シーン1 パンの香りと夫婦
〈バベルの塔のさかなたち〉
登場人物
夫
妻
絵描き
ひと組の夫婦が公園で午後のお散歩をしている。遠くの方から子供たちの遊ぶ笑い声が聞こえる、のどかな時間。
青々とした芝生。それは均一に整って広がっている。柔らかい日差しがさして、時折穏やかな風が吹く。
公園をぐるりと囲むように木々が植えられており、その日陰の中にはベンチが点々と備え付けられている。
少しだけおめかしをした夫婦。夫はカンカン帽を被り、片手にステッキ。妻は日傘をさしバスケットを持っている。
ふわっと風が吹く。
夫がふと立ち止まり、辺りの匂いを嗅ぐ。
夫
おや…。ねえ、きみ。
妻
なあに、あなた。
夫
なんだかいい匂いがするよ。ほら…。
妻
(嗅いで)あら、ほんと。なにかしら。
夫
きっとパンの匂いだよ、これは。(辺りを見回し)あ、ほらやっぱり。あすこに。ほら、見えるだろう?
妻
あら。パン屋さんだわ。
夫
買ってこようか。
妻
でもこんな時間に食べたらお夕食が入らなくなるわよ。
夫
だいじょうぶだよ。せっかくなんだから、ここらでそろそろお茶にしよう。
妻
(ニッコリ笑って)あなたがよければ。
夫
それじゃ、そうしよう。(ベンチを指し)きみはそこで待ってておくれ。僕が買ってくるから。
妻
いっしょに行かなくていいの?
夫
そこを取っておいてくれ。
妻
わかったわ。
夫
頼んだよ。
夫、去る。
妻は日傘を畳んで夫が指定したベンチに座り、お茶の支度をする。持っていたバスケットから水筒とふたつのカップを包んだ大きなハンケチを取り出し、それをベンチに広げてカップを並べる。
それらのお茶の支度しながら誰に言うわけでもなく語り始める妻。
妻
ときどきこうして主人とお散歩をするんです。お日様の光を浴びるとなんとなく…。なんだかこう、ひどく健康的なことをしている気になるでしょう。健全ともいうわ。わたしお散歩が好きなんです。お散歩っていうのはもちろん、ただ歩くだけでもいいんですよ。でもせっかくいいお天気なら、例えば…。(風景を見て)そう。あの犬のような雲の形についてだったり…。この、暑くもなく寒くもない風についてだったり…。そのあたりで見かけたお花の香りについてだったり…。ね、なんでもいいんです。なんでもいいから、ときどき思い出したように何か見つけて、それについてお話をしながら歩くんです。それがわたしの好きなお散歩なんですよ。いつも同じ道ってわけでもなく…。今日のようにね、来たことのないところまで行ってみたりするんです。そうするとほら。こんな風に突然パン屋さんを見つけたりなんかしてね。するとあの人はあんな風に、わたしのためにパンを買いに行ってくれるんです。もちろんわたしはお夕食の心配もしますよ。でもあの人はそんなの気にしないでいてくれるんです。それからあの人はきっとわたしのためにクロワッサンを買ってきてくれますよ。
そこへザアっと強い風が吹く。するとこれまでとても穏やかに話していた妻の目に突然ふっと暗い影が漂う。
妻
でも…。もうすぐね…。もうすぐよ…。ほら…。聞こえますでしょう…?元気な子どもたちの声が…。あれはね、もうすぐ夕方になることを知らせる声ですよ…。わかりますでしょう…。夕方というはね、なんだかこう…。ひどくソワソワするものでしょう…?なぜって…。さっきまで青かった空が赤くなって…。風がひんやりしてきて…。そのあたりにお夕食の香りが漂い始めるからですよ…。そうするとね…、子どもたちはみんなふと立ち止まって、それをもっとよく知ろうとするんです…。懐かしい香りを辿るように…。まるで、必死に帰り道を探るように…。なんだかこのままここに居たらいけない気がしてくるんですよ…。そうすると、どうなるかわかりますか…?子どもたちはよりいっそう激しい声を上げるんです…。なぜって…。子どもたちにとっては、目の前のお友だちとの時間が大切だからですよ…。だって彼らにとってはいつだって、これが最後の日になるかもしれないんですからね…。
まるでエコーがかかったような子どもたちの声がザワザワと妻を迫る。思わず妻は肩を縮こませて静かに耳を塞ぐ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます