わたしのお友達

七生 雨巳

わたしのお友達


 体重をかけて、お母さんの背中にもたれかかる。

 ふんわりと、いい匂いがする。目を閉じて、心ゆくまで、楽しんだ。

 ねぇ、お母さん。ねぇ――

 わたしを見てほしい。けれど、いつものように、お母さんは振り返らない。

不意に、お母さんが口を開いた。

「人形が欲しいの。お人形さん。特別の、お人形なの」

 お母さんの白い顔が、うっとりと微笑むのを、首を伸ばして覗き込んだ。くっきりと紅に染まったくちびるが、夢見るようにつむいだことばが、とても、悲しい。

「わかりました。では、材料を揃えないといけませんね」

 噛みしめるように低く掠れた男の声が、薄闇の中にゆらりゆらりと波紋を刻んだ。

 ちろりと、九十九(つくも)の視線が、わたしを捉えたような気がした。



 遊びにこない?

 マキちゃんたちに声をかけた。

 児童公園の片隅で、タクちゃんが爆竹に火をつけた瞬間だった。

 え? と、びっくりした顔をして、マキちゃんたちがわたしを振り返った。その後から、間抜けたタイミングで、パチパチと火花を散らして筒が爆ぜた。

 おもちゃ、たくさんあるよ。

 テレビゲームも?

 うん。ボードゲームもあるし。

 お人形もいっぱい。

 庭の花つんでも叱られないよ。

 おままごとも鬼ごっこもできる。

 家の中走り回ったって叱るひといないよ。

 行く!

 最初にそう叫んだのは、やっぱりサッちゃんだった。サッちゃんがそう言ったら、決まりだ。タクちゃんも、マキちゃんだって、つられて大きく頷いた。

 山道をみんなして歩くのって、楽しい。都会から、急な用でこっちに来ることになったマキちゃんたちは、ハァハァ言いながら、滴る汗を腕で拭ってる。むき出しの黒っぽい地面を、一歩一歩、踏みしめるようにして登ってゆく。

 セミが、うるさいくらいに鳴いている。鳴き声が、からだに刺さるような気さえする。

 あれが栗の木。とげとげのイガがもうできてる。今年は栗がたくさんなるんだ。

 冬にも来る? ヨモギがその辺たくさん生えるんだよ。緑のおもちたくさん作れるよ。

 いろんな話をしていると、お椀を伏せたみたいにぽっこりとした、二十メートルあるかないかの高さの山なんて、あっとゆうまに登ってしまう。

 栗の青臭い匂いが、吹いた風に散らされる。取って代わったのは、甘いかおりだ。

「ついたよ」

と振り向いた時には、みんな歓声をあげて走り出していた。

白、黄、青、紫、ピンク、オレンジ。色とりどりの大小さまざまな花の群が、目の前に広がっている。きっとみんな、花畑の向こうにあるわたしの家になんか気づいていないに違いない。

 すごい、すごいと、サッちゃんがタクちゃんがマキちゃんが、黒い服をひるがえしてはしゃぐ。

 真夏なのにどうしてこんなにたくさんの花が咲いてるんだろうと、マキちゃんが、不思議そうに首を傾げる。

 だよね。うちのお母さん、夏場はお花が少ないってよく愚痴ってるよ。サッちゃんが、そう返した。くるくるとカールしてるポニーテールを結んでいる、黒いリボンが揺れている。

 そんなのどうだっていいじゃん。花首を毟って放り投げながら、タクちゃんが笑う。

 いろんな色のはなびらが、くるくると、降りかかる。

 ちぎっても、いいよね。

 うん。

 とってもきれいだし。

 花畑を駆けまわり、疲れたころ、ふと気がつくと、風が吹きはじめていた。花々がざわめく。はなびらが舞い散る。

 もくもくと重そうな黒雲が頭の上に群がり、遠雷がかすかにとどろく。

 ポツリと落ちてきた大粒の雨に追い立てられるように、みんなでわたしの家に、雨宿りに駆け込んだ。玄関ホールの、思いっきり開けはなったドアが、風に押されて閉まってゆく。ドアが閉まる瞬間、耳元で力まかせに戸を閉て切るような雷鳴が降って落ちた。

