬子は理解する。今日聴かなければ、死ぬ瞬間に、後悔する。
二人は同時に、ソルベの最後の一口を口に入れ、ゆっくりと口の中で溶かした後で、スプーンをおいた。
「どうだった?」
「おいしかったです。なんていうか、満たされた感じがします」
それはよかった、と朽木は笑った。頬の筋肉が笑うための動きを知らないような、不器用な笑い方だった。
「朽木先生。話を、続けてください」
朽木はコーヒーを一口ふくんだ。唇をしめらせるだけのような飲み方だった。
「教祖は『我々が楽園に行けるときが来た』と言って男を歓待した。大人も子供も交えて宴会を開いた。ノガレではわずかばかりだが酒も作っていて、大人は滅多に飲めない酒を少しずつ飲んで喜んでいた。子供も、なんのことだかわからないまま、いつもより多く料理が食べられるから楽しそうで、だが俺はなんだか嫌な予感がして、なにも食べることができなかった。――宴会があった日の夜、俺の家族は全員が教祖夫婦に呼び出された。父と母、俺と妹は道場の祭壇の前に正座した。俺たちの横には、逃げてきた男もいた。教祖夫妻と五人の大幹部が、祭壇を背に座っていた。教祖は俺たちを睥睨し、そして『楽を生贄にする』と言った。楽を感染させて、虫にする。教団の中から虫をさしだせば、神は幸いを与えてくれる。幸いとはすなわち楽園への道筋のことだった。楽の犠牲によって、すべての人間が救われると」
「……狂ってる」
「狂っていたんだ。教祖も、その妻も、俺の両親も、教団そのものが狂っていた。組織のタガが外れたのではない、もともと常識に馴染めない連中が閉鎖的な共同生活をした結果、リーダーである教祖によって正常な判断ができないようにされてしまっていた。――教祖夫妻は祭壇の前に白い布を敷いて、男に服を脱ぐよう指図した。そして、俺の父母には楽を裸にするよう言った。俺は父母を制止したが、聞き入れられなかった。裸にされた楽は布の上に寝かせられ、教祖は男に対して楽を犯すように言った。男は始めたじろいでいたが、教祖から『救われたくないのか』と恫喝され、行為に及んだ。楽の泣き声が、耳から離れない。妹は、大人たちに囲まれて、犯されていた。俺がやめるように言っても、誰も聞かなかった」
朽木はコーヒーカップの中身をぼんやりとした眼で眺め、「ちがう」と言った。
「俺は制止していない。何も言えなかった。ただ怖かった。太った男が小さな妹の上に乗って、腰を動かしていた。何が起きているのかわからなかった。楽は叫んでいたが、本人も何をされているのか理解できていなかったはずだ。楽は『痛い』と言っていた。俺のことを呼んで、助けを乞うていて、それなのに俺は何もできなかった。時間が長く感じた。十分か、二十分かそこらだったはずだが、俺には何時間も経っていたように感じた。男は射精して楽から体を離すと、俺たちの前へ突っ立った。ぼんやりとした光に照らされて見えたペニスは、その根本が一センチほど黒く硬質な殻で覆われていた。明らかに人間の皮膚ではなかった。妹は男が離れた後も喚き泣いていた。妹の腰の下の布には赤く血が広がっていた。男が『これで、救われるんでしょうか』と疑問を口走った瞬間、大幹部が一斉に立ち上がり、ひとりが男を羽交い締めにし、ひとりが祭壇の裏から取り出した重たげな花瓶を男の眉間目掛けて振り下ろした。花瓶は割れ、男は白目を剥いて力なく倒れた。大幹部のひとりが男の脈をとり、『まだ息がある』と言ったが、そのまま男は埋められた」
「生き埋めですか」
「死んだ男は敷地内の墓地に埋められた。――その前年に、欧州の研究チームがUNGウイルスに感染した人間を生き埋めにした場合の調査を行い、結果として生態系や環境に何ら問題を与えないと発表していたが、『救済の法』の大幹部たちがそのことを知っていたのかどうかはわからない」
朽木は息をつき「そのときの俺は、妹のことしか考えられなかった」とつぶやいた。
「俺が楽を抱き寄せようとすると、大幹部に頬を殴られた。『神聖な生贄に触るな』と。楽は布ごと大幹部の一人に抱かれ、男の死体は他の大幹部たちが手や足を持って道場の外へ出て行ってしまった。残された俺と父母に対し、『聖なる生贄を捧げた家族に祝福を与える』と言って、俺たちを正座させて、祝詞を唱え始めた。教団で唱えられていた祝詞は、あとあと調べてみたら全部がでたらめだった。教祖にはおよそ宗教に関する知識などなかった。あの男は自分を崇め奉る人間を周囲において悦にひたっていただけで、あの男の宗教に哲学などかけらもなかった。それとは知らず、父母は娘を生贄にして喜んでいた。涙を流しながら、感謝を述べながら、教祖の祝詞をありがたく受けていた。俺は、ただ震えていただけだった」
朽木は再度コーヒーカップを手にしようとしたが、途中でやめた。見ると、その指先は小さく震えていた。
「楽は『懺悔部屋』という部屋に入れられた。独房のような場所だ。小さな嘘をついたり、軽いルール違反をした信者が入れられた。鉄格子が嵌められた二畳くらいのスペースが三つあった。そのうちの一室に、楽は入れられた。当時、俺は食事係のリーダーを任されていて、それを口実にして楽に食事の差し入れをした。懺悔部屋の前には看守係の大人がいて、食事はそいつに渡した。鉄格子の向こう側の楽は、俺を見るたびに『出して』と言って泣いた。楽が着させられた白いワンピースは楽の血で汚れていた。看守係が厳しくて、声をかけることもできなかった。楽の泣き声がひどいと、看守係は俺の目の前で食事を床へぶちまけた。――一緒に食事係をしていた神知は、いつも懺悔部屋の前までついてくるくせに中へ入ろうとしなかった。俺がどうにかできないのかと言っても、父親には逆らえないと決まり悪そうに下を向くだけだった」
それが一ヶ月続いた、と朽木は言った。
「俺の両親は、娘をさしだした英雄として教祖夫婦に次ぐ地位を与えられ、天狗になっていた。仮初の、ハリボテのような地位を手に入れた途端、他の信者に対して偉ぶっていた。一般の信者は大人と子供に分けられた上で、大部屋で寝起きをしていたが、両親には個室が与えられた。俺にも一室与えられると話があったが、断った。一人になってしまったら、正気を保てなくなるような気がしたからだ。――一ヶ月で両親は太った。大幹部以上の地位の者は得られる食糧の量が増える。それに加えて、東京の道場で活動しているスタッフから外部の食糧の差し入れがある。一般の信者には禁止している肉やジャンクフードばかりだ。それを摂取していた両親は、一ヶ月で太り、その姿は豚そのものだった」
なにも信じられなくなった。そう言った朽木の声はひどく乾いていた。
「妹が男に襲われてから三十日目、蛹化が始まった。感染してしまっていた。懺悔部屋の中で裸にされた妹は、入れ替わり立ち替わりする大幹部たちの観察の対象になった。彼女は他の感染者と同じように動けなくなっていたが、精神面でもとっくに自分を殺していた。俺が持ってきた食事にも、俺自身にも関心を向けなくなっていた。――俺は、日々黒いクチクラで覆われていく妹を見て、彼女をつれて逃げる計画を立てた。あのまま放置はできなかった。山の周りは金網で囲まれていたが、どうにかして壊せるような安っぽい普請だった。それよりも、懺悔部屋にいる見張りをどうするかが問題だった。考えた末に、毒キノコを食べさせることを選択した」
「毒、キノコですか」
「そう。山にあるキノコは熟知していた。他のキノコや山菜を収穫するついでに、一個だけ猛毒のキノコを採っておいた。妹の食事を持っていく時、見張り番にも差し入れとしてスープを用意した。そのスープの中に、毒キノコをいれた。だが、失敗した。見張り番はスープを見て『気が利くじゃないか』と破顔し、口を付けようとした瞬間、他の複数人の大人たちが懺悔部屋に入って来て見張り番が持つスープ皿を床へ投げ捨てた。『このスープには毒が入っている』と言って。大人たちは俺を道場まで引きずり出した。なぜこんなことをしたのかと問われれば、妹を連れて逃げようとしたと答えた。お前たちは間違っていると糾弾した。俺を囲った大人たちは憤怒の形相になり、俺を裸にして殴るだの蹴るだの、床に打ちつけるだの、奴らが思いつく限りの暴力を為した。自分が吐き出した血で窒息しそうになったころ、懲罰房へ入れられた。懲罰房の鍵をかけた大人の捨て台詞が『楽園の儀式にお前は参加させない。一人で地獄へ堕落しろ』だった。光も入らない真っ暗な懲罰房で、俺は七日間放置された。体のそこかしこが痛み、血を吐き失禁した。恐怖よりも悔恨の方がひどかった。楽が襲われる前に彼女を連れ出して逃げていればよかった、どうしてそのことに気づけなかったんだと。そのまま懲罰房の中で死ぬことは構わなかった。どうせ生きていても死んだような生活だった」
「どうして、大人たちはスープに毒キノコが入っていると知ったんですか……?」
「推測だが、神知だろう。あれは常に俺と行動を共にしていた。俺が毒キノコを採った様子を見逃さなかったのかもしれない。大人たちへの告げ口は、教祖の息子として以上に、教団の子供として当たり前だった」
「ひどい」
「ひどいのは大人だ。――俺が懲罰房に入れられた日、妹の蛹化は完成した。大幹部たちは道場の祭壇に蛹となった楽を奉納し、俺以外のすべての信者を、東京で活動する信者も残らず道場へ集め七日間、勤行を遂行した。道場は中からも鍵が閉められ、その鍵は教祖が持っていたために脱落したくともできないようになっていた。七日七晩、大人も子供も同じように祈りを捧げた末に、成虫化した楽に皆々襲われた」
「その生き残りが、八星さん」
「そうだ。あれは、信者たちが楽に襲われた隙を見て倒れている教祖の腰から鍵をとり、道場の扉を開け、ご丁寧にも外側から施錠し、一人逃げた。あれが山を下り、近くの民家に助けを求めたところで事態は世間に発覚した。地元の警察だけでは手に余るとして自衛隊をも投入し、まずは山狩。他に逃亡者がいないとわかると、封印された道場の壁にチェーンソーで穴を開け、銃を乱射。生命反応がなくなったことを確認して道場の全貌を日のもとへ引きずりだした。――俺はそのとき、まだ懲罰房の中にいた。朦朧とする意識の中で遠くに人の声を聞き、銃の発砲音を聞いた。何かがあったと悟ったが、それも自分には関係ないこと、一生闇の中から出ることはないと思っていた矢先、房の扉が開かれた。ノガレの中を回っていた警察官が懲罰房の鍵をこじ開けたそうだ」
朽木は、息をついた。
「中には血と排泄物まみれになった素っ裸の子供がいた。扉を開けた警察官は、俺を心配するより驚いて腰を抜かしていた。俺は、七日ぶりに見る光のせいで網膜に痛みが走った。全身が鈍麻していたせいか、その痛みがむしろ新鮮に感じられた。俺は警官たちの手で懲罰房から出され、担架に乗せられた。制服を着た警官や自衛隊員が俺の目には奇異に映った。おかしな奴らがいる、本当に地獄に落ちたのだろうかと。だが、見る景色は育ったノガレそのものだった。ノガレをあふれんばかりに行き来する警官たちを見て、ようやく俺は助けられたことを悟った。俺や他の子供たちが育てていた菜園を、まるで気づきもせず踏み荒らしていく警官たちを見て、むしろ安堵した。担架に乗せられて道場の前を横切った時、血で染まっている中の壁を視界の端に一瞬認めた。澄んだ空気の中に、脂ぎったものを感じた。なにがあったのか、と問うたが、担架を運ぶ自衛隊員は何も教えてくれず、俺はそのまま救急車に乗せられた」
朽木はようやくコーヒーカップを手に取った。冬子も同じようにコーヒーを飲むが、中身はぬるくなっていた。
「運ばれた先は近県の大学病院だった。打撲はひどかったが、骨折や内臓損傷はなかった。虐待に慣れていたノガレの大人たちは、怪我を負わせないように暴力をふるっていたんだろう。それよりも、栄養状態が悪すぎた。入院後、しばらく栄養剤を点滴されていた。おかゆすら口にすることができなかった。二ヶ月後してようやく固形物を口にできるようになったが、そのときには味も匂いもさっぱりわからなくなっていた」
