シーン7 香水には向かない香り

風に乗って届く油絵の香りを心地よさそうに嗅ぐ妻。


いいわあ。ねえ、あなた。わたしね、よく考えるのよ。


なにを?


お散歩をしているとね、ときどきいい匂いがするでしょう?もちろん、ただいい匂いっていうのはたくさんあるけれど…。わざわざ言いたくなるほど好きな匂い、香りよ。


夫   

(なんとなく花の香りなんかを思い出して)ああ…。うん。あるねえ。


妻   

わたしはそういうときね、その場ですぐにこの香りを溜めておける袋みたいなものがあったらいいのになあって思うのよ。そうすればいつだってその香りを嗅いで思い出せるでしょう?


夫   

それなら、香水があるじゃないか。


妻   

身につけたいわけではないのよ。嗅ぎたいだけ。


へえ。どうして?


だってわたしが好きな香りはみんな、香水には向いていないと思うから…。


夫   

ふうん。例えばどんな?


妻   

いろいろあるけど…。例えば、プールの匂いでしょう。それからガソリンスタンドの匂い。あとはペンキの匂いとか、コンクリートの匂い…。


なるほどね…。それは確かにどれも香水には向かなそうだなあ…。


ね。あ、それからやっぱり本屋さんの匂いね。図書館はちがうの。本屋さんがいいわ。


夫   

ああ…。本屋の匂いか…。


妻   

どうしたの?


夫   

僕は本屋の匂いは苦手だな…。あれを嗅ぐと、なぜか必ずトイレに行きたくなるんだよ…。


妻   

へえ。なぜかしら。


わからない…。でももし君がその匂いを身に付けたりなんかしたら僕は一日中トイレに篭りっぱなしになるんだろうな…。


妻   

身に付けるつもりはないわ。嗅ぐだけでいいから。(空気を指差して)あと、これね。これも今好きになったわ。


夫   

ふうん。これねえ…。


あなたは嫌い?


夫   

別に嫌いとまでは言わないけど…。好きとは言えないかなあ。強いて言えば、どちらかといえば苦手かもしれない。


妻   

そう…。わたし今すごく、この香りを持って帰りたいわ。持って帰って、ずうっと嗅いでいたいわ。ずうっと…。


夫   

へえ…。これがねえ…。


いつのまにか夫の横に絵描きが来ている。

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