第4話


 九月に入って日照時間は短くなったが、気温は八月とたいして変わりなかった。朝から汗が滲むような暑さに、冬子は辟易しながら通勤していた。いつもどおり、他の職員より早い時間に、職場である公益財団法人変身症研究センターにたどり着く。

職員証をトートバックから取り出し、スキャンしようとした時だった。

「林野さんですか?」

 背後から声をかけられた。知らない女の声だった。朝に似つかわしくない暗くて低い声だった。

 振り返ると、そこには小柄な女性がいた。着ている黒いTシャツには青い舌を出した髑髏が大きく描かれており、ジーンズにはわざとらしいダメージがいくつもあった。不自然な金色の髪はおかっぱのように毛先が切りそろえられている。耳にあけられた無数のピアス穴には安全ピンがぶら下がり、女が動くたびに金属がぶつかる微かな音がする。だがそれよりも、彼女の両腕に残る無数の切り傷の痕が冬子を戸惑わせる。ほとんど隙間がないほどに切られた古い傷跡は皮膚を盛り上がらせていた。どう若く見つもっても冬子よりはひとまわり年上と思われるほど女の肌は乾燥し目尻の皺も深かったが、黒目がちの瞳は小動物のようだった。

「林野さんですよね?」

 冬子は答えなかった。けげんな顔を隠さないでいると、相手は「あの人、元気です? ほら、あの守衛長」と、先月、懲戒解雇を受けてセンターを去った守衛長の名前を出した。その男は肖像真心子の個人情報を漏らしたことから、守衛長は定年退職を一ヶ月後に控えて懲戒解雇の処分を受けた。その後を、冬子は知らない。

「あなた、恨まれてますよ。守衛長さんは、あなたが自分を悪者にして追い出したって言ってる」

 冬子は応じず、通用門をくぐろうとした。すると女は、冬子のシャツの裾をひっぱる。

「警察よびますよ」

 冬子が睨むと、女は「やめてよ」と舌を出した。その先は二股に割れていた。ちろちろと上下に動く舌先にぞっとして、冬子は女の手を振り払う。

「なんなんですか、あなた」

「わたし、こういう者です」

 女は慇懃無礼な動作で名刺を渡してきた。その肩書きには「フリーライター」とある。

「いろんな雑誌に記事を売り込んでいるんですけど、最近は週刊Waltzに出入りすることが多くて」

 週刊Waltz。冬子はすぐに思い当たり、息をのんだ。肖像真心子の記事を掲載した三流大衆週刊誌。

「あの、コンビニ店長の変身症の記事」

「お読みいただけました? 一連の記事を書いたの、わたしなんですよ。嬉しいです、読者の方にお会いできて」

「なんなの、他人のプライベートを軽々しく扱って、あんな下劣な」

「軽々しい気持ちでなんか書いていないですよ。あれは啓発です。変身症なんかになってしまうような生活をしたらこうなるよって、世間に知らしめるための仕事」

 気持ち悪い。冬子は反射的に相手の目の前で手の中の名刺を握りつぶし、道へ放り投げた。女は打ち捨てられた名刺を見て「あらら」と肩をすくめた。

「守衛長は、あなたにリークしたんですか」

「ええ。わたしのアカウントにダイレクトメッセージをくれて、直接お会いしましたよ。ちゃんと職員証も見せてくれたから、本物だと判断して記事にしました」

 女はジーンズのポケットからデジタルフォンを取り出し、写真を見せてきた。そこには、テーブルの上に載せられた元守衛長の職員証が写っていた。女は「ついでにこっちは本人写真」と元守衛長の写真も見せてくる。背景からしてどこかの喫茶店のようだった。プライベートの守衛長の服は、着古されたポロシャツだった。

「うかつなことを」

 冬子の口からは思わず元守衛長に対する怨嗟が漏れ出た。ライターの女はその様子を見て面白そうに笑う。

「ちなみにこのおっさん、いくらで情報を売ったと思います?」

 情報の対償など見当もつかず、冬子が答えないでいると、女は目一杯広げた右の手のひらを見せつける。

「五万円?」

「ごせんえん。五千円です」

 女が喋るたび、口の中の割れた舌先が動く。冬子はその舌先を見ながら愕然としていた。たった五千円、大人にとっては小遣いにしかならないような額で、肖像真心子は死後の尊厳を失った。

「たった五千円ですよ」女は口をへの字に曲げる。「たった五千円のために個人情報をリークして、自分は懲戒解雇。退職金千八百万円が水の泡だって」

 退職金千八百万円は、肖像真心子の尊厳よりも重いだろうか。ふざけるな、と冬子は思う。カネと感情に踊らされた糞野郎。

「その元守衛長が、わたしを恨んでいるんですか」

 つとめて平静に冬子は問う。女は舌先をちろちろと出した。蛇が牽制するかのようだった。さきほどの名刺に印字されていた名前など見てもいない冬子は、目の前の女を「蛇女」と呼ぶことにした。

「あなたと朽木が、ぜんぶ守衛長さんのせいにしたから退職金がパアになったっておっしゃっていました」

「馬鹿馬鹿しい」

「退職させられた後にわたしに連絡をとってきて、『あいつらのせいで退職する羽目になったと記事にしてくれ』って言うんだけど、シケたおっさんの懲戒沙汰なんて誰も興味持たねーよっつーの。そもそもあの人がわたしに喋ったことは事実じゃないですか? 変身症研究センターのスキャンダルにはなるけど、組織としてちゃんと対応しているわけじゃん、と思っておっさんからの電話は全部無視してます」

 他人事のようにつらつらと言う蛇女に、冬子は冷めた目線を送っていた。

「それなら、どうしてあなたは今、わたしを呼び止めたんですか」

「そうそれ。本題。わたしは主に変身症関係について調べて回っているんですけれど、ワールドホープっていうNPO法人が朽木氏について探っていると情報があって」

「ワールドホープ?」

 冬子は眉をひそめた。聞いたことがあるような気もするが、知らない名称だった。

「UNGウイルス感染者に対する非人道的行為を糾弾している団体ね。抗議活動したり、感染者の家族を保護したり。そういうことをやっている。そこが、ごく最近になって変身症研究センターの朽木離苦について調べているって情報が流れてきたんですけど、あなた知らない?」

 冬子は反応を示さなかった。何も知らないが、蛇女には「不知」の情報すら与えたくなかった。

「その様子は、どういう意味なんでしょう。知ってるの? 知らないの?」

「知っていたとして教える義理はありません」

「どうして? わたしが記者だから?」

「記者であってもなくても。倫理観を持たないあなたなら、なおさら」

「それは中傷だけど事実ね。でも、倫理や道徳なんて社会を守る術にはならないんですよ。ねえ、五万円払うから教えてよ」

「五万だろうが五億だろうが、カネに価値はありませんよ」

 言い捨て、冬子は足早に通用門をくぐった。守衛所の星野と目が合う。

「林野さん、外で誰かに絡まれていませんでした?」

 今日に限らず、たまにこういうことが起きる。出勤する職員に対し、言いがかりをつける輩や内情を探ってくる得体の知れない人間はこれまでにもいた。

「週刊誌の記者だそうです。警察への通報は必要ないと思いますけど、念のため巡回してもらった方がいいかもしれません」

 若い守衛は首肯し、内線電話でセンター内の守衛本部へ連絡を始めた。冬子はそれを尻目に建物に向かって歩き出す。

 ワールドホープ。

 どこで聞いたのだろう。首をかしげ考えていると、ちょうどエントランスに入る直前で思い出した。あわてて自分のトートバックの中をあさる。一番下に、しわがいくつもついたチラシが眠っていた。それを取り出し、広げる。

『変身症研究センターは不要だ!』

『変身症感染者に人間らしい生活を取り戻させよう!』

 そのような文句が踊るチラシだった。素人が自前で作成したのか、デザイン性は皆無である。

 肖像真心子が来所した日の朝、駅前で受け取ってそのままにしていたチラシだった。その片隅に、「NPO法人ワールドホープ」と書かれていた。

 現在の変身症管理体制に反対する団体が、どうして朽木を調べているのだろう。疑問に思いながら、冬子はチラシをあらためてトートバックにつっこみ、いつも通りエントランスを抜ける。さっさと更衣室で着替え、臨床部の部室に入り、黒い寝袋に声をかけた。

「朽木先生。おはようございます」

 寝袋はもぞもぞと動いて中から髪を乱した朽木が現れる。

「ワールドホープって、ご存知ですか」

「なんだよ、こっちは寝起きだ」

「ワールドホープというNPO法人が、先生のことを調べているって聞いたんですが、ご存知ですか」

「ワールド、なに?」

 冬子は門の前で起きた出来事を話した。朽木は長座のまま眠そうな顔で聞いていたが、最終的には「知らない」と明言した。

「なにかの間違いだ。俺は関わりない団体だよ」

 朽木は頭をかきながら立ち上がり、手近にあった段ボール箱から三本のエナジーバーを鷲掴みにする。

「そんなことより、今日は午後イチで村名賀先生の実験のミーティングだから、よろしく」

 今日の午後、虫の交配実験に関するミーティングの第一回目が予定されていた。忘れていたわけではもちろんない。だが、冬子はあの蛇女に心の平静を乱されていた。朽木に言われてやっと今日の業務を思い出す。

「じゃあ、シャワー浴びてメシ、食べてくる」

 朽木はいつも通りシャワーを浴びに行ってしまう。数分後には部長室から村名賀が出てくるはずだ。いつも通り。冬子は息を吐いて自身のデスクに向かった。パソコンの電源ボタンを押す。型落ちした機械はゆっくりと起動する。

 今日の午後には部内のミーティング、明後日には特別加療審査委員会がある。巴まひるの抗がん剤治療が承認されるかどうかがかかっている委員会だ。申請者は委員会には出席しないため、結果通知まであとは祈るしかない。もしも申請が却下されたら、と考えると思考が散らばりそうになる。これじゃだめだ、仕事に集中しようと、冬子は一人で強くうなずいた。


 午後、臨床部の面々は会議室に集合した。部員は円座し、正面のホワイトボードの前では朽木がペンを握っていた。

「村名賀先生の交配実験について、今後の打ち合わせを行います」

 進行も朽木が務めることとしたようだった。村名賀は朽木に一番近い席で腕を組んでいる。

「まず、実験対象にする収容者について、これから蛹化する収容者を、実験対象とします」

 いま水槽にいる虫は皆無だった。台風の日、企業の重役達が見学した折には三匹いたが、これまでの間にすべて死んでしまった。

「まず、もっとも早く蛹化する見込みの収容者が、516号室の滝縞吉信たきしまよしのぶさん。II型です。次が、609号室の福寿青賀ふくじゅせいがさん、I型で感染日から九年目を迎えています」