このコーヒーも、と朽木は言う。「どんな味なのか想像もつかない」
冬子は朽木と彼が持つコーヒーカップを交互に見つめ、自身のカップをソーサーに戻した。
「俺はずっと個室に入院させられた。初めは意識も朦朧とし、体に力も入らなかったせいですべて介助を受けていたが、だんだん回復するにつれて医者や看護師の白衣に恐怖を覚えるようになった。彼らの白衣は、ノガレで着ていた道服を想起させたからだ。彼らに噛み付いたことも、何度かあった。それでも薬物療法やカウンセリングでだんだんと落ち着きはしたが、警察の検死に協力しなければならなかった」
「なんですか、それ……」
「道場で死んだ信者たちの写真を見せられて、信者リストの氏名と照合させていく。信者の親族が申し出て身元がわかった遺体もいくつかあったが、そうでない遺体のほうが多かった。そうした遺体の写真を何枚も見せられた。ほとんどの遺体に、銃撃の跡があった。いくつかの遺体に、噛みちぎられた跡があった。楽が噛みちぎった――虫になった妹は、何人かの信者の体を食っていた。教祖にいたっては、頭部が半分なくなっていた。そのとき、神知が生き残っていると俺は気づいた。神知の写真がなかったからだ。刑事に聞いたら、彼は親戚に引き取られたと。親戚が弁護士をつかって警察から彼を守っていると。だから、遺体の写真を見るなんていう汚れ仕事も俺にまわってきた。教団が壊滅しても、あれは俺に嫌な役目を押し付けていたと知って、憎しみがわいた。せっかく状態が落ち着いていたのに、また荒れてしまった。何度も鎮静剤を打たれて眠った。何日も何日もぼんやりとして、ようやく覚醒した時、目の前には徳坊先生がいた」
「初代の、変身症研究センター長の」
「そう。徳坊先生は事件のオブザーバーとして捜査に招聘されていた。あの人はまず自己紹介をして、俺にも同じことをさせた。名前、年齢、職業、来歴。仕事はなにかと訊かれ、『厨房係』と答えたら、徳坊先生はその内容に興味を持った。翌日は俺が、厨房係について説明した。そうすると、次に徳坊先生は山の中で食べられる木の実やキノコについて興味を持った。その話は翌日に俺が講義をした。一回一回の面会は短時間だったが、それが毎日繰り返され、気づけば俺は、ノガレでの生活のすべてと、妹がどんなにいい子だったか先生に話していた。先生はすべてに興味を持って、真剣に話を聞いてくれた。――話すことがなくなった頃、『妹を見たいか』と訊かれた。道場から回収された妹の遺骸の調査が終わり、荼毘に伏すのだと。その前に見ておくかと訊かれた」
冬子は固唾を飲んで次の言葉を待った。
「俺は行けなかった。生き残った俺が見届けなければと思う反面、虫になった妹など怖くて見ることができなかった。徳坊先生に『こんな意気地なしで見損なったか』と聞くと、あの人は『それが普通だ』と言ってくれた。後日、楽が火葬されたことを聞かされた。――楽の遺体は、つくば支部に回収されていた。VRCに入職後、個人研究の名目でつくばへ行って資料を閲覧したことがある。回収された楽の遺骸の写真もあった。蛹化する前の楽と同じ背丈の小さな虫で、体には無数の銃痕があり、胴の真ん中でちぎれかけていた。その写真を見ながら、焼かれる前に会いに来ればよかったと、重い後悔に襲われた。どんなにか辛く、どんなにか痛かったか」
虫になったら人間のような思考は持たなくなる。それは朽木もよくわかっているはずだった。しかし、朽木はまるで成虫化した楽の苦痛を慮るようにつぶやいた。
「俺の栄養状態も精神状態も回復し、事件から一年経って退院の許可がおりた。俺には親族も頼れる知人もなく、選択肢は施設へ行くことのみとして病院が受け入れ先を探していたが、新興宗教しか知らない上にロクな教育を受けていない子供を引き取ってくれるところはなかった。だが、動かない事態に業を煮やした徳坊先生が、とうとう手を差し伸べてくれた。先生はうちで暮らすかと誘ってくれ、俺は特に何も考えずうなずいた。徳坊先生のことが好きだったし、信頼できる大人を先生以外に知らなかったから。――退院の日、初めて胴衣でも病衣でもない服を着た。Tシャツとジーンズ。先生の車に乗って、東京までドライブした。見るものすべてが新鮮で、恐ろしかった」
「恐ろしい?」
「ノガレの生活とはかけ離れた文明を見せつけられ、この世界で生きていかなければならないのかと、呆然とした。カーステレオから流れてくるラジオ番組はやかましかったし、サービスエリアでは旅行中らしい親子が楽しそうに歩いている姿を見て信じられなかった。子供が虐げられない世界があるのかと。こんな世界で生きていけるのかと。徳坊先生に『怖い』と言ったら、『こんなもんじゃすまないぞ』と冗談まじりに脅された。そう言った時の顔は笑っていたから、俺は本当に冗談だと思った」
朽木はおかしそうに口の端を上げる。
「徳坊先生の家は、都内の大きな一軒家だった。子供のない徳坊夫妻の二人暮らしには少し大きすぎるくらいの家で、いくつか空いている部屋の一室が俺の居室となった。徳坊先生の妻、知愛子先生は俺を歓迎してくれた。その日の夕食は知愛子先生の手料理だったが、俺は箸もろくに使えなかったし、そもそも味がわからなくてロクに手をつけずに残してしまった。翌日、朝から俺の進路について会議がもたれた。今後どう生きていくのか、教団によって奪われた人生をどうやって取り戻すのか、それだけが議題だったが俺は何も答えを出せなかった。選択に必要な情報も思考力もなかった。最終的に徳坊先生が『今後二年間勉強し、医学部に入って医師免許を取れば進路はどうとでもしてやれる。もし浪人することになったらその時点で見放すし、そもそも勉強する気がないなら出ていけ』と提案をして、俺はそれを飲んだ。そのときにはそれがどれだけ常識はずれで過酷な条件か理解していなかった。ただ、見捨てられるわけにはいかなかっただけだ」
冬子には、十六歳の朽木を想像することはできなかった。だが、その少年が抱えた絶望の感触は、理解することができる。唯一の方法にしがみつかなければ生きられない、絶望と諦め。
