第10話 再会

 真珠の様な月に照らされ、空に浮かんだ雲が銀に光り、ゆっくりと夜空を流れて行く。闇に散りばめられた星を幾つか数えながら明神はぼうっと空を眺めていた。やっと、片付けを終えたクレハが、静かに明神の隣へ腰掛けた。

「まだ居たのか」

 赤い羽織を着たクレハはそれを聞いて微笑する。

「あのままではいくらなんでも可愛そうですから」

 障子を閉めた部屋の先に、新しい作務衣に着替、布団に寝かされた自分の体が横たわっている。

「別に俺は気にしない」

「時仁様と智弥様の為ですよ」

 クレハの言葉に明神は目を伏せた。

「……そうか」

「では、私ももう逝きますね」

 紅く色付いた楓の葉が、一つ、また一つとクレハの体から剥がれるように空へ登っていく。

「ありがとう」

 明神が呟くと、クレハはにこりと笑い、沢山の紅葉の葉に変わると、天へ向かって一直線に登って行った。夜の闇へ溶けていく真紅の葉が少し名残惜しくなった。庭の隅に生えた露草や、植えられた木々が静かに風に囁やいている。鈴虫の声があちこちで音を鳴らすと、その音が一瞬ピタリと止まった。

「……」

 人の声に、明神は瞳を宙に泳がせた。その場に居ながら、門前に誰かが立っている人影が瞳に映る。周りに視線を這わすが、一人らしい。明神は思わず溜息を吐いた。

 一人で来るなと書いておいたんだが……

 やっと、兄である智弥が来たのだろう。明神は重い腰を上げると庭に出た。

 やっと、輪廻に還れる……次は普通のありふれた人間に生まれ変われたなら良いのだけれど……

 不意に百合の姿を思い出して目を伏せた。

 上手くすれば、彼女が生きている間に転生出来るだろう。そして、彼女の幸せを見届けてやれるだろうか? 彼女の幸せの手助けが出来る立場であれば良いが……

「散花もまた来む春は見もやせむやがて忘れし人ぞ恋しき」

 自分で呟いて、何だか未練たらしいと思った。いつまでも一人の女に執着してここに留まっていても仕方が無い。明神はそう思い直すと、門戸が開く音を聞いてゆるゆると雲の様になって消えて行く。秋の庭に誰かの声が響いていた。



 姫宮 百合は山道をひたすら歩いた。歩く度に自分が枯れ葉を踏む音だけが響く。椚の森を抜け、姫沙羅の木を横切った時、長い髪を枝葉が優しく撫でた。

 やがて獣道が古い石段に変わった。草木に覆われ、石段も幾つか外れて転がっている。日も暮れた頃にやっと、大きな四脚門が見えて百合は大きく息を吐いた。

 もう辺りは暗くなっている。木々の隙間から見える空にも星が一つ、二つと煌めいていた。

「あの……すみません。誰か居ませんか?」

 大きな門を叩いて叫んだ。門の鍵は空いていて、押すと簡単に開く。門の向こうは白い砂が敷き詰められた広い庭があり、大きな屋敷の玄関まで飛び石が並んでいる。百合は恐る恐る庭に入り、玄関に立った。呼び鈴がないのを見てそっと玄関の硝子戸を叩いた。

「すみません、誰か居ませんか?」

 大きな屋敷なのに、しんと静まり返っていた。もう辺りは暗くなっているのに電気もついていない。空き家だったのだろうかと百合は俯いた。

「……」

 何故か、既視感があった。以前にも、似たような事があった気がする。あの時は確か雨が降っていた。振り返った視線の先に誰かが立っていた。

 そう思い返して振り向くと、三つ程先の飛び石の上に、紺の作務衣姿の少年が立っている。百合は彼の姿を見て少し戸惑った。

「あの……」

 百合の言葉に少年の表情は変わらなかった。まるで人形の様に瞬き一つしない。赤い梅結びの柄がついた手拭いを頭に巻いていて、首には封じ結びの赤い紐を下げている。

 彼がゆっくりと近付いて来ると、何も言わずに玄関の戸を開けた。

 広い土間があり、杉の靴箱が右手にある。左手には高い上がり端があって障子で閉じられていた。玄関の正面には廊下が真っ直ぐ伸びていて、土間と廊下の堺に玉簾がぶら下がっている。少年が壁のスイッチを押すと土間の天井にぶら下がった豆電球が瞬きして明かりを灯した。百合は何となくほっとしていた。

