第9話 家族
日が翳っていた。一通り般若堂の周辺の小鬼を祓い終え、伊織と霞雲は海に日が沈んで行くのを眺めながら溜息を吐いた。
「帰りますか」
伊織が呟くと、座り込んでいた霞雲がガッツポーズをする。
「よっしゃー! やっと帰れる!」
「そんだけ叫べる体力あるならもう少し行きたい所があるのですが……」
伊織が眼鏡に付いた土埃を拭きながら呟いた。霞雲はそれを聞くと、萎れるように落胆する。
「百合ちゃんならもうホテルに戻ってるかもよ?」
虫に擬態した小鬼を祓いながら百合を探していたのだが、どうやらここには居ないらしい。
「聞こえませんか?」
伊織に言われ、霞雲は首を傾げた。耳を澄ますと、何処か遠くから女の啜り泣く声が聞こえる。伊織がそっちへ歩き始めると、霞雲は顔を真っ青にした。
「帰るんじゃ……」
「しっ!」
伊織に制され、渋々疲れ切った体を引き摺る。もう手持ちの札も残り二枚になっていた。こんな状態で逢魔ヶ刻にこんなところを彷徨くのは正直嫌だ。かと言って、この状態で今から一人で山を下りるのもリスクが高い。
山を降りきり、隣の山の裾野の叢から女の啜り泣く声が聞こえてくるようだった。もう日は沈み、星が幾つか煌めいている。背の高い葦を掻き分けて行くと、古い井戸が叢の中から顔を出した。注連縄と札で封じられているが、風化して朽ち果てている。伊織がその札を取り、井戸を塞いでいた板を退けると、暗い井戸の底から声がした。
「誰か居るの?」
女の声が井戸の底から這い上がった。伊織と霞雲が顔を見合わせる。霞雲は恐る恐る井戸を覗き込んだ。
「あの……陰陽師だけど……」
「自称な」
「自称じゃねぇ! 何でこんなところに居るんだ?」
伊織に茶々を入れられながらも、霞雲が井戸に向かって声をかけた。
「おんみょうじ……?」
女の声が、確認する様に呟いた。
「なんか困っている事があるなら協力するけど……」
霞雲が井戸の底へ声をかけると、何か奥で誰かと話をしているらしい。少しして再び声が響いた。
「私の息子を探して欲しいの!」
女の声に、二人は再び顔を見合わせた。
「三歳の、男の子……いいえ、もう長い時間が過ぎているから大きくなっているかしら……」
女の必死な声に伊織は溜息を吐いた。
「あのさ、言っちゃあ悪いけど、あんたら最近死んだ霊では無いだろう? 百年とか二百年とか……下手したらもっと前だろう? まだその息子がこっちに居ると思うの? さっさとあの世に……」
「息子は絶対にこっちに居ます!」
女の意志の籠もった声に霞雲は首を傾げた。
「解るんです。自分の息子ですもの。でも、ここから動く事が出来ないのです。迎えに行ってやりたいのに、井戸の入口を封じられてしまって……」
霞雲がそれを聞いて注連縄を解いた。井戸の周りに書かれた呪文の一部を消すと、井戸の封印が解け、井戸の底から小さな光が二つ出てくる。
「ありがとう」
小さな光の中で女の人が丁寧に頭を下げた。もう一つの光はうろうろと周りを旋回しながら山を見上げている。ふと、山から大きな犬が下りて来ると、伊織と霞雲は其々に巻物と呪符を構えた。
「見つけたのじゃ」
大きな山犬が見る間に狩衣の子供の姿に変わると、扇子を取り出して広げた。
「ずっと探しておったのじゃ。こんなところにおったのか」
小さな光が開いた扇子の上に止まると伊織と霞雲は顔を見合わせ、構えるのを止める。
「二人を見つけてくれてありがとうなのじゃ。これでまた一つ、呪詛を解く事が出来るのじゃ」
子供はそう言って扇子を閉じると、二つの光が消え、扇子を狩衣の中に仕舞う。
「呪詛を解く?」
霞雲が問うと、子供はまた灰色の山犬の姿に変わる。
「少し立て込んでいての、説明は後じゃ」
見上げる程に大きな犬が、山を駆け上がって行く。伊織はそれを見送ると、隣に佇んであんぐりと口を開けている霞雲に視線を向けた。
「あんな大きな犬神に会ったことが無いので追いかけ……」
「追いかけたいとか言うなよ? 人を何だと思ってるんだ!」
「そう言うと思いました。今日の所は一先ず帰りましょう」
伊織はそう言うともと来た方角へ歩き始めた。
祐が山の中を歩いていた。白い着物は血の色に染まり、裾から赤い血が滴っている。鬱蒼と繁る草木が声を潜めて囁やき合っていた。
「あれから、どれだけの時間が流れたんだ?」
見覚えのある木々の間を抜け、風化した石の前に腰掛けた。菫の花が咲いているのを見つけて石の傍に置くと、深い溜息を吐いた。
「悪い夢だったならと何度思っただろうか……」
静かに祐は呟いた。すると、不意に白い霧が立ち込めていた。いつの間にか屋敷の中へ連れ戻された事に気付くと周りを見渡す。屋敷の縁側に立っている白髪碧眼の青年を見つけると視線を泳がせた。
「まだ居たのか」
「主人の命令ですから」
「さっさと消えろ。目障りだ。この結界も……」
そう言いかけてふと自分の手を見た。血の通わない白い肌に違和感を覚える。
「何だこの体は……真盛を呼んでこいと言っただろう。あいつの体の方が都合がいい」
「死にましたよ。とうの昔に」
青年が諭す様に言うと、祐は青年を見上げた。
「齢四十で亡くなりました」
「そんな馬鹿な……」
「貴方の呪詛は私が押し留めました。だから貴方の呪詛の通り、私は千年の長きに渡ってここに居座ることになりました」
「貴様、何様の分際だ! 犬なら犬らしく飼い主に従順にしていればいいものを!」
「飼い犬に手を噛まれて喚いているのですか。情けない飼い主ですね」
青年はそう言うと庭に下りた。祐が睨むと、青年は足を止める。
「その子の体から出て行っては貰えませんか」
「だから真盛を連れて来いと……」
「勿論、新しい体をご用意させていただきます。ただ、時間を要します故、少々お待ち頂けないでしょうか」
「そうやってまた封じるつもりか」
「さて、私は貴方様を封じた事など一度もありませんよ」
青年の言葉に祐は眉根を寄せた。
「良いわ。こんな死体なんぞ……この髪色も気に入らん」
「そうでしょう」
「真盛の生まれ変わりが屋敷にいただろう。そいつを連れて来い」
「思い出されましたか?」
青年の言葉に祐は首を傾げた。
「智弥が屋敷へ来た時、貴方は大変喜ばれました。自らの息子が戻って来たと……その成長を優しく見守っていたではありませんか」
祐は青年を睨んだ。
「何の話しだ」
「貴方は真盛に執着していました。けれども屋敷に戻って来ない、自分の看病も放置し、今際の際にすら訪れなかった真盛を恨んだのでしょう? 貴方は呪を吐きました。般若堂に居るあの男同様、決して死なぬ呪いです。自らの恨みの念でここから動けなくなった貴方と共に、私は貴方の恨みが消え、呪いが解けるのをただ待っていました。智弥が、貴方の心を解きほぐすことを期待していました」
そこまで話して青年は目を伏せた。
「誤算だったのは、真盛に捨てられた双子の片割れが智弥の本来の力を妨げてしまった事。そして智弥自身が弟に嫉妬し、刀の封印を解いてしまった事です。刀の呪詛に煽られた貴方は智弥への執着が自らの復活にすり替わってしまったことにも気付かずに再び呪を吐きました。その呪を、その体の持ち主がずっと智弥に及ばないようにしていてくれたのですよ」
祐はその話を頓には信じられない面持ちで青年を見上げていた。
「何故?」
「貴方の為です」
青年が話していると、狩衣姿の狛が青年の隣に姿を現した。扇子を取り出して開くと、小さな光が二つ飛び出す。その蛍の様な小さな光が祐の周りを右往左往しながら飛び交っていた。
「何だ? この虫は……」
「貴方様のご両親です」
祐の顔が驚いた様に青年を見つめた。
「ずっと、探しておられたのでしょう? 父君と母君も貴方様を心配しておられました。たった三歳の息子を一人置いてきてしまったと、ずっと輪廻に帰らずにおられたのですよ」
「嘘だ!」
祐が怒鳴ると、小さな光が祐から離れた。青年は溜息を吐くと、そっと目を細めた。
「貴方様も、あったはずの幸せな家族に恋い焦がれ、執着したのでしょう?」
「煩い。黙れ!」
祐が刀を取り出すと、急にその刀の切っ先に誰かが舞い降りた。紺の作務衣を着た少年が刀を弾くと、祐は驚いて後退する。
「狛」
「ほれ、受け取るのじゃ!」
狛が扇子を投げると、明神は扇子を取って開いた。祐が冷や汗を流すと、明神は虎斑竹で出来た総竹扇を広げた。
「あんたの嫁と子供を見つけて来た」
そう言って扇を仰ぐと、目の前に着物姿の女が現れた。女は祐に近付くと、そっと頬に触れる。
「こんなところに居たのね」
女がにこりと笑うと、祐の体から黒い光が抜け、年老いた男の姿に変わる。
「吉野……」
「志月、ずっと待っていたのよ?」
男は懐かしむ様に吉野を抱きしめた。不意に吉野が抱いていた御包みを見ると、産まれたばかりの赤子が寝息を立てている。
「この子は……」
「産まれて来れなかった私と貴方の子供。男の子だったのよ?」
志月は愛おしそうに赤子の顔を眺め、吉野の頬を掴むと額を合わせた。
「夢じゃないだろうか?」
「何を言っているの。今まで、悪い夢を見ていたのですよ」
吉野に言われ、志月は肩を落とした。
三つの頃に、両親が帰って来なくなった。それから一人寂しく生きて、吉野と出会い、彼女との幸せな生活を想像した。自分と血の繋がった家族に恋い焦がれ、やっと子を身籠った吉野が、毎日の様にお腹を擦って子守唄を歌うのを聞きながら、この生活がずっと続く事を願った。産まれてくる子が男の子だろうか? 女の子だろうか? と嬉しそうに名前を考えていた彼女の横顔が、ある日突然、なんの前触れもなく消えてしまった。
冷たくなった彼女の体を抱き締めても、涙は出なかった。
「男の子でも、女の子でもどっちでもいいよ。お前の子なら、可愛いに決まっているのだから」
志月はそう呟くと二つの死体を布団に寝かせて刀を取った。
両親が三つの頃に出て行ってしまったのでこの刀の事はよく知らない。この屋敷の事も、自分が何者なのかも知らない。けれども、吉野と産まれてくる筈だった我が子の命を奪われた事が我慢ならなかった。
刀に導かれるまま、お堂へ辿り着いた。お堂に横たわっていた男が、志月の顔を見て顔を青くする。
「まさか……生きていたのか? いや、確かに井戸に突き落としたはず……」
動転した男が、聞きもしないのに次から次へと喋り始めた。女に横恋慕して井戸に突き落とした事、それを助けようと志月に顔のよく似た男が井戸を覗き込んだ所を突き落とした事……
「もう二十年も前の事じゃないか、許してく……」
自分でそう言って、やっと気付いたらしい。目の前に居る志月が、二十年前と同じ姿でいるはずがない。男は冷や汗を流して笑った。
