第3話
台風は明け方に去っていった。JRは始発から通常通り動いている。今日は駅前で拡声器を持つ団体はいなかった。台風一過で気温が高い。
駅から研究センターまでの道を歩いていると、緑地の方がなにか騒がしかった。いつもはランニングや犬の散歩をする人くらいしかいない、静かな場所である。いぶかしく思った冬子が木々の奥のほうを見ていると、緑地の遊歩道から若い男の二人連れが出てきた。
「昨日の台風で水かさ増してんだってな」
「にしたって気の毒だよ」
「あの、なにかあったんですか?」冬子が思い切って声をかけると、二人は困ったように顔を見合わせた。
「池の中に人が浮いてて。野次馬多すぎてよく見えなかったけど」
男二人は「女の子は見に行かないほうがいいよ」と言って冬子の脇を通り過ぎていった。妙な胸騒ぎがした。始業までは時間がある。冬子は通勤路をそれて遊歩道に入った。
木漏れ日の中を歩くと数分で池に着く。土地の再開発のときにその大きさを元の二分の一にまで縮小された池は、再開発前はボートを浮かべて遊べるようにもなっていたらしいが、今では進入禁止となり鯉や亀が泳ぐばかりだ。普段は閑散としている池のほとりに、二、三十人の人だかりがあった。その中にはビデオカメラを回している者もいる。近くにはパトカーと救急車もあった。黄色の規制線がはられて、野次馬はかぎられたスペースから池の真ん中を見ていた。
冬子も背伸びをしながら池を見る。池の中には警察のボートが浮かべられているようだった。
「おい、きみ」
唐突に背後からバッグをひっぱられた。驚いて振り向くと、そこにはスラックスにワイシャツを着た朽木が立っていた。
「朽木先生。なんで」
「きみこそ」
「気になったんです。それより先生は」
「安瀬先生に言われたんだよ、外でなにかあったらしいから見てきてくれと。俺が職場で寝ていたから」
「人が池に浮かんでるって」
「それだけわかっているならいいだろ。今日も仕事だ、いくぞ」
朽木は冬子のトートバッグをひっつかんでその場から立ち去ろうとした。その強引さが不自然で、冬子は返って池の方が気になる。
「――あれ、どこの制服だろうな」
近くの野次馬がつぶやいた。
「女の子が、かわいそうに」
思わず朽木の手をはたき落とした。「おい」と制止する朽木をふりきって野次馬の中へとびこむ。迷惑がられるのも承知の上で人と人の間を抜け、人だかりの一番前へ出た。
嫌な予感がした。
女子高生。
昨日、傘を渡した子。
池の真ん中に、その体は浮いていた。背中を空に向けている。白いセーラーに、紺色のスカートをはいていた。警察のボートがその横へ寄せられ、二人のダイバーも池の中から彼女に近づき、男が四人がかりで浮いているその体を引き上げようとしている。
「行くぞ」
冬子のあとを追って人だかりに割り込んだ朽木が、冬子のトートバッグを強く引っ張って無理に池から引きはがそうとした。
「朽木先生。朽木先生、あれ……」
「見なくていいから」
明らかに死んでいるその体がボートから引き上げられる瞬間、彼女の顔が見えた。遠目からも、その顔が水をふくんで膨張している様子がわかる。しかし、それは確かに、昨日変身症研究センターへやってきた肖像真心子だった。
「見たならいいだろ。行くぞ」
自分の足が震えていることを自覚した。動けなかった。ボートにおさめられた肖像の姿は見えなくなった。先ほど見えた彼女の顔が脳裏によみがえって動悸が激しくなる。昨日まで生きていた肌つやのいい若い女の顔とは思えないほどに膨らみ、青っぽく変色していた。
冬子は朽木に引きずられるようにして野次馬の中から抜けた。「大丈夫か」の問いには答えず、下唇を強く噛む。
「なんで……」
「死にたくなったから死んだ。そうだろう」
「事故では」
「なぜ帰り道にわざわざ池へ寄ると思う。駅まで行くためにこの緑地をつっきる必要もない」
「わたしが死なせた」
おい、と朽木は咎めるようにトートバッグを強く揺する。
「きみは関係ない。いくぞ」
朽木は冬子のトートバッグをつかんだまま歩き出した。ひっぱられるようにして冬子は歩く。
「わたし、昨日、彼女に傘を渡したんです。公財VRCって書いてある傘。わかる人が見たら、VRCがなんなのかわかる」
「関係ない。傘ごときで人が死ぬか」
「そんな傘、家に持って帰れません。わたしだったら、家族に見せられない。それを考えもせずに渡した」
「違う。きみはいまとっさに、彼女がああなった原因を自分の責任にした。それはきみがそうしたいからだ」
「そんなことじゃ、ありません」
押し問答をしながら緑地を出た。朽木はめんどうそうに冬子をふりかえり「帰るか?」と見下ろす。
「そんな状態で仕事ができるか。どうして見に行った。きみはあの子ではないだろう」
「同情したら、いけませんか。十年前、朽木先生がわたしに同情したみたいに」
「九年と、およそ八ヶ月前だな」
朽木は顔をゆがませ、冬子のバッグから手を離した。
「帰るなら駅まで送る」
「いいです。出勤します」
「……大丈夫か」
はい、とうなずいた。先に立って歩く朽木の背中を、冬子は必死に追いかけた。
昼休みに食事をしている最中、冬子と朽木に呼び出しがあった。総務部から冬子のモバイルフォンに「警察が事情聴取したいって言って来ているんですけど、お二人、応接室に行ってもらえますか」と内線があった。朽木にそれをつたえると、彼はエナジーバーをかじりながら顔をしかめる。
「行くの、やめますか」
「そんなわけにもいかないだろ」
ほかの同僚たちも行くように促してくる。みな、池の水死体の件も、その死体が昨日研究センターに来た女子高生であることも知っていた。冬子や朽木が喋ったわけではなく、ほかの部署からの噂がまわってきているらしい。
結局、冬子と朽木は手早く昼食を腹におさめて応接室へ向かった。
そこには二人の中年男性が待機していた。半そでのワイシャツ姿が、ひどく暑苦しく見えた。二人は刑事を名乗った。右側が眼鏡、左側が首に青筋。言われた名前を覚えられなかった冬子は、刑事二人を『眼鏡』と『首青筋』と認識した。
「主任研究員の朽木と、こちらが研究助手の林野です」
「朽木……」首青筋の刑事が、朽木の首からぶら下がった職員症を凝視する。「離苦さん。お久しぶりです」
朽木は眉をひそめた。「どこかで?」
「今年の六月、前のセンター長の赤西氏が亡くなったときにお話をうかがっております」
「ああ、あの時の。熱中症だったのに、警察が来るなんて大ごとだと思いました」
冬子もよく覚えている。
赤西前センター長が死亡した日の朝、出勤するとセンターの前にパトカーが停まっていた。前センター長が死亡した明け方にセンター内にいた職員は警察の事情聴取を受け、朽木もその一人だった。確か、警備部の当直当番の職員三名と、朽木と、たまたまセンター内にいた村名賀と安瀬が聴取の対象だったはずだ。
「不審死でしたから」
「熱中症でしょう」
「司法解剖がされませんでしたから、書類上は熱中症でも、あるいは他に死因があるかもしれない」
「状況からして熱中症だと断定した、それは警察の方です。司法解剖を行わなかったのも警察の判断だ。それともあなたは警察ではないか? 今日はなんの用でしょう」
首青筋の刑事は口をつぐみ、眼鏡の刑事に顎で指示した。
「さきほど、一般検査部の多ヶ谷さんにもお話を伺いました」眼鏡が話す。「ご存知でしょうか、昨日ここへ来た、肖像真心子さんがそこの池でお亡くなりになっていたことを」
朽木と冬子は浅くうなずいた。
「そうですか。うかがいたいことは昨日の肖像さんとの会話の内容です。肖像さんは自殺したと思われますが、遺書などは残っていませんでした。動機になるようなことをお話しされていませんでしたか」
冬子は朽木を見た。彼に喋る気はなさそうだったため、冬子が口を開く。
「多ヶ谷先生は、なんとおっしゃっていましたか」
「わたしはあなたがたにお尋ねしています」眼鏡がにべもなく返す。
「多ヶ谷先生が聞いたことと、わたしが聞いたことは同じです」
「ですが、多ヶ谷さんがくるよりも前に、あなたがたは肖像真心子と会話をしていた」
「彼女はここへ来ることを、誰にも話していないはずです。それなのにどうして、警察がここへ来るんですか」
眼鏡の刑事は面倒そうに息をつく。
「肖像真心子は、バックと一緒に、ここの傘を池のほとりへおいていました」
傘。やっぱり傘。冬子は膝の上で拳を握った。
「バッグの中には多ヶ谷さんの名刺も」
「肖像さんは、アルバイト先の店長が変身症を発症して、不安だからここへ来たと言っていました」
「それだけですか」
「はい。店長と同じシフトに入ることも多くて、自分も感染しているんじゃないかと思ったと」
多ヶ谷がなにを言ったのかわからないが、冬子は自分の口から肖像の秘密を話すことなどできなかった。
「そうですか。変身症は、同じ生活圏にいるだけではなかなか感染しないんですよね?」
「変身症の原因となるUNGウイルスの感染ルートは性行為と血液媒介です。それ以外ではありえません」
「それなら、どうして肖像真心子は感染を不安視したのでしょう」
「思春期ですし、不安定になることもあります」
「我々は彼女の自殺の動機を断定したいだけです」
「わたしにもわかりません。昨日会ったばかりの、高校生のことなんて」
いや、痛いほどわかる。大きな毒虫になる病気に感染したかもしれないと思ったら、死にたくなるのもよくわかる。刑事をにらみつけながら、冬子は頭の片隅で自身の人生を反芻した。――それならなぜ、わたしは生きている。
「例のコンビニ店長ですが、女遊びが非常に派手でしてね。すでに一人、彼から感染したと思われる女性が発見されています。北海道のかたで、そのコンビニ店長が、旅先で関係をもったらしい。――ですからね、肖像真心子も彼と関係をもったんじゃないかって我々は思っているのですが」
「ですからね、の意味がわかりません」
「推測ですよ」
「その推測自体が彼女に対するレイプになります」
「推測から事実を確定させることが我々の仕事ですから」
「少なくとも、わたしは知りません」
「そちらの、朽木離苦さんはいかがですか」眼鏡が朽木へ水を向ける。朽木は面倒そうに「そもそも我々は、検査を受けた人物のプライバシーを保護する義務がある」とだけ言った。
「感染者の情報は、感染症管理局が、ネットに公開しているじゃありませんか」
「厚生労働省特殊感染症管理局。東京の管轄は関東支部。あそこがネット上に公開している情報は、変身症研究センターや国立特殊感染症研究機構に収容された感染者に関する内容です。まだ検査結果が出ていない人間の人権まで侵害するものではない。WHOの指針でも、我が国の特別法でも、その区別は明文化されている。我々は関係者として定められたルールに則り、当事者たちを、あなたがた第三者から守る義務がある」
刑事二人は顔を見合わせ、目配せを交わした。眼鏡が続ける。
「我々は肖像真心子がここへ来た理由を知る必要があります。状況からして自殺であることは明らかで、あとはその理由だけなんですよ」
「彼女の自殺は、公表されますか」
「それは上が判断することですが、おそらく公表するでしょう」
「我々は検査を受けた方々のプライバシーを保護する責務があります。警察といえどあなたたちは部外者です。部外者に受検者のプライバシーを漏洩することは、VRC内の懲罰規則によって厳しく罰せられます」
「あなたがたの中のルールを盾として警察に協力しないとは、あまり賢いとは思えませんが」
「わたしは警察を信用しない」
眼鏡と朽木の応酬を聞いていた首青筋は、小さく肩をすくめた。
「朽木離苦さん、わたしは赤西氏の死亡について、他殺であることをまだ疑っているんですよ」
「その話は、今は関係ない」
「あなた、あの晩、職場で寝泊りしていたでしょう」
「まさか、わたしが容疑者?」
朽木は首青筋の真似をして肩をすくめる。
「わたしは十年前から職場に寝泊りしている。あの日も同様だった。わたし以外にVRC内にいた人物は、警備部の職員と村名賀と安瀬です。あの日、センターに居合わせた全員が容疑者とでも?」
「赤西氏のセンター長室での飲酒は日常の出来事ではなかったと聞いています」
「その酒がなにかご存知ですか」
「四国の地酒の、『啓蟄』でしたな」
「それは初代センター長の徳坊博士の地元の酒です。そして、飲んでいた日は徳坊博士の命日でした。供養でもされていたのではないかと思いますが」
「朽木さん、あなたは誰かをかばっていませんか」
「わたしが? でたらめな推測も大概にしてください。あなた方が警察でなければ、こうもまともな対応はしていませんよ」
首青筋と朽木はしばしにらみ合っていたが、刑事の方が先に折れた。
「わかりました。なにか思い出したことがあったら、ここへ連絡してください」
首青筋の刑事は朽木の目の前に自らの名刺をおいて立ち上がり、退室した。眼鏡もわたわたとそれに続く。朽木は名刺を一瞥し、ぞんざいに千切って部屋の隅のゴミ箱へ放った。
「肖像さん、ニュースになりますか……?」
刑事の足音が聞こえなくなってから、冬子は無意識につぶやいていた。赤西前センター長の死に執着する刑事など、どうでも良かった。
「マスコミが騒がなくてもネットには広まるだろう、おそらく。無責任にいろいろ言うやつらはいるから」
胸がつぶれるような息苦しさを感じた。肖像真心子は、死んで楽になれたのだろうか。
警察が来所した二日後の十二時、冬子はいつも通りおにぎりのパッケージを開けようとしていた。隣の席の朽木は離席しているが、特に気にも留めなかった。
「林野さん、そのおにぎり、食べるな」
言いながら臨床部の部屋のドアを開けたのは、どこかへ行っていた朽木だった。その胸には段ボール箱を抱えている。いつもと異なる様子に、冬子以外の部員たちも彼に注目した。部員は研究助手である長門という男性職員以外の全員が仕出し弁当ないしは自宅から持ってきた弁当を食べようとしていたところだった。長門は昼休みが始まる十分前に村名賀部長に呼ばれて離席している。
朽木と長門以外の部員は全員が女性であり、冬子以外は四十歳前後であった。皆、前職を経験してそれぞれの理由でVRCにパートタイマーとして勤めている。
朽木は年上の女性たちの視線を一切気にせず、抱えていた段ボール箱を自分のデスクにおいた。箱からは氷霧が出ており、冷凍便であることが伺える。
「朽木先生。それ、なんですか」
「三日前に注文しておいた。昼どきに届いてよかった」
朽木は自分のデスクで箱を開ける。冬子が覗き込むと、中にはパック詰めされた肉の塊があった。
「桂樹軒のステーキ。三日前、雪持さんの奥さんが言っていたものだ。彼女に聞いた後で調べてみたら通販にあったから頼んでおいた」
「これ、焼くんですか」
「レンジで解凍するだけ。六百ワットで九分だそうだ」
朽木はパックを冬子に手渡した。段ボール箱の中には、同じパックがもう一つ入っていた。
「朽木先生、それみんなに食べさせてくれるの?」
医師の倉橋が茶目っ気たっぷりに声をかけてくる。四十代半ばの女性だ。
「いいえ。俺と林野さんの分です。502号室の雪持さんの好物で」
「でも、林野さん、おにぎり食べようとしてたよ」
朽木は冬子のデスクの上を一瞥した。「林野さん、そのおにぎり、俺が夕飯に食うから冷蔵庫にいれておいて」
冬子は朽木の指示通りに動いた。部屋の片隅に、小型の冷蔵庫があり、その上には電子レンジが載っている。同僚たちは関心を寄せつつも、それぞれの昼食へ戻っていった。
冬子が電子レンジの前で九分間を待っている間、朽木はどこかから皿とナイフとフォークを二組ずつ持ってきた。
「配膳部から借りてきた」
「配膳部って、いま、昼食時で忙しいのでは」
「ある場所は知っていたから、声をかけて自分で持ってきた」
さすが、職場を生活の拠点としてしまった職員である。冬子は呆れ半分、関心半分に「すごいですね」と評価した。
朽木は電子レンジが加熱終了のサイン音を鳴らすと、パックを摘み出し「あついな」と言いながら中身の肉を皿の上へ載せた。確かに分厚いステーキが、湯気をだしながら目の前に現れる。業務用のデスクの上に載せられたステーキはあまりにも場違いだった。
「林野さん、先に食べてて」
朽木は冬子にフォークとナイフを無造作に渡し、自らの分の肉を電子レンジに放り込んだ。
「林野さん、塩。これ。岩塩があった」
朽木が段ボール箱の底から、小さな袋に入った岩塩を取り出す。それを受け取った冬子は首を傾げながら「肉にかけるんですか」と問う。
「皿の隅に出して、必要だったらつければいい」
冬子は言われる通りにした。渡されたカトラリーを戸惑いながら握る。右手にフォーク、左手にナイフを持ち、肉を切ろうとする。思わず首をかしげた。思うように切れなかった。フォークやナイフが必要な食事を、経験したことがなかった。
「林野さん、味、どう」
朽木が覗き込んできた皿の上には、理想的にカットできず、闇雲に傷がつけられただけの肉塊が無残なありさまで横たわっていた。恥ずかしい。冬子は思ったが、隠すこともできない。
朽木は何も言わずに冬子の横から離れた。少ししてレンジが解凍終了を告げる。いっそ、手でかぶりついてしまおうか。それか、箸を配膳部から借りようか。どう食べたって、味は変わらないだろう。他人が考えたナイフの使い方ごときで、どうして恥をかかなくてはならないのか。
「林野さん、これ」
唐突に朽木がもう一枚の皿をさしだしてきた。その上には、すでに一口大に切られた肉が載っていた。
「交換。その皿、貸しなさい」
「でも」
「いいから」
冬子は皿を交換した。ナイフをおき、肉の一片をフォークで口に運ぶ。
「……おいしい」
思わず声が漏れた。肉の甘さも、柔らかさも、初めての味だった。
「おいしいなら、よかった」
朽木は冬子から受け取った皿の肉も手際よく切り、自身の口の中へ放り込む。おいしいならよかった、と彼はもう一度つぶやいた。冬子は岩塩もつけて食べてみる。塩そのものも、冬子が知る味ではなかった。三口目からは何も考えずに、ただ味だけを感じて完食した。
「朽木先生。おいしかったです。ありがとうございます」
「うん。よかった」
朽木も皿の上を空にしていた。手近にあったティッシュで口を拭いている。その顔はさして満足そうではなかった。
「お昼休み中にすみません、ちょっと聞いて」
不意に部長室から出てきた長門が皆に呼びかけた。長門は四十八歳の男でひどく痩せている。臨床部研究助手のチーフである。
「今日午後、収容があります」
瞬間、室内に緊張が走る。
「担当は俺と鼓先生、516号室に収容します」
516号室は現在、唯一の空室だった。これで変身症研究センターの収容室は満室となる。
「受け入れ開始は午後三時から、タイムスケジュールの詳細は後ほどホワイトボードに書き出しますので、各自確認をしてください。受け入れは俺と鼓先生、補助として朽木先生と林野さん、お願いします」
冬子と朽木は承知の返事をした。
「矢頭さんは収容者更新の連絡を各部署に、壷坂さんは生活支援部とオリエンテーションの開始時刻の調整を行ってください」
矢頭、壺阪ともに研究助手である。
「収容者の情報レポートは後ほどクラウドで共有します。今回は男性、二十六歳。一週間前にII型感染です」
二十六歳。冬子の口の中に苦いものが広がる。自分と同い年の若い男が、閉じ込められるためにやってくる。
長門は「とりあえず以上です。タイムスケジュールやレポートを見て、なにか気づいた点がありましたら教えてください」と言い、ホワイトボードにタイムスケジュールを書き殴った。
14:45 裏門待機完了
15:00 移送車到着
15:05 専用エレベーター入庫
15:10 地下2階到着
15:15 516号室入室
入室後の動きは流動的になる。十六時までは拘束されることを想定し、午後の業務の調整が必要だ。冬子は先ほど食べ終わったステーキの後味も唾とともに飲み込み、頭の中でスケジュールを構築する。
十三時過ぎ、収容者の情報レポートがクラウドにアップされた。所定のフォルダに格納されているファイルを開くと、データの冒頭には収容者の名前がある。
「たきしま……」
滝縞吉信とそこにはあった。聞き覚えのある名前だと思った瞬間、あげそうになった声を喉の奥に引っ込めた。同級生だ。昨日、近々結婚するらしいと母が言っていた。冬子は顔や存在すら覚えていない同級生の男子。
まさか同姓同名の他人ではないか。わずかばかりの疑心をもって確認したレポートの内容は、生まれた年、育った場所、卒業した小学校や中学校を確認するにつけ間違いなく冬子の同級生だった。四年制大学を卒業し、大手商社に入社した。二十歳のころから交際している同級生の女と婚約中であるが、感染源は別の女であるとレポートには書いてある。滝縞が感染したきっかけは、一週間前に都内のクラブで知り合った女である、と。