「どちらも男性だな」村名賀が口を挟む。「女性は」

「518号室の松毬夢まつかさゆめさん、I型で八年目です」

「実験には男女が必要だ」

 部員たちは互いに視線を走らせる。これは、実験開始が少なくとも数年先になるのだろうか。

「感染日がはっきりしていないため、蛹化の時期が不明の女性ならいます。508号室の麻葉砥誉泉あさばとよみさん、I型で半年前に収容されました。本人からの聞き取りでは、感染経路がはっきりしておらず、感染時期も不明です」

 朽木と冬子が担当している女性だった。今年三十四歳になる。学生時代に留学経験があり、帰国後の二十代半ばで就職、三十一歳の時に同年代の夫と結婚している。本人の話からは浮いた性活動はなく、配偶者も非感染だった。

 麻葉の感染が発覚したきっかけは、美容整形外科での術前検査だった。それまでにも美容整形外科には通院していたが、ヒアルロン酸やボトックスなどの注射処置のみであり、検査は行われていなかった。注射だけでは物足りなくなり、まずは頬のエラをとるための手術を受けようとした矢先の検査で感染が判明した。麻葉は、これまでの処置を受けた際に院内感染したのではないかと訴え、厚生労働省の特殊感染症管理局も彼女が通っていた美容整形外科医院を徹底的に調査したが、院内感染の形跡はたどれなかった。彼女の配偶者は離婚こそしていないが、見舞いにはただの一度も来たことがない。夫は、麻葉砥誉泉は不倫の末に感染したと主張しているが、麻葉本人は否定している。

「わかった。いま収容されている人でなくとも、これから新規に収容され、蛹化が早い感染者がいたらそちらを優先的に実験対象としよう」

 村名賀はそう言って、朽木に次の議題へ進めるよう促した。

「では、どのように交配させるか――どのように、二体の虫を一つの水槽に入れるかですが」

 通常、蛹化が始まったらそのまま部屋に放置する。一週間が経過して蛹化の完了を確認後、警備部の職員が水槽まで運ぶこととなっている。しかし、一つの水槽に二匹を入れるとなると、蛹化のタイミングが都合よく合うことがない限り搬入はできない。一匹が成虫化した水槽に蛹をいれることは、搬送する人間を危険に晒すこととなる。

「まず、男女一人ずつが同じタイミングで蛹化した場合、これは問題ないでしょう。問題は、蛹化のタイミングがずれてしまった組み合わせについてです。この場合、先に成虫化した方の水槽に、蛹を入れることになります」

「まちがいなく先に成虫化した虫に食われますよ」長門が指摘する。

「その際の対応ですが」朽木は長門の指摘はわかりきっていたとでも言うように説明する。「蛹を運ぶ前、先に成虫化した虫の水槽に麻酔剤を噴霧します。それで動かなくなったところを狙って、蛹を運び入れます。必要な麻酔剤の量は村名賀先生が計算済みです。麻酔剤は薬剤部に依頼して発注済み、今週中には納品されます。噴霧方法についても、施設整備課と打ち合わせ済みです」

 確かに、過去にも虫を麻酔剤で眠らせ組織採取を実施した例はあった。しかし、それもずいぶんと昔の話で最近では危険性を指摘されて行われていない。部員たちは目配せを交わした。本当に、うまくいくのか?

「通常、蛹化した感染者を水槽に運ぶ業務は警備部が担いますが、警備部には打診済みですか?」

 研究助手の壷坂が挙手して発言する。四十歳くらいの女性である。

「相談しましたが、断られました」

 え、と部員たちが声を上げる。

「そんな危険な業務はできかねる、とのことです」

「わたしから警備部長に直接頼みに行ったが、すげなく断られた」

 村名賀が腕を組んだまま息をついた。

「それじゃあ、この実験もできないじゃないですか」壷坂は声を上げる。

「通常、蛹を運ぶ業務は警備部が実施していますが、警備部以外の職員が行ってはならない規則はありません」

 朽木の言葉に、部員たちは嫌なものを感じた。

「俺たちが、運びます」

 部屋の空気が重くなった。部員たちは目すら合わせず、ただ朽木を見ている。

「朽木先生。俺たちって、誰のことですか」

 冬子が聞くと、「警備部では男性四名で運び込んでいます。この部署に男性は部長を入れて三名。もう一人必要ですが、パートの方に参加していただくのも申し訳ないので、正職員の林野さんに加わってもらいます」と朽木は有無を言わさない口調で説明した。

「長門さん、よろしいですね」

「まあ、俺はそうなるだろうなと思っていたからいいですけど、林野さんは女の子なのにいいんですか」

 冬子は戸惑いつつも「それが仕事なら」とうなずいた。パートの先輩たちは口々に「いいの?」「断ってもいいのよ」と言うが、冬子は「やります」と言いなおした。

「ありがとうございます。警備部から、蛹搬送に関するオリエンテーションのための動画をもらってクラウドに保存してありますので、長門さんと林野さんは時間がある時に観ておいてください」

「もし、うまい具合に交配して、子供が生まれたら、その子の観察はどうするんですか」

 鼓が問う。

「虫の親子の観察なんて、初めてのことで予測もつかないと思いますが」

「様子見が必要だが、原則としてすぐに親から引き離す」村名賀が答える。「その際にも麻酔剤を使用する。自然界にいるほとんどの虫の親は子育てを行わない。だが、一部では卵を守ったり子育てをしたりする種もある。人間に危害が及ばないよう最大限の対策は行う」

 皆、納得したような、よくわからないような表情で特別の反応はない。

「ところで」長門の挙手。「警備部では、蛹を運ぶと一回十万円の危険手当がつきますけど、今回は」

 蛹を運ぶと十万円、人間の状態で死亡した遺体を処理すると十万円、成虫後に死亡した遺骸を処理すると二十万円。危険手当の額である。これらの危険業務は警備部が担当しており、毎月の基本給とは別に都度で支払いがある。

「人事部に聞いてみたところ、本件は実験のための特別行為となるため、人事予算からの危険手当は出せないそうです。ですが、研究管理課に確認したら研究費から出して良いとのことでした。来年度は正式に研究費が下ります。もし、今年度中に実験が可能となった場合には、センター長付の研究費から捻出が可能とのことです」

「センター長付の研究費?」長門が首を傾げる。

「年度途中で承認された実験で予算がついていないため、特別にセンター長付の研究費を使用することが承認されました」

 朽木の話を聞きながら、そうか、と冬子は気づく。年度内に実験の機会が得られなければ、自分は決してこの実験に加担することはないのだ。自分自身が来年の一月三日に蛹化してしまうのだから、ここでの話は関係がなくなる。

「交配の結果誕生した子供から組織がとれたら、ゲノム解析部の機械を借りて分析します。ゲノム解析部長の柳田先生には交渉してご承知いただいています」

 ゲノム解析部は村名賀の古巣でもある。その部署の機械を借りることは、村名賀も後釜の柳田も気まずくはないのだろうか。冬子は部長の顔を見るが、その感情はわからない。

「そうしたら、実質、パートの我々はこの実験に関わらないということですか」

 倉橋研究員が言う。その言い方には少しばかりの嬉しさが滲んでいた。

「実質的にはそうなりますが、積極的に収容者や面会の方に実験の話をすることはないようにしてください。実験の内容をプレスリリースするわけでもないですし、おそらく相手から聞かれることもないかとは思いますが」

 倉橋は勢いこんで「もちろん」と返事をする。狂気走った実験の片棒など担ぎたくはないのだろう。

「他に、ご質問はありますか」

 発言はない。部員たちが協力すべき事項は単純だった。蛹を運ぶこと。不要な情報漏洩をしないこと。結局、論文に名を連ねるようなことはしない。それさえわかれば、ほとんど無関係のようなものだった。

 最後に、村名賀が立ち上がった。

「みなさんには、普段の業務とは別のご苦労をおかけすることになる。本当に感謝します」

 部長は深々と頭を下げた。部員たちも慌てて立ち上がり、一礼をした。部長は頭を上げると部下たちを一人一人見つめ、会議室から出て行った。

 村名賀が会議室の扉を閉めた瞬間、室内の空気が弛緩した。

「普段の業務とは別のご苦労、なんて」

 忌々しそうに矢頭研究助手は言う。

「毎日のように顔を見ている収容者を、交配実験の対象にするなんて、わたしは賛同できません」

「みんな同じ気持ちよ」倉橋が矢頭を慰める。「毎日、収容者を見ているわたしたちには思いつかないこと。村名賀部長は収容フロアに行ったことなんてないんだから」

「それより林野さん」鼓が冬子を振り返る。「いいの? 蛹の運搬なんて」

「わたしはいいんです。大丈夫です」

 言いながら、年度内、せめて年内に実験開始とならないよう、内心では強く祈っていた。


 翌々日の夕方に開催された特別加療審査委員会で、巴まひるの抗がん剤治療が承認された。その翌日に巴本人へ報告すると、喜びとお礼の言葉を述べてくれた。以前と変わらず治療に前向きな姿を見て、冬子はたまらず安堵した。

 必要な抗がん剤や機器は既に調達されていた。投与は数クールに分けて行われる。初回投与は委員会承認の翌々日となった。回診とは別に時間を設け、薬剤部の三居も立ち会って三時間にわたる投与が行われた。重篤な副作用がでることもなく、治療は進められていった。

 九月中旬にさしかかった頃、麻葉砥誉泉から「再検査をしてほしい」と言われた。回診の時間、麻葉はいつもランニングマシンで汗をかいていた。安静時のバイタル測定ができないから運動は回診後にしてほしいと言っても、「朝晩、わたしが決めた時間に運動したいのよ」と言って憚らない。部屋には、麻葉自身が通販で購入した健康器具がいくつも転がっている。

「麻葉さん、再検査はもうできませんよ。もうすでに十回も検査し、すべて陽性でした」

 麻葉は朽木の説明には耳も貸さず、ランニングマシンの速度を上げた。ショートパンツやタンクトップから伸びる手足は長く引き締まっており、汗が滴る顔も美しく整っている。

「わたしは信じない。陽性なんて何かの陰謀よ。夫でしょ。あいつがわたしと離婚したいから、偉い人と企ててわたしをこんなところに閉じ込めているんでしょ」

 朽木は冬子に向かって首をふった。麻葉の妄言は毎日のことだった。今日は陽性を否定する発言、昨日は陽性であることは認めつつ通っていた美容整形外科ではめられたのだと言っていた。内容の違いこそあれ、彼女自身は現状をまったく受け入れていない。

「麻葉さん、陽性は事実です。あなたはUNGウイルスに感染しています。美容整形外科はシロですよ。あなたが通っていたクリニックの関係者や患者すべてが検査を受けましたが陰性でした。あなたはそれ以外の要因で感染したと考えられています。もう一度よく思い出してください。心当たりはありませんか」