 悲鳴をあげて、みんなが弾かれたように走り出す。

 鳥の羽のように左右に広がる階段に、一斉に取りついた。吹き抜けのホールの天井にある明り取りの窓から、稲光が差し込む。みんなの影が、青白い閃光に、壁に階段に縫いとめられる。そうして、再びの静寂に、影は、闇に飲み込まれた。

 みんなの後からついてゆく。長いようにも感じられた、ほんとは短い時間の間、壁に映ったり消えたりする影を見ていたからだろうか、くらくらと足元が揺れるような気がしていた。今にも吐きそうに、気分が悪くてならなかった。

 待ってよ―――口を開きかけて、どうせ………そんなことばが、どこかからぞろりと這い出してきた。

 誰も、わたしの声なんか、聞いてくれないんだ。頭いっぱいになってしまいそうで、あわてて、打ち消す。

 そんなことないもん。そんなことないと思えば思うだけ、どうしてか、気分の悪さが、増してゆく。吐きそうだ。

 二階まで、本当は、あっという間だった。階段を上りきって左右に広がる廊下の左奥から、明るい光がこぼれている。当然のように、みんな、そっちに向かった。

 奥へ奥へと、みんなが入ってゆく。

 タクちゃんがドアノブに手をかけて、捻った。

 吐き気が、一層、強くなった。

「こんにちはー」

 挨拶は、サッちゃん。

 軽く軋む音を立てながら、ドアが開く。隙間が広くなるにつれて、こぼれだす光の量も多くなる。

 立っていられなくて、私は、壁に手を突いた。

 みんなが入ってゆく。

「だいじょうぶ?」

 心配そうな声が聞こえた。振り返ると、マキちゃんが立っていた。

「う、ん……ありがと」

 背中をさすってくれるマキちゃんの掌が、とてもやさしい。

「みんな勝手に入っちゃったけど、いいの?」

 不安そうなマキちゃんに、わたしは、首を縦に振った。

「だいじょうぶだよ。お母さんとってもやさしいから、怒んないし」

「そっかぁ」

「マキちゃん?」

 夢見るようだったマキちゃんが、わたしの声に、我に返る。

「じゃあ、行こう」

 わたしはマキちゃんの手を引っ張った。気がついたら、吐き気はきれいに治まっていた。

 今日何度目の「すごい」だろう。部屋の中で、みんなが、顔を輝かせている。

 遊んでいた花畑が見渡せる窓は、壁一面を占めている。そのすぐ側には、ソファセット。広い部屋いっぱいに、たくさんのおもちゃや絵本があふれている。テレビ、テレビゲーム機にさまざまなソフトにビデオ。ゲームボードにたくさんの縫いぐるみ。積み木やブロック、おままごとのセットもある。そうして、なによりも圧巻なのが、窓とドア以外の壁に飾られているたくさんの人形たちだろう。そのほとんどが、一分の一スケールの、等身大の、こどものお人形だ。正確な名前は、球体関節人形というらしい。全部で、三十体。本当の人間みたいなお人形は、壁に作りつけられた棚から、ガラスのまなざしで、わたしたちを見下ろしていた。

「なんか、気味悪い」

「でかいのがこんだけあると、ぶきみだよな」

 サッちゃんとタクちゃんとが、こそりとつぶやいている。

「これみんな、トモちゃんの?」

 マキちゃんの顔が、赤く染まっている。

「……うん。お人形集めるのはお母さんの趣味なんだけど、みんなわたしにくれるの。みんな、わたしのお友だちなんだって。マキちゃん、お人形好き?」

「うん。触ってもいい?」

「いいよ。好きなの選んで。あそぼ」

 雷はいつの間にかやんでいて、代わりに大きな音をたてているのは、雨だった。テレビゲームの電源を入れて遊びはじめたサッちゃんとタクちゃんの歓声が、機械の音のあいまに聞こえる。