会社の納涼会が終わった後、先輩に連れられてクラブに行った。店の名前も記載されている。インターネットで調べてみると、フロアが五つある大きな施設らしい。そこで見知らぬ女に声をかけられた。明らかに正気の目をしていなかったが、滝縞自身も酔っていたためあまり気にしなかった。小さな部屋に入った。どこからどう入ったのか覚えていない。ほかにも男女はいたが、フロアよりも暗く、耳に痛いほど音楽が流れていて状況が把握できなかった。滝縞はたばこのようなものを吸わされた。気分がよくなったところで女とセックスをした。そこから記憶が飛んだ。目が覚めたとき、フロアの片隅で寝転がっていた。会社の先輩が頭上から水をかけてきた。このときスラックスははいていたが、ベルトは外されていた。翌日になって、見知らぬ女とセックスしたことに恐怖がわいてきた。泌尿器科へ行き、性病検査を受けた。一週間後、つまり今日の午前中、結果を聞きに行った医院で、滝縞は特殊感染症管理局関東支部の係官に拘束された。
特殊感染症管理局のネットワークを閲覧すると、感染源の女についても書かれていた。女は件のクラブのジャンキー部屋で薬物の大量摂取により死んでいるところを発見されたらしい。
滝縞はⅡ型に感染したと書かれていた。Ⅱ型は感染してから三十日後に発症する。すでに滝縞は一週間がたっているから、実質あと二十日程度で人間としての生命を終えることになる。冬子はいたたまれない気持ちを抑えつけるようにすべての情報をデスクトップから消した。
十四時半過ぎに、鼓が警備部から防護服とコールペンダントを必要人数分受け取ってきてくれた。細身で短髪の女性研究員である鼓はパートの研究員として勤めている。鼓含め、臨床部の研究員は朽木以外すべて女性で、パートタイマーだった。四十五歳の倉橋と三十九歳の梶川、そして四十歳の鼓である。三人とも変身症研究センター入職前は一般病院で臨床医として勤務をしていたが、結婚や出産を機に業務の負担が少ないことを理由として現職に転じた。また、研究助手の矢頭や壷坂もパートタイマーである。二人とも看護師資格を有する母親だった。
防護服を着込んだ冬子たち研究助手の四名は、十四時四十分に裏門へ集合した。定刻より3分早く、特殊感染症管理局の白いバンが到着する。徐行運転するバンを長門が先導し、その他の三名はすばやく裏門を施錠した。
裏門を抜けて三十メートルほど歩いた場所に、コンクリート打ちっぱなし壁の小屋がある。焼却炉だ。研究センター内で死亡した者は皆、ここで焼かれる。その建物の隣を通って、バンは収容者専用のエレベーターボックスの前に停まる。
エレベーターボックスは研究センターの建物に通じる入り口である。収容者の逃亡を防ぐために、研究センターから離した位置に作りおかれていた。バンをその中へ誘導し、全員が入室したことを確認すると、長門が扉のロックシステムに暗証番号を入力し、施錠した。
ようやくバンの運転手が窓を開け、「ご苦労様です」と挨拶をする。その運転手も防護服を着ていた。
「滝縞吉信、二十六歳男性の収容をお願いします」
「滝縞吉信、二十六歳男性を、収容いたします」
長門が言うと、バンのバックドアが開き、車に内蔵されたリフトによって檻が下ろされた。サーカスの猛獣が入れられるような、檻である。その中には、スーツを着た、いかにもサラリーマンといった風態の若い成人男性がうずくまっていた。
「滝縞吉信さんですね」
長門が声をかけると、男性は震えた声で応じた。
「これから、お部屋へご案内します」
バンの中から、管理局の職員六名が降りてくる。いずれも冬子たちと同じ防護服をまとっていたが、その肩にはショルダータイプのホルスターを装備していた。ホルスターの中には拳銃が重々しく収まっている。感染者が不穏な動きをした場合、社会と係官自身の安全を守るために発砲して良いこととなっている。国内において自衛官や警察官以外で拳銃の携行が許されている人間は、麻薬取締官の他には、特殊感染症管理局の調査係官と移送係官のみだ。しかしながら、これまで三十六年におよぶ管理局の活動の中で撃たれたことはないと、冬子は誰からか聞いたことがある。
朽木が奥の扉を開ける。手動の重い扉だった。奥にはフットライトが等間隔で光る暗い廊下がのびる。檻を囲むようにして防護服の十名は進む。檻に取り付けられたタイヤの滑りが悪いのか、ギッギッという嫌な音が響く。ここで泣き喚く者、叫ぶ者、それは収容者によってさまざまだが、滝縞は何も声を発さなかった。
突き当たりにたどり着くと、そこにある手動ドアを朽木が開ける。唐突に白い部屋が現れた。その正面にはやはりドアがあった。収容フロアへ直通するエレベーターのドアだ。
朽木がドアの横のボタンを押すと、すぐにそのドアは開いた。檻を中へ入れ、全員が乗り込む。エレベーターのボタンは「B2」「5」「6」しかない。押されたボタンは「5」だった。
「516号室へお連れします」
長門が言う。誰も反応しない。檻の中で滝縞は震えている。
エレベーターは滑らかに上昇し、五階で停止する。特殊感染症管理局の面々も、この建物の造りに慣れた人物ばかりだった。阿吽の呼吸で檻を動かす。部屋の前に着くと、担当者となる長門がセキュリティを解除した。
全員が室内に入り、ドアを閉めたあとで檻の蓋が開かれる。
「出なさい」
管理局の一人が高圧的に声をかけるが、滝縞は動かない。
「滝縞さん、出てください」
鼓がやんわりと伝えると、ようやく滝縞は姿を現した。立ってみると、身長はおそらく一八〇センチメートルは超えている長身だった。聡明さを感じられる顔立ちを冬子はまじまじと見つめたが、穴があくほど見ても小学生の彼を思い出せなかった。
「滝縞さん、お疲れ様です」長門が慇懃に語りかける。「このお部屋が、今日からあなたが過ごす場所になります」
滝縞は窓がない真っ白な十二畳間をぐるりと見回す。
「俺は、ここで虫になるんですか」
訊いた声は震えていた。長門が答える。
「ここには、蛹に変態するまでお過ごしいただきます。そのあとは、職員が地下の水槽に移動させていただきます」
滝縞の目から大粒の涙が溢れ出した。
「治りませんか」
「あなたが感染した日を考慮すると、あと二十日程度で、変態が始まります。まだ、有効な治療法は見つかっておりません」
タイムリミット。冬子は「ぞわり、」と自分の中に虫を感じた。腹の奥底で蠢くもの。いるはずもない虫が、腹の中で生きている。――目覚める時を、待っている。
「俺は、あと二十日」
「二十日で、何を残せるか、これから一緒に考えましょう。私はあなたを担当する臨床部の長門と言います。こちらの女性は、同じくあなたを担当する医師の鼓です。これからあなたの健康状態を確認します。また、生活支援部の人間から、当施設の説明をさせていただきます」
「出してくれ」
「それはできません。あなたは蛹になるまで、ここにいる必要があります」
「虫になったら、外へ出られますか」
「いいえ。虫になったら、あなたはあなたの意識を失います」
人間としての死である。滝縞は理解したようだった。涙は止まっていたが、目は虚ろなままだった。
「鼓先生、長門さん、俺たちはこれで」
朽木が声をかけると、長門と鼓は黙ってうなずいた。それを合図に冬子と朽木、管理局の六名は檻を押しながら部屋を後にする。
エレベーターホールで全員が防護服を脱ぐと、江ノ木という若い男性係官が、手にしていたバインダーを檻の上に広げた。
「内容のご記入と、サインをお願いします」
朽木は江ノ木からさしだされたペンを受け取り、書類に必要事項を書き込んでいく。収容時間、収容した部屋番号、担当者の氏名、そのほか収容に関わった職員の氏名を書いていく。係官たちはその様子を見張るようにして眺めている。彼らは皆、長袖のワイシャツを着ており、その肩には防護服を脱いだ後で装着し直したショルダーホルスターがあった。
「終わりました」
朽木がバインダーとペンを係官に返すと、江ノ木は内容を確認した。
「ご協力ありがとうございます。以後、よろしくお願いいたします」
「車までご一緒します」
移送車がおかれている場所まで、センターの職員が伴わなければ戻ることはできない。朽木を先導として、一行は檻を押しながら元来た動線を戻る。冬子は最後尾につき、係官たちの後ろ姿を見ながら、自分も発砲の対象になり得るのだとあらためてかみしめた。
「こちらのセンターも、満室ですか」
車まで戻り、檻を積載しながら江ノ木が言う。朽木が肯んじると、「つくばも千葉も満室です。この状態のまま関東で新規感染者が発生したら、仙台か名古屋へ行くことになる」と江ノ木は息を吐いた。
「先ほどの滝縞の感染元である女性は、誰から感染したかわかっているんですか」
江ノ木は首をふる。
「最近では、Ⅰ型からⅡ型への変異感染が増えています。今回のジャンキー女も、感染に気付いていないⅠ型の相手から、うつされたのかもしれません」
「当分、この状況は続きますかね」
「続かないように、こちらのセンターにも研究を頑張っていただきたいものです」
江ノ木の最後の言葉は皮肉めいていたが、朽木は特に反発もせず「毎度ご苦労様です」と目礼した。係官たちはそれ以上何も言わず移送車に乗り込み、センターを後にした。
移送車を見送り、裏門の施錠を確認したとき、朽木が首から下げているモバイルフォンが鳴った。
「多ヶ谷先生からだ」
朽木は電話に応答しながら歩き出した。冬子もその背中を追う。朽木が発する言葉だけでは、会話の内容がわからない。ただ、朽木は一方的に話をきいているだけのようだった。
「わかりました。ご連絡ありがとうございます。失礼します」
朽木は電話をきり、歩きながら「林野さん、俺の後ろじゃなくて、俺の横にきて」と左手の人差し指で自身の真横の地面を指した。冬子は言われた通り、朽木の横に並ぶ。
「肖像真心子の検査結果について」
全身の肌が粟立つ。今日は検査をしてから三日目だった。検査結果が判明する日である。
「――彼女、陰性だったって」
冬子は思わず立ち止まった。
陰性。
肖像真心子は感染していなかった。
「林野さん、俺の後ろじゃなくて、俺の横にきて」
朽木は立ち止まることなく進んでいく。冬子はそれを追いかけることができなかった。
「林野さん!」
先を歩いていた朽木は立ち止まり、冬子を振り返った。
「俺の横に来られないなら、今日はもう帰りなさい」
行かなきゃ、と思う。しかし、冬子の体は動かなかった。自死を選んだが結果的に感染していなかった肖像、あと二十日後には虫になる滝縞、感染しているにも関わらず普通に暮らしている自分。――この差はなんだ?