「何だ。息子か……」
思わず男の右足小指を潰していた。悲鳴を上げて身悶えるその姿が無様で滑稽だった。
「そうか、お前が元凶だったか……」
男の左手親指を切り落とすと男が顔を引き攣らせて懇願した。
「助けてくれ! 死にたくない!」
「ああ……良いとも」
この指は母親の分、この指は父親の分、これは吉野の分、こっちは産まれてくる筈だった子供の分、それからこの男が今までに殺してきた人間の分……
「手足の指では足りないな……」
男はそう呟くと、男を見据えた。
「お前にも嫁や子供が居たなら同じ目に遭わせてやるのになぁ。まあ自分の事しか考えられないから今まで好きに生きて来れたのだろう? なら、これからも一人でただ生き続けるといい。何もしなくていい。田畑を耕さなくてもいいし、勉強もしなくていい。人の世話もしなくていいし、お金や将来を心配しなくていい。ただここで日がな一日床に臥せているだけでいいんだ。とても素晴らしいではないか」
「あ、ああ……」
男が怯えた表情で志月を見上げていた。手足の指を切り落とされた激痛で、何も言い返せないのだろう。今に傷口から腐り、虫が湧き始めれば、死んだ方がましだったと思うだろう。他人を思い遣る事を知らない男だから、空腹と渇きに耐え兼ねて直ぐ人を襲うのだろう。そうやって罪を上塗りしていればいい。そして欲望のままに自らが犯した罪で呪われ、もっと苦しめばいい。
男に呪詛をかけ、その場を後にした。吉野と子供を弔いながら、あった筈の家族との幸せな日々を思い描いた。
父と母が生きていたなら、吉野の子供が無事に産まれていたなら、きっと喜んだのだろうな……
ありもしない妄想が、やがて吉野と面差しがよく似た真盛の母へ向くのにはそう時間を要さなかった。
徐ろに白髪碧眼の青年を見やると、申し訳無さそうに目を伏せた。彼には本当になんの落ち度も無かった。寧ろ最期まで甲斐甲斐しくこんな自分に優しくしてくれた。それが当然だと、彼の優しさに胡座をかいていた。
「お前には散々酷いことをした」
「さて、何のことですかね」
青年が明後日の方向を向いて言うと、志月は息を吐いた。悪態ついて罵るくらいするのが当然なのに、恨みに任せて殴られても仕方がない自分を許してくれる心優しい息子に思わず笑みが溢れた。
「ありがとう」
志月が呟くと、青年は驚いた様な顔をして志月を見つめる。
「お前は俺の自慢の息子だ」
青年はそれを聞くと優しく微笑んだ。
「父上、地獄でまたお会いしましょう」
こんな自分が、極楽になど行けるはずもないから軽く頷いた。
「そうだな」
きっと、どんな所に居ても、彼は手を差し伸べてくれるのだろう。けれどもその手にしがみつくのは自分勝手な振る舞いだと解っている。だから自分から、彼に手を差し伸べなければならなかったのだ。あの世ではなくこの世で、彼に優しく接してやるべきだったのだ。そうすれば幾らか、この世が極楽であっただろうに、怒りを彼にぶつける事で自らを地獄へ貶めてしまった。
明神が扇を振ると、風に舞い上げられて五つの光が空へ上がって行く。それを見送ると青年は嬉しそうに笑った。
「で、お前はどうすんの?」
「主人の呪詛が解けましたからね。あの世へ隠居したいところですが……」
青年が呟いて祐の体の元へ行くと、そっと抱き上げた。白かった髪が黒くなると、縁側に寝かせて頭を撫でる。
「勝手に俺の体に触るな」
明神にそう言われ、青年は思わず笑った。
「お前の体を造る時に、私は百合姫との子供を想像した。愛してさえいなかった彼女との子供を……どんなに望んだ所で手に入らない、自分と血の繋がった子供を……」