 わたしは、マキちゃんがどの子を選ぶのかを、じっと見ていた。

 マキちゃんは、人形を真剣に品定めしている。棚から、マキちゃんを見つめている、いろんな色のガラスの目。

「このお人形が、なんだか、一番好き」

 マキちゃんがそっと取り上げたのは、黒い瞳と黒いまっすぐな髪の人形だった。やわらかそうなぽちゃりとした肉づきの、女の子のお人形だ。

「その子、わたしも、好きだよ」

 マキちゃんが選んだのが、その子だったことが、わたしには嬉しかった。

「名前あるの?」

「うん」

「なんて名前?」

「あのね」

「うん」

「ト……」

 わたしが答えようとした時だった。

 カチャリと音をたてて、ドアが開く。

 みんなが一斉にドアのほうを見た。

「いらっしゃい」

 にっこりと微笑んでいるのは、お母さんだ。クリーム色の、わたしがとっても好きなアンサンブルを着て、ドアのところに立っている。

 テレビ画面で、派手な色彩が弾け、爆発音が響いた。

「ケーキとアイスココアでいいかしら」

「わっ」

と、みんなの緊張が解け、歓声が弾ける。

 陶器が触れ合う音とキャスターが床の上を滑る音をたてて、ケーキとアイスココアがのっているワゴンが、現われた。もちろん、ひとりでに入ってきたわけではない。押しているのは、紺の作務衣姿の男のひとだ。名前を九十九という。九十九を見ると、いつものことだけれど、頭がぐらぐらする。治まっていた吐き気がひどくなってぶり返す。彼の暗いまなざしがちらりとでも向けられただけで、くらりと、周囲が軋みたわむような心もとなさに、立っているのが辛くなる。

 お母さん――

 伸ばした手は、呼んだ声は、けれど、届かない。

 お母さんは、ソファに座って、にこにことタクちゃんとサッちゃんを、見ている。

 お母さんの向こう側、窓の外は、いつの間にか雨がやんでいた。雲が、すごいはやさで、流れてゆく。

「いらっしゃい」

 お母さんが手招いた。

 まだあっちに行っていなかったマキちゃんが、人形を抱いたままわたしの手を引いて、もうみんなが座っているソファのところへと連れて行ってくれた。

 九十九が、おやつを並べてゆく。

 お母さん手作りの、ふんわりと仕上がったシフォンケーキがみんなの視線を奪っていた。

「あれ?」

 いただきますと、フォークを持った時、マキちゃんが、首をかしげた。

「どうしたの?」

 にこやかに、お母さんが、訊ねる。

「おやつ、ひとつ足りないよ」

「あら」

 やわらかいまなざしが、テーブルの上をさまよい、次いで、みんなを、確かめるようにしてゆっくりと見つめた。

「ほんとね。でも、おばさんも九十九も、食べないから」

「おいしいのに」

「ありがとう。おばさんが作ったのよ」

 幸せそうに、お母さんが、笑う。ほろほろと甘く口の中でとけてしまう、シフォンケーキみたいに、お母さんが、笑う。

 ごちそうさまでした――の声と同時に、サッちゃんとタクちゃんが立ち上がって、まっすぐにテレビゲームに向かった。すぐに、ゲームのにぎやかな音が、あふれだす。

「あなたは、いいの?」

 お母さんがマキちゃんに向かった。もじもじとマキちゃんが、お母さんを見上げる。

「その子、気に入ってくれたの」

「うん……はい」

「おばさんの一等お気に入りなの。嬉しいな」

 お母さんに見つめられて、真っ赤になったマキちゃんがうつむいた。

 いらっしゃい――と、お母さんが、マキちゃんの手を引く。

 サッちゃんとタクちゃんは、シューティングゲームで遊んでいる。派手な爆発音と色彩が、テレビ画面で弾ける。悔しそうなタクちゃんの声。タクちゃんが、サッちゃんに負けたのだ。さすが、サッちゃん、テレビゲームでも、男の子に負けてない。