「朽木先生。すみません、わたし、早退扱いにしてください」
冬子は朽木の返事を待たずにセンターの建物まで行く道から横へ逸れた。脇目もふらずに前を見て大股で歩く。そうでなければ叫び出してしまいそうになった。
目的の場所は焼却炉の裏だった。焼却炉はセンター内で死亡した感染者の遺骸を荼毘に伏すとき以外に使用することがないため、めったに人がくることはない。
冬子は入職以降、精神的にどうしようもなくなると、ここへ来てひとりで時間をやり過ごすことが年に数回あった。ここには年季の入った丸椅子がおかれていた。冬子がおいたものではない。何回か来るうちに、いつの間にかおかれていた。どこかの部署がもてあました椅子を廃棄したのだろうと勝手に解釈し、冬子は自分の椅子として使用していた。
その椅子へ座り、空をあおいで深呼吸する。遠くに積乱雲が浮かんでいた。あっけらかんとした夏の空だった。十六時を過ぎているはずだが、まだ陽は高い。嫌になるほど明るい夏の空だった。
「林野さん」
唐突に声がした。冬子が驚いてその声のほうへ顔を向けると、そこには朽木が立っていた。
「尾けてきたんですか」
「顔面蒼白になってどこかへ行ってしまう部下を心配したんだ。隣にいさせてくれ」
朽木は冬子が座る椅子の横へ、焼却炉の外壁に背をあずけた。
「多ヶ谷先生だが、検査の結果を電話で肖像真心子の母親に伝えたそうだ。母親は『わたしには関係がない』と言ったらしい」
「……ひどい」
「結果がわかっても、死んだ娘は帰ってこない。そういう意味での『関係ない』なら、同情に値する」
「生前の肖像さんの話からすると、そんなことはないと思います」
朽木は「そうだな」とつぶやくように相槌をうった。
「滝縞さん、わたしの同級生なんです。顔も覚えていない間柄ですけど、でも、思うところはあります。彼は婚約者がいるのに、二十日後には人間じゃなくなる。肖像さんは感染していなかったのに死んだ。わたしは感染していて、好きだった人も死んだ。それなのに、どうしてわたしは生きているの」
「そんなこと、考えてどうする」
「だって」
朽木は嘆息した。
「絶望しきれていないからだ」
かすれた声だった。
「肖像真心子は絶望した。だから自殺した。きみはそうじゃない。それだけだ」
「わたしが絶望していないと?」
「検査ルームに来た時の、高校生だったきみの顔、覚えているよ。感染の有無がわかっていないのに、生気のない腐りかけの魚のような目をしていた。絶望している目だと思った。もうひと押ししてしまえば、崖から落ちてしまうような目だった。だから、その一週間後に結果を聞きに来てくれたときには安心した」
「朽木先生は自己満足からわたしの感染を隠したとおっしゃっていました」
「そうだ。きみを助けたつもりはない。今でも自己満足は続いている」
「わたしが感染した事実を不条理だともおっしゃいました。肖像さんや滝縞さんが感染したことも不条理でしょう。不条理に絶望したら、人は生きていけますか。たぶん、肖像さんは絶望に耐えられなくなって死んだんです」
「絶望に中庸はありえない。少しの絶望で死んでしまう人間もいれば、どんなに大きな絶望でも生きようとする人間もいる。きみと肖像真心子では絶望のキャパシティが違うだけだ。現にきみは生きてくれている。入職試験の名簿にきみの名前を発見した時、俺は心底安堵した」
思わず冬子は朽木を見上げた。
「先生、人事部でもないのに入職試験の名簿なんてどうやって見たんですか」
「VRCはシステム関連を外部委託せず、すべて自前でまかなっている。サーバーに侵入できれば、人事部のクラウドファイルを見ることくらい簡単だ」
とにかく、と朽木は息をつく。
「とにかく俺はよかったと思ったんだよ。あのとき見逃した女子高生が、まだ生きていたことを」
冬子の腹の奥で、虫が「ぞわり、」と動く。そこには何もいないのだから動くはずもないのだが、自分の中に虫を感じる。そいつは自己の存在を訴えるように「ぞわり、」と蠢く。
「いろいろ考えてしまうんです」叫びたい。「お腹の中に、いないはずの虫がいて」いっそ叫んでしまいたい。「わたしを脅すように動くんです」息が吸えない。「こんなの、どうすればいいんですか」
朽木は何も言わなかった。彼はただ黙って冬子の横に佇んでいた。冬子が自ら椅子から立ち上がるまで、微動だにせずそこにいた。
翌日の回診で朽木が雪持諭留に桂樹軒のステーキを取り寄せて食べたことを話すと、雪持は思いがけない報告に驚いたのか「なぜ、桂樹軒を?」と不思議がった。
「奥様の満月里さんが教えてくれました。雪持さんの好物だと。通販サイトがあったので購入してみたのですが、とてもおいしかったですよ。深みのある肉汁が別格で。雪持さんも、生活支援部に頼んで通販を利用されてはいかがですか」
朽木は滔々と味の感想を述べると、ベッドに腰かけた雪持は「それはよかったけど」と困ったように笑う。
「あれはね、お店のできたてが一番なんですよ。厨房の鉄板で焼いたものを、冷める前にホール係が一秒でも素早く提供してくれる。あのおいしさを知ってしまったら、通販なんてとてもじゃないが頼んでみる気にはなりません」
朽木は受け流すように笑った。通販以外にどんな提案をしろと言うのだ。そう言いたげな笑い方だった。冬子はやりきれない思いを胸にしまい、会話をカルテに記録した。
二日後の午後、冬子と朽木はそろって村名賀に呼び出された。業務についての指導かと思いきや、部長が机越しに朽木へ渡したものは一枚の紙切れだった。レイアウトからして、週刊誌の記事のコピー。
「なんですか、これは」
朽木が持つ紙切れを覗き込んで、冬子は短く声を上げた。記事のタイトルは『絶倫コンビニ店長の愛人は女子高生だった!』とある。
「先日、そこの緑地の池で亡くなっていた高校生に、きみたちは会っていたそうだね」
「ええ、守衛所で……」
「彼女のことだよ、その記事」
冬子は生唾を飲み込んで記事を読んだ。
『先週の本誌で報じた変身症に感染したコンビニ店長の夫と妻の無理心中について、新たなスクープだ。コンビニエンスストア店長のXが妻帯者であるにも関わらず多数の女性と性交渉に及んでいたことは既報のとおりだが、その一人に女子高生がいたことが判明した。女子高生はXが経営するコンビニエンスストアのアルバイト店員だった。この女子高生をSとする。Sは高校入学直後からXが経営するコンビニエンスストアで週に三回、基本的に学校が終わってから夜の九時までアルバイトをしていた。このコンビニエンスストアで雇われた女性店員はSと、日中に働く還暦過ぎの主婦だけだった。女好きのXがSに目をつけた時期はいつか。もしかしたら、初めからそういうつもりでSを雇ったのかもしれない。Sが高校一年生の六月くらいから、Xは仕事あがりのSを自家用車で自宅まで送るようになった。これは他の元アルバイト店員が証言している。夜道は危険だからと言って、Xは自身がシフトに入っている夜は仕事を他の店員に任せてSを送った。それはだいたい週に一回のことだったそうだ。コンビニからSの自宅まで、車で往復二十分程度である。しかし、証言した元アルバイト店員は、XがSを送るために外出すると、一時間は戻らなかったと言う。長時間、二人は何をしていたのか。Xは車をSの自宅とは逆方向に走らせ、人通りが少ない道に停車し、そこで性行為に及んでいたのである。昨年の六月から、今年の七月まで、およそ一年にわたり、五十回以上もXとSは車の中で抱き合ったのだ。しかも、Xは行為の際に避妊をしていなかった。女子高生に対してまで「気持ちいいから」と言ってコンドームをつけずに挿入したのである。コンビニの人員が足りない時は、妻もSと同じシフトに入ったこともあった。Sは高校生でありながらXの愛人を務めたのである。もしかしたら、このためにアルバイトを続けていたのかもしれない。SはXの死後、自身が変身症に感染しているかもしれない恐怖に囚われ、公益財団法人変身症研究センターを訪れ、検査を受けた。この記事を書いている時点で検査結果は出ているはずであり、厚生労働省特殊感染症管理局のホームページには陽性者としてSの情報が掲載されていないことから、Sは陰性だったと考えられる。しかしながら、Sはその結果を知らない。Sは検査を受けたその日、変身症研究センターの横にある緑地内の池に身を投げて死んだ。折しもその日は、台風によって水嵩が増し、緑地内の公園にも人はいなかった。Sは誰にも助けられなかったのである。Sは遺書を残さなかった。彼女はなぜ死んだのか。感染しているかもしれない恐怖に負けたのか、はたまた不倫相手のXの死に世を儚んだのか。Xの妻と働いているとき、Sは何を思っていたのだろうか。真相は神のみぞしるところだが、絶倫コンビニ店長は一人の若者の命を奪ったことだけは確かだ。』
気づけば冬子は両の手を強く握りしめていた。その拳はわなわなと震えている。
「その記事に書いてあること、当事者の高校生から聞いたか?」
「そうですね」朽木が答える。「店長との行為が五十回以上に及んだとか、避妊されなかったとか、車の中で行為をしたとか、そういった具体的なことは肖像真心子から聞きました」
「彼女は、その事実をきみたち以外の誰かに話したようなことは言っていたか?」
「いいえ。林野さんが肖像真心子本人に確認しましたが、我々以外の人間には言っていないと」
「それなら、たとえば車の中で性行為を五十回以上したと、どうしてここに書いてあるのだろうか」
「村名賀先生」冬子の語気は強くなる。「わたしや朽木先生を疑っているんですか。こんなこと、リークするわけないじゃないですか」
「きみたちのことは疑っていない。そのコピーは人事部長から渡された。人事部長は総務部から。もしも職員しか知り得ない受検者のプライバシーを週刊誌にリークしていたら、懲戒沙汰になる。その記事には、うちの職員から情報提供があったとは書かれていないが、調べないわけにはいかないんだ」
「わたしは週刊誌の記者と会っていませんし、朽木先生だって」
「他には? 彼女と会った職員は、他にはいないのか」
「あとは、広報の喜川さんと、一般検査部の多ヶ谷部長、守衛長ですが――」
言いながら、冬子は息をのんだ。記事の「もしかしたら、このためにアルバイトを続けていたのかもしれない。」、これは執筆した記者の憶測だろうか。リークした人間が、自身の推測を話したのではないか?
「守衛長ですね、リークした人物は」
冬子より先に、朽木が断言した。
「あの人は肖像真心子から話を聞いて『五十回もなんて十分合意じゃないか』と言いました。その認識で、記者に対して『女子高生は店長の愛人だった』という趣旨で情報提供することもあり得ます。それに、守衛長は、俺が肖像真心子や林野さんをかばう発言をすると、あからさまな不快感を示しました」
「そうか」村名賀は心底嫌そうに息を吐いた。「あの守衛長、あと一ヶ月で定年退職なんだ。いま懲戒免職になったら、退職金が出ないだろう」
「自業自得でしょう」
「あの人はVRC設立当初からここで働いているんだよ。だが、朽木君の言うとおり自業自得だ」
村名賀は腰をあげた。
「人事部長のところに行って、いま教えてくれたことを話してくる。おそらくこの後、人事部長が守衛長にヒアリングするだろうが、その結果次第では懲罰委員会が開かれて処分が下る。それまでは他言無用だ」
村名賀は冬子と朽木を部屋に残したまま出て行ってしまった。朽木は無言のまま、部屋の隅にあったシュレッダーへ記事のコピーを投入した。メリメリと音をたてて紙は粉砕されていく。冬子は嫌な予感を覚え、朽木をおいて自分のデスクに戻った。インターネットの検索サーチで「肖像真心子」と入れてみる。
案の定、彼女の名前や写真がたくさんヒットした。それらには週刊誌の記事に基づく情報が添えられていた。写真は卒業アルバムや、学校行事の写真がほとんどだった。画像の一覧の中に、変身症研究センターの外観写真や、蛹化を終えた蛹や、虫の画像もある。艶かしい女の裸体に肖像の首から上をコラージュした写真まであった。
「林野さん、いる?」
ノックもせず無遠慮に喜川が入室する。他の臨床部員が何事かとこちらを見やる。喜川は冬子のパソコンを見て、あからさまに顔を歪めた。
「さっき、守衛長のところに行って問いただしたのよ。そうしたら、自分がリークしたって簡単に吐きやがった。それが悪いなんて思っていないみたいに。わたしに言ったところでどうともならないだろうって馬鹿にしたように。悔しい。あの子を守衛所に入れた判断はわたしが下した。ごめんなさい、林野さんも巻き込むことになってしまって」
「きみが気に病んでどうするんだ」
いつの間にか背後にいた朽木が、冬子のパソコンを覗き込んでいる。
「きみに止められることではなかった。仕方がない」
「言われなくても分かってる。そう、わたしに止められることじゃなかった。だからいま、できることはやっている。VRCとして、週刊誌を発行している出版社に抗議文書を送ったし、うちのホームページにも今回の件に対する説明の文章を掲載する予定。おそらくセンター長が記者会見を開くまでにはならない。でも、こんなことになってしまったら」
喜川は肖像の写真であふれるパソコンの画面を見て、拳を震わせた。
「この子の尊厳は、もう二度と回復できない。奴らにとって、こんなこと――仕事の合間に食べる一口のチョコレートと同じなのよ。たった数秒得られる満足。そのために、肖像真心子は消費されている」
くそったれ、と喜川はつぶやいた。この世のあらゆる怨嗟を煮詰めたような声だった。
村名賀から事情聴取を受けたその日のうちに、冬子と朽木は人事部長やコンプライアンス管理部長からも呼び出しを受け、村名賀に対して説明した内容をもう一度話した。いずれの部長も、冬子や朽木を疑っている様子はなく、淡々と話を聞くだけだった。
数日のうちに懲罰委員会が開催された。審議対象は守衛長だった。結果は委員会の翌日、人事通知で職員に知らしめられた。『懲戒免職』。
センター内のポータルサイトに掲載された通知を見て、冬子はため息をついた。
「林野さん」ため息を咎めるように、朽木が声をかけてくる。「セントラル西病院の乳腺科の先生から巴まひるさんに推奨される処方内容が届いた。いま印刷するから、とって」
部屋の隅の複合機が紙を何枚か吐き出していた。冬子が見ると、そこには聞き覚えのある抗がん剤名と、処方内容が記載されていた。
「明日の午後イチで薬剤部の三居さんと打ち合わせよう。三居さんには俺からアポを取っておくから、それまでにそれ、見ておいて」
「これ、セン西で使っているレジメンですよね。それに、抗がん剤投与に必要な輸液ポンプを、うちでは保有していません」
「三居さんは前任の総合病院で臨床経験があるから、彼にも全面的にサポートしてもらう。輸液ポンプはセン西から借りよう。このあいだ、三居さんにこの件を話したら乗り気だったよ」
それはそうだろうと冬子は納得する。この施設の薬剤部は一般の病院より給与は高いが、仕事はつまらないといって頻繁に人の入れ替わりがある部署だ。基本業務は収容者に処方する薬剤の管理くらいしか与えられていない。
「――あと、別件。俺、明日の夕方にある学術委員会に出席するから。村名賀先生が申請者で、俺はオブザーバー」
「村名賀先生、なにをされるんですか」
朽木は詳細を教えてはくれなかった。長門の方を見てみるが、話に参加する気配はなく黙々とデスクワークに励んでいる。気にはなるが、それ以上の追求はやめた。学術委員会で承認が下りれば、どのような研究か部長から説明があるはずだ。
翌日の回診で巴まひるの部屋を訪れ、セントラル西病院から抗がん剤治療に向けて動き出したことを話すと、巴は素直に喜びの声を上げた。
「じゃあ、そのナントカ審査委員会にわたしの治療がOKされれば、わたしの延命ができるってことですね」
「特別加療審査委員会です。大丈夫ですよ、治療は必ず行えるよう準備します。――ところで、巴さん、それは」
巴はテーブルに英語の参考書を広げていた。それ以外にも、経理や法務関係の資格試験の参考書が積んである。
「生活支援部の人に頼んで、通販で購入したんです。もし、がんからサバイブできて、もしもUNGウイルスを体内から消せる治療が開発されたら、つまりもしもこの部屋から解放されたら、自立して生きていこうって決めたの。そのためには仕事しなくちゃならないでしょ。そのための準備」
話す巴は、子供が明日の遠足を楽しみにするかのように明るく浮き足立っていた。
「ここを出ることがあっても、絶対に家族のところには戻らない。わたしは捨てたの。夫も、息子も娘も。わたしが捨てたの。家族を」
巴は積んである参考書の下から一枚の書類を取り出した。それは離婚届だった。
「ここを出られたら、まずはじめにこれを役所に届けにいく。子供とも離縁する。今のわたしをないことにしている家族なんて、わたしから捨ててやる。これまで家族にそそいだ愛情は消えないけれど、これから家族にそそげる愛情を、わたしはもう自分の中に持つことができないから」
離婚届の各欄はすべて巴の字で埋められ、あとは捺印するだけの状態だった。夫の枠に書かれた「巴蘭奢」という字は、真ん中の文字だけが歪に大きい。
「これも生活支援部の人に用意してもらったの。なにからなにまで、ありがたいわ」
そうですか、とだけ朽木は言った。冬子は何も言わなかった。巴は二人を見上げ、悲しげに笑った。
「母親が子供を捨てるなんて、こんな母親はひどいと思う? でも、子供と言っても二人とも自分で考えて、人に優しくできる年齢よ。それなのに、わたしにいっさいの配慮を与えてくれないの。親子の話ではなく、人と人との関係の話よ、これは。これまで親密に接してきたのに、わたしがこんな体になったせいで心が離れてしまうなんて、そんな相手をどう信用しろと言うの? 家族だからって絆を保てると思ったら、それは人間としての怠慢。家族でも、その関係性を維持するための努力は必要だし、それが難しくなったらそんな関係はなくしてしまって良いと思うの」
巴はもう一度「こんな母親、ひどいと思う?」と問うた。
「ひどい、という言葉は対象を評価するときに使う言葉です。巴さんの人生は巴さんのものですから、俺や林野さんが評価することはできません。たとえお子さんが巴さんに対して『ひどい』と言ったとしても、お子さんは巴さん自身ではありませんから、その評価も気にしなくていいと思います」
淡々と応じる朽木を見て、巴は少しばかりの間のあと弾けるように笑い出した。
「嫌だな、わたし、『ひどい』って言ってもらえると期待していたみたい。『ひどい』って言ってもらえれば、考え直したほうがいいかなって思えたのに。――よかった。おかげで迷わなくてすんだ」
晴れやかに笑う巴を見て、冬子はむしろ、胸が痛んだ。ウイルスに感染しなければ、巴は家族を捨てる決意などしなかったかもしれない。
「子供たちの名前、わたしと夫に由来する漢字を当てたの。二卵性双生児の子たち、息子は『朝水』で娘は『夕香』。わたしの『まひる』からは『朝』と『夕』、夫の『蘭奢』からは香りにまつわるとして『香水』を二つに割った。でも、名前で縛っているからって、家族がつながれているとは限らない。妊娠していたころのわたしに、教えてあげたいわ」
「名前は記号にしか過ぎません。人間関係は、互いの努力で築くものです」
「そうね。そのとおりね」巴は淡々とうなずく。「朽木先生は達観しているのね。ご両親はどんな方だったの?」
朽木は口調を一切変えず、「俺の親は世間から太鼓判を押されるようなクズでしたよ」と一言した。
冬子と巴は思わず顔を見合わせる。朽木がこのように答えるとは冬子も、おそらく巴も想像していなかった。
そういえば、と冬子は思う。五年近くも共に仕事をしている中で、朽木の家族や生い立ちについて聞いたことが一度もなかった。聞く機会もなかったし、朽木も話そうとしなかった。
巴は「そうなのね」とだけ言ってそれ以上は訊ねなかった。朽木も特に話を広げず、普段通り、巴の体調を確認し、回診を終了させた。
十五時過ぎ、朽木は学術委員会のために席を外した。
冬子は看護系のジャーナルサイトで変身症施設でのサポートに関するトピックスを検索する。巴のため、UNGウイルス感染者が他疾患の治療を行う際の看護側の留意点を知りたかったのだが、思うような論文やレポートは存在しなかった。それだけではない。施設に収容されたUNGウイルス感染者は精神面の不調をきたす者が多いが、その点に関する資料も見つからなかった。
それはそうか、と冬子は思う。変身症施設は病院ではない。研究施設だ。一般的な看護は必要とされない。だが、そんなことでいいのだろうかとも思う。
他のジャーナルサイトや、海外のサイトも探したが、結果は同じだった。二時間近くパソコンの画面にかじりついていたせいか集中力の低下を感じたため、一休みしようと冬子はテレビをつけた。
夕方のワイドショーが流れる時間帯だった。民放の番組で、グルメ情報を流している。『安くて旨い』と売り文句にする寿司屋で、リポーターの若い芸能人が大きい目をさらに大きくして安さと味に驚いている。映し出された寿司をぼんやりと見つつ、冬子は食べたいとも思わない。テレビは忙しなく画面が変わり、次はカレーを紹介していた。
テレビの内容にもすぐに飽きて、チャンネルを消そうとした時だった。トピックが変わり、聞いたことのある名前が流れてきた。徳坊総理大臣。日本酒のプロモーションイベントに総理大臣が招待された話題だった。
どこかの会場のステージで総理大臣が専門家らしき人物と談笑している。四年ぶりに政権奪取を果たした与党の長は、国民に対する友好を行動でもって強調していた。
徳坊氏の横には『啓蟄』とラベルが貼られた酒瓶があった。これは総理が愛する地元のお酒で、と紹介されている。そういえば、徳坊初代センター長の好きな酒も『啓蟄』だったな、と冬子は思い出す。兄弟なのだから、馴染みの酒が共通であっても不思議ではないかもしれない。恰幅のいい総理は豪快に笑いながら日本酒の良さを語っていた。その内容は冬子の耳を素通りしていった。
そろそろ仕事を再開しようとテレビを消したとき、長門と鼓が戻った。二人とも、夕方から感染者の家族と面談の予定だと言っていたことを冬子は思い出す。
二人とも疲れた様子だった。鼓は大袈裟に自分の肩を揉んでいる。
「林野さん、残っていたの?」
「お二人こそ、お疲れ様です。ご家族の面談、長かったですね」
「母親は遺灰を渡せと言って泣くし、父親は俺があいつを殺すとわめくし、さんざん」と、鼓は肩をまわす。
「どなたのご家族ですか?」
「滝縞吉信さん。あと半月で蛹化しちゃうでしょ。家族が説明を求めてきたから会ったけど、向こうの要望は応じてあげられないことばかりで」
気持ちはわからないでもないんですがね、と長門もうなずく。
「婚約者は滝縞さんの会社に乗り込んで、彼をクラブに誘った先輩を包丁で刺して現行犯逮捕されたらしい。父親は会社から出勤停止を命じられた。専業主婦の母親は近所のスーパーから出禁をくらったそうだ」
「包丁で刺された方、どうなったんですか」
「命に関わる傷にはならなかったみたい。でも、刺した場所が右腕なんですって。神経を損傷したみたいで、障害は残るかもしれないって」
