シーン16 愛し合うふたり

呆然と絵描きの絵を見つめる夫。そこへフランスパンを抱えた妻が戻ってくる。


妻   

遅くなってごめんなさい。


夫   

ああ…。おかえり…。


妻   

お手洗い、ずいぶんわかりにくい場所にあるのね。行きも帰りも迷っちゃったわ。


夫   

すぐそこに地図があったろう…?


妻   

ああ、あったわね。


夫   

見なかったのかい…?


妻   

見たけどわからなかったのよ。それより、ねえ、見て。


(フランスパンを見て)どうしたんだい…?


お手洗いのついでにあのパン屋さんをちょっと覗いてきたのよ。わたしも見たくなっちゃって。だってあんなに美味しいパンだったんだもの。ついフランスパン買っちゃったわ。焼きたてだったのよ。ほら、まだ温かいの。いい匂いでしょう?


ああ…。いい匂いだね…。


ふふ。あなたたちもずいぶん話し込んでいたのね。仲良くなったの?


まあね…。


よかったわねえ。どんなお話したの?


夫  

きみは…。この匂いが好きなのかい…?


これ?もちろんよ。パンの匂いが嫌いな人なんてそうそう居ないでしょう?


それじゃなくてさ…。その、油の匂い…。


妻   

ああ、そっちね。好きよ。さっきもそう言ったじゃない。わたし、その油を買うことにしたの。


夫   

油絵を始めるのかい…?


妻   

いいえ。嗅ぐために。ふふ。安心して。もちろん身に付けたりなんかしないわよ。


夫   

匂いを嗅ぐためだけに…。これを買うつもりなのかい…?


妻   

そうよ。だめ?(絵描きに)これ、そんなに高いものじゃないでしょう?


絵描き 

ええ…。


妻   

ほらあ。いいでしょう?


夫   

そんなに匂いにこだわる人だったんだね…。きみも…。


妻   

別にそんなことないわよ。ただこれが好きなだけ。


夫   

なら、今の仕事なんか辞めてまた本屋で働けばいいじゃないか…。


妻   

だってあれは…。お給料も安いし帰りも遅くなるからやめたらって、あなたが言ったんじゃない。


夫   

きみが本屋を辞めたのはそれが理由だったのかい…?


妻   

そうよ。


そうか…。僕のせいだったんだね…。


あなたのせいだなんて言わないわよ。あなたがそう言うならそうかもしれないわってわたしも思ったからよ。


夫   

僕は、僕たちふたりで生きていくために…。ふたりの時間を大切にできたらいいと思っていたんだよ…。


わかってるわ。だからわたしも辞めたのよ。それに不満もないわ。ねえ、どうしたの。急にそんな昔のこと…。


夫   

僕はきみを愛しているんだよ…。


妻   

なによそれ。わかってるわ。わたしもよ。


夫  

(絵描きに)これでもね…。僕らは幼馴染なんですよ…。


絵描き 

ええ…。わかりますよ…。


夫   

バベルの塔ね…。


妻   

なあに、それ。


夫はぼんやりとベンチに戻る。絵描きと目を合わせてから不思議そうに夫の後を追う妻。

ふたりの背中を見届けて、ゆらりと空を見上げる絵描き。


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