第五章 16 もう絶望的である。

 やんでも悔やみ切れない、取り返しの付かない辛い経験。局長はまた同じ悲劇ひげきを繰り返したくないのだ。


 それに何より、幼いションタクも一緒なのだ。やはりこの場にとどまるべきではない。


 コタンシュさんは奇岩を紅衣貌ウェンナックあおぎ、ションタクの顔を見下ろし、そして局長を見返した。


 「我、また来る!」


 言うなり、ションタクをかつぎ上げると、元来た道へと駆け出した。


 その姿はすぐに夜の森の彼方かなたへと消えていった。


 また来るって……来ない方が良い。紅衣貌にかかれば、それこそ一撫ひとなでで即死も有り得る。


 わたし達とて、どうなるか分からない。これまでの紅衣貌とは一味も何味も違う個体なのだから。わたしが狐魑魅こすだま渓谷のアジト内から生還できたのも、まだ猿顔大蛇が寝起きだったことに加え、軍曹の全力奮闘という幸運な条件が重なったお陰なのだ。


 あの時より少し小さくなったとはいえ、獰猛どうもうさは変わらないだろう。むしろ、動きが機敏きびんになったようにさえ見える。わたし達の存在に気付いているようで、まるで引き寄せられるように近付いて来ていた。


 さすがは血肉と負の思念をかてとしているだけのことはある。命あるものの存在を正確に嗅ぎ付けることができるようだ。特に、練識功アストラルフォースを保持者はご馳走ちそうなのだろう。


 「紗希、原体は頭部で間違いないのね?」


 「はい、ナヒトがそう言っていました」


 答えてから、ふと思った。


 ナヒトはどこへ行ったのだろう? 心配はしていないが、絶妙なタイミングで現れて、邪魔でもされたら面倒だという懸念けねんがあった。


 「じゃあ、頭をたたればいいだけね」


 「……だけでもないみたいです」


 ノエル先輩が周囲を見回し、深刻そうな声を漏らす。


 なんと、そこら中に複数のうごめく影が!


 先程、猿顔大蛇が発した咆哮ほうこうで集まってきたのだろうか? ただでさえ大変な状況なのに、こんな余計な雑魚ざこ個体達まで参戦とは、実に厄介やっかいである。


 コタンシュさん達、無事だといいな。


 「援護えんごをお願い。わたしがあの蛇を仕留しとめるから」


 そして、局長は大蛇型紅衣貌へと猛進もうしんを始めた。


 わたし達も続いた。後方にベルウッドさんが、左方にノエル先輩が、そして右方にわたしが付き、むらがるようにやって来る紅衣貌達を退しりぞけ、局長の行く手を斬りひらいていった。


 この雑魚紅衣貌達、狐魑魅渓谷のアジトからこのヌプルゥシケ自治区に出てきたさい遭遇そうぐうした数と同じぐらいはいるだろう。


 局長が突撃に専念できるように、わたし達は襲い来る紅衣貌達をとにかく斬りまくった。


 なるほど。確かにナヒトの講釈こうしゃく通り、雑魚紅衣貌達に再生能力はないようで、斬れば倒れてくれる。この状況下では有難いことだった。


 けれども、たとえ局長が大蛇型紅衣貌の原体を破壊しても、大蛇型をふくめ、今ここにいる紅衣貌達がただちに消滅しょうめつするわけではない。そう考えると、体力が持つかどうか不安がよぎる。


 いや、そんな心配はやめよう。絶対やれる! おにぎり七個も食べたんだから!


 数こそ多いが動きは単純なので、冷静に見きわめれば対処できる。ただ、異様でグロテスクな見た目に圧倒されそうだった。


 いよいよ、大蛇型紅衣貌がすぐ間近まぢかせまった。


 局長は練識功の剣を生み出し、上体を低くする。


 さすが局長。完璧な体捌たいさばき、完璧な位置、完璧な角度、そしてこのタイミングなら、確実に猿顔の下あごから突きつらぬける。一撃必殺間違いなし。


 パアン! と乾いた音。


 わたし達が、それが何の音かを認識する前に、局長は短くうめきながら体勢をくずした。


 猿顔大蛇が大口を開け、何本もの短剣のようなきばを局長の体に喰い込ませた。


 上半身のほとんどが口の中に入ってる!


 だが、次から次へと襲い来る雑魚ざこどもの相手で、わたし達は助けに入れない。


 大蛇が金属的な奇声を上げて頭を振り、局長を横へとぶん投げた。


 練識功の剣で口の中を斬り付けられたためだろう。


 投げられた局長は奇岩に激突して、雪と崩壊ほうかいした岩片にまってしまった。


 そこから局長が出てくる気配はない。


 み付かれただけでも重体のはず。その上、岩にたたき付けられて下敷したじきにまでなっては、もう絶望的である。

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