第四章 2 あとはお前さん一人で逃げろ。

 けれども、どうしたことか、彼らは急にわたし達から距離を置き始めた。いや、わたし達からと言うより、この狐魑魅こすだま渓谷の外に踏み出すことを躊躇ちゅうちょしているようにも見受けられる。


 理由はどうでも良い。とにかく今は逃げるのみ。


 背後からのボーガンに用心しつつ渓谷を抜け、斜面に差し掛かった。


 連中は引き波のように後ずさり、わたし達を遠巻とおまきに見ている。


 昼間は渓谷出入口でアイゼンを使用したが、今はひざ近くまで雪が積もっており、歩きにくかったが滑ることもなかった。


 後ろを警戒しながら上ってゆくが、やはり誰一人として追いかけてはこない。


 やがて斜面の半ばを過ぎると、彼らはあきらめたように渓谷の奥へと戻り始めた。


 何が何だか分からないが、とりあえず一安心。


 軍曹の咳込みが次第に激しくなり、ひざを突き、雪上に二回目の吐血。

 

 これは一安心もしていられない。


 「……紗希、あとはお前さん一人で逃げろ」


 軍曹はわたしが恐れていた台詞せりふを口にした。


 「駄目です! 一緒に来てください!」


 「目が……かすんできた。真面まともに歩けなくなるのも……時間の問題だ」


 「だったら、わたしが歩かせますから」


 わたしは軍曹の左腕を自分の肩に掛け、強制的に立たせた。


 「……強引な奴だな。局長以上だ」


 軍曹は泣きそうな声でつぶやく。


 追手が退いてくれたのは幸いだが、この先は猛吹雪の氷雪の大地。おまけに真っ暗。軍曹はおろか、わたしでも歩いて村まで向かうのは自殺行為だ。


 だからと言って、渓谷内で吹雪が収まるのを待つのはもっと危険である。


 結局のところ、選択の余地はないということだ。


 念のために背後からの敵の有無を確認しながら、何とか斜面を上り切った。


 軍曹の足取りが次第に重々しくなり、息が切れ始める。このままではまた吐血してしまう。


 わたしは足を止め、何か方法はないかと考えた。


 ! 駄目元で試してみよう。


 胸に意識を集中させると、体が熱くなってきた。全身がぼんやりと青緑色に輝く。


 練識功アストラルフォース、行ける!

 

 もしや追手が来なくなったのは、練識功不可のエリアが狐魑魅渓谷内限定だから?


 確かめてみたい好奇心はほんの少しあったが、もちろんまた戻って試そうとは思わない。今はできるだけここから離れなくては。


 わたしは矢が刺さっていない右肩に軍曹をかつぎ上げた。


 「……お、おい、紗希?」


 軍曹が弱々しくも驚愕きょうがくの声を上げる。


 雪が深いものの、少しハイペースのジョギング程度の速さでなら行けそうだ。


 一気に村を目指すのは無理だが、ここに来る途中で見かけた避難ひなん小屋までなら、頑張れば辿たどり着ける。……たぶん。

 

 「……紗希、ちょっと待て」

 

 「大丈夫です。練識功を使えるようになりましたから、いくらでも進めます」

 

 「そうじゃなくて……村は反対方向だ」

 

 「………」

 

 立ち止まり、そそくさと回れ右をするわたし。

 

 ……やっぱり、何が何でも絶対に軍曹を連れて行こう。




 中距離からられたためか、ボーガンの矢の刺さり方は比較的浅く、致命傷ちめいしょうにはいたっていないが、もちろん引っこ抜く勇気はなかった。抜いた途端とたんに大量出血、なんてこともありるのだから。

 

 銃弾の方は、急所は外れているがちょっと深くまで入っている。

 

練識功アストラルフォースかせているとはいえ、これほどの負傷をした体で、果たしてどこまで行けるだろう? 動くたびに、足を一歩踏み出すごとに矢傷も銃創じゅうそうも痛む。少しずつ出血もしている。


 「……ったく、聞いてあきれる。お前さんをかついでやるってほざいたのはどこのどいつだ?」


 軍曹が独り言のように自嘲じちょうしていた。


 そう。こんなはずではなかった。


 数名の特殊とくしゅ部隊と共に、二十人弱の小規模集団を制圧するのみ。本来、わたし達の出る幕はほとんどない予定だった。だから、自分の容態ようだいを知っていた軍曹もわたしに同行したのだ。せいぜい、途中で歩けなくなったわたしを少しの距離担ぐかもしれない、という程度の勘定で。

 

 きっと、糖ヶ原とうがはらの秘湯に入る話も半分は本気だったのかもしれない。

 

 局長もベルウッドさんもノエル先輩も、誰一人としてナヒトのもくろみなど知るよしもなかった。


 そもそも、わたしが行きたいなんて余計なことを言ったばかりに……。

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