第10話

   *


 昼過ぎに都心についた。

「黄昏時まで時間をつぶさないといけないから、このあたりをぶらぶらしてようか。おもしろそうだし」と彼女は言った。

「いいですけど、結局僕たちはどこに向かっているんですか?」

「あとは帰るだけだよ。君の墓があるところにね」

 僕たちはレストランで昼食を食べたあと――彼女はやはり食べなかったが――、雑貨屋や服屋や本屋を回った。少なくとも彼女と手を繋いでいなければ、周りには僕の姿が見えているらしいことがわかった。

本屋に行ったとき、彼女は立ち読みをしている人の隣に立って本の中身を盗み見ていた。

「私がいつもこうやって、傍から人のことを見てるの。面白いよ」、彼女は言った。

もしかしたら、トワイライト・ゾーンを知っていたのも、こうやって子どもたちのプレイ画面を覗き込んでいたからかもしれない。

 夕暮れが近づいてくると、僕たちは電車で寺の最寄り駅まで行った。

 駅から寺までの道のりは遠くもなく難しくもなかったのだが、あえて別の道を通っていった。最短の道のりとは反対方向に歩いてゆき、ひどく大回りなルートを辿って寺の裏にある森についた。太陽が暮れかかっていた。

 彼女は迷うことなく森の中に入り、木々のすき間を縫うように進んだところで立ち止まった。目の前には、腰の高さくらいある茂みが、雑然としてはいるが生垣のように広がっていた。その先に斜面があり、墓場につづいていることがわかった。昨日、蝶が飛んできた場所に僕たちはいるらしい。

彼女は僕の手を引いて、木の根元に座らせた。

「今、此岸と彼岸が限りなく近づいている」

 僕は彼女を見た。

「でも、ここが限界」

 彼女はそれ以上話さなかった。そして僕にも話させなかった。黙っている以外にやることはないということを、彼女は暗に伝えていた。

 どれくらい時間が経ったのかはわからない。森の中はすでに夜と言っていいくらいには暗かった。彼女の着ているパーカーだけがほのか明るかった。

「来る」、突然彼女が言った。

 僕は墓の方を見た。僕の目線からでは、生垣の向こうには墓石の頭部分がいくつか見えるだけであった。遠い東の空がその背景として青黒く染まっていた。

そこにうすい霧がかかったかと思うと、その霧が凝集し、ほの明るい二つの光になった。

僕は思わず立ち上がりかけた。しかしその寸前で彼女に止められた。彼女は唇に指を置いていた。

――今年は二回も来たね。

声が聞こえた。並んでいる二つの光の右側からだった。

――でも年々元気がなくなってる気がしない?

――そうかな。男の子はあれくらいになると塞がるものだよ。

――でも昔は本当に元気だった。元気すぎて私たちを置いて一人でどっかに行っちゃうんじゃんないかって思ってた。

――元気というか、生命力がすごい。ジャングルジムから落ちて骨を折ったことがあっただろ。あれが2週間でつながったのはやっぱり異常だよ。

 ――あなただって1カ月で骨折を直したでしょ。

 ――あれは普通だよ。

 ――三か月かかるってお医者さんは言ってたけど。

 二つの声は、細かいことで言い合いをするのが常であるかのように、淀みなく言葉を投げかけ合っていた。

「どう?」、彼女がささやいた。

「どうって?」

「君の両親だよね?」

「そんな気もする……」

 しかしそう言いながらも、喉の奥に熱いものがこみあげてくるのが、僕にはわかった。沈みゆく太陽が最後の輝きを西の空一面に広げていた。

 ――本当にあなた、バカなんだから。

 ――俺はバカかもしれないが、それはお前だって同じだろ。

 ――どこが? バカだと言われる覚えなんか一つくらいしか見当たらない。

 ――俺と結婚したことか? あれはひどい出来事だったよ。

 ――ああ、それも含めたら二つね。あ、いま思い出したけど、旅先で海ぶどうを食い荒らしたことがあったけど、あのときも恥ずかしくて、バカだなって思ったわよ、わたし自身が。

 ――あれは俺だけじゃないはずだ! 三人ともそうだった。

 ――そうだったっけ?

 ――お前がバカだっていう話ならいくらでもあるぞ。お前の料理に俺が味付けして……。

 ――その話はもう十分!

「これ、喧嘩してるのかな?」と彼女は言う。

「ええ、たぶん」

「死んでもバカかバカでないかにこだわるって、どうなの?」

「性格は死んでも変わらないってことですね」

 面白いものを見る目で彼女は光を見ていた。僕にとっても、面白くないはずがなかった。それでいて懐かしくもあるそのやりとりは、確かに僕が隣で見てきたものに違いなかった。僕は笑い出しそうになっていた。過去の自分も同じような状況で笑っていたことを思い出した。

 笑い声を上げそうになった僕の口元を、とっさに彼女はおさえた。しかしそのときすでに僕の感情は自分でもわからなくなっていた。歓喜と悲哀、その二つがどろどろに混ざりあっていた。

僕は泣いてもいたのだ。彼女の手は僕の涙かよだれかもわからない何かに濡れていた。

 ――本当にバカだって言うんなら、あのとき、あのタイミングは本当にバカだったよ。

 ――そう。あれは本当にどうしようもなかった。

 ――なんでだ? なんであんなことをしたんだっけ?

 ――千葉から帰っている途中だったから。何かをしなきゃって気分だったから……。

 ――なんで千葉になんか行ったんだっけ?

 僕は彼女の手を振り払って立ち上がった。なぜ千葉に行ったのか、そして火の中に飛びこんで行ったのか、それは僕が一番ききたかったことだからだ。

 しかし、光の方へ進もうとする僕の腕を、彼女がつかんで放さなかった。

「それ以上行ったら、今度は戻れなくなるよ」、彼女は言う。しかし、それでも良いような気がした。

――なんで千葉に行ったのかも忘れちゃったの?

――ああ、なんでだっけ……?

――それはね……。

僕がもう一歩前に踏み出した瞬間、光が霧散して、空気の中に溶けて消えた。声がぴたりと止んで、あたりからは虫の音が響いてくるだけだった。

空は濃紺に染まっていた。太陽が沈んだのだった。

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