シーン9 引き寄せる香り
トイレから戻ってくる絵描きに気付く妻。
妻
あら…。ちょっと待っててね。
ベンチから立つ妻。
夫
(驚いて)何をするんだい。
妻
ちょっとお話するだけよ。
椅子に座る絵描き。
そのとなりにやってくる妻。
妻
きれいな絵ですねえ。
目を丸くして驚く絵描き。
絵描き
えっ…。そう…、ですか…?
妻
ええ。とっても。あなたの目にはここがこんな風に見えているのね…。
絵描き
(嬉しそうに)ありがとうございます…。
ふたりが話す様子をウンザリした表情で見ていた夫は黙ってトイレに行ってしまう。
妻と絵描きはそれに気付かない。
妻
いつもこの辺りでお描きなんですか?
絵描き
はい…。あの、お好きなんですか…?絵…。
妻
見るのは好きですよ。難しいことはわからないし描けませんけどね。ああ…。やっぱりいい香りがするわ。この絵。
絵描き
この匂い…。本当にお好きなんですね…。
妻
ええ。すごく。御守りにしたいくらいよ。
絵描き
ふふ…。そんなに嗅いだら頭が痛くなってしまいますよ…。気持ちはわかりますけどね…。
妻
油絵の具ってこんな香りだったのねえ。
絵描き
絵の具自体の匂いではないんですよ…。これ…。この、油の匂いなんです…。
絵の具を溶く油の入った小瓶を見せる絵描き。
妻
(興味深そうに)へえ…。これの…?
絵描き
すこし…。嗅いでみますか…?
妻
(目を輝かせて)いいの?
絵描き
ちょっとだけですよ…。あんまりたくさん吸い込まないでくださいね…。
絵描きは手に持った小瓶の蓋を開けて妻に嗅がせる。妻は自分の鼻に向けて手で空気を軽く仰ぎ、匂いを嗅ぐ。
妻
(心底幸せそうに)ハァ…。これだわ…。本当にいい香り…。
絵描き
ふふ…。わかりますよ…。僕もこの匂いが好きなんです…。
妻
あなたも?
絵描き
ええ…。この匂いが好きで油絵を描いているといってもいいくらいに…。
妻
わかるわあ。わたしは昔ね、匂いが好きだからって本屋さんで働いていたの。
絵描き
はは…。それもよっぽどですね…。
妻
でも、あなたもそうでしょう?
絵描き
そうですね…。落ち着くんです…。この匂い…。
妻
そうね。(夫に)ねえ、あなた。
夫の居ないベンチの方に振り返って声をかける妻。
妻
あら、居ないわ。どこ行ったのかしら。(また絵描きに向き合って)でもわかったわ。これを買えばいいのね。
絵描き
油絵まで始めるおつもりですか…?
妻
それは無理よ。でも、これがあればいつでも好きなときに嗅げるでしょう?
絵描き
(思わず少し笑ってしまい)これを…。わざわざですか…?
妻
ええ。わたしも落ち着くの。この匂い。
絵描き
そう…。嬉しいです…。
妻
同じ匂いが好きって、なんだか嬉しいものよね。
絵描き
そうですね…。絵を見てこんなに香りについて話す方は珍しいですけど…。
妻
あら、もちろん絵も素敵よ。とっても。
絵描き
ああ、いや…。そういうつもりじゃ…。
妻
好きよ。この色。ここがこんな風に見えるあなたの目が羨ましいくらいにね。
絵描き
そう…。ですか…。
妻
でも鼻はわたしときっと同じね。
絵描き
(また思わず笑ってしまい)はは…。そうかもしれませんね…。
妻
きっとそうよ。
夫が戻ってくる。和やかに話している妻と絵描きの様子を見てひどく嫌な顔をしながらふたりの元へ来る夫。
夫
(妻に)まだ話していたのかい…。
妻
あら。あなたどこ行ってたの?
夫
トイレだよ…。
妻
そう。ねえ、見て。わたしが好きな匂いって絵の具の匂いじゃなかったんですって。これ。この油の匂いなんですって。
夫
へえ…。そう…。
妻
そうなのよ。ねえ、お手洗いどこ?
夫
あっち…。すぐそこに地図もあるよ…。
妻
わたしも行ってくるわ。
妻、去る。夫と絵描きは妻を見送る。
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