百合の姉妹(弟)
「それにしても、不思議な感覚だよな」
「何が?」
「俺ら、もうこっちに来てから一ヶ月は過ぎただろ?でもアーセルトレイじゃまだ一日も経ってない」
ネージュは霧の都に借りている宿の一室のベッドに座り、電波の通じないスマートフォンの画面を眺めながら言った。
そこに表示されている日付は二人がアーセルトレイから、正義と奏多と共に不思議な扉を通りカフェー・マスカレェドに招かれた日から変わっていない。
「そうだね。だけど単位を落とさずに済むから、ラッキーじゃないかな」
「まぁ、確かに……」
ネージュは、自身のそこまで誉められたものではない成績を思い返しながら頷く。
仮に一ヶ月も二ヶ月も大学を休み続ける日々が続いたとしたら、研究室が便宜を図ってくれたとしても留年は避けられないだろう。
机に向かって書き物をしていたエルは、筆記用具とノートを纏めると、ネージュの隣に腰掛ける。
「随分と遅い時間になってしまったな。明日は迎撃戦だし、そろそろ休んだ方がいいね」
「ん……そうか」
「どうかした?」
「いや、別に」
ネージュは脚をぶらぶらと揺らし、床の上に落ちた影が動くのを眺めながらぶっきらぼうに返した。
そんな彼を見て、エルは黙したまま数度瞬きをする。
「もしかして眠れそうにないのかい?よし、可愛いネージュの為だ。僕が添い寝して子守唄でも……」
「だーーッッ!そういうのじゃねーから!!部屋を別々で取って本当によかった!!」
長くすらりとした指でネージュの頬を撫でるエルと、慌てて飛び退くネージュ。
二人がシトラ女学院に通う頃から幾度となく繰り返したやり取りであった。
「あはは。思いの外元気そうで良かった」
「くそう、面白がりやがって……!」
ネージュは全力でエルのことを睨み付けてやるが、それは彼の容姿のせいか、子犬や子猫による精一杯の愛らしい威嚇の様である。
「もしかして、迎撃戦のことを心配してるのかい?」
「……ん。まぁ、な」
エルの問いかけに、ネージュはこくんと頷いて見せた。
「エルの戦い方もさ、結構自分の身を削るだろ。今までのステラバトルでは、倒れさえしなければ問題無かったけど……今回は話が違う」
「そうだね、君の言う通りだ。」
エルとネージュ、二人の
硝子を冠するステラナイトは、他者の為に自己を犠牲にする傾向にある。
実際にこれまで二人が参加したステラバトルでも、攻撃に特化した味方を支える為に、彼らが敵の囮となる事も多々あった。
しかしそれは、アーセルトレイを守護する女神の庇護下での話である。
この桜の帝都と霧の都の世界……二人の乙女の目の届かない場所では、ブリンガーの肉体をステラドレスが守り切れるとは限らないという。
「ネージュは僕が無茶をして、傷つくのが怖いのか」
「その通り。エルの性格からして、裁貴や朝夕を守る為なら危険も厭わないだろ。」
「うーん……半分は同意で、半分は否定かな。」
「否定?」
首を傾げるネージュに、エルは微笑み返す。
「僕は二人のことだけじゃなくネージュ、君のことも守るつもりだからね。」
「エル……」
「大怪我したり、それこそ倒れなんかしたら……今度は君を危険な目に遭わせてしまう」
エルの言葉に、嘘や誤魔化しはない。
それはネージュがこれまで見てきた彼女の振る舞いの中で、十分に知らされた事だ。
「……分かったよ、信じる。けど俺にだって、出来る事もあるんだからな。」
「うん、頼りにしているよ」
ネージュは黙って小指を立てた右手を差し出す。
その意味を理解したエルは、そっと自身の小指を絡めて軽く揺らした。
「ゆびきりげんまん、だ。嘘ついた時の罰則はその時の俺の気分で決める!」
「それは怖いな」
二人の空気が和らいだところで、ネージュはベッドから降り、部屋の出入り口の方へと歩く。
そして扉を開き、後ろを振り返った。
「それじゃ話もついたところだし、俺は自分の部屋に戻って……」
「そうだね、行こうか。」
「……行こうかってどこに?」
「どこにって……可愛い
「うっせーッ!さっさと寝ろ
ネージュはニコニコしながら背後に立っていたエルにそう言い放つと、思いっきり扉を閉めた。
バァン!というけたたましい音の後に、「ネージュは手厳しいなぁ」の言葉と共にくすくすという笑い声。
ネージュは肩を怒らせながら、のっしのっしと隣の自室へと戻るのであった。
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