第2話
自宅前に横付けされたタクシーから玄関に入るまでの間、全身を強い雨に打たれた。高校二年生のときから使っている安っぽくてぼろぼろのキーケースをとりだし、その中にある二本の鍵のうち一本を鍵穴にさしこむ。
上がり框には洗濯済みのバスタオルがすでに用意されていた。「ただいま」と声をかけると当たり前の様に「おかえり」と返事がある。家の奥からは天ぷらの匂いが漂ってきていた。バスタオルで全身についた雨をはらい、髪の毛を拭く。
「ごはん、もうすぐできるから」
母親の声だ。冬子はタオルを肩にかけてキッチンへ入る。
ダイニングテーブルには冷やされたそうめんと揚げたての天ぷらが載っていた。父親が半そで短パン姿で煙草をふかしながら新聞紙を広げている。母親は調理場で何かを切っていた。
「あんた、服濡れてるんならちゃんと拭いてよ。そこらじゅうに水滴が散るじゃない」
「ごめんなさい」
あらためて服の水滴をタオルで拭き取ってから食卓の定位置に座る。父の口から吐き出される煙が目の前の料理を侵していた。
「お父さん、今日は健康センターに行ったの?」
「いや」否定と共に父の口から紫煙が漂う。「さすがに行かないよ。健康センターだってこんな日じゃ臨時休業するんじゃないか?」
冬子は父が四十歳を過ぎてから生まれた子どもだった。小さなシステム会社を経営していたが、
顧客離れによって経営難に陥った上、持病のリウマチが悪化したため冬子が大学四年生のときに廃業した。いまではリハビリのために区が運営する健康センターに通って軽い運動を行い、家では新聞や本を読むといった隠居生活をしている。
包丁仕事を終えた母が「薬味切ったから使いなさい」と茗荷と生姜が山盛りのガラスボウルをテーブルに載せる。
「都庁も職員軽視よね。こんな台風の日に女の子を出勤させるなんて」
「公務員なんだから仕方ないだろう。早退できただけでもありがたがらないと駄目だぞ、お前」
冬子はうなずきながら「いただきます」と箸を握った。父母もそれぞれ適当に食べ始める。
手元のそばちょこへ、母が切った薬味を大量に入れる。生姜も茗荷も好きではないが、こうしなければ母が「せっかく切ったんだからもっと入れなさいよ」と促してくる。
「だいたい、こんな日に保健師を出勤させたところであなたやることあるの?」
「あるよ。いちおう」
適当に言葉を濁す。詳しく語ってみたところで両親がそれを覚えようとするとも思えなかった。どうせ嘘をつくなら、その労力は少ないほうがいい。
冬子は就職の際、雇用先を『東京都』とし、勤務先は『都の出張所』で、職種は『保健師』と両親に説明していた。それが無難だったからだ。『公益財団法人変身症研究センター』で『研究助手』をやるなどと正直に説明すれば「看護師免許も保健師免許も持っているのに、なぜわざわざそんな危険で安月給の仕事を選ぶのか」「そんな仕事辞めさせてやる」と職場に電話しかねない。
父はこの家の住宅ローンを払い終える前にリタイアしたため、冬子が三人分の生活費と住宅ローンを負担している。一年前から父の年金受給が始まったにもかかわらず「少なすぎるから」と、冬子の負担は新卒の頃から変わらない。月給手取り十八万円の冬子の給料は、そのうち十五万円を母に上納することになっている。
「あんた、小学校の同級生の滝縞君、覚えてる? 今度結婚するんだって」
誰だっただろう。同じ小学校に通っていたと言われても、冬子の記憶には存在しない。
「相手は大学の同級生で、ふたりとも大手に勤めてるんだって。ご両親は幸せよね。若い夫婦から生まれてくる孫はきっと健康だし、かわいいんだから」
冬子は適当に受け流しながら完璧に冷やされたそうめんをすする。箸先で麺をうまくつかめず、往生する。揚げたての天ぷらに箸をつきさし、かぶりつく。油が頬を汚す。
「あんたはいま、おつきあいしている人は本当にいないの?」
ほら来た、と思いながら「いないよ」と返事をする。
「いなきゃ駄目じゃないのよ。その年で誰ともつきあったことがないなんて。結婚に夢みたってしょうがないんだから、さっさと相手を見つけなさい。ああもう、こんなことならあんたを私立の女子中やら女子高に通わせないほうが良かったのかしら。大学だって看護学部でほとんど女の子ばっかりだったじゃない」
そうだね、と感情なく言いながら薬味を追加する。そうめんの本来の食感がわからないほどに口の中が薬味でいっぱいになる。
「お前はあれだよな、男に免疫がないんだよな」
父までが話に加わってくる。
「お父さんとのお風呂だって小三くらいでやめちゃっただろ。あれがいけないよ。せめて中学生くらいまでは一緒に入らないと」
母は笑いながらそうめんをすすっている。冬子は黙って薬味を足した。かきあげ、シソ、なす、さつまいも、鶏。目の前に並ぶ天ぷらを見ながらどれを食べようか考える。ほんとうはどれも食べたくないことを、冬子は明確に自覚している。
「でもな、お前に取り柄はないんだから、若いっていうアドバンテージがあるうちに結婚しないと、もう駄目だぞ。お前は愛嬌もなく機転もきかない。唯一の取り柄は健康であることだけだ。もともと他人より取り柄が少ない、そういう人間は他人から求められることなんてない。自覚しているのか?」
「してるよ。大丈夫」
さつまいもの天ぷらに箸を刺し、蕎麦つゆにくぐらせてからかじりついた。薬味のせいか天ぷらのせいか、胃がもたれてくる。目の前にある多量の天ぷらが、岩の様に思えてならない。
「わたしは変身症に感染している」と告白したら、この両親はどんな反応をするだろうか。きっと娘を拒絶するだろう。拒絶しながらも金をせびるだろう。そんなことを考えながら、冬子は残ったそうめんをめんつゆごと胃へ流し込む。
夕食後、一番風呂の父の次に風呂へ入り、冬子は長い髪をろくに乾かしもせずに自室のベッドへ倒れ込んだ。いつものように、そばへおいたカバンをたぐりよせ、中からキーケースを取り出す。
合成皮革のケースである。もとは明るい茶色だったが、手垢と劣化で色は新品当初よりも濃い色になっていた。縫製している糸は端の部分がほつれ、金具はほとんどメッキがはがれている。ケースの中には二本の鍵があった。一本はこの家の鍵、もう一本は別の住宅の複製である。複製品である証拠に鍵には番号が刻印されておらず、複製した店のマークらしき記号があるだけだ。
九年と八ヶ月前、冬子はこの複製鍵を、キーケースについた状態で受け取った。送り主は、当時の担任の、「センセイ」だった。
センセイの名前を、冬子は覚えていない。センセイ、と呼んでいた。センセイと呼ぶように言われていた。人前でうっかり名前を呼ばないように、そうして関係をばれることがないように。
もとはと言えば幼少期から友人がいなかった。友人の作り方がわからなかった。中学に入ってもそれは変わらなかった。学校は母に言われて受験した私立の中高一貫の女子校で、入学したばかりの頃から周りの雰囲気になじめなかった。行きたい大学や将来の夢があり、趣味があり、好きな人がいて、それを当たり前としている同級生たちだった。そんな彼女たちに気おくれして、それが態度に出るせいで遠巻きにされ、人間関係の埒外におかれていることを冬子は自覚していた。
冬子がいた学校では生徒の自立を促すために校舎内の清掃は生徒自身が行うこととされていた。中等部と高等部が混在する校舎でそれぞれの清掃場所が定められており、共有スペースに関しては基本的に中等部は廊下や昇降口やトイレで、高等部は特別教室だった。それからさらにクラスの中で掃除当番が決まっていた。
冬子が高校二年生のときのクラスはパソコン室を清掃場所として割り当てられていた。四十台のパソコンが並んだ部屋のカーペットに掃除機をかけ、机やパソコンに積もった埃をほこり取りで取らなければならない、手順が面倒な場所だった。同級生たちは清掃当番を嫌っていた。要領のいい同級生たちは適当に手を抜いていた。彼女たちが手を抜いたところを、冬子は丁寧に補った。手を抜いても冬子がやるから、同級生たちはパソコン室に来てもおしゃべりをするだけだった。冬子がすべて終わらせる前に彼女たちは部活や予備校へ向かった。
夏休みが明けてから、清掃当番は形骸化した。毎週毎日、放課後になると冬子は一人でパソコン室へ行った。誰かがやらなければクラス全員が叱られる。冬子はそれが嫌だったし、同級生たちは清掃当番が嫌だった。クラスでは「林野さんは掃除が好きなキャラだから林野さんに任せておけば大丈夫」と皆が状況を肯定していた。冬子自身も「わたしは掃除が好きだし、みんなの役に立てるならそれで大丈夫」と思いこんでいた。
七月のある日、教室の前の廊下を誰も掃除していないことに気づいた。中等部の後輩たちの領分だったが、冬子は廊下のモップがけもおこなった。誰も見ていなかったが、誰かが見ているかのように廊下の掃除当番も来なくなった。冬子は一人で教室と廊下の掃除をすることが日課になった。
パソコン室にある掃除機は業務用の大ぶりなものだった。机が並ぶ広い教室でその掃除機を扱うことは大変だった。誰かがタンクを持ってくれれば負担が減ったかもしれないが、冬子は一人で掃除機をひきずった。カーペットに掃除機をかけ、パソコンや机の埃を払い、廊下にモップをかけると、放課後の一時間はあっというまに過ぎていた。終わった後はいつも疲れて、椅子に腰かけてぼんやりと校庭のソフトボール部や陸上部の練習をながめることが日課だった。授業以外でパソコンを使用することは禁止されていたため、放課後のパソコン室に誰かが入ってくることはなかった。
その日もそうだった。魂がぬけたようなかおで、口を半開きにして、思考を停止させて、頬杖をついて、上履きをぬぎすてて、ぼんやりと校庭を見ていた。太陽が西の空を赤々と焼いていた。あの太陽が沈んで教室が真っ暗になったら帰ろうと考えていた時だった。教室の戸が開いた。
冬子はびくりと肩を上げた。入り口に、担任の教師が立っていた。二十七歳だと言っていた男の教師は、痩せぎすの体格と不似合いな丸い眼鏡が特徴的だった。
「林野さん、一人で何をしているんですか」
冬子は思いがけない担任の出現に驚いて、「ごきげんよう」と定形の挨拶もほとんどかすれてしまった。担任はさもめんどうそうな表情で冬子に近づき、椅子に座ったままの彼女を見下ろす。
「今の僕がごきげんよく見えますか。中等部の先生から言われました。『二年D組の林野さんがうちのクラスの清掃場所を掃除しているせいで、うちのクラスの子たちが掃除をしなくなった』と。クレームです。あなた、一人でパソコン室も廊下も掃除しているんですか? クラスメイトや後輩を甘やかして、ボランティアでもしているつもりですか」
担任は怒っていた。けだるげな口調だったが、その怒りは明らかに冬子を問題視したうえでの怒りだった。
「わたし、まじめだから」
とっさに出てきた言い訳だった。
「まじめだから、掃除も好きだし、大丈夫です」
「あなたが大丈夫でも俺が大丈夫じゃないんです。中等部の担任はあなたが仕事をとったと思っているんですよ。あなたのせいでうちの子たちがサボりを覚えたって。あなた、これで内申点が上がると思っているんですか」
「いまさら、内申あがっても」
冬子の成績は中等部の頃から底辺をさまよっていた。中等部から高等部に上がれたことが奇跡だとも思うくらいだった。担任もそれは知っているはずだった。いまさら内申点が少しよくなったところで、大学の推薦はどこも受けられない。
冬子は髪の毛をさわった。困ったなと思いながら。理由が見つからなかった。内申点のためでも誰かのためでもなく、よかれと思ってしていたわけでも、悪いことだと思っていたわけでもなかった。
「いじめられているんですか」
冬子は反射的に首をふった。担任は眼鏡の奥の目をすがめ、「それはよかった」と憎々しげに言う。
「僕だって自分のクラスでいじめがあったら困ります。でも、普通の教師はあなたを見て、まずいじめを疑うんです。そして、クラスの生徒と個別面談して、学級会を開き、みんなで仲良くお掃除しましょうと再確認する必要がある。僕は報告書を書いて学年主任と教頭に説明しなくてはいけない。わかるかな。一言でまとめると、面倒なんです」
「すみません」
「謝らないでください。俺がいじめているみたいだ」
担任は冬子の横にどかりと座った。
「いいですよ、いじめられてないなら。中等部の先生にはもう頭を下げてあるし。本来はあいつのクラスの生徒のサボりこそ責められるべきこと。もう廊下の掃除はしないでください」
「すみません」
「クラスにも話しておきます。あなたはもう、学年終わるまで掃除しなくていいから」
冬子は思わず「え」と言ってしまった。ここの掃除をしなくてよくなってしまったら、放課後に行くところがなくなる。
「なにか言いたいことでも」
「わたし、ここの掃除、したいです」
「だからそれは困ると」
「でも」
担任は思案気に頬を掻いた。冬子から視線を外し、人が駆ける校庭に目をやった。
「ボールが転がっているのを見るって、そんなに楽しいですか」
「……いえ」
「あそこで走っている生徒たち、俺たちがここから見下ろしてるなんて知らないで、いくらでも好きなように走り回ってやがる。ここでうじうじ考えてるより、なんにも考えずに走り回っている方が得だと思いませんか」
「わたしは、やりたいこともないし。なりたいものもないし。ここでぼーっとしている時間が、楽です」
担任が嘆息する空気のふるえが、きこえた。人を困らせていることを冬子は自覚したが、自覚したところでどうにかできるほどの機転はきかなかった。ただ二人でじっと、暗く陰ろうとする校庭を見つめるばかりだった。
「あなたの場合の楽とは、逃げることと一緒です」
担任は、校庭を見たまま言った。
「わかりました。あなたはずっと、ここの掃除をしていなさい。僕は生徒の居場所を奪うほど意地悪ではない。いたければずっといてもいい。ここに飽きたら、どこか別のところに行けばいい。ただし、廊下の掃除だけは頼むからしないでください」
はい、とうなずく声はかすれた。担任は頬杖をついて、しばらくぼんやりと校庭を見続けていた。
担任がホームルームで清掃当番を議題に上げることはなく、冬子が一人で掃除する日々も変わらず続いた。ただひとつ、清掃途中に担任が入ってくるようになったことだけが変化だった。
はじめは手ぶらで来て、冬子ととりとめない会話をしてすぐに出ていった。冬子も生徒指導の一環かと思い、適当に話を合わせていた。十月に入り、学園祭の準備で校内があわただしい空気に包まれる頃になると、担任は仕事道具を持ちこむようになった。冬子は彼がパソコンになにかを打ちこむ音や、小テストの採点をするペンの音を聞きながら校庭を見つめていた。
「林野さん、これいりませんか」
教室の電気を半分だけ灯したなか、担任が冬子の眼の前でぴらぴらと見せた紙は、英語のテストだった。内容からして高等部二年のテストのようだったが、冬子は見たことがなかった。
「学園祭後の中間試験の問題。職員室の印刷機に、英語の先生がおきっぱなしにしていた。おきっぱなしにした先生が悪いから、たまたまこれを手に入れたきみはなにも悪くない」
「いえ、それはちょっと」
「ズルはしたくない?」
つまらないなあと担任は笑いながらテストを丸め、自身のジャケットの胸ポケットにむりやりつっこんだ。
「それ、誰かにバレたら懲罰対象じゃないんですか」
「きみはほんと、つまらない」
「まじめなんです。これしか取柄がないんです」
「一学期の期末の成績、学年最下位だったな。まじめなら、勉強しててっぺんを取ってみればいいのに」
「学力とやる気の比例には限界があります。中学入試のとき、無理したんです。無理して合格しちゃったんです。わたしは地元の公立で全然よかったんだけど、母親が、お嬢様学校に行っておけば箔がつくからって」
「なんだそれ。いつの時代の価値観」
担任は鼻で笑いながら、今日の授業で回収したプリントの採点を始めた。
「父親は社長だけど小さな会社でいつも経営が大変って言ってるし、名の通った家の出身でもないし、母もそうです。たぶん、わたしの学費も無理していると思います。自分の娘に箔をつけるために、母はこの学校を選んだんです」
「箔って、なに」
冬子は少し、考えた。首をひねっている間、担任はじっと答えを待つ。
「たぶん、親の見栄」
「それは、やばいな。自分の体裁のために娘の人生をまきこむなんて、超やばい。俺の生徒だったら生活指導もできるが、お母さんを指導してくれる人なんて今さらどこにもいないから」
担任は話しながらも、プリントの採点を続けた。
「でも、それときみが勉強をあきらめるのとは違うでしょう。ぼーっとするのもいいけど、ここで勉強したら。俺の専門は数学だけど、高校レベルの勉強なら、全教科ひととおり教えられる」
「でも」
「この空間で楽するのではなく、この時間を楽しめばいい。勉強はうってつけです」
「楽しむ?」
「楽しむことは、挑むことでもあるから」
担任は顔を上げ、優しげな笑みを浮かべながら冬子に語りかけた。次の瞬間、校庭から歓声が聞こえた。何かと思って二人で窓から見下ろしたが、いくつかの部活動が練習や試合をしているいつもの風景があるばかりだった。
翌日から、冬子は通学鞄に教科書やノートをつめこんでパソコン室へ行くようになった。掃除が終わるころにやってくる担任は、冬子の横でノートを見ながらあれこれと口を出してきた。ぼんやりと校庭を見ているよりも勉強を教えてもらっている方が楽しいと思うようになるまでに、たいして時間はかからなかった。学園祭当日も冬子はクラスの演劇には参加せず、期間中はずっとパソコン室にいた。勉強している冬子を見た担任は「サボりは、本当はだめなんだけど」と笑って茶道部からもらってきたという上生菓子を与えてくれた。
二学期の中間試験での冬子の成績は、冬子自身が信じられないほどに上昇した。
「一学期末が三百二十位で最下位だったのに、今回二十九位って、すごいな」
「先生のおかげです」
生徒指導室で結果を渡されながら、冬子は嬉しいような恥ずかしいような、奇妙なざらめきを胸の奥に感じていた。いつも、パソコン室で横並びになって会話するだけだった担任の正面に座るのは、一学期末の面談以来だった。その一学期末の面談は、結果を渡されて終わりだったと記憶している。
「いや、きみはやればできる生徒なんだよ。ちゃんと努力ができる」
「でも、ほんとに先生がいてくれたから」
「きみは、いい子だ」
え、と思ったときにはすでに担任は二人の間にある机の上に身を乗り出していた。彼の座っていた椅子が後ろへ倒れる。その音が意識の外側で大きく響いた。目を閉じる間もなく、冬子の唇は担任の唇にふさがれた。
口はすぐに離れた。しかし、顔は離れなかった。ほとんど鼻先がくっつきそうな位置で、担任は「嫌じゃない?」とささやいた。冬子は自身の脈拍が激しくなるのを感じながら、「嫌じゃない」とはっきり答えていた。
唇はまた重ねられた。担任の舌が、冬子の唇をこじあけた。どう応じていいのかわからないまま、彼の舌に自分の口の中をあずけた。彼の味蕾のざらつく感触が、自分の粘膜へ妙に残った。
体が震えていた。それは喜びから現れる震えであることを、冬子はわかっていた。おもむろに口を離した担任は、手のひらで冬子の口の周りについたよだれを拭う。
「せんせい、誰かに見られたら懲罰が」
「だからなに」
冬子は首をふった。担任は嬉しそうに、冬子の頭をやさしくなでた。
それからは、気づけば学校へ行くことが楽しくなっていた。ホームルームや授業ではそれまでどおりだったが、放課後のパソコン室では自分でも信じられないほどの笑顔で他愛もない話をし、勉強を教えてもらい、帰宅間際には唇をかさね、互いの体のどこかに触れた。
「俺はお前のこと下の名前で呼びたいけど、人前でうっかり呼んだら関係がばれるかも知れないから、卒業までは我慢する。だからお前も、俺のことは卒業まで『センセイ』って呼んでほしい。約束」
冬子はその約束を忠実に守った。正直なところ、彼が自分を「冬子」と呼んでくれないことは残念に感じていた。両親や親戚以外に名前で呼ばれたことがない。小さな頃から友人がいなかった。誰も名前で呼んでこなかった。だから、彼に「冬子」と呼ばれればどんな心持ちになるだろうかと考えた。今すぐにでも呼んでほしい衝動に駆られた。
センセイの名前は、冬子の名前と似ていた。いずれ、愛を込めて彼の名前を呼ぼうと思えた。それまでは彼のことを「わたしだけの『センセイ』」と思うこととした。他の生徒が呼ぶ「先生」と自分が呼ぶ「センセイ」は違うのだと。自分が呼んだ時にわずかにやわらぐ彼の周りの空気が、甘ったるい花の香りの様に感じられた。
浮かれていると思われたくなかったから、勉強はいっそう頑張った。二学期の期末試験では学年で五位になった。学級内では一位だった。他科の教師からも驚きと共にほめられた。両親からは「卒業できればみんな一緒なんだから頑張らなくてもいいのに」と言われた。センセイは手放しで喜んでくれた。
「お祝いとかご褒美っていうと聞こえは悪いけど、何か欲しいものない? ほら、もうすぐクリスマスだし」
「それなら、誕生日にセンセイと一緒にいたい」
冬子は即答した。
「わたしの誕生日、一月三日なの。親は祝ってくれたことがないから家にいる必要なんてないし、いたくない。誕生日くらい丸一日センセイと一緒にいたい」
それまで二人でどこかへ出かけたことなどなかった。センセイが「だれかに見られたらお互いやばいだろ」と言うからだったし、冬子もそれは納得していた。それでも、「ご褒美」と言われたからこそ口にした。
「それなら、うち、くる?」
「うち? センセイの、うち?」
「うちなら誰かに見られることもないし。1Kの狭い部屋だけど、それでもいいなら」
冬子は夢中で首を縦に振っていた。生まれて初めて、自分の誕生日が楽しみになった瞬間だった。
一月三日は「同級生と初詣に行ってくる」と言って家を出た。あらかじめセンセイから教えられていた住所地には、二階建ての小奇麗なアパートがあった。センセイの部屋は二階の真ん中に位置していた。緊張しながらインターホンを鳴らすと、ワンコール目が鳴り終わる前に応答がある。
「鍵あいてるから、入って」
玄関前でコートを脱いでからドアを開ける。開けた瞬間に、室内からかつおぶしの出汁のようないい匂いが漂ってきた。
「いま、雑煮をつくっているんだけど、もち、何個ほしい?」
「い、一個でいい」
玄関からすぐの場所にキッチンスペースがあった。玄関はセンセイの27センチの靴が五足、革靴やスニーカーで埋め尽くされていて、冬子は難儀しながらパンプスを脱いだ。センセイはコンロの前でお玉を握っている。先生はジーンズにセーターを着ていた。初めて見るカジュアルな格好は新鮮だった。
「なにか、手伝う?」
「いいや、雑煮、もうすぐできるから。……ワンピース、いいな。制服よりずっと似合ってる」
冬子は顔が真っ赤になるのを自覚する。今日のために買った、ピンクの花柄のワンピースだった。冬物のセールの中で可愛らしいワンピースを探すために一日中新宿をうろついて見つけた服だった。
「そこ、寒いだろ。奥で待ってて」
三畳ほどのスペースの壁に、三枚の扉があった。一枚は見るからにバスルームで、後の二枚のどちらが奥なのか迷っていると、「右側がトイレ、左側が寝室だから」と笑いながら案内をされる。
言われたとおり寝室のドアを開けた。七畳ほどの部屋の奥にシングルベッドがあり、手前にローテーブルやラグ、テレビやカラーボックスが据えられている。とりあえずラグの上に座り、カラーボックスの中をのぞく。仕事の資料や、大学時代に使ったと思しきテキストが無造作につっこまれていた。カーテンは紺色で、掛布団のカバーも紺色、ラグの色は薄い茶色だった。整理整頓された部屋だった。ほんの少し、センセイの匂いがした。好きな人の部屋にいるにも関わらず、そわそわとして落ち着かなかった。
「おまたせ」扉を開けたセンセイは皿や椀が満載のお盆を抱えていた。「昨日まで実家に帰ってたの。そこでおせちもらってきたから、食べて」
センセイは手際よく料理をならべていく。いくつかの皿の上に色とりどりのおせち料理、それぞれの目の前のすまし汁には丸餅が入っている。
「センセイの実家って」
「ここから電車で三十分くらいのところ」
センセイはあらたまって正座をした。冬子もつられて居住まいをただす。
「あけましておめでとう」
「あけまして、おめでとうございます」
「誕生日も、おめでとう」
冬子は照れもなく破顔した。それを見て、センセイも嬉しそうに目を細める。胃の底が温かくなるのを感じる。
「食べようか」
「はい」
雑煮もおせちも、おいしかった。おいしかったから、冬子はいちいち「おいしい」と言って食べた。あまりにも「おいしい」と言うので、先生は疑わしげに「ほんとにおいしいと思ってる?」と眉尻を大げさに下げながら笑った。
「おせち、センセイのお母さんが作ったの?」
「いや。親父と、俺。父さんが料理好きでさ、毎年、俺が大みそかに帰って父さんとおせち作って、作り終わった頃に姉さんが帰ってきて、女二人は食べるだけ」
「センセイ、お姉さんいるんだ」
「五歳年上で一人暮らし」これが変わった名前でさ、と言って冬子にはまだ会わせていない姉の名前を説明する。「林野は一人っ子だったよな」
「うん。わたしの前に一人いたらしいけど流産したってお母さんが言ってた」
「流産?」
「高齢出産だったからしょうがないって。それに、お父さんが生殖? に適してないとかで、産む気もなかったのに、わたしができたって。つわりがひどくて仕事を休んでたら、有休を使い果たして、欠勤が続いて辞めさせられたって。それでそのまま専業主婦で、お父さんの会社を手伝うことになって、わたしが産まれてからは育児が大変だったって。わたしのせいで人生が狂ったって」
話しながらも情けなくなり、気持ちをごまかすように目の前のニンジンの煮物に箸を突き刺す。
「林野、箸なんだけど」
「箸?」
冬子は自分が握る箸を見た。
「はさめないの? 普通に持てない?」
「いつも、こうして食べてる」
センセイは少し逡巡する様子を見せ、「今は、いいよ。今はいいけど、箸、ちゃんと使えるようになろう」
「これは、だめなの?」
「だめというか、正しくない」
冬子は胸の内に現れた澱のようなものの存在を感じながら、ニンジンを口に入れた。
「しつけの問題だろうな」
「どういうこと」
「親御さんがちゃんと、お前をしつけなかったんだ」
「親のせい?」
「いや、林野の年齢だと親のせいにしていられないことでもある。今日は正月だからうるさいことは言わないけど、これから直していこう」
言いながらセンセイは雑煮を食べる。冬子もニンジンの煮物を口に入れ、咀嚼しながら雑煮の腕を持つ。
「昨日まで実家に帰ってた。親戚連中が集まって、結婚はまだかって聞かれたから、彼女はいるって答えておいた」
結婚は、と訊きそうになって、やめた。訊いてしまえばセンセイを困らせてしまうような気がした。訊くかわりに「うれしい」と満面の笑みを浮かべる。
「うん。林野、俺はいま、お前が『結婚は?』って訊いてくれることを期待した」
虚を衝かれ、冬子は「え」と呆けた様な顔をセンセイに向けてしまった。
「高校卒業したら、結婚しよう。お前はもう、実家を出て、自由になったほうがいい。お前に足りないことは、俺がおぎなう。俺は林野が、ずっと笑っているのを見ていたいよ」
互いに雑煮の椀を持っていた。このお椀さえテーブルにおけば抱きつくことができるのに、と冬子は冷静に考えていた。返事を口にするよりも、なんで自分はこのお椀をおけないのか、それしか考えられなかった。
「林野次第でぜんぜん、俺はかまわないけど」
冬子は首を振った。
「センセイ、わたし、センセイのこと名前で呼びたいし、わたしのことも名前で呼んでほしい。林野冬子は、来年の四月にはいなくなって、センセイとおなじ名字のわたしでいたい。同じ名字になったら、もう下の名前で呼ぶしかなくなるから」
支離滅裂な理屈だと自分でもわかっていた。わかっていたが、願望が口からあふれて止まらなかった。箸と椀を握りしめたまま必死になって喋っている自分が恥ずかしかった。
「そっか」
センセイは照れ臭そうに笑った。
「よかった」
そう言って、センセイは雑煮をすすった。冬子も同じようにした。好きな人と同じものを同じときに食べていることが、たまらなく嬉しかった。
食後にはコンビニエンスストアのカットケーキが出された。近所のケーキ屋が正月休みでシャッターを閉めていたとセンセイは言った。「コンビニで、申し訳ないけど」
「申し訳ないことなんてない。誕生ケーキなんて、初めて」
二つあるショートケーキはそれぞれ皿にうつした状態で供される。自分の誕生日を祝うケーキは初めてだった。ロウソクも立っていなければホールでもない、生クリームは粗くスポンジが薄っぺらい安物のケーキにもかかわらず、それは美しく見えた。
センセイは音階の取れていないバースデーソングを歌った。冬子はしみじみと聞いて、拍手をする。いつまでも拍手をしていたいくらいだった。だがセンセイに制止され、二人はケーキを食べ始めた。
「センセイの誕生日はいつなの?」
「俺、春だよ。四月二日。春休み中で、子どものころから友達に祝ってもらったことなんてないの。学年が上がったり進学したりで、気もそぞろな時期だから」
「じゃあ、今度の四月二日はわたしがずっと一緒にいる」
「それは嬉しいな」
「ねえセンセイ」
二人同時に食べ終え、フォークをおいた。
「わたしなんかを好きになってくれて、ありがとう。センセイが生まれてきてくれて、ありがとう」
センセイは「なんだよ、それ」と照れくさそうに笑った。
「だって、わたし、嬉しい。センセイと一緒にいられて、生きてるの、嬉しい」
必死になって感謝を伝えた。
「センセイと食べるものなら、なんでも美味しいし、わたし、センセイに出会えてよかった」
「わかったから」
センセイは冬子の頭に手をのせた。大きな手は冬子の首筋までおりて、そのまま抱き寄せられる。温もりを感じる間もなく、センセイの唇が冬子と重なる。
ケーキの甘ったるさ以上に甘く感じる舌の動きは脳の真ん中を溶かしていく。腑抜けた腰を抱かれ、床へ倒された。
センセイの指先は、壊れ物をあつかうかのように丁寧に動いた。唇を重ねたまま指は首をなぞり、胸をつつみ、スカートをつたって裾からその中へ入り込んだとき、ふと、冬子は天井の明かりが気になった。
「センセイ、でんき」
「ん? 消す?」
冬子がうなずくと、センセイは体を離して「立って」と言う。言われるがまま従うと、センセイはさらに冬子の体を触った。その手は胸や腰をつたい、下へ移動し、スカートの中へ入った。
「センセイ」
冬子の恥じらいに構うことなく、センセイはスカートの中へ頭を入れ、ショーツの上から口をつけた。吸ったり、舐めたりを繰り返す。冬子の足がだんだんと震えてくる。
「センセイ」
強く言うと、恋人は立ち上がって冬子を抱きしめた。
「めちゃくちゃ感じてるじゃん」
冬子の耳元で、男はささやく。
「ねえ、電気消して」
その懇願に応じることなく、センセイは冬子の後ろに回ってワンピースのファスナーを下ろした。花柄のワンピースはぬけがらの様に足元へ落とされる。ワンピースの下につけていたスリップも、センセイは肩ひもに人差し指をかけてゆっくりと脱がせた。
「センセイ、ちょっと」
「だめだよ、言うことを聞かないと」
男は後ろから冬子の胸を揉みしだき、ショーツの中に手を入れた。その指の動きを感じていたら、いつの間にか下着もすべて床へ落とされていた。後ろから、ズボン越しに硬くなった性器が押し当てられている。
「ねえ、センセイ、電気」
訴えると、センセイは「しょうがないなあ」と耳元で笑って唐突に冬子を抱きかかえた。
冬子はあわててセンセイの首に手を回したが、男は面白そうに「かわいいなあ」と笑うばかりだった。そうして笑いながら部屋を出て、薄暗い玄関の冷たい床に冬子を下ろした。
「なんで、ここ」
「俺がここでしたいんだよ」
センセイはゆっくりと冬子を床へ寝かせた。冷えた床が背中を迎える。
「寒い」
「すぐあったかくなるから」
センセイは一つ一つの肌理の輪郭をなぞるようにして丁寧に冬子の肌を舐めた。胸を揉みしだき、性器の中へ指を入れた。センセイが自分にしている行為のすべてを受け入れつつも体は緊張から解放されていなかった。センセイの服が、生肌へこすれて少し嫌だった。センセイは冬子が不快を感じていることを察しているかのように、笑った。目の奥が光っているように見えて、怖くなった。
そのままセンセイの指や舌を受け入れていると、男も服や眼鏡を徐々に外していった。気付いたら、固くなった性器が、冬子の下腹部にあたっている。
「はじめてだろ?」
訊かれたから、うなずいた。センセイは、また笑った。
自分の足が左右に開かれる。足のつけ根の真ん中に、センセイのからだが押し当てられる。痛い、と言いかけたが下唇を噛んで耐えた。
玄関の外に人の気配がすると、センセイは「もっと声、出して」と指示を出した。恥ずかしくて従わないでいたら、男は性器を引き抜き、冬子を床へ這いつくばらせた。鼻先にある靴の湿った臭いを感じながら、後ろから突かれた。
それからもいくつかのポーズをとらされた。どのような姿勢でも、センセイは執拗に冬子を突いた。声を上げると、「かわいいなあ」と満足げに笑った。
いつ終わるんだろうな。早く終わらないかな。突かれるたび、振動は内臓に重く響いた。靴の臭いがずっと鼻腔にまとわりついた。快感などない、苦痛ばかりだった。
ふたたび、センセイは冬子の背中を下にして挿入した。時折キスをしたり、胸を揉んだりしながらも、センセイの動きが初めよりも早くなった。背中の床は冷たく、突かれるたびに摩擦で擦れて痛い。彼の額の汗が、冬子の頬に降ってくる。冬子はセンセイから目を逸らし、遠くの床を見た。隅に、綿埃が溜まっていた。ホコリだ、と思っていると、センセイが「こっち見て」と冬子の顔を天井へ向けた。男の汗が、目の中へ口の中へ降ってくる。
センセイは短い声を上げた。次の瞬間には冬子からからだをぬき、その体の上へ射精した。冬子はわけもわからずただ短い呼吸を繰り返す。
「ちょっと、待って。いま拭く」
センセイは力なく立ち上がり、トイレットペーパーを持ってきた。それを適当に引き出して、無造作に冬子の腹を拭いた。そのまま彼女の足のつけ根も拭こうとするのを冬子はあわてて制止し、起き上って自分でぬぐう。ぬぐった後の白いペーパーには、血がついていた。冬子が呆然とその血の赤を見つめていると、センセイが「はじめてなら、誰だってそうだから」と言ってペーパーを取り上げる。男は丸めたペーパーを、そのままトイレへ流した。
「きて」
センセイは冬子を抱き上げ、部屋へ戻るとそのままベッドに倒れ込んだ。狭いシングルベッドだった。掛布団の中に二人で潜りこむと、二人の体温だけが世界のすべてのように冬子は感じた。
自分の首筋に指先をあてると、いつもよりも鼓動が激しくなっている。「ねえ、センセイ」。ふと、気になった。「コ……コンドーム、は?」
問うた声はかすれた。センセイの目を見ようとしたら「つけなくても、全部お腹の上に出したからだいじょうぶだよ」と背中に腕をまわされた。センセイの汗ばんだ胸板に顔をおしつけられる。センセイの鼓動が、自分の鼓動と重なっているような気がした。
「ほんとうに、だいじょうぶ?」
重ねて訊くと、センセイは鬱陶しそうに息をついて「だいじょうぶだから」と冬子の乳首を捻った。思わず「痛い」と言うと、男は笑った。彼は冬子を腕に抱いたまま、まどろみはじめた。冬子は自身の股間に擦れたような痛みを感じながらも、男の寝息を聞いているうちに、つられてうとうととまぶたを閉じた。
夕方五時を知らせる区内放送が流れたとき、冬子はうっすら目を開けた。ぼうっとする頭のまま上半身を起こすと、同じように眠りこけていたセンセイが「正月くらい、この放送も休めばいいのに」とつぶやいている。
「センセイ、わたし、帰らないと」
あわててベッドから降りて床にちらばった服や下着をかき集めると、センセイが「シャワー浴びていけ」と服の上にバスタオルをのせる。
体中についてべとべとしているセンセイの汗や唾液を流し、服や下着をきっちりと着ると自分が女ではなくただの女子高校生に戻った気がして、少し安心した。部屋へ戻ると、センセイもまた、もとのとおり服を身に着けている。
「林野、おいで」
ラグの上にあぐらをかくセンセイの前に、冬子は正座する。センセイは「はい」と冬子の手にキーケースを握らせた。
「この部屋の鍵が入ってる」
鮮やかなキャメル色のケースだった。開くと、複製と思われる鍵が一つ、すでにぶらさがっている。
「いつでも来て。俺がいないときも、入っていいから」
冬子は信じられない気持ちで鍵とセンセイを交互に見た。いつでも来て。いつでも来ていい。いつ来ても留守中に来ても構わないと思ってもらえるくらい、わたしは信用されている。それは嬉しかった。嬉しかったが――来るたびに、今日のようなことをするのだろうか。
戸惑っていると、センセイは「嬉しくない?」と下から覗き込むようにして首をかしげた。冬子は慌てて首を振る。この人しか、今のわたしを救ってくれる人はいない。
センセイは冬子の反応を見て嬉しそうに歯を見せた。
大丈夫、わたしも嬉しい。嬉しい。嬉しい――自分に言い聞かせている間に、センセイが腰を抱き寄せた。唇が重なる。冬子はキーケースを握りしめたまま、センセイの背中へ手を回した。
「林野は、誰にも渡さないよ」
キスの合間に言うセンセイの息は熱い。幸せだ、と冬子は思おうとする。セックスは嫌だが、抱きしめられると嬉しい。セックスも、もしかしたら慣れるのかもしれない。冬子は「センセイ、だいすき」とかすれた声で応じた。
翌日の始業式の日、センセイはホームルームにあらわれなかった。かわりに教壇へ立った数学担当の学年主任から「体調不良で休むそうだ」とだけ伝えられた。その次の日も、同じだった。冬子は放課後にセンセイへ電話をかけたが、応答はなかった。
始業式から三日目は土曜日だった。半日の授業だけで終わったその日の帰り、冬子はいつもとは反対方向の電車に乗った。三日目も教室に姿をあらわさなかったセンセイの家へ直接行くためだった。ひどく熱をだして寝込んでいるのではないか。腹痛でうずくまっているのではないか。だから電話にもでてくれないのではないか。ひとりであの部屋にいては心細いにちがいない。
センセイの家へ行くことに躊躇する気持ちがないわけではなかった。だが、まさか体調不良のときに無理な性行為をすることもないだろう。それよりもどのような状態なのか、ただただ心配だった。
最寄駅に着くとほとんど走るようにしてセンセイのアパートへ向かった。インターホンを押しても返事がない。ドアノブをまわしても、鍵がかかっていた。冬子はカバンの奥に入れていたキーケースをとりだす。
鍵はすんなりと回った。おそるおそるドアノブをまわす。しずかに扉が開く。
「センセ……」
室内は薄暗かったが個々の輪郭ははっきりと確認できた。確認できるがゆえに、それを一番に目視する。
寝室のドアにもたれるように、センセイは足を投げ出し、うつむいて座っていた。そのドアノブにはタオルがかかっていた。タオルはドアノブにくくりつけられていた。タオルがのびる先にはセンセイの首があった。
センセイの首に、タオルがまきついていた。
冬子の全身に、電気のような寒気が走った。
土足のままセンセイに駆け寄る。指先が震える。震える指先でセンセイの手をさわる。
冷たかった。人間の体温はなかった。センセイの形をした入れ物の温度だった。そしてその下半身は、何も身に着けていなかった。身に着けていない下半身の、その腰回りは黒く硬質な殻のようなもので覆われていた。
高校生の冬子でもこの下半身が何を意味するのか知っていた。
変身症。
センセイの顔を見た。目玉が飛び出そうなほどに目は見開いていた。口からは舌がだらりと垂れている。顎のあたりがアオカビのように変色していた。上半身に着ているセーターは冬子が来た日と同じだった。
センセイは死んでいる。
どうしよう。どうすればいい。冬子は混乱した。混乱しながらも、警察に電話をすべきであることは理解していた。死んでいることが明白である以上、救急車を呼んでもなにも変わらない。しかし、冬子が通報すればここにいることを、家の鍵を持っていることを、その理由を追及される。追及されて、どう答えればいい?
「センセイ」
男は応えなかった。
「センセイ!」
死体は死体だった。
自分の中が空っぽになったような気分だった。
もう一度センセイの指先に触れるがしかし、変わらずその手は床と同じ冷たさだった。
冬子は男の下半身を見る。以前テレビで見たことがある、変身症の症状と同じ。たしかこの病気は、性行為でも感染すると言っていた。
性行為。三日前の、午後。あの日センセイは、この男は、コンドームをつけずに、――何度もわたしとつながった。
一瞬思考が停止した。死体を見つけた時とは異なる衝撃だった。あのときこの人は、コンドームをつけていなかった。――そうしたら、もしかしたら。
冬子は思わず立ち上がった。センセイが目の前で死体として転がっていることの驚きや悲しみより、自分が感染しているかもしれないことに気づいたショックの方が大きかった。それを明確に理解している自分自身にも動揺していた。
少しずつ後ずさりした。入れ物でしかないセンセイはだらしなくドアによりかかったままだった。それでも冬子はその死体を凝視したまま足を後ろへ動かした。気づいたら玄関まで後退していた。センセイから目をそらさないまま手探りで玄関のドアノブをまわす。
外へ飛び出すやいなや走りだした。一月の空気が風となって頬を切る。襲ってくるものなどなにもいないにもかかわらず、なにかから逃げるように冬子は走った。走りながら泣いていた。涙があふれてとまらなかった。顔が涙でぐちゃぐちゃになってることにもかまわず、最寄駅の改札をぬけた。
走る勢いのまま、トイレの個室に飛びこむ。鼻をつくようなアンモニアの臭い、和式便器の黒ずみ、小さなゴミ箱にあふれる使用済みの生理用品は清掃が行き届いていないことを証明していた。冬子は壁にもたれ、声を押し殺して泣いた。ごみ溜めのような小さな空間で、冬子は吐くように泣き続けた。
その日は帰宅するなりベッドへ潜りこんだ。夕飯を促しにきた母には「風邪ひいた」とだけ言った。制服のまま布団の中で丸くなり、息をした。自分の体温を感じながら自分の下腹部に手をあて、感染している可能性ばかりを考えた。感染がわかったその先を冬子は想像できなかった。わたしの身体もセンセイのようになるのだろうか。センセイが乱暴に扱ったこの身体も、虫になるのだろうか。
翌日、ベッドから出ようとしない冬子の部屋へ母が転がるようにして入ってきた。
「あんたの担任、死んだって!」
冬子はぼんやりとした頭のまま「へえ」と反応した。
「自殺みたいで、これから保護者会開くから来いって学年主任って先生から電話あったのよ。教師が自殺なんて最低よね」
死体になったセンセイはいつ発見されたのだろう。誰が見つけて、誰が警察に届けたのだろう。そう思いながら、冬子は憤然と部屋から出ていく母の背中を見送った。
母が帰ってきたころには、日は暮れすっかり暗くなっていた。帰ってくるなり母は冬子の部屋へ直行した。
「あんたの担任、変身症で死んだんだって」
ちがう、と冬子は内心で訂正した。変身症のせいで、自殺したんだ。
「変身症よ。あんな恐ろしい病気に感染してたのに、あんたの担任は教師なんてやっていたのよ」
教師をやっていたどころか、わたしとつきあっていたの、お母さん。わたしと、セックスしたの、その人。冬子は心の中で訴えた。
「明日、厚労省が来て全校生徒全員、血液検査するって。感染していないかの検査。最悪。そんな病気持ちが教師で、もしかしたら生徒に感染させてるかもなんて。だいたい若い人が教師なんてロクなもんじゃない。子ども相手の気楽な商売でしょ、プライベートでもどうせ遊んでたに違いない。冬子、あんた、担任にさわられたりしてないでしょうね。もしも感染させられてたら、わたしはどうすればいいの」
「さわられて、ないよ」
さわったくらいでは感染しない。それくらいのことは冬子でも知っていたが、母親には言わなかった。
「なら、いいんだけど。新しい担任はすぐに見つからないから、年度末までは学年主任が担任の代わりやるって言ってたよ。なんであんなむさくるしいおっさんが女子高の教師なんてやってるのかしらね。下心しかないんじゃないの、ああいう人って」
不平を言いながら出ていく母を、冬子はベッドの上からにらみつけていた。気持ちの上では母の背中にナイフをつきたてていた。冬子の内面は母の血で黒く汚れていた。
週が明けた月曜日、冬子は学校を休んだ。行けば血液検査を受けさせられる。検査の結果を冷静に見られるとは思えなかった。今日さえ行かなければ検査を免れられるのではないかとも思った。母は「さわられてないなら感染してないんだから行かなくていいよ」と言った。土曜日に泣きはらした顔は、すでに腫れがひいていた。
火曜日、冬子は学校へ行った。クラスメイト達はいつもと変わらない様子だった。誰もセンセイのことを喋っていなかった。血液検査のことも話題に上がっていないようだった。ホームルームの時間になると、学年主任があらわれて出席をとった。冬子を呼んだ時「林野さんは、昼休み、数学教務室へ来なさい」と鋭い目つきで指示をした。アイスピックの様に細く鋭利な眼光だった。
昼休みに数学教務室へ行くと、学年主任は机で仕出し弁当を食べていた。彼は「ごきげんよう」と言って食べかけの弁当にふたをかぶせ、そばの椅子にかけてあったジャケットを着用してから、机の上においてある一枚の紙を手にした。
「これ、昨日きた厚労省の係員がおいていきました」
A4判の白い紙には、『変身症検査のお願い』と言うタイトルがある。
「検査のお願いと言うか、行政命令です。変身症に感染した人間の周りの人が対象になる。昨日は中等部も含めた全校生徒全員が検査を受けました」
「変身症って、空気感染はしないんじゃ」
「よく知っていますね。血液を介するか、性交渉で感染する。私たちも、もちろん厚労省の方々もそれは承知しています。ただ、過去に何が、誰の身に起こっていたかなど誰もわからない。念のため――不安を払しょくするために、全員の検査を校長は受け入れました」
「学校を、守るためじゃないんですか」
「それもあります。受験シーズン直前にこんなことになっては、わが校の受験を取りやめる受験生が相次ぐかもしれない。なんとしてでも、受験申込締切日までに学校関係者全員がシロであると表明しなければならない」
だから、その検査は早急に受けてほしいと学年主任は言う。
「今日の放課後、その紙に書いてある検査ルームへ行ってください」
紙には『公益財団法人変身症研究センター 出張検査ルーム』という場所のアクセスが書かれている。一番下にはアルファベットと数字が並んだ識別コードのような羅列が手書きで書かれていた。
「それを見せれば、今回のことに関する検査だとわかるそうです」
「厚労省に行くんじゃないんですね」
「そこは民間の研究センターがやっている検査ルームです。金額は発生しない。問診のようなことはあるらしいが、すぐに終わる。プライバシーもちゃんと守られるそうです」
「これ、行かなかったら」
「罰金の対象になります。カネを払わされて、さらに強制的に血液検査を受けさせられる。だから、今日にでも行った方がいい。感染していないことが明白でも、です」
「……わかりました」
言いながらも、冬子はどうしようと思っていた。わたしは、感染しているかも、しれないのに。
「あの、センセイは、ご葬儀は」
「終わりましたよ。遺体は厚労省が引き取って、家族には何も残されていないそうですが。形ばかりの葬儀だけは執り行ったと聞いています」
「センセイを、誰がみつけたんですか」
「私です」学年主任は息をついた。「きみもクラスメイトから聞いているでしょう、彼は自殺していた。始業式の日、彼から休む旨の連絡がありましたが、次の日、その次の日は連絡がなかった。教師が無断欠席しているとも言えませんから、きみたちには体調不良と伝えただけです。土曜の午後、私が自宅へ様子を見に行った。玄関の鍵が開いていたから中へ入ったら、彼の死体があった」
淡々と話す学年主任だったが、かたく握られた拳は震えていた。
「林野さん、きみは二学期中にだいぶ成績が上がったが、それは彼のおかげですか」
「なにがですか」
「放課後、毎日パソコン室で自習をしていたでしょう。彼もそれにつきあっていた」
冬子は返事をしなかった。下手なことを言えば、とたんにボロが出てしまうと思った。
「男性教職員の間では、生徒指導の時以外に生徒と二人きりになることがないように、という不文律があります。誰が何をどう疑うかわからないからです。私は彼の上司として、彼にそれとなく忠告したことがある。でも彼は、あくまでも生徒指導の一環だと言いました」
数学教務室にいる他の教師全員が耳をそばだてていると、冬子は感じた。
「わたしはセンセイから、勉強を教えてもらっていました」
「確かにきみの成績は上がっていた。だから、私たちは、見て見ぬふりをしていただけです」
「わたしは、センセイの中で、問題児だったんです、たぶん」
「私は心配しているんだ。他の生徒よりも彼と親しかったきみの、今の精神状態を」
「だいじょうぶです」冬子は即答した。「ショックですけど、勉強は一人でもできますから」
一礼をして冬子はその場を辞した。手の中にある紙を無意識に握りしめていた。その拳で、自分の下腹部をさわった。まだ、センセイの感触が残っているような気がした。涙が落ちそうになって、近くのトイレに駆け込んだ。手洗い場で、水が跳ねることも構わず顔を洗った。誰かがトイレに入ろうとしたが、顔を水浸しにする冬子を認めて慌てて引き返して行った。
放課後、冬子は学年主任からわたされた紙に書いてある場所へ行った。そこはJRとメトロが乗り入れる駅に併設されたファッションビルの最上階だった。そのフロアはクリニックモールの名目で内科や眼科などがテナントをかまえていた。そのいちばん端に、『VRC 出張検査ルーム』の看板がひかえめに立っている。
冬子はうつむき加減にテナントの自動ドアをくぐった。入ってすぐ、目の前にはクリニックのような受付があり、中年の女性が「こんにちは」と笑いかけてくる。
「あの、これ」
学年主任から渡された紙を提示すると、女性は「ああ、はい。そしたら受付これね」と、番号が書かれた札を渡してきた。
「それは呼出し番号です。出してくれたその紙は、呼ばれたら中にいる先生に渡してください」
「名前とかは」
「申告しなくて大丈夫よ。そちらの待合席でお待ちになってて」
受付の女性が示す方には簡易なパーテーションで仕切られた空間があった。安っぽいソファーベンチが二つ並んでいるが先客はない。冬子は後ろ側の端にカバンを抱えて腰かけた。正面には真っ白いドアがある。座っているベンチの横にはパンフレットが入っているラックがあったが、中身はすべて『変身症』がどうのと書かれており、手にとる気にはなれなかった。
数分を経て、天井のスピーカーから男性の声がふってきた。数字を読み上げ、「どうぞ」と言っている。冬子は自分の心臓の鼓動が速くなっていることに気づいた。ほとんど気力だけで立ち上がり、目の前のドアを開く。
ドアの向こう側の部屋は、想像していた場所とは違う空間だった。診察室のような部屋を想像していたが、実際は分厚い絨毯が敷かれ、こげ茶の壁紙は重苦しく、奥には書斎机が構えていた。その机の向こう側の壁には、やはり重そうな扉がある。
圧迫感のある空間に、白衣の若い男は眠そうな顔で冬子を待っていた。椅子の背もたれにだらしなく体重をあずけたまま、「どうぞ」という。
机の真正面にはこれもまた重そうな革張りの椅子がおいてあった。冬子はおそるおそるそれに腰かける。クッション性のある椅子は、冬子の心情にはそぐわなかった。
「どうも。変身症研究センター、一般検査部の医師、クチキです」
まだ二十代半ばくらいに見える男の胸元には「朽木離苦」と名前が彫られたプレートがついていた。離苦だなんて人をばかにしたような名前だと冬子は思う。
「高校生ですか。検査、なんで受けようと思ったんですか?」
「これ」
冬子は握りしめていた紙をその医者へ渡した。朽木はそれを一瞥すると、机の端においてあったデスクトップパソコンへ何かを打ちこむ。
「ああ、これ。高校の教師が発症して、自宅で自殺していた件。あなた――林野冬子さん、その高校の生徒ですか」
冬子はうなずいた。
「この方がお勤めになっていた高校では、昨日、特殊感染症管理局が一斉検査を実施したらしいですが、お受けにならなかったんですか」
「とくしゅ……? 厚労省じゃなくて?」
「厚生労働省の機関の一つです。それで、昨日は」
「学校、休みました。今日、先生にそれを渡されて、だから来た」
「わかりました。今回の感染者の方、教師だったそうですが直接教わっている人でしたか?」
「担任です……でした」
ずっとパソコンの画面を見ていた朽木の目が、冬子に向いた。
「担任ですか。それは、ご愁傷様です」
心がこもっていない同情の言葉だった。冬子が見た彼の目は、腐っているかのように光が宿っていなかった。
「厚労省からの指導で、感染者の周囲の方々は必ず検査を受けるよう義務付けられています。ですが、変身症は空気感染や飛沫感染はしません。ご存知かもしれませんが、血液を介するか、性交渉で感染します。学校生活の中で、感染した方の血液をさわったことはありますか?」
冬子は膝の上で両手を握りしめた。朽木は目敏くその手を見つめる。
「ありま、せん」
否定した声は震えていた。
「本当に?」朽木は低い声で問うた。「なにか隠していませんか?」
この人が、死亡した男性教師と冬子がセックスをしたとは思っていないことを冬子は理解していた。だからこそ、直接的に聞いてこないのだ。ここで話したことが学校に知られたらと考えると、喉の奥が渇いて声を出すことができなかった。
「勘違いされているかもしれませんが、ここであなたがわたしに話したことをわたしは誰にも報告しません。あくまでも、参考程度に聞いているだけです。今回、あなたは検査義務を課せられたからこの紙を持ってやってきているだけです。あなたの検査結果を我々は厚労省に報告します。陰性だったらその結果だけ。それだけです。ヒアリングした内容までは伝えません」
「陽性なら」
「過剰に不安を感じなくても結構ですよ」医師は問答からそれる返事をした。「感染力は非常に弱いウイルスです。めったなことでは感染しません」
「セックスしました」
声はほとんど枯れていた。
「一月三日、しました」
瞬間、医者の目が見開かれた。その表情はみるみるうちに硬くなっていく。朽木は身を乗り出すようにパソコンへ顔を向けた。画面に書かれた何かをすばやく読み取っている。
「一月三日? 冗談だろ」それまで丁寧だった口調が一転して粗雑になった。「この男の死亡状況から推察される発症日は、一月三日だ」
「どういう、ことですか」
「さっきも言ったように変身症の原因となるUNGウイルスは感染力が非常に弱い。性交渉でも感染すると言ったがその確率は0.0002パーセント。避妊せずに行為をしてもほとんど感染しないと言っていい。だが、九十八パーセント感染する条件がある。ウイルスの宿主が発症しているときに行為に及んだ場合だ。あんた、一月三日のそのとき、この男の性器はどうだった。普通ではなかったか」
「知らない。普通なんて。暗かったし、初めてだったし、痛くて冷たくて、よく見てなかった」
「冷たい?」
朽木は眉をひそめた。
「玄関で、したから」
「それでも、コンドームはつけていただろう?」
冬子は小さく首をふった。「ぜんぶ外に出したから、大丈夫だって言われた」
「ありえない」朽木の顔が大きく歪む。「人間として最低だ」
「センセイを悪く言わないでよ!」朽木の悪様な言い様に思わず立ち上がっていた。カバンが足もとへ落ちる。「センセイのこと、わたしのこともなにも知らないくせに! わたしには、センセイしかいなかったのに!」
大粒の涙があふれて止まらなかった。息がうまくできなかった。椅子に座ったままの朽木は、冷静に冬子を見つめていた。
「座りなさい」医者は静かに言った。「落ち着いて、話をきかせて」
冬子は腰から落ちるように座った。カバンは拾わなかった。
「このパソコンの画面には、その男の死んだときの状況や、過去の経歴が記載されています。経歴は、彼のオンタイムのものからプライベートまで、管理局が調べられる限りのことをすべて網羅している。彼を感染させた人も推定されています。高校生の時の同級生。この同級生は高校入学直後から援助交際をしていたらしく、高校三年生の時に補導されています。男がこの同級生と別れたのも、補導がきっかけのようでした。この同級生は援助交際の相手から感染したのではないかと管理局は推測しています。まあ、この男がそれを知っていたかどうかはわかりませんが。その後、十年にわたって彼がだれかと交際していた様子はなかったようです。しかし、この前の正月休み、家族に対して交際相手の存在をほのめかしたらしい」
わたしのことだ、としゃくりあげながら冬子は思う。
「管理局はその交際相手について現在も調査をしています。ただ、彼の電話もなにもかも、見つかっていないためにわからないらしい」
「みつかっていない?」
「自殺する前、意図的に壊して捨てたのではないかと」
朽木は冬子を見据えた。
「きっと、交際相手が誰か知られてはまずかった。世間に知られてはまずい相手だった。――合点がいきました。生徒とつきあって、そのうえ一線を越えていればそれは世間に知られるわけにはいかない。あなたのためにも、隠さなければならない」
腐りかけの魚のように光を宿さない目で、医者は言った。
「あなたにとって、この男が唯一の人間だったのかもしれない。だが、避妊もせず行為に及ぶなど、それはあなたのことをただの性欲処理にしか使わなかっただけの話だ」
「センセイは、わたしに結婚しようって言ってくれた。わたしを、自由にしてくれるって」
「自由?」朽木は苦虫をかみつぶしたような顔をする。「真逆だ。あんた、もしも感染していたら自由などさっぱり奪われる。行政によって。つまり国によってあんたは普通の生活ができなくなる。収容施設に入れられて、発症するまでずっとそこで過ごすんだ。囚人よりもそれは非人道的な扱いを受けることになる。あんたがこの男をかばっている余裕は、ない」
「でも、センセイは、わたしを」
涙が膝の上の拳に落ちていく。わたしはどうして泣いているんだろう。冬子は混乱する頭で考える。初対面の医者にセンセイを否定されたから? センセイがわたしを危険にさらしたから? センセイがこの世にもういないから? 理性と感情がないまぜとなり、すべてが暴発しそうだった。
「とにかく、血液を採取させてください」
朽木は自身の傍らにあるラックからティッシュの箱くらいの大きさのクッションを出して、そこへ肘をのせるよう冬子に指示した。冬子が制服の袖をまくって左腕をのせると、医師はビニル製の手袋を二重にはめ、パッケージから注射を取り出す。
「スピッツに二本、採血します。手を軽く握って」
拳を握る。肘の裏側の静脈を医者は探り当てる。そこへ注射針がそえられる。逃げてしまいたい。そう思ったが、次の瞬間に注射針は冬子の皮膚を刺した。
ちくりとした痛みが、全身へ抜けていくように感じる。スピッツの中には鮮血がほとばしる。ある程度の血液で満たされると、二本目のスピッツに差し替えられる。自分の血が自分から離れていくことに唐突な恐怖を感じた。すぐにそれを奪い返したい衝動が全身をざわめかせる。
「はい、終わりです」
医師は慎重に針を冬子から抜き、すぐさま傷口へアルコールに浸された脱脂綿を押し当てる。注射針とスピッツはそれぞれ別々のトレイにおかれた。朽木は強く脱脂綿を押し続ける。
「これだけは勘違いしないでください。わたしが責めている相手は、あなたの恋人だった男です。あなたが罪悪感を抱く必要はない」
「意味がわからない。どうしてセンセイがあんたに責められるの」
「大人として、分別ある行動をとれなかった。そのせいで、あなたがいま泣いている」
「それはあんたがセンセイを悪く言うから」
「それだけですか? あなたが泣いている理由は」
朽木の指先の力が強くなる。血管がつぶれるのではないかと思うほどだった。
「……わたし、見た。センセイの、死体」
言いながら、涙がさらに溢れ出る。
「あんなふうに、なりたくない」
朽木は返事の代わりにかすかにうなずいた。彼の指先の力がゆっくりと弱くなった。医者は脱脂綿を外し、止血されていることを確認して絆創膏を貼る。
「一週間後、また来れますか」医師はきわめて事務的な口調で言う。「わたしはあなたにこの検査結果を伝える必要があります。同じ時間に、これを持って」
医師は引換券のような紙切れを冬子に渡した。結果説明を聞くためのチケットである旨がそこには書かれている。
「もし、感染していたら」
「あなたがこの部屋に入ったら、ここにはわたし以外に宇宙服のような防護服を着た管理局の職員が五、六人立っています。彼らはあなたを社会から隔絶するために、あなたをつかまえてこの、後ろのドアからあなたを連れ去る。そうするとあなたは、二度と外の世界に戻れない」
朽木は握っていたペンの頭で背後の扉を示し、そのペンを床へ落とした。
「六面真っ白のつまらない部屋で、発症するまでの十年を過ごす。もしかしたら十年の間に他の、たとえばうつ病を発症してもっと早く死ぬかもしれないが。――変な気は起こさないでください。もしあなたが来週ここへ来なかったら、あなたが感染していようがいまいが、管理局の連中はあなたの家に乗り込んで事情聴取を行う上、罰金を請求します」
「罰金って、そんな警察みたいなこと」
「警察とはべつに、変身症に関して警察権を持った連中です。さからうべきではない。あなたが何を言っても、それを情状酌量のタネにするようなことはありませんから」
冬子は渡された紙を握った。
「わたしはセンセイが、好きなだけだったのに」
「そのセンセイもあなたのことが好きだったんでしょう。でも、それとこれとはべつです。あなたはもう、忘れるべきだ。愛情は他人から与えられるだけのものではない。自分自身を愛することもまた、正しい愛情です。あなたが恋人を失ったことで、あなた自身を傷つけることがないように。他人から与えられる愛情は、今のあなたを癒さない。自分をしっかり保ちなさい」
そのとき、朽木のデスク上にある電話が鳴った。朽木はすぐに受話器をとり「はい、わかりました」と短く応答する。
「次の人が待っているようです。あなたとのお話は続けられません。また来週、お会いしましょう。あなたが感染していなかったら、ここにはわたしだけが待っています」
朽木は冬子に立つよう促した。冬子は白衣の男から視線をそらさず立ち上がる。足が震えていた。奥歯も鳴っていた。目の前の男が、最後の審判を告げる神かなにかに思えてしかたがなかった。
それから過ごした一週間は感情の波が激しかった。感染していたら、と絶望し動悸を激しくしたかと思えば、感染していない、と自分を安心させるように言い聞かせることを繰り返した。その波を表に出すことはなかったが、授業はほとんどうわの空で、道をあるいていても脇を走る車のエンジン音も聞こえず轢かれそうになることもあった。
コンビニエンスストアや購買部で財布を開けるたび、朽木離苦から渡された紙きれが目にとまって思考が真っ白になった。
感染していない可能性を求め、放課後のパソコン室で規則違反と分かっていながらもパソコンを使い、インターネットで変身症について調べたが、調べた結果が自分の検査結果を左右するものでないことも初めからわかっていた。
変身症研究センターについても調べたが、設立から九年になる研究機関であり、変身症に関して希望ある成果を得られていないことを知るだけだった。きわめつけは、設立者である現センター長の夫人で、どこかの大学の学長を務めていた「徳坊知愛子」が昨年秋に交通事故で死んだという縁起でもないニュースまで見つけてしまった。変身症に直接関係があるわけでもないバッドニュースはさらに冬子の不安をざわめかせた。パソコンの画面から目をそらして教室を見渡したとき、そこにセンセイがいないことをあらためて実感し、涙があふれた。
じりじりと時間が過ぎた一週間後、冬子は『VRC 出張検査ルーム』の看板が立っているテナントへ、一歩踏み入れた。
受付の女性は一週間前と同じ人だった。彼女は先週と変わらない笑顔で、先週と変わらない対応をした。待合に人はいない。冬子は財布から取り出した紙切れを握りしめ、立ったまま待った。
しばらくして、天井から朽木の声がふってきた。その声は淡々と冬子の受付番号を読み上げる。冬子は生唾をのみこんだ。嫌な汗が腋を濡らす。鼓動が激しくなる。何度も強く瞬きをして、その医師がいる部屋のドアノブを握る。
目をつぶったままドアを開いた。人の気配が少ない、と直感的に思う。肌で感じる空気の動きを察知しようと全神経が屹立していた。おそるおそる、目を開ける。
そこには、椅子に腰かけた朽木の姿しかなかった。光のない眼で、だらしなく椅子の背にもたれている。冬子と目が合うと「こんにちは」と仰々しく頭を下げた。
急に鼓動がおさまった。腋の汗が冷たくなっていくのを感じた。よかった、と思った。感染していない。この医者しかいない、すなわち感染していない。この一週間の不安はすべて杞憂だった。虫になる未来は訪れない。安堵の笑いを顔は表現しようとしたが、口の端が引き攣れるだけだった。
「ドアを閉めて、そこへおかけください」
冬子は朽木の案内に従った。正面に座ると、朽木は指を組んで冬子の瞳の奥を見つめてくる。
「今日ここには、わたし一人しかいません」
妙な緊張感だと思いながらも、冬子は「それじゃ、わたしは感染していないってことですよね」と返す。
「一週間前あなたから採取した血液を、わたしが検査しました」
朽木の言い方が回りくどく、冬子は焦れた。
「検査結果は、陰性であると、管理局には報告しました」
「陰性なの?」
「表向きには」
自身の昂揚しかけた感情が、一瞬にして固まったのを冬子は感じた。
「どういうこと」
「感染していました。陽性です。何度か検査を繰り返しましたが、どれも百パーセント陽性だった」
「え?」冬子は自分の目が見開いていくのを自覚する。「だって、ちょっと……なんで、どういう」
目の前が見えているのに見えていないような混乱に陥った。朽木の不健康な肌の色が複雑なモザイク模様に見えてしまうほどに、冬子は言われたことを自身の中で処理できなかった。
「先週説明したとおり、感染していればあなたは管理局の連中に拉致されて完全に社会から隔離されます。だがそれは、わたしが検査結果を陽性であると報告した時だけです。わたしは結果用紙に陰性と書き、サインしました」
「それは、普通なの?」
朽木は「いいえ」とはっきり否定した。
「検査結果の偽造には懲役または罰金、もしくはその両方が科せられます。最長十年、最高五千万円と、特殊感染症対処特別法に明記されている。もちろんわたしは、この法律をこれまで犯したことはありません」
「それなら、なんで」
「あんたに同情した」
朽木はぞんざいに言い放った。
「高校生で、教師に、性行為で感染させられた上、その相手は死んでしまっている。あんたに非はないが、あんたが責めるべき人間ももういない。あんたは被害者だ。同情の余地は十分にある」
「同情って」
「それ以外にわざわざ理由をつけるなら、これは俺の自己満足だ。かわいそうな高校生を非情な社会から守ってあげたい、そういう類いの自己満足だ」
「あなたの、自己満足」
「そう。俺はあんたの検査結果を偽造した。あんたがこれを誰かに言えば、あんたは社会から隔離されるし、俺は管理局の奴らに逮捕される。どちらにとってもいいことはない。つまり、あんたはこのことを黙っているべきだし黙っていなければならない」
「わたしは被害者なの? だったら、加害者は誰なの」
朽木は片側の眉尻をぴくりと上げた。
「あんたの、担任だった男だろう」
「違う。センセイは加害者じゃない。センセイはわたしを好きになってくれたし、わたしもセンセイを好きだった。好きだから、抱かれたの。好きじゃなければしなかった。センセイが加害者と言うなら、わたしだって加害者」
「違う。あんたの恋人は、恋人である以前に成人だ。していいことと悪いことの区別をつけるべきだった。判断力のない子どもの好意につけ込んだ、愚かな悪人だ。あんたも馬鹿じゃないだろう。わかっているはずだ。わかっていなかったとしても、あんたは現に、害されている」
「でもセンセイは死んだ。加害者がいるなら、それはウイルスよ」
「ウイルスには意志がない。あれはそこに生きているだけで、人間を害する意図は持っていない」
「それならもうしょうがないじゃない。わたしは出会わなければ、センセイに出会わなければ、今の学校に入学しなければ、中学受験なんか嫌だった、嫌だって反抗していれば」
こんなことにはならなかった。
「ひとつを言い出したらキリがない。あんたの言う通りなら、強いて言えばそれは環境で、あえて名前をつけようとするなら――……ちょうどいい言葉は“不条理”だ」
「ふじょうり」
「それがあんたにとっての一番の害悪だ」
「でも、感染しているなら、どうせわたしはいつか」
虫になる。言いかけて、こみあげえた吐き気をこらえるように飲みこんだ。
「いつか発症して、虫になる。だが、そこらへんで蛹化されても困る。だからそのときには俺のそばにいてもらう必要がある」
「あなたのそばに?」
「看護師資格をとりなさい。変身症研究センターに採用されるなら研究助手枠がいちばん手っ取り早い。研究助手になるためには看護師か臨床検査技師の資格が必要だ。あんた、技師って言ってもピンとこないだろ」
冬子は言われるがままにうなずく。
「だったら看護師だ。まじめに勉強していれば試験はとおる。大学は東日医科大学の看護学科にしなさい。そこにはいつもうちの研究センターからのリクルーティングがある。他大学や専門学校に行くよりもうちに入職しやすい」
「あの、わたしは看護師なんて」
「勘違いするな。あんたに選択肢なんてない。もし俺の言うことが聞けなければ、俺はあんたを陽性だったと言って検査結果の訂正を管理局に申告するだけだ。そうすればあんたは」
「社会から隔離される?」
「わかっているなら言うことを聞きなさい。いま高校二年生なら、五年後には俺の同僚だ。あんたは死ぬまで献血もセックスもしてはならないし、事故や病気にも遭わないよう気をつけなさい」
「病気って」
「万が一手術が必要な病気にでもなってしまったら確実に検査される。そうしたら手術せずに隔離施設送りだ。毎年健康祈願を欠かさないように」
「治らないんですか。治す方法はないんですか」
「ない」
朽木は即答した。「今のところは」
「もしかしたら、あんたが発症するまでの間に治療法が開発されるかもしれないが。ただし、自分が研究者になってどうこうできないかなんて考えないことだ。六年医大に行って、院に進学とかポスドクになって修行とか、それではあっという間に寿命が来る」
「わたしは、わたしの人生は」
「十年も真っ白な部屋に監禁されないだけマシだと思えないか」
「でも」
「好きなものだっていくらでも食べられる。好きな場所で寝られる。好きな服を着て好きなところへ行って、恋愛こそできないが些細な幸福だったら、十年間でいくらでも経験できる」
「恋愛なんて」無意識のうちに膝の上で強く拳を握っていた。「二度としない」
宣言した瞬間、モザイクのようだった視界が正常に戻った。眼球ではなく脳の奥でピントが結ばれたかのようだった。目の前にいる男は、生気のない眼で冬子を見ている。
「わたしは東日医科大学の看護学科に行って、看護師免許をとって、あなたの職場に入社すればいいんですか」
朽木はうなずいた。「東日医科大の看護学科の偏差値はたいして高くない。看護師試験だって勉強すればたいがいは受かる。努力すれば、難しいことではない。きみ、好きな食べ物は」
「食べ物?」
「俺は好物がないんだ。なにを食っても味がしない」
いままで食べたものでおいしいと思えたものなんて、あの日に食べた手料理だけだった。その味すらもう思い出せないでいる。口の中の唾は苦い。
「……まあいい」朽木は唐突に興味をなくしたように背もたれへ背をあずけた。「俺はしばらくこの検査ルーム勤務だろうから、なにかあったらいつでも来なさい。もしくは、変身症研究センターに問い合わせて『朽木』を呼んでもらえればすぐに出るから」
朽木はデスクの引き出しから一枚の名刺を取り出し、座ったまま冬子へ渡した。名刺には『公益財団法人変身症研究センター 一般検査部 研究員 朽木離苦』と書かれていた。
「先生が、あなたが治療方法を開発することはないんですか」
「できたらいいと、この病気に関わっている研究者はみんな思っているよ」
「……わたし、好きな食べ物はもうないけど、一人になることは好きです」
「そう。……俺も同じだ。だから、この部屋に一日中いると、楽だ。楽なだけだ」
「楽になることは、逃げることだって、センセイに言われた」
朽木は眉を動かす。「センセイ、とは」
「わたしにウイルスをうつした、その人」
冬子は立ち上がって一礼した。震えそうになる足を気力だけで前に踏み出す。体の真ん中に空洞ができた様な心持で、待合室へつながるドアを開けた。
受付の女性から何か声をかけられたが無視した。そのまま街へ出ると、忙しそうな人々が、楽しそうな人々が、それぞれ行き交っている。冬の空は冬子を突き放すように乾燥していた。
冬子は手の中の名刺を見た。
――『離苦』。
その名前が冬子の苛立ちへ通電し、衝動的にその紙片を千切り裂いた。細かく細かく、ままならない自分を殴りつけるように名刺を千切り、冬の風へ散らした。その行為を咎める者はなかった。
その年、冬子が在籍していた高校の入学試験は定員を割った。明らかにセンセイが変身症を発症したことが原因だった。週刊誌やインターネットには虚実ないまぜのほとんど作られたような風説が書かれた。学校の制服姿で往来を歩けば悪意ある言葉を投げかけられ、電車に乗れば周囲から白い目を向けられる生徒が多く、学校は私服での登校を推奨するようになった。それでも在学生の中には他校へ転校する者も相次いだ。そんななか、周囲の喧騒を完全に拒み、冬子はただ目の前の勉強に邁進した。
高校二年の三月に行われた進路相談で「東日医科大学の看護学部に行く」と宣言したとき、母は「苦労するだけの仕事なんてする必要ない」と反対し、学年主任は「もっと偏差値の高い大学を目指せる」と説得してきたが冬子は譲らなかった。
三年生の間、放課後になると一人で図書室へこもって勉強をした結果、入試は高得点でパスし、四年間の学費が免除になる奨学生制度へのエントリーも認められた。在学中も他学生の何倍も勉強し、成績はほとんどの教科でS評価を得た。同級生たちが憂鬱と緊張を隠さない病院実習もそつなくこなした。だが、患者からの評判は悪かった。
「目が笑っていない、冷たいかおの学生さんが怖い」
苦情は何件も寄せられた。面と向かって言われたこともある。もっと愛想良くふるまえないの、と指導係の看護師にも怒られた。すみません、と頭をさげるたびに見える床がひどく冷たく感じた。なんのために生きているのかわからなくなっていった。
ファッションも化粧も覚えなかった。いつも同じジーンズと、セールの時に適当に買ったシャツを着ていた。
同級生がアイドルの話をしている横で、教科書をなめるように読んでいた。彼女たちとは、実習でしか会話を交わさなかった。
きっとUNGウイルスに感染しなくても、センセイと出会っていなかったら今と大差ない生活をおくっていたに違いないと学生の冬子は悟っていた。誰とも交流せず、心を開かず、閉じこもる。それが心地いいものとして片づけていたに違いなかった。センセイと交流していた時間以外はすべてが楽しくなかったのだから、あるべき生活に身をおいていると思えばそれは自然なことだった。
学生の間に変身症について書籍やインターネットで調べたが、一般的に希望を抱ける情報は何一つなかった。ただ、ひとつだけ、冬子にとって良かったと思えることがあった。
変身症の収容施設で死ぬと、人間の状態であれ虫の状態であれ、死後は施設内の焼却炉で焼かれる。焼却された後は骨も灰も墓に入れられることなく施設内の倉庫へ保管されることが法律で定められている。
このことを知ったとき、冬子は素直に「良かった」と思った。家の墓に入らなくてすむ。両親より一足先に墓に入り、そこで親を待たなくてすむ。あの父や母と共に永遠を過ごさなくて、すむ。
大学四年の春に変身症研究センターの採用試験を受けた。筆記も面接も問題なく合格した。同期はいなかった。「きみは非常に優秀だった」と内定式で人事部長がほめてくれた。両親には東京都の採用試験に保健師として合格したと嘘をついた。変身症研究センターに入職すると言えば危ないだの給料が低そうだのと反対されることは目に見えていたからだった。
変身症研究センター――VRCへ入職した日、配属先として案内された部署は臨床部だった。人事部の職員がドアを開けた先に、朽木離苦がいた。彼は出張検査ルームにいた時と変わらず、光を宿さない目で「こんにちは」と横柄に言った。
朽木は冬子と同じ日に部署を異動したのだと言った。彼は冬子とは初めて会ったかのように「わざわざ看護師免許取ったのにこんなところに来るなんて物好きですね」とつまらなそうに言いながら、冬子をデスクへ案内した。
「俺も不慣れだが、俺の助手はきみだ。よろしく」
異動したばかりの人間と今日入職したばかりの新卒を組ませる人事も部署もおかしいと思ったが、当の朽木が何を考えているのかもわからず、黒いスーツに身を包んだ冬子は笑わないまま「よろしくおねがいします」と言った。
朽木と組んでから四年が過ぎる。その間、二人の間で交わされた会話は仕事の内容がほとんどだった。ときおり、検査ルームでの約束を思い出そうとしなければ、彼が冬子に情けをかけて法律違反をした人物であることを忘れてしまいそうになるほどだった。そして、かけてもらった同情ほど、胸をはれるような人生は送っていない。
九年のあいだで法律も変わった。感染が発覚したとしても、その者の周囲の人間まで検査を義務付けることはなくなった。感染力が低いために検査の意義がないことが名目だったが、実際のところ検査費用にかかる予算を削ることが厚労省の本音であるといわれている。だから、
法律が変わってよかったと冬子は思う。大雨に降られても彼女は自主的にVRCへきた。その上での採血と、強要される採血は違う。
冬子はベッドの中で丸まりながら、手垢で汚れ、角の革がはげたキーケースを握った。ケースの中には自宅の鍵と、センセイの家の鍵がぶらさがっている。本当はどちらも自分にとっては必要のないものだった。それなのに、握りしめないと眠れない。握ってようやく、安心する。そんな自分に、ずっと嫌気がさしている。
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