「もし良ければ、一晩泊めていただけないでしょうか?」

 少年の表情は変わらないが、こくりと頷いたのを見て百合は瞳を輝かせた。

「ありがとうございます!」

 深々と頭を下げ、土間に入った。何も喋らない彼の後ろに着いていく。彼は部屋に案内すると、布団を出してくれた。手伝おうとすると手であしらわれたので百合は不思議そうに首を傾げた。

「もしかして、口がきけないの?」

 彼は頷いてみせた。

「耳は聞こえる?」

 自分の耳を指して問うと、右耳を右手で仰ぐようにしたので百合は俯いた。

「ごめんなさい……」

 百合が呟くと、百合のお腹が悲鳴を上げた。百合が恥ずかしそうにしたが、耳が聞こえていないのは幸いだったと思う。けれども彼が「夕餉」と書かれたメモ帳を差し出したので、百合は少年の顔を見つめた。彼の表情は相変わらずだった。

「あ、ごめんなさい。手伝います!」

 そうは言ったが、彼は首を横に振った。彼に案内されるまま廊下を歩くと、トイレと風呂場を案内された。どうやら夕飯の支度をしている間にお風呂を済ませておけと言いたいらしい。

「あの……でも……」

 必死に記憶の中から自分に出来る手話を思い出した。左手の親指を立て、右手でその親指の後ろを二回叩いて手伝う事を伝えるが、やはり少年は首を横に振った。額を右の指で突いて邪魔だと応えられ、百合は渋々風呂場に入った。

 風呂から上がると、美味しそうな匂いに連れられて廊下を歩いた。台所に少年が立っている。隣の居間に卓袱台があり、その上に茶碗によそったご飯と味噌汁、お新香と魚の塩焼きが並べられていた。けれども一人分しか並べられていないのを見て百合は戸惑った。少年は何も言わず、湯呑にお茶を淹れて卓袱台に置いた。

「一緒に食べませんか?」

 両手の人差し指を出して左右から中央へ引き寄せ、食べる仕草をすると、少年は首を横に振った。

 百合は困った顔をしたが、ふと自己紹介をしていない事に気付いてぎこちなく手話で自分の名前を伝えた。

「私の名前は姫宮 百合です。宜しくお願いします」

 彼はじっとそれを見ていたが、軽く会釈しただけで表情は硬い。

「貴方の名前は?」

 手話で聴くと、一瞬睨まれた様な気がした。急に立ち上がり、居間を出て行ってしまった。怒らせてしまったのだろうかと考えていると、自分のお腹が悲鳴を上げたので箸を取った。

「たなつもの百の木草も天照日の大神の恵み得てこそ いただきます」

 和歌を呟いていた。いつ誰に教わったのかは思い出せないが、そうするのが癖になっていた。家では小声で呟くのだが、ある時祖母に和歌を聞かれてしまった事があった。

「また、あまり聞かない和歌を……」

 そう言われて思わず首を傾げた。

「百人一首ならいざ知らず、古神道の食前感謝の和歌なんぞ学校でも習わないだろうに」

「そう仰るお祖母様はご存知なのですね」

「長く生きていれば色んな人と会うものなんだよ」

 そう言われた時、祖母が羨ましく思えた。祖母はその人生の中で色んな人と出会い、その人との繋がりを大切にしてきた人なのだ。だから色んな事を知っているし、顔も広い。

「とても羨ましいです。私もお祖母様の様になれるでしょうか?」

 祖母はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「人を見極める目が少し足りないけれども、その素直さがあれば何処へ行っても誰かが手を差しのべてくれるだろう」

 祖母の言葉を思い出しながら温かい味噌汁を啜ると胃が温まってほっとする。

「美味しい!」

 自分が作ったのより美味しいと心の底から絶賛した。お腹が空いていたというのもそうなのだろうが、あっという間にご飯を平らげていた。食器を洗って台所と居間の電気を消すと、丸い月明かりが煌々と輝いていた。



 居間から出て廊下を見回すと、縁側に座って夜空を仰いでいる少年が目に映った。恐る恐る近付くが、気付かないらしい。隣に座り、指で肩を叩くと、少年はゆっくりとこっちを向いた。

「えと……お父さんとお母さんは?」

 手話を交えて話すが、またあの睨む様な目に聞いてはいけないことだっただろうかと息を飲んだ。

「一人暮らし?」

 再度聞くと、彼は頷いた。

「寂しくないですか?」

 百合の手の動きを見た少年は左の掌の下に人差し指を伸ばした右手を潜らせた。何故? と聞き返されて百合は戸惑った。寂しいに決まっていると思ったのだが、まさか聞き返されると思っていなかったので戸惑う。百合が困っていると、少年は立ち上がった。お休みと身振りするのを見て百合は咄嗟に彼の腕を掴んだ。