「義務教育すら受けていない、字もたいして書けないのに医学部受験は無理があることを、徳坊夫妻は教えてくれなかった。その代わり、徳坊先生はこう言った。『人を助けるには責任が必要だ。わたしたちはきみを助ける。きみが独り立ちできるよう世話をすることがわたしたちの責任だ。責任には、覚悟が伴う』と。――当時の徳坊先生はVRC設立のために多忙で、俺の世話は妻の知愛子先生が主に担った。彼女は清和女子医科大学の学長で暇なはずもなかったが、きめ細かく面倒を見てくれた。昼間は家庭教師とのマンツーマン、夜は帰宅した知愛子先生の生活指導、さらに知愛子先生は家庭教師よりも難しい問題を出して俺を泣かせた。比喩ではなく、毎晩机にかじりつきながら泣いていた。睡眠時間も一日二時間あればいいほうだったが、知愛子先生は容赦なかった。『奪われた十五年を二年で取り戻せるなんて容易くできるわけがないでしょう』と何度も言われた。徳坊先生もたまの休みには英語や数学の講義を行い、俺がちゃんと覚えられているか厳しくテストした。きわめつけは、徳坊先生の弟だった」
「弟って、今の総理大臣の」
「徳坊龍二郎。当時は文科省の大臣で、あの人も多忙だっただろうに、教団の生き残りの俺に興味を持って時間があれば構ってくれた。一度に十冊くらいの本を、『次くる時まで読んでおけ』と置いていく。次がいつかわからないから、俺は必死になって読む。ジャンルなどばらばらで、政治経済、哲学、科学、歴史書、小説、ゴシップ誌。龍二郎先生は、来ると前回置いて行った本の内容について質問し、俺が答えられなければ再読を要求する。あれは、本当に受験勉強の邪魔だったが、そのおかげで人並みの思考力がついた。東一郎先生と知愛子先生は俺に文化を与え、龍二郎先生は俺を人間にした」
とはいえ、と朽木は苦笑する。とはいえ、二年間は地獄のように辛かった、と。
「だが、辛くとも、ノガレで殴られていたことに比べればましだと思うようにした。勉強に没頭することでノガレでの生活を忘れられたことも幸いした。俺は順調に大検に受かり、徳坊夫妻が望んでいた大学の医学部にも合格した。味覚は変わらなかったが、知愛子先生がせっせと俺に栄養価の高い食事を与えてくれたおかげか、二年間の間で身長が三十センチ伸びていた。箸もナイフも使えるようになり、人前に出ても恥ずかしくない振る舞いができるようになっていた。合格がわかった後、徳坊夫妻と龍二郎先生と、この部屋で合格祝いをしてもらった。――俺は、それだけで十分感謝して、大学入学以降も勉強に励むべきだった」
「え?」冬子は戸惑う。「何かあったんですか?」
「道を誤った」
朽木は心底後悔しているような、悲しんでいるような表情をした。
「大学に入り、初めて普通の同世代のコミュニティに身をおいて、まごつくことが多かった。医学部に入るくらいだから、皆それなりに勉強してきて、頭がいい。自我を持ち、目標があり、それでいて勉強だけに没頭するのではなく、他人と交流したり、アルバイトやボランティアをしたりする。そんな連中がまぶしくて、俺とは全然違う世界の人間たちだと思えて疎外感が増した。俺はただ、徳坊夫妻に養ってもらう対価として勉強していただけだったから。それに、時間に余裕ができたせいで、昔を思い出すことも増えた。過去の記憶にぶん殴られて、そのたびに動けなくなった。どうして自分はこうしてのうのうとしているのだろう。勉強などしていい分際ではないのに、どうして当たり前のなかに溶け込もうとしてしまったのだろう、と後悔ばかりを積み上げた。講義は休まず出席し、試験の点数も悪くはなかった。だが、後悔は俺を腐食させ、二年生に上がる頃から、乱交パーティーに出入りするようになった」
「は?」
冬子は耳を疑った。
「なんでそうなるんですか」
「なんで……どうしてだろうな。当時の俺もよくわかっていなかった。いや、今だって俺は当時の俺に共感できない。そのときの俺は思いつきで検索し、そういうことをやっている連中にアポをとって、招かれて、行けば皆がなんだか楽しそうだった。男も女も頭を空っぽにして、酒を飲んだり軽いクスリをやったりしながら、セックスをする。そこでは誰も彼も馬鹿みたいに相手を求めた。そんな連中の中にいると、安心した。――満たされていた」
「妹さんは、乱交パーティーの主催者から感染したんですよね……?」
「それもあるかもしれない。少しでも楽に近づくために――一ヶ月に一回程度、検査を受けたがいずれも陰性だった。その結果を聞かされるたびに、期待をひどく裏切られたような気分になって、またパーティーに行った。パーティーでは皆が知性のない肉の塊となって、自分と相手との境目がわからなくなるまでグズグズと溺れた。快楽と幸福はイコールにならない、むしろ真逆だった。パーティーが終わって徳坊家へ帰るための始発電車に乗ると、涙があふれてとまらなかった」
「それで、どうしたんですか……」
「初めは月に一回、それがだんだんと増え、最終的に三日に一回程度になった。パーティーへ行くようになって一年経った頃、さすがに知愛子先生が不審を抱くようになった。俺は本当のことなど言えるわけもなく、勉強のため大学に泊まっているとか、同級生の家で飲んでいるとか、適当にごまかしたが、知愛子先生には嘘だと見抜かれた。あの人は、わざわざ探偵を雇って俺の素行を調査した」
朽木の目は冬子を通り越して、遠い過去を見ているかのようだった。