冬子は「そうですか」としか言えなかった。滝縞吉信が自身の同級生であることは、朽木以外には言っていない。
「本人の様子はどうですか?」
「ふさぎこんでるよ。雑談にも応じない。テレビさえつけず、丸一日布団をかぶってまるまっている。彼のストレスが俺たちや生活支援部に向くことも考えて、明日以降、部屋に立ち入る際には警備部につきそってもらったほうがよさそう。鼓先生、いかがですか」
鼓は「賛成」と手を上げる。長門はさっそく内線電話で警備部に交渉を始めた。それを尻目に、鼓は「林野さんはまだ残業?」と冬子に話をふる。
「507号室の巴さんが、抗がん剤治療を開始することになりました。それで、サポートの方法を考えていて」
「乳がんだっけ」
「ええ。ここにいなければ、手術適応になっていたのですが」
「延命して、本人は苦痛を感じない?」
「今のところは、大丈夫そうです」
今のところの話である。ひと昔まえに比べて抗がん剤の副作用は軽くなったと言われるが、しかしまったくないわけではない。ましてや、その治療を超えた先にある未来では成虫化するのみ。それまでに巴が期待するUNGウイルスの治療法が確立されている可能性はほとんどゼロに近い。その現実を直視した時、自分は彼女を支えられるか、冬子は自信がない。それを鼓に話すと、年配の医師は「ここに精神科医がいればいいんだけどね」と腕を組んだ。
「わたしは消化器外科、倉橋先生は整形外科、梶川先生は消化器内科、朽木先生にいたっては臨床経験皆無の研究者だからね。精神科の領域に強い人間がいない」
「雇用は難しいでしょうか」
「以前、朽木先生が赤西前センター長に打診したらしいけど即却下されたって。やっぱり人件費がネックでしょう。せめて補助金が出ればいいんだけど」
センター長が変わっても難しいだろうね、と鼓は肩をすくめる。
「研究助手も、女性三人は看護師でしょ? 長門さんに至っては、前職が検査会社で臨床検査技師だったわけだし」
鼓が長門を親指で示したとき、長門は警備部との電話を終え受話器をおいた。
「俺の話ですか」
「みんなの経歴の話。長門さん、なんでここに転職したんですか」
「前の会社の上司と反りが合わずに転職活動をしていたところで、設立間近のVRCで職員募集をやっていたからです。おかげさまで勤続十八年。薄給でも家のローンは返せています。鼓先生こそ、パートするにしてももうちょっとマシな職場があったでしょ」
「給料はね。でも、ここは比較的労働時間の融通がきくから」
「そういえば、鼓先生、帰らなくて大丈夫ですか」
冬子が聞くと、鼓は「今日はいいの。遅くなると思って、あらかじめチャイルドシッターの時間延長を頼んでいたから」と答える。四歳になる鼓の息子は障害があり、日中はシッターサービスを利用しているらしい。
「わたしの給料なんて全部そのシッター代になるんだけど、でも家に息子と二人きりより、働いている方が自分を保てる。ただ、出産前同様に医局勤めは厳しくて、それで転職先を探していたときにここの求人を見つけたの。わたし、出産前は毎日大腸をかっさばいていたんだよ。ほら、辞める時の記念にオペの器材、もらってきたの」
鼓は自分のデスクの一番下の引き出しから、滅菌パックされたメスや鉗子を見せびらかすように取り出した。冬子と長門は驚きをもって無言となる。
「これが欲しいって言った時、オペ室の師長にも持って帰ってどうするんだって言われたけど、心の拠り所みたいなものなんだよね」
「そんな人が、どうしてVRCに転職したんですか。ここで手術はできません」
冬子が問うと、鼓は「そうなんだけどね」と器材を引き出しへしまう。
「わたし、大学は地方の国立大だったんだけど、二十一年前の四年生のとき、大学の近くで宗教法人の事件があって。ほら、あれ。信者が道場に閉じ込められて虫に喰われて、警察が殲滅した事件。所属していたサークルに法医学教室の先輩がいたから、わたしは単なる好奇心でその人に頼んで被害者の司法解剖に立ち会ったの。そのときに見た虫の歯形にショックを受けたの」
「歯形ですか」
「四十代くらいの男性の筋肉質な腕に、拳くらいの大きさの歯形。肉を噛みきれなかったような歯形。そういえば、小さな女の子が虫になったんだなって思い出したら、どうしようもない辛さがわきあがってきて。それ以降、わたしは変身症に関わることはなかったけれど、でも無意識の中にその歯形の残像がずっとあったんだと思う。ここの求人を見たとき、『ここしかない』ってひらめいて、履歴書を提出していた」
「あれはひどい事件でしたからね。林野さんは、そのころ生まれてた?」
「当時六歳で、ぼんやりとニュース映像を見たような記憶はありますが、事件の詳細はここに入職してから知りました」
「UNGウイルスに感染させられて虫になった女の子も、当時六歳だったよ」
長門に言われて、冬子は曖昧にうなずいた。被害者である幼女のことを思えば辛くなるだけである。
「結局さ、生き残ったのは一人だけ。その宗教法人の教祖の息子」
「え」驚きの声をあげたのは長門だった。「生き残りの素性は初めて知りました。公になっているんですか、それ」
「なっていないと思うわ。わたしも、学内の噂で聞いただけ。教祖の息子が道場から一人で逃げ出して、警察に助けを求めた。彼は事件後、しばらく大学病院のVIPルームで検査入院をして、そのあとは親戚の家だか児童養護施設にひきとられたって」
「もし生き残りが教祖の息子なんて知れたら、遺族はやるせないだろうな」
「息子もまだ十三歳だったらしいし、教団の運営には関わっていなかったでしょうから、遺族から報復を受けることは絶対に避けなければならない。だから警察も彼を守ったんでしょう」
「二十一年前に十三歳。いまじゃ三十四か。どこでなにしてるんだか」
「案外、近くにいたりして」
「鼓先生、もしかして朽木先生を想像してます?」長門が冗談めかす。
「まさか。年齢は近いでしょうけど」
冬子が朽木は三十六歳であると言い添えると、鼓は「ほらね」と笑う。
「さて、わたしはそろそろ帰る。林野さんは、まだやっていくの?」
「もう少しだけ頑張ります」
鼓と長門はその後、職務上のやりとりをいくつか済ませ、それぞれ帰宅していった。冬子はひとりでジャーナルサイト内の探索を行った。一時間ほど経った頃、ようやく村名賀と朽木が部屋へ帰ってくる。
勢いよくドアを開け、大股で入室してきた村名賀の目は爛々と光り、鼻息が荒かった。パソコンや書類を乱雑に抱えている。残業をしている冬子を認めると、「林野さん珍しいね。あまり無理しないように」と当たり障りのない声がけをして部長室に引っ込んでしまった。
「学術委員会、うまくいったんですか」
冬子が尋ねると、朽木は「まあ」とうなずいた。
「承認はされたが、質疑応答に時間がかかって予定時刻をだいぶオーバーした」
「村名賀先生の新しい研究って、なんなんですか?」
「明日、みなさんに発表があるよ。林野さん、いま何やってるの?」
冬子は作業中の内容を説明した。朽木は冬子を労い、きりのいいところで帰るよう指示する。
「仕事熱心はいいけど、自分の時間も大切にしなさい」
冬子は曖昧にうなずいて、「帰ります」と返事した。
翌朝、全部員が出勤し、始業時間になったとき、普段は沈黙している部長室のドアがおもむろに開いた。
「みなさん、おはようございます」
何事かと皆が振り返り、立ち上がろうとする。村名賀は「座ったままでいいから」と手で制し、話があるから少し時間をくれと前置きする。
「昨日、学術委員会があって、わたしが申請していた研究が通った。ついては、みなさんにも協力してもらうので、簡単に研究の概要を説明させてほしい」
村名賀は八人の部員全員を見渡した。
「虫同士の交配実験を行う」
束の間の後、誰かが小さな声で「は?」と言った。冬子も言葉の意味が理解できなかった。
「成虫化した感染者同士、つまりオスとメスを一体ずつ同じ水槽に入れ、交配するかどうかの観察実験だ。首尾よく交配し、子供が生まれたら、その新個体の観察を行う。世界初の実験となる」
全員が村名賀を見つめた。確かに世界初だろう、そんなことを行った研究施設など聞いたことがない。
「虫に生殖器官があることは既知の通りだ。今まで活用されなかった生殖器を利用する」
確かに、解剖によって虫にも生殖器官があることは知られている。オスもメスも胸部に生殖器官を有している。
「部長、その実験の、意義は」
うまく出ない言葉を無理につむぐようにして問いただしたのは長門だった。
「感染者の検体から得られるゲノム情報は、もはや解析され尽くした。全世界の研究者が研究しても、有用な治療開発の糸口が見えていない。新たな情報として、虫の子孫のゲノム解析を行えば、これまでとは異なった研究成果が上げられると考えた。人間から虫になった虫ではなく、生まれた時から虫である虫の、遺伝子がほしい」
皆、朽木以外はあっけにとられて村名賀を見ていた。冬子が朽木を見やると、彼はいつもの無表情を崩さず、腐りかけの魚のような目で宙を見つめている。
「ついては、まず研究補佐として朽木君に全面的な協力を依頼した。彼は、ABO血液型を利用した検査方法の開発実績がある。また、みなさんの協力も必要だ。後日、打ち合わせの時間をもうける。長門さん、時間の調整を頼む」
長門は戸惑いつつも返事をした。村名賀は一方的に「収容者にはこの話はしないように。では、よろしくお願いします」と軽く頭を下げ、猫背を見せて部長室に引っ込んだ。後に残された臨床部員たちは、無造作に閉められたそのドアを呆けたように見つめた。
「朽木先生、どういうことですか」
長門が口火をきる。
「昨日の学術委員会で承認されたんですか。あの委員会はセンター長もいるでしょう」
「いますよ。センター長が、承認したんです。だいたい、長門さん、うちの学術委員会は一般的な研究機関に存在するようなIRBと違うことはご存知でしょう。計画性がなかろうが当てずっぽうだろうが、何かを得られる可能性が少しでもあれば、研究の実行を可能とする。学術委員会は研究開始前に審査、承認をしますが、よほど予算上の問題などがない限りその申請が却下されません。安瀬先生がセンター長に就任されてからは尚更です。そのフットワークの軽さがこのセンターの利点ですから」
「費用以前の問題です。成虫化したとしても、彼らは人間だった生命体です。それを、研究者の勝手で交配だなんて悪趣味にもほどがある」
「悪趣味とは、あなたの感想にしかなりません」
「倫理から外れていると言いたいんだ」
「倫理?」
それまで不動だった朽木の眉尻が少しばかりつり上がった。
「俺たちは感染者を収容し、虫になるまで、あるいは死ぬまで外界から隔離している。インターネットも使用させず、連絡手段も与えていない。屋外に出ることも、他の収容者と接触することも禁じている。なんの罪も犯していない、たまたま感染しただけの人間を、WHOの指針だの国の法律だの大義名分を盾にして監禁している。その上、研究と称して効果があるかも不明な薬剤を与えたり、病気の治療を放置することもある。そんな俺たちに、いまさら倫理を語る資格があるんですか」
長門は唇を噛んだ。他の者も、何も言わなかった。言えなかった。データは倫理より優先される、それが変身症研究におけるシステムだ。収容者たちに感じている罪悪感の根源に、自分たちの意思は介在していない。
「朽木先生」冬子は無思考のまま、口を開いていた。「俺たちって、なんですか」
朽木が正面から冬子の顔を見た。冬子は一瞬たじろいだが、拳を握って見返した。
「この部署ですか。それともセンター? 国? 世界? 朽木先生が言う俺たちって、なんのことですか」
「人間だろ」
即答だった。
「人間が、人間に対して人間としての有り様を奪っているんだ。人権思想を持っている現代人にとってそれは屈辱的なことであると、きみもわかっているはずだ。この状況から脱するためには手段を選ばない。そのために、このセンターは作られた。村名賀部長の研究は、このセンターの特性を最大限に生かしたものだ。――みなさんも、異論や反論はあるでしょう。ですが、これは決まったことです。協力できない場合、ついて来られない場合は、退職をご検討ください」
朽木は言ったきり、部員に背をむけてデスクに向き直ってしまった。残された七名は互いの顔を見て戸惑いを隠さずにいたが、じきに三々五々それぞれのデスクに向かっていった。冬子も先輩たちの背中を見て自分のパソコンに向き直ったが、目の前の業務に集中できなかった。
虫を交配させる。虫になった人物の意思は関係ない。そもそも虫になったら人間と同等の知能を失う。虫の雌雄を同じ水槽に入れれば、自然の本能で交尾をするのだろうか。――自分が虫になった末には、今の意思とは関係なく交尾をする?
