第13話 夢
刹那が鶯色の作務衣の上から明神の背中を擦っていた。小さな背中に円を描く様に掌を当て、気の流れを整えているらしい。直人はその姿を横目で見ながら頭を悩ませていた。隣で古事記に目を落としている伊織と霞雲も神妙な顔をしている。さっき智弥から経緯は聞いたのだが、古事記を読んだ事が無く、日本神話を聞かされても全く理解が出来なかった。それで明神が蔵にあった本を持って来てくれたのだが、興味が無いせいか読んでも解らなかった。
「今は学校で日本神話なんかしないかなぁ……」
刹那が呟くと、直人は刹那へ視線を寄越した。
「いや、初詣くらいは行くけど、そこの神様が何で、どういった由緒とか考えた事が無くて……」
「それは論外でしょう。僕だって伊邪那岐と伊邪那美の国造りの話くらいは知っています」
伊織が声を上げると、霞雲は頭を抱えた。
「十二神将なら解るのに……」
「黙れ似非陰陽師」
「くそ詐欺師、お前はどうせ知ってる詐欺だろ」
「誰が詐欺師ですか!」
伊織と霞雲が口喧嘩を始めると、直人は冷や汗を流した。
「で、要するに名前を剥奪された神様の力を使って御魂伏の解体に挑むわけでしょ? さっさと終わらせないと私も含めて皆学校があるから、明日には帰っちゃうわよ?」
「急ぎたいのは山々なんだが……」
明神は扇子を出すと広げて直人を指し示した。
「直人、今朝夢は見たか?」
「え? いや、覚えて無いけど……」
直人の返事に明神は目を伏せた。
「何だよ?」
「小学校入学前にずっと眠りこけてた事があっただろ?」
明神の話に直人は背筋を伸ばした。
「そうそう! あの時見てた夢ってさ、今回の般若堂での出来事だよな?!」
「夢では何処まで覚えている?」
「明神が助けに来てくれた所で目が覚めたんだ」
それを聞くと明神は頭をかいた。
「それが?」
「こいつの本来の力が、予知夢を見ることなんだ。だから御魂伏の解体であれば、確実にそれが可能な予言をしてもらいたい。けれども、予知夢を見続けていた頃に俺が叩き起こしたせいで、その先が予言しにくくなっている」
明神の話に直人は納得した様に手を叩いた。
「明日は晴れる夢を見たら必ず晴れたのもそれか!」
「その程度の予言をあてにするのは心許ないです。別に気にする必要は無いのでは?」
伊織が横槍入れると、明神は溜息を吐いた。
「それでもし、御魂伏の解体に失敗しました。全員死んでしまいました。封印も出来ませんでした。となると厄介だから言っているんだ」
「心配しすぎだろ」
霞雲の発言に刹那も頷いた。
「何とかなるわよ。般若堂も何とかなったんだし……」
明神の瞳に、庭に咲いている花に水やりをしている百合の姿が映っていた。
百合は片付けを終えると、居間の隅で寝ている狛の体にタオルケットを掛けた。隣に座り込むと、左手を縁側へ翳す。小指に結ばれた赤い水引を眺めるとほんのりと頬を赤らめた。
「魔除けの御守りだ」
明神はそう言っていたが、百合はそれが照れ隠しなのだと解っていた。
指に水引を結ばれた時、婚約指輪を連想したのだが、薬指では無かったので少し気落ちした。けれども、運命の赤い糸と言われると嬉しくなってしまう。
小指に結ばれた水引を見つめいていると、不意に誰かの声がして首を傾げた。独りでに水引が切れると、今まで隣で寝ていた狛が起き上がり、姿が大きな山犬へ変わる。昼間なのに急に外が暗くなると、百合は不安そうに身を縮めた。