「ある朝、いつも通りの朝帰りで音を立てないよう玄関を開けると、目の前に仁王立ちした知愛子先生がいた。彼女は手にメスを持っていた。手術の時に使うメスだ。そして、靴を履いたままの俺の首をひっつかんでリビングまで引きずり、ソファへ押し倒した。メスの切っ先は俺に向いていた。やっていることがバレたと悟ったが、それ以上にメスの鈍い光のほうが怖かった。知愛子先生が『言え』と切っ先をきらめかせて脅すから、俺は一年間の行状を洗いざらい話した。何のために行ったか問われれば、辛かったからだ、満たされるからだ、と答えた。知愛子先生は『その辛さは絶望するに値するほどの辛苦か』と問うた。『絶望しているならこのまま殺してやる』と。殺されたくない、と反抗すると『死にたくないということか』と問われ、答えに窮した。“殺されたくない”と“死にたくない”は同義なのだろうか。俺は死にたくないのか。この辛さから解放されるなら、その手段が“死”でもいいような気がした。だが、知愛子先生は俺にメスを握らせ『絶望しているなら自ら死を選んでもいい』と言ったのに、俺はその切っ先を自分に向けることができなかった。辛さからは解放されたいが、死にたいとは思えなかった――なぜ、と自問すべき問いを知愛子先生にぶつけると、彼女は『心のどこかで未来に対して希望を抱いている、つまり、きみは絶望しきれていないんだ』、『必死になって取り返した人生を棒に振って、本当の絶望を手に入れるな』と。知愛子先生は俺に馬乗りとなったまま泣いた。他人の涙は温かくて、自分の涙と同じでしょっぱかった」
それからパーティー通いは一切やめた、と朽木は言った。
「知愛子先生の紹介で精神科のカウンセリングにも通うようになった。知愛子先生からは『初めからきみに必要なものはこれだった、すまない』と言われてしまった。カウンセリングは大学卒業くらいまで続いたが、最終的には主治医からも太鼓判を押された。俺も大丈夫だとは思っていたが、それにしては意欲がわかない、目の前のことはこなすが将来を考えることが辛く感じた。結局、就職は徳坊先生に頼りきってしまい、VRCの一般検査部へ入ることになった。一年と数ヶ月、ただぼんやりと、検査ルームの椅子に座り続け、入職後二年目の秋に、知愛子先生を交通事故で亡くした」
冬子は、高校生の頃に見たニュース記事を思い出した。検査ルームで朽木に血を採られ、検査結果を聞きに行くまでの一週間、変身症やVRCに関する情報をインターネットで検索していた頃、徳坊知愛子の訃報を見た。あの時は、センター長の夫人が死んだニュースなど縁起が悪いとしか思っていなかったが、目の前の朽木にとっては、恩人の死だった。
「徳坊先生も気落ちしていて、俺もどうすればいいかわからなかった。就職してからは徳坊家を出て一人暮らしをしていたが、その部屋もだんだんと荒れていった。物を片付けられず、簡単な家事もできなくなった。そんなときだったんだよ、きみが検査ルームに来た」
「わたしですか」
「悲痛なかおをした女子高生。蛹化の途中で自殺した教師の恋人。きみの話を聞いて、久々に自分の中に憎しみがわいた。相手は会ったこともない個人、おそらく絶望に潰されて自死を選んだ男。自分は死ねばいいだろうが、残された恋人の高校生はどうなる? この男は彼女が抱く絶望を想像したのか? 悼むべき死者は俺にとって唾棄すべき存在だった。それを理解していないきみにも腹が立った。その日、受検者の血液をセンターに持って帰った俺は真っ先にきみの血液を検査機械にかけた。普段は検査技師に任せる作業も全部俺がやった。一週間の間に何度か検査をして、結果はすべて陽性だった。通常なら書類に陽性だと記載して、管理局に連絡をすればいい、何も悩むことはない。それなのに、考えてしまった。俺にこの子の人権を奪えるのか? 奪って、また、後悔しないか? 楽が生きていたら、この子と同じ十七歳だ。その子の人生を、俺は守ろうともしないのか? ――自問自答を重ねた結果が、いまだ」
朽木と冬子は互いの目を見た。九年と十ヶ月の間、共犯を貫いた二人。
「きみに検査結果を伝えた後、俺は暮らしていたマンションを引き払い、センターで寝泊りするようになった。検査機器の研究開発を進めて特許も取得した――徳坊先生から、『やりたいことがあるならどの部署にでも異動させられる、もしくは留学も推薦できるが、何が望みだ』と訊かれ、きみと同じ部署への異動を願い出た。先生が亡くなる一ヶ月前、きみが入職試験に合格する、一週間前」
「わたしの入職は、徳坊博士の意向が大きく働いたということですか」
「いや、実際にきみの成績はずば抜けていたし、面接でも瑕疵がなかった。合格は順当だ。そのあとの部署配属を、徳坊先生はそれとなく人事部長に念押ししただけだ」
「……そうですか。でも、徳坊先生は不審に思わなかったんでしょうか」
「きみが高校生の頃に検査ルームに来たことだけは話しておいた。ずっと気にかけていた子だから、同じ部署にしてほしいと。無理がある理由だとは思ったが、徳坊先生は特に詳細を知ろうとはされなかった。むしろ、俺が仕事で成果を上げたことや、異動願いを出したことを喜んですらいた。……それよりも、俺にとっては検査結果を聞いたきみが俺の言う通り行動するかどうか、ほとんど賭けだった。名刺を渡していたが、連絡は一回もなかったから、もしかしたら俺の話など忘れているかもしれないとさえ考えた」
名刺は、受け取った直後に衝動的に千切って道端でばら撒いたなどと、さすがに言えなかった。
「わたしは――わたしも、朽木先生と同じです。目標もなく、何にも興味が持てず……中学受験して入った女子校だって、親の言いなりで入学しただけ。友達もずっとできないまま、同級生に疎外感を覚えていたときに担任のセンセイとつきあうようになって、彼しかわたしを救ってくれないと思っていたのにあんな死に方をされました。自殺する選択肢もあったはずなのに、ぜんぜんそんなことは思いつきもしなかった。わたしも絶望しきれていなかったんだと思います。でも、やりたいこともなかった。だから朽木先生の指示通りにしたんです。――今となっては、朽木先生が与えてくれた時間を、もっと大切にすればよかった。美味しいものを食べて、綺麗なものを見て、豊かな人生にすればよかった。親の元から、飛び出していればよかった。もっと主体性を持っていれば」
気づけば涙が止まらない。そもそも、涙がいつから流れているのか記憶になかった。朽木の話の途中から――どこからだろう。いつから自分は泣いていだのだろう。考える間もないほど、涙で視界はぼやけていく。
「一つだけ教えてください」