青年の話しに明神はつまらなそうな顔をした。
「だから、お前にも幸せになってもらいたかった」
「俺はもう充分幸せだった」
明神の言葉に青年が不思議そうに振り返った。明神は扇を開くと、そっと目を伏せる。
「天の原 踏み轟かし 鳴る神も 思う仲をば 裂くるものかは」
明神が和歌を呟くと、青年の隣りに百合姫の姿が現れ、にこりと微笑みかけた。
「お前、知らないんだろうけど、愛って執着って意味だけじゃないんだよ。可愛がるとか、相手を大事に思うとか、お互いを思い遣ることも愛って言うんだ」
青年がそっと百合姫の頭を撫でると、百合姫が恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「……そう……」
「さっさと成仏しろ。親父」
明神が呟くと、青年は驚いた様に彼を見据えた。けれども嬉しそうに笑うと、そっと手を伸ばす。
「私を父と呼んでくれるのかい?」
「でないと消えないんだろ? こっちが落ち落ち死んでいられない」
明神はその手を取ると、一面に光が溢れた。光が消えると、縁側に横たわる死体と、その傍に灰色の仔犬が寄り添っているきりで、辺りはしんと静まり返っていた。
般若堂に居る魑魅魍魎達が騒ぎ始めた。干乾びた老人はお堂の開かれた扉から光が幾つか空へ登って行くのを見て目を輝かせている。
「これでやっと……」
老人がそう呟くと、体に蛇や百足が絡み付いた。蛇の頭が、口の避けた女の顔になっている。
「散々私達を苦しめておいて、自分だけ救われようったってそうはいかないよ」
そこここに散らばった手や足が、お堂の隅からぞろぞろと這い出てくる。長い髪や目玉が天井から降ってくると、智弥は後退した。
「許してくれ……」
老人の悲鳴が木霊する。智弥が外に出ようとすると黒髪が足首を掴んだ。
「何処へ行く?」
髪の毛の塊が智弥の眼の前に迫ると、不意にそれが弾け、足に絡まった髪の毛が外れた。青い袴姿の子供に外へ押し出されると、扉が閉まる。智弥は扉を開けようとするが開かない。
「左慶!」
自分の代わりにお堂へ閉じ込められた左慶の名を呼ぶが返事がない。力任せに扉を開けようとすると襟首掴まれて庭に尻餅を着いた。驚いた智弥が顔を上げる。もう日が沈んで辺りは暗くなっていた。
「君は……?」
神崎は泣いている椿を抱えて行く宛もなく歩いた。
「泣くな」
頭を優しく撫でてそう声をかけるが、なかなか泣き止まない。
「椿、お前あんな奴の所にいないで、俺のとこに来ないか?」
椿はそれを聴くとぴたりと泣き止んだ。
「本当に?」
「今更一人二人増えたってどうってことねぇよ。かくいう俺も親父とは血の繋がり無いし……」
椿はそれを聞いて首を傾げた。
「どうも母親が五股かけてたらしくてさ、一番金持ってた俺の親父と結婚した時には既に身籠っていたらしい。俺らが産まれた頃にバブルが弾けて会社が四つくらい潰れて、パニックになって片方は連絡付いた男に押し付けたんだってさ。親父はそれを知らなかったらしいけど、母親も亡くなったし、後妻との間に弟が産まれてから遺伝子検査をしたら俺と親父は赤の他人だって証明されちまったの。今更親子じゃないと解って他所へ出すのも体裁悪いから置いてはくれているけど、家の事は九つ下の弟に全部継がせるってさ。お陰で好き勝手させてもらってる……」
神崎はそこまで話して溜息を吐いた。
「だからさ、血の繋がりだけが親子の絆では無いと俺は思う」
