第12話 馬が俺を見つめた。何か言いたげに。しかし諦めたのか、馬は少しして俺から顔を逸らした。

「その手帳には、日記でもつけているのかい?」と俺は男に訊いてみた。

「えぇ、日々の些細なことを書くのが好きなんです。ここ最近は起伏のない日々だったので、文章も味気なくなってしまっていたのですがね。あなた方に出会えたことで、久しぶりに良い日記が書けそうです」

「それは良かった」

「はい、本当に良かった。本当に」

「後で読ませてくれよ」

「駄目、駄目です! 恥ずかしいですから」


 また駄目なのか。どうにかして読んでやろう。


 それから暫くの間、俺とニアは馬車に揺られていた。ニアは寝不足であったのか、いつ間にか俺の肩に顔を預け眠っている。


 俺も何だか眠くなってきた。あくびが出る。


 俺があくびをし終えた時、ひひーん! と馬のいななきが聞こえ、馬車が止まった。男を見ると何やらもぞもぞしている。


「うぅ、うおぉぉぉ、頻尿じゃ、頻尿なんじゃあぁぁぁ」男はそう言って御者台から飛び降りた。「ちょっとそこの茂みでお尿を足してきます。念のため馬を見ていてくれませんか。ここらにはバイオンの群れもいるし、なんせ私の尿は1回が長いんです。あなたびっくりしますぜ。私と同時におしっこしたら。恐らくあんたがし終えても私はフルスロットルで出し続けているでしょうからね。全速全開というやつです」男は全身をそわそわさせている。

「い、良いから早く行ってきなよ。漏れるぜ」やっぱり変な奴だ、こいつ。

「はい! 行ってきます」


 男は手帳を持つと、俺の視界から消えて行った。ちっ、読めるチャンスだと思ったのに。


 俺はすやすやと寝ているニアの顔を慎重に肩からどけて、馬車から降りた。ニアは目覚めることなく、猫のように丸くなって寝息を立てている。


 周囲を1通り眺めたが、バイオンは近くにいないようだ。


「お前、ちゃんと餌もらってんのか?」と俺は馬を撫でた。別段痩せているというわけでもない。毛並みと色つやも問題なく、世話はしているようだ。


 馬が俺を見つめた。何か言いたげに。しかし諦めたのか、馬は少しして俺から顔を逸らした。まあ、馬と人間は会話できないからな。俺もお前と話したかったよ。


 ふと気になって男が走って行った方向を見ると、10メートルほど先に茂み、ではなく小さな森があった。おや、ちょうど俺と森の間に、男の手帳が落ちている。急いでいたあまりきちんと懐にしまえず、落としたことにも気づかなかったのだろう。確か男は随分尿が長いと言っていたな。


 俺は小走りで手帳の落ちている場所まで行き、それを手に取った。森から男が歩いているような音は聞こえてこない。


 手帳の表紙に変わった様子は見られない。黒い革の手帳で、特に重いわけでも、軽いわけでもない。そういえば、男は俺たちと出会った時も手帳を手に持っていたな。俺とニアについて何か書いているかもしれない。


「よし、読んでやろう」俺はぱらぱらと手帳をめくり、1番新しいページを開いた。1行半しか書かれてないぞ。慌てて書いたのだろうか、走り書きで読みづらい。


「今日は2匹の餌と出会うことができた! ごちそう、ごちそうだ。人間のオスとメスだ。オスは筋肉質だと嫌だな」手帳の1行半にはこう書かれていた。


 俺は怖くなって、別のページを開くことができなかった。旅に出て最初に出会うのが人食いとは。てことは恐らくあいつ魔族だ。俺とニアも中々運が悪い。


 手帳を拾って読んだことがばれないようにしないと。俺は日記をそっと地面に置いて、馬の傍に移動した。男に何を言われても「あんたが手帳を落としたことには気づかなかった。だから中身は読んじゃいない」と俺は答えなければ。


 いや、違う。今のうちに逃げた方が賢明なのだ。俺がそう思った時、森から足音が聞こえた。はっとして見ると、男が森から抜け出したところだった。くそ、もう小便しょんべん終わったのかよ。


「いやぁ、いつもより早く出し切ってしまいました。さっき話した通りいつもはもっと長いんですよ」男は恥ずかしそうにそう言いながらこちらに歩いてくる。「あら、手帳を落としてしまったようで」


 男は手帳を拾い、俺の顔を見た。


「読んでないですよね」と男は冷たい眼で言った。そしてまた、瞳が紫色に変化する。


 今ならニアの氷魔法が温かく感じられそうなほど、冷たい眼だった。


「まさか、俺はそこに手帳が落ちてたことにすら気付かなかったんだぜ」俺は努めて平静に答える。

「そうですか、なら良かった」男はさっきの冷たい眼が嘘のように笑顔になった。「ところで、モンスターは大丈夫でしたか」

「あぁ、こうして馬を撫でてただけだよ」


 俺は馬を撫でた。我ながらうまく演技ができているのではないだろうか。


「お待たせしてすいません。それではラハンへ向かいましょう」と男は言った。

「あぁ、頼むよ」


 俺は荷台へ戻り、男は御者台に座った。さて、どうしようか。ニアの言う通りだったのだ。俺が馬鹿だった。隙を見て逃げなければ、このままだと俺とニアはこの男の夕飯である。今思えば瞳の色が時々紫色に変化するのは、奴が魔族であるという合図だったのだ。だからあいつは俺がそれを指摘した時慌てたのだ。


 俺とニアが魔族と出会うのは今日が初めてである。教本で魔族については学んだが、瞳が紫色だなんて書いてなかった。全くずさんな教本だ。


 どうやって逃げようか、あるいは斃そうか、と俺は考える。


 俺たちが男の餌になりつつあることを知る由もないニアは、未だにすやすやと眠っている。

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