「ここにあるお人形はね、みんなおばさんが集めたの。ほら、さっきケーキを配ってくれたでしょう、九十九が作ってくれたのよ。あなたが抱いているその子、彼が作ってくれた一番古いものなの」

 そういったお母さんのまなざしが、しばらくの間、うつろになったように、見えた。

「この子たちは、みんな、おばさんのこどものなのよ。素敵でしょう」

 ぐるりと、棚を示して、お母さんが説明する。たくさんの人形たちが、お母さんとマキちゃんとを見ている。

「トモちゃんの?」

 マキちゃんがわたしの名前をくちにした一瞬、お母さんの顔が、白く引き攣れた。でも、それは、ほんの少しの間のこと。マキちゃんは気づかなかっただろう。

「そう。トモと、仲良くしてあげてね」

 マキちゃんの目をのぞきこむようにして、お母さんが、そう言った。途端、まるでマキちゃん自身が人形にでもなったかのように、その場所に、くたりと倒れた。

「マキちゃん」

 慌てて駆け寄ろうとして、気がついた。

 部屋がやけに静かだ。見れば、テレビゲームもいつか終わっている。テレビの前では、サッちゃんとタクちゃんが、もたれあうようにして、寝息をたてていた。


 クスクスと、お母さんが、とっても楽しそうに笑っている。


 わたしは動くことも忘れて、ただ、お母さんを見上げていた。

 お母さんの向こう側、窓の外が、少しずつ暗くなってゆく。やんでいた雨が、また降りはじめるのだ。




 地下室から、ゴリゴリという音が聞こえる。

 わたしは、九十九のたてているこの音がだいっ嫌いだ。

 耳を塞いでいても響く音は、いつまでもつづいている。



 出して――と、泣き叫ぶ声が、すすり泣きに変わる。マキちゃんたちは、泣きつかれて眠ってしまった。九十九が運んで閉じ込めた、やはり地下の部屋の中だ。おもちゃもベッドもある地下室には、けれど、窓だけがない。部屋の片隅で、みんなはひとかたまりになって眠っている。寝顔は、苦しそうで悲しそうで、可哀想だ。

 ごめんね。

 お母さんはとっても楽しそうで、わたしはなにもできない。

 お母さんはやさしい。やさしいから、とても、悲しいのだ。

 軽い音をたてて、ドアが開く。部屋の外のかすかな光が部屋に差し込み、マキちゃんたちをぼんやりと浮かび上がらせる。

 かすかに鍵を弄る音がして、お母さんが入ってきた。みんなの寝顔を見比べて、そっとサッちゃんを抱き上げた。

 静かに、ドアが閉められる。錠のおりる音だけが、やけに耳に大きかった。


 たくさんの人形に囲まれて、お母さんが微笑む。ソファにゆったりと腰掛けて、横たわっているサッちゃんの頭を膝に乗せている。青い寝顔の中、真っ赤に泣きはらした目元が、とても痛々しい。

