8月16日

 いつも通りブランチを食べてしまうと、彼との別れの時が近づく。高く昇る太陽が恨めしい。


「大丈夫? 忘れ物はない? ……まあ、ないか」

「萌絵の手料理」

「持っていけるわけでもないんだし」


 あとは、残酷な時の流れに身を任せるのみだ。そう思ったら急に胸がキュッと締まってぽろぽろと本音が漏れる。


「ねえ、仕事とか疲れちゃった。迎えに来るって前に約束してくれた歳になったのに、連れてってくれないの?」


 私は彼に向かって手を伸ばす。休みが終わり、また明日から地獄のような日々が待っている。鳴り止まないクライアントからの電話、怒鳴る上司、女性社員の陰口。


「まだ連れてはいけないな。こっちで頑張りな」

「嘘つき」


 ぽろぽろと止める間もなく涙がこぼれ落ちる。


「泣かないで。抱きしめて慰めることもできないんだから」


 彼に伸ばした手は空を切る。

 そう、彼には「実体」がない。それもそのはず、彼はもう死んでいる。だから、修哉も私もお互いに触れることはできないのだ。


 3年前。お互い仕事に慣れて落ち着いてきたので、そろそろ家族に挨拶に行き、同棲の準備をしようか、と話していた矢先だった。彼は交通事故に遭い、呆気なく逝ってしまった。時を同じくして、私は違う部署に配属され、今も同じ、厳しい職場環境で働いている。


 彼の死を受け入れられなくて呆然としていた新盆に、突然彼が目の前に現れた。あの時は、受け入れられなさすぎた私の心が産んだ幻覚かと思ったが、どうやらお盆の期間だけ幽霊となって私の部屋には戻ってこられるらしい。


 私の母が私を産んだ、27歳までには迎えにいくつもり、と生前の彼は私に誓ってくれていた。そして、先日、私は誕生日を迎えて27歳になった。


「連れて行ってくれることを心の支えに頑張ってたのに、そんなことってないよ……」


 私は顔を手で覆ってまるで小さい子供のように泣きじゃくる。


「俺は、萌絵には幸せになってほしいんだよ。俺にも、会社にも囚われることなく」


 駄々っ子のように首を振る。そんなこと無理だ。ずっと優等生でやってきて、修哉にも会社にも、家族にも囚われている。

 お盆は全く帰らないが、お正月も帰らない年があるのは、結婚のことで親と揉めたからだ。正確には親に、そんな若い頃に付き合っていた人は別れたことにして別の新しい「良い人」を探しなさい、と言われて私が泣いてブチ切れた。それからは、親に腫れ物に触るように扱われていて、居心地が良くない。

 年末年始に顔を合わせる親戚からも結婚や子供をせっつかれるので、嫌気がさして足が遠のいていったのだ。


 修哉の実家とは、元々交流がなかったため、お会いしたのはお葬式の一回だけ。お墓の場所を聞けずじまいでお墓参りには行けていない。


「今年も萌絵の作る手料理うまそうだったよ。食べたかった」

「消え際にそんなこと言うなんてずるいよ……」


 修哉の姿が薄くなっていく。見開いた目から止まることを知らない涙が流れる。でも、またしばらく会えないのだから彼が覚えている顔が私の笑顔であるように、頑張って泣かないで、笑顔でいられるようにする。



 彼が消えてから、夕方まで泣き寝入りしていたらしい。窓から差し込む夕日で目が覚めた。


「うう……。頭痛いよぅ……」


 私はフラフラとカーテンを閉めた。きっと目は真っ赤に腫れあがっているのだろう。動きたくないなあと思いながら布団に寝転がっていたら、再び記憶が途切れた。

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