第一幕 その音楽は彼方から響く ③
上履きから、履き替えようと手に持ったピカピカのローファーそのままに私は校庭を賑やかす部活動の掛け声に耳を澄ましていた。
何部だろうか。声だけでは判断がつかないが勇ましく、女の子っぽい華がある。
あぁ女子校に来てよかった。
ソフトボール? サッカー?
なんだろうか。覗いてみようか。マネージャーとか募集してないかな。
なんて、行先のない現実逃避をしながら、私は下駄箱を後にした。
もちろん、帰宅の道についたわけではない。
反対に校舎の中は、静寂に包まれていた。
廊下を歩く生徒の姿は少なく、日中のかしましい雰囲気を今は感じることができない。
とぼとぼと歩いていると、静寂を破るように金管楽器の音色が聞こえ始めてきた。
心地よく屋内で反響している。
途中掲示板を見かけた。下駄箱に近く、その掲示板のある場所としては人通りが多く、宣伝場所としては間違いなく一等地だろう。
部活勧誘ポスターやら、生徒会からのお知らせ。学内で行われる模試の参加者を募るポスター、様々だ。
ポスターはどれも個性が出ており、形式的なお知らせのほうが少なかった。
「演劇部は……ない。ない……」
ちょっと覗くだけだ。と、私は自分に言い聞かせるように、何度も何度も脳内で繰り返す。
話しの触りを、聞くだけだ。私に手紙を送りつけていた集団が、どんな奴らなのかを確かめるだけだ。そして、そして――。
「それだけだ」
それだけであってほしい。
提示された場所は第三音楽室。
主要な教室がある校舎から離れたその建物は、放課後には部活棟となっていた。
地学室や生物学教室など、各部活が放課後一室をまるまる占領し、それぞれの活動にいそしむという制度だ。
そして目的の場所である第三音楽室は、棟の最上階に位置していた。
びっくりするぐらい、あっという間に到着した。
胸に手をやり、息を飲み、深呼吸して、目を閉じる。
ドアに私は手を伸ばす。
すると音楽が――ピアノの音が同じタイミングで鳴り始めた。
どこかで聞いたことのあるメロディ。有名なクラシックなのだろうが、私にはどこの誰のどんな曲なのかさっぱりわからない。それでもなお、私は聞き入ってしまった。
音色に、ただ単純に、聞き惚れた。
はっとなり、呟く。
「演劇部の部室……になっているはずだけど、いや音楽室だからピアノぐらいあるか――でもだとしたら。どういうわけだ」
演劇部の人間が弾いているのだろうか。だが音色は本気でピアノと向き合っている人間しか出せない本物の領域である気がする。何というか、私にはそれがわかった。
一度たりともピアニストを目指そうとしたことなんてないけど、私には――。
この時、背後で上履きが甲高く鳴り響いた。びくりと、と体を震わせる。
あまりに音に集中していたので、驚きも相当だった。
人の気配には人一倍鋭敏だったはずなのに――とんでもない失態だ。
そして、その失態は物理的ダメージとして降り注ぐ。
「うりゃー」
「ぎゃ!」
油断の連続。振り返ろうした瞬間に、私は何者かに羽交い締めされていた。
とっさにでた悲鳴がぎゃ、とは……女子力!
「おいおい、お嬢ちゃん。あんた、何者だい? へへへ、俺たちのねぐらに忍びこもうなんざ百年はいやいぜ」
そう囁きかけてくる声は確かに女の子だった。
発言はおっさんだが。
だがこの時の私はかなり動揺していた。
びびっていた。
「あ。ああのごめんなさい、私あのえっと――」
「へへ、可愛い声してやがるな……って、あれ? 良い匂いがする。くんくん、くんくんくん」
え? なに? ちょ、ちょっとまて! おまえ!
「嗅ぐな!」
「良いじゃねぇか……へるもんじゃないし」
「減る! 減るから!」
じたばたともがくが、一向にこの関節技から抜け出すことができない。腕力がはんぱなかった。
ああだめだ。終わった。穢される……。
そんな諦めの境地に達した折に、バタンと、第三音楽室のドアが勢いよく開かれた。
私は開いたドアを凝視した。私を拘束する手も、なぜか緩んだ。今がチャンスと私は全力を出して振りほど――けなかった。
こいつマジゴリラ。
開いたドアの向こうに、長い黒髪の女性が立っていた。メガネをかけたその人は、とても柔和な笑みを浮かべていた。神に思えた。だから私はすがることにした。
「た……すけて」
ああなんて無様なのだろう。でも仕方ない、私は無力だ。
「はぁ……」と、女性は深い息を吐いた。
そして――。
「ちょこ」
と、お菓子を口に出す。
なんだろうチョコ?
途端、私の拘束は完全に解かれた。急いで私はゴリラから離れ、神の後ろに逃げ隠れ、がしりと神の背中にしがみつく。
「あ……あのね、あのべりーちゃんこれはね……」
「古城、千代子――」
冷たく響くその声に、呼ばれたゴリラ、もとい古城千代子は竦んでいる。
ん?
古城千代子……?
「古城千代子。私はしっかり言いましたわね? 道端を歩かれている人様には抱き着かない。そう言いましたわね?」
「は、はい! べ、べりーちゃん。おっしゃっていただきました! いや、一子さまこれはほんのその何と言いますか……、誰かが部室を覗いてたからちょっと声をかけただけであって……。――ごめんなさい!」
と、言って古城千代子と呼ばれた少女は逃げ去った。
「…………」
「もう大丈夫ですわよ。鬼無さん」
「っあ、はい。どうもありがとうございました。……って、どうして私の名前を……?」
嫌な予感。神の背中から手を離し、私はじりりと後ろに下がる。
しかし私を逃がさないようになのか、下がった瞬間に半歩前に進む、一子と呼ばれた凛々しい彼女が、そっと私の右手を手に取りこう言った。
「さぁ、どうしてかしら。ではどうぞ、待ってました」
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