 お母さんが、サッちゃんの髪を梳く。

 サッちゃんのくるくるとカールした髪の毛が、お母さんの指にからむ。

 目覚めたサッちゃんが、不思議そうに、お母さんを見上げた。ぼんやりとしていたまなざしが、

「おばさんのこどものお友だちになってくれる?」

 お母さんのひとことに、サッちゃんの瞳孔が小さくちぢんだ。すべてを思い出したのかもしれない。

 慌てて起き上がって、きょろきょろと周囲を、確認する。お人形とおもちゃでいっぱいの、こども部屋だ。

 サッちゃんが、青ざめて、手を握っていたお母さんの手を払いのけた。サッちゃんが、首を左右に振る。ポニーテールが、揺れる。

 お願い。お願いだから、あのことばは言わないで。―――どんなに願っても、わたしの祈りは、叶わない。いつもいつも。その証拠が、三十体のお人形たち。

「なってくれるでしょ?」

 お母さんの、やわらかなことばは、サッちゃんには聞こえていないに違いない。

 サッちゃんが、手を口元にやって、口を開きかけた。

 言わないで。

 青く強張りついた表情が、色を無くしたくちびるが、願うわたしの目の前で、そのひとことを口にした。


 ――――おばちゃん、家に帰して。


 お母さんの笑顔が、強張りついた。


 帰して。

 帰してよ。

 家に、帰りたい。

 地下室のドアを、たくさんの小さな拳が叩いている。怒鳴り、泣き、しゃくりあげる、たくさんの、こどもたちの声。


 窓の外、雷鳴がとどろいた。


 ゴリッゴリッゴリッ………

 九十九が、サッちゃんを砕いてゆく。男の子にも負けなかったサッちゃんの、硬くて軽い骨が、少しずつ少しずつ、細かな白い粉へとすりつぶされてゆく。

 九十九の地下のアトリエで、サッちゃんが、粘土に混ぜられてゆく。

 お母さんが入ってきて、九十九の手元を覗き込んだ。サッちゃんの粘土は、まだ、ただの塊でしかなくて、お母さんは、残念そうな顔をした。九十九がお人形をひとつ作り上げるのに、一月から、二月がかかる。丁寧に作れば、半年から一年かけるときもあるのに、九十九は、早く出来上がってほしいお母さんのお願いを優先する。

「いいお人形さんになりそう?」

 九十九の暗いまなざしが、お母さんを見返した。そうして、口角をもたげただけの、ふてぶてしい笑みを形作った。

「もちろん。今回も、いいお友だちになりますよ」

 そう言いながら、九十九の視線が、わたしを探すように、さまよった。

「よかった」

 ほうと、お母さんが、溜息をついた。

「これで、トモも、わたしを許してくれるかしら」

 ぽつりつぶやいたお母さんのことばに、わたしは、お母さんを背後から抱きしめた。

 許しているのに。最初から、ちっとも怒ってなんかいないんだよ。

 ねぇ、お母さん。だから、わたしを見て。わたしは、ここにいるよ。ねぇお願い。わたしに気づいてよ。

 けれど、いつものように、お母さんは、わたしには、気づいてくれなかった。

 ただ、九十九が、黙ったままで、わたしを見ているような気がした。



 ―――あれは、わたしが六つの年。突然、お父さんが出て行った。

 もう顔も思い出せないお父さんが、最後にわたしにくれたのは、一体のお人形だった。手首や足首、腰だって自在に動かすことができる、黒い髪黒い瞳の、大きなお人形は、お父さんが作った最後の作品だった。

 お父さんは、かなり有名な人形作りの名人だった。わたしにくれたお人形を、球体関節人形というんだと教えてくれたのも、やっぱりお父さんだった。

 お母さんは、わたしがそのお人形と遊ぶのを、嫌った。けれど、わたしは、それがどうしてなのか、少しも判っていなかったのだ。

 わたしは、ただ、お父さんのくれたお人形が大好きだった。

 大好きだったお父さん。

 大好きなお父さんのお人形。

 お父さんの作ったたくさんのお人形は、家を出てゆくときに、お父さんがみんな処分してしまった。だから、わたしは、わたしに残された、たったひとつになってしまったお人形を、なによりも、大切にした。大切にしないといけないと思った。お人形を大切にするということは、お人形と遊んでやることだよと、お父さんから教わっていた。だから、時間を忘れて、お人形と遊んだ。お母さんがわたしを呼ぶ声が聞こえないくらい、夢中になって空想の世界で遊んでいた。

