第三章 6 見えたでしょ?

 いや、人だったのだろうか? 全身青緑色に輝く奇妙な人型の何かが、通りのど真ん中にたたずんでいた。

 

 夜遅かったが、まだ通行人や娼婦はまばらにいる。しかし誰一人として、その青緑色の人物をかいす者がいない。それどころか、まるで雲か煙のように、その人物の立っている場所を人が通り過ぎて行くのだ。

 

 今夜はさすがに飲み過ぎたかな?

 

 軍曹は目をこすり、頭を軽く振ったが、青緑色の人物は確かに存在していた。

 

 そして、それはこちらにゆっくりと近付いてきた。

 

 不思議と恐怖はなく、気味が悪いという感じもしなかった。戦地で何度も死にかけ、家族も亡くし、もう恐いものも失うものもなかったためなのだろうか? それは軍曹自身にも分からない。

 

 青緑色の人物の手が、軍曹のひたいにそっとかざされた。

 

 その瞬間、アルコールけだった全身が爽快そうかいな風で洗い流されたような気がした。まりに溜まった鬱屈うっくつした感情は消え失せ、なぜか無限の幸福のシャワーを浴び続けているようだった。


 時間にして数秒とも数時間とも付かない体験。

 

 気が付いた時には、軍曹は通りのすみに立っており、もうあの青緑色の人物の姿はどこにもなかった。

 

 アルコールにおかされて頭はボンヤリし、体もだるい。胸の内の不快なわだかまりも元のまま。

 

 何も変わらない。今まで通りである。飲み過ぎて幻覚でも見たのだろう。

 

 「ねえ、おじさん」

 

 歩き出そうとした時、背後から少年のような声に呼び止められた。

 

 振り返ると、少年ではなく女性の姿。

 

 薄汚れた半袖シャツにり切れたグレーの作業ズボン、そして茶色いハンチングぼうと、男性のような身なりをしているが、あごや首の線の細さ、体型からしても間違いなく女性だ。

 

 年齢は二十歳ぐらい。なかなかの美人ではないか。

 

 この女性こそが後の局長、神楽坂静香である。

 

 一晩遊んでやるかと下心を起こし、腕を掴んで強引に物陰ものかげへと引き込んだが、その女性は悲鳴一つ上げない。

 

 「見えたでしょ、、、、、、?」

 

 全てをさとっているような泰然たいぜんとした物言い。

 

 軍曹はその問いかけを無視し、女性を建物の壁に押し付ける。

 

 だが、次の瞬間、顔面を女性に頭突ずつかれた。

 

 鼻を直撃。骨折確定。

 

 突然の抵抗に思わずのけると、今度は左ひざくだかれた。

 

 この頃から、相手の膝を蹴り砕くのがお得意だったようだ。

 

 二か所の骨折で転倒し、酔いは一気にめた。

 

 「おじさん、軍人だったの? 飲んだくれて暴れるために、わざわざ生きて帰ってきたわけじゃないでしょ?」

 

 正論だ。こんな小娘に説教をかまされるとは。

 

 「わたしもそう。酔っ払いに説教するために、旦那と子供を残してわざわざ帰ってきたわけじゃない」

 

 「お嬢ちゃん、素人しろうとじゃないな。喧嘩の仕方、どこで教わった?」

 

 こんな小娘が既婚者で、しかも子供までいることにも驚いたが、十四の頃から戦場に出て修羅場しゅらばをくぐり抜けてきた自分が易々やすやすと負かされるとは、一瞬にして自負心プライド粉々こなごなにされた心境だった。

 

 「ウォーレスランドで、旦那から。でも、おじさんが素面しらふなら、きっとかなわなかったと思うけど」

 

 女性は答えて片膝を突くと、軍曹の顔面と左膝に軽く手を当てる。

 

 徐々に痛みは引いてゆき、骨折は嘘のように治った。




 荒れていた頃の軍曹も意外だった。そして、わたしと同じように青緑色の人物を見たことにも驚いた。だが、わたしにとっての驚愕きょうがくきわみは、局長に子供がいたという事実だった。

 

 「局長って……子供、お子さんがいたんですか?」

 

 「何だ、知らなかったのか。ルーサーもノエルも知ってるのに。旦那だんなと一歳の娘をウォーレスランドに残して、アンブローズの支局を立ち上げるためにこの倭倶槌わぐつち国に帰って来たんだ。それだけ決意が固かったんだな」

 

 局長に娘さんがいた。ノエル先輩はともかく、なんでベルウッドさんがわたしも知らない局長情報を知っているんだろう? 一応、わたしの方が先輩なのに。ちょっと悔しい。

 

 「その……ご主人も……すごい方なんですか?」

 

 「俺もくわしくは知らないんだ。ただ、アンブローズ本部の幹部だとか何だとか言ってたな」

 

 なんか謎が多いなあ。

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