 ランニングマシンが止まった。麻葉は汗を拭かずにズンズンと冬子の前に来て腕を突き出す。冬子は黙って測定器を彼女の手首に取り付けた。

「わたしにわかるわけないでしょ。絶対に夫、あいつがわたしをはめたんだ」

 数字が出た後、冬子は測定器を外した。会話をカルテに入力する。ある意味前向きで、生命力にあふれており、相手をする分には他の収容者と比べて楽だった。麻葉は食事の好き嫌いや睡眠時間などといったとりとめのない話を朽木と短く交わしたあと、床に敷いたヨガマットの上でストレッチを始める。いつものルーティンで、麻葉は肉体的には健康だった。

 臨床部に戻ると、天井から吊り下げられたテレビの電源がついていた。モニターには滝縞吉信の部屋が写されている。

「蛹化、はじまったんですか」

 冬子が誰ともなしに問うと、デスクについていた鼓が振り返って「今朝方から」と応答した。部長室側の壁に取り付けられている操作盤の電源ランプが光っている。この操作盤によって、室内のモニターに収容フロアに設置された監視カメラの映像を写すことが可能だ。基本的には蛹化が始まった場合のみ作動させる。操作盤には受話器がついており、各収容室のスピーカーフォンと通話することができる。

 蛹化が始まると、職員はその収容者の部屋にはいっさい立ち入らない。食事の配膳も停止される。蛹になるまでには七日かかるが、その間に餓死することはない。水も食事も摂らず、感染者は蛹へ変態していく。

 画面の中の滝縞はベッドへ仰向けに寝たまま茫然と天井を見上げていた。うつろな瞳は何も映していないように見える。蛹化は性器を起点として全身に広がる。今朝方から始まったと仮定すると、いまはペニスや睾丸の範囲の範囲が硬化しているだろう。同級生だが、結局何も話さなかった。もちろん担当者以外は基本的に収容者への部屋へ入室しないため、言葉を交わす機会を得られない。だが、不可能なことではなかった。たとえば、同級生である事実を同僚に話して便宜を図ってもらうことはできる。しかし、そこまでして冬子は滝縞とコンタクトを取りたいとは思わなかった。冬子は彼のことを忘れていたし、それは向こうも同じだろう。つまりは赤の他人だ。

 滝縞の蛹化は静かに進んでいった。感染者によっては蛹化の間に発狂して叫び続ける者もいる。しかし、滝縞は終始意識を失ったかのように天井を見つめていた。性器から始まった蛹化は腰へ広がり、腹や足へ侵食する。皮膚が黒く硬化するとともに隆起するため、着ている服は徐々に裂け、破れる。二本の足は開いていようとも自然と癒着してしまう。三日目には腹部や膝のあたりまで硬化する。

 五日目には脚全体および鎖骨のあたりまでが黒く硬い皮で覆われ、腕も胴と同化する。ほとんどミイラのような様相になり、首から上の部分のみが人間の状態を保っている。その頃になっても意識はまだ、ある。滝縞も真っ青な顔をして、目をキョロキョロとさせていた。口を動かして何かを叫んでいる。口の端からはよだれが溢れている。冬子が操作盤の受話器をとると、救済を求める言葉が耳へ飛び込んでくる。言葉は受話器から鼓膜へ、そして脳梁へ荒々しく貼り付けられて剥がれない。助命を請う言葉の合間に、謝罪が混じる。自らがとった行いの謝罪ではない。ただただその言葉だけを口から発する。それはもはや意味のない音でしかない。

 六日目、首から頸部、そして頭部への侵食が始まる。後頭部から徐々に硬化し、肩の部分と頭頂部が繋がることによって首がなくなる。この時点で顔面はまだ人間のままだ。六日目の遅い時間になると感染者の息が荒くなってくる。自ら意識を手放す者もいるが、平静を保とうとすればまだ会話をすることも可能だ。蛹となった体の内部ではメタモルフォーゼが始まっている。殻を裂けば膠状の細胞質が溢れ出るが、感染者自身に体内変化の感覚はない。首から下の神経は死に、首から上だけで理解する五感と思考力のみがある。

 七日目、徐々に顔の中心部も硬化する。眉、目、鼻。目が皮で覆われれば視力を失い、鼻が覆われれば嗅覚を失う。残るは口だけ。息をしている口だけが、まだ感染者が人間であったことの名残だった。赤い唇の周りを黒くて硬い皮が覆う。息が荒い。もはやよだれも出ていない。乾ききった口で感染者は最後の呼吸をしている。カメラの映像を拡大し、口の中を覗けばその中もまだ赤い。胴体ではメタモルフォーゼが進行中にも関わらず、つまり肺が溶けているにも関わらず、感染者は口だけになっても呼吸している。

 七日目の夜更け、終電間近の時間になって滝縞の口は黒く覆われた。冬子はそれを見届けて帰宅した。このあと、滝縞の顔だった部分はさらに隆起し、夜が明ける頃には蛹化が完成する。

 翌朝、始業開始と同時に蛹化した滝縞の移動作業が始まった。警備部が作業を実施し、臨床部は関わらない。回診に行く前に監視カメラ映像を見上げると、警備部の職員4人がかりで蛹を特製の台車に載せているところだった。このあと、蛹は水槽に放置される。冬子と朽木が回診から帰ってきたとき、操作盤を誰かが操作したのか、テレビの画面は消えていた。冬子はデスクの引き出しからセンター内専用のタブレット端末を出し、監視カメラ映像にアクセスした。収容者のリアルタイム映像を個別に観察することができる専用端末である。滝縞が移動された水槽のカメラ映像を選択する。水槽の中央におかれた蛹は微動だにしていない。ここから七日間、映像はこのままだ。それはわかりきっているが、冬子はデスクの空いているスペースに専用端末をおき、映像を流しっぱなしにした。

 滝縞の蛹化が完成して七日目の朝だった。回診へ行く直前に朽木のデスクの固定電話が鳴った。朽木はすでに席を立って部屋を出ようとしていたため、冬子が電話をとった。相手は電話交換の女性職員だった。

 ――「朽木先生宛てに、ナントカってNPO? NGO? の男性から電話なんですけど」

「その男性のお名前は?」

 ――「ヤツホシって言ってます」

 冬子は電話を保留にして朽木を呼び止めた。

「ヤツホシという男性から、朽木先生にお電話だそうです。NPOとか、NGOとか言っているみたいで」言いながら、冬子は過日出勤前に出会った蛇女から聞いた話を思い出す。「朽木先生について調べているNPOがあるらしいって、わたし、前きいたんですけど、もしかしたら」

 朽木は面倒そうな表情を隠さず、しかしおとなしく冬子から受話器を受け取った。保留ボタンをオフにして、電話交換に「つないでください」と指示を出す。

「変身症研究センター臨床部の朽木です。どちらさまですか」

 相手は一方的に話しているようだった。朽木は「ああ」とか「はあ」とか相槌を打つばかりである。

「いや、俺はいま忙しいので、これ以上は――ええ、では」

 五分程話して朽木は受話器をおいた。なんの話だったのか冬子にはほとんどわからなかったが、電話の相手は朽木の知己だったらしい。

「朽木先生。回診、行きますか」

「ん、ああ」

 電話をおいた後、物思いに耽っているような朽木に声をかけると彼は珍しく動揺したように返事をした。

「電話、大丈夫でしたか」

 廊下を歩きながら聞くと、朽木は「うん、林野さんが言っていたNPOのやつだった」と簡単に明かす。

「ワールドホープ」

「そこの代表が、昔の知り合いだった」

「むかし、ですか」

「子どもの頃の知り合いだ。懐かしくて電話してきたらしいが、俺はなんとも、忘れていたからな」

 口振りに反して、忘れていたような雰囲気ではない。むしろ思い出したくもないとでも言いたげに口を歪ませている。

「同級生ですか」

「似たようなもんだよ」

収容フロア直結のエレベーターに乗り込む。

「相手は、朽木先生がここに勤めていることを知っていたんですか」

「いや――……最近になって知ったらしい」

 エレベーターがフロアに着く。職員カードと虹彩の認証を済ませ、準備室に入室する。防護服を着ながら、「肖像真心子の件のとき」と朽木は話す。

「池に集まっていた野次馬のなかにNPOの職員がいて、そいつが動画撮影をしていたらしい。そこに映り込んでいた俺ときみを見つけた」

「わたしも」

「きみが俺のことを『朽木先生』と呼んでいる声も動画に記録されていたらしい。それで、突き止められた」

「……すみません」

「謝ることじゃない。俺としては、会いたくなかった奴からの連絡があっただけのこと。あとで、電話交換には二度と電話を取り次がないように言っておく」

 互いに防護服の背面チャックを閉め、チェックを済ませる。いつもは凪ぐままの朽木の周りの空気が、少し波立っているように冬子は感じた。


「なんか、アソコの感じが変なんだけど」

 麻葉砥誉泉から発言があったとき、冬子と朽木は思わず顔を見合わせた。まさか、と冬子は考えていることを顔に出してしまうが、防護服に隠れているため麻葉からはよく見えない。そもそも、今日の回診時、珍しく麻葉はトレーニングをせずパジャマのままベッドに横たわっていた。特に顔色が悪いわけでもなく、バイタルに変調もない。どういう心境の変化か朽木が問うたところでの、先ほどの発言だった。

「あそことは」

「えーと、性器?」

「失礼ですが、拝見してもよろしいですか」

 朽木が訊くと、麻葉は「いいよー」とフランクに言って臆することなく下半身をあらわにした。朽木は彼女の膝を立てさせ、そのまま足を開かせる。数秒見て、すぐに「いいですよ」と麻葉の下半身に掛け布団をかけた。その動作は非常に事務的だった。

「朽木先生、これって、もしかして?」

「ええ、蛹化――蛹になる段階が、始まっています。あと一週間後には、あなたは蛹となります」

麻葉は朽木から視線を外し、「そう」とだけつぶやいた。

「麻葉さん、蛹化のタイミングからして、あなたは十年前に感染したことになります。十年前、感染した心当たりはありませんか。思い出してください。あなたが思い出すことで、次の感染が防げるかもしれません」

 麻葉は笑った。すべてを諦めたかのような笑い方だった。

「大丈夫よ。だって、わたしに感染させた奴はもう、とっくに収容されてるんだもの」

 冬子は耳を疑った。麻葉砥誉泉の感染元が以前に収容されている場合、その時点で麻葉も検査されていて然るべきである。だが、麻葉の感染は美容整形外科での発覚だった。それに、収容されて以降、麻葉は感染元に心当たりはないことを強く主張していた。