 わたしには、わかっていなかった。

 お母さんもまた、わたし以上に、寂しくて、悲しくてならなかったのだということが。

 だから、お母さん。

 わたしは、お母さんのこと、少しも怒っていないんだよ。

 ほんの少しだけ。それでいいから。お母さん、わたしを見て。そうしたら、きっと、お母さんには、わかるから。わたしが、ちっとも、怒ってなんていないんだって。



 小さな裸電球がともっただけの地下室で、タクちゃんは、泣きつかれて眠ってしまった。マキちゃんは、ぼんやりと、天井を見上げている。

「どうなるの? ねえ、トモちゃん」

 掠れた声でつぶやかれて、わたしは、びっくりした。マキちゃんはわたしがいることに気づいていたのだ。わたしは、マキちゃんに近づいた。

 マキちゃんの腕の中で、抱きしめられたままのわたしのお人形が、音をたてた。マキちゃんの、黒いガラス玉みたいな瞳が、わたしを見ていた。

 ごめんね―――

 みんな、わたしのせいなんだ。助けてあげたいけど――できなくて、ごめん。

 あの時、公園で、マキちゃんに気づいてもらったわたしは、みんなと遊べて嬉しかった。

 気づいてくれたから、マキちゃんたちとは、手を繋ぐことも、遊ぶことも、できたのだ。

 けど、やっぱり、気づかれなければよかった。声をかけなければよかったんだ。

 山を降りなければよかった。

 でも、誰にでもいいから、気づいてほしかった。わたしはここにいるんだって、気づいて、そうして、笑いかけてほしかった。

 それが、こうなることを、わたしは、忘れていた。楽しくて楽しくて、いつまでも、みんなと遊んでいたかったから。

「トモちゃん、泣いてる?」

 マキちゃんの手が、わたしの頬に触れた。

 マキちゃんの手の中で、わたしのお人形が、からからと音をたてた。

 わたしのお人形。

 あれが毀れたのは、いつだった?

 やさしいお母さんの、突き刺すような悲鳴が、お人形の砕ける音にかぶさるように聞こえたのは、いつだったろう。

 お人形が、床に、投げ捨てられたのを見ていたのは。床にぶつかって、そうして、毀れたのは――あれは、あれは、わたしだった。

 わたしは、お母さんを傷つけた。そうして、お母さんに、殺されたのだ。

 狂ったように泣き叫ぶお母さんを、途方にくれて、それでも宥めたのは、お父さんの弟子だった九十九だ。九十九が、死んだわたしの髪を切り、からだを焼いて、骨を砕いた。そうして、わたしの骨と、髪の毛で、一度毀れてしまったお人形を、つくろったのだ。――ただ、お母さんを悲しませないためだけに。

