第5話 空はまだ、少し明るいようだ。
俺とニアは丘を下り始めた。小屋は俺たちが普段丘を登り下りするルートとは反対方向にある。
そういえばニアはさっき、駆け落ちとか言ってなかったっけ。それって確か、結婚を認められなかった恋人同士が遠く離れた村に逃避行することだよな。
俺とニアはいつ、恋人同士になったのだろうか。俺はそう思いながらニアの横顔を見る。彼女、何故だか少し楽しそうなんだよな。
「ん? どうかしたの」とニアは言った。
「いや、何でもないんだ」俺は視線を正面に移して答える。
「そう、変なの」
君の方がよっぽど変だよ、俺はそう言いたいが言わないことにした。
丘を下りた俺たちは、少しの間何もない
小屋の扉を開けると、ギィィィと、きしむ音が聞こえた。中に入ると、木のかびの臭いがより強まった。小さなテーブルに2脚の椅子、1つの窓があるだけの小屋だ。
「懐かしいわね」とニアは言う。「二人でかくれんぼをして、ファイがこの小屋に隠れたのよね。でも私がファイを見つけられなくて泣いちゃって」
「あの時はびっくりしたよ。君の泣き声が聞こえて」本当にびっくりしたのだ、あの時は。
「確かあなた、慌てて小屋から飛び出して来たわよね」
「うん。それでかくれんぼは俺の負けになったんだ」
窓を見ると、外の景色が見えないほど汚れている。
「ところで、本当に俺と一緒に村を出て良いのかい? ほら、ニアの両親とかに迷惑が」俺は椅子に腰を下ろした。
「もう、何度も言わせないでよ。私は一緒に行くって言ったの」ニアも片方の椅子に座る。
「わ、分かってるよ。一応確認したかったんだ」
「それにね、パパとママにマートンのことを話したら、二人はこう言ったの。彼と結婚しなさい。領主の息子と結婚することができれば、私たち三人の将来は安泰だからって」
俺は黙って相槌を打つ。
「それで嫌だって言ったの、私。マートンと結婚なんかしたくないって。そしたらパパとママ何て言ったと思う?」とニアは言った。
「ニアのため、とか?」俺は全く想像がつかない。
「その逆よ、あなたの気持ちなんて関係ないって言われたの」
「そ、そうか」
「そうよ」
あの領主親子の人となりは、彼女の両親だって知っているはずだ。
「凄く酷いと思うよ」と俺は言う。
「だから、私はパパとママに何も言わずこの村を出て行くの。あの2人のために私の人生が縛られるなんて、そんなのは嫌」ニアはそう言って俺の顔を見つめる。「そしてあなたと、どこかで幸せに暮らすの」
その瞳からは、確かに強い意志を感じた。ニアは冗談半分で言っているのではないのだ。
「そうだね。今よりは幸せになろう」と俺は言った。
「なれるわよ。ここより酷いところなんて、きっとないわ」
俺は窓から外を見た。窓は汚いが、外の明るさを確認することくらいはできる。
空はまだ、少し明るいようだ。
「村を出て、私たちは一体どこを目指すの?」とニアは言った。
「冒険者の街、ラハンに行こうと思うんだ」俺は窓を見たまま答える。
「それって、ファイが14の頃」
「うん。俺が14の時に一人で向かおうとした街だ」
あの時の俺は今よりずっと弱く、能力も上手く扱えていなかった。それで俺は、1日も経たず命からがら村へ引き返したのである。若いオスのバイオンに追われた折には死ぬかと思った。そのバイオンの鬣《たてがみ》が凄く立派であったことを、未だに覚えている。トラウマってやつだ。
「あの時も、俺はニアにぶたれたんだった」俺は窓から彼女に視線を移す。
「そりゃあぶつわよ。ファイ、私に何も言わず村を出て行こうとしたんだから」ニアはそう言って俺をにこにこ見つめた。
「わ、悪かったよ」
何だその笑顔、怖いぞ。
思い出せば、あの日も彼女は泣いていたな。ニアは泣きながら俺をぶったのだ。片鱗はあったのだのである。とんでもなく変な女の子であるという片鱗は。
「ラハンに行くってことは、ファイは冒険者になりたいの?」とニアは言う。
「うん。もうバイオンなんて目じゃないぜ。冒険者になって金を稼ぐんだ」俺は握りこぶしをつくった。
「冒険者か、大変そうだけど、楽しそう。私も頑張るわ」
「ニアの魔法は頼りになるよ」
ニアは氷属性の魔法を扱うことができる。ちなみに俺は、属性魔法を扱えない。俺の魔法はパターン・シフトである。地味だが、これでもモンスターと渡り合える。体のパワーや、スピードを強化したりできるのだ。
「私の氷魔法で、どんなモンスターもカチンコチンにしちゃうわ」ニアは楽しそうである。
「俺の出番、ないかもな」俺は笑って言った。
「ふふふ、ないわよ。モンスター全て、私が倒しちゃうんだから」
「スパイダもかい?」
「スパイダは……そうね。その時はあなたの後ろへ隠れることにするわ」
スパイダとは、1メートルくらいの大きさで黒く丸い胴体に足が16本も生えているモンスターである。スパイダには申し訳ないが、人間の感覚からするととても気持ちの悪い姿だ。そしてニアはスパイダがすこぶる苦手なのだ。
子供の頃、ニアと村の近くの洞窟へ探検しに行ったことがある。俺はやめようと言うニアの言葉を聞かず、その手を取り洞窟の奥深くへ進もうとした。しかし、灯りを持っていなかったので結局すぐ引き返すことになった。出口へ向かうため後ろを振り返ったところ、当時は身長差も殆どなかった俺とニアの顔の位置に、スパイダが居たのである。目と鼻の先に。
スパイダは天井から糸を垂らして、地面へ降りる最中だったのだ。
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