片岡義男『あとがき』 

大胆な本だと思った。これまで片岡義男はたくさんの本を発表してきたが、その本に付してきた「あとがき」を改めて1冊の本としてまとめたのが本書である。安直な連想になるが、私は「あとがき」から本を読む癖があるのでこの着想だけで魅力を感じた。「あとがき」にはそのようにしてこちらの食指をそそる何かがある。すべてを書き終えられた後に書かれる「あとがき」は、ひと仕事終えた著者の感慨が語られたり制作裏話が書かれたりするので単なるコンテンツの一部に留まらない魅力があると思うのだ。この『あとがき』もしたがって興味深く読ませられ、そして考えさせられた。


エルヴィス・プレスリーについて、あるいはアメリカの文化について書かれた初期の硬派な(ジャーナリスティックな?)エッセイ集。そして一時期彼の筆が冴えた風俗小説(今でいうところのリアリスティック寄りのライトノベルに入るのだろうか)。そして近年の骨太の日本人論や日本語論……と、こんな私の強引な整理に収まらない仕事も片岡はこなしている。しかも、どのあとがきを読んでもそのクオリティはきちんと保たれており、筆に任せて書き散らしたり迷走したりしたという印象を感じさせないのだ。上述した路線の転換こそあったにせよ、ここまでブレていないとはと唸ってしまう。


それにしても、片岡義男はなぜここまで軽快なのだろう。彼自身書くことに愚直に向き合っており、書くことや読者を舐めた姿勢を微塵も感じさせない。しかし、彼は同時に日本の小説家が好きな自意識の病とは無縁に、プロの書き手として節度あるストイックな姿勢で書き続けているのだった。片岡にとって書くことと考えることはつながっているのだろう。別の言い方をすれば批評的に物事を考えて、そしてそれを書く段階にフィードバックさせていく。書いたものがまた彼に新たな思考の端緒を与え、また彼の考察を誘う。そんなサイクルができあがっているのだろう。


たまたま私はこの『あとがき』を、ポール・マッカートニーのソロ・アルバムを聴きながら読んだ。ポール・マッカートニーと片岡義男はその姿勢においてつながっている、と書くことはできないだろうか。彼らにとって作品を生み出すことは呼吸をするように自然で、その呼吸の過程として考えることや感じることも肉体化している。その自然体の考察と創作の過程が、こうして単なる「筆のすさび」に留まり得ない面白い「あとがき」集を産み出した。これらの「あとがき」をたどることはそのまま片岡の仕事を裏からたどることであると思う。

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