 わたしの骨と髪の毛で、お父さんの最後のお人形は、よみがえった。あまった骨と髪の毛を、胴体の中に抱いたままで、わたしを、ガラス玉の目で見上げている。

 ガラス玉の表面に映っている裸電球の光が、九十九の暗いまなざしを思い出させた。



 わたしのお人形を抱きしめて、そうして日々を過ごしていたお母さんは、ある日、お人形を作って―――と、九十九に言った。

 トモのお友だちを作ってほしいと。

 九十九は、普通のお人形を作って、お母さんに渡した。けれど、それは、お母さんの望みのお人形ではなかった。

 トモのお友だちは、特別でないと。

 にっこり微笑んだお母さんは、普通じゃなかった。

 できないと、九十九が苦しそうに言うと、お母さんは、鬼になった。

 トモが寂しいって泣いてると、わたしを許してくれないと、泣いて泣いて、鬼になった。

 鬼は、わたしを探して、山を降りた。わたしと間違えて連れ帰っては、帰ると泣く子を殺しつづけた。

 三十体のお人形の最初のいくつかは、そうやってお母さんが攫って殺してしまったこどもたち。お母さんの罪がばれてはいけないと、九十九が、お人形にした。

 九十九の瞳が、空を泳ぐ。わたしのことは見えてはいないだろうけれど、気配を感じているのかもしれない。いつも、わたしのいる場所に、間違うことなく視線を向けるのだ。

 九十九のまなざしは、お母さんのお願い。許してと、ごめんなさいと、わたしにお友だちをくれようとする、お母さんの、心。

 最高のお友だちが、そのために特別の材料が、ほしいのだと。

 そんなお母さんを悲しませたくなくて、わたしは、山を降りるのだ。



 焼きあがった、サッちゃんの頭を、九十九が丁寧に磨いている。

 手や足、胴体も、作業台の上に、並べられていた。

 お母さんは、すっかりサッちゃんに夢中だ。これを着せましょうと、お母さんがピンクのドレスを、縫っている。

 九十九は黙々と、サッちゃんの頭を磨いている。

 タクちゃんとマキちゃんは、叫ぶのも泣くのもやめて、ただ、ぼんやりと、地下室にうずくまっている。

 わたしがそっと地下室に入ると、マキちゃんだけが気づいて、悲しそうな、疲れた笑みを向けてくる。

 どうして怒らないんだろう。

 不思議だった。

 怒ってもいいのに。

 怒って当然なのに。

 一緒に遊んだお友だちは、地下室に入れられると、みんな、わたしやお母さん、それに九十九のことを、声を荒げて罵った。お人形にされるまで、そうやって、泣き叫んでいた。

 部屋のドアが開いた。

 ビクリ――と、タクちゃんとマキちゃんが、震えた。

 裸電球に照らされたお母さんは、赤く染まっている。

「トモの新しいお友だちが完成したのよ」

 そう言って、お母さんは、ピンクのドレスを着た、くるくる巻き毛のお人形を、ふたりに見せた。

 怯えた二対の瞳が、大きく見開かれて、お母さんが胸の前で抱えているお人形を凝視している。

 ふたりの下瞼から、こらえ切れなかった涙が、溢れ出した。

 首をイヤイヤと振る。

 そんなふたりに、

「次は、誰が、トモのお友だちになってくれるの?」

 お母さんが、にっこりと、笑った。

 オレンジ色の電球に染まって、お母さんの笑顔は、まるで、鬼のようだ。それが、とっても、悲しくて、わたしは、その場に、うずくまった。

「トモちゃん」

 マキちゃんがわたしの名前をつぶやいた。背中を撫でてくれるマキちゃんのやさしい手に、わたしは顔を上げた。

 お母さんが、ぼうぜんと、ただ、マキちゃんを見ているのを、わたしは、視線の片隅に捉えていた。

「トモちゃんは、お人形いらないって言ってるのに。お母さんがいればそれでいいんだって」

 小さな声だった。けれど、マキちゃんが、お母さんに向かってゆっくりと言った言葉は、お母さんの耳に届いていた。

 お母さんの目が、大きく、これ以上ないくらい大きく見開かれ、そうして、部屋中をさまよう。

「トモ……どこ。いるの?」

 お母さんの、しわがれた声。

「ここ。ここに、トモちゃん、いるよ」

 マキちゃんの指し示す先、わたしがいる場所に、お母さんのまなざしが、注がれる。目を眇めて、お母さんが、わたしを凝視する。

 お母さん。やっと、気づいてくれたんだ。

 わたしが死んでから、お母さんがわたしを見てくれたのは、はじめてだった。

 立ち上がったわたしが、お母さんに近づこうとした時、かしゃんと音をたてて、サッちゃんが、お母さんの手から落ちた。

 お母さん?