荒い息遣いが聞こえる。闇の中を見回すと、右前方に、伊織の襟首掴んで立っている神崎の姿が目に映るが、脇腹から血が出ている。伊織も意識が無いらしい。明神の眼の前に立っていた智弥が膝を付くと、不意に横たわった霞雲の足に手が触れた。自分を庇って倒れた刹那を直人は必死に引きずるが、上手く体が動かない。明神の左足が潰れ、おかしな方向へ曲がっている。扇を開くが、総竹扇の竹がぼろぼろになり、小さな穴が幾つも開いている。
「祐、立てる?」
「無理だな」
智弥と明神の声が闇に溶けた。封印を解き、刀を引き摺り出すまでは良かったのだが、呪詛の数が般若堂の比で無かった。予想はしていたのだが、準備が足りなかったのは否めない。否、これ以上どんな準備が出来たのかと問われても思いつかないのでどうしようも無いのだろう。
空から再び雷が刀目掛けて落ちた。もう何度目だろうか。雷の音で地面が何度も小刻みに震える。雷が落ちる度に薄皮を剥ぐように呪詛が焼き消えるが、直ぐに次の呪詛が吹き上がった。刀から離れた呪詛を智弥が捕まえて居たが、智弥ももう限界らしい。智弥の横をすり抜けた黒い靄が一匹外へ逃げて行くのを明神は捕まえて握りつぶした。ゆっくりと明神は智弥の肩を掴んで立ち上がった。
足から滴り落ちた血が地面を這い、離れている神崎や直人の方へ伸びて行く。
「祐?」
地面のそこここに草が生え、真っ暗だった空間に幾つもの小さな白い光が浮かぶ。その光のお陰で少しだけ体力が戻ると、直人は刹那を担ぎ上げた。
逃げよう。今、自分に出来るのはそれしかない。
直人がそう考えていると不意に大きな白い犬神が闇を切り裂いて躍り出た。見上げる程大きな犬が闇を飲み込んで行く。明神が地面に刺さった刀を手に取ると、不意にその刀が見えなくなった。それで、刀の呪詛の解体が終わったのだと直人は漠然と思った。
「狛」
明神は大きな犬神の背中に乗ると、早々に何処かへ行ってしまった。
「大丈夫?」
智弥に声を掛けられ、直人は自分を奮い立たせた。負傷者を運ぶ事くらいしか自分は役に立ってない。それがなんとも歯痒かった。
屋敷に戻り、直人は台所へ向かった。意識を取り戻した刹那から水とタオルを持ってくる様に言われたからだった。皆疲弊していたが、それでも死者は出なかった。台所へ行く時に居間を覗くまではそう思っていた。
居間の前のくれ縁に、狩衣姿の子供がぼうっと突っ立っていた。怪我をしているのか、白い狩衣が所々赤く染まっている。
「大丈夫か?」
直人はこの子供が、さっきの犬神だと言うことを知らなかったので何故そんなに怪我をしているのか解らなかった。声をかけるが反応がない。居間へ視線を向けると、部屋の真ん中に明神が蹲っていた。部屋中が赤く染まり、壁や天井にまで血飛沫が飛んでいる。まるでそこで血糊の詰まった風船を割った様な異様な風景だった。
「明神?」
明神の左足からまだ赤い血が滴っている。ふと、百合の姿が見当たらない事に気付いた。
「百合ちゃんは?」
張り詰めた糸が切れた様に明神が狛に手を伸ばした。狛を床に叩きつけると、狛を睨みつけている。
「お前には百合の守りを言付けた筈だ」
「俺様が行かなければ全員死んでおるぞ? それでも良かったと言うのかのぅ?!」
「俺の命令が聴けないのか?!」
明神が怒鳴ると、狛は唇を噛み締めた。
「聴けるわけ無いじゃろ!」
明神の両手が、狛の細い首を絞めた。直人が驚いて明神の肩を掴む。狛の頬に明神の涙があたると、狛は顔を顰めた。
「お前には暇を出してやる」
「言われなくとも、こんなとここっちから出て行ってやるのじゃ!」
そう言いながらも、狛の両目から大粒の涙が溢れていた。