「なんだ」
「朽木先生にとって、わたしは妹さんの代わりですか? 先生は、助けられなかった妹さんの代わりにわたしを助けましたか?」
涙ごしに見える朽木は、思案げに冬子を見つめている。冬子は指で涙を拭った。
「やっぱり答えはいらないです」
「どうして」
「わたしは林野冬子です。いまさら、楽さんの代わりだったと言われても傷つきます。わたしは、林野冬子という純粋な個人です」
冬子の涙は止まっていた。朽木はどこかしら安堵したような表情で「そうか」とつぶやく。
ノックがあって、ワゴンが運ばれてきた。あらわれた人物は有田ではなく、コックの格好をした、体つきのしっかりとした老人だった。
「お久しぶりです、離苦さん」
老人は快活に朽木へ笑いかける。
「林野さん、こちらがオーナーシェフの美濃さん。美濃さん、彼女は俺の相棒の林野です」
「初めまして、林野様。離苦さんには、徳坊先生がご存命の頃から贔屓にしていただいています」
「こちらこそ、お世話になっています。先日も、VRCのドネーション説明会ではお食事を無償提供いただいて」
「東一郎先生のご人徳あればこそ。知愛子先生も、龍二郎先生も、徳坊家は人格者ばかりで、わたしはその方々のお力添えをしているまでです」
美濃はテーブル上のコーヒーカップを下げ、新しいカップをサーブし、湯気が立つコーヒーを注ぐ。さらに二つのマカロンがのった小皿をそれぞれに提供した。
「クリーム色はりんご、ブラウンは栗のマカロンです。りんごは紅玉を使っていますから、少し甘酸っぱいですので、お口直しにどうぞ」
「ありがとうございます」
「美濃さん、ご無沙汰していて申し訳ありません。二年前の徳坊先生の命日が、最後に伺った日でしたね」
「仕方がありません。翌年には前のセンター長がお亡くなりになって、安瀬先生もお忙しいのでしょう」
「ええ……村名賀先生も、安瀬先生に代替わりしてから研究に没頭してしまって、誘い出せる雰囲気ではなくなってしまいました。俺一人では、味もわからず申し訳ないですし」
「お気になさらず。料理屋とは行ける時に行くものです。無理するようなものではございません。もしくは、離苦さんお一人なら、わたしや有田とお喋りしに来ていただくだけでよろしいんですよ」
「そうおっしゃっていただけるだけで光栄です。――林野さん、どうした」
「安瀬先生や村名賀先生も、こちらへ?」
「あの二人は徳坊先生の直弟子だから。お二人は俺が『救済の法』の生き残りだと知った上で部下として迎え入れてくれている。この店では、美濃さんと有田さんも――俺は、いい大人に恵まれた」
美濃は福々とした笑みを浮かべてうなずく。
「離苦さんが初めていらっしゃった大学の入学祝いのお食事会で、知愛子先生はワインを何本開けましたかな」
「十本ですよ。いまだに信じられない。あの人、家で飲むことはありませんでしたが、実際にはとんでもない酒豪だった」
「それだけ離苦さんの合格が喜ばしかったんでしょう。東一郎先生も龍二郎先生もお酒を好む方々ですが、お二人とも呆気にとられてご覧になっていたご様子は少しおかしくもありました」
「あの兄弟は、日本酒党ですからね。ワインは、知愛子先生ほどには――」
「徳坊先生方が最もお好きなお酒は、啓蟄でしたか。お二人の地元の地酒で」
「龍二郎先生など、末期の水はこの酒がいいと豪語していますよ」
二人はそれからいくつかの会話を交わし、美濃は退室していった。淹れ直されたコーヒーは飲み下すに丁度いい温度となっている。提供されたマカロンは、栗は香ばしく、りんごは甘酸っぱい。これが心遣いというものかと冬子は静かに感動した。
「ごちそうさまでした」
コーヒーの最後の一口を飲み干すと、冬子は朽木に向かって深々と頭を下げた。
「とても、美味しかったです」
「うん。それは嬉しい。あとで美濃さんと有田さんにも伝えて」
「はい。――朽木先生。以前、わたしが交配実験の対象になりたくないと言った時、わたしのことを責任をもって殺すとおっしゃいましたよね」
朽木はナフキンで口元を拭いていた手を止めた。
「そうだが、それがどうした」
「それはやめてください。わたしのことは殺さないで。わたしは実験台になります。二ヶ月後、一月三日に発症して、七日後には成虫化します。そのときに相手となる方がいたら、交配実験をしてください」
朽木の眉間に皺がよる。
「どうして」
「朽木先生の手を汚したくない。わたしが今後の研究の糧になれるならそのほうがいい」
「俺のことはどうでもいい」
「よくありません。朽木先生はただでさえ、わたしの陽性結果を隠匿し続けるという違法行為をしています。最高で懲役十年もしくは罰金五千万。医師免許の剥奪は必至。これ以上のリスクを犯して欲しくない」
「それは俺も納得の上だ。十年なんて大した時間ではない。五千万円もとっくに貯めている。罰金を払っても釣りがくるほどには貯金がある。法規違反をしていることに対する責めは負わなければならないが、林野さんはそんなことを気にしなくていい。そんなことよりも、実験台になって、あんなふうに――」ただ本能のままに交尾する虫の姿を、朽木は思い出しているようだった。
「だったら、初めから村名賀先生の実験を否定していれば良かった」
「それとこれとは違うだろう。それに、俺はもう、一人殺している」
「それはなにかの例えか暗喩ですか?」
「現実に、実際。俺は赤西氏を殺した」
赤西――赤西前センター長。今年の初夏の夜半、クーラーがついていない部屋の中で熱中症に至り、死んだ。
「嘘」
かすれた声しか出せない冬子に、朽木は首を振った。
「五年前に東一郎先生が亡くなって、赤西前センター長が就任した。赤西氏は東一郎先生が築いたものを丁寧に壊していった。赤西氏の東一郎先生に対する執念の原因がなにか、誰にもわからない。赤西氏は東一郎先生が残したものを蹂躙した。だが、俺たちだって五年間黙っていたわけではなかった」
蹂躙と聞いて、冬子の脳裏にはこれまでに見た虫の姿の一体一体が蘇った。
人間を蹂躙した、ウイルス。