「わたしが学生の頃、留学してたって前に話したでしょ? そのとき、留学先の学校で知り合った日本人留学生とつきあってたの。そいつのほうがわたしより一足早く帰国したあと、ぜんぜん連絡取れなくなっちゃって。わたしも半年後に帰国して、彼の大学まで行ったりしたけど会えないし、彼の知り合いも見つからないしで、そのままになって。わたしはあきらめた。でもあきらめきれなくて、たまに彼の名前をインターネットで検索してたの。ぜんぜん引っかからなかったけど。そうこうしている間に就職して、結婚して、でも検索は続けて。二十九歳のときに、初めて彼の名前が検索結果に表示された。それは厚労省の特殊ナントカってやつのページで、彼が変身症に感染していることがわかったから収容されたって内容だった。そこに彼の経歴が書いてあって、それはほとんどわたしが知らない彼で。そのページには、関係した人には特殊ナントカから連絡するから検査に応じるようにって書いてあったから、いずれわたしのところにも連絡がくるのかなって思っていたけど、いつまでも来なかった。それで気づいたの。きっと彼は、わたしのことを特殊ナントカに話さなかった。隠したんじゃなくて、忘れていたんだと思う。わたしなんて、彼にとっては付き合った女の数に入っていなかった。病気から守るべき人の数に入っていなかった。ふざけんなと思って、それ以来、彼の名前の検索はやめた」

「厳しいことを申し上げますが、あなたには、その時点でUNGウイルスの検査を受けてほしかった」

「これから死ぬ人間に説教するの? 先生も人が悪いわ」

「あなたはここに収容されてからずっと、配偶者の方にはめられたとか、陰謀とか、ありもしないことをお話しされていました。あなたは妄言を吐くことによって、配偶者の方を傷つけていた」

「だって、悔しいじゃない。わたしはもう死ぬのに、夫はこれからも生きるのよ」

「夫である方を、嫌っていたのですか」

「好きよ」麻葉は即答した。「好きだから憎い。わたしがこんなに好きなのに、あいつはわたしに会いにこないまま、わたしを放ったらかして生き続ける。わたしがこんなに好きなのに、一緒に死んでくれない。だから、憎い」

 そうですか、と朽木は言った。感染元となった男性の名前を訊くと、「そんなの忘れた」と麻葉は言って大袈裟に笑った。きっと忘れてはいないのだろうが、聞き出せそうもなかった。

「麻葉さん、俺と林野は、もうあなたとお会いできません。なにかおっしゃりたいことはありますか」

「ない」その声は冴え冴えとしていた。「感染者を食い物にしている人たちに言うことなんて、かけらもない」

 はっきりと言った麻葉は朽木がかけた布団を床に投げ落とし、来ていた上半身のパジャマや下着も脱ぎ捨てて仰向けに横たわった。きれいな体だな、と冬子はその裸体を見つめた。

「病気ひとつ治せないくせに人間をこんなところに閉じ込めて世界を守っているつもりの偽善者。所詮あなたたちにとっては他人事でしょ。わたしは、わたしが愛していた男のだれかに、いま、目の前にいてほしかった。わたしの体を見てほしかった。あんたたちに用はない」

 朽木は「わかりました。今まで、ありがとうございました」と頭を下げた。冬子も朽木に倣う。二人が退室する間際、麻葉は叫ぶように泣き始めた。あまりにも唐突だったが、朽木も冬子もそのまま部屋を出た。

「林野さん、気にするな」

「いまさらです」冬子はつかえそうになる胸を深呼吸して落ち着かせる。「それより、村名賀部長の実験が」

「うん」朽木はうなずいた。「滝縞吉信と麻葉砥誉泉で、交配実験を実施することになる」

 冬子はやるせなさを感じながら麻葉の部屋のドアを見つめた。他人事でしょ、の一言が胸の内へずしりと残る。


 滝縞の成虫化は昼過ぎから始まった。昼食のおにぎりをかじっていた冬子は、タブレット端末の画面に映し出される蛹の微動を認めるやいなや、朽木に離席の許可を求めた。朽木は冬子の端末の画面を覗き、「俺も行く」と言った。驚いた冬子が思わず理由を問うと「ここにいても落ち着かない」と答えが帰ってくる。

 二人が地下二階に着いた頃、滝縞だった蛹はすでに頭部の先端が割れていた。滝縞が入れられている水槽は十室あるうちの真ん中だった。

 蛹の滝縞は全身が小刻みに動いていた。やがて先端の亀裂は大きくなり、二本の触覚がクチクラの中から現れる。めきっ、と音がして亀裂は一気に腹部にまで及んだ。蛹は大きく左右に揺れ、先端から虫が顔を覗かせる。ゆっくりと虫は蛹の殻を脱ぎ捨て、その全容を現した。ここまでで三十分ほどである。

 成虫化したばかりの虫は、肛門から茶色の液体を殻にぶちまける。蛹のあいだに体内に溜まった老廃物だ。それを出し終えると、虫は方向転換し、汚染された殻の端を口にくわえる。虫はためらうことなく殻を食う。その勢いは凄まじく、十分ほどで自身を守っていた殻をたいらげてしまう。

 虫となって再誕生後の初めての食事を終えると、虫は水槽内を縦横無尽に動き回る。まるで今まで生まれ育った自分の部屋であるかのように、水槽内を移動する。移動するたびに紫色の毒液を腹から分泌している。

 冬子も朽木も、一連の状況を黙って見つめていた。人間だった者が巨大な毒虫になる。これまで何例も見てきたが、見慣れることなどあるのだろうか。ないだろう、と冬子は思う。慣れてはいけないと、思う。

 滝縞吉信だった虫は、冬子たちにその腹を見せてガラス面を天井に向かって登る。やがて天井に到ることなく床へ落ち、紫色の毒液を体から撒き散らす。

「この人と、麻葉さんが交配するんですね」

「村名賀先生に麻葉砥誉泉の蛹化を報告したら、あからさまに喜ぶことはなかったものの、鼻息が少し荒くなった。こんなにも早く実験を開始できるとは思っていなかったらしい」

「それは誰もが思っていたことでしょう。タイミングが噛み合わなければ、永遠に実現しない実験になったかもしれないのに」

「成虫化した彼らに、人間としての意識が残っていないことがせめてもの救いだ」

 冬子は同調した。うなずきながらも、わきあがる嫌悪感をやりすごすことはできない。自分だったら、と思う。自分だったら絶対に嫌だ。以前、朽木は冬子が蛹化する前に殺すと言ったが、朽木が自分を殺すことによって新たな罪を抱えることは避けたい。となれば、自死しかないのだろうか。しかし、決心に躊躇してしまう自分がいる。ここへとどまることへの欲求が、地面から手を伸ばして自分の足首をつかんでいる。

 虫はガラス面を這い上がることが面白くなったようだった。何度も挑戦しては床に落ちることを繰り返している。冬子と朽木はどちらからともなく部屋へ戻ることを提案し、滝縞のもとを後にした。


 麻葉は静かに蛹化していった。初日から終始まぶたも口も閉じ、眠っているかのように見えた。蛹化の途中で眠る感染者はおらず、おそらく麻葉も同様かと思われたが、少なくとも映像で観察している間に表情が動くこともなかった。

 八日目、冬子は防護服を着て完全に蛹化した麻葉を見下ろしていた。初めて、蛹を間近に見た。周囲には同じく防護服を着用した村名賀、朽木、長門がいる。皆、一様に緊張していた。

 水槽で動いていた滝縞の方は、すでに麻酔薬を噴霧して眠らせてある。麻酔の量は村名賀が計算し、死なない程度の量、人間で言えば全身麻酔の状態にしている。前日、麻酔薬の具体的な量を朽木に訊くと、「人間の全身麻酔の量が一なら、その百倍」と答えが返ってきた。相当な高額なのではないかと問うと、その費用も危険手当同様センター長付の研究費から出ているのだと言う。

「始める」

 村名賀が声をかける。朽木が前、長門が後ろを抱え、村名賀と冬子が両側からフォローし、ベッドサイドにおいた蛹運搬用の台車に載せる。その後、運搬中に台車から蛹が落下しないよう、長門が手際良くロープで蛹を固定した。

 ゆっくりとした速度で台車を発進させる。麻葉の部屋を出て、地下二階に直通のエレベーターへ乗り込む。蛹の硬いクチクラに手を添えて、冬子は何もできない自分に嫌悪する。愛する人から見捨てられた麻葉と他人を番わせることを無念に思う。

 地下二階に着き、エレベーター内で全員の虹彩認証を行うと扉が開く。水槽の裏側の通路が目の前に伸びている。普段は照明が落とされているが、作業時は眩しいほどに照らされている。滝縞が入っている水槽は手前から五番目だった。その前まで来て、村名賀が扉に取り付けられた認証キーにパスワードを入力する。その後、全員分の虹彩認証をし、扉の鍵が開く。水槽までの扉は二重になっている。一つ目の扉のノブをまわすと、小さな小部屋へ入ることとなる。全員が入室した後、背後の扉を閉め、長門が蛹にまいたロープを外す。そして、二番目の扉に対して同じ認証を繰り返す。

「行くぞ」

 村名賀が扉のノブに手をかける。一瞬、躊躇したかに見えたが、すぐにそのノブは回された。空いた瞬間、冬子は自分の動機が激しくなっていることに気づいた。

 水槽内は噴霧された麻酔によって、薄く霧がかっていた。事前の打ち合わせで、麻酔を吸い込まないように素早く運搬するようにと指示があったことを思い出す。

 滝縞は水槽の真ん中で眠っていた。ほんの五メートルほど先に、手がとどく範囲に、虫がいる。虫はこちらに頭を向けていた。冬子は呆けたように虫の目を凝視してしまった。朽木に「おい」と小声で注意され、慌てて虫から目をそらした。

 せーの、の掛け声で台車から蛹を持ち上げ、水槽の中に運び入れる。必要以上に中には入らず、扉の目の前に優しくおき、後ずさりするようにして退出する。その間、わずか十秒ほどだった。全員が水槽から出たことを確認し、村名賀は扉を閉めた。

 扉がロックされた音が聞こえた瞬間、冬子は息を吐き出した。長門も、朽木も、村名賀でさえ同様だった。全員、蛹を持ち上げた瞬間から息を殺していた。動悸はいまだおさまらず、冷や汗がひどく染みている。

 朽木が村名賀を促した。二番目の扉は、中からの解錠にもパスワードと虹彩認証が必要である。村名賀は、無言でパスワードを入力し、自らの目をスキャナにかざす。全員が認証し終え、ようやく扉は開かれた。

 足早にエレベーターへ乗り込み、五階に到着後、準備室内でようやく防護服を脱衣する。四人とも、額から汗を流し、その顔は青ざめていた。

「ありがとう」

 ユニフォーム姿の村名賀が床にあぐらをかき、三人の部下に対して頭を垂れた。冬子たちはその頭頂部を見ても、何も言えない。安全な場所に来てあらためて思う。怖かった。虫が起きたらと思うとどうしようもなく怖かった。生死がかかっていた。虫を間近に見て、恐怖に殴られたような気がした。