気づいた瞬間、胃が蠕動した。冬子は黙って部屋を飛び出し、トイレに駆け込んだ。朝、食べたものを便器に吐き出した。吐き足りず、胃液までもが上がってくる。何度か水を流して、ようやく落ち着いた。気づいたら、顔は涙と鼻水と胃液でどうしようもなく汚れていた。それに気づいた瞬間、悪寒が腰から首筋へ駆け上がり、震えが止まらなくなった。
絶対に嫌だ。
たとえ人間としての意識を失ったとしても、誰かと交わりたくはない。センセイとの最初で最後の性行為が思い出される。気持ちいいとは思えなかった。苦しかった、冷たかった。二度と同じ経験をしたいとは思わない。自分はそのせいでウイルスに感染した。相手の男は自殺した。虫ならどうだ? 子孫を残す本能のまま交尾して、卵か子供かわからないが、孕み、産む。そこに自分の意思決定はない。感情もいらない。――人間であっても虫になっても、変わらないのか?
震える体をさすりながら、冬子はトイレの個室を出た。手洗い場で念入りに顔を洗い、うがいをした。朝に施した薄化粧は完全に落ち、目は腫れていた。胃液の臭いが自分から立ち上がっていた。手元にハンカチはなく、手洗い場にペーパータオルなどもなかったため、冬子は仕方なくユニフォームをめくり上げて顔を拭いた。
シャワーを浴びたほうがいいかもしれないと思いながらトイレを出ると、廊下に朽木が待ち構えていた。不機嫌そうに腕を組んで、壁に背中をあずけている。朽木は冬子を一目見るなり「今日の回診はやめよう」と言った。
「部長も言ったが、あの話を収容者に話してはならない。だが、きみがその様子だと何かと思う人もいるだろう。回診の中止は、生活支援部を通して収容者に連絡してもらう」
「……わかりました」
冬子は小さな声で「シャワー、浴びてきます」と朽木の横を通り過ぎた。いまはとにかく、顔を見たくもなかった。
シャワールームは地下一階の隅にある。警備部の夜勤や研究者の徹夜があるため、タオルやアメニティがストックされている。女子のシャワールームは個室が二つ、脱衣所に洗面台が一つあるだけだった。冬子も初めて使うが、女子は利用者がほとんどいないのだろう、脱衣所の電球は、その発光がじりじりと弱くなっているにも関わらず交換されていない。冬子は手早く服を脱ぎ、髪と全身を洗った。臭いはとれたが、洗い流したところでさっぱりとした気分になれるわけでもなかった。
ドライヤーで適当に髪を乾かし、シャワールームを出たときだった。廊下の向こう側のドアから、警備部の制服を来た大柄な男が出てきた。冬子と目が合うと、その男は「朽木先生のところの」と目を丸くする。
「俺は警備部の岩田です」
数日前、収容フロアに入るときに朽木に苦情を申し立てた職員だった。冬子より一回りほど年上に見える。
「ついさっき朽木先生に電話したんですけど、聞いていますか。502号室の人、トイレから一時間ほど経っても出てこないんですよ」
502号室は雪持諭留の部屋だ。警備部では収容者の部屋を二十四時間体制で監視しており、トイレや風呂から不自然に長時間出てこない場合は臨床部に連絡することとなっている。
「雪持さん、特に体調が悪いなどといったことはなかったと思いますが」
「朽木先生もそう言ってて、心配だから俺と先生でこれから見に行くところです。あなたが今日は忙しいと聞いていたので」
岩田は冬子の全身を見ながら皮肉っぽく言う。のんきにシャワーを浴びて何が忙しいんだとでも言いたげである。
「岩田さん、わたしが行きます。お手数をおかけしてすみません」
「いや、でも」
「なにかあったら呼びますから」
言い捨て、冬子はエレベーターに飛び乗った。嫌な胸騒ぎがした。四階で収容フロア直結のエレベーターに乗り換える。五階のエレベーターホールに到着し、職員カードと虹彩認証をクリアする数秒すらまどろっこしく自動ドアが開くなり準備室に飛び込む。そこには防護服を着用途中の朽木がいた。彼は驚いた顔で冬子を見る。
「地下一階で岩田さんに会って、話を聞きました。わたしも一緒に行きます」
「今日のきみを、収容者の前には出せない」
「担当している収容者の心配をしてはいけませんか」
朽木は眉間にしわを寄せた。
「仕事に情緒はいらない」
「担当者として行きます。それだけです」
冬子は朽木の返事を待たずに防護服を着始めた。頭部を包む部分に頭を入れ、背面のファスナーに腕を伸ばすが、うまく引き上げることができない。焦る気持ちが先走ってしまう。もたもたしていると、不意に朽木が「俺がやるから手をどかしなさい」と冬子の背中を叩いた。ほとんどあきれたような口調だった。冬子は少し悔しさを感じたが、仕方がなく朽木にファスナーを上げてもらう。朽木自身は自力で防護服の着用を済ませていた。
通常通りの防護服のチェックを行い、二人は器材庫に入る。
「バイタル測定器だけ持っていけばいいから」
冬子は手近にあったワゴンの中から測定器を取り出している間に、朽木は壁のフックにかかっているコールペンダントをとり、自身と冬子の首にかけた。
二人が次の部屋に行くと、スピーカーからは待ち構えていたように「朽木先生と林野さん、お疲れ様です」と岩田の声がスピーカーから降ってきた。
――「まだ、502号室に動きはありません。どうぞ、お通りください」
目の前の自動ドアが開き、リノリウムの廊下がまっすぐのびている。ふたりは足早に502号室へ向かった。
「雪持さん、失礼します」
入室するも、部屋に雪持諭留の姿はなかった。冬子は迷わずトイレのドアノブを握った。なにかあったときのために、トイレに鍵はつけられていない。
「雪持さん。開けます」
言いながら、ドアを引いた。やけに重い、と疑問を抱いたのも束の間、冬子の足元に雪持が倒れ込んできた。
その上半身は血で真っ赤に染まっていた。トイレの床には血溜まりが広がり、壁を染める血飛沫はペンキをでたらめにぶちまけたかのようだった。
「雪持さん!!」
朽木は冬子から測定器を奪うようにして取り上げ、雪持の手首に巻いた。心拍0、血圧0、体温36℃。朽木は測定器の液晶画面を見つめ、首をふった。雪持の顔には苦悶の表情がきざまれていた。血は首のあたりから出血していたようだった。刃物などの危険物を収容者に持たせることはない。どうやって死んだのか――冬子が床を見渡すと、雪持の足元に血濡れた爪切りが転がっていた。
「朽木先生」
冬子が指さした爪切りを、朽木が拾い上げる。冬子も一緒に見ると、刃に皮膚のようなものの切れ端がひっかかっていた。
「これで首を切ったんだろう。おそらく、何度も」
朽木は雪持の喉元に指を添えた。首の根元あたりに、複数のギザギザとした傷跡がある。朽木はその傷ひとつひとつをなぞるようにして確認した。
あと数ヶ月で虫になる予定だった男である。虫になれば人間としての自身はいなくなる。死んだも同然だ。その前に自死することは、この世から雪持諭留がいなくなるという点ではあまり差がないのかもしれない。それでも冬子は、胸の内にこみ上げてくる悔しさを自覚せざるをえなかった。
朽木は立ち上がり、天井にある監視カメラに向かって腕で大きく「×」印を作って見せた。五分ほど待つと警備部の職員が五名ほど連れ立って入室する。
「お亡くなりになっています。こちら、お任せしていいですか」
朽木が問うと、警備部の一人が「お二人とも防護具に血がついています」と言って防護具の廃棄ボックスを持ってきた。室内の隅で、血が体表面につかないように気をつけて防護具を脱ぎ、ボックスに捨てる。防護具を脱ぐなり、それまで曖昧だった血の臭いが鼻腔を鋭くついてきた。
「片付けと、病理生理部への連絡はこちらで行いますから、お二人は戻っていただいて結構です」
人間のうちに死亡した収容者の遺体は、どのような事例でも必ずセンター内で剖検することとなっている。その担当部署が病理生理部だった。
冬子と朽木は警備部の一人にエレベーターホールまで送ってもらい、収容フロアをあとにした。二人とも、一言も発さなかった。冬子にとって、収容者の自殺はこれが初めてではない。刃物や薬剤といった危険物や、紐状のものなど、自殺にもちいられそうな物品を収容者の室内におくことは禁止されているが、それでもなんらかの手段をとって自死を選択する者はいる。冬子が入職してからの五年間において、今回で七件目だった。これまで、パジャマのズボンを使った首吊りや、水を入れた革製のカバンに首を突っ込んでの溺死などの例を見てきたが、爪切りを使用した自殺は初めてだった。
ふと、先日の回診で桂樹軒について話題にしたことを思い出す。雪持にとっては唐突な話だったかもしれない。彼自身はその店について話してくれたことはなかったのだから。もしも自殺の引き金がそれだったら、と考えかけたが、朽木の背中を見て思考をむりやり一蹴した。
二人が臨床部に戻ると、心配した同僚たちの視線にさらされたため、朽木が状況を話した。
「爪切り、すべての収容者から取り上げますか」
長門が提案するが、医師である梶川から「取り上げた後の管理は生活支援部の担当でしょうか。複数の収容者で爪切りを共有する場合は他の感染症予防のため使用後の確実な消毒が必要です。それができない場合は一人一本の爪切りを保管することになりますが、どちらも生活支援部の業務を圧迫するんじゃないでしょうか」と意見が出る。
「生活支援部にはこのあと、俺から事態の報告をしておきます。梶川先生のご意見も伝えた上で、選択はあちらに任せましょう」
部員たちは朽木の提案に納得し、また、ちょうど回診の時刻だったこともあり、冬子と朽木を残して部屋から出て行った。朽木は冬子を気に留める様子もなく、自席に座り、生活支援部へ電話をかけた。
冬子も席についてパソコンに向き合う。雪持の死亡報告書も作らなければならない。施設内で収容者の死亡が発生した場合、その死亡が人間の状態であれ虫の状態であれ、臨床部から特殊感染症管理局関東支部へ死亡報告書を提出しなければならない。その書類作成は研究助手の業務だった。冬子はクラウドから死亡報告書のフォーマットをダウンロードしたが、書き始められない。
冬子が無駄な時間を過ごしている間にも、朽木は所内連絡を終え、別の架電を行っていた。
「雪持満月里さんのお電話でよろしいでしょうか。変身症研究センターの朽木です。」
冬子は思わず朽木を見た。雪持満月里は、死んだ雪持諭留の配偶者である。
「朝早くに申し訳ありません。……いえ、虫になったのではなく」
電話の向こう側で雪持満月里はなにかを言っているようだった。朽木は相手に対し適度な相槌を打ちながら聞いている。
「すみません、わたしは他にお伝えしたいことがあって――諭留さんが、自殺によってお亡くなりになりました」
朽木は雪持を発見したときの状況を話した。雪持満月里はなにも言葉を発していないのか、一方的に朽木が喋っている。
「ご遺体は本日中に当センター内で剖検し、残すべき臓器や体の組織は残し、火葬します。以前もお話いたしましたが、火葬後のお骨や遺灰をお渡しすることはできません。また、お部屋にあった遺品もお渡しできかねます。書類上の手続きに関してですが、三日以内に当センターから厚労省の特殊感染症管理局へ死亡報告書を提出します。その死亡報告書を管理局が確認すると、ご自宅に死亡証明書が届きます。死亡証明書は死亡診断書の代わりになりますから、届き次第、速やかに役所へ提出してください。……なにか、ご質問はございますか」
