第一幕 その音楽は彼方から響く ④
入室してからの数分間の出来事をまずお伝えする。
私は言われるがまま、音楽室への入った。状況的に断れる雰囲気ではなかったからだ。
そして、間を置かず古城千代子が戻ってきた。
てへへ、と頭を掻きながら若干申し訳なさそうにしている。
「おかりなさい、ちょこ」
と、一子と呼ばれる彼女は言うと、重力を感じさせないストライドで対象(古城)の顔面を掴み(アイアンクロー)私の前に連行してきた。
「さぁ、ちょこ。謝るのですわ」
「ほへんなさい」
掴まれた(アイアンクロー)継続中なので、まともに喋ることができなくなっている。中中にかわいらしい顔をしていたのに、いまはその見る影もない。そして何より、痛そうだ。
哀れだった。
「あの……もうその辺で……」
「あら。よろしいですか? ここから【片翼の天使】を行おうと思っていたのですが」
まさかのケニー・オメガ。
「いやそれは痛いどころじゃなくなってしまうのでは……」
「あら、ご存じなのね。わたし、少々たしなんでまして」
「観戦とかではなくて⁉」
と、プロレス談義をしつつももちろん古城は掴まれた(アイアンクロー)のまま。
いまはもう身動きすらしてない。
この子、大丈夫だろうか。
「自己紹介がまだでしたわね。わたくしは青桐一子と申します。どうぞよろしくお願いします」
自己紹介ありがとう。
でもうん、まだ離してあげないんだね。
「ぷぅぅうっは!」
と、豪快に古城が青桐の手を振りほどいた。
「痛い! 痛いよ! 加減しようよ! こんなの絶対おかしいよ! 主に攻撃力が! 握力いくつだこの野郎!」
「43ぐらいかしら」
「平均は26前後だ馬鹿野郎!」
「むむ、馬鹿とは何かしら馬鹿とは」
と、言いながら青桐は手をわさわさと動かし、古城ににじり寄っていく。慌てた古城は私の後ろに逃げ込んできた。先ほどの私の行動のそれそのままだった。
「あいすちゃん助けてよー!」
半泣きだ。
無性にかわいらしいので助けてあげることにした。
「あの……私はもう大丈夫ですので。えっと、この辺で」
「まったく。まぁ、反省していることでしょうし……」
なんだろう、彼女のこの不完全燃焼感は。優雅に凛々しく登場したというのにファイターキャラとか聞いてないよ? 狂気すら感じるよ?
「あ、あいすちゃん! 有難き幸せだよ」と、古城が抱き着いてきた。「――どぅっはー、やべー! ほんとマジで死ぬかと思った。ベリーちゃん握力マジぱねぇ!」
「鍛えてますから」
「そっかー、鍛えてたかー」と、遠い目をして古城は言った。そして私の方を向く。「ねぇねえあいすちゃん、私の顔歪んでない? ぐにゃって。なんかこう感覚がおかしいんだよね」
「大丈夫そうだよ」
「よかったー。っあ、さっきは本当にごめんなさい。調子に乗ちゃったな……悪気はなかったんだよ。誰だ誰だー覗魔はーって思ってちょっと驚かせようと、で、そしたらあいすちゃんだって気づいてさー。で、抱き着いたらあいすちゃんなんか良い匂いだから。つい」
てへぺろ。
じゃない。
どんな理由だ。
「もういいです……。罰はしっかり受けたようですし」
「ありがとう、あいすちゃん! 大好き!」
「うわっ」
飛びつかれた、だが青桐さんの制裁が発動しない。彼女的にはすでに許容なのだろうか。だとしたらその判断はもう少し待ってほしい。けっこうこの子、暑苦しいから。
「ではそろそろお茶にしましょうか?」
青桐が悠長にそんなことを言ってきた。お茶とはなんだろうと、古城に抱き着かれたまま見ていたら手際よくティーカップとソーサーが並んでいく。
「ちょこ、お茶菓子でして。冷蔵庫にあるから」
「はいはーい」
指示を受けた古城は飛んで冷蔵庫に向かった。冷蔵庫があるのか……。
「お客様がいらっしゃったので、今日は私のとっておきのファーストフラッシュをお出ししますわ。どうぞお席へ、香りを楽しんでくださいな」
水道からやかんに水を汲み、火にかける。ポットはないようだ。
「手伝いますか」
「それには及びません。お客様ですから。そうですね、手持ちぶさたでしょうからちょっとうんちくっぽいですけど、おいしい紅茶の入れ方を一つ。まずは、ポットのお湯はいただけません。空気が少ないですから、ジャンピングが起こりにくくなります。ジャンピングというのは、茶葉をお湯のなかで舞わせることをいいますの」
「はぁ」
「あと温度。紅茶は抽出の温度がとても重要です。おいしく入れるには95度から98度ぐらいですね。でも沸かしすぎると空気が逃げてしまうので、空気が逃げないように95度以上にするのが肝、なのです」
「へぇ」
なんかちょっと楽しくなってきた。
「しゃあー、生クリーム泡立ててやったぜ!」
何をしていたかと思っていたら、古城は生クリームを泡だて器で泡立てていた。
「みてみてあいすちゃん! ほら、なめらか!」と、はしゃいでいる。「ぐふふ、こいつをよー、この上によー、のっけてやるんだぜ! ひゃっはー!」
と、言いながらシフォンケーキに生クリームを乗せた。
「ちなみに、そのシフォンケーキはちょこの手作りですわ」と、青桐が言う。「味は保証します。そのあたりのパティシエには負けない味ですわよ」
まじか。
「今日はとっておきのスペシャルケーキ三号を作ってきたんだぜ!」
「あら、三号は久しぶりね。ずいぶんと気合を入れましたわね」と、なにやら感心している青桐。「っあ、そろそろお湯が沸きまわ」
驚くべきことに、これが数分間の出来事なのである。
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