ーー肩を揺らされ、直人は目を覚ました。隣を見ると、眼鏡を掛けた伊織の顔が目に入った。
「興味が無くてつまらないのは分かりますが、こんな短い本くらいちゃちゃっと目を通して下さいよ」
伊織にそう言われ、直人は困惑した。
「あれ? 何してたっけ?」
周りを見回すと、刹那が明神の背中を擦っている。
「今は学校で日本神話なんかしないかなぁ……」
刹那が呟くと、直人は首を傾げた。
「いや、初詣くらいは行くけど、そこの神様が何で、どういった由緒とか考えた事が無くて……」
そう言って、自分が同じことを前にも言った様な気がした。
「それは論外でしょう。僕だって伊邪那岐と伊邪那美の国造りの話くらいは知っています」
伊織が声を上げると、霞雲は頭を抱えた。
「十二神将なら解るのに……」
「黙れ似非陰陽師」
「くそ詐欺師、お前はどうせ知ってる詐欺だろ」
「誰が詐欺師ですか!」
伊織と霞雲が口喧嘩を始めると、直人は首を傾げた。前にも同じことでこの二人は喧嘩していたような気がする。
「で、要するに名前を剥奪された神様の力を使って御魂伏の解体に挑むわけでしょ? さっさと終わらせないと私も含めて皆学校があるから、明日には帰っちゃうわよ?」
「急ぎたいのは山々なんだが……」
明神は扇子を出すと広げて直人を指し示した。
「直人、今朝夢は見たか?」
「え? いや……」
直人の返事に明神は目を伏せた。脳裏に居間が真っ赤に染まった情景が過ぎったが、あれが夢だったのか何だったのか頭の中が整理出来ない。
「それが?」
「小学校入学前にずっと眠りこけてた事があっただろ?」
明神の話に直人は背筋を伸ばした。
「そうそう! あの時見てた夢ってさ、今回の般若堂での出来事だよな?!」
「夢では何処まで覚えている?」
「明神が助けに来てくれた所で目が覚めたんだ」
それを聞くと明神は頭をかいた。
「それが?」
「こいつの本来の力が、予知夢を見ることなんだ。だから御魂伏の解体であれば、確実にそれが可能な予言をしてもらいたい。けれども、予知夢を見続けていた頃に俺が叩き起こしたせいで、その先が予言しにくくなっている」
明神の話に直人は納得した様に手を叩いた。
「明日は晴れる夢を見たら必ず晴れたのもそれか!」
「その程度の予言をあてにするのは心許ないです。別に気にする必要は無いのでは?」
伊織が横槍入れると、明神は溜息を吐いた。
「それでもし、御魂伏の解体に失敗しました。全員死んでしまいました。封印も出来ませんでした。となると厄介だから言っているんだ」
「心配しすぎだろ」
霞雲の発言に刹那も頷いた。
「何とかなるわよ。般若堂も何とかなったんだし……」
やっと直人は夢を見ていたのだと悟った。
「明神」
直人が声をかけると、明神の視線が自分へ向いた。
「ちょっと……」
明神は重い腰を上げると、縁側へ出た。直人も着いていくと、伊織と霞雲が顔を見合わせる。刹那はそんな二人に寄り添っていた。
庭で水やりをしている百合の姿を眺めながら明神は直人の話しを聞いていた。百合は神崎と何か話をしているらしい。
「……百合ちゃんが何で居なくなったのか解らないけど、その御魂伏の解体は今はやらない方が良いと思う」
直人の言葉に明神は軽く頷いた。
「お前が見たのなら間違いないんだろう」
明神は草履を引っ掛けると外へ出た。直人は部屋に戻って刹那達と本に目を落とす。
庭に居た百合が振り返ると満面の笑みを浮かべたが、明神は表情を変えなかった。百合の左手を取ると、明神は小指に赤色の水引で相生結びを通した。百合は突然の出来事に驚きつつもこの温かい手に包まれて頬を赤らめる。
