本を泳ぐ

踊る猫

『片岡義男エッセイ・コレクション 本を読む人』

本を読む、というのはどういう営みなのだろう。物心ついてから私もそれなりに本を読むようになって、あまつさえ読書メーターで読書のデータを積み重ねるようになったのだけれど私は自分の読書はそうした建設的な営為とは関係がないところで行われているように思ったりもする。その時その時、もっと刹那的に「今」自分が何に関心を持っているか、どんなことを考えているか見極めたくて本を読んでいるという、そんなところもないだろうかと考えたりする。確かにそう考えてみると、読書は孤独な営為であり同時に充実した行動ではないかと考えてみたりもする。


片岡義男が書き残した膨大なエッセイをまとめたコレクションを読み始めた。この第1巻『本を読む人』の中で、片岡義男は「本を読むとき、僕は対話をしている」と書き付ける。片岡義男もまた本を読む過程で自分の中で作者の意見を響かせ、あるいは自分自身の中の誰かの声を響かせ、どちらにしても自分自身の中の他者性と向き合っているということだ。片岡義男にとって読むことはそうした「自己内対話」、もう少し平たく言えば「自分自身の中の誰かとの対話」なのだろうと思う。その姿勢は私も素直に頷けるものであるし、自分自身にも当てはまると思う。


そして、もう少し言えば片岡義男自身が何かを執筆することもまた「自己内対話」「自分自身の中の誰かとの対話」ではないだろうか。このエッセイ・コレクションでは対話(インタビュー? ダイアローグ?)を模したスタイルの文章が登場する。これを単なる著者の自意識の病と片付ける愚は避けたい。むしろ片岡は自分の思考に忠実に、自分自身の中の他者を律儀に立ち上げそこから対話を始め、片岡らしい思考を練り上げていこうとする営みを記録しているのだと思う。いわばこれは「メイキング・オブ・片岡義男」的な本ではないかと思うのだ。


そして、それは片岡義男という書き手の批評性を如実に示したものであるとも思う。批評性の働き方の中には、自分自身の意見をどう他者にもクリアな形でわかるように伝えるか腐心する、というのもあると思う。片岡の文章は(一読すればおそらく誰でもわかると思うが)本当に曖昧さや淀みがない。どんな読者に対しても間口を広げ、丁寧に語ることを目指している文章だと思う。なあなあで通じる日本語圏の文章とは一線を画した真に国際的/インターナショナルな文章として、私は彼の書いたものを愛している。これからも読み続けるだろう。

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