「部長、俺はもう、二度とできません」

 そう言った長門の手は、震えていた。

「俺には、家族がいます。死にたくはない」

 変身症研究センターで働く以上、感染のリスクはゼロではない。しかし、何重にも施された対策によってリスクは限りなくゼロにされていた。生きている虫の水槽に立ち入る作業は、そのリスクが何倍にも跳ね上がる。

「わかった」

 村名賀は頭を上げた。

「今後、同じ作業をすることがあれば、長門さんには頼まないこととする」

 下唇を噛む長門の顔は、その言葉が欲しいのではないことを物語っていた。交配実験そのものに反対であり、実験を中止してほしいという願いが透けている。それは冬子も同様だった。災いを前にして額づいているままの人間よりも行動している自分たちはずっと正しいはずにも関わらず、ただただ、悔しさが胸にあふれていた。


 半日後には滝縞は完全に覚醒していた。天井から投げ込まれる鶏肉も旺盛にたいらげている。部内にあるテレビ画面では、日がな滝縞と麻葉の水槽の映像を映し続けていた。滝縞である虫は、麻葉の蛹には近寄ろうとしない。餌と間違えて食うことも懸念されていたが、その心配はないようだった。同じ種だと認識しているのか? それとも危険な何かだと判断しているだけなのか? 理由は不明だが、麻葉を害さないことに村名賀は安堵を吐露していた。

 麻葉が完全に蛹化して七日目、とうとうその蛹の頭部が割れた。それは昼過ぎのことで、村名賀と朽木は連れ立って地下二階へ行った。冬子は逡巡し、しかし少し遅れて追いかけた。見届けなければいけないような気がした。

 冬子が地下二階に着いた時、すでに麻葉は半身を蛹から出していた。滝縞は水槽の反対側でもぞもぞと動いており、麻葉に対するアクションは何もない。メスである麻葉に触覚はなく、滝縞よりひとまわり小さい体を左右にゆすりながら殻から這い出ている。村名賀も朽木も固唾をのんで見守っていた。

 ようやく麻葉がその全身を見せると、すべての虫と同じように肛門から殻に向かって老廃物を出す。排泄が終わると、その殻を食べ始めた。滝縞はその動作を邪魔しようとはしない。麻葉が成虫化して最初の食事を終えると、滝縞の触覚が左右に動いた。

 少しずつ、距離を測るようにして滝縞は麻葉に近づく。麻葉は反応を示さず、むしろ無関心な素振りで辺りをゆっくりと動いている。滝縞の触覚が麻葉の側面に触れる。麻葉の動きが止まる。触覚がさらに触れる。細い触覚が、甲殻を何度も撫でる。やがて、麻葉は体を方向転換し、滝縞に対して胴を持ち上げた。

 滝縞も同様に、麻葉に対して胸を見せた。そのまま二匹の虫は抱くようにして胸部を相手に押し付ける。それは交尾だった。三人の人間に、いや、監視カメラごしに見ている職員も多くいるだろう、その人々に見守られながら巨大な毒虫は世界で初めての交尾を行っている。

 冬子は額から頬へ伝う冷たい汗を拭う余裕もなく、しかし目を背けることもできないまま、虫と虫が交わる様を見つめていた。虫の交尾は、人間のカップルの抱擁と酷似していた。短い足で相手の胴体を支え、受け止めている。

 しかしそれは、あくまでも交尾。機動的に仕組まれた挙動のはずだ。

 生殖器を擦り合わせるたび、ゴムを擦るような音が聞こえる。不快感をあおるように、音は鳴る。

 数分して、メスはゆっくりとオスから離れた。オスは交尾後の相手に何の感傷も見せず、そそくさと遠のき、水槽のガラスにへばりついて上へ登り始めた。その速さが通常より早く、足も忙しなく動かしていることに冬子は違和感を覚えた。まるで、何かから逃げているような。敵から逃げる、被食者のような。

 敵は、なんだ?

 ガラスの真ん中より少し上まで這い上ったところで、力尽きたのかオスは背中から床へ落ちた。

 紫色の毒液が床へじんわりと広がる。オスは細かい足をみだりに動かし、胴体の筋肉を使ってなんとか天地を戻す。そのオスのすぐ近くに、メスがいた。

 メスは少しずつオスに近づいていた。オスが床へ落ちた時に若干おののくような素振りを見せたが、離れることはしなかった。オスが足を動かし、胴を前後に揺らして必死に姿勢を戻そうとしている間もゆっくりと近づいていた。

 オスが音を立て、うつ伏せに戻った数秒後だった。

 メスがオスの上に乗った。オスに対して真横から体を乗せた姿は、オスの動作を押さえつける意図すら感じさせた。オスは嫌がるように体を揺すったが、メスは離れない。それどころか、口元をオスの背中に寄せた。

 なにをするのか、と冬子が思ったのも束の間、メスはオスの背中の甲殻に歯を立てた。その後、ビルの解体現場で重機が鉄骨を無理やり引き剥がすときのような、重く激しい破壊的な音が空間を、揺らす。

 オスは断末魔の声を上げた。メスはオスの甲殻を皮膚から剥ぎ取り、躊躇することなく中の肉に貪りついた。床一面に毒液が広く流れ出る。オスの足が闇雲に動くが、全身で暴れる力はすでに封じられていた。

 メスは荒々しくも確実に甲殻を剥ぎ取る。むきだしになった肉は、赤紫色で弾力があった。鶏胸肉のような肉を、メスはオスから滲む体液を撒き散らしながら食む。オスは背中をのけぞらせる。メスは冷静にオスの頭蓋部に噛み付く。短い悲鳴のあと、オスは体を痙攣させながら抵抗をやめる。オスの足はまだ鈍く動いている。メスは甲殻を剥ぐ。メスはオスの肉を食う。内臓が引き出される。どこの臓器かわからない。赤黒く粘液をまとった内臓が溶岩のように垂れ落ちる。メスはオスの体に乗ったまま、床へ落ちた内臓を吸う。じゅる、と大きな音がする。

 冬子は息ができなかった。自分が何を見ているのか、理解できていても受け入れることができなかった。交尾をしたばかりの相手を食う。通常の虫でも、種によっては同じ行動をする。たとえば、カマキリ。しかし、目の前で繰り広げられてる虫の行為には、生命をつなぐ行為に感じる儚さとは無縁の、おぞましさ、忌まわしさのほうが強い。これが自然の摂理だと言うには、あまりにも地獄のような、いや、地獄からも見限られたこの世の果ての光景だった。

 不意に、村名賀が一歩を踏み出した。ゆっくりと、一歩、少しずつ、水槽に近づいていく。メスは水槽の外など構わずオスを食う。もはやオスは足も動かさなくなっていた。傍目にもそれは絶命していた。メスは動かなくなった足の数本をまとめて口に入れ、酒のつまみでも食うかのように咀嚼する。村名賀は水槽に近づく。これ以上距離がないところまで歩くと、手のひらと顔をべったりとガラスにつけた。

 冬子が隣の朽木を見ると、彼はひどく青ざめた顔をしていた。その腕は大きく震え、指先が背後の壁を叩き、爪が小さな音をたてていた。冬子はとっさにその腕に抱きついた。朽木の皮膚は血の気がなく、冷たかった。朽木は一瞬驚いたように手を引っ込めようとしたが、抱きついてきた相手が冬子だとわかるとなすがままにされた。冬子がその腕を抱いた後も震えは止まっていなかった。いつも冷静な朽木がこのような反応を示すことに冬子は驚いたが、何も言わずに彼の腕を抱き寄せ、震えそうになる自身を抑えた。

 メスは肉を食べ飽きたのか、動かなくなったオスの上から下り、床に剥ぎ散らかした甲殻をくわえ、堅い煎餅を食べるかのように齧っていった。齧ったときにこぼれたカスも、目敏く見つけて口へ入れる。床の甲殻がなくなると、またオスの体にかぶりつく。

 一時間ほど経っただろうか。メスはあとかたもなくオスを食べ終えた。オスが体から出した毒液まできれいに舐めつくした。自分自身よりも大きなオスを、いとも簡単に自分の中に収めて消した。メスは少しのあいだ気怠げに床へ寝そべっていたが、さも「運動しなきゃ」と言わんばかりにゆっくりと体を動かし、水槽の中を歩き始めた。

 朽木の震えは止まらず、村名賀は水槽にはりついたままだった。冬子は朽木の腕を引いた。反応がなかった。顔を見上げると、彼は空虚な瞳で水槽を見つめていた。もう一度強く腕を引く。朽木はようやく冬子を見た。小声で「出ましょう」と言うと、彼は弱々しくうなずいた。

 冬子が朽木の手を引きながら水槽室を出た。自動ドアが開いたそこには、いま来たばかりの様子の安瀬センター長がいた。監視カメラの映像で見ていたのだろう、顔はひどく青ざめ、強張っていた。

 冬子は何も言わず、会釈だけして安瀬の横を通り過ぎた。一瞬、朽木が安瀬を振り返ろうとしたが、冬子は腕を強く引いて歩みを止めなかった。

 エレベーターに乗ったあと、全身から脂汗が滲んでいることに気づく。静寂がしずむエレベーターに正気を引き戻された瞬間、我に返り朽木の腕を離した。朽木はまだ、小さく震えたままだった。


 デスクに戻ると、冬子は特殊感染症管理局のデータベースにアクセスし、滝縞吉信の自宅住所を頭に叩き込んだ。家の近所だから、場所はあらかたわかる。午後の仕事は淡々とこなした。部内の空気もどこか重苦しかった。話を聞けば、皆、水槽の中の出来事を映像で見ていたらしい。

 冬子と朽木が戻ってから数十分後、村名賀が部長室へ戻る。朽木と鼓、長門はそろって部長室のドアを叩いた。滝縞吉信が死んだことを、家族に伝えなければならない。通常はいちいち部長伺いなどしないが、村名賀の実験による死亡であるため、誰がどのように伝えるか打ち合わせが必要だった。部長室で話し合われた内容を冬子は知る由もないが、戻って来た朽木からは村名賀が連絡することになったと聞いた。その後、村名賀から滝縞の担当であった鼓に対して「滝縞の父親に伝えたが、電話を途中できられた」と報告があった。朽木はそれを背中で聞くと、「少し休む」と言ってふらりと離席してしまった。

 夕方になり、パートタイマーのメンバーは退勤時間を迎えるなりそそくさと帰宅した。長門も冬子に対して配慮の声をかけるが、彼自身の表情も暗い。

「朽木先生は、どこに行ったんでしょう」

 自分の退勤時間になって冬子が長門に言うと、チーフは「探しに行く?」と反問したが冬子は首を振った。朽木の手の震えが、まだ自分の皮膚に残っている。いま、センター内を捜索して見つけたところで互いの感情を癒すことなどできないと思ったし、今までだってそのようなことはしてこなかった。冬子も長門も、早々に仕事を切り上げて誰もいなくなった部室を後にした。