「どうせなら薬指が良いなぁ」
百合が強請ると、明神は表情を変えずに百合を一瞥した。百合が婚約指輪の事を言っているのは直ぐに解った。
「付き合ってやるとは言ったけど、嫁にしてやるとは言ってない」
「え、そうなの?」
百合が不思議そうに聞き返すと、明神は溜息を吐いた。
「獅子と牡丹ってそういう意味だと思ってたから……」
「……お前が勘違いしたのなら俺が悪いんだろうけど……」
ふと、二人の会話を聞いていた神崎が眉根を寄せた。
「お嬢ちゃん、もしかしてなんだけど、彼女とかガールフレンドって聞いたら、お付き合いしている女の子って意味だと思ってる?」
神崎の言葉に百合は驚いた顔をした。
「え、違うんですか?」
「お前、そこんとこちゃんと教えてやれよ。ガールフレンドってのは要は女友達だろ」
神崎の言葉に百合は目を見開いた。
「それに獅子と牡丹って取り合わせって意味だろ? お互いに程良い距離感で居ようねって意味だろ。要は友達以上恋人未満って事。けど、それを言わなかったって事は、要するに勘違いさせてお嬢ちゃんの気持ちを弄んで楽しんでたって事だろ」
百合が明神の顔を見つめるが、明神の表情は変わらない。否定してほしいのに、何も言ってくれない事が少し寂しかった。
「こんなせこい奴、お嬢ちゃんには釣り合わないぜ」
明神が水引を結び終えると、百合はその水引を見つめた。
「そうやって虐めるのよくないよ」
庭の藤の木の影から立ち聞きしていた智弥が顔を出した。
「彼女を牡丹に例えて、自分を獅子に見立てた上に和歌まで添えてたんだよ」
智弥の言葉に明神が瞳を宙へ泳がせた。
「もしかして、俺の書いた手紙を智弥に見せた?」
明神の言葉に百合が頷くと、明神が眉根を寄せ、不満げな顔をする。そんな表情を見たことが無かった百合は目を丸くした。
「ごめん、智弥さんがお兄さんだって知らなかったし、私、読んでも意味が解らなかったから……」
「彼女にも解るように書いてれば良いのに、意地悪するからだよ」
智弥が言うと、神崎は首を傾げた。
「え? 何? 彼女宛に書いた手紙を兄貴に読まれたってこと? うわ、最悪だな」
「中々良い恋文だったんだよ? 花が咲くように君への恋心が隠せなくなってしまった。って現代語訳付けてあげれば良かったのに」
「本当最低だな。弟グレるぞ」
智弥と神崎が話していると、明神は俯き、顔を覆っている。智弥は百合の左手の小指に結ばれた水引を指し示した。
「結い紐の儀でしょ?」
百合も神崎もそれを聞いて首を傾げた。
「何だそれ?」
「大抵は神前の結婚式でやるもので、運命の赤い糸を目に見える形にしたものだよ。あんまり身近じゃないから知らない人の方が多いかもね」
智弥がそう話すと、明神が顔を上げた。
「ただの魔除けの御守りだ。深い意味は無い」
「古事記に赤い糸の話しがあってね……」
智弥が話そうとすると、明神が智弥の腹に拳を打ち込んだ。けれども全く痛くないらしく、智弥は笑っている。
「ちょっと来い」
「何でそんなに素直になれないかなぁ……今時、遠回しに愛を伝えても、相手は気付いてくれないのに」
「黙れ」
明神が智弥を連れて庭の隅へ行ってしまうと、神崎は百合の小指に結ばれた相生結びを見つめた。
「まあ、あいつがお嬢ちゃんに懸想してるってのは何となく解ったけど、一筋縄ではいけそうに無いぞ」
神崎の言葉に百合は俯いた。
「まあ一つ俺から教えといてやるよ」
百合が首を傾げると、神崎はにやりと意味深な笑みを浮かべた。
「え? やめるの?」
