変身症

高木

第1話

 曇天だった。厚い雲は蓋のように地上をおおっていた。

 東京に台風が近づいている。

 ニュースは昨日から延々と台風に関する情報を提供していた。今日の正午から午後にかけて、東京は猛烈な雨風に襲われるだろうと気象予報士は言っていた。JRは始発から運行列車を間引いていたが、乗客の数は普段より少ない。めずらしく席に座れた林野冬子はやしのふゆこは、車窓に映る灰色の空を見上げた。

 今日は早めに帰れるだろうかと心配しているうちに、電車は冬子が下車すべき駅に滑り込む。ドアが開くとともに乗客の半数近くがホームへ出た。頬をなでる空気は真夏にもかかわらずひやりと冷たい。この駅はJRと地下鉄が乗り入れるため利用者数が多く、駅にはファッションビルが併設されている。駅前には繁華街があり、曜日を問わず街全体は賑々しい。

 改札を抜けると、駅前ロータリーでスピーカーを使って演説をおこなっている集団があった。

「この街に『変身症研究センター』は不要です! 人権を無視した感染者の監禁! 変身症という感染症を利用した人体実験! その実態は『変身症』感染者収容所です! ご通行中のみなさま! この街から『変身症研究センター』を撤退させるための署名にご協力下さい!」

 スピーカーを持って主張する人物は、黒いスーツを着込んだ青年だった。その背後に『変身症研究センターは撤退せよ!』『人は皆、人権を持っている!』と過激なフォントで染め抜かれたのぼり旗がはためいている。周囲には、ビラを配ったり署名を求めたりしている人が十人ほどいた。

 通行人は無関心だ。ビラの配布を避けようと歩く方向を変え、署名を求められれば手のひらで制する。誰かが受け取ってその場で捨てたと思われるビラが幾人もの通行人に踏まれていた。

 冬子も他の通行人と同様に避けようとしたが、若い女性に無理やり押し付けられたビラを受け取ってしまった。歩きながらざっと目を通したビラには、のぼり旗と同じような主張とともに、「NPO法人ワールドホープ」と団体名が書かれている。冬子はそれを適当に折りたたんでトートバックの奥につっこんだ。

 商店街の横の通りに入れば、木々の群れが目に入る。開発された街の中に小さく確保された緑地だ。広葉樹の葉は深い緑の壁となり、外界から内部を守るように繁っていた。すぐそこに池があるためか辺りは駅前よりも湿気が高い。その池は、四年前、冬子が新社会人として働き始めた年の夏のある夕方、ひどい夕立で一時的に貯水限界を超え、氾濫寸前まで水嵩が増した。今回は大丈夫だろうかと池がある方を見る冬子の不安をよそに、蝉がそこかしこでかしましく鳴いている。

 池がある区画を横切ると、灰色の塀に囲まれた灰色の建物が見えてくる。正門の横には「公益財団法人 変身症研究センター」と銘打たれた石板が塀に埋め込まれている。

 冬子はトートバックから職員証をとりだした。それを門の横にあるスキャナにかざせば、音もなく通用口が開く。

「おはようございます」

 入ってすぐ横の守衛所に声をかけると、定年前の守衛長がいつもどおりの笑顔で挨拶を返してくれる。

 冬子は職員証のネックストラップを首にさげた。そこには「変身症研究センター 臨床部 研究助手 林野冬子」と記載されている。

 正門から少し歩いたところへその建物は静かに存在する。敷地面積一万五千平方メートルに建てられた地上六階地下二階の施設。窓を有さない外壁は、今日の空の色とほとんど同じだ。

 冬子はその建物の前にある車寄せをつっきって、正面玄関をくぐりぬけた。

 まだ誰もいない地下一階のロッカールームで半袖と長ズボンの淡いブルーのユニフォームに着替える。貸与されているユニフォームは、さながら医療従事者のようだ。これを着用する職員は冬子が所属する臨床部に限られていた。くすんだグリーンは研究員、淡いブルーは研究助手と見分けがつくようになっている。

 着替え終わると、冬子は職場である四階の執務室へ向かった。フロアの端に位置する臨床部のドアを開けると、八脚の事務机が二脚ずつ横並びになって壁に向かう形で点在している。その部屋の中央には資料がつまった段ボール箱やプラスチックコンテナ、エナジーバーが入った段ボール箱が九箱、履き古した30センチサイズのスニーカーがあり、その乱雑な空間へ擬態するようにして上から下までチャックがしめられた黒い寝袋が転がっていた。

「朽木先生。おはようございます」

 冬子が声をかけると寝袋は二三度もがくように左右へ揺れ、内側から器用にチャックがあけられた。寝袋の中からは、まず顔よりも先に腕が片方ずつ出てくる。それからようやく、痩せぎすの三十路男がまだほとんど睡眠の淵にいるかのような相貌のまま「おはよう」と顔を出した。蛇のような目つきだが、その真ん中にある瞳は腐りかけの魚のように光を失っている。しわが幾筋も入ったグリーンのユニフォームの胸元には「変身症研究センター 臨床部 主任研究員 朽木離苦くちきりく」と記名された職員証がぶらさがっていた。

 朽木は緩慢な動作で立ち上がり、ぬけがらとなった寝袋を適当に丸めて自分のデスクの横へおくと、近くにあった段ボール箱の中からエナジーバーを三つ四つ鷲掴みにする。

「シャワー浴びて、飯、食べてくる」

 この四年間、聞き続けたせりふだった。ぬけがらの中身はスニーカーをつっかけて部屋を出ていく。

 冬子は朽木のデスクの隣にある自分の席へ腰をおろした。目の前にあるノートパソコンを開け、電源を入れる。

 デスクトップがあらわれると、研究センター内のポータルサイトを開き自分のスケジュールを確認する。今日は十時から「説明会対応アシスタント」が入っていた。説明会終了が十一時すぎ予定になっているが見学者が帰るころには暴風雨なのではないかと思いながら、冬子はそばにあったリモコンで、壁に設置されているテレビをつけた。

 映されている景色は新宿駅南口だった。すでに雨が降っているようだ。画面の右下に台風の進路予想があり、その端は東京の西側にもひっかかっている。

 天気予報士の「不要不急の外出は避けてください」という忠告をぼんやりと聞いていると、部屋の奥にあるドアが唐突に開いた。

「台風、きた?」

 臨床部部長の村名賀むらながが、しわまみれの白衣を羽織って奥の部屋からあらわれた。長身を左右に揺らしながらテレビの下までやってくる。五十代にしては年齢以上に乾燥している肌と目の下のどす黒い隈が、白衣によって際立って見えた。

「部長。おはようございます」

「おはよう。台風、きた?」

「まだです」

「そう。他のみなさんはわたしから出勤しなくていいと連絡しておいたから、今日はだれも来ないよ。きみは午前中、仕事があるから申し訳ないが」

「部長はお帰りにならないんですか」

「いいんだよ、わたしは。自宅は一応あるんだから、朽木君よりはマシだ」

 朽木離苦を陰で「家なき子」と呼ぶ職員は多い。自宅を用意せず、年中センター内で寝泊まりをしているからだ。

「部長がご自宅にお帰りにならなくなって二ヶ月近くになります。先月も、奥様から部署に電話があったじゃないですか」その電話を村名賀へ取り次いだのは冬子だった。

「その妻とは離婚したから」

 え、と冬子は驚くが、あまり表情は変わらない。昔から、心情を顔に出すことがあまりなかった。

「たまには帰れ、毎日帰れと妻も、中学生の娘もしつこかった。わたしが帰らないせいで二人の心労がひどくなるそうだ。わたしが浮気でもしているのではないかと疑うらしい。妻だけならまだしも、思春期の娘まで。だから離婚した」

「ご家族は、よく納得されましたね」

「わたしは苦々しく思っているが、離れているだけで信頼が失われる関係は、さっさと解消すべきだよ」

 独特の低い声で淡白に言うと、村名賀は足元にある段ボール箱からエナジーバーを一つつまみ上げ、部屋を出ていった。おそらく、朽木同様にシャワーを浴びに行くのだろう。

 上司を見送った冬子はポータルサイトにある「共有記事」のボタンをクリックした。ここには新聞や雑誌などから業務に関係すると思われる記事を総務部が切り抜き、スキャンしたデータが格納されている。雑誌は主要な科学誌はもとより、経済誌や週刊誌など種類を問わない。リストのトップに、昨日発行の大衆週刊誌『Waltz』から切り抜いた記事があった。冬子は惰性でその記事へのリンクをクリックする。

『絶倫コンビニ店長 夜の相手はシフト制』

 ゴテゴテしたゴシック体で印字されたタイトルを見て眉をひそめた。例のアレか、とPDFを拡大する。

『新宿区西中野で八月十五日に発生したマンション火災の現場となった部屋は、某コンビニエンスストアのフランチャイズ店を営む夫婦が暮らしていた。この火災は夫を殺した妻が部屋にガソリンを撒いて火を放ち、自らもその火に飛びこんで焼身自殺した心中事件である。妻は心中の理由と心中方法をSNSに書きこみ、事件着手直前にアップした。内容を以下に全文掲載する』

『「私の夫X(注:実際は実名表記だったが編集部により仮名とする)は変身症を発症しました。感染源は私ではありません。私は三ヶ月前の子宮体がん手術の際に行った血液検査で陰性だったからです。

 夫は私に告白しました。私と結婚する前からいわゆる本番行為を行う風俗店に通っていたこと。それは今日までの二十年間において継続されていたこと。私が病気で入院中のときもお見舞い帰りに行っていたこと。経営しているコンビニの夜のバイトがいないと言って代わりに出勤していった日も、本当は風俗に行くことが多かったということ。おそらく十年前に感染したのではないかということ。

 私は信じられず、夫の服を脱がせてその性器を見ました。それは確かに以前にテレビで見た変身症の初期症状でした。夫の性器は黒色の硬い殻に覆われていました。

 夫は「病院へ行く」と言いました。その瞬間に私の頭の中を駆け巡ったのは、夫がこれまで関係を持ってきた女性の感染の有無、世間が浴びせる私たち夫婦への偏見、仕事の喪失でした。感染力が低い病気とはいえ、彼が関係を持った女性たち全員が感染しなかったとは言い切れません。数十人、もしかしたら百人以上の女性のうち誰か一人でも感染していたら申し訳ない。

 繰り返しますが私は感染していません。でもそれは偶然です。たまたまです。でも、私は感染していませんが、感染者の配偶者として今後は差別を受けることになります。少なくとも経営しているコンビニは手放すことになるでしょう。これから就職しようにも、夫が感染者とばれたら。就職先も辞めなければならないでしょう。追いつめられる将来は見えています。十分すぎるほどに。

 ですから私は、社会への償いと、絶望を持って、夫を殺しました。背後から包丁で何度も刺しました。今の私は返り血で血まみれです。手に付着した血が、この文章を打っているパソコンにもたくさんついています。変身症ウイルス感染者の血です。誰かがさわったら、感染してしまうかもしれません。その危険を避けるため、わたしはこれから部屋にガソリンを撒き、火をつけます。

 マンションのみなさま、申し訳ありません。でもこうすれば、夫が保有するウイルスは燃え、これ以上誰かに感染することはありません。

 夫と関係したみなさま、申し訳ありません。心当たりがあれば、すぐに検査を受けてください。これ以上ウイルスを広めないでください。

 私は三ヶ月前の手術で子宮を全摘出しました。つい昨日まで、私はあと五十年、生きるつもりでした。でも、私はこれから死にます。ウイルスまみれの夫の血を完全に燃やすため、これからつける火の中に飛びこんで死にます。みなさま、本当に、申し訳ありません」』

『この怨念がこもった文章は新しく作成したSNSのアカウントに投稿され、その直後に夫婦の部屋から火災が発生した。60平方メートルの居室は全焼し、中から二人の遺体が発見された。夫の遺体はほとんどが焼け焦げていたが背中に複数の刺し傷があったことからこの傷による死亡と判定された。妻は焼死だった。夫の遺体からは変身症の原因となる「UNGウイルス」が発見され(なお、このウイルスは保有者の死後半日で不活化する)、妻の書き込みの信ぴょう性が裏付けられた。事件発覚即日、厚生労働省特殊感染症管理局関東支部は夫が生前性交渉をもった人物の洗い出しを始め、その数は本日までわかっているだけで二百名に及んでいる。そのほとんどが風俗店従業員であるが、本誌の取材に応じた夫の友人いわく、夫は結婚後も妻に隠れて合コンの参加やクラブでのナンパをくり返したそうだ。そうして知り合った女性と一度きりの関係をもつことも多く、管理局がその数を把握するにも限界がある。夫の友人によると、夫は一晩で風俗店を二、三店舗渡り歩くのは常習であり、ナンパした女性三人組全員の相手をすることもあり、それを武勇伝の様に語っていた。また、コンドームをつけずに性交渉を行なうことにこだわり、『店は必ずつけさせられるけど、素人相手なら適当なこと言ってナマでいれられるからいい』と放言していたそうだ。無責任な絶倫男のために泣く女性がどれほどいるのか――』

 二日前のニュース番組でも似たような内容を放送していた。自宅で変身症を発症した男が妻に殺され、その妻も自殺した。感染者が生前に性交渉をもった人物は多数おり、その人物把握に特殊感染症管理局が奔走している。

 冬子はブラウザで検索サーチを開き、このコンビニエンスストアがヒットするよう、検索ワードを入力した。そこには一般市民が書きこんだいくつもの情報が出ており、該当する店は事件直後に閉店したと書かれているものもある。

 次に、特殊感染症管理局のネットワークにアクセスする。そこには現在調査が行われている事案のリストが、支部ごとに掲載されている。関東支部のリストの上位から二番目に「絶倫コンビニ店長」の案件があった。感染者の氏名は貝桶彰将かいおけあきまさ――氏名、住所のみならず、どういった人物でどういう経歴か、病歴や生活習慣まで個人情報が子細にさらされている。新しい情報が入るたびに内容を書き加えているためか、情報の更新日が掲載日よりも後になっている。これを見た人間が、この感染者と何らかの接触をしていた場合は速やかに検査を受けるよう管理局は呼びかけていた。

 冬子は自身の腹の奥に「ぞわり、」とした嫌なものを感じ、ページの「戻る」ボタンを押した。管理局は家族や周囲の人間の名前までは公表しない。だが、インターネット上では簡単に特定され、拡散され、感染者当人のみならず、その人間関係の渦中にある人物たち全員を社会的に殺す。

 事案リストの最上段には、昨日掲載されたばかりの案件があった。その案件もクリックする。一つの案件に、三名分の記載があった。いずれも都内繁華街の路上で倒れているところを三日前に救急搬送され、搬送先の病院で感染が発覚。三人とも急性腎不全と思しき症状を呈しており、氏名、年齢、住所等不明。開示可能な情報は、二十代くらいの女性一名、四十代くらいの女性一名、三十代くらいの男性一名。しばらくは搬送先の病院で治療を行うとのこと。

