ベランダに寝袋
みゐ
ベランダに寝袋
彼はよく、ベランダに寝ている。ペットボトルの水と飴を持って、寝袋に入る。
ベランダは道路側に向いていないため外からは見えないが、家の中から見ている方としては怪しすぎるとしか思えない。ベランダで寝るなんてここで初めて見て、メリットも見つからない上に冬の今は寒そうだ。
理由を聞いたことはない。聞いたらいけない訳ではないけれど、多分彼は困ってしまう。そんなことを聞く間柄ではない。
「ねぇ、今日一緒に寝ない?」
私は驚いて彼を見た。まさか部屋で寝ようとするなんて。
「ほら、新しい寝袋買ったからどうかなって」
違う、外で寝袋で寝る誘いだった。彼はいつも通り水と飴を持っている、二つずつ。断ろうにも断れない。けれど寒い中、冷蔵庫から出したての水は飲みたくない、そういう問題じゃないけれど。期待に満ちたような目で見られたら、今日だけならいいかと思ってしまう。
「やった。じゃあベランダに来て。久しぶりに望遠鏡出そうか」
少し微笑んで押し入れにしまってあった望遠鏡を出す。偶然雲がないのか、それとも雲がないから誘われたのか。望遠鏡が家にあること自体は知っていたが、使おうとするのを見たのは初めてだ。手際よく望遠鏡の埃を落として組み立て、ベランダの端に置く。最近は冬の星が綺麗なんだ、なんて言いながら準備が進められていく。
「準備できたから、こっち来て。この寝袋使って、まだ入らなくていいけど」
「ん、分かった」
多分新しい方の寝袋を渡され、外に出る。寒い。冬用の部屋着じゃ流石に外で寝られない。私に比べて、彼は長袖Tシャツにジーパン。その格好で寝るのにも驚きだけれど、寒そう。そもそも彼が感情を持っているのかすら怪しいような人だから、そんなものなのかもしれない。
「ね、あの星見える?いつも動かずにじっとしている星。可哀そうだよね」
「ん」
このベランダが北向きなことがおかしい気もするが、北極星を可哀そうだと思う人も初めて見た。彼は初めての集合体のような人だとつくづく思う。
せっかく出した望遠鏡を通さずともその星は見えてしまっていた。
「寝ながらあの星だけ見ていると、時間が止まったようなんだ。ほかの星がたくさん動いているのに、動かないものを見ているとそこだけ時間が止まっているみたいで」
「ふーん」
黄昏れて、自分の世界だけ時間が止まったように感じて、気が付くと帰る時間をとっくに過ぎていたような、そんなことを思い出す。彼にそんな思いではあるのだろうか。
「太陽は一つしかなくて一定に動いているのに、星はいくつもあって違うように動いている。昼と夜で時間の進み方が全然違うようで面白い」
動いているのは地球の方だよ、など、いくらでも抜けているところを指摘できるような彼の考えは、聞いていて何故だか安心する。
「月があると月の形によってもっと時間の進み方が変わる気がするんだ。あいにく今日は新月だね」
どっちにしろこのベランダから月を見るのは難しいと思うよ、そんな言葉を飲み込む。彼はまさか、ここから月を見たことがあるのだろうか。北に月が昇ってきたら騒ぎになるどころでない。
そこで思い出したように、彼は飴を食べた。つられて私も食べようとしたけれど、もう歯を磨いたから、水以外口にしたくない。彼が私に渡した飴が黄色のレモン味だったのも偶然ではないのだろう。そこにない月を補うような黄色の飴玉が包装紙の中に入っているはずで、それは多分、とても満月に似ている。
「今日は時間が進むと嫌だから北極星を見よう。ちゃんと、今日君を誘ったのにも理由があるんだ」
「そうなの、何?」
「そろそろ、ここを出ようと思って」
ここ?
このアパートのことなのだろう。私に引き留める資格はないけれど、快く送り出す義務もない。
「やっぱり二人で住むには狭いし、このよくわからない関係もスパッとしたくなった」
私が否定しないの分かって言ってるでしょ。
私だって彼との関係はよくわからないけれど、それでも独りでいるときよりは楽しい暮らしができていた。それはスパッと終わらせたくない。
「あと、住まなきゃいけない所が出来たんだ」
住まなきゃいけない所?何それ。
これも、多分知ることがないまま彼はここを出ていくだろう。細いけれど丈夫な糸で繋がっているとか思っちゃってたんだけどな。
「だから、もう昔みたいに戻っちゃおうよ」
昔みたいには無理だよ、過去には戻れないし、星が逆に動かないように時間だって戻らないよ。
彼が水を飲む音が響く。
「君の病気は治ったけれど、僕はまだ治らないんだって。僕って自分で思っていたより厄介みたい」
そんなことを笑いながら言われても、私は反応に困ってしまう。
「だから僕は、病院に住まなきゃいけない。どれくらいの入院になるかわからないから、無駄に一人分のスペースは残らない方がいいでしょ?」
知らないまま終わるだろうと思ったことは案外あっさり知ることができた。確かに効率だけ考えたら彼のような考えになるかもしれないけれど、私がそう思うとは限らないじゃない。
彼が話し終わっても返す言葉は出てこない。読書は好きだから、伝えればいいことはたくさん知っているえれど、私たちの関係には似合わないのだ。
北極星を見ても少しも動いていないから、どれくらい時間がたったのかわからない。もっと周りの星も見ておくんだった。
次の日、彼に起こされた。いつの間にか私は部屋の中にいて、おそらく彼が移動させてくれたのだと思う。その彼はもう着替えも身支度も済ませて、ここを出ていく寸前だった。
「朝ごはん、作っておいたからちゃんと食べて。昨日の水、口つけてなさそうだったから冷蔵庫にあるから。あと、その寝袋はあげる。元から君のために買ったものだったし」
そっか。もう終わりか。
「出ていくって言っても忘れ物があったら取りに来るから、しばらくは引っ越さないでほしいかな」
彼が私にお願いをするなんて初めてだった。
「じゃあ、また会えたら会おう」
それ、多分会えないやつじゃん。忘れるには時間がかかるけれど、忘れたらもう思い出せないような関係の私たちなんだから。
ドアの閉まる音がして、彼は出て行った。元から少なかった彼の荷物はすっかりなくなっている。
なんで新しい寝袋をくれちゃったの、嬉しくないよ。
しばらく寝袋の中に籠もって、無理やり時を過ごした。
ベランダに寝袋 みゐ @tuki_bi-al
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