智弥は明神の話しに驚きを隠せなかった。折角全員揃っているのだから、御魂伏の解体も済ませておいた方が良いと思っていた。
「次にいつ全員集まれるか解らないよ?」
「急いては事を仕損ずる。俺としては全員無傷で家に帰したい。だからもう少しだけ時間を置きたい」
「何かあった?」
智弥の質問に明神は目を細めた。
「磐永姫には娘がいたらしい」
「そう言ってたね。神話には出て来ないけど……神話に出て来なかったということは多分、磐永姫と瓊瓊杵尊との子供だろうね」
智弥は自分の考えを話した。
「中々興味深い話しがあってね。古事記では磐永姫の妹、木花咲耶姫が一夜で身籠ったのを別の神の子ではないかと疑われた木花咲耶姫は産屋に火を放ってそこで出産するんだけど、別の書物では富士の火口に身を投げたという話しもあるんだ」
明神はそれを聞いて目を伏せた。
「古事記にも日本書紀にも富士山は出て来ない。否、書けなかったんだと思う。自分が妻の不貞を疑った為に身を投げた場所を、書き残す事が出来なかった。
後に政権争いでも起こったのかもね。その時にもし磐永姫に娘なんか居れば脅威だったと思うよ。男系継承であるはずなのに天司神で実権を奮っていたのは月読の尊でも須佐之男の尊でもなく女神である天照大御神だった。その事を鑑みれば、磐永姫の娘は天照大御神の曾孫に当たる。瓊瓊杵尊としては自分の所に居る男の子に政権握らせたいだろうに、磐永姫の実家である地司神へ行ってしまった娘が、天照大御神の様に頭角を現す事を恐れただろうね。
磐永姫を手の内にしていれば、娘を政権の道具にすることも考えれただろうけど、折角地司神から娶った木花咲耶姫を追い込んで死なせたなんてなるとお互いの信頼に亀裂が入っただろうね。それこそ大山祇からすれば、磐永姫もその娘ももう天司神になんか渡したく無いだろう。命を狙われる可能性がある磐永姫の娘を公にすることも出来なかったと思う」
智弥が淀みなく話すと、明神は溜息を吐いた。
「その磐永姫の娘さんにちょっかいかけてたって?」
「磐永姫は俺が隠したと言っていた」
明神の話しに智弥は眉根を寄せた。
「それで祐の寿命の挿げ替えをしてくれるとは思えないね」
「どうも俺の寿命の挿げ替えをしたのはその磐永姫の娘の方らしい」
智弥はそれを聞いて振り返った。庭で神崎と話をしている百合の姿に眉根を寄せる。
「まさか……」
「俺も理由はよく解らん。あいつは御魂伏の刀を握ったけれど、呪詛にあてられなかった。今思えば、あいつは御魂伏に貫かれても呪詛に侵されなかった。何かの力が働いたのは間違い無いが、そうなると御魂伏の中に磐永姫の娘の意識が封じられていて、魂だけあいつに転生した事になる。
御魂伏の封印を解けば磐永姫の娘の意識はあいつの体に入るだろう。そうなると磐永姫は娘の存在に気付き、あいつが磐永姫の元へ連れて行かれてしまう」
智弥は寒気がして鳥肌が立った。
「生きたまま神の次元に?」
「それは無理だろうから身体が弾けるんだろうな。磐永姫は娘に固執していたから、居場所さえ分ればなりふり構わないだろう」
明神の表情は変わらないが、智弥は顔を真っ青にした。
「本来なら、親元に帰すのが正解ではある。磐永姫の娘の想念だけを磐永姫の元へ連れて行ければ良いが、果たして磐永姫がそれで納得するのかも怪しい。そもそも、そんな事が出来るのかも自信がない。吹き出した呪詛に紛れたそれを確保するには他の呪詛の始末をお前達に委ねる必要がある。俺無しでそれが出来るとは到底思えない」
明神の話しに智弥は俯いた。
「解った」