 十月に入ると日没がより早くなる。自宅の最寄駅に着いた時には、あたりはだいぶ薄暗くなっていた。普段は駅からまっすぐ帰宅するが、今日は滝縞吉信の実家を目指した。彼の家に行って何かをしようとか、家人に何かを言おうとか企図したわけではなかった。ただ、いてもたってもいられなかっただけだ。

 迷うことなく、その家にたどり着いた。住所を把握していたこともあるが、家に近づく少し手前から、その家だけが異様な雰囲気を醸し出していることが迷わなかった大きな理由だった。

 その家は二階建ての、一般的な住宅だった。そこへ住む者が穏やかに過ごすべき住宅の、塀や外壁にはスプレー缶を使った落書きが無数にあった。中傷の罵詈雑言、卑猥な言葉やイラストが、何色ものスプレーを使用して描かれていた。家の外壁には不法侵入して描いたのだろう、その落書きは二階にまで及んでいる。生垣にはゴミが引っかかっており、油っぽい腐臭を漂わせていた。

 その家の前に、一台の黒いミニバンが停車していた。光沢感のあるボディの車が落書きまみれの家の前に停まっていることに違和感を拭えない。家をちらりと見ただけですぐに立ち去ればいいとわかっていながら、冬子はその場から離れられずにいた。滝縞家にしてみれば第三者による悪意の渦が、自分とは無関係と思えなかった。

 冬子が滝縞家の前に着いて数分した頃だろうか、不意にその家屋の玄関が開いた。中からは黒いスーツの若い男が二人、その後から中年の男女が背中を丸めるようにして出てきた。その男女が滝縞夫妻であることは一目瞭然だった。二人ともひどく白髪が混じった髪を乱れさせたまま、表情は暗く疲労を隠さない。手にはそれぞれ旅行鞄とスーツケースを携えていた。

 黒いスーツの男の一人がミニバンを開け、車内へ夫婦を誘った。滝縞夫妻はしおれた体を車の中に入れる。黒スーツの一人が運転席に乗り込み、もう一人は車外を回って助手席に乗り込もうとした。そのとき、冬子はその男と目があった。

 冬子よりは年上であったが、若々しく見える男は冬子を見るなり目を丸くし、すぐにその顔に微笑を浮かべた。冬子が警戒していると、彼は開けた助手席のドアを閉じ、こちらに近寄ってくる。

「離苦と一緒にいた方ですね」

 人好きのする笑みを浮かべた男は、冬子が何か言う間もなく胸ポケットから名刺を出した。そこには「NPO法人ワールドホープ 代表 八星救輪廻」とあった。漢字の横に「Yatsuhoshi Kurie」と書かれている。

「あ……」

 朽木に電話をかけてきた人物。八星救輪廻という突拍子もない名前は似つかわしくないほど普通の好青年だった。冬子は反射的に名刺を受け取ってしまった。八星はにこりと笑って小首をかしげる。

「どうしてここにいらしたのですか」

「いえ……たまたま」

 自宅の近くであることや、わざわざ住所を調べて来たことなど言わない方がいいととっさに判断した。「たまたま前を通ったら、ひどい有様だったので」

「そうですか」八星は、冬子の苦しい言い訳を気にする様子を見せなかった。「ご存知ですか、ここの御子息は、変身症に感染し、虫になって、今日お亡くなりになったそうです」

 冬子は知っているとも知らないとも答えなかった。好青年は構うことなく喋る。その話し方は、どこか棒読みのような、感情が伴っていないように感じられた。

「ご両親が憔悴しきっていたので、わたしたちが保護します」

「保護」

「ええ。わたしたちは、変身症によって差別された人々を救うために活動しています」

 冬子は男の肩越しにミニバンの中を見た。窓に貼られた遮光シートによってはっきりとは見えないが、後部座席に乗った夫妻が、活力のない表情でこちらを見ている。

「ひどいでしょう、このありさま。変身症は、感染した当人だけではなく周囲も変えます。感染してから発症するまで時が必要な変身症に比べて、周囲は一瞬にしてメタモルフォーゼしてしまうんですよ」

「ご両親は、どこかへ連れて行かれるんですか」

「わたしたちの保護施設に。行政は感染者の家族を守ってはくれませんから、わたしたちのような民間の団体の力が必要なのです」

 ああ、そうだ。冬子は罪悪感をあらためて覚えた。自分たちは感染者を収容し、社会から感染者を、感染者から社会を保護するが、その家族に対するケアはいっさいしない。その後の家族の行状に、積極性を持って関知しようとはしない。

「あなたは、離苦の同僚ですか」

 やはり冬子は答えない。八星救輪廻は、無答を特に気にする風でもなかった。

「わたしたちは、あなたがたとは異なるアプローチで、人類を変身症から救うための取り組みをしています。もしも、わたしたちの活動にご興味をお持ちいただけたら、いつでもご連絡ください」

 八星は軽く会釈してミニバンの助手席に戻っていった。ミニバンにエンジンがかかり、車はすぐに発進する。

 冬子は手のひらに残った名刺と、遠ざかる車を交互に見た。奇妙なざわめきが、自分の中へ置き去りにされたような気がした。


 何事もない日々が過ぎていった。麻葉だったメスの虫は普通の虫と同様に水槽を動き回って過ごしていた。抗がん剤治療を始めた巴は副作用がでることもなく、順調に治療を進めていった。センターの収容フロアの空室は合計三室だった。雪持が自死し、滝縞と麻葉が蛹化した後の収容者はない。一度に三室もの空室の発生は滅多にないことである。空室が発生してもすぐに次の感染者を収容することが多く、満室が常であった。空室のうち二室は朽木と冬子の担当であり、回診時間もその分短縮されていた。

 冬子は滝縞家の前で八星に会った翌朝、そのことを朽木に報告し、渡された名刺を見せた。朽木は意識をまどろみにおいてきたような顔で名刺を一瞥すると「そう」とだけ言った。それだけだった。

 冬子は八星の名刺を、机の一番上の引き出しの文房具を入れているスペースに入れた。簡単に捨てることは気が引けたが、仕事関係で得たそのほかの名刺と共に名刺ホルダーへ収納することも憚られた。八星救輪廻の笑みと喋り方を記憶に反芻するたび、言いようのない居心地の悪さが襲ってくる。

 十月半ばを過ぎてから、職場に久しぶりの慌ただしさが生じた。朝から部室内でショートミーティングが開かれた。三名の収容者が、午後に搬送されてくると司会の長門は説明した。三室の空室が続いたことも珍しかったが、一度に三名の収容というのも前代未聞だった。

「二名が女性、一名が男性です」

 長門が三人の名前と年齢をホワイトボードに書き殴る。


 ゼロイチ

 ゼロニ

 カワマエタロウ


 書かれた片仮名の文字列を見て、皆が呆気にとられる。記載した長門自身も、嘆息しながら説明した。

「本名がわかっていないそうです。ゼロイチ、ゼロニは新宿の新星病院から、カワマエタロウは渋谷の川前病院からです。ゼロイチは二十代女性、ゼロニは四十代女性、タロウは三十代男性。年代は推定です。また、それぞれの名前は、各病院で用いられていた仮称です。今後、VRCでも同じ仮称を使用します。三人とも、約二ヶ月ほど前に急性腎不全で各病院に緊急入院し、院内の検査設備を使用して感染が判明しました。全員、腎不全は現在寛解しており、当センターにおいて加療の必要はないと判断されています」

 確かに、八月二十日ごろに身元不明の男女が路上で救助され、搬送先の病院でUNGウイルス感染が判明した事象が特殊感染症管理局のネットワークに掲載されていた。しかし、それから二ヶ月も未だ身元不明であり続けていることに、みなが首をかしげる。

「三人は、同じ病気にかかる、なにか共通することはあったんですか」

 鼓が質問するが、長門は「全員がなにも喋っていないそうです」と即答した。

「本名、年齢、職業。どこでなにをしていたのか、どこで暮らしていたのか、なにもわかっていません」

「感染のきっかけは」朽木が問う。

「わからないそうです。全員が。三人とも、感染がわかってから数週間、各病院で腎不全の治療にあたっていました。ゼロイチは502号室、ゼロニは508号室、タロウは516室に収容します。朽木班の負担が大きくなりますが、よろしいですか」

 朽木は黙ってうなずいた。冬子も従うしかない。腎不全の治療が終わっていたことは幸いだった。収容施設には治療設備がないことを考慮して管理局の監視のもと入院先の医療機関での治療が優先されたのだろう。寛解状態ならば安静にするよう注意する必要はあるが、命に関わる事態には陥らない。

 その後、収容作業にあたっての役割分担がなされた。三人一度に収容するため、村名賀をのぞく臨床部員全員で作業に臨む。管理局も、増員してやってくるようだ。

「なんだか気味の悪い三名ですね」

 ミーティングが終わった後で冬子は朽木につぶやいた。朽木も難しそうな顔をする。

「急性腎不全。本名も経歴も不詳。示し合わせでもしたのか?」

 増幅する気味の悪さを感じながら、冬子は回診のために席を立った。


 収容は午後に入ってすぐ開始された。管理局の白いバンが三台連なって敷地に進入する様はなかなか見られるものではない。一台ずつエレベーターボックスに誘導し、搬入する檻を下ろす。作業は一人ずつ、通常と同様に行うこととなった。まとめて搬入し、なにかのはずみで逃亡されることがあっては目も当てられない。冬子と朽木は、鼓と長門、管理局の係官四名と共に一人目の収容者を担当した。ゼロイチである。

 ゼロイチは高校生でも通じそうなほど幼い容貌だった。大きな目を見開き、ぼうっと前方を見ている。体格はひどく華奢である。病院で支給されたと思しき緑色の薄いパジャマを身に付けていた。痩せ細っているが顔が特別小さいわけでもなく、頭部と体躯の大きさに不均衡があった。

 502号室に到着し、檻の蓋を開けてもゼロイチは自ら出ようとはしなかった。仕方がなく管理局の職員が二人がかりで脇から手を添えて引っ張り出したが、それに抵抗するわけでもない。ベッドに座らされたゼロイチは、無気力に前を見つめていた。