朽木は黙って相手の発言を待った。それは数分に及んだ。やがて電話がきられたのか、朽木は受話器をおいた。
「ずっと泣いていた」
それだけ言って、彼はパソコンに向き直った。冬子も同じようにした。辛いことに変わりはないが、妻である雪持満月里の心情を思えば、自分は淡々と仕事をするしかないのだった。
「どうすればいいのか、いまだにわからない」
不意に、朽木がつぶやいた。冬子に聞かせるためとは思えないほどか細い声だった。冬子は聞かなかったふりをして、死亡報告書の必要記載事項を埋め始めた。
十六時を過ぎると、パートタイマーの部員たちが次々に帰宅する。彼女たちを見送った後で、冬子は朽木に席を外したいと声をかけると、「お好きに」と言葉だけが返ってきた。
冬子は建物から出て、焼却炉を目指した。雪持の火葬に間に合うだろうか。剖検が終わった時間にもよるだろう。できれば骨が倉庫にしまいこまれる前に手を合わせたい。そう思いながら足早に、ほとんど駆けるようにして向かった。
冬子が焼却炉に着いたとき、ちょうど中から防護服を着た三名の職員が出てきたところだった。三名とも、焼却炉から出てすぐに防護服を脱ぎ、脱いだ防護服は廃棄ボックスに入れている。そのうちの一人が、骨が入った木の箱を持っていた。
「おつかれさまです」
冬子が声をかけると三人は一様に振り向いた。全員が警備部の職員だった。防護服を着ていたためか、制服ではなくTシャツにジャージといった軽装である。
「臨床部の林野です。火葬された雪持さんの担当でした」
木箱を持つ職員が納得したような顔をして、冬子の目の前までその箱を持ってきてくれた。一抱えある箱ではあるが、警備部の職員の動作を見れば大して持ち重りしなさそうであった。
「あとで病理生理部に聞いてもらえればいいと思いますが、急性の疾患などはなく、死因は失血死だそうです」
冬子は黙って手を合わせた。遠くで蝉が鳴いていた。夕方にもかかわらず日はまだ高く、冬子たちをじりじりと焼いていた。
冬子が手を下ろすまで、警備部の職員たちは動かずに待ってくれていた。「ありがとうございました」と頭を下げると、「いえ、おつかれさまです」と一礼してその場を後にした。冬子は彼らの背中を見送ったが、自身もそのまま戻る気にはなれず、焼却炉の裏側にまわった。
そこには、思ってもみなかった人物が座っていた。
「安瀬センター長」
冬子が思わず声をかけると、その初老の老人はゆっくりと振り向いた。
「あなたは、朽木君の」
「臨床部の研究助手の林野です。センター長、どうしてここに」
「さっき、お一人が火葬されたでしょう。収容者が火葬されている間は、できる限り近くにいたいと思って、毎回ここにいます。あなたこそ、どうしましたか」
「先ほど火葬された方が、わたしの担当だったので……あの、お隣、よろしいですか」
どうぞ、と安瀬は人好きのする笑顔で冬子を迎えた。冬子は恐縮しつつも安瀬の横に立つ。
「あと一ヶ月ほどで蛹化する予定の方でした。奥様が献身的に支えられていて、朝、朽木先生が奥様に電話したときもお泣きになっていて」
「そうですか。いま、このセンターにいる感染者の数は火葬された方を除けば三十九名です。その方々も同じように焼かれるのだと思うと、自分の無力を突きつけられたような気分に陥ります」
いいえ、と冬子は安瀬に対し心中で抗弁していた。このセンターにいる感染者は三十九名ではない、自分も含めれば四十人なのだ。
「昨日、学術委員会で村名賀先生の研究が承認されたと聞きました。虫同士の交配、これを安瀬先生も承認されたと」
「実施する価値はあるでしょう。まだ誰も行ったことがない」
「なぜ誰も思いつかなかったのか、お考えにはなりませんでしたか。虫はもともと人間だったものです。人間同士を、本人たちの意にそぐわないところで性行為をさせることになります。これまで、どの研究者も忌避していたのではないでしょうか」
「罪悪感、良心の呵責、倫理――どれも形のない、概念です。人を人たらしめるためには必要な。概念など、本来はない方がいいんですよ」
安瀬の瞳に光はなかった。その表情の陰影は、真冬の暗がりを想起させるほど深かった。
「人を助けるのも、人間です。未来の誰かを助けるために、いま助からなかった人を利用させていただく。そういうことです」
背中に悪寒が走る。
真夏の炎天下へいるにも関わらず、足元から寒くなるのを冬子は感じた。そのとき、一羽のクロアゲハが二人の間をたゆたうようにして飛び現れた。
「学術委員会の委員のみなさんも、あなたと同じような反応でした。さまざまな質問が村名賀君に投げかけられましたが、それらは質問ではなく非難と言ってもよかった」
安瀬は蝶など見えていないかのようだった。クロアゲハはホバリングするかのように二人の間から動かない。
「わたしたちは、罪を犯したら償う必要があります。もしこの研究そのものが罪なら、贖罪は変身症の根絶しかない。データの採取なんて甘い名目で臨むわけではないんですよ」
贖罪を目的に罪を犯す人はいない、と冬子は考えたが、口をつぐんだ。狂気を抱えた人間に、なにを言っても無駄だと思ったのだった。
「林野さんは、よくここへ来るのですか」
「ええ、たまに……」
「朽木君も?」
「朽木先生は、来ないんじゃないでしょうか」
「でも、この椅子は朽木君が一般検査部の部屋から持ち出したものですよ」
安瀬は立ち上がり、座っていた椅子をひっくり返して座面を冬子に見せた。そこには誰かが書いたのか、黒いマジックで「一般検査部所蔵品」と書かれていた。
「それに、当人がそこにいます」
え、と冬子が背後を振り向くと、決まり悪そうな顔の朽木が突っ立っていた。
「安瀬先生、こんなところにいらっしゃるとは」
「わたしだって、休息は必要です。林野さんともおしゃべりできましたし、いい気分転換となりました」
困り顔の朽木に対して安瀬は鷹揚に笑う。先ほどまでの影が、少し薄れていた。
「二人とも、まだ業務時間内でしょう。ちゃんとお仕事してくださいね」
それだけ言い残し、ゆっくりとした歩で安瀬は去って行った。残される冬子と朽木とクロアゲハ。蝶は焼却炉に執着するかのように依然としてあたりをさまよっている。
「朽木先生。どうしてここに」
「長門さんに、『心配しているなら行ってきてください』と言われてしまって」
朽木は不自然に視線を外す。
「どうしてここがわかったんですか。それに、この椅子は」
朽木は深く息をついた。ぶっきらぼうに歩いてきて、それまで安瀬が座っていた丸椅子へどっしりと腰を下ろす。
「きみが入職後、数ヶ月して不意に姿が見えなくなったから探したら、ここでうずくまって泣いていた。その日の晩のうちに、一般検査部からこの椅子を持ち出して、ここへおいた」
冬子は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。まったく気づかなかった。見られていたのか。知られていたのか。ここは自分の場所のつもりだったのに。
「朽木先生。朝はすみませんでした。口答えをしてしまって」
「いや、俺の方こそ悪かった。きみたちはあくまでも正論を訴えていたのに」
「……わたしたちがなにを言っても、村名賀先生の研究は始まるんですよね」
「細かいことは後日の説明になるが、センター長のGOは出ているから、走り始めたも同然だ」
「朽木先生も補佐を……先生が、現在一般的に行われている検査法を開発したなんて、初めて聞きました」
「わざわざきみに自己申告するようなことか。ABO血液型検査法、あれは当時の一般検査部で開発したもので、俺一人の手柄ではない」
「でも、特許収入になっています」
「誰もやろうとしなかったニッチな事業に手を出しただけだ。ウイルスのmRNAは血液抗原によって変異する。それは以前から知られていた。そのことを利用してより迅速で安価な検査法を開発した。それだけ。医療機関が術前検査の一環で気軽に検査できるようになったし、途上国での検査数増大には寄与できた。だが、変身症撲滅へ近づいた手応えはまったくなかった」
朽木の両腕は力なく垂れ、背中は焼却炉の外壁にべったりと貼りつけている。その鼻先を蝶は舞う。朽木は鬱陶しげに息を吐いた。
「村名賀先生の実験は決して無意味な結果には終わらないだろう。虫同士を交配させて生まれた子そのものが人間にとって福音であるかどうかではない。誕生させる以上、俺たちの手で福音にする必要がある」
「朽木先生。来年、わたしは虫になります。そうしたら、わたしも研究対象になりますか」
朽木は黙る。蝶がちらちらと視界に入る。
「わたしも、誰かと交尾させられるのでしょうか」
朽木は冬子を見上げた。じとりとした、光のない瞳だった。
「きみが虫になる前に治療法が見つからなかったら、きみが蛹化する前に、殺そう。きみを」
冬子は朽木を見た。朽木の目は、やはり腐りかけの魚のように光を宿していない。
「俺はきみ一人しか助けられない。交尾はさせない。だから、責任をもって殺す」
不思議と恐ろしいとは思わなかった。ただ、違和感が胸の底にたゆたう。
「朽木先生は、それでいいんですか」
冬子が問うと、朽木はなにも言わず視線をそらした。その先に、クロアゲハが漂っている。
「ずっといるのか、これ」
話題をそらされたと気づいたが、冬子は「ここから、離れませんね」と話を合わせる。
朽木は億劫そうに腰を上げ、両手でアゲハ蝶を優しく包み込んだ。蝶は逃げようとしなかった。
「敷地の外に逃そう」
冬子は賛同した。裏門の方が焼却炉からは近かったが、収容者を受け入れる時しか開けることができないため正門へ行った。守衛所に詰めていた星野という若い守衛に事情を話すと、彼は笑いながら快く通用口を開けてくれた。
敷地の外に出て朽木が手を開く。クロアゲハは戸惑うようにその大きな手のひらから宙へ浮かび上がり、やがて二人から離れ、緑地公園の方へ向かう。
「アポトーシス」
つと、口から漏れた。
「あらかじめプログラムされた細胞死によって、蝶の幼虫は蛹の中で変態して蝶になります。変身症を発症した人間も同じです。あらかじめプログラムを――わたしの人生も、生まれた時点であらかじめ定められていたのだと思えば納得できるかもしれません」
朽木は「なんだ、それは」と声を高くした。
「生物の生態は人間と関わりがない。科学的な事象に文化的な意味合いを持たせるなんて、虫唾が走る」
朽木ははっきりと嫌悪を示す。
「俺がきみを殺すと言ったのも俺の意思だ。人間は意思と行動で将来を変えられる。その自覚もなく、さかしらに科学現象へ人間の行いを仮託するな。それは、人間特有の弱さだ」
冬子は目をしばたかせた。
「弱い」とはっきり言われても、不愉快を感じなかった。むしろなぜだか、視界が開けたような心持ちにさえなる。
蝶はゆらゆらと軌跡を描いて飛んでいく。朽木はそれ以上言葉を重ねず、踵を返した。冬子もその後に続く。守衛に礼を言い、二人はVRCの中へ戻っていった。
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