「待って!」

 直ぐに振り払われたが、彼の腕が氷の様に冷たかった。百合は思わず立ち上がると、振り払われた手を両手で掴んだ。

「大変! こんなに冷たくなって……」

 両手で擦るが、彼が嫌がって手を引っ込めると、百合は困っていた。

「えっと、今、お湯沸かすから……えっと、お湯って手話でどうするのかな……」

 百合は必死に伝えようとするが、うまくいかない。空書を思い出して指で字を書くと、どうやら伝わったらしい。けれども彼は首を横に振った。右手の人差し指で自分の胸の辺りで丸をかくと、手を合わせて軽く会釈した。どうやら気持ちだけで良いと言いたいらしい。

「でも、寒くないですか?」

 彼はそれにも首を横に振る。百合は右手で自分を指した後、少年を指し示して両手を握手した。

「友達になれるかな?」

 そっと首を横に振ると百合は彼が首から下げている赤い封じ結びに手を伸ばした。解けかけている紐を解くと、慣れた手付きで結び直す。八坂紋結びにすると、少年が不思議そうにそれを見つめた。

「ごめんね。私にはそれくらいしかしてあげられなくて……」

 そう言うと、唇を読んだのか、彼は小首を傾げた。右手の人差し指を立てて自分の目尻を指し示すと、百合は意味が解らなくて首を傾げる。その様子に伝わっていないのだと気付いた少年は部屋から紙と鉛筆を持って来た。更々と慣れた手付きで綺麗な文字を書く。

『もう沢山貰った』

 その文字に、百合は再び首を傾げた。少年から鉛筆を取り上げると、少年の文字の横に文字を書き足す。

「何もしてないよ?」

 百合がそう言いながら書き、少年へ鉛筆を差し出した。少年は再び鉛筆を走らせる。

『優しい眼差しと、笑顔と、素敵な言葉、こんな自分に何かしたいと思う気持ち、時間と手間を惜しんで紐を結び直してくれた事、気持ちよく過ごせるように片付けてくれた事。自分には勿体ないくらい沢山貰ってしまった』

 百合はそれを見て、無財の七施のことだと思った。この人は同い年に見えるのに、とても心が綺麗で物をよく知っている人だと思う。何故か、前から知っている人の様な感覚があった。少年の手が止まると、百合は鉛筆を取った。

「もしかして、前にも会ったことがある?」

 彼の表情が少し強張った。百合はその様子に再び鉛筆を走らせる。

「私のことを知ってる?」

 百合が書き終わる前に、少年は紙を握り潰した。百合が驚いて顔を上げると、彼のくすんだ瞳が百合を睨んでいる。

「怒ってる?」

 何故怒ったのか解らなかった。不意に何か言葉が浮かぶ。

「明神くん?」

 耳の聞こえない彼が、ゆっくりと瞬きをして百合の唇を見つめる。

「明神 祐くん?」

 百合が問い掛ける様に言うと、少年は辛そうに顔を歪めた。逃げるように去って行く彼の後ろ姿を何故か追うことが出来なかった。



 夜半、百合はなかなか寝付けなくて起き上がると、台所へ向かった。水を一口……と思って居たのだが、居間の障子が開いている。周りを気にしながら静かに廊下を歩くと、居間の卓袱台に突っ伏して寝ている少年を見つけて百合はほっと胸を撫で下ろした。毛布を持ってきて体にかけるが、眠りが深いのか起きない。そっと右手に触れるが、やはり冷え切っていた。

 ふと、彼の傍らに手紙が一枚落ちている事に気付いた。それを手に取ると、月明かりに照らされ、丁寧に書かれた字が並ぶ。百合はその字に見覚えがあった。

 急に手紙を取り上げられ、百合は手紙を目で追う。さっきまで寝ていた彼が、睨む様にこちらを見ていた。

「その手紙、私の字だよね? 私、そんなの書いた覚えない。あなたは何を知っているの?」

 耳が聞こえていない事を思い出して手話で話そうとしたが、頭が回らなかった。目の前で手紙を破かれると、百合は思わず叫んだ。

「やめて!」

「何しに戻って来た?」

 声がして一瞬戸惑った。彼の瞳に、自分の顔が鏡のように映っている。

「……話せるの?」

「お前のせいでな」

 意味が解らなくて困惑する。百合はゆっくりと深呼吸した。

「その手紙はなに?」

「知らない」

 即答され、百合は不満そうに眉根を寄せた。

「気がついたら持っていた。死ぬ前に何があったかなんて覚えてない。お前と筆談した時に文字の癖