信頼されていない訳では無いのだろう。けれども確かに、般若堂でも明神の力無しではどうすることも出来なかった自覚があった。
特急列車に乗った刹那が、買ったばかりの駅弁を頬張っている。喉にご飯を詰まらせると、伊織が慌ててペットボトルの蓋を開けて渡していた。そんな二人を横目に霞雲は窓の外に立っている智弥に視線を投げた。
「またいつでも遊びにおいで」
そう言われた時、もっと強くなってからここに来いという意味だと霞雲は理解していた。智弥が笑みを浮かべ、手を振っている。
まだホームに居る百合が悲しそうな顔をして明神の両手を握っていた。
「ここに居ちゃ駄目かな?」
「お嬢ちゃん、学校はどうすんだよ」
「転校します」
「それは親御さんに許可貰わないと俺にはどうにも出来ん」
神崎が応えると、明神は百合の頭をそっと撫でた。
「虹が綺麗ですね」
神崎はそれを聞いて眉根を寄せた。大切だから離れ離れになっても傍にいたいと、空に架かる虹で自分と相手の気持ちが繋がっていればいいのにという告白の言葉だが、百合がそれに気付くとは思えない。だからそれは承知の上で、態と否定的な返事を誘発させようとしているのだ。間違った答えを言わせて、後になってから答えを間違えた事に気付き、相手の気持ちを踏みにじってしまったと後悔させようとしているのだ。そう考えれば、明神が書いた手紙の意味を百合が理解出来なかった事も納得出来る。無知な女の子を弄んでいるのだ。
百合が顔を上げようとすると、軽く頭を抑えられて顔を上げられない。
見えないよ……
ふと、一緒に観覧車に乗った時に虹を見た事を思い出した。多分、顔を上げさせてくれないということは今空に架かっている虹の事ではなく、あの時の思い出の虹を指しているのだろう。二人にしか解らない思い出を指しているのだ。だから応えは「見えない」ではなく……
「また一緒に見たいな」
百合がそう呟くと明神は百合の頭から手を離した。
「悪くない」
「お前、すげえ嫌な奴だな」
神崎はそう言うと少し考えた。今の彼女の返事でも確かに悪くは無いが、相手の告白に全く気付いていない。相手の告白に気づいたとしての返事で知的な彼女に合いそうな的確な言葉となると……
「嬢ちゃん、こういう時は『虹は丸いんだ』って言い返してやれ」
ちゃんと自分と相手との気持ちは繋がっていますよ。という意味で神崎はそう言ったのだが、百合は意味が解らなかった。
「え? そうなんですか? 虹って半円だと思っていました」
「そういう意味じゃねぇよ」
それだと、お前の気持ちは一方通行だと手酷く断られたと捕らえられる可能性が出て来る。神崎が冷や汗を流すと、明神は肩を震わせて笑っていた。
「え、何か変なこと言ったかな? ごめんね。よく解らなくて……」
「おい、今のは忘れてやれよ。知らねーんだから」
「……考えておく」
明神が笑っている姿に何故笑っているのか解らなくて百合は少し困っていた。
「虹……明日への架け橋とか奇跡とか開運の象徴で……雨の弓とか、天使が絵の具を零したとかいう逸話が……」
「よく勉強してる」
明神が何度も頷きながらそう言うが、どうやら答えを教える気がないらしい。
「虹が綺麗ってどういう意味?」
「俺にそれを言わせるの?」
明神が聞き返すと、百合は首を横に振った。
「自分で調べる」
「良い心がけだ」
「意味が解ったら電話してもいい?」
「俺の家に電話無い事を忘れたか?」
そう言われ、百合は俯いた。
「手紙書く」
「楽しみにしてる」
百合は顔を上げると明神に抱きついた。明神は優しく百合の背中を擦るとそっと百合の体を離す。