椿はその言葉に聞き覚えがあって記憶の中を探った。
「クロガネ?」
椿が問うと、神崎は首を傾げた。不意に角を曲った先であの黒い中型犬を見つけると、その後ろをついて行く。住宅街で追い付くと、神崎は犬に声をかけた。
「おい、何処へ……」
「やっと、役目が終わる」
犬が呟くと、椿は神崎から下りて犬の背中にしがみついた。
「クロガネ、どっか行っちゃうの?」
椿の額が夕日で茜色に染まっている。神崎はその様子に何故か懐かしさを覚えた。
「昔、双子の兄貴の嫁を寝取った事があってな、その罪でこんな姿にされてしまった」
鉄はそう呟くと椿の額をぺろりと舐めた。
「お前が心配でな、屋敷に居てやれればよかったのだが、思念だけではどうも屋敷に近付けなくて、ずっとお前が呪縛から外れて出てくるのを待っていたのよ」
「私、屋敷で待っていれば鉄が迎えに来てくれると思ってた!」
椿の言葉に犬は首を傾げた。
「お前が待っていたのは真盛の方だろう? 真盛と、母親と、双子の弟と一緒に暮らす幸せな日々を待っていたのだろう?」
「それは……そうだけど……でも、鉄も一緒じゃなきゃ嫌だ」
鉄は椿の言葉に笑った。
「そうか、お前の幸せの中に俺も入れてくれるのか。お前は良い子だな」
鉄の目に涙が浮かんでいる。
「御魂伏の刀の封印なんぞをお前に託してしまった自分を呪い、ずっとここに留まっていたが、お前は俺を許してくれるのか?」
「マナは鉄の事を恨んだこと無いよ」
椿ではなく、前の名前で自分の事を呼ぶのを聞いて鉄はふふっと笑った。
「……そうか」
鉄は神崎を見上げると、椿も神崎を見上げた。
「俺はこの姿だったからあの刀を扱うことは出来なかった。けれども今のお前なら、御魂伏を正しく扱う事が出来るだろう」
鉄の言葉に神崎は首を傾げた。
「大昔の負の遺産ってやつ?」
神崎が聴くと、鉄は椿を見やった。椿は眉根を寄せ、困った顔をしている。
「だって覚えてないんだもん」
鉄は溜息を吐くと後ろ足で耳の後ろをかいた。
「神代の大戦の折に神を殺していった刀だ。又の名を神殺しの刀と呼ばれている。神の怨念を吸った刀を、皆気味悪がって匙を投げたのに、この土地の女神、愛姫の神だけがこの土地に封印することを了承してくれた。だから、代々この土地を守る必要があった」
鉄の話に神崎は息を飲んだ。
「何でそんな刀……」
「元々は日緋色金で出来た刀だから普通の人間の目に触れることはない。けれども御魂伏の封印を解いた阿呆が一族から出てな。刀に染み付いた神の怨念と、その人間の憎悪とが呼応したんだろう」
鉄はそう話しながら再び歩き始めた。椿と神崎も付いて行く。
「そんな刀を、何で俺が扱えるって?」
「大戦の時に最前線で神々を殺していった者が居たが、まあ一部の神々にとっては都合が悪かったのだろう。利用するだけ利用して、自分達の名誉の為にその神の功績は別の神の功績にし、神としての名をも剥奪した。その上、刀の所在は有耶無耶にした」
鉄の言葉に神崎は首を傾げた。
「お前はその名を剥奪された神殺しの生まれ変わりだ」
犬の目がゆっくりと開いた。黒い毛の間から碧い両眼が覗くと、神崎は戸惑いながらもサングラスを外し、その瞳を見つめた。
霞雲は不満そうな顔をしながら目の前を歩いている伊織の背中を睨んでいる。
「帰るって言ったくせに……」
「お堂の方で何か気配を感じます。坊っちゃんの封印に何かの綻びでも出来ていたら厄介です。嫌ならどうぞお一人でお帰り下さい」
伊織がそう言って草木を掻き分けて登って行く。
こいつは詐欺師だ! 帰る帰る詐欺師だ!
