第3話

   *


 お盆とは八月一三日から八月一六日までの四日間のことを言うが、この年、僕はこの四日間のうち三回も墓参りをすることになった。

 一三日の朝、目が覚めて最初に思い浮かんだことが、墓に行くことだった。それだけ墓参りが自分の生活の根底に食い込んでいるということでもあるが、一三日は先祖の魂があの世からこの世に帰ってくる日とされており、それを迎えるためにもその日のうちに墓参りを済ましておいた方がいいと言われており、それが第一の理由だった。とはいえ多くの日本人がそうであるように、僕もまた神だとか仏だとか、あるいは霊だとか魂だとかいったものは信じていない。それはつまり、慣例として、儀礼として、そう済ませておいた方がこちらの心がすっきりするからという考えでしかなかった。

 快晴の空のもと、失ったもののことを祈るのは悪い気はしなかった。

まず本堂を参った後、墓の掃除を始める。目立つゴミは簡単によけ、墓石に水をかけながら雑巾で表面をきれいに拭く。家名が掘られた溝の奥に汚れが溜まっているが、無理してすべてを取ろうとはしない。見かけ上の清潔は、都市生活に慣れた人間が作りだした幻想だからだ(とか考えたりするが、結局はめんどくさいというのが一番の理由だ)。掃除が終わったら、きれいな水で墓石に打ち水をし、花を立て、お供え物を置く。そして最後に線香を挙げ、合掌する。そのルーティーンのあいだに、心は自然と静まり返っている。

作法については、とりあえずはこれでいいということにしていた。自分でいろいろと調べて、厳密になろうとすればいくらでもなれそうな気がしたが、そういうのは無意味だと思うことにした。

やはりお盆というだけあって、家族がたくさん墓参りに来ており、墓地は線香の匂いに満たされていた。コンクリートの道は、至るところ水に濡れていた。

近くで、大人に抱えあげられた小さな子どもが墓に水をかけていた。それを見ていたほかの子も、「やりたい、やりたい」と言って柄杓を取ろうとしている。その家族は、ひときわ子どもが元気で、また数も多かったので騒がしくはあったのだが、この場に明るい雰囲気を与えていたのも事実だった。

その子どもたちのうちの一人が、並んでいる墓のあいだをすり抜けて裏手に回ってしまった。そこはちょうど斜面になっており、斜面の上は木々と下草が生茂って森のようになっている。その森の向こう側は、こちらからだとまったく窺えない。子どもは斜面を登って行こうとしていたが、茂みの中に入ってしまう前に、親が気づいた。

両親が子どもを呼び止めると、子どもは素直に斜面を降りてきた。しかしそのときに、墓の裏面に挿してあった卒塔婆を見て、「何これー」とか言って抜き取ってしまった。

「それは触っちゃダメだよ」と父親らしき人が大きな声を出した。「それを戻しなさい」

 大人がわざわざ墓と墓とのあいだを抜けてそちらに行くわけにもいかないので、父親はただ指示することしかできなかった。

「これ、なんて書いてあるの?」、卒塔婆を指して子どもは言った。

「さあ、知らないよ。とにかく戻すんだ」

「たくさんあるから一本くらいいいんじゃない?」

「よくないよ。それは一本一本に意味があるからね」

「ふうん」と言うと、子どもは慣れない手つきで卒塔婆を元の通りに戻した。

その墓には卒塔婆が十本近く挿してあった。それに比べて、こちらの墓には三本しかない。三本のうち二本は父さんと母さんの納骨のときに挿したものだ。残りの一本はいつからあるのかわからなかった。気づいたときにはそこにあったのだ。

 墓の裏にいた子どもが戻ってきて、父親に抱えあげられたまま、墓に向かって手を合わせているのが見えた。祈りには、祖先を想うことによって家族の結束を強めるという側面もあるのだろう。

 やることもなくなったので、帰ることにして桶を持ち上げた。しかし、そのときふと、墓の連なりの向こうに人影を見つけた。多くの家族が集まっているその場所でその人にだけ注意が向いたのは、彼女もまた僕と同じように一人きりだったからだ。それは僕よりも少し年上に見える女性で、ダボついた白いパーカーに細身の黒いパンツを履いて、赤字で7と書いてあるキャップを被っていた。靴は大きいスニーカーだった。夏には暑そうな格好だが、汗をかいている様子はない。彼女はこちらに歩いて来ていた。

 僕は墓場を出て行く方へとすでに歩きはじめていたが、彼女はその僕の脇をすり抜けるように通り過ぎていった。そのとき彼女はさっと道の脇に寄ったのだが、そのとき長い黒髪が一切揺れなかった。それが不思議だった。

 少し歩いたあとに振り向くと、彼女は僕の墓の近くで止まったように見えた。しかしまじまじと人を見るのも気恥ずかしかったので、すぐに前を向いて歩いていった。

墓場を出たとき、僕は自分が生者であるということを強く意識していた。生きているということを強く意識していたのだ。それはつまり、死者とのあいだにある決して乗り越えられない隔たりを意識するということでもある。生きているものと生きているものは、互いに関わり合うことができる。それは当たり前だ。しかし生きているものと死んでいるものは話すこともできないし、触れ合うこともできない。祈りとは、あるいは墓参りとは、そういう死者に対する、生者の側からの一方向的なメッセージである。本当に届くかもわからないのに特定の誰かに向けて流しつづけるボトルメールのようなものなのだ。

そのボトルメールに対する僕の信用は、もうほとんど無いようなものだった。僕は、そんなことは、無意味だと思っていて、とうにやめたいと持っていたのだ。そのことに、気がついた。

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