家守子

@shulo_09

家守子(短編)

タカシは放課後のケイドロもそこそこに、家路を急いでいた。学校から古い家までは一・四キロもある。何てはんぱな距離なんだろうとタカシは思う。歩いて通うにはけっこう大変だけれど、自転車で通うためのトクベツキョカがおりるほど遠くはない。


道ばたの木の緑に黄や赤が混ざり始める季節。朝夕冷えこんでまいりました、なんて大人たちは言うけれど、まだまだ太陽は元気で、照らされた身体はじんわりと汗ばんでくる。


速めに歩きながら、タカシはわくわくしていた。今日は引っこしの日なのだ。新しい家は古い家の目と鼻の先だけれど、何はともあれ引っこしだ。同じケイドロチームの青木に怖い顔でにらまれたのがどうでもいいことに思えるほど、とにかく胸が内側から高鳴っているのだ。


新しい家に移ったら、とタカシは思う。


色々なことが変わるだろう。まずは登校。新しい家は十分遠いから、ギリギリ自転車登校のトクベツキョカが降りる。そうしたら、学校のすぐそばに住んでいるやつらと同じくらい楽になる。明日からは朝も放課後も時間いっぱい遊べるんだ!


お風呂がユニットバスになるのも大きい。今までのじゃぐちをひねるお風呂とは違って、ボタンを押すだけでちょうどいいお湯が出るというのだから驚きだ。暖房もついているから、冬のお風呂もおっくうじゃなくなるな。


何より、新しい家は部屋の数が多いんだ!これまでみたいに、一人分の部屋をヤスシと二人で使ったりしなくてもすむようになるだろう。


新しくなることを考えると、その一つ一つがこの上なく楽しみで、身体中をかきむしって喜びたい気分になる。そんなことをしたらきっと痛いので、タカシはかわりにふんっと鼻から息を吐き出して、腕を大げさに振って走り出す。もう引っこしは始まっているかな。急いで帰らなくちゃ。服の下をくぐり抜けてゆく風がここちいい。


最後の曲がり角を曲がると、果たして、古い家のまわりには車が何台も止まっていた。近づいてみると、見慣れたタンスや段ボールがロープでしばりつけられているのが分かる。


引っこしの作業はもうずいぶん進んでいるみたいだった。車には誰も乗っていない。それどころか、家のそばにはひとっこひとり見当たらなかった。みんな、家の中で何かやっているのだろうか。


「タカシ」


車庫のかげから声がした。見ると、やせぎすの、タカシよりも一回り小柄な少年が立っていた。ヤスシだ。


「おかえり」


「ただいま」


ヤスシが言って、タカシが返した。


「今ので最後だったね」


またヤスシがこそっと言った。心なしか、さみしそうな声だった。


「何が?」


ヤスシは答えずに、じっと前を見つめている。その視線の先にはタカシたちの古い家がある。開け放たれた窓から日に焼けたカーテンがはためいていた。今日のヤスシは何だか元気がないような気がする。


「父ちゃん、母ちゃん……ばあちゃんとじいちゃんは?中で準備してんのかな」


ヤスシはやっぱり黙ったままだ。


「おれ、入って見てくる」


タカシは言って、玄関に向かった。


たん、たんと二つ飛ばしでふみ石を越え、さらに段を二回のぼる。玄関わきのかさ立てと牛乳入れがテッキョされていた。


目の前の扉、古い家の玄関の扉はブコツな扉だ。真ん中にたてに長いモザイクガラスが張られているほかは、全体がにぶく光る金属でできている。


タカシはそのダンベルのような形をした取っ手をつかんで、強く引っぱった。


ガチャ、と取っ手が鳴る。カギがかかっているようだ。


ふり向いたらヤスシがすぐ後ろに立っていたので、ぎょっとした。


「ヤスシ」


ヤスシは黙って扉の前に立った。こいつ、今日は本当にしゃべらないなあ。タカシは思う。ただいま、のほかに何かしゃべったっけ。


ええと、たしか……。


「だめだめ、カギ開いてないみたい」


タカシの言葉がとどいていないのか、ヤスシは取っ手をにぎりこんで、ぐっと引いた。


開いた。


「あれっおかしいな」


不思議がるタカシに、


「開いたよ」


ヤスシはすんなり三言目を言った。


タカシが開いた扉の前に立つと、家の中からぶわりと風が吹いた。涼しい風だった。夏の終わりの、ゆうぐれ時に吹くような、ひんやりとわびしげな風。


「さ、行こうか」


四言目で、ヤスシはタカシの手を引いた。風に負けずおとらず、冷たい手だと思った。




タカシの古い家は、平屋の小ぢんまりとした家だ。


玄関からホールに上って、すぐ左手のドアの先にはリビングとキッチンがある。リビングのとなりは和室、その先もまた和室で、しきりのふすまを開ければキッチンから陸続きの広い空間が見わたせた。


真ん中の和室からは、迷宮の一部分のような細長い廊下に出られるようになっていて、その廊下をまっすぐ行けば風呂場とトイレ、左にまがれば父さんの部屋、右にまがれば納戸を通ってホールにもどる。そして、ホールでリビングに背を向ければ、割れたすりガラスのドアがあって、その向こうがタカシたちの部屋、いわゆるこども部屋だった。


タカシとヤスシは、家の中を見て回った。みんなを探すという名目で、たんねんに、すみずみまで歩いた。


家の中はただひたすら青かった。タンスも冷蔵庫もソファも、全てがどこかに行ってしまったようで、にぶく光るフローリングの床に、青空がさし込むように映っていた。雨上がりに似ている、とタカシは思った。よどんだ入道雲が去ったあとの夏の昼すぎ、ぬれた路面に青空が映りこんだときも、世界はこういう色をする。


「覚えてるかな」


和室から廊下へ出るやいなや、ヤスシが言った。いつもはうす暗くて空気がとどこおっている廊下も今日は青くて、風が吹いている。


「何が?」


「あの先にさ」


ヤスシは廊下の向こう、トイレの前の床をゆびさす。


「人の顔の形をした木目があったろ」


「ああ……」


そういえばそうだった。便器にしゃがんで見ると、そいつはたしかにうす笑いを浮かべた男の顔に見えたのだ。そのことに気づいたあとしばらくは、タカシはひとりでトイレに行けなかった。夜中にどうしてもがまんできなくなったとき、ヤスシが手を引いてトイレまで連れて行って、外で見張っていてくれたっけ。


ちょっと開いたトイレのドアから見える、ヤスシの大きな影のたのもしさを覚えている。


そんなことを思い出していると恥ずかしくなってきて、タカシはへへへ、と笑った。


すると、ヤスシもタカシの考えていることが伝わったかのように、くくく、と声を殺して笑った。


「何だよ」


取りつくろうようにタカシが言ったが、ヤスシはまた黙ってしまった。二人の間を、青色の風が吹きぬけてゆく。


「あ、あとは子ども部屋だけか」


ぎこちなく言ってヤスシに背を向けた。


何だかよく分からないけど、こういう空気はあまり得意じゃないと思った。




子ども部屋のドアの取っ手は、ずっと前から壊れている。本当は取っ手を回しながら押さないと開かないはずなのだけれど、ネジがゆるんで、常にめいっぱい回した状態になっているのだ。だから、軽く押しただけでこのドアは開く。


タカシは今日もそのドアを、肩でポンと押した。


ドアはいつもより勢いよく開いて、ガタンと壁にぶつかって止まった。


「うわあ……」


部屋の中はまったくのがらんどうで、まぶしい光にあふれていた。開けはなたれた窓から風が吹き込んで、たまったホコリをさらい、巻きあがったホコリを太陽が照らして白と橙にかがやいていた。


「……この部屋、こんなに広かったんだなあ」


タカシは感きわまって言った。ヤスシが相づちを打ってくれないので、なあ、なあと語尾を重ねる。


三度目で、


「そうだよ」


とヤスシがひっそりとうなずいた。


ヤスシと二人で風と光の中を歩き回った。手をすばやく動かすと、ホコリがキラキラとしたうずを巻いた。あの出窓のところで金魚をたくさん飼っていたんだ。一匹がエサのやり忘れで死んだとき、怒られると思ってものすごくあわてたっけ。どこに隠したかな、あの金魚。


「そのあたりの屋根裏だよ、押し入れから上ってさ」


ヤスシが真上を指さして言った。


「結局最後まで見つからなかったな」


よかったよかった、と二人は共犯者めいて笑った。


ひとしきり笑ったあと、二人の間にはおだやかな沈黙がおとずれた。


「……母ちゃんたち、いなかったな」


タカシは床に座りこんだ。マットが取り払われてむき出しのフローリングがお尻に痛い。


「そうだね」


ヤスシは押し入れわきの壁に背もたれた。この前まで移動式のラックがあった場所だ。日焼けをまぬがれた部分の真ん中、ヤスシの背中の下あたりにガムテープがはってあるのが見える。


タカシはちょっと考えて、ああそうか、と思った。


「見つからなかったといえばさ」


タカシはその不自然に白い壁をゆびさした。


「それも結局、ばれなかったな」


言ってから、しまったと思った。小学校に入る前、タカシがかんしゃくを起こして破った壁を、ガムテープでごまかそうとしたのだ。


当然それだけで隠せるはずもなく、すぐにヤスシがそれを見つけた。


その時のヤスシのけんまくを思い出して、タカシは全身の筋肉がちぢこまるような感じを覚えた。そのころのタカシにとって、ヤスシはおだやかで頼りになる兄ちゃんのような存在だったから、その恐ろしさもひとしおだった。記憶が正しければ、確かあのときチビってしまったはずだ。その後でヤスシがトイレにつれていってくれて、木目の見張りもしてくれた。その背中を見ながらヤスシ兄ちゃんはやっぱりやさしい、と一人で安心したのをかすかに覚えている。




「ああこれ」


ヤスシは後ろ手でガムテープをなでた。


この壁を隠すためにラックを置くのも、ヤスシの考案だった。うちは大そうじは「自分の部屋は自分でする」システムだから、これならばれない。あのときヤスシはそう言った。


「ばれなかったでしょ」


ヤスシはいたずらっ子のように、口のはしをにっと曲げた。あどけない顔だった。最近ヤスシが幼く見えるのは、自分が大きくなったしょうこ、だろうか。


「そうだな」


とタカシは言った。今度はあまり笑いたい気持ちにはなれなかった。


二言目、ヤスシは「最後」だと言ったのだ。


別れのときがせまっているのだと思った。


タカシは顔をふせる。両目を右腕に押さえつけるようにして。タカシは泣いていた。泣いている自分が恥ずかしくて、くちびるをかんだ。


この時が最後だとして、ヤスシに何を言えばいいのだろうか。数年前まで兄ちゃんであって、いつの間にか年子になって、やがて弟になろうとしていたヤスシに。


ヤスシ兄ちゃんに怒られたあの時も、タカシは泣いた。部屋のすみっこで、体ずわりのひざの上に腕をくんでその上に顔をふせ、自分のはたらいた悪事なんて棚に上げて、ただただ泣いた。


あの時の自分と今の自分が重なって、ちぇっ、と舌打ちしたい気分になる。




「ごめん、ごめんよ」


タカシの中で、ヤスシ兄ちゃんの声がよみがえる。


謝ったのはタカシではなくヤスシだった。


「ちょっと強く言い過ぎた。でも、この家を守るのが僕の役目だから」


そんなことは分かっていた。


だからこそ、本当はあやまらなければいけないのはタカシの方だったのだ。




今はどうだろう。タカシが泣いていることを知ったら、ヤスシはまた謝るだろうか。


謝るだろうな、とタカシは思った。


家を守るためにタカシをしかったのと同じように、家の最後を見届けるために、ヤスシはここにとどまるのだ。


もうあのときとは違うんだ。タカシはヤスシに見つからないように、服で涙をぬぐった。


ヤスシ兄ちゃんはヤスシになって、今はおれの方が兄ちゃんになったんだ。


「ヤスシ、おれもう行くよ」


立ち上がって、タカシは言った。 


ヤスシはかつて机が置いてあった空白を、ぼんやりと見つめていた。


「……タカシ、僕は」


「分かってるよ」


ゆっくりと口を開いたヤスシの言葉を、タカシがするどくさえぎった。


「家を最後まで守るのが、お前の役目だからな」


うまく言えた。今のは兄ちゃんらしかった。


ヤスシは驚いたようにタカシの方を振り返る。かすかに赤くなった目で、かつての弟が不敵な表情をつくっていた。


「タカシ」


「うん?」


「今の声、ちょっと震えてたよ」


「そうかな」


それぞれ目は合わせずに、それでも示し合わせたように、うすい声で笑った。


これでいい、とタカシは思う。大人の男の別れはこうであるべきだ。


二人の間を、わずかに橙をおびた青色の風が吹き抜けてゆく。




玄関の重い扉を開けると、かたまりのような風が家の中からタカシを追い越していった。


敷地の入り口に、母ちゃんがみけんにしわをよせて立っていた。うわあ、相当怒っているな、あれは。


「何をしてたの、みんな待ってるわよ!」


はいはい、と言いながら、タカシは急いで車に乗り込む。


「ほんとにもう、この子は」


運転席で、母ちゃんがぶつぶつ文句を言っている。


軽の自動車がせきこむような音を立てて発進した。車は大きくターンして、古い家に背を向ける。タカシはなごり惜しげに後ろをふり返る。


古びた平屋の、昔ながらのかわら屋根の家。開け放たれた窓から、黄ばんだ白いカーテンがはためいている。あの中では、きっとうずまくような風が吹いているのだろう。もしかしたら、別れを惜しんだヤスシが、ハンカチがわりに振っているのかもしれないな。


古い家のある風景は、だんだんと遠ざかってゆく。青天井ははしっこから橙に変わりはじめて、その下を横切る電線のさらに下で、別れる日の風にあおられて、白いカーテンがいつまでもはためいている。


この色あざやかな一枚絵は、おれはきっと、死ぬまで忘れないだろう。


タカシは、なぜだかそんなことを考えていた。

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