「天地の神も助けよ草枕旅行く君が家に至るまで」
ホームに列車が出発する合図のベルが鳴ると、神崎は百合の手を引いて列車に乗り込んだ。百合が閉まったドアにしがみつくと、明神が少し寂しげに微笑んだ。百合の両目から涙が溢れると、明神が手を振る。列車が動き出し、明神の姿が見えなくなると、神崎は優しく百合の頭を撫でた。
「あれと付き合うってなると、お嬢ちゃん苦労するぞ」
神崎が呟くと、百合は顔を上げた。
「神崎さんは虹の意味をご存知なんですね」
「虹に拘るから解かんねえんだよ。虹を月にすればお嬢ちゃんでも解るだろ」
百合は首を傾げた。
「月……空に浮かぶ月……月には兎が居て……満月?」
「どんどん離れていってるぞ。『月が綺麗ですね』ってフレーズ教えただろ」
神崎の言葉を聞いた時、百合はほんのり頬を赤くしたが、直ぐに顔が真っ青になった。屋敷の庭でそんな話をしたばかりだった。
「え、じゃあもしかして……」
「もしかしなくてもそうだろ。昼間なのに月が綺麗ですね。なんて言っても何言ってんだこいつってなるだろ。だからそれの派生語で、その場その場で言葉を変える必要があるだろ。で、月を虹に替えて別れ際に言うって事は、遠く離れていても心は繋がっているよね? みたいな意味になるんだ」
百合は驚いた様に目を丸くし、頭を抱える。
「……分かんないよ……」
「いや、向こうはそんなの承知の上だろ。意地悪されたんだよ。気にする必要ないし、お嬢ちゃんの、また一緒に見たいって答えでも全然悪くない。けど、まあ俺がお前の立場でその返事となると、また会おうって意味だから少し消化不良ではある」
百合はそれを聞いて目を伏せたが、直ぐに顔を上げた。
「神崎さん、私にそれを教えて下さい」
「マジか、普通なら心折れるぞ」
「心が折れてからがスタートラインです」
「お、おお……」
成る程、あいつがお嬢ちゃんに惚れた理由が解る気がする。普通なら嫌な奴だったと他にいい男を探した方が楽だろうに……否、お嬢ちゃんが自分に嫌気がさすのを待っているのかもしれない。つまらない男だったと他の恋愛へ目を向けた時に、あいつとの経験がお嬢ちゃんを一際美しくするだろう。将来変な男に騙されたりしないようにとのあいつなりの配慮なのだろう。
「まあ、施設の子の勉強見てもらってるしな……」
「ありがとうございます!」
百合が深々と頭を下げると、神崎は戸惑った様に顎を触った。
列車が行ってしまうと明神と智弥はホームを後にした。駅を出ると、外に丸眼鏡を掛けた老人が立っている。明神がその老人を一瞥すると、智弥が明神の手を取った。老人の前に明神を連れて行くと、老人は戸惑った様ににこりと笑う。
「やあ」
ぎこちなく老人が声をかけると、明神は溜息を吐いた。
「何か用?」
「祐……」
「もし、儂のしたことを許してくれると言うのなら、一緒に暮らしては貰えないじゃろうか?」
老人の言葉に智弥はにこりと笑った。
「否、息子相手にこれはおかしいのぅ。祐弥、一緒に暮らそう」
老人が言い直すと、明神はゆっくりと瞬きした。老人が恐る恐る手を差し出すと、明神はその手を両手でそっと包んだ。
「一体どれだけ、この日を夢に見た事だろうか……」
幼かった頃の自分が、何度家族と暮らす日を想像し、夢に見たか知れない。智弥はそんな祐の頭を優しく撫でていた。
隱神 其の参 餅雅 @motimiyabi
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