第10話 「ねえ、私たちってラハンに着いたらすぐ結婚するのよね?」

 翌日、俺は誰かに叩かれる感触と共に目を覚ました。叩かれているのは左肩である。ぺち、ぺち、と。しかし地面が硬いな。でこぼこしているし。俺のベッドは安物だがもう少し柔らかいぞ。このように寝ぼけている俺であるが徐々に思い出す。俺は昨日、領主から追放を言い渡され、ニアと一緒に旅に出たのであった。


 ゆっくり目を開けると、目の前にはニアがいた。まだ眠たそうにその眼をこすっている。今起きたばかりなのだろう。


「ファイ、顔を洗いたいわ。洗わせてくれないなら凍らせちゃうわよ」ニアは俺の肩を揺すった。

「う、うぉ、分かったから、凍らせないでくれ」俺は上半身を起こした。


 ふと脇を見ると、焚火のあとの上にズクロウの骨があった。さらにその隣にはまな板代わりに使用した、この木の葉がある。ズクロウ、美味しかったな。


「いててて」でこぼこした硬い木の上で寝たので体のあちこちが痛い。我ながらよく眠れたものである。まあ疲れていたからな。「ニアは寝れたかい?」

「何とかね。早くふかふかのベッドで寝れるようになりたいわ」

「俺もそう思うよ」


 俺は立ち上がってふくらはぎ、太もも、腰、背中、胸、前腕、肩、首の順で全身を強めに叩いた。こうすることで血行が良くなるように感じるのだ。実際のところどうかは知らないが。


「あなた、何してるの。気が触れちゃったのね」とニアは昨日のお返しをしてきた。

「君を襲っちゃうかもしれない」俺は何となくふざけた。

「冗談でもそんなこと言っちゃだめよ」

「ご、ごめんなさい」


 俺はニアを連れて昨日水筒に水を汲んだ川へ向かった。まだ太陽は顔を出し切っておらず、空は薄暗い。時々青い小鳥の楽しげな歌声が聞こえる。


 俺は顔を洗う前に川の中に人差し指を突っ込んだ。冷たい。体も起きたばかりで温まってないから、余計にそう感じる。


 俺は手のひらいっぱいに水をすくい、顔を洗った。冷てぇー。瞬く間に頭が冴えていくように感じる。ハンカチぐらい持つべきであった。これでは顔が拭けない。


 隣のニアを見ると。しっかりと携帯していたのだろう、ハンカチで顔を拭いていた。俺は彼女の顔をじっと見つめた。ハンカチで顔を拭き終えた彼女は、少しして俺の視線に気づいた。びしょびしょな俺の顔の視線に。


「そんなびしょびしょなままでどうしたの?」ニアの顔に疑問符が浮かんでいる。

「ハンカチ」と俺は真顔で言った。


 俺がそう言った後、ニアは短い間楽しそうに笑っていた。何が楽しいのだろうか。


「そういうこと。ハンカチを貸して欲しいのね。あなたの上着でその顔を拭いたあとに貸してあげるわ」と言ってニアは笑った。

「それじゃあ意味がないじゃないか」

「そうかしら?」

「そうだよ」

「嘘よ。ほら、貸してあげるわ」


 ニアはやっと、ハンカチを貸してくれた。俺はやっと、顔の水を拭うことができた。


「ファイ、これからどうするの?」とニアは言った。

「起きたばかりだけど、早いとこ森を抜けてラハンへ向かおう。何事もなければ午前のうちで着くはずだ。はい、ありがとう」俺は彼女にハンカチを返そうとする。

「いやよ、びしょびしょじゃない。あなたが持っててよ」

「え? あぁ、分かったよ」


 俺は濡れたハンカチを懐にしまった。感触が気持ち悪い。


「それじゃあ、行きましょっか」とニアは言った。

「うん、行こう」


 暫く歩いて森を抜けると、再び広い草原が俺とニアの前に現れた。


「一先ずあの丘の頂上を目指そう」俺は遠くにある丘を指さした。

「あそこまで一気に掛けられるの?」

「あれぐらいの距離なら大丈夫だよ」


 俺はニアと交渉して、お姫様抱っこではなくおんぶをすることで妥協してもらった。するのは俺なのにしてもらうと言うのは変だが、そんなのは大したことではないのだ。大したことは、これから起こるのだから。


 一旦の目標である丘に到着したので、俺はニアを下ろした。


「ありがとう」とニアは言った。

「いえいえ」

「ラハンってこんな大きな街なのね」ニアはラハンを眺めている。

「そうだな。俺たちのいた村とは比べ物にならない」


 ニアは脈絡もなく、俺を見つめ出した。


「お、俺の顔に何か付いてるのかい?」俺はどぎまぎして言った。

「ねえ、私たちってラハンに着いたらすぐ結婚するのよね?」ニアはそう言って目を細め微笑んだ。

「結婚!?」

「約束したじゃないのよ。もしかして、冗談だったの?」


 彼女の瞳から光が消えていった。琥珀色のブラック・ホール。じっと見ていたら吸い込まれてしまいそうだ。


 結婚だと? 冗談どころか、そんな約束した記憶すらない。とはいえ、彼女と結婚するのは全く嫌じゃない。嫌じゃないではなく、良いと表現するべきだな。


「覚えてる、覚えてるさもちろん」俺は食い気味に言った。

「ふふふ、なら良かったわ。もう少しで洗脳魔法を使うとこだったんだから」ニアの瞳に光が徐々に灯されていった。

「きみ今、せ、洗脳って言ったのかい?」

「そうよ、それがどうかしたの?」


 ニアはきょとんとしている。私何かおかしなこと言ったかしら、という表情だ。


「もしかして、これまでも俺にその、洗脳魔法とやらを……使ったことはあるのかい?」俺は恐る恐る訊いた。

「あるわけないじゃないの」とニアは俺を抱きしめた。


 彼女の体の、羽毛枕のように柔らかい部分が俺の体に触れた。しかし、俺はその感触を楽しむことはできなかった。”洗脳”という言葉が、脳の98%を覆っていたからだ。


 ニアは照れ笑いを浮かべながら俺から1歩離れ「プロポーズ、楽しみにしてるわね」と言った。


「はは……ははは、空が青いな、良い天気だね」俺は的を得ない返事をしながら空を見上げた。空は結構曇っていた。

「楽しみに、してるわね」ニアは今度は真顔で言う。

「は、はい」


 それから暫く、俺とニアは丘の上に座って休んでいた。


 おや、と俺はこちらから右手の丘の麓を見る。人がいるではないか。その傍らには馬と馬車。その人もこちらに気付いたようで、手を振ってきた。


「追手だったりしないわよね」ニアは不安そうな表情だ。


 ここから男の居る場所までは距離があるので、その顔の詳細は見えない。流石に村の者ではないと思うが。もしそうだとしたら、俺たちより先回りしていたってことになる。まあでも、用心するに越したことはない。


「どうだろうな。もしかしたらそうかもな」俺はニアをお姫様抱っこして、ギアをスピードに切り替え草原を駆け下りた。

「きゃあっ」ニアが驚いたのか悲鳴を上げる。


 俺が麓まで下りたところで「待ってくださいいいぃぃぃ!」と男の叫び声が聞こえた。その声があまりに鬼気迫っていたので思わず立ち止まり振り返ると、それはさっき手を振ってきた男だった。


 男は息せき切ってこちらに走って来た。

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