 鼓と長門、管理局の係官は檻を携えて退出する。冬子と朽木はそれぞれ設えてある椅子をベッドサイドまで引っ張ってゼロイチの前に腰掛けた。

「こんにちは。今日からあなたを担当します、朽木と、こちらが林野です」

 ゼロイチは「あー」と微小な声で反応した。

「お歳を教えていただけますか」

 ゼロイチは首をふった。

「ここに来る前の住所は?」

 反応は同じ。質問内容を理解できているのかどうか、判別できない。知的障害の可能性を示すデータはなかったはずだ。

「ここが変身症研究センターであることは、わかっていますか?」

 ゼロイチは微かにうなずいた。

「あなたは、変身症に至るウイルスであるUNGウイルスのI型に感染したことがわかったため、ここへ収容されました。いま、変身症の治療に関する研究が進められていますが、治療方法は見出されていません。そのため、このままだと変身症を発症し、虫になるまでこの部屋にいることになります。UNGウイルスに感染した人は、公共の安全を守るために、このような施設に収容されることが法律で義務付けられています。また、収容された後は研究妨害を防ぐために外部との通信が許可されません。ご不便をおかけしますが、ご理解ください」

 通り一辺倒な朽木の説明を、ゼロイチは一抹の感情も見せずに聞いていた。

「お好きな食べ物はなんですか?」

 ゼロイチは「え」と小さく声を上げた。

「ここでは外に出られないご苦労を紛らわすため、配膳部が腕によりをかけて美味しい食事を提供しています。誕生日などの特別な日には、あなたのリクエストにお応えすることもできます。お好きな食べ物があれば、今のうちに伺っておきたいのですが」

 ゼロイチは眼球をゆっくりと動かし、室内を見渡した。何かを考えているような風情だった。

「へんしんしょう、けんきゅう、せんたー」

 朽木の質問の答えではなかった。

「くちき。はやしの」

 宙を見たまま、ゼロイチはつぶやく。冬子と朽木はゼロイチに気取られないように目を見合わせた。

「わたしは、えらばれた」

 そう言ったきり、ゼロイチは口を真一文字に結んだ。朽木が呼びかけても返事をしない。朽木はあきらめて首をふった。

「わたしたちは平日の日中に回診に伺います。なにかあれば、その時に教えてください。また、後ほど生活支援部の職員が来ます。生活面の相談はその職員にしていただければ、できる範囲で尽力します」

 朽木は冬子に退出を促した。冬子は戸惑いつつも朽木に従う。ゼロイチを部屋に残したまま廊下に出るなり、朽木は「彼女が入院していた新星病院にカルテ開示を請求しておいて」と指示した。

「精神科が介入していないか確認したい」

「承知しました。――彼女は、えらばれた、と言っていましたが」

朽木は首をふった。

「なんのことだかさっぱりだ。――次はゼロニだ。この時間なら、部屋への収容が終わっている。行こう」

 508号室の扉を開けると、ベッドの上で膝を抱き、震えている中年女性がそこにいた。ゼロイチと同じパジャマを着ている。

「こんにちは」

 朽木が声をかけると、彼女は「ひっ」と飛び退くように腕を後方についた。

「わたしは臨床部の朽木と言います。こちらは同じく林野。これから、あなたを担当することになります。よろしくお願いします」

 朽木と冬子は先ほどと同様に、椅子をベッドサイドへおいてゼロニの近くに座った。ゼロニは痩せさらばえていて、襟元から見える鎖骨が異様に浮き立っている。ごわごわとうねる髪の毛は白髪がまだらに散っていて汚らしい印象をもたらしていた。

 朽木はゼロニに対し、ゼロイチに説明した内容と同じことを喋った。ゼロニは朽木に対する反応を示さなかったが、終始奥歯を鳴らしている。体の震えもおさまっていない。

「いま、どこか具合が悪いところはありますか? 息苦しいとか、頭が痛いとか」

 ゼロニはぎょろりと朽木を見た。骸骨のような顔だ、と冬子は思う。

「怖い」

 低い声のつぶやきは、奥歯を噛み合わせる音よりも小さかった。

「わたしは、どうなる」

「変身症に関しては、世界中で治療に向けた研究がされています。あなたが発症するまでに、もしかしたら治療法が確立するかもしれません」

「治療法?」

「ええ。あなたの発症に、間に合えばいいのですが。――あなたはいつ頃感染したか心あたりはありませんか? それがわかるだけでも、わたしたちはあなたと有意義な時間を過ごすヒントを得られるかもしれません」

 ゼロニは朽木を凝視したまま、何かを言った。朽木が聞き返すと、もう一度言う。

「二ヶ月前」

 冬子と朽木は思わず顔を見合わせた。二ヶ月前は、ゼロニたちが急性腎不全で救急搬送された時期と同じだ。入院の前後になにかあったのか?

「二ヶ月前に、なにがあったんですか?」

 ゼロニは幼児が嫌々をするように体を左右に振り、膝を抱えたままつぶやいた。

「わたしは、騙された」

 ゼロニははっきりと、そう言った。


 結局、ゼロニはその後なにも発せず、ベッドの上で震えたままだった。朽木は今日のところはここまで、と成果を見限り退室を決めた。

「林野さん、新星病院への連絡は俺がする。カルテ開示と併せて主治医に話をきいてくる」

 朽木は前室で防護服を脱ぎながら早口で喋る。

「二ヶ月前に何があったか、万が一それが病院内での出来事なら、大ごとだ」

「院内感染ですか」

「わからない。だが」

「でも、516号室に収容されたカワマエタロウさんが入院していた病院は、ゼロイチさんやゼロニさんとは別の病院です。救急搬送前に三人が接触していた履歴もありません。新星病院内での院内感染や医療事故の可能性は極めて低いと思います」

 朽木は手を止め、「そうか」とつぶやく。

「診療内容は管理局が調べています。不審点があれば、管理局で追求しているはずです。それに、治療にあたった医療機関はUNGウイルス感染者の対応をして非常な緊張を強いられていたと思います。やっと緊張から解放された直後に院内の事故を疑われれば、わたしたちに対する心象が悪くなるだけです。感染した原因を知ることはわたしたちが収容者と交流する上で必要ですが、不必要な詮索はわたしたちの仕事ではありません」

「……そうだな。すまない。考えが回らず、先走った」

「いいえ。カルテ開示請求はわたしが行います。ゼロイチさんと併せて、ゼロニさんの分も請求しましょう。感染経路がどうあれ、今後、わたしたちが彼女たちと関係を築く上では必要です」

「頼む」

 朽木は消沈したように背中を丸め、脱いだ防護服を廃棄ボックスへ突っ込んだ。冬子にとって、めずらしい彼の姿だった。朽木先生らしくない、と言いかけてやめる。自分が彼を評価することはおこがましく感じられた。

「朽木先生。どうして新星病院で何かあったかと思われたんですか」

「二人の様子を見て、誰かに感染させられたんじゃないかと思った。医療行為の合間に感染させることは、可能だ」

「でも、普通の病院がウイルスを入手する方法なんてありませんよ」

「院内に、他の感染者を隠しているとしたら――あり得ないな。突飛だ。すまない」

「いいえ……それより、ゼロイチさんとゼロニさんが『誰かに感染させられた』と感じた朽木先生の直観は、慎重に扱う必要があるように思います」

「……516号室のカワマエタロウ。鼓先生たちが話をしているはずだ。状況を聞こう」

 朽木はエレベーターホールに向かう扉の開錠認証をした。


 鼓は「カワマエタロウは人形のような状態」と評した。

「なにも喋らない。呼吸をすることすら拒んでいるかのように口を開かない。目の焦点は合っているの。でも、なんだか目の前の壁ではないどこか遠くの方を見ているような感じ」

「選ばれたとか、騙されたとか、言ってませんでしたか?」

 朽木の問いに、鼓は「なにそれ」と眉根を寄せた。冬子がゼロイチやゼロニの状況を説明する。臨床部内には部員全員がそろっており、八人とも部屋の中心を向いて話を聞いている。部長がいないときのショートミーティングはこのスタイルで行っていた。

「選ばれた。騙された。――なんだか、似ていませんか」

 冬子が問いかけると、一同は首をかしげる。

「選ばれなければ、騙されることもない?」

 倉橋医師に対し、冬子はうなずく。

「選ばれて、騙された。騙されるために、選ばれた。選ばれたが、騙された。どんなシチュエーションであっても、二つの動作はつなげられます」

「林野さんは、三人が共通の原因で感染したと疑っているの?」

 梶川医師の問いに、冬子は首をかしげつつも「もしかしたら」と答える。

「いや、梶川先生。林野さんの意見は俺の直感を反映しているだけで、根拠なんてないですよ」

 朽木が口添えをするが、しかしそうすると話は初めに戻ってしまう。

「管理局のレポートと、各病院が記録したカルテを読み込んだほうがいいかもしれませんね」長門が言う。「それから、管理局の担当係官へ面談の申し込みも」

「探偵役は誰がやるの?」

 鼓が問いかける。少なくとも、パートタイマーの職員がやることではない。全員が顔を見合わせるより先に冬子は手をあげた。「わたしがやります」

「朽木先生は村名賀部長の研究補助がありますし、長門さんはチーフの仕事があります。わたしが一番手薄です」

 異論を唱える者はいない。朽木だけが「大丈夫か?」と気配りを見せるが、冬子はうなずいた。

「長門さん、カワマエタロウさんが治療を受けていた川前病院へのカルテ開示請求もわたしがおこなっていいですか?」

「そうしてくれると助かるよ。俺と鼓先生でも、タロウさんが何か言えば逐次報告する」

「お願いします」

 井戸端会議のようなミーティングは終了した。


 その日のうちに新星病院、川前病院へのカルテ開示を請求し、翌々日には双方の病院から三人のカルテのデータを格納したコピー制限処理済みのディスクが送られてきた。

 二ヶ月分のカルテを開くと、ゼロイチとカワマエタロウが救急搬送された日時は八月十九日朝。ゼロニは同日の夕方である。多少のタイムラグはあるが、ほぼ同時に急性腎不全を発症したことになる。新星病院と川前病院の位置関係を地図で確認すると、車で二十分ほどの距離だった。

 やはり同じ原因で急性腎不全を発症したのではないだろうか。冬子は考えるが、腎不全とUNGウイルス感染が結びつかない。三人とも同じ病院だったら腎不全発症後の透析治療で使用した機器を媒介しての感染という推論も立てられるが、現実は異なる。

 搬送された三名は、それぞれ入院二日目にUNGウイルスに感染していることが判明した。搬送時に採取した血液の一部を、院内に設置してある専用の機器で検査した結果である。判明直後に特殊感染症管理局へ通報、管理局はそれぞれの病院と協議の上、管理局員が警備のため院内に常駐した上で治療を実施することとなった。こういった事例は珍しいことではなく、管理局でも対応マニュアルが整備されている。治療は個室で実施し、医療者の入室は必要最低限、配膳や室内の環境整備も医療行為と同時に実施し、食器やタオルなどはすべてディスポーザブル対応の製品を使用する。万が一、容体が急変した場合には蘇生処置を行わない。これらの医療行為はUNGウイルス感染者を変身症対応施設に移動させるまでの一時的な対応であり、基本的には最低限の身体機能の回復にとどめられる。そのため、メンタルケアは実施されないことがほとんどだった。