と、心の中でぼやいてみたが、伊織の話は尤もだ。霞雲は大きな溜息を吐くと呪符を取り出す。呪文を唱えて息を吹きかけると札が白虎の姿に変わり、それに跨ると伊織を白虎の背に乗せる。
「ちんたら歩いてたら夜が明けちまうぜ。ちゃんと掴まってろよ」
霞雲が言うと、白虎が空を飛ぶ。あっという間にお堂の前に降り立つと、白虎の姿が呪符に戻り、霞雲はその場に突っ伏した。
「うぇ、吐きそう……」
伊織はそんな霞雲を放って置いてお堂へ近付いた。ちゃんと銀の輪で封じられている。けれどもその封印の中に人影を見つけ、巻物を開いた。
神崎は鉄に導かれるまま住宅街にある一軒家の前に立っていた。表札には橋本と書かれている。鉄がドアをすり抜けて中へ入って行くと、ドアが開いて橋本 直人が顔を出した。神崎のシャツに描かれた龍の絵と、サングラス姿にたじろいでドアを閉めようとすると、椿が声を上げた。
「待って!」
椿の声で閉めかけたドアを開けると、直人は二人を見つめた。赤髪の幼女と、背の高い男が立っている。
「子連れヤクザ……」
「違ぇよ」
神崎がそう言ってサングラスを取ると、碧い瞳が覗く。
「明神のお兄さん?」
直人が問うが、神崎には何のことを言われているのか解らなかった。直人は周りを見渡すが、明神の姿は無い。
「明神は?」
「あいつは死んだ」
不意に黒い犬が現れて直人は目を丸くする。犬が喋ることにも驚いたが、その犬の言っている事が俄には信じられなかった。
「嘘だ……」
「般若堂の解体にはあいつの力も要る。だからお前に呼び戻して貰いたい」
「呼び戻す?」
戸惑いながら外へ出ると、三人を取り囲む様に地面に陣が現れる。眩しさから直人が目を閉じると、やっと光が消え、夜の闇の中に佇んでいた。
「坊っちゃん!」
伊織の声に、神崎が驚いた様に目を丸くする。さっき自分が封じた筈の銀の輪が極々細い糸になり、切れかかっている。その輪の内側から刹那が智弥を引っ張って出て来ると、辛うじて耐えていた一本の銀の輪が、音を立てて弾けた。もう一度封じようとしたが、お堂の中で蠢いていた怨霊が黒い柱の様になって天へ向かって吹き出す。そこから四方八方へ魑魅魍魎が飛び出すと、伊織が巻物を出した。
「捕縛」
巻物から梵字が飛び出し、逃げようとする怨霊を捕まえるが、数が多すぎて半分も捕まえられない。神崎が中空を指でなぞると、お堂の周りに銀の輪が現れるが、飛び出した怨霊の頭が目前に迫る。骸骨が大きく口を開き、白い歯が並ぶその口の中は闇へ続いている様だった。
「かけまくも」
椿が叫ぶと白い犬神が現れ、骸骨に体当たりする。骨がバラバラに別れて消えると、神崎は驚きながらも作業を続ける。椿も隣で祓え祝詞を唱えた。神崎が左手を空に掲げて手を振り下ろすと轟音を上げて雷が落ちた。お堂へ落ちた雷が炎を上げ、魑魅魍魎を焼き払っている。けれども逃げた幾つもの怨霊がまだ四方八方へ散っていた。それを追って犬神が空を駆けていく。椿が祓え祝詞を唱え終えると雨が降り始めた。その雨が魑魅魍魎が吐き出した瘴気を和らげてくれている。
「霞雲! 何やってんの!」
後方で胃液を吐いている霞雲に刹那が声をかけるが、本当に動けないらしい。
「……何で刹那がここに……」
「ホテルで待っててもつまらないからここまで百合ちゃんを探しに来たら、こいつがお堂に居て、引っ張り出したのよ!」
刹那はそう言って智弥から手を離すと、霞雲の背中を擦った。刹那から離された智弥はやっと立ち上がって空を見上げる。智弥の周りを風が吹き上げ旋風になり、逃げて行った妖かしを捕らえている。刹那のお陰で回復した霞雲は人差し指と中指を立てて呪文を唱えた。
「伊織! 東へ避けて!」
刹那が叫び、伊織が巻物を左側へずらすと梵字も左側にずれ、怨霊が迫ってくる。呪文を唱え終えた霞雲の方から赤い閃光が飛び出し、妖かしを捕らえていく。伊織はそれを見て横目で刹那を見つめた。もし、さっきの声掛けが無ければ、また味方同士の術が重なり、押し退けあってしまう所だった。
「刹那! お前に指示を頼む!」
伊織にそう言われるが、背後から飛び出した小鬼が、直人に牙を向ける。
「何? 何々? どういう状況?!」
状況が飲み込めず、困惑する直人に刹那が肩に触れると、二人の周りに結界が現れて小鬼を弾いた。
「霞雲、ここに陣を張って! この子、霊と波長が合いやすいみたい。飛び出した怨霊を引き寄せてくれる!」
「まじかよ。なんちゅうー体質してんだ」
霞雲はそう言いつつ、言われるままに足元へ陣を貼る。赤い陣が直人を囲う様に四つ現れると、直人目掛けて寄って来た怨霊が悲鳴を上げて消えていく。
「伊織はそのまま逃げようとしている妖かしを捕まえて!」
刹那は指示を出すが、それでも怨霊の数が減らない。
「地獄の釜の蓋でも開いてるんじゃないかしら?」
刹那が呟くと、直人は燃え盛る般若堂を見つめた。
銀の月光を浴び、降っていた雨粒が闇夜に白虹をかけた。智弥の旋風が集めた魑魅魍魎を神崎の雷が焼き、金の光が闇夜を切り裂いた。散り散りに散って行った外周の悪霊を大きな犬神が食べている。歯を鳴らす度に白群の火花が飛び、妖かしの吐く萌葱色の瘴気が鈍く光っている。直人に向かって来る怨霊を霞雲が黄丹の閃光で滅し、地を這って逃げようとする虫を伊織の梵字が捕らえると、紫の煙になって消えた。直人を守る為の刹那の結界が翡翠色に光ると、直人は花火でも眺めている様な不思議な気分になった。
「足りない……」
疲れ果てた椿が座り込んで呟いた。まだ多くの怨霊が飛び交っている。
時間が経つに連れ、皆疲弊してきて光が弱くなって行く。直人は明神の事を思い出した。以前、ここへ来た時に相性が悪いと言っていた。それなのに、自分を助けに来てくれた。
刹那も座り込み、翡翠色の結界が消えると、直人は大きく息を吸った。
「明神!」
直人が叫ぶと、眼の前に紺の作務衣を纏った明神が姿を現した。虎斑竹の総竹扇を広げ、向かって来る小鬼をひらりと交わす。明神が振り返って直人へ扇を差し出すと、直人は驚いて目を丸くした。いつもの、何を考えているのか解らない顔で真っ直ぐに直人を見つめている。
「その瞳に映る全てのものに宿る神々に弥栄を」
明神の瞳が碧色に輝くと、直人の周りから小さな光が幾つも飛び出した。土や石や花や草木から極々小さな光の粒がそこここから飛び出していく。直人が驚いて周りを見渡すと、直人が見渡す先からどんどん白い光が飛び上がった。それが百、千、万と数えきれない程の数になり、皆の体に入って行く。
皆も回復したのか、其々に術を発動させ、自分たちに出来る限りの力を振り絞った。
「時を経て、世を妨ぐる障碍鬼、恨み捨つるぞ祟り成すなよ」
明神が地面から空へ向かって扇を振り上げると、白い光が蚤や壁蝨に擬態した鬼を捕まえ、其々に集まりながら空へ上がって行く。
「碧空の豊旗雲に導かれ、今宵の月夜清く照りこそ」
明神がそう言って扇子を閉じると、目を閉じて直人に軽く頭を下げた。空に上がっていった光が雲に溶けていく。
「明神! 来てくれたの?」
直人が聞くが、明神は何も答えず煙の様に消えてしまった。
「明神……?」
周りを見渡すが、明神の姿は無い。皆疲れ果て、しんと静まり返っている。不意に椿が声を上げた。
「隱神……?」
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