 不気味で曖昧な情報ばかりの案件だったが、詳報はいずれ追記されるだろうと、冬子はブラウザを閉じた。

 テレビは、暴風域に入った山梨県の画像を映している。画面の右端に表示された時刻は始業の十分前となっていた。だが、村名賀も朽木も帰ってこない。

 冬子は村名賀の部屋のドアにぶら下がる「臨床部部長室」と書かれたプレートを見た。あの人は一体何日連続で泊まり込んでいるのだろう。今年の六月、前のセンター長がセンター長室で急死した直後からこの様子は続いている。前センター長時代、村名賀の管理研究費の申請が前センター長によって握りつぶされたとも言われている。センター長が変わって発奮しているのではないかと、今日は出勤していない臨床部員たちが話していたことがある。

 テレビからニュース速報の不吉な音が鳴った。東京都全域に、大雨洪水警報。冬子は嘆息してテレビを消した。

 始業時刻の一分前、体中から石鹸のにおいをさせた朽木がようやくデスクへ戻って来る。

「朽木先生。今日の午前中なんですけど」

「説明会のヘルプだろ」

「はい。なので、回診は午後に」

 朽木は大きくうなずいてノートパソコンの電源をいれる。腐りかけの魚のような目は、これから仕事を始める人間のそれには見えない。

「では、離席します」

「行ってらっしゃい」

 冬子は椅子の背もたれにかけていたジャケットタイプの白衣を羽織った。肩の埃をはらい、袖口をひとつおりあげ、説明会の会場へ向かう。

 建物の一階は会議室や応接室のフロアだ。最大サイズで職員全員を集めることができ、仕切りを使えば分割できる大会議室が一室、円卓の会議室が一室、ミーティングルームが五室、あとは来客対応で使用する応接室が五室あった。エントランスからフロアの最奥まで遮るものはなにもなく、各室のドアが重苦しく横側にはりついている。

「林野さん、こっち」

 声は円卓会議室の前から聞こえた。灰色のパンツスーツを着た三十代の女性、広報部の喜川よしかわが手をふっている。

「今日はよろしく。先日の打ち合わせ通り、進行はわたしがやるから、林野さんは答えられる質問が出たら対応をお願いね。あと、隣の応接室にグラスとお茶が用意してあるから、参加者が来たら順次お出しして」

 喜川から渡されたタイムスケジュールに目をとおす。タイトルには「募金企業様向け説明会」とあった。

「こんな天気で、みなさんいらっしゃるんですか」

「こればかりはね」喜川は顔を外の天気のように曇らせる。「欠席の連絡はないけど」

 今日の説明会の対象は、これから寄付を依頼する企業の重役だと聞いていた。

「来るのはスケジュールが常にパッツンの人たちだから、中止にして一から日程調整するのも難しいし」

 ちなみにこれが今日の参加者、と言って喜川は手持ちのリストを冬子に渡す。そこには有名企業のトップや重役の名前が八人分並んでいた。

「五年ぶりに復活させたドネーション説明会、しくじりたくないのよ」

 曖昧に返事をして、冬子はリストを喜川に返す。そのメンツが揃って、いったいいくらの寄付を得られるのか、冬子には想像もつかない。

「説明会の後は、昼食会ですか」

「西麻布のフレンチレストランよ。ご厚意で席や料理を無償提供してくれるの。五年前にドネーション説明会が中止になるまでも、ずっと」

 そういえば、と喜川は冬子を見る。「林野さんは赤西前センター長が就任してからの入職だったっけ」

「はい。赤西前センター長が就任された、翌年に入りました」

「そっか。ドネーション説明会はね、五年前までは年に数回開催していたんだけど、赤西さんになってから中止を命じられちゃったの。『乞食のような真似はみっともない』って。ふざけんじゃないわ。寄付も大事な財源だったし、なにより社会に対する啓発活動も兼ねていたのに」

 前のトップに対して、喜川は新鮮な怒りをあらわにしていた。

「ドネーション説明会を廃止したせいで、寄付額は五年間下がりっぱなし。寄付をしてくれた企業や個人に対する報告会もなくしたら、うちが潰れるんじゃないかって心配の声もいただいたほど」

 円卓会議室の前方にはすでにつりさげ式のスライドが据えつけられており、『公益財団法人 変身症研究センター 施設説明会』と題せられたパワーポイントの画面が投影されている。

「――……二ヶ月前、赤西前センター長が亡くなったときね、内心では嬉しかった」

 最後の方は、ほとんど聞こえないような声量だった。冬子が妥当な受け答えを思いつけず戸惑っていると、「言っちゃいけないことね。今の、忘れて」と喜川は手をひらひらと揺らす。

「そういえば、さっき給湯室であなたのところの部長と家なき子が肩をならべてエナジーバーをかじっていたけど、毎日の朝ごはんがあれなの? 林野さん、あの人たちの下で苦労してない?」

「苦労と言うほどのことはありません」

「家なき子って、頭いいくせに腐った魚のような目をしているじゃない? わたし、彼と同期入職なの。入職式で初めて顔を合わせたときに、怖いなって思ってしまって」

「わたしは大丈夫ですが、それよりも、そろそろお客様がいらっしゃったのでは」

 廊下の方から複数人の足音が響く。冬子は会議室にある二つのドアを開放し、その横についた。エントランスがにわかに騒々しくなり、その話声はそのまま会議室へと流れ込む。声の主は見るからに人の上に立ち慣れた男性たちだった。冬子は彼らに対して「お待ちしておりました」と頭を下げる。経営者たちは会釈したり手を上げたりして、めいめいが席へ座っていった。

 冬子は喜川の指示通り隣の控室に行き、ポットに入れられていた冷茶をグラスに注いでトレーにのせる。

 最後に入職した大学新卒は冬子ただ一人、次の年以降は人件費削減のために、新卒の人材獲得をおこなっていない。そのためか、なにかにつけてこのような雑用を任されることも多かった。

 円卓会議室へ戻り客人へグラスを出している端から次の出席者が入室するため、何度も会議室と控室を往復する。全員の着席を確認し、冬子は自身の腕時計を見る。ちょうど秒針と長針が12の位置で交わった。定刻だ。

「本日は、みなさまお忙しい中『公益財団法人 変身症研究センター』説明会にお越しいただきましてありがとうございます」

 凛と通る声で司会の喜川が話し始める。

「まずは、センター長の安瀬よりご挨拶をさせていただきます」

 会議室前方の隅にいる男性の広報部員・相良がパソコンを操作し、スライドが切り替わる。白衣を着た壮年の男性の写真と共に『公益財団法人 変身症研究センター長 安瀬』と大きく名前が表示された。それを合図とし、喜川に呼びこまれて安瀬あぜセンター長は姿を現す。

 写真はいまよりもいくらか若いころに撮影したものを使っているようだった。実際の顔は写真よりも皺とシミが目立ち、髪が薄い。身長百六十センチメートルの冬子より上背はあるはずだが、背中を若干まげて立つさまは実際以上に初老の男を小柄に見せる。

「変身症研究センター長の安瀬と申します。みなさま、今日は大変な天候の中をお越しいただきましてありがとうございます」

 低い声は張りがあり、とてもその体躯から発せられているとは思えない。

「みなさまもご存じかと思いますが前のセンター長が二ヶ月前に急逝しました。前センター長が亡くなったのは六月十三日、遺体はセンター長室で発見されましたが、その夜の気温は三十℃、室内で飲酒した上、冷房を消したまま睡眠をとり、熱中症で亡くなりました。突然のことで、職員たちは非常に驚き、センターの前途を憂えたものです」

 嘘だった。

 組織の前途を憂えた職員が、どれほどいただろう。少なくとも冬子は知らない。故人を悼んだ職員が、どれほどいただろう。社葬の提案もなされず、お別れの会のような企画も催されることなく、前センター長の死は日常を通り過ぎて行った。

「前センター長がご存命の頃のわたしは、一般検査部で部長を務めておりました。このまま定年かと思っていたところで、この重職に就く機会をいただいたのです。わたしはわたしのやり方で、この国唯一の民間の変身症研究機関としてこの組織を成長させ、変身症の治療法発見につなげたいと思っております。そのためにはみなさまのご理解とご協力が必要です。この後、職員から変身症についてご説明いたします。みなさまもご存じの部分が多々ありましょうが、あらためてその恐ろしさを目の当たりにしてください」

 人のいい笑みを浮かべて安瀬は一礼し、壁際へはける。

 次に喜川は、ゲノム解析部部長の柳田やなぎたを呼び込む。眼鏡をかけ鼻の下にひげをはやした姿は絵に描いたような「博士」だ。

「変身症研究センター、ゲノム解析部部長の柳田です。本日はみなさまに『変身症』とは何かをご説明いたします」

 スライドが切り替わり、外国人男性の白黒写真が映される。

「この男性はドイツの作家、フランツ・カフカです。変身症の語源となった『変身』を執筆しました。『変身』は自らの給料で両親や妹の生活を支える営業マン、グレゴール・ザムザがある朝起きたら巨大な毒虫になっていた話です。不条理がテーマだといわれているのはご存知でしょう。ある時代まで、これは作り話で表される不条理だと人類は思っていた。しかし、四十年ほど前にこの不条理が現実に発生してしまいます」

 切り替わったスライドは、別の外国人男性のカラー写真だった。探検家風の洋服を着た男はジャングルらしき風景を背景に笑顔で立っている。

「彼はイギリスのアマチュア昆虫蒐集家、ウィリアム・フリーマン。本業は商社マンで、バカンスのたびに世界各国でさまざまな昆虫を蒐集していたそうです。四十年前、四十八歳だった彼はロンドンにある自分のアパートで自身の異変に気づきます。朝起きたとき、陰茎の根元に違和感があった。見れば違和感のある部分が固くなり、黒色に変色していたそうです。彼は市内にある病院の泌尿器科に行きましたが、医者は見たこともない症例に首をかしげるばかり、血液検査でも異常は出ず、しかし黒色の部分は陰茎の先を目指すように範囲が拡大していく。詳細は不明だがこのままの帰宅を許可してはならないと直感した医師はフリーマンを即日入院させます。入院二日目、黒色の部分は陰茎すべてを覆い、排尿できない状態になっていた。そのころにはフリーマンは体を動かすことができなくなっていました。入院三日目、黒色の部分は腹や足のつけ根の方へ広がっていった。それは範囲を拡大し、体は黒い甲殻に覆われるだけでなく、一部は盛り上がり、変形し、入院から六日目には彼の全身を覆って蝶の蛹のような形になっていたそうです。彼は三日目からほとんど発狂状態となり、ICUの個室に移され、全裸で拘束されました」

 切り替わったスライドにはベッドに横たえられた男の姿があった。黒色の硬い殻に包まれたその体は、医療用の拘束具によってベッドへ固定されている。見開いた眼はうつろに天井をさまよい、半開きになった口からは舌とよだれが頬へ垂れていた。

「ちょうど一週間目にはこの顔も黒色の部分に覆われ、彼は完全に沈黙しました。そこで病院は“フリーマンだった黒い何か”をCTスキャンします。次のスライドは、その撮影画像です」

 画面の背景が黒くなる。その画面いっぱいに、蛹を象ったような白い影が映されていた。

「その中身は完全に何かがつまっていました。医師たちは生物学の学者にも画像を見せた。学者が出した答えはこうです。“人間が虫になってしまった”。黒い何かは完全に虫の蛹である、この大きさからして蛹から大型の虫があらわれる、と。病院側は個室に蛹を戻し、その部屋の扉を溶接して開くことができないようにしました。そして、入院からちょうど二週間目の朝、蛹はその中から破られます。中から這い出したのは足が何十本も生えた甲殻を持つ虫でした。幅はちょうど人間だった時のフリーマンの肩幅程度、体長もフリーマンの身長とほぼ同じ程度だったそうです」

 スライドが切り替わった瞬間、出席者は一様に息をのんだ。その写真はガラスの窓越しに見た病院の個室だった。その真ん中にあるベッドの上には、人間ほどの大きさのヤスデのような黒い虫がいた。体躯がいくつもの節にわかれ、その節がつながって体を形成している。節の左右には二本ずつ細く短い足があり、頭頂部からは短い触角が伸び、顎が前面につきだしている。口の中には上下に黒い歯があり、口からあふれたとおぼしき紫色の液体がシーツに染みていた。

「フリーマンだった虫は病室内をうごきまわり、虫が這ったあとには紫色の体液を残し、ベッドや床頭台をかじり、ガラスに頭をぶつけたそうです。実際、ガラスにはヒビが入りました」

 スライドは淡々と切り替わる。映された画面には割られたガラス窓と、床も壁も天井も小さな穴が無数に刻まれた部屋があった。調度品も蛍光灯も、何もかもが破壊されている。

「フリーマンだった虫は室内でひどく暴れました。外へ出ようとしたのか、壁への暴力が激しかった。この超大型の虫が室外へ出ればどうなるかわからないと判断した病院は、虫となって二日目で警察へ相談しました。結果として、虫は警察に駆除されました。銃火器を使用して」

 室内には安堵したような吐息が漏れる。

「虫は休息をとるとき、ベッドの下に潜り込んだそうです。そこを狙ってガラスを外から割り、窓の外から機銃掃射を仕掛けた。そのときの警官たちは対生物兵器用の防護服を着用し、病室の周りを囲むように待機した。病院は稼働を停止し、入院患者はすべて退院や転院させ、スタッフも必要最低限のみ出勤させた。そうしてかつて人間だった虫に何十発もの銃弾を撃ちこんで蜂の巣状態にしました」

 壁の小さな穴は銃痕だった。この部屋ができたときからある模様と見紛うほど、その穴は無数に穿たれていた。

「細かく千切れたフリーマンだった虫は警察が丁寧に拾い集め、ケンブリッジ大学に在籍する学者を中心とした研究チームによって解析されることになりました。まず、虫が吐きだしていた液体が毒性であること。虫の遺伝子はこれまでに発見されたどの虫の遺伝子にも合致しなかったこと。その遺伝子は人間のものですらなかったこと」

 そこまではすぐにわかったのですが、と柳田は呼吸をおく。

「ではなぜフリーマンは虫になったのか。調査チームは虫の解析と並行してフリーマンの生活調査を行いました。彼はアマチュアの昆虫蒐集家で、彼のアパートには所狭しと昆虫の標本がありました。昆虫を保管する箱が、床から天井まで積み上がっていたそうです。箱には採集した場所と日時を印したシールが貼り付けられており、調査チームはそれらを一点一点調べました。一千八十三点目、それは発見されます」

 スライドが切り替わる。

 映されたスライドは、正方形の箱の写真だった。その箱の中に、虫になったフリーマンと同じ形の虫があった。それはピンでとめられ、体はポーズをとらせるかのように曲げられていた。

「箱に貼付されていたシールとフリーマンが自身のPCに残していた記録から、この虫はフリーマンの異常発生からちょうど十年前、オセアニア近くの無人島で収集されていたことがわかりました。フリーマンはこれを既に発見されている別のヤスデだと思い、その種名を記録していました。しかし専門家は『似ているように見えるが異なる新種である』と見立てたのです。その虫は、ヤスデにはない毒腺を顎の下に持っていた。おそらくこの虫は危険とみなした相手を噛み、毒腺から分泌される毒を敵の体内に注入するのではないかと推測がたてられたのです。採取されたフリーマンの体の一部と、虫の標本の遺伝子検査を行ったところ、それは一致しました。つまり、フリーマンが感染して十年後にして、虫の毒によって人が虫になる感染症の存在が発見されたのです。その事実はフリーマンが死んでから約一年後に公表されました。そして同じ時期に、二人目の感染者がやはりロンドンで発見されます。それは女性で、彼女はいわゆるコールガールでした」

 聴講者の間を流れる空気に波が立つ。柳田は構わず喋り続ける。

「彼女はある客から性器の様子がおかしいことを指摘され、市内の産婦人科を訪れました。彼女を診察した産婦人科医は一年前のフリーマン事件を思い出します。性器が黒色に固くなる。コールガールはまさにそれでした。彼女は産婦人科医によってすぐにフリーマンが入院した病院へ紹介され、病院は彼女をフリーマンと同様に無菌室へ隔離しました。彼女は生まれてから一度もイギリスの外へ出たことがなかった――彼女はフリーマンと異なっていた。南半球に行って虫に噛まれたのでなければ、考えられる感染経路は二つです。イギリス国内に例の虫が持ち込まれていた。もしくは、フリーマンから感染した」

 柳田は二本の指を立てた右手を出席者へ向ける。

「――保健省は彼女に事情聴取をします。保健省の職員がコールガールの元へ行ったのは症状があらわれてから三日目、彼女の腰回りはすでに黒く硬い皮で覆われ、彼女は衣服を剥がされてベッドへ拘束されていたそうです。彼女は笑いながら喋ったといいます。ほとんど狂っていたのかもしれません。彼女が言うには、彼女のアパートに客の記録をつけたノートがある。十五のときから二十年間の業務日誌です。保健省の人間はそのノートを押収しつぶさに検分しました。すると、十年前の日付でフリーマンらしき男を客にした記述がある。もちろん客の男たちはめったにその名前を言わないが、それ以外の素性は――もちろん嘘かまことかわかりませんが――ぺらぺら喋る者も多かったようでした。コールガールはその会話も、男の性癖もすべて詳細に、まるで動物の観察記録をつけるように客観的に、間違いだらけのスペリングや文法で記録していた。フリーマンらしき客は、商社マンであること、虫が好きであること、自身で捕まえた虫の標本を何千と持っていること、毎年外国へ昆虫採集に行っていること、避妊具を使うよう頼んだコールガールを平手打ちしたこと、移民をルーツにもつコールガールを差別的な言葉で罵ったこと、避妊具は使わずに行為をしたこと、そして」

 柳田はようやく右手を下ろした。

「捕まえた昆虫を標本にする前に、それを自分のペニスの上におく趣味があったこと」

 聴講者たちの表情が信じられないものでも見たかのように歪む。しかし発表者の柳田の頬は微動だにしない。

「獣姦のようなことを昆虫でやっていたのでしょう。フリーマンが発見した新種の虫の箱に貼られていたシールには、既存のヤスデの種名が記されていました。ヤスデはムカデと違って噛まれることによって中毒を起こすことはありません。そのためフリーマンは自身の性器に載せ、這わせた。しかし実際には、その虫はヤスデと違って顎に毒腺があるため、噛まれて感染したのでしょう。そしてその一年後、彼はコールガールを買い、彼女に性感染させた」

 スライドには黒のショートヘアが似合う、若干肌が浅黒い女性のポートレートがあらわれる。

「これがそのコールガール、彼女は『レディ・パープル』と自称していました。親の代から戸籍がなく、本名はわかっていません。イギリス保健省はフリーマンと彼女の写真と名前を公表し、レディ・パープルの客をできる限り特定しようとした。イギリス中は大パニックに陥りました。他のコールガールも同じ病気を持つと勘違いをした狂人が彼女たちを連続的に殺したり、フリーマンやレディ・パープルと性交渉をもったわけでもないにもかかわらず病院へ押しかける人間が後をたたなかったり。人々はこれを『パープル・ショック』と呼びました。イギリス保健省はそのショックのさなか、二人の感染者を発見します。血液検査を受けたその二人のDNA配列に、通常の人間とはことなる情報が紛れ込んでいた――二人は男性でした。彼らの家族や元恋人、一夜限りの相手も虱潰しに調べられ、うち一人は誰にも感染させていないことがわかりました。しかし、もう一人は違った。性交渉により感染させた相手はいませんでした。が、彼は定期的に献血に協力していました。彼が提供した血液はすべての検査を通りぬけ、様々な患者の体内へと輸血されていたのです。彼の感染時期はレディ・パープルが発症する八年前と推測されました。保健省が調べたところ、八年間の間に彼の血液を輸血された患者は五十人、そのうち三名に感染が確認され、さらにその三名から感染した人物は五名であることがわかりました。彼ら合計八名のうち、三名はイギリス国外に居住しており、一連のパニックは全世界に広まりました」

 スライドにはメルカトル図法の世界地図が表示される。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、中国、インド、そして日本にそれぞれ、一桁から二桁の数字がつけられている。日本は「1」だ。

「八名の感染者が判明した後、各国で見つかった感染者の数です。我が国でも一人、発見されました。四十代の男性で、彼が数年前に交際していたフランス人女性からの感染でした。このフランス人女性の感染源はわかっていません。この時点で我が国では他に感染は確認されませんでしたが、輸血を拒む患者やその家族が相次いだそうです。また、フリーマンがこの病の原因となる虫を発見した無人島は、その島が属する国によりいっさいを焼き払われ灰の島と化してしまいます」

 スライドには、焼け野原となったどこかの土地の風景が映し出される。近景に丘陵がある風景写真は、モノクロではないにもかかわらず、白と黒しか写していないように見えた。

「この混乱のなか、イギリスの調査チームによっていくつかの真実がわかってきました。人間が虫になる、いわば変態の開始は感染から十年後であると遺伝子にプログラミングされていること」

 スライドには、全裸状態の白人男性がベッドの上に拘束されている写真が映される。

「蛹になることを『蛹化』と言います。この感染症の始まりは、甲殻ホルモンという人間は本来有さないホルモンの生成にあります。体内で生成された甲殻ホルモンは速やかに分泌され、その結果として、性器から腰部にかけて黒く硬質な外皮が覆い、全身に広がります」

 スライドは淡々と切り替わり、男性の体の変化を映す。腰あたりから広がるクチクラが、どんどん全身へ侵食していく様を、柳田は足早に見せた。

「一般的な昆虫などでは、このように蛹になる状態を囲蛹と言います。蛹化が始まって半日から一日程度で人は動けなくなり、並行して外皮で覆われた中身はアポトーシスによる変態が始まります」

 アポトーシス、つまり『あらかじめプログラムされた細胞死』だと、柳田はつなぐ。

「蛹の中では、人間を形成していた細胞は一旦死に、膠のような液状となってから新たな形態形成を行います。七日目には全身が外皮で覆われ、この写真の状態へ」

 スライドには、ベッド上に転がる黒い蛹の写真が映される。白いシーツの上にある黒い大きな蛹は禍々しくも、どことなく寂寥感があった。

「この状態から、ちょうど七日後に殻を破って虫が出てきます。それを『成虫化』と呼んでいますが、これらの日数の観察も、早い段階でイギリスの調査チームが行っていました」

 次に、WHO、世界保健機構のシンボルマークが投影される。

「世界的なパニックを受け、WHOはこの病気に対する指針を発表しました。感染が発覚した者は感染からの期間を問わず隔離することを定めます。WHOは感染者の人権を剥奪することもやむなしとしたのです。発症するまではなにもないが、発症したら人間に危害が加わる可能性がある。そしてその病気を治す手立てはまだない。この感染症のウイルスがテロ組織によってばら撒かれたら、それこそ人間は絶滅しかねない。一人一人の尊厳より、感染拡大の防止を世界は優先したのです。WHOはこの感染症をフランツ・カフカの小説からとりVerwandlung Disease、和名で『変身症』と名付けました」

 人権の剥奪という前時代的な対応を否定する国はなかった。それほどまでに、フリーマンやレディ・パープルの末路は衝撃だった。

「変身症を発症する機序となるウイルスは、小説で主人公が変身した後の状態を表すUngezieferウンゲツィーファー、これは『変身』のなかで虫となったグレゴール・ザムザを指した言葉ですが、この単語から、UNGEZIEFER-Virus、通称『UNGウイルス』と呼ばれています。このUNGウイルスに感染し、変身症を発症するのです」

 病気が感染するのではない。原因となるウイルスに感染することで、病気を発症する。

「それからは世界各国で隔離施設がつくられました。我が国でもパープル・ショックから十年後に国立の『特殊感染症研究機構』がつくば市へ設立され、三十年が経ちます。現在、全国に特殊感染症研究機構の支部は七施設あり、また、民間の機関として唯一の存在が、ここ、公益財団法人変身症研究センターです」

 柳田の背後のスライドには変身症研究センターの建物の外観が映し出される。

「変身症はそのウイルスの遺伝子がヒトの遺伝子を書き換えることによって感染します。遺伝子はDNAによって構成され、そのDNAの配列によって、遺伝子はたとえばヒトを構成します。変身症ウイルスは感染すると、ヒトの遺伝子のごく一部を書き換え、十年後に巨大な毒虫へトランスフォームするようプログラムされているのです。それはきっちり十年後、寸分の狂いもありません」

 しかし、と柳田は強調する。

「しかし、時を経てフリーマンの発症から十五年が経ったとき、その感染は全世界当時三万人に広がり、感染拡大の中で突然変異が発生しました。感染から三十日で発症するウイルスが出現したのです。WHOは感染から十年で発症する従来のタイプをⅠ型、新しいタイプをⅡ型としました。Ⅰ型からⅠ型へ、Ⅱ型からⅡ型へ、これはオーソドックスです。この他に、Ⅰ型から感染してⅡ型を発現した例もここ五年で報告が増加しています」

 スライドには感染者数の推移を示した棒グラフが投影される。初めはⅠ型の棒しかないが、途中からⅡ型が加わり、さらにⅠ型からⅡ型への変異感染も加わる。いずれの棒も、経年につれ長く伸びている。

「現在の感染者は世界で推定四万人、我が国では研究機関に収容されている感染者だけでも合計五百四十三名にのぼります。ひとたび発症し、虫となった感染者が一般市民を襲う可能性を考えれば、脅威の人数です。また、現時点では発見されていない感染者が世界で数千人いるのではないかと考えられています」

「先日も、中東の難民キャンプで虫が暴れたなんて事件がありましたな」聴講者の一人が口をはさむ。

「そのとおりです」柳田はうなずいた。「あれはⅡ型に感染した男が、発症後も家にとどまり変態を完了させてしまった事件です。男には妻と何人かの子供がいましたが、家族は蛹化する父親を周囲から隠しました」

 隠した理由はおそらく迫害を避けるためだった。難民キャンプがある地域の警察もしくは行政に訴えれば蛹となった父親は確保されただろう。だが、残された家族はそれまで住んでいた場所にいられなくなる。虫となった者の家族は、大抵において執拗に差別される。他地域のキャンプに移動しても、難民のネットワークによって噂はどこへでもついて回るだろう。つまり、家族の居場所は地球上から失われてしまうこととなる。

「男の感染ルートは不明です。蛹は成虫化後、まず家族を食い散らし、暮らしていたテントを破壊し、騒ぎを聞きつけた周囲の人間を次々に襲いました。最終的には出動した軍によって駆除されたそうですが」

 鎮圧直後のキャンプは、戦場を思わせる光景だったらしい。難民受入国の軍は小隊を投入し、人々を襲う虫に対して機銃掃射を仕掛けた。無数の発砲は、虫だけでなく逃げ惑う難民たちをも巻き込んだ。父親だった虫が成虫化して七十分し小隊が到着、その五分後には、硝煙に曇る現地へ五百を超える遺体が積み重なっていたと報道されている。

 この感染症が見つかってから四十年近くになるが、感染者の数よりも、当該感染症に関連して死亡した非感染者の数の方が圧倒的に多いと推計されている。

「UNGウイルスの感染ルートは主に性行為などによる粘膜接触や血液感染です。空気感染や接触行為による感染はなく、垂直感染――親から子への感染も報告されていません。親が感染者だった場合、妊娠しても必ず流産するためです」

 スライドには、Ⅰ型とⅡ型の感染率が表示される。

 Ⅰ型は、性行為では0.0002パーセント、血液感染では0.005パーセントであり、変異感染も同様だ。Ⅱ型は、性行為では0.004パーセント。血液感染では0.01パーセント。

「ただし、蛹化の最中に性行為をした場合は九十八パーセントの確率で感染します。これは血液感染も同様です」

 柳田は、前置きする。

「難民キャンプの件とは毛色が異なりますが、二十年ほど前に、我が国でも似たような事件がありました。みなさんもご記憶でしょう、二十一年前の、ある宗教団体が起こした事件です」

 居心地の悪い空気が流れる。

 二十一年前の、宗教団体の事件。

『救済の法』という看板を掲げた新興の宗教法人があった。

 フリーマンにウイルスを感染させた初源の虫を「グレートマザー」と崇め、神として祀った集団。

 教祖を称する男は自身の妻を「グレートマザーの生まれ変わり」、自身は「グレートマザーの使者」と設定し、変身症とは神が堕落した人間を改心させるための試練だと説いた。教団発足当時の教祖は六十代、妻は三十代だった。夫婦は両親から相続した北関東のある山奥に「ノガレ」と呼ぶ独自のコミュニティを形成し、そこで自給自足の集団生活を営んだ。

 その宗教団体は、変身症に対して過度な恐怖心を抱く者や、社会とうまく関われない者などを信者としてとりこみ、洗脳し、全財産を上納させていた。

 教団発足から十三年目、教祖は「子どもの変身症感染者を拝めば我々は真に救われる」と言い、実践した。そのきっかけは変身症Ⅱ型に感染した男が教祖を頼ってノガレに来たことだった。男は乱交パーティーの主催者で、自身も参加したパーティーの他の参加者に感染が発覚し、管理局や警察の手を逃れて教団を頼った。Ⅱ型は感染から発症までの期間が三十日だ。男が教団にたどり着いた時にはすでに感染したと思われる日から三十日が経っていた。

 教祖は男を教団施設内の道場へ連れて行った。その道場にはすでに一組の家族がよびだされていた。両親と、子ども二人。子どもは兄が十五歳、妹が六歳だった。

 一家は両親がそろって信者であり、子どもは親によって強制的に入信させられていた。教祖は、Ⅱ型感染者の男に妹を犯すよう命令した。両親は祈願成就のため娘をさしだし、男も救われるために命令に従った。六歳の少女は大人と、十五歳の兄の目の前で強姦された。強姦後、男は教団の大幹部が殺し、敷地内に掘られた穴へ捨てられた。少女は家族から引き離され、鍵がかかる部屋に軟禁された。

 三十日が経ち、教祖は少女が発症していることを確認すると、彼女を道場の祭壇に縛りつけた。そして七日七晩、信者たちは祭壇に祈りを捧げた。電気のない部屋でろうそくの明かりだけを光源とし、老若男女七十人の信者たちが一心不乱に祝詞を唱えた。

 七日間、信者たちは道場から出ることを許されなかった。食事は缶詰とわずかな水ばかり、排便は道場の隅におかれた簡易トイレを使用した。道場に唯一ある扉は外側のみならず内側にも鍵穴がある特殊な作りで、それは教祖が持つ鍵によって固く閉じられていた。

 蛹化から一週間が経過すると、黒色の硬い蛹は中からその殻を裂いた。信者たちは興奮からトランス状態になり、祝詞はさらに激しく唱えられた。そのうち、蛹から虫がすがたを現す。それは、少女と同じ体長の虫だった。信者たちが歓喜の声を上げた。だがそれも一瞬のことであり、虫は蛹から出るなり、祭壇の前にいた教祖の頭に食らいつき、その頭蓋骨を粉砕した。次にはその横にいた両親に傷を負わせ、順々に信者たちを襲った。トランス状態にあった信者たちは何が起こったのか理解せず、襲われた人の悲鳴も祝詞にかき消され、誰も事態を把握できなかった。その中から逃げ出した唯一の一人が山を下り、警察を呼んだ。

 逃げ出した信者は教祖の死体から鍵をとり、扉をあけ、そして外から施錠しあらためて道場を閉鎖空間にした。自分一人が逃げ出したように見えるが、その行動は後に評価された。施錠しなければ、虫や感染者が野放しになる可能性があったからだ。

 警察は対変身症特殊部隊をノガレへ派遣した。宇宙服のような防護服に身をつつみ、拳銃を携えて警官たちは道場を取り囲み、工具で壁を壊すやいなや、途切れなく中へ発砲を続けた。はじめの一、二分こそ悲鳴が上がったが、すぐに声は聞こえなくなり、発砲停止の合図の後、硝煙がおさまった道場内には体がちぎれちぎれになった六十九名と、一匹の虫の死体があった。

 虫に人権はない。変身症に感染した者からも人権は剥奪できる。しかし、この事件において警察は犠牲者たちが感染しているか確かめないまま皆殺しにした。その是非が事件後に問われたが、実際にとられた選択肢以外に鎮圧の方法はなかったとして、社会は警察の責任を不問とした。

 事件が発生したとき、冬子は六歳だった。当時もニュースでとりあげられていたが、幼い冬子に事件の概要は把握できなかった。

 事件の詳細は変身症研究センターに入職した直後に知った。新人研修の一環で与えられた、これまでに世界中で発生した変身症にからむ事件について網羅したレポートの一つに記載されていた。

 強姦されて虫になった少女は冬子と同い年だった。六歳の自分が同じ目に遭ったとして、状況を理解できるだろうかと自問したが、肯定を導くことはできなかった。きっとこの少女も、何もわからないまま死んでいったのだろう。

 場に流れた嫌な空気を気にすることなく、柳田は淡々と説明を続ける。

「当法人が設立されたきっかけの一つが、その事件です。当法人はちょうど十五年前、当時特殊感染症研究機構の副所長であった徳坊東一郎博士が財界から寄付を募って設立しました。それまで変身症の研究機関はすべて国立の施設でした。これは感染者を社会から隔離し、管理することを主要な任務の一つとするその特性上、国が民間に開業許可を下ろさなかったことに由来します。現在も民間の研究機関は当法人のみです」

 柳田は、一言一句を強調するかのように力を込めて話す。

「徳坊博士は、元々はつくばの特殊感染症研究機構本部に在籍していましたが、国立であるがゆえに実験を行う際の煩雑な手続きや、研究資金の使途制限がある中での研究に限界を感じていたといいます。日々の研究において煩悶をくり返していたとき、二十一年前、『救済の法』事件が起こります。徳坊博士はこの事件のオブザーバーとして捜査当局に招聘されました。捜査に協力するなかで、このような事件を二度と起こさないよう変身症の撲滅を急がねばならないと感じたそうです。事件の全容が解明され、オブザーバーの役割を終えたところで徳坊博士は動き出します。若い研究者が自由な発想で自由に研究できる場所をつくり、変身症撲滅の最短ルートを見つけること。その目標を掲げ当法人の設立のために奔走しました。おりしもそれは都が二〇二〇年の東京オリンピックの周年記念事業として都内全域で再開発計画を策定しているさなかの行動であり、以前は広い緑地公園であったこの土地の有効活用方法が検討されている中で、徳坊博士は当時文部科学大臣を務めていた弟殿を通じ、ここへ研究センターを建設することを行政機関に申し入れます」

「その弟とは、現在の総理大臣ですか」

 聴講者の質問に、柳田はうなずく。

「現在の内閣総理大臣、徳坊龍二郎氏です」

 十年前に内閣へ列席していた人物は、継続して大臣を務め、総理大臣へ上り詰めたわけではない。所属政党には政権を持たなかった空白期間がある。今から六年前の衆議院総選挙で与野党の議席数が逆転したためだ。その背景には、年金に関わる汚職事件、官房長官の政治資金規正法に抵触する闇献金事件などの要因があった。大敗を喫した衆議院選挙後、党内では即座に首領の首をすげ替えた。すげ替えられた後の首が、徳坊龍二郎。

 徳坊家は代々政治家を輩出する四国の名家だった。長男である東一郎は研究の道を歩んだが、代わりに次男の龍二郎が生家と地元の期待を一心に背負うこととなった。

 与野党逆転劇が起きた四年後の衆議院選挙で、野党は政権を奪還した。選挙期間中に提言した政策に賛同を得たというより、四年間政権を担ってきた当時の与党の政策に有権者が同調しなかったことの方が勝利の理由として評価されていた。すなわち、社会保障の充実に伴う現役世代の負担増大、少子化を理由にした教育や研究に対する予算の大幅削減、政党助成金の増額改定等々々。

 徳坊龍二郎は二年前に政権奪還後、前の与党が行った悪策と言われる政策をすみやかに改革した。変身症研究センターに対する補助金も、前政権の頃に削減された額が、徳坊龍二郎の首相就任後は削減前よりも増額されて交付されるようになった。

 柳田による徳坊東一郎のセンター設立物語は終盤だ。

「徳坊博士は厚労省や文科省へは説明のために何度も足を運び、市民講座をひらいては近隣住民に理解を求め、学閥を越えて様々な研究者が集まれるように全国の大学や研究機関をとびまわりました。そうしてようやく、設立に至ります」

 柳田の語気が、心なしか強くなる。

「従来から存在した特殊感染症研究機構との違いは、研究に対する制限がほとんどないことです。特殊感染症研究機構でも原則として申請された研究は実行可能とされていますが、研究内容はグレードで分けられ、上位のグレードに分類される研究は厚労省へ審議を通す必要があり、時間がかかります。しかし、当法人では、すべてがセンター内で完結します。その上、研究者が行いたいと望んだ研究は、予算が許す限り、どんなことでも取り組める。変身症は、従来の倫理規範で管理できる病気ではありません。当法人の在り方は、人類の未来のために必要なのです」

 従来の倫理規範は通用しない。

 すなわち、仮に収容者が研究のために死んでも咎められることはない。

 だから、「人体実験」を行っているとして人権団体から抗議を受ける。

「もちろん、これは変身症という特殊な病気を扱う施設だからこそ許されていることであり、制約もあります。一つは、研究対象はあくまで変身症であり、研究を変身症以外の他の分野に転用することは厳に禁止されています。もう一つの制約は、同じ性質の研究機関以外の施設との交流の禁止です。つまり、変身症を扱う研究機関は、変身症以外の分野を研究対象とする機関との協力体制を構築できないのです。変身症の研究機関は、変身症撲滅のために特化された専門機関であり、だからこそ自由裁量が許される。UNGウイルスがこの世に存在するうちの時限的な緩和措置なのです」

 ここでスピーカーが広報部長の井竹に変わった。彼はセンター内の組織図が掲示されたスライドを用意する。

「研究室の数は三十二、研究内容を細分化させ、あらゆる知見から変身症を究明していこうとしています。また、彼ら研究者を支えるバックオフィス部門として経営管理部門が存在し、そのほか、隔離対象として収容した変身症感染者の健康管理を担う部署があります」

「健康管理とは」聴講者の一人が質問する。「何をしているんですか」

「普通の病院で言うところの入院患者の生活の世話や食事の対応、健康状態の確認です。生活方面は生活支援部が、食事は配膳部が、健康状態のメディカルチェックは臨床部がおこなっております。ちょうどいま後ろに控えている林野は臨床部で研究助手をやっておりますので、この後の見学のとき何かお尋ねになりたいことがあればお気軽に彼女まで」

 全員の視線が冬子へ集まる。冬子は一礼で返した。注目は浴びたくないが、顔には出さない。

「我々は研究者数百八十五名、その他職種百五十名で運営をおこなっております。その我々の運営ですが」スライドがきりかわる。大きな円グラフがそこにはあった。「これは当法人の財源を示しています」

 受取補助金が最も多く四十七パーセント、その後に特殊感染症感染者管理補助費二十三パーセント、受託研究収益七パーセントや特許収益六パーセントなどが続き、あとはこまごまとした項目が数パーセントずつ刻まれている。

「このグラフは全体の収益で、この他に、研究室や個人で『管理研究費』の支給を受けている場合もあります」

「管理研究費?」

「変身症研究には、いわゆる科研費の交付はなく、国から『管理研究費』の名目で研究費が支給されています。変身症の研究が、非常に特別で重要なものだからです」

 井竹広報部長は「今から全体の収益についてご説明します」と話を戻す。

「企業様や一般の方からのご寄付は、全体の二パーセントです。少ないように思われるかもしれません。ですが、この二パーセントがなくなれば、当法人のいくつかの研究室はクローズし、人員を削減することになります。この二パーセントあってこその、変身症研究センターなのです」

「質問、よろしいですか」一人の聴講者が手を上げる。「項目の一つに特許収益とありますが、具体的にどのような研究成果で特許を取得されたのでしょうか」

「それについてはわたしから」ふたたび柳田が前へ出る。「当センターが取得した特許は主に三事業あります。一つは作製成功率九十九パーセントのUNGウイルスに感染したトランスジェニックマウスです。トランスジェニックマウスはつまり、遺伝子組み換えマウスのことです。それまで、UNGウイルスに感染した遺伝子を持つマウスの作製は不可能とされてきました。このウイルスはヒト以外に感染しないためです。ですが、この技術ではウイルスのRNAが複製されてDNAへ逆転写する際の過程において、マウスの遺伝子に適合するDNAを作成するための操作を加えました。この結果、実験に使えるマウスを量産できるようになり、世界的に研究の幅が広がりました。この技術は、前ゲノム解析部部長の村名賀によって開発されました」

 現、冬子の上司だ。

「今のゲノム解析部の部長はあなたですよね? その村名賀さんは、どこか他の研究機関に移られたのですか?」

 聴講者の問いに、柳田は首をふる。

「村名賀は、現在は臨床部に所属しています。五年と少し前、赤西前センター長就任とともに、村名賀は現所属へ異動命令が出されました」

 異動とは体のいい事務用語、その命令は誰が見ても左遷だった。それは冬子が入職する数ヶ月前の出来事だった。

「二つ目の特許ですが」柳田の説明は足早に進む。「ABO血液型検査法です。ウイルスのmRNAは血液抗原によってわずかに変異します。そのことを利用して、より迅速で安価な検査法を、一般検査部が開発しました。この検査法が開発されるまでは、検査にかかる日数は七日でしたが、新たな検査方法によって必要日数は一日に短縮されました。また、検査費用を抑えることに成功したため、民間の病院でも検査機器の導入を可能にし、また、発展途上国の検査普及にも貢献しました」

 聴講者の何人かは安瀬を見遣る。「それは、センター長殿が開発されたのですか?」

「いいえ」

 安瀬はにこやかに、それでいて刃物で断つように否定する。

「その検査法が開発された六年前、わたしはその頃、治療開発研究部の部長でした。当時の一般検査部の部長はすでに定年で退任されています。その検査法は、若手研究者を中心としたチームが開発しました」

 妙な空気が流れる。

 聴講者のほとんどが、違和感を覚えているような雰囲気だった。

「わたしが関わった特許は、治療開発研究部時代に開発したmRNA阻害薬です。これは、UNGウイルスが人の体内へ入り、根付く直前にDNA上の遺伝子が発現してタンパク質が合成されるまでのセントラル・ドグマで使われるmRNAの動きを阻害する効果を持ちます」

 聴講者の一人が「もう少し、わかりやすくお願いします」と発言する。

「RNAとはリボ核酸のことであり、DNAによく似た中間分子です。細胞はこれとDNAを利用してタンパク質を合成します。そのなかでもmRNAとは、タンパク質のアミノ酸に対応する遺伝暗号を転写によって受け取るRNAです。DNAを鋳型としてmRNAへ情報が転写され、その情報がさらにタンパク質へ翻訳されることをセントラル・ドグマといいます。UNGウイルスが体内に入った直後、mRNAの翻訳を阻害することにより、セントラル・ドグマは成功せず、人体へのウイルス感染、つまり遺伝子発現を抑制する効果を得られるわけです」

「それは、治療薬ではないのですか」

「治療薬ではなく、感染を防ぐための薬剤です。研究施設で実験中、万が一ウイルスに感染した可能性がある場合に、即座に投与すれば感染のリスクを大幅に下げられます。開発して十年、この阻害剤を常備しない研究機関は、世界どの国にもありません」

「でも、あなたは一般検査部へ異動された?」

 ええ、と安瀬は笑う。

「わたしは五年前、赤西前センター長が就任された際に治療開発研究部から一般検査部へ異動しました。赤西前センター長の差配です」

「そういう、研究職の方の異動は、よくあることなんでしょうか」

 安瀬は首を振った。

「よくあることではありません。赤西前センター長にはおそらく、彼なりの思惑があったのでしょう。または、文科省からの天下りで、現場のことをよくわかっていらっしゃらなかったがゆえの判断だったのかもしれません」

 しかし、と安瀬は続ける。

「わたしはたたき上げの研究者であり、創立者である徳坊東一郎博士の弟子でもあります。ここにある資源を、人員を、最大限に有効活用することがわたしの使命です。もちろん、皆様からの寄付金を無駄にすることはありません」

 それは、自分は前任のように現場を無視した経営など行わないことの宣言だった。

「前のセンター長の方針は、収容されているUNGウイルス感染者を実験台として変身症以外の疾病の創薬開発に重きをおいていました。UNGウイルス感染以外に難病を持つ収容者に対し、治験前の薬剤を実験的に投与したり、認められていない治療を与えるなど、当センター設立の目的とは異なった取り組みでした。それは、研究を変身症以外の他分野への転用禁止に抵触することでもありました。変身症研究を行う志を持ち、赤西前センター長の方針に反発を覚えた研究者は多く、彼らは他の研究機関へ移っております。赤西前センター長の方針の中で得られた成果として、再生細胞治療など、現在、特許出願中の発明はいくつかあります。しかし、わたしは以前の徳坊博士と同じくこのセンターの本分である変身症研究に全力を注ぎたいと考えています。徳坊博士時代に所属していた研究員は約三百人、それぞれが人脈をもち、それは全世界にネットしています。人のつながりを活用し、なによりも情熱を燃やし続ければ、変身症研究センターは、すぐに在りし日の姿に立ち戻ることができます」

 淡々と言い、安瀬は最後には口角を大いに引き上げ、笑みを全員に向けた。

 安瀬は年齢や組織内のバランスが今の地位を獲得した理由だと言ったが、最大の要因は設立者の徳坊の弟子であることだ。前センター長は徳坊とは考え方が異なる元官僚であり、在任中から役職に対する不適格を指摘する声が各所から上がっていた。公益財団法人である変身症研究センターには、外部の評議員から構成される評議会が存在するが、そこでは赤西が就任当時に説明した経営方針が現状と異なることを糾弾されていたし、他の研究機関からも民間の研究期間としての性格をまったく活かせていないではないかと指摘があった。そのような経緯もあり、徳坊の思想を継承するならばその直弟子を後釜にすえる、それでこそセンター存続の意味があるという話が前センター長死去後のセンター長選任会で出た。

「ではみなさま、ここで実際に虫をご見学いただきましょう。どうぞお席をお立ち下さい」

 広報部長が声をかけ、聴講者たちは互いに顔を見合わせながらばらばらと立ち上がった。喜川が促し、全員が室外へでる。

「この研究センターは地上六階、地下二階で構成されております。地上一階部分はこの会議室フロア、二階は事務職員のオフィス、三階と四階が研究室であり、五階と六階がまだ発症していない感染者の収容フロアとなっております。また、地下は一階が職員用のロッカーや備蓄倉庫、モニタールームや収容者のための食事をつくる厨房があり、地下二階には変身症発症後の感染者を収容するための部屋があります。みなさまには、この地下二階をご覧いただきたいと思います」

 喜川の説明に聴講者は発言こそしないまでも互いに顔を見合わせる。それに気づいた喜川は「ご安心ください。虫と同じお部屋にお入りいただくわけではございません」とにこやかな笑みを浮かべた。

 喜川の先導により一同はエレベーターに向かって歩き始める。

「この研究センターに窓はありません」エレベーターに乗り込み、喜川が言う。「外から中をのぞかれないためです。望遠カメラやドローンを使って研究内容を盗む部外者がいる可能性を考えています。研究内容が盗まれて悪用されたら、それこそバイオテロにつながりますから」

 エレベーターが地下二階に到着する。

「現在、虫となった感染者は三名います。一名一室。水族館の水槽のような部屋に入れられていますので、安全に観察することができます」

 エレベーターの扉が開いたその前には別の扉がひかえていた。喜川が職員証をスキャナに読み込ませると、扉は重苦しげに左右へ開く。その先には薄暗い空間に鈍色の廊下がのびていた。

「虫を収容できる部屋は全部で十室ございます。いまは一番手前の三室に」

 扉の向こう側へ足を踏み入れてすぐ右手に明るく照らされた部屋が並んでいる。ガラスがはめられた部屋は、反りかえって見上げるほどに高い。そしてその中に、虫が蠢いている。

 参加者たちは短く声を上げた。

 自分たち成人男性の身長と同程度の大きさの、ムカデというよりはヤスデに似た多足類が、ガラスで仕切られた向こう側の部屋の床を、壁を、天井を、毒々しい紫色の体液を吐きだしながら這いまわる。その背面は硬く、光の反射によっては七色に光る黒い殻で覆われる。全体は頭部と胴部から成立し、胴部においては無数の胴節によって構成されている。虫の歩肢は頭部寄りの胴節には一対、胸部から尻にかけての胴節には二対生えていた。虫は、その細く短い歩肢を波打たせる様に動いているが、その動作は緩慢で、人間がとびつけば容易に捕獲できそうだ。三匹のうち二匹には頭部に短い触角があり、その触角は、たえずなにかを探すように左右へゆれている。

「みなさま、おそらく初めてご覧になったかと思います。これが、虫です。もともとは人間だった、虫です」

 真ん中の部屋の虫が床からガラスにへばりついた。腹部をこちらに見せたまま天井へと登る。無数にある歩肢がうごめき、頑丈そうな顎のなかにある歯はときおりガラスにぶつかり鈍い音をたてる。

 喜川は手で、その虫をさし示した。

「彼らに人間としての意志は存在しません。以前行われた実験で、彼らに呼びかけを行ったり、文字盤を与えて会話を試みようとしたことがありますが、反応は皆無でした。また、この状態での脳の大きさは人間の百分の一程度であることがわかっています。――こうやって壁をのぼるとき、彼らは腹を吸盤のようにして壁に自身の体を固定し、少しずつ上へあがります。腹からは粘り気のある液体が微量にだされることにより、この動きを補助しているのです」

 虫が登ったあとのガラスには、若干の透明な液体がついていた。紫色の毒液も残り、それらは混ざってマーブル模様のようになっている。

「この紫色の毒液ですが、時間が経てば透明になり、やがて蒸発します。透明になったら毒性はなくなります」

「その毒とは、人間がさわったらどうなるんですか」

「感染します。感染率は98パーセントです。感染すれば、Ⅰ型は十年後、Ⅱ型は三十日後にこのガラスの向こう側で床や壁を這い回ることになります」

 ガラスを登っていた虫が、三メートルほどの地点で動きを止めた。足を緩慢かつ不規則に動かしていたが、見物人たちが「あっ」と思った瞬間にはその大きい図体がガラスからはがれ、床へまっさかさまに落ちた。鈍い音を立てて落ちた虫の全身から紫色の液体がにじみ出て丸い水たまりのようなものをつくる。

「防御反応です。なにかに体を攻撃されたとき、背中の節と節の間から毒液を出します。いま、それと同じことがおきました。彼らは幾度となく壁やガラスを登ろうとしますが、天井までたどり着いたものはいません。そして、できないことがはっきりしているにもかかわらず繰り返し同じ方法でおこなう。学習能力と、十分な筋力がないことの証左です」

 ひっくり返った虫は短い足と触角をせわしなく動かし、反動をつけて後転するように正常な体勢へと戻る。そして何事もなかったかのようにまた、床を這いまわる。

「みなさま、お部屋の右奥の天井をご覧ください。監視カメラが備えられています。あのカメラによって二十四時間体制で監視され、それは記録として残されます」

「虫って、何を食べるんです?」

「彼らは肉食で、当センターでは鶏肉を食べさせています」喜川は部屋の天井を指さす。そこには小さな四角いふたがある。「あのふたが食糧の補給口になります。あそこから、骨を除いた鶏肉を、毎回五キロずつ落としています」

「あのふたから虫が逃げ出すことはないんですか」

「虫はあの高さまで登ることができません。また、万が一登れたとしても脱走できないよう、三重構造にしてあるため、外へでることはありません。虫が補給口の中へ入り込んだ際は、自動的にフラップがすべて閉じ、毒ガスが充填されるように仕組まれています。虫が致死するガスです」

「さっきから『虫』っておっしゃっていますが」虫を見つめながら、参加者の一人が呆けた様な声で発言する。「あの虫、いわゆる学名とか、なにかそういう名前ってつけられていないのですか」

「ございません」安瀬が即答する。「たしかに学会などでもあの虫に虫としての名前をつけるよう提案がされたことはあります。しかし、あれはそもそもヒトだったものです。たとえ現在の姿が虫であれ、虫としての名前をつけてしまえばヒトであったことを否定してしまうと主張をする専門家が一定数いて、結局あれには名前がつけられないままとなっています。ただ、現実にあれと相対した時、あれをヒトと呼ぶにはかなり違和感があります。そのためか、研究者同士では自然とあれを『虫』と呼んでいます」

 三匹の虫はガラスの向こう側のなにもない空間を自分の速度でただ移動している。その様子はおだやかだった。人間ほどの大きさでなければ、普通の虫のように小さければ、誰も気に留めないような地味な動きだった。

「ヒトがこのような虫の姿になるからこそ、我々は感染者から人権を奪います。WHOなど、たかが国際機関の一つに過ぎず、人権とは本来、国際機関の号令一つで奪っていいものではありません。この時点で我々はこの感染症に敗北していると言えます。人権を奪うことは非現代的な行為です。我々は社会を守るという大義名分のため、人にあらざる所業を行っているのです。この感染症が見つかって以来今日において、人類は負け続けている。わたしたちは、感染者もそうでない者も互いに人間らしさを取り戻す日が来るまで、戦い続ける責任を負っているのです」

 安瀬の弁は続く。

「この感染症のもととなったフリーマンを噛んだ虫ですが、フリーマンが保存していた標本以外には見つかっておりません。フリーマンがその標本の虫を採取した島は焼き払われてしまい、いまは禿山が灰を撒き散らかすだけの孤島となっています。島が焼かれる前、焼かれた後に調査団があまねくしらべましたが合致する虫は見つけられませんでした。もしかしたらあの虫は、突然変異的に発生した、たった一匹の奇跡だったかもしれないのです」

「これが、奇跡」

 誰かが発したつぶやきは、一匹の虫が壁から剥がれて床へ落ちる音にかき消された。

 冬子は口の奥にたまった粘り気のある唾液をのみこんだ。入職してから四年間、この場所には何回も来ている。幾度となく来ているが、いっこうに慣れることはない。

「ではみなさま、そろそろよろしいでしょうか」喜川は全体を見渡す。目の前の光景を見続けたいと希望する者はいない。「このあと、西麻布のお店にて懇親会とさせていただきます。ハイヤーを用意しておりますので、エントランスまでご案内いたします」

 言葉を発せなくなった参加者たちに喜川が声をかけると、誘導を始める前から全員が出口を目指して歩き出した。もとの会議室へ戻り、各人が荷物を持ってエントランスまで行く。そこには四台のハイヤーが停まっていた。冬子は見送りまでだ。最後の一台に乗り込む喜川から「あとの片づけ、よろしくね」と言われてうなずく。

 外はすでに大量の雨が地面へ強くたたきつけられていた。荒天の中へ消えていく車を見送り、踵を返したときだった。

 胸ポケットに入れていたセンター内用のモバイルフォンが鳴った。架電元は今さっき送り出したばかりの喜川だった。応答すると「悪いんだけど、守衛所まで来てくれる? 正門の前で女子高生がぐずってて、とりあえず守衛所で保護してもらったの。わたしは行かなきゃいけないから、お願い」と彼女は早口で一方的に言って通話を切った。

 女子高生? なんのことだ、と思いながら冬子はエントランスの脇にある傘たてから一本のビニール傘を手に取った。センター内で誰もが使えるようにおかれている備品だ。柄の部分には『公財 VRC』と極太の油性ペンではっきりと書かれている。VRCとは、変身症研究センターの英字表記『Verwandlung-Disease Research Center』の頭文字をとった略称である。

 大きめのビニール傘を開き、大雨の中へ飛び込んだ。耳元で発砲されているのではないかと思うほど雨は激しく傘を叩く。守衛所まで走り、その戸を叩くとすぐに守衛長が招き入れてくれた。

 四畳半ほどの守衛所の中で、学校の制服を着た少女が丸椅子に座って震えていた。白いセーラー服と紺色のプリーツスカートはずぶ濡れで、セーラー服の下に着ているキャミソールが透けて見えている。黒くまっすぐな長髪が白い二の腕にべったりとはりついていた。

「どうしたんですか」

 少女の隣で困り顔を隠さない守衛長に問うと「正門前でうずくまっていたのを、さっきハイヤーで出て行った人たちが見つけて、ここに連れてきたんですよ」と、彼は答える。「わたしは何も聞いていません」

「ねえ、どうしたの? ここに、なにか用なの?」

 アポイント未取得の部外者を敷地内に入れたことが露見すれば、通常は始末書を書くはめになる。だが、広報の人間は見学者の前でこの弱弱しい高校生を無視できなかったのだろう。

「名前は?」

 少女は何かをつぶやいた。冬子が首をかしげると、高校生は通学鞄らしきリュックサックから学生証を取り出した。そこには「肖像真心子」とある。学年は、二年生。

「しょうぞう、まみこさん?」

 少女はうなずく。

「どうしたの? ここに用事? 面会?」

 とっさに、この少女は研究センター内に収容されている感染者の家族か縁者なのではないかと考える。

「あの」肖像は床の一点を見つめたまま上ずった声をあげた。「虫になると、わたしはわたしじゃなくなるの?」

「え?」

 肖像の手は震えていた。冬子はとっさにその手を両手で包んだ。高校生の手はひどく冷たい。

「どうしたの。あなたがここに来た理由は、なに?」

 ごめんなさい。ごめんなさい、と肖像は言った。ごめんなさい、となんどもつぶやいた。

「肖像さん。なにを謝っているの?」

 肖像は泣くように唸り、「家に、厚労省……なんとかって管理局の人……家に来たの。それで、わたしにエッチしてないかってきいたの」

 厚生労働省特殊感染症管理局関東支部。

 漢字ばかりの字面が冬子の脳裏に再生される。そして、今朝見たばかりの管理局の閲覧サイトの内容を思い出す。

「もしかして、コンビニの?」

 瞬間、肖像はわっと泣き出した。声を上げ、天井をあおいで彼女は空気を欲するかのように大きな口を開けて泣いた。呼吸困難の魚みたいだ、と冬子はあっけにとられた。

「肖像さん。ちょっと、落ち着きましょう」

 冬子は胸ポケットからモバイルフォンを取り出し、朽木に架電した。

「朽木先生。守衛所まで、来てもらえませんか」

 ――「守衛? なんで」

「お願いします。なるべく早めに」

 相手の問いに答えることなく通話を切った。高校生はなお泣き続けている。呼びかけても、背中をさすってもおさまらない。

 少ししてノックもなく扉が開いた。白衣を着たままの朽木が傘についた雨を払いながら守衛所内へ入ってくる。

「どうした、その子」

「正門前にいたそうです」

「部外者? 守衛長のお孫さん?」

 守衛長は「まさか」と首をふった。ごめんなさい、と高校生はつぶやく。

「いいの。謝らないで。話を、きかせてくれる? この人は医師なの。わたしと一緒に仕事をしている人。いまは臨床部ってところで働いている。前は一般検査部で」

「林野さん、俺、先月の臨床データの検証がまだで」

「一日くらい提出が遅れたって部長は何も言いません。どうせ見もせずに承認印を押してセンター長に回覧するだけなんですから。センター長から何か指摘されるような内容も一切ありません」

 朽木はしぶしぶといった体で背後の壁に背中を預けた。「その子、なんていうの。名前」

「肖像さんです」

「しょうぞうさん」朽木は小さく反芻する。「どうしましたか」

「……わたし」

 肖像はつぶやくように言った。

「わたし、感染してるかもしれない」

 戸外の雨の音がうるさかった。雨の音が、彼女の声を飲み込む。

「バイト先のコンビニの店長です。わたし、あの人とエッチした」

「その店長って、貝桶?」

 冬子の問いに女子高生はうなずく。

「店長が生前、どんなことをしていたかは知っているの?」

「だいたい……。店長と奥さんが死んだあと、昼のワイドショーで見たから」

「店長が生きていたときは、知っていた?」

 肖像は首を振った。「たまに、奥さんがヘルプで店番してて。だから、奥さんがいることは知ってた」

「貝桶彰将は変身症を発症した」朽木は腕組みをする。「特殊感染症管理局は貝桶の周りの人間を手当たり次第調査している。当然きみのところにも来た。きみはこれを訊かれたはずだ。『貝桶彰将の血をさわったことはないか』『貝桶彰将と性交渉をしたことはないか』。管理局がその場できみの採血検査をしていないなら、きみはこう答えた。『していません』。そうだろ」

 肖像はうなずく。

「家に来ました。スーツの男の人が四人。お母さんが応対して、わたしが呼ばれて。そう訊かれて、否定した」

「同じ生活圏内にいただけでは、今は検査などしないからな。感染力が弱いし感染ルートは限られている。感染ルートに自分はいないと自己申告してしまえばそれまでだ」

「肖像さん。わたしたちは、どうしてあなたが貝桶とそんなことしたかは聞かない。わたしたちや管理局が知りたいことは、あなたがUNGウイルスに感染しているかどうかだけなの」

「最後にいつ性交渉した? 貝桶が殺された何日前だ」

「朽木先生。問い詰めるように訊かないでください」冬子は肖像の肩を抱いた。「肖像さん、だいじょうぶ?」

 肖像真心子は「はい」と力なくうなずいた。

「最後は、半月前です。その日バイトで。次の日から夏風邪で熱がでて、バイトは休んだから」

「発熱は関係がない。UNGウイルスは感染しても初期症状はない」

「肖像さん。貝桶の発症は八月十五日、あなたが最後に性交渉した日はさらに遡って八月五日。その時点では、まだ貝桶は発症していない。発症していないうちの性交渉による感染率は」

「0.0002パーセント」肖像は即答する。「それくらい調べた。エッチしたからって絶対に感染するわけじゃない、むしろ感染する確率の方が低い。でも、ゼロじゃない」

「貝桶は、コンドームをつけた?」

 冬子の問いに肖像は首をふった。

「使わないほうが気持ちいいからって」

 おもわず冬子は奥歯をかむ。強く噛んで、嫌な音がした。

「妊娠とか怖かったけど言えなくて。店長、やさしいから、だいじょうぶだと思って」

「男の人格と精子の活動は関係ない」朽木は突き放すようにしゃべる。「てきとうなことを言ってホテルに連れ込む、子どもを騙す。――人外だ」

「ホテルじゃなかった。車の中。毎回。人気のない路地裏に停めて。狭かったし、苦しかったし、ぜんぜん気持ちいいことなくて嫌だったけど、してるあいだ、店長はわたしのことずっと『かわいい』って言ってくれてそれが嬉しくて、数えてないけどたぶん五十回以上は車の中で」

「五十回」それまで黙っていた守衛長が我慢しきれないとでも言いたげに声を上げた。「本当に嫌ならその店を辞めれば良かったのに、五十回もなんて、嫌だったわけがない」

 冬子は驚いて守衛長を見たが、頭に血が上る方が早く、言い返す言葉が思いつかない。

「守衛長、それは間違っています」守衛長をたしなめたのは朽木だった。「貝桶がこの子を害したことの責めを、この子の意思決定に負わせるべきではない。それは間違っている。この子は、何も悪くない」

「朽木先生、あんたは男のくせに、こんな子供をかばうのか」

「あんた馬鹿ですか。男とか女とか、大人とか子供とかの話ではない。互いの人間としての話です」

 冬子が守衛長を見やると、還暦間近の男は片頬をひくつかせていた。朽木は気にせず、肖像に向き直る。

「それで、きみはどうしてここへ来た」

「感染してたら、もし、してたら、お母さんとお父さんになんて言えば」

「きみが説明する必要はない。感染が判明すれば速やかにうちのような隔離施設に収容される。家族へ説明をする役目は管理局の連中が負う」

「わたしがバイトすること、よく思ってなかったの。でもお母さんもお父さんもわたしにお小遣いくれないし、予備校のお金も出してくれないから仕方なくて」

「肖像さん。もし、感染しているか確認したければ、ここの最寄駅の駅ビルの最上階にうちの研究センターが開いている検査ルームがあるの。受検者のプライバシーは厳重に管理されるから、もしよかったらそこで」

「そこで感染がわかったら?」

「検査結果はすぐには出ないの。一週間後にまた検査ルームに行って、専属の医師から結果を聞く。万が一結果が陽性なら、待機していた管理局の人に連れて行かれるだけ。そうしたら二度と家には戻れない」

「待機って」

「うちが呼ぶの。陽性反応が出たら、該当者は何月何日の何時に検査ルームに対象者が来るから待機していてくれって。宇宙飛行士みたいな防護服を着た管理局の人に連れられて、専用の車に乗せられて、空き部屋がある隔離施設に連れて行かれる。一番近いからって、この研究センターとは限らない。ここも満室がつづいているから。九州の施設に連れて行かれることだってある」

「虫になるまで三食昼寝つきだ。本人の人権は根こそぎ奪われるが、ある意味では守られている」

朽木の言葉に、「どういうことですか」と肖像は顔を上げる。

「家族も、たとえばあなたのお父さんもお母さんも感染してるんじゃないかって周りの人が疑って、差別して、仕事を辞めさせて、路頭に迷わせるってことは、あるのよ」

 肖像は一瞬呆けた様なかおをして、そして笑った。

「それは、親は、どうでもいいです。あんな人たち、べつに路頭に迷ったって」

「肖像さん?」

「でも、感染しててもしてなくても、もう戻れないんだなあって思っちゃって」

 笑いながら、彼女は泣いていた。

「肖像さん」冬子はあらためて両手で肖像の手を包んだ。「あなたはかわいいと思う。でも、セックスのときに男が言う『かわいい』は口先だけのことなの。だから店長とのことは忘れて。忘れられなかったら、思い出さないで。思い出してしまったら、別のことを考えて。このこと、他の誰かに話した?」

 肖像は首をふった。冬子は思わず「よかった」と言った。

「わたしたちは絶対に他の人に喋らない。絶対に。だから、あなたの秘密が他の人に知られることはない。まずは検査を受けて。それから考えましょう」

 肖像は冬子の手のひらから自身の手を抜き、涙を指先でぬぐった。冬子は彼女の頬を白衣の裏側で拭いてやる。

「――朽木先生。検査、ここでやりましょう」

「ここ、一般人の飛びこみ検査なんて受け付けていないだろ」

「元一般検査部なんですから、いくらでもねじ込めるでしょう」

「強引だよ、それは。マニュアルにないことは、歓迎されない」

 ぶつぶつと悪態をつきながら、朽木は白衣の胸ポケットからモバイルフォンを取り出した。

「臨床部の朽木です。申し訳ありませんが、血液検査のキットを持ってきてもらえませんか。感染検査用の。いや、俺じゃなくて。林野さんでもないです。業務中の感染疑いじゃないですけど、でもそういうことにして持ちだせませんか。できますよね、多ヶ谷たがや先生なら。あ、ちょっと待ってください。――肖像さん、血液型は何型?」

「B型、です」

「そう。――多ヶ谷先生すみません。対象者がB型だそうで――いや、俺も林野さんもA型ですから、誰か適当に他の人ってことにして――。はい、お願いします。場所は正門の守衛所です」

 通話をきったあと、朽木は「一般検査部の多ヶ谷先生、すぐ来てくれるって」と無表情のままモバイルフォンを胸ポケットに戻した。

「多ヶ谷先生って、今の一般検査部長の」

「俺の元上司。今年還暦で退職予定だったのに、部長のポストが回ってきちゃって定年があと十年伸びたって喜んでたよ、この前」

 それから数十秒後、守衛所のドアがノックされる。冬子たちの返事を待たずに、皺のない白衣を着こなす豊かな体躯の女性がドアを開けた。手には小ぶりなジュラルミンケースがある。

「どうも、朽木先生。元上司にお使いさせるなんていい根性してるじゃないの」

「すみません、多ヶ谷先生。俺じゃなくて林野さんが」

「林野さん、こんなクソガキが相方なんて毎日気が滅入るでしょう」

 多ヶ谷は心の底から冬子を労うように眉根を下げる。

「それで? その子はどうしたの」

「さっきここに来た子で、ポータルに週刊誌の記事がアップされていた男と性行為を」

 冬子が説明すると、多ヶ谷は「ああ」と苦虫をかみつぶすように上品な顔をゆがめる。「例の男、女子高生にまで手をだしていたの?」

「この子、いまここで採血して検査にまわしてもらえませんか?」

「林野さん、本来だったら断るわ。飛び込み検査はイレギュラー。イレギュラーはエラーを誘発する」

「こちらで検査していただいた方が、結果が早く出るかと思って」

「結果が出るのに必要な期間は同じくらい、だいたい一日あれば足りる。検査ルームは混雑しているから結果を聞くための予約取得が一週間先になるだけ」

 喋りながらも多ヶ谷は持っていたジュラルミンケースを開け、てきぱきとニトリル手袋を装着する。肖像に左腕をのばして手の甲を膝の上におくように指示し、彼女の二の腕に駆血帯をまいた。

「職員の誰かの感染疑いにして血液検査しろ? 朽木先生、そんなつまんない小細工を考えるからあなたいつまで経ってもクソガキなの。職員の感染疑いが発生する方がよっぽど問題。この子は正規のルートで検査しますからね。部長権限なめないでよ」

 多ヶ谷は「よっぽど」を大いに強調した。朽木は何も言わず表情も変えず、じっと多ヶ谷の手元を見ている。

「親指を内側にしてグーをつくってね。少しちくっとしますよ」

 言われた通りにする肖像の顔はこわばっていた。注射針があてられた腕が小刻みに震えている。だが、多ヶ谷はためらいなく針の先端を肖像の肘裏に刺した。スピッツの中に鮮血がほとばしる。多ヶ谷は二本のスピッツに血液を採取し、ジュラルミンケースから取り出したアルコール面で傷口をおさえながら針をぬく。

「血がとまるまでわたしがこうやっておさえているの。感染疑いの人の血が、ほかの人についたらまずいから。痛い?」

「だいじょうぶです」

 明らかに大丈夫ではない肖像の返答に、多ヶ谷は唇を噛む。

「肖像さん」冬子は思わず聞いていた。「店長のこと、好きでしたか?」

 肖像は目を幾度かしばたかせ、首をかしげた。

「店長はすごくやさしくて、でもそのやさしさは抱ける女の子へ平等に分配してるんだってわかってた。それでもわたしと一対一のときはわたしだけを見て、わたしだけにやさしくしてくれた。だから、そのときだけは好きだったんだと思う。店長が死んでまず思った、もうわたしをあんなふうに抱いてくれる人はいないんだって」

 まだ若いんだし、と冬子は思わず言いそうになった。まだ若いんだし、これからいくらでも相手は見つかる。よほど言ってしまおうかと冬子は逡巡したが、やめた。言ったところで少しの励ましにもならないことは、理解している。

「はい、止血終わり」

 おもむろに多ヶ谷はアルコール綿を外し、手袋もろともジュラルミンケース内にある汚染物廃棄用のボックスへ放り込んだ。手慣れた様子で針の刺し傷に絆創膏を貼る。

「結果は三日後に出るわ」

「今の機械なら、結果は一日で出るのでは」と冬子が疑問を呈すると「検査機器の数は限られていて、検査待ちの検体も多いの」と多ヶ谷は申し訳なさそうに首を傾ける。

「肖像さん、三日後以降にわたしを訪ねてもう一回ここへ来て。事前にアポをとってくれれば問題なく入れるようにしておくから」

 多ヶ谷は肖像の手に自分の名刺を握らせた。

「ここに書いてある番号、わたしのデスク直通だから。なにも不安にならないで」

「すみません」

「謝らなくていいの。これがわたしの仕事だから。――そしたら林野さん、あとよろしくね」

「多ヶ谷先生。ありがとうございます」

 多ヶ谷はスピッツが入ったケースを手にぶらさげて嵐の中を出ていった。

「血、出ていないか?」朽木が肖像の腕をのぞきこむ。「あの人の止血、痛かっただろ」

「ぜんぜん、だいじょうぶです」

「肖像さん。もう帰った方がいいです。天気はもっとひどくなるから。タクシー、呼ぶ?」

 肖像は首をふった。「タクシーで帰ったところ、お母さんに見られたらまずいんです。今日、学校の補講だって言ってあるし」

「学校の先生にタクシー使えって言われたって説明すれば」

 肖像はまた首をふる。「だめです。そんなこと言ったら、お母さんは学校にクレーム入れる」

「だったら」朽木は嘆息する。「まだ電車はうごいているだろ。早くした方がいい」

「傘、壊れていたよね。これ使って。うちの備品だけど、壊れても弁償しなくていいから」

 冬子は自分が使った傘を肖像にさしだした。肖像は傘に書かれた『公財 VRC』の表記をじっと見た後、困ったように笑いながら「ありがとうございます」と受け取る。

 戸を開けた途端、雨風が守衛所内に吹き込んでくる。肖像はプリーツスカートのすそを押さえながら外へ出た。冬子たちに一礼して傘を開くと、彼女は雨の中へ歩き始める。

「守衛長、わかっていると思いますが、ここで聞いたことは他言無用でお願いします」

 冬子が念押しすると、守衛長は戸惑ったようにうなずいたが「結局はあの子の自業自得でしょう」と顔をしかめた。

「高校生なら、自分で判断できるのに」

「馬鹿を言うな」

 冷たく言い放ったのは朽木だった。

「高校生はまだ子供です。大人や社会が庇護すべき対象です。貝桶が彼女に対しておこなったことは絶対に許されません。絶対に。彼女が貝桶との行為を同意の上で行ったとしても、それは大人が判断する『同意』とは違う。彼女が貝桶との性行為を望んでも、大人ならそれは誤っていると諭すべきであって『同意』を理由に彼女を食い物にしていいわけがない。彼女を少しでも責める人間は、貝桶と同じ悪人で、愚か者だ」

 朽木に睨めつけられた守衛長は、納得できないのか顔をしかめた。冬子も朽木と同じように、力の限り守衛長を見据える。

「林野さん、行くよ」

 朽木が先に荒れ模様の外へ出た。彼が開いた傘の中に、冬子も飛び込む。気になって後ろを振り返ったが、守衛所の扉を閉められる方が早かった。守衛長は明らかに気分を害していた。だが、朽木は構わず歩き出す。

「あの子、何歳だ」

「高校二年生ですから、十七歳か十六歳か」

「きみ、いまいくつだ」

「……二十六。来年の一月で二十七です」

「あの子も感染していたら、発症は二十七歳」

「朽木先生。あの子が感染していたら、感染を隠すことはできませんか」

 センターのエントランスについた。朽木は折りたたんだ傘を冬子におしつける。傘からこぼれる雫が冬子の足元に水溜りをつくっていく。

「日常生活じゃうつりません。セックスしなければ、献血をしなければ。それだけに注意していれば安全なのに」

「メンタルが落ちたらセックスに逃げるよ、あの子は。野放しにはできない」

「女子高生ですよ。大人が悪いんだと朽木先生もおっしゃったじゃないですか」

「勘違いするな。俺はきみしか守れない」

 正午を報せる市内のチャイムが風雨の向こうに聞こえる。朽木は傘を一瞥し、「それ、片付けておいて」と先に建物の中へ入っていった。


 昼食はそれぞれのデスクで食べる。朽木は毎食通りエナジーバーを何本か、冬子は朝のうちに購入していたおにぎりを無言で頬張った。つけっぱなしにしているテレビからは、台風の情報がひっきりなしに流れてくる。二人以外の部員がいない部屋は、ひどく静かだった。

「林野さん、もし良ければ早めに回診しよう」朽木はテレビを見上げながら提案する。「天気がひどくなる前に、きみは早めに帰った方がいい」

 冬子に異論はなかった。承諾し、身支度を整える。

 部屋を出たあと、朽木はうんざりしたように息を吐いた。

「この間、セントラル西病院に依頼した507号室の巴さんのコンサルト、さっき返事があった」

 セントラル西病院とは変身症研究センターの連携病院である。通称『セン西』。VRCが収容した感染者に慢性疾患などの兆候がみられた場合、コンサルテーションを依頼し、必要な診療情報を送付すると、専門医が鑑別した上でVRCに対して治療法のアドバイスを与える。

「やはり、乳がん再発だ」

「巴まひるさん。五年前、四十歳の時に左乳がんで部分切除。そのときの輸血で感染――501号室の笠松さんと同じ」

 五年前、献血された血液からUNGウイルスが検出されたにもかかわらず、チェックをすり抜けて患者に投与された事件があった。感染者本人にはいっさい落ち度がない。その被害者の二人が、VRCに収容されている。

 被害者の感染は、輸血から二年七ヶ月後に判明した。UNGウイルスに汚染された血液の輸血利用が発覚し、特殊感染症管理局は対象の血液を投与された患者に対し検査を実施した。

 被害者のひとり、巴まひるは乳がんの手術後に創部感染を起こし、敗血症となった際に輸血を受けた。血液センターからの賠償金は巴の家族に支払われたと冬子は聞いている。

 巴は自宅で検査結果を待っていたところを特殊感染症管理局に確保され、そのままVRCに収容された。管理局が家に来た日は平日で、他の家族は皆、外出していた。巴の家族は巴と同い年の夫と、感染発覚当時で中学一年生の双子の長男と長女、それから姑だった。巴が収容されてから、家族たちは誰も見舞いに来ていない。

「セン西の乳腺科が言うには、手術適応だと」

「適応?」思わず冬子は皮肉めいた言い方をしてしまう。「それは普通の人の話ですよね」

 変身症研究センター内に手術設備はない。慢性疾患の手術を受けさせるために一般の病院へ移送することも禁止されている。そもそも、変身症感染者は疾病の治療をしなくてもいいと厚生労働省の大臣通知に明記されている。ただしこれは、治療しないことを保証したものであり、治療を禁止しているわけではない。

「手術はできないが、抗がん剤は打てる。薬剤部に相談して、セン西が指定した薬を製薬会社から取り寄せてもらうよ」

 薬剤部と言っても、薬剤師が一人いるだけの部署である。感染者に投与する薬を、医師の処方通りに払い出すことがほとんどで、VRC内での扱いはおざなりだ。

「治療するとなったら研究申請をしないと」

 VRCにとって収容した感染者は財産だ。感染者から採取する検体、データすべてが今後の研究に関わる。担当する臨床医といえども、勝手に治療をすることは許されない。抗がん剤のような劇薬投与となれば、特別加療審査委員会という委員会の承認が必要になる。

「化学療法をしたとして、予後は」

「虫になることを待たずに亡くなるだろうね。五年もない」朽木は言い捨てる。「諦めきれれば、よほど楽だ」

 二人はフロアのはずれにあるエレベーターへ向かう。そのエレベーターは、一階から上がって来るエレベーターとは異なる場所に、一基存在する。三階より下のフロアへは行かず、この四階から上へ行くための専用のエレベーターとなっている。

 スキャナに職員カードをかざし、さらに虹彩認証もとる。二人がそれぞれ認証をしてはじめてエレベーターのドアが開く。エレベーターの前に人感センサーがあり、その人数と認証した人数が合致しなければドアは開かない設計だ。面会者を案内するときだけ、一時的にロックを解除することとなっている。

 五階に到着し、エレベーターの扉がひらくと、すぐ前に擦り硝子が嵌められた自動ドアがある。ここでも職員カードと虹彩認証を行い、入室となる。

 入ってすぐ、準備室と呼ばれる部屋がしつらえられている。小学校の教室ほどの広さで、蛍光灯が煌々と白い壁を照らし、正面には自動ドア、両脇には棚がある。その棚には白い防護服がたたまれて何着もおかれていた。防護服はビニール製の白い宇宙スーツのようなものである。冬子は自身の身長に合う一着を手にとり、まずは両手両足をいれた。前面に垂れ落ちている頭部を包む部分を持ち上げ、頭をいれる。口の部分は薄いフィルターが、目の部分にはプラスチック板がはめられている。頭部の位置を調整していると、後ろのチャックを朽木が引き上げてくれる。朽木も同じように防護服を着用し、冬子が背面のチャックをしめる。

 互いに腕を広げ、防護服に裂け目などがないか相手に確認させてはじめて準備が完了する。

「防護服のチェック、完了しました」

「はい、完了」

 二人は二つ目の自動ドアでも虹彩認証を行う。ここでは職員証のスキャニングはせず、壁に埋め込まれている電子キーに自らの職員番号を打ちこんでドアを開く。

 次の器材庫と呼ばれる部屋はさらに広い空間であったが、さまざまな物品がおいてあり、さながら狭苦しい倉庫のようである。朽木は隅にある手押しのワゴンをひきよせ、その上においてあるノートパソコン型のカルテの電源をいれた。

「朽木先生。今日、採血しますよね」

「十人全員。キットの準備して」

「はい」

 冬子はいくつもあるキャビネットのひとつから血液採取のための注射キットを十セット取り出した。朽木がパソコンを操作しているワゴンの引き出しに注射キットをいれる。同じ引出しに使用後の注射キットの廃棄ボックスと、体温と血圧と心拍を同時に計ることができるリストバンド式のバイタル測定器が二つあることを確認した。

「朽木先生、首にコールペンダントをかけます」

 冬子は壁のフックにかかっているコールペンダントを二つとり、一つを朽木に、もう一つを自分の首にかけた。非常が起きたとき、このペンダントのボタンを押せばVRC内に警報が鳴り、警戒体制に移行することとなっている。

「準備完了」

「はい」

 二人はさらに次の部屋へ進むための自動ドアの認証を行う。認証の手順は先ほどと同じだ。ドアが開いたことを確認してから冬子はワゴンを押す。

 次の部屋は六畳ほどの何もない空間――前室である。目の前には自動ドア、その上にはスピーカーと時計が設置されている。

 ――「お疲れ様です」

 スピーカーからノイズとともに男性の声が流れる。

 ――「こちら警備部、岩田です」

「お疲れ様です」

 ――「職員番号と所属、フルネームをどうぞ」

「職員番号198902。臨床部所属研究員、朽木離苦」

「職員番号201601。臨床部所属研究助手、林野冬子」

 ――「管理フロア入室目的をどうぞ」

「定例の回診です」

 朽木が答える。

 ――「回診が午後になった理由をどうぞ」

「本日の午前中は林野研究助手が他用のため離席、よって午後に行うこととなりました」

 ――「了解。回診対象の感染者をフルネームでどうぞ」

「501号室 笠松舷かさまつげん、六十五歳、在室二年五ヶ月。502号室 雪持諭留ゆきもちさとる、五十四歳、在室五年一ヶ月。503号室 茶屋辻東湖ちゃやつじとうこ、三十九歳、在室二ヶ月。504号室 網干鶴子あぼしつるこ、五十二歳、在室三年0ヶ月。505号室 海賦小恋かいふしょうれん、四十四歳、在室三年六ヶ月。506号室 柴垣しばがき

 ――「あのさ、朽木先生」

 唐突に、スピーカー越しの声がぞんざいな口調になる。

 ――「俺は回診対象の感染者をフルネームでどうぞって言ったんですよ。毎回毎回、それしか言っていない。それなのにあなたは毎回毎回彼らの年齢や在室期間を丁寧に教えてくれる。そんなことはね、彼らのデータを見りゃわかるんだ。このやりとりに余計なことはいらないって俺はずっと言いたかった。俺が警備部に異動してから三ヶ月、これでも我慢してきました。お互い仕事の時間は少しでも短いほうがいいじゃないですか。余計なことはやめましょう」

「失礼。俺としてはきみたちに伝えるデータとして、感染者の年齢や在室期間だけでは足りないと思っていた。なんなら彼らが歩んできた人生や、それに関わってきた人々についても話して聞かせたい。感染者も人間だ。人間がたった十二畳の部屋に監禁状態にある。その状態はすべてデータとして残されているが、もう一度言う、彼らは生身の人間だ。きみがデータとしてしか感染者を見ないなら、林野研究助手をいまからそちらへ派遣してもいい。彼女は自分の担当だけではなく、すべての感染者の記録を頭に入れている。それを事細かく教えてやったっていいんだ。きみも含め俺たちはこの施設の職員で、この施設の中では感染者にとって関係者になるが、外へ出ればその他大勢の第三者に過ぎない。収容者は人間で、一人一人が個々人だ。それを、きみたちはどこまでわかっているんだ?」

 スピーカーの向こうで深く長い溜息が漏れている。

 ――「朽木先生の理念はだいたいわかりました。今、うちの上司が『時間が無駄だからいつもどおり喋らせてさっさと終わらせろ』と指示を飛ばしてきました。だからどうぞ。いつもどおり。不本意はなはだしいが」

「それはありがたい。506号室からだ。506号室 柴垣良治しばがきりょうじ、五十八歳、在室八年二ヶ月。507号室 ともえまひる、四十五歳、在室二年五ヶ月。508号室 麻葉砥誉泉あさばとよみ、三十四歳、在室0年六ヶ月。509号室 籠目葉鳥かごめはとり、四十二歳、在室六年八ヶ月。510号室 雁木靖一がんぎやすかず、四十歳、在室七年一ヶ月。以上十名」

 ――「……了解。十名全員とも朽木班の回診対象であることを確認。業務を実行してください」

 スピーカーからの雑音が消え、自動ドアがひらく。目の前にはリノリウムの廊下がのびている。

「八月二十日十三時二十三分。わたくし朽木および林野にて定例の回診を開始します」

「よろしくお願いします」

 二つの声が真っ白い空間に反響する。防護服によって互いの息遣いは聞こえない。聞こえないから手繰るように耳を澄ます。手繰る中で隣の衣擦れが聞こえたら、冬子もまた、それに続く。


 十二畳の白い部屋には、ベッドと小さなテーブル、テレビとランニングマシン、そして天井に備えられた監視カメラがあるだけだった。

「笠松さん、回診ですよ」

 冬子が声をかけるが、ベッドの上の老人は死んだように天井を見つめたまま動かない。六十七歳になる男は、八十過ぎと言われてもおかしくない外見だった。

「笠松さーん、ちょっと体見せてもらえますか」

 老人は動こうとしない。冬子が掛布団をはがし、パジャマのボタンを外す。現れた胸はあばら骨が浮く乾いた皮膚に覆われていた。

「笠松さん、ごはんは食べていますか。食べていませんよね? 食べないなら管から栄養剤を入れますが、あれはお嫌いでしょう?」

 朽木の問いかけに、老人は無反応である。薄っぺらい胸がかすかに上下していることで、死人でないことを判別できる。

「林野さん、とりあえずバイタルチェク。採血も」

「はい」

 冬子はバイタル測定器を枯れ枝のような老人の右手首に装着し、左の二の腕をゴムバンドで締め上げる。採血キットを手元に用意し、防護服ごしに脈の見当をつけたら思い切って注射針を老人の腕に刺す。スピッツの中に勢いよく血がほとばしる様子を確認すると、冬子はほっと息をついた。防護服の指先部分は特に薄くなっており、たいがいの作業は素手と同じ感覚でできるが、脈はほとんど勘でとる。老人の肘の内側にはいくつもの針の跡があおいあざを作っている。そのほとんどは冬子が採血を失敗した痕だった。

「笠松さん、少しはそこのランニングマシンで運動して、飯を食べませんか。笠松さんは、本当だったら健康体なんですよ。せめてテレビ見て頭をはたらかせましょう、ね?」

 朽木が声をかけ続けるが、笠松は無反応だった。

 採血が完了すると、スピッツを注射器からはずし、朽木へ渡す。朽木は手際良くスピッツに貼付されたバーコードをカルテにつながったバーコードリーダーで読み取り、スピッツをワゴンの引き出しにしまった。

「笠松さん、なにか食いたいものはありませんか。生活支援部の人に言ってもらえば、通販で取り寄せ可能です。どうですか、どこかの土地の牛肉とか。どこかの国の蟹とか」

 朽木の軽口にも笠松は反応しない。いつものことだ。ここ一年、ずっとこの調子である。最近では処方した抗鬱剤すらその喉を通さない。

 笠松の場合、五年前、交通事故の治療で投与された輸血がUNGウイルス感染者のものだった。笠松は事故の直前に飲酒をしていた。一人で立ち寄った居酒屋でビールや日本酒を飲んだあと、自身の車を運転して帰る途中に法定速度を大幅に超過し、道路の側壁に激突して車外へ投げ飛ばされ、全身を複雑骨折した。その治療は二年七ヶ月をかけて完了したが、退院日が決定した頃、ウイルス感染した輸血用血液が出回っていたことが判明した。笠松はあらためて検査を受け、そのままこの研究センターへ送致された。もともと家族もおらず、天涯孤独の身であった笠松の面会に来る者は一人もない。血液センターから支払われた億単位の賠償金は、ほとんど手付かずのままらしい。

 笠松の感染を因果応報と言うならば、それは無責任なことであると冬子は思う。

「笠松さん、人間が生きるためにするべきことは、サルの頃からなにも変わっていません。体の中に栄養を入れる必要がある」

 笠松の目は、ガラス玉のように生気がない。

「笠松さん、好物が思いつかなければ、嫌いな食べ物でもいいので教えてください」

 やはり笠松からの応答はなかった。

 朽木はカルテに記録を残しながら「バイタル、もういい」と指示を出す。冬子は言われた通りに測定器をはずした。測定値は、自動的にカルテへ転送されている。

「次、行くよ」

 手早く笠松のパジャマをもとに戻し、冬子は老人に優しく布団をかける。顔をあげれば朽木はすでにワゴンを押して廊下へ出ていた。

「402号室、面会中らしい」

 廊下でカルテの画面をのぞきこみながら朽木はつぶやく。

「奥さんですか」

「うん」

「後にします?」

「いや、いいよ。ちょうどいいかもしれない」

 朽木は虹彩認証をして402号室の鍵を解除した。

 室内には椅子に腰かけた壮年の男がいた。その向かいには薄ピンク色の防護服を身に着けた小柄な人物がひとり座っている。そして、その二人を囲うようにして白の防護服の人間が三人立っていた。

「お疲れ様です。回診のためお邪魔しました、臨床部の朽木と林野です」

 五人はそろって会釈をした。

「雪持さん、そちら奥様ですか?」

 朽木の問いに男はうなずいた。薄ピンク色の防護服の人物は会釈よりも深く頭をさげる。冬子はとっさに雪持のプロファイル画面を開いた。妻の名前は雪持満月里ゆきもちみつり。夫と同い年で、他に家族はいない。

「診察、よろしいでしょうか」

 雪持は単調に「どうぞ」と促した。冬子は先ほどと同じように測定器を雪持の手首につけ、同時に採血をおこなった。

「今日は成功しましたね」雪持が笑いながら言う。「十回に一度は失敗しますね。看護師さんはそういうもんなんですか」

「いえ」防護服のせいです、とは言わない。「先日は失敗して申し訳ありません」

「痛々しい」

 ぼそりと言い放ったのは雪持満月里だった。

「まともに注射も刺せない看護師が働いてるの?」

 一瞬、場の空気が冷えた。雪持がおろおろと妻や冬子を見ている。冬子は何も言わずに注射針を引き抜いた。

「せっかくの面会時にすみません」朽木は冬子からスピッツを受け取りながら話す。「奥様もこんな台風の日にいらっしゃっているのに」

「だって面会したいなら一ヶ月前までに申し出なきゃいけないんでしょ? これをキャンセルしたらまた一ヶ月後なんて」

「付添いの警備部のシフトや、都合もありますから。ご協力いただき、ありがとうございます」

 収容者に対して面会をするにはその日の一ヶ月以上前までに生活支援部に申し込みをしなくてはならない上、事前に登録された人物に限定される。そのうえ、一度に一人までしか面会できない。面会者には生活支援部の支援員が二人つきそい、さらに警備部の男性が一人つく。収容者と面会者が共謀して脱走したり、ほかの収容者と関わろうとしたりすることを防ぐためだ。

「一ヶ月後なんてないかもしれない」

 薄ピンク色の防護服の中からすすり泣きが聞こえてくる。

「もうそろそろでしょ。諭留さんが虫になるの」

 静かな空間に、雪持満月里のすすり泣きが響いた。雪持は困ったように何かを言おうとして、しかし飲みこむ。妻を慰めようとしたのかもしれないし、美味い食べ物の話でもしようとしたのかもしれない。

「奥様、ご面会のあとにお話がありますのでお時間いただけますか。二時間後に」朽木はパソコンを操作しながら話す。「応接室1が空いています。生活支援部の方、悪いですが、ご面会が終わったら応接室1に奥様をご案内してください」

 生活支援部の二人はちいさく返事をした。

「雪持さん、今日の昼食はおいしかったですか」

「えっと……」感染者は戸惑うように返事をする。「おいしい食事を提供していただいている、それには感謝しています。メニューも毎日違って、担当されている方の努力を感じます。ええ、そうですね。非常に、おいしい」

「そうですか。配膳部には伝えておきます。とても喜ぶでしょう」

 話している間も妻のすすり泣きはやまない。朽木は「今日の回診はこれで失礼します」と頭を下げた。

 その後も通常通り回診をこなしていったが、507号室の前に来た時、朽木は暗澹たる声音で「入りたくないな」と言った。

「先生がお辛いなら、巴さんに告知しないまま治療もできます」

「きみが巴さんなら、それを望むのか」

 冬子が首を振ると、朽木は「そうだろ」と息をつき、扉を開ける。

 巴まひるはベッドに腰掛け、サイドテーブルの上に塗り絵の本を広げていた。痩せ型で、年齢相応の歳を重ねた婦人だ。

「朽木先生、林野さん、こんにちは」

 挨拶を済ませると、冬子は朽木の指示で他の感染者と同じくバイタルチェックを行い、採血を済ませる。

「巴さん、先日の検査結果ですが」

「超音波と、あとあれ、針生検ね。結果、わかったんですか」

「乳がんが再発していました」

 朽木は淡々と説明をした。手術の適応ではあるが、他の病院へ行くことも、この施設内で手術をすることもできないこと、治療方法としては抗がん剤投与しかないこと。

「もし、治療しなければ、どれくらいの命ですか」

「おそらく、年内か」

「治療をすれば?」

「少なくとも、来年、秋までは」

「抗がん剤って、辛いですよね。副作用が、髪なんか抜けちゃったり、味もわからなくなったり」

「それは薬にもよりますし、全員に同じ副作用が出るわけではありません」

「抗がん剤は、UNGウイルスにもなにか効果をもたらすのかしら」

「いいえ。どんな抗がん剤もUNGウイルスに影響を与えないと言われています。また、体内にあるUNGウイルスが、がんそのものや抗がん剤の効き目に影響を及ぼさないことも同様です」

「そうなの。来年まで生きたとして、その間にわたしの体の中からUNGウイルスがなくなるような治療法は開発されますか?」

「わかりません」朽木は即答する。「ですが、可能性はゼロではない」

 巴は眉間にしわを寄せ、手元のぬりえをじっと見た。桜並木の風景が形取られたぬりえのページだった。桜並木の半分近くが塗られていたが、その色はおもちゃ箱をひっくり返したかのように様々な色が選択されていた。青、紫、緑、橙、黒、黄に塗られた桜並木だった。

「巴さん。すぐにお返事は難しいかもしれません。わたし達は」

 待ちます、と冬子が言いかけたとき、巴は「いいわよ、やります」と明言した。

「どうせ実験台みたいな体だもの。もう家族も会いに来てくれないし。どうなってもいいわ」

「巴さ」「巴さん、それは違います」

 冬子は思わず朽木を見た。前のめりにしゃべる朽木は珍しかった。

「俺たちは、あなたの命がどうなってもいいと思ってはいない。思っていないからこそ、治療の提案をしているんです。あなたが投げやりになるなら、この提案は取り下げます」

「投げやりって、そんなことないですよ。あなたたちの研究に、ご協力しますって言ってるだけです。どうせわたしはモルモットなんだから」

「ですから、その『どうせ』を撤回していただかなければ、治療はしません。あなたの命の問題です」

 巴は朽木をすがめるように見上げた。

「あなたが選択しないあなたの命の操作に、俺たちは関与しません」

 巴は押し黙った。朽木もそれ以上言葉を継がなかった。じりじりと時間が流れる。白い部屋の圧迫感に冬子は息苦しさを覚えていた。

「わかりました」

 数分ほど時間が経った頃だった。

「治療してください」

 巴はしっかりと朽木の目を見て答えた。

「ただし、家族には知らせないで。夫にも、娘にも、息子にも、姑にも」

「わかりました」

 心なしか、朽木の声に安堵が含まれているように冬子は感じる。

「具体的な治療に関しては、後日あらためてご説明します。ご家族には、いっさい連絡しません」

「ええ。よろしくお願いします。あの人たちが望んでいることは、おそらく、一日も早いわたしの死だから」

 巴はぬりえ本を閉じ、深々と頭を下げた。

 回診がすべて終了したころには十六時近くになっていた。朽木と冬子が一階にある応接室へ行くと、すでに雪持の妻が席についていた。その後ろには生活支援部の女性職員がつきそっている。ユニフォームとして支給されている白いポロシャツにブルーのチノパンを着た中年の小柄な女性、生活支援部の紺屋はその狐目で朽木と冬子を睨みつけた。

「遅い。どれだけ待たせるんですか」

「申し訳ありません」冬子が謝る。「回診が長引いてしまって」

 雪持の妻は目を真っ赤にして朽木と冬子を見上げている。まだ四十代のはずだったが、頭髪はほとんど白くなっており、顔のしわも目立っている。襟首から見える浮いた鎖骨や、乾いて粉を噴いた皮膚が痛々しい。

 朽木が「失礼します」と腰かけてから、冬子もその横に座った。

「さきほどお部屋で、諭留さんはそろそろ虫になるのかとお尋ねされました。わたくしどもとしては、その通りですと答えるほかありません」ゆっくりと朽木は話す。「感染したタイミングが九年九ヶ月から十一ヶ月前だと推定されていますから、この数ヶ月以内に発症する可能性が非常に高い」

 遊び相手からの感染だったと記録には残っている。相手は会社の他部署の同僚女性だった。女の元夫が発症したことから雪持の感染は芋づる式に発覚した。遊び相手自身は一年前に発症して死んでいる。雪持の妻と小学生の息子は住んでいたマンションの周辺住人から迫害され住居を変えることとなり、妻は会社を退職させられ、息子は学校に通えなくなりひきこもっているそうだ。

「発症した後のことをお話しさせてください」

 妻の顔が一瞬で青白くなる。

「発症後、お部屋で完全に蛹化したら地下にある水槽に移されます。蛹化後、一週間で雪持さんは虫となってこの世界にふたたび現れる。虫になったらその後の寿命はそれぞれです。一日で死ぬ者もいれば一ヶ月生きる者もいる。平均して二三週間です。お亡くなりになったら、ご遺体はセンター内の焼却炉で焼き、灰はこちらで保管します。骨は残りません」

「虫になったら」妻の声は震えていた。「会いに来れますか」

「変身後はご家族でもご面会できません。しないほうがいいでしょう。ご理解ください」

「……やぶ医者」

 暴言は突然だったが、朽木はまつ毛一本動かさない。

「事務的な説明ばかり。いっそあんたが虫になればいいんだ」

 朽木は言い返さなかった。冬子もただ黙って妻を見つめる。いまさら波立つ感情もない。入職してから四年、幾人もの家族から何回も言われた言葉だ。

「諭留さんが先生って呼んでいるあなたの顔を、諭留さんは見たことがあるの? あんな仰々しい格好で適当に診察して見守っている風を装って。諭留さんを治そうとしているわけでもないくせに」

「今の技術に変身症を治すすべはありません」

「わたしにあんな服を着せて。あんな馬鹿みたいな服。なんで夫の肌にも触れちゃいけないのよ。普通の生活じゃ感染しないなら、あんな宇宙飛行士みたいな服必要ないじゃない」

「なにがあるかわからないからです。センター内での感染を百パーセント防ぐための決まりです」

 満月里の甲高い泣き声が部屋に響いた。

「いま、わたしが彼を殺したら」

 泣き声から振り絞るように雪持の妻は言う。

「殺したら、虫じゃないから、まだ人間だから遺体はわたしに返してもらえる?」

「できかねます」朽木は即答した。「センター内での死亡の場合、それが蛹化前であってもご遺体の処理に変わりはありません。火葬後の灰やお骨をお返しすることもできません」

「そしたら、お墓には何をいれればいいのよ」

「故人が好きだったものを遺骨代わりに骨壺へ入れるご家族が多いようです」

 空気をつんざくような泣き声が妻から発せられた。感染者を同じ墓に入れたがる家族を、冬子はあまり知らない。そもそも、雪持の妻のように定期的に面会へ訪れる家族の方がまれだった。

「雪持さん、グルメでいらっしゃるから食事の本とか、好きだった店のメニューを譲っていただくとか、そういうものでもいいかもしれません」

「飲食店が変身症感染者にそんなことしたら、噂になってお店潰れちゃうでしょう」

 朽木はなにも言い返さない。雪持満月里は考えすぎだ、と冬子は思う。しかしありえないことでもなかった。いや、実際にあったかもしれない。雪持の妻が言ったような話はいくらでも転がっている。

「奥様」冬子はゆっくりと口を開く。「もしかしたら雪持さんが発症するまでの間に、治療方法が発見されるかもしれません。変身症の研究は、四十年にもわたって行われています。明日、新しい発見があってもおかしくないんです」

「……桂樹軒けいじゅけんの、ステーキ」

「はい?」

「夫が一番好きだった食べ物。桂樹軒っていう、洋食屋の。通販でも売っているけど、一番はお店で食べることだって言っていた。またあの人を、お店に連れて行くことはできるの?」

 妻の慟哭が大きく響き渡る。紺屋が彼女の肩に手をかけ、目線だけで朽木と冬子に退室をうながした。


 泣きわめく妻とその背中をさする紺屋をおいて応接室を出た朽木と冬子は、目もあわせずなにも言わずに執務室へ戻った。つけっぱなしのテレビだけが台風情報を延々と垂れ流している。

「林野さん、帰りなさい。JRも止まっているみたいだし。五時過ぎたらタクシーも拾えなくなるよ」

 二人が見上げる画面では、テロップでJRとほとんどの私鉄が運休になっていることをつたえていた。

「そうですね。部長に早引けするって言ってきます」

 疲労感ばかりが肩にずしりと載っていた。淡々とめぐる毎日のうちの断片でしかないのに、体の中に鉛玉が放り込まれたような気分だった。

 部屋の奥にある部長室のドアをノックすると、入室を促す間延びした返事があった。

「失礼します。林野です」

 臨床部部長の村名賀は、壁三面を本棚に囲われた部屋のなか、奥においてある机でデスクトップパソコンに向かっていた。その頭には大仰なヘッドホンをつけている。

「林野さん、きみも早く帰ったほうがいい。そのうち電車もバスも止まるだろう、この天気は。林野さんは実家住まいだったか」

「そうです」

「帰れる場所があるにこしたことはない。なにもないと、わたしや朽木君のようになってしまう」

 村名賀は冬子を一瞥して追い払うように手のひらを振った。冬子は目礼して部長室を辞する。オフィス内では朽木がデスクの固定電話の受話器をおこうとしているところだった。

「タクシーの配車を頼んでおいた。十五分後に来るそうだ」

「すみません、ありがとうございます」

「気をつけて帰りなさい。下手に怪我して救急搬送なんてことになったら、わかってるな」

 はい、と冬子は応じ、帰り支度を進めた。

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