 ゼロイチ、ゼロニ、カワマエタロウも例に漏れず、彼らに対する精神科の介入は行われていなかった。主治医や担当医による会話の記録もなく、SOAPのうち主訴に書かれているコメントはすべて目視できる状態や検査結果の内容である。看護師の記録にも会話は記載されていない。体調が良くなってから、看護師が会話を試みようとしたこともあったらしいが、三人が心を開くことはなく、退院に至るまで現在と同じ態度を貫いているようだった。

 定時間近、冬子はようやくカルテを読み終えた。試しに一般検査部の部長である多ヶ谷に内線をかけてみると、今から来ても構わないと言う。冬子は収容者三名のレポートやカルテのディスクを抱えて一般検査部へ行った。

 一般検査部に部長室はなく、部員たちのデスクが並ぶ執務室の奥まったスペースに本棚で仕切るようにして部長専用の空間が確保されていた。検査室や研究室は、執務室の隣にある。多ヶ谷は冬子を快く出迎え、近くにあった丸椅子に座らせた。冬子は新規収容者三人の事情を手短に伝え、まず管理局からのレポートを渡す。

「UNGウイルス感染と急性腎不全が結びつかないんです。UNGウイルス感染に初期症状はないはずです。急性腎不全が初期症状だと仮定した場合、もしかして新規のウイルスなのではないかと思ったのですが」

「I型、II型に次ぐ、Ⅲ型ってこと?」

 多ヶ谷はレポートの最後についている検査結果の数値を見た。首をひねり、本棚の向こう側にいる一般検査部員の一人を大声で呼ぶ。

「御花先生ー、おととい収容した三人の結果、出てる?」

「えーっと……出てます! すぐお持ちします」

 紙を印刷する音が何回か続き、三十半ばくらいの男性職員が三枚の紙を多ヶ谷へ手渡す。多ヶ谷は紙に目をやって、すぐに「I型ね」と断言した。

「検査ではI型やII型に感染していない血液に対しては“negative”と表示され、UNGと同じ抗体を持つもののI型やII型に該当しないウイルスに感染した血液に対しては“error”と表示されるようになっているの。これははっきり“type I positive”と書いてある。良かったわね、最悪な新発見に至らなくて」

 冬子は自分の安直な仮定を恥じつつも「急性腎不全が初期症状としてあらわれる事例はありますか?」と尋ねる。

「聞いたことはないわね。UNGウイルスはサイレント・ボム。フリーマン感染から五十年が経つけれど、なんらかの初期症状があった症例は実存しない。そっちの、腎不全を治療した病院のカルテも見せてくれる?」

 冬子が渡したディスクを、多ヶ谷はすぐにパソコンに入れてデータを読んだ。読みながら何事かぶつぶつとつぶやいているが、冬子には内容を聞き取れない。すべてのデータに目を通すと、多ヶ谷は「UNGに感染している以外は普通の腎不全の患者」と言い放った。

「院内感染によるUNG感染の線も薄い。もしも三人が急性腎不全になった理由が同一事象によるものなら、たとえば感染した三人が集合して何らかの民間療法に手を出したか」

「その仮説の場合、彼らはどこで感染し、どこで陽性だと判断されたのでしょうか」

「わたしたちより、管理局の方が耳は早そうね」

 冬子は反射的に壁にかかった時計を見た。もう十八時をまわっている。まだ、管理局の担当係官はいるだろうか。

「多ヶ谷先生。ありがとうございました。定時過ぎにまでお話をきいていただいて、すみません」

「いいのよ。ところで、朽木先生は元気?」

 相変わらずです、と言いかけて、冬子は交尾後のメスがオスを食っていた時の朽木の体の震えを思い出した。二日前、ゼロイチとゼロニと面談した後の拙速な判断を下そうとした姿も脳裏に蘇る。

「どうしたの? なにかあった?」

 心配そうに顔をのぞきこんでくる多ヶ谷に対し、冬子は取り繕うように不器用な笑顔を作った。「大丈夫です、なにもありません」

「そう。それならいいけど。また、なんでもないときでもいらっしゃい。わたしは暇なんだから」

 すかさず、先ほど検査結果を持ってきた御花が「暇なんて嘘つかないでください!」と声を張り上げる。多ヶ谷は笑って「気にしないで」と手を振った。

 一般検査部を辞したあと、冬子は足早に臨床部へ戻った。部屋にはすでに朽木しか残っていない。冬子は自席につくなり、管理局へ電話をかけた。非公開の回線に架電すれば、二十四時間対応の窓口に繋がる。応答した電話当番の職員に、冬子は自分の身分とゼロイチ、ゼロニ、カワマエタロウの調査担当官と話がしたいと申し出る。電話当番は「少し待つように」と言って電話を保留にした。オルゴール調の音楽が数分流れ、もう担当官も帰宅したのか、と思い始めたとき、音楽がぶつりと途切れた。

 ――「お待たせしました。特殊感染症管理局、調査第一課のシンケイです」

 低い男の声だった。淡々と「VRCの林野さんですね。先日は、三名同時の収容にご協力いただきまして、ありがとうございました」と感情のない謝辞を述べる。

「お世話になっております。早速ですが、その三人のことでお電話しました」

 冬子は三人を収容してからのこと、治療した病院のカルテを閲覧したことを説明した。

「こちらとしては、三人が感染した原因を知りたいと思っています。管理局側で、レポートに記載していないことや、新たに判明したことなどがあればご教示願いたいのですが」

 ――「まず、収容までに我々が調査したことはすべて貴センターに提供したレポートに記載しており、なんらかの隠蔽をお疑いでしたら誠に遺憾です。次に、新たに判明したこととして、本日、彼らが急性腎不全を発症した原因と考えられることがわかりました」

「わかったんですか」

 ――「彼らが入院直後に採血された血液を、国立特殊感染症研究機構つくば支部において解析していました。遅くなりましたが、その結果が届いております」

「結果の内容は」

 相手は電話の向こう側で嘆息した。

 ――「残念ながら、お電話でお話することは規定違反となります」

「それなら、資料請求させていただきます」

 ――「いえ、直接お会いしましょう。明日など、いかがですか」

 冬子はとっさに明日のスケジュールを確認する。「大丈夫です。何時でも。こちらからお伺いします」

 ――「いえ、それには及ばず。わたしが貴センターへ出向きます。十三時でもよろしいですか」

「ええ。承知しました」

 ――「訪問の際、頼みたいことがあります」

「なんでしょうか」

 ――「貴センター内で交尾したメスの虫を、見学させてください」

 え、と冬子は戸惑い、二の句を継げない。

 ――「虫の雌雄を交尾させる実験の開始や、実験経過は逐次管理局にもご報告いただいております。そのメスの虫を見学することは、差し障りがあるでしょうか」

「それは、管理局として、なにか監査のような目的での見学ですか」

 ――「いいえ」

 シンケイはきっぱりと否定した。

 ――「わたしの興味本位それのみです」

 冬子はいったん電話を保留にした。隣席の朽木に、「管理局の人が明日、ゼロイチさんたちのことで来てくれるんですが、そのときに麻葉さんを見たいと言っているんです」と戸惑いながら説明する。

「なにか、不都合はあるでしょうか」

 朽木は天井を仰いで少し考え、「調整はする、って言っておいて。一応、村名賀先生の許可は必要だろう。俺が村名賀先生に確認するから、林野さんはそのあとで総務部に見学者申請を出せばいい。申請は明日の朝で十分だから」

 冬子は承知し、電話機の保留ボタンをオフにした。

「見学に関しては調整させていただきます。もしかしたら、ご期待に沿いかねるかもしれませんが」

 ――「かまいません。公式の見学申し込みではありませんから」

 申し込み用紙の作成のために名前はどう書くのか尋ねると「新景」と書くのだと回答があった。冬子はもう一度見学は不確定であることを念押しし、時間の確認をして、電話を切る。

 受話器をおいたあとに息をつくと、朽木が「めんどうそうな人?」と訊いてきた。

「少し。でも、情報交換だけなので、わたしだけで大丈夫だと思います」

 そう、と朽木はうなずいて自分の仕事に戻る。冬子は出しっぱなしにしている施設内専用のタブレット端末を見た。画面の向こう側では、虫となった麻葉がのそのそと動いている。そういえば、壁を登って落ちるといった行動はしていないな、と冬子は気づく。麻葉は床面を、活動的とは言えない遅さで這っていた。首をかしげつつも、冬子は端末の電源をオフにする。


 村名賀は二つ返事で管理局職員の見学を了承したらしい。部外者のことなど歯牙にもかけない様子だったと、翌日の朝、朽木は言った。

 十三時になって、新景を出迎える。体のラインが直線で、整った顔つきの男だった。銀縁の眼鏡が少しばかりの近寄りがたさを感じさせる。年の頃は朽木と同じくらいに見えた。

 応接室に案内するなり、新景は「あの三人、なにか言いました?」と単刀直入に訊いてくる。世間話もなしか、と冬子は呆れつつ「いいえ。なにも」と応じる。

「わたしはゼロイチさんとゼロニさんを担当しています。カワマエタロウさんは別の職員の担当です。三名とも、ほとんどなにも。ゼロイチさんとゼロニさんが、搬入日にそれぞれ『わたしは、えらばれた』『わたしは、騙された』と言っただけです」

 新景の眉尻がぴくりと上がる。

「えらばれた、騙された? どういうことです」

「それ以上の発言がないため、わかりかねます。せめて本名だけでもわかればいいのですが。いい加減、ゼロイチだのゼロニだのという呼称はまるで人扱いしていないようで、こちらとしても愉快ではありません」

「彼らが救急搬送された時、身分を証明するものをなにも持っていませんでした。本人たちも話してはくれませんでしたし、警察にも照会しましたが、行方不明の捜索願にも該当者はおらず、前科者や、指名手配犯にも該当する人物はいません。また、三人は新宿の路上で動けなくなっているところを通行人の119番通報によって救急搬送されましたが、どうやってその場所へ行ったのか、足取りすら追えていません」

「どういうことですか」

「新宿駅の周囲は他の街と比較しても防犯カメラの設置台数が突出して多いですが、どのカメラにも彼らの姿が写っていませんでした。彼らがうずくまっていた場所は、ちょうどカメラの死角になる位置でもありました。また、近隣の駅のカメラのログも調べましたが同様です。まるでふってわいたように現れたわけです」

「そんなわけないですよね。自力で来たのでなければ、誰かに連れてこられたんじゃないですか」

「誰に?」

 新景の瞳が鈍く光る。

「誰に連れてこられたと言うんです?」

「そんなことはわかりません。わたしたちは、管理局よりも情報を持っていないんですから」

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