 わたしをしっかりと見て、こっちに来ようとしたお母さんは、なのに、どうしてだろう、ふらふらと、わたしに背中を向けた。青ざめたお母さんが、よろめきながら部屋を出てゆく。

どこに行くの?

待って。

 追いかけようとして、気がついた。ドアの鍵がかかっていない。

 マキちゃん、タクちゃん、逃げて。

 マキちゃんが、タクちゃんの手を掴み、立ち上がった。

「いいの?」

 マキちゃんに訊ねられて、わたしは、大きく首を縦に振った。

 ごめんね。恐い思いをさせて、本当にごめんなさい。

 ありがと。お母さんに、わたしのこと気づかせてくれて、ありがとう。

 わたしは、マキちゃんを抱きしめた。そうして、お母さんを、追ったのだ。



 薄暗い部屋の中で、お母さんは、たくさんの人形に囲まれていた。ぺったりと床に座り込んで、ぼんやりと、天井を見上げている。

 わたしのために、お母さんが集めてくれた、お人形たちが、ガラスの目を恐ろしいくらいに光らせて、お母さんに手を伸ばす。

 帰して。

 家に帰して。

 お母さんの髪に、顔に、手に、足に、服に、曲がらない指を曲げて、開かない口を開いて、襲いかかる。

 お母さんは、動かない。

 やめて。

 ごめんなさい。

 お母さんを、許して。

 お母さんを抱きしめたわたしのからだを通り抜けて、人形が、お母さんに、たかり、噛みつき、引き裂く。

 きゃあ――突然、お母さんの口から、大きな悲鳴がほとばしった。

 甲高い悲鳴が、いつまでも緒を引く。

 ドンッ! 

 大きな音をたてて、九十九が駆け込んできた。途端、人形たちが、そろって、九十九を見た。感情を映すことのないガラスの瞳が、九十九をぎらぎらと、睨みつけた。

 部屋の惨状に、ドアのところで、九十九が凍りつく。

 軽い音が次々と響いて、人形たちが、蹲っているお母さんから、離れた。

 そうして、蒼白を通り越している九十九に向かったのだ。

 骨の混ざった陶器の触れ合う音が、九十九の悲鳴に混じって聞こえる。

 振り払われた人形の、壊れる音が、聞こえる。


 お母さんは、息も絶え絶えに、苦しそうだ。それでも、お母さんは、今度は、本当に、わたしを見ている。わたしがお母さんを抱きしめていることに気づいている。

 トモ―――と、お母さんがわたしの名前を呼ぶ。

 トモ、ごめんね。お母さんを許してね。

 お母さん。

 涙がこみあげてくる。

 どんなに、お母さんに、気づいてほしかっただろう。

 どんなに、名前を呼んでほしかっただろう。

 ちっとも、怒ってなんかないよ。

 そう言うと、お母さんは、本当に嬉しそうな笑顔を見せて、最後に大きく息を吸った。




 二十メートルほどの高さの山頂付近に、古めかしい、木造の洋館がある。昔の地主の持ち物だ。今では、六十くらいの女性と、どんな関係なのやら、彼女より少し若そうな男とが、ふたりきりで暮らしている。どうやら、男が人形を作って、それで暮らしているらしい。山の上ということもあり、近所づきあいは、なかった。

 そこから火の手があがっていることに気づいたのは、山裾の田を見回っていた老人だった。

 サイレンの音を響かせて、消防車が、細い山道をかろうじて登ってゆく。

 激しく燃えさかる家に水をかけようとホースを引きずり出していた隊員たちは、そこではじめて、ぼんやりと佇んでいる二つの影を見つけたのだ。



 彼らが一月ほど前、葬式の邪魔になるからと家を出されて以来、行方不明になっていた、三人の子供のうちのふたりだと知るのは、いま少し後のこと。

 焼け跡から出てくるであろう焼死体も、発見された子供たちの口からやがて語られるだろう出来事も、今はまだ、当の子供たちをのぞいては、知るものは、いなかった。

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