「でさぁ。あいつ、なんて言ったと思う? そんなのお前が勝手に損して、バカを見ただけだろ……だって。彼女に対してひどくない?」

「ええっと、栞さん」

「ちゃん、でいいよ。昔はそう呼んでたでしょ?」

「じゃあ、栞ちゃん」

「うんうん。なに、たいちゃん?」

「今日、俺の就職祝いって話じゃなかったっけ?」

 滑り台近くのベンチ。スーツに身を包んだ君が戸惑いながら尋ねると、栞ちゃんは缶チューハイを片手に、うんそうだけど、とあっけらかんと答える。

 珍しくスーツを着た君を見た栞ちゃんの一言で、突発的に決まった会合。その主催者の答えに、君は頭が痛そうな様子でこめかみに人差し指をあてる。

「じゃあ、なんでそんな日に、栞ちゃんの惚気話を聞かされてるのかな?」

「惚気じゃないよ。愚痴だよ、愚痴。あと、あいつと長年付き合ってるあたし自身に対する疑問というかなんというか……」

「それ、今日する話かなぁ?」

 その訴えに対して、栞ちゃんはぽんと君の肩に手を置く。

「なあなあ、たいちゃんや」

「うん」

「もう、知ってるかもだけど、世の中は理不尽に溢れてるんだよ」

「まあ、そうだね」

「たぶんだけど、本格的に働きだしたら、もっとたくさんの理不尽が襲いかかってくる。やんちゃな頃だったら、君の腕っ節とかでなんとかなったかもしれないけど、これからはきっとたくさんのことに耐えなくちゃいけない」

「うん」

 頷く君に、栞ちゃんは真顔でチューハイを一口飲んでみせてから、

「だからこれは突発的な避難訓練みたいなもんだよ。楽しみにしていた飲み会というのは得てして、楽しみにしていた遠足と同じくらい期待通りにはいかないどころか、面倒くさくなったりする。そういう予行演習」

 なんて言ってみせる。君はすぐさま目を細めて、

「栞ちゃん」

「なに? 聞く気になった?」

「いかにもそれっぽい話でまとめようとしてるけど、ただ愚痴を聞いて欲しいだけでしょ」

「……ばれたか」

 真っ赤な舌を出す栞ちゃん。君は、いやばれるでしょ、と応じてからビールに口をつける。

「ってか、そんなにうまくいってないなら、別れればいいじゃん」

「簡単に言ってくれるね。何年も付き合ってると、なかなか思い切れないんだよ。あと、新しい相手見つけるのめんどい」

「そう言って、しょっちゅう泣かされてるでしょ」

 アルコールを飲んでいるせいか君の口ぶりもまたヒートアップする。栞ちゃんは、ああ……、と気まずげな顔をして頬を人差し指で掻く。

「そこはなんていうか……お互い様というか」

「自分だけが泣かされてるのに?」

「わかんないよ。ほら、人前では見せてないだけで、向こうも傷ついてるかもしれないし、泣いてるかもしれない」

 缶を両手で柔らかく持った栞ちゃんはしみじみとした調子で語る。君はいかにも面白くなさそうな顔をする。

「散々悪く言ってる割には、変なとこで庇うんだな」

「そりゃ、曲がりなりにも恋人だからね。なんだかんだ、好きなところがあってお付き合いしてるわけで……あっ。彼氏のいいところとか、聞きたい?」

「興味ない」

 視線を滑り台の方へと逸らした君は、半分以上残っていた缶ビールを一気に飲み干したあと、おかわりある、と尋ねる。栞ちゃんは、はいはい、とすぐ脇に置いてあるビニール袋から新たなビール缶をとりだし、君に手渡す。

「さんきゅ」

「曲がりなりにもお祝いだしね」

 そんな楽しげな声を耳にし、君はプルタブをあげる。栞ちゃんは、薄っすらと微笑みながら君を見つめていたあと、

「たいちゃんも傷ついてたよね」

 唐突に切りだす。

「何の話?」

 尋ねる君に、栞ちゃんはチューハイで口を少し湿らせてから、

「昔、あたしが君にひどいことを言った時のこと」

 ぽつぽつと話しはじめる。自然と君の顔は引き締まった。

「よく覚えてないな」

 とぼける君の横顔を見た栞ちゃんは苦笑いを漏らす。

「ずっと引っ付いてくるたいちゃんに苛々してたのはホント。でも、もっと言い方みたいなのはあっただろうし、わざわざ悪し様に傷つける必要はなかったなって」

 それはもそう思ってたよ、栞ちゃん。

「そんなことあったっけ?」

「うん、あった。その時は、あたしが離れた方がたいちゃんのためになる、みたいに自分に言い聞かせてたけど、本当はただただ邪魔だからって苛々を君にぶつけただけだった。実際に、それでしばらく楽になったし」

 まだ二人とも子供だったし、たいちゃんにも悪いところがあるっていうのはわかってたけど、当時は栞ちゃんのことをなんてひどい子なんだろう、って思った。だから、今もたぶん、私は根っこのところでは栞ちゃんを信じられてない気がする。

「けどさ……時が経つに連れて、ちょっとずつ怖くなってきた。仲が良かった子を、自分勝手な気持ちで突き放した。おまけに、たいちゃんのお母さんのことを使って傷つけたなんて」

 そう。私にはそれが一番、許せなかった。

「よりにもよって、亡くなる前に、あなたのことを頼まれたことを口にして、たいちゃんとのこれまでを否定した。後になってから、なんてことしたんだろう、って思ったよ」

 私を使って、たいちゃんを傷つけるなんて、許せるはずもない。

「ずっと、謝らなきゃって思ってたけど、たいちゃんへの後ろめたさが残ってて、なかなか話しかけられなかった。そうやってぐだぐだしてたら十年以上経ってて、また話しかけたら話しかけたで、今度はこの話を切りだす勇気が湧かなくなった」

 栞ちゃん。あなたってとてもとても勝手な娘だね。

「あらためて……あの時はごめん。昔言ったのはだいたい本心だけど、たいちゃんを傷つてしまったのはたしかだから」

 頭を下げる栞ちゃん。冷やかに見下ろす私の前で、君はしばらくの間何も言わずに、幼なじみのつむじのあたりを睨んでいたけど、

「今の栞ちゃんは、俺のことをどう思ってるの?」

 おもむろにそう切り出してみせた。ゆっくりとぐちゃぐちゃになった顔をあげた栞ちゃんは、何度か考えるように瞬きをしたあと、

「可愛くないなぁって」

 そんな感想を口にした。君はおもいきり顔を歪めて、それ今言うこと? と疑問を投げかける。栞ちゃんは、だって本心だし、とあっけらかんと告げたあと、でも、と付け加え、

「ムシのいい話だとは重々承知してるけど、また仲良くしたいなとは思ってるよ」

 おずおずと言った。君は唇の端をゆがめる。

「それは愚痴をぶつける相手として?」

「それと飲み仲間かな。たいちゃん、昔よりはうざくなくなったから、話してるとけっこう楽しいし」

「……また、うざいって言われた」

「今はそんなにうざくないって言ったんだよ。そういう細かいとこは、ちょっとだけうざいけど」

「そっすか」

 君は呆れ気味に栞ちゃんをじーっと見つめていた。その横顔には憂いだとか怒りだとか悲しみだとか、あるいは割り切れないような思いが込められているように私には見えた。

「まあ、たまに飲むくらいの付き合いだったら」

 程なくして君の出した結論に、栞ちゃんは、ええ、っと不本意そうに漏らす。

「そこはまた親友になろうよ」

「ほんっと、図々しいな、栞ちゃん」

「やっぱり、たいちゃんうざい」

「また、言いやがった!」

 夜の公園。年甲斐もなく騒ぐ君と栞ちゃん。

 私は二人の姿を少し離れたところから見守りながら、これでいいんだろうか、と首を捻った。

 まっ、私がどう思おうと、なにもできないんだけどね。

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