「東一郎先生の弟子は次々とここから去ったが、安瀬先生と村名賀先生は龍二郎先生に慰留されて残った。俺は林野さんのことがあったから去る気は毛頭なかったが、あの二人は他の研究機関に行って才能とこれまでの努力を惜しみなく研究に費やすべきだった。二人が残留した理由はとどのつまり東一郎先生への忠誠心だ。もったいないと、俺は思った。だから協力した。俺たちは赤西氏に感づかれないように、いつか赤西氏が退任する後に備えて、机上の空論を重ね続けた。――だが、今年に入ってから、赤西氏が来訪していた文科省時代の元部下に『配膳部を廃止してコストカットする』と廊下で話しているのを聞いた。収容者の食事は、仕出し弁当で十分だろうと」
喚起された脳内の虫は、水槽の壁をよじ登っては落ちる。
「俺は許せなかった。唯一の楽しみが食事だという収容者も多い。死ぬまで冷たい仕出し弁当しか与えないのか。それはありえない。いったん廃止してしまえば、元に戻すことも難しくなる。絶対に止める必要があった。村名賀先生や安瀬先生も賛同してくれた。だが、俺たちの力ではどうにもできなかった。だから、龍二郎先生に相談した。政治でもカネでもなんでも使ってどうにかできないかと話しただけだったが、あの人からは赤西氏を殺すよう提案された」
虫は落ちて、毒液をまきちらす。
「不思議と、誰も反対しなかった。それが最善策に思えた。俺たちは計画を練った。実行は夏だ。ちょうど東一郎先生が亡くなったのも夏だった。四人の覚悟を東一郎先生に示そう、それだけの理由で決行は東一郎先生の命日になった。事前に龍二郎先生が酒を安瀬先生に送っていた。徳坊兄弟の地元の酒、『啓蟄』だった」
虫は無数の足を動かし、悶える。
「安瀬先生はその酒に睡眠薬を入れた。それを、夜にセンター長の部屋へ持っていった。梅雨が明けてもいないのに、暑苦しい夜だった。事前にセンター長室の周辺にしかけていた盗聴器で、俺と村名賀先生は音声を聞いて邪魔が入りそうになったら安瀬先生のモバイルフォンを鳴らす役割を担った。赤西氏は定時後も部屋にこもって仕事をしていることが多かった。家族と不仲だったらしい。安瀬先生は寄付者から酒をもらったから二人で飲もうと赤西氏を誘った。当然、赤西氏は訝しんだ。それまで酒を酌み交わしたことのない、ましてや旧敵の弟子が唐突に酒を持って訪室して、歓迎するわけがない。だが赤西氏は安瀬先生を迎え入れた。一つは無類の酒好きだったから。一つは、安瀬先生が自らの進退について相談したいと言ったから」
虫は何度も反動をつけ、ようやく天地を正しくした。
「――安瀬先生は赤西氏に酒を飲ませながら、自らの引退について相談した。でっち上げの相談だ。赤西氏は適当に相槌を打ちながら、どんどん酒を飲んだ。邪魔な者がいなくなる話は、いい酒の肴だったんだろう。安瀬先生が飲む真似事をしていることにさえ気づかないまま、赤西氏は酔い潰れて眠った。安瀬先生は部屋の冷房をオフにし、酒もグラスも持ち去った。その後で俺が入れ替わりにセンター長室へ入った――なんの関係もないカラの缶ビールをいくつかと、ヒーターを一台持って、だ。空き缶をテーブルの上へ無造作に置き、ヒーターを赤西氏に向けて稼働させた。赤西氏の体からは汗が噴き出て、シャツがぐずぐずになっていた。持ち込んだ気温計を見れば、室温は四十二℃だった。赤西氏が痙攣し始めた頃には俺も息苦しさを感じていた。水は持ち込んでいたが、すぐに飲み干してしまっていた。限界を覚えたとき、赤西氏が事切れていることに気づいた。すぐさまヒーターも水のボトルも持って立ち去った。――誰にも会わないように地下のシャワールームに駆け込み、冷水のシャワーを浴びた」
虫は、また、床を這う。
「俺たちは、赤西氏を殺した。赤西氏は、夜更け、巡回していた当直の警備員によって発見された。センター長室付近が妙に暑く、雰囲気がいつもと異なる事を察知して部屋のドアを開けた。そこにはサウナ状態の室内に横たわる赤西氏だった。彼は俺がセンターに寝泊まりしていることを把握していたし、俺が医師免許を持っていることも知っていた。だから、まず俺に連絡を寄越した。俺は驚いたふりをして駆けつけ、赤西氏を検分し、熱中症による死亡を宣言した。警察もやってきたが、事件化はされなかった。龍二郎先生が根回しをしていたからだ。センター内で何か起こっても事を荒立てないように。どうして冷房がきられていたのか、それは酔っ払った赤西氏が設定を誤ったのだろうとの推測で片付けられた。すべてはアクシデントとして成立した」
朽木は、息をついた。
「――啓蟄とは、土の中で冬をしのいでいる虫が地上に這い出てくる頃を意味する。俺たちは虫だ。俺たちは冬眠を終えた虫だよ。虫は、俺たちのほうだ」
「朽木先生」
あの日、今年の六月中旬、冬子はいつもどおり出勤していた。センター前にパトカーが何台か停まっており、不穏を感じた。臨床部へ着くと、いつもは寝袋に収まっている朽木が疲れた様子で椅子に座っていた。なにがあったのか問うと、「赤西センター長が死んでいた」とだけ言った。まるで他人事のように「死んでいた」と。冬子はセンター長と関わりもなく、トップの死が自身の仕事に影響するものでもないと考え「そうですか」とだけ反応した。あの日、朽木は普通に業務をこなした。村名賀にもおかしなところは見られなかった。人を殺したあとの人物とは思えなかった。いや、まさか熱中症だと聞いたものを殺人と疑うわけもない。
「配膳部がなくならなくて良かったです。収容者のために、配膳部は絶対に必要です。先生方が赤西前センター長を殺したことより、配膳部がなくならなくて良かったと思う自分に、戸惑っています。それに、赤西前センター長がお亡くなりになった後、ここの職員から前センター長を惜しむ声を聞いたことはありませんでした。赤西前センター長は、もしかしたら多くの職員から、憎まれていたのかもしれません」
「だからと言って、殺していいわけがない。それをわかっていながら、殺した」
「わたしが警察へ話してしまったら」
「それすらも警察は握り潰すよ」
「徳坊龍二郎がいるからですか」
「そう」
「先生方が自首することは」
「ない」
朽木は即座に断言した。
「良心の呵責に苛まれるようなことはしていない」
「じゃあ、どうして話したんですか」
分裂した細胞が元に戻ることはないように、今の話を聞かなかったことにはできない。
「きみが、殺すなと言うから」
「わたしを、赤西前センター長と同じように殺すことは造作もないと?」
「そういうことではない」
「みくびらないでください」
目の前にいる、それは朽木だ。
虫ではない。
人間だ。
「あなたのことを、あなたが望むように理解できている自信はありません。でも、あなたに償うべき罪があるなら、わたしも罰を引き受けます。わたしはもう、守られてばかりじゃいられない」
右手を差し出した。
「あなたにとって、わたしが間違っていなければ、この手を握ってください」
「だが、虫になったら」
「本音を言えば、交配実験の実験台なんて嫌です。でも、わたしはこれ以上、あなたに甘えたくない。あなたがここに人間として生かしているわたしの我が儘を、聞いてはもらえませんか」
朽木はうなずいた。唇をかみ、冬子の手を握る。朽木の手は大きかった。意外とぬくもりがある手のひらに、冬子は心の底が波打つような感覚に陥った。
息をひとつついて、冬子は手を離した。
「朽木先生。代わりにお願いしたいことがあります。――もう一度、食事につきあってください」
「それは、いくらでも」
「雪持さんが好きだとおっしゃっていた桂樹軒に行きたいです。あの通販のステーキがとても美味しかったから、今度はお店で食べたい。わたしも、次は先生に指導されないようにテーブルマナーを完璧にしておきます」
朽木は歪みそうになる顔で無理に笑いながら「――楽しみだな」と言った。
「マナーは文明だ。――徳坊家に引き取られた翌日に知愛子先生から、そう言われた。食事だけでなく日常生活において、マナーは人間が人間らしくあるために存在すると」
冬子はセンセイから言われたことを思い出した。箸をうまく使えない冬子に、「親がちゃんと、きみをしつけなかった」のだと。
「わたしは、人間として扱われてこなかったんですね」
「ん?」
「わたしは、モノだった」
あと二ヶ月しか生きていられないのに、いまさらそれに気づくなんて。
「林野さんは、人だよ。人間だ」
「朽木先生は、わたしの尊厳を認めてくれる。わたしの親は、わたしを自分たちのモノ扱いする人たちです。わたしを自分たちの言いなりに動かそうとして、考えを押しつけて、その上おとしめた挙句、わたしからお金を搾取している。どうして今まで、あの二人から離れようとしなかったんだろう」
朽木は真正面から冬子を見た。
「ずっと思考が停止していたような気がします。やっと気づけた。わたし、自分で生きていこうとしなかった。機会はあったのに。センセイが、導いてくれようとしたのに」
「そのセンセイとは、恋人の」
「そうです。あの人が死んで、わたしは思考停止したままになってしまって、いま気づいた。わたしは自分で自分を解放させないといけなかったのに」
目の前のテーブルを見た。今日の食事の内容が走馬灯のように脳裏へ蘇る。中学校のマナー教室から逃げなければ、変わることの積み重ねをすれば、自分はとっくに自立した人間になれていたかもしれない。ずっとモノでいることはなかったかもしれない。
「林野さん」
はっとして顔を上げると、朽木が穏やかなかおで冬子を見ている。
「後悔は人間が生きていくための手段の一つだ。それと同じで、食べたもの、見たこと聞いたこと体験したこと、すべて明日のための血肉になる。明日のきみと今日のきみは、ちがう」
冬子は下唇を強く噛んだ。そして、うなずいた。
「今日のお食事、とても美味しかった。今度は、その日を楽しみにすることから始めたいです。わたし、誰かとの予定を楽しみにしたことが、ないから」
「うん。――日程は」
「クリスマスイブは、いかがですか」
「林野さんでも、そういうイベントは気にするのか」
冬子は首をふった。
「世間では特別視されていますから。わたしは今まで、そういうことに関わりなく生きてきました。だから、さいごくらい、普通のことをしたい。その日はこんな黒スーツではなくて、相応の服を用意します」
自分にとっての特別な日は、特になかった。強いて言えば誕生日なのだろう、しかし最後の誕生日である来年の一月三日は自分の蛹化が始まる日だ。だから、誕生日以外の些細な日で、かまわない。
「わかった。今から予約しておこう」
「はい。――朽木先生。今まで、ありがとうございました。あと二ヶ月と少し、よろしくお願いいたします」
朽木は返事の代わりに、「時間だ」と立ち上がった。
二人が店のエントランスをくぐると、そこにはすでにタクシーが二台横付けされていた。見送りの有田と美濃に礼を言い、冬子が先の一台に乗り込む。朽木はドライバーに窓を開けさせて「釣りはとっておいてください」と二枚の一万円札をその手にねじ込んだ。
「朽木先生。わたし、タクシー代くらい払えます」
「いいんだよ。誘った側が最後まで面倒みるものだ。運転手さん、出してください」
タクシーは滑らかに冬子一人を夜の中へ運び出した。背後の店はすぐに見えなくなる。冬子はシートに背中をうずめた。様々なもので体の中がいっぱいだった。朽木の辛苦の思い出と、食べた料理の栄養が、血の流れにのって体のすみずみまで、細胞のひとつひとつにまで染み渡っていくような気がした。
今後、朽木にいっさいの迷惑はかけたくない。
もしもなにかあれば、自分が犠牲になってでも守りたい。
変わらなければ、と思う。
――家を、出よう。
冬子は決心した。
――親を、捨てよう。
言葉にすれば簡単で単純だった。しかし、タクシーから降りるまで、冬子はその二言を自分の細胞に覚え込ませるように頭の中で唱え続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます