第3話 昔と今と
「ねえミノル、今日か明日辺り、あなたのお家に行ってもいい?」
それは突然の申し出だった。
いつものように出勤して、雑用と打ち合わせを済ませた昼過ぎ。俺の肩に手を置いてたカシカが、どこか弾んだ声色で尋ねる。
「……は? 今なんて?」
「だから、あなたの家に伺いたいの。最近、全く行けていなかったから」
カシカがなんてことない口調で続ける。俺は昼食用のサンドウィッチが気道に入りかけて、危うくむせそうになった。
「なによ、そんなに意外だった?」
「いや……そういうわけじゃなくて、久々に言われたから、その、ちょっと驚いた」
そういえば、ここ最近彼女を家に招いていない。
同僚たちが訝しげな視線を向けてくるが、俺は見て見ぬ振りをしてカシカに向く。
「最後に来たのはいつだったかな……確か、焼き肉パーティーしたよな、俺の家族と」
「ええ、そしてその後のゲーム大会で、あなたが優勝したわよね、ミノル。大人げないくらいのゲームテクニックを披露して」
「まあ、こう見えてほどほどにゲーマーだからな」
俺が思い出すように呟けば、胡乱な顔をしていた同僚たちがすっと席を立つ。俺はそんな同僚共を無視するように視線を上げて、
「なんなら今日の夜くるか? 今日だったら定時で帰れそうだし……ああ、あとお袋に言ったら、多分色々準備してくれると思う」
「別に用意なんてしなくていいわよ」
「お前なあ……お袋の性格、知ってるだろ。連絡しなかったら俺が叱られる」
「あ、そうだった。あなたのお母さんって普段こそ優しいけど、怒ると怖いどころじゃないものね。子供の頃、私もよく怒られてたっけ」
思い出したように言い、カシカはくつくつと笑う。
俺は残りのサンドイッチを口に詰め込み、壁に掛けられた時計を見上げる。十三時前。余裕ができたらお袋に電話をかけるとしよう。
――――
「あ、お袋、俺だけど、実」
昼休憩もほどほどに、実家に連絡を入れる。
お袋は、カシカが来ると聞くや否や、久しぶりだねえ、と感慨深そうに呟いた。
「なかなか会えていないからね……。
お袋が聞く。歌詩……というのはカシカの本名だ。不透明カシカとして活動してからは、この名前はほとんど使っていない。俺の家族くらいしか呼ばない名前だ。
「ああ、まったく変わりはないよ。俺をおちょくる毒舌も健在だ」
「そんなこと言わないの。……でも、いつも通りのようでほっとしたわ。こっちもこっちで準備しておくから、歌詩ちゃんに安心して帰ってきてって伝えて」
「おう、分かった」
電話を切る。傍で見守っていたカシカが「どうだった?」と心配そうに聞いてくる。
「いや、まったくいつも通りで、拍子抜けした。安心して帰って来いってさ」
「……おばさん、昔からそうだものね。私がこうなってからも、全く態度を変えなかった……」
カシカが独り言のように呟く。俺はなんて言葉を返せばいいのか、一瞬だけ迷った。
カシカがこうなる前――というのは、歌手になる前か、それともこういう体になる前という意味か。
俺はそれ以上聞かなかった――いや、聞けなかった。
――――
夕間暮れ。傾く太陽を背に、俺とカシカは駅に向かう。
カシカは日頃から車で送迎してもらっている。だが今日は、俺と二人で電車帰りだ。
タクシーを使うという手もあったのだが、カシカが「たまには電車で帰りたい」と頑なに主張してきて、俺が折れる形で落ち着いた。
透明人間が電車に乗る……となると当然、運賃も二人分だ。
帰宅ラッシュからややずれた時間帯。人もまばらな中、俺とカシカは揃って電車内に乗りこむと並んで座席に腰を下ろした。ドアがぎぎ、と音を立てて閉まり、車体が緩やかに動き出す。
「……思えば電車に乗るの、これで二回目だわ」
「え、そうなのか?」
「ええ、この体になる前に一回だけ」
カシカが淡々と告げる。俺は言葉に詰まって、寝癖の立った頭をかきむしる。
だがカシカはそんな俺を気にもかけず、感情のない声で続ける。
「父さんと昔、乗った記憶があるの。おぼろげなで、ぼんやりした記憶なんだけどね。……今思えば、父さんと出かけたの、その時だけだった……」
カシカの声は、今にでも消え入りそうなほどに小さかった。
「……大昔の話だろ、そんなの。今更思い出しても気分が悪くなるだけだ」
「ミノルは、辛い記憶って言いたいの? 忘れろって言うの? ……私にとっては、数少ない大事な思い出なのよ。たとえ父さんが私のことをただの道具だと思っても……実験体だと思っていても、私は」
「……カシカ、その話はするな」
「でも、ミノル」
「するなって言っているんだ!」
俺の怒声が、静かだった電車内に響き渡る。乗り合せていた数人の客が、突然の大声に怪訝な顔をした。だがそれも、仕方のないことかもしれない。
傍から見れば俺は、何もないところに向かって喚き散らす、おかしな人間に見えるだろう。……でも、そこには確かにカシカがいる。見えないが存在しているんだ。父親の馬鹿げた実験のせいでこうなった、俺の幼馴染みが。
「まもなく、K駅~、K駅~、降り口は――」
しんと静まり返った空間に、アナウンスが響き渡る。
俺は言葉もないまま拳を握りしめる。その隣で、カシカはささやくように「ごめんなさい」と謝った。
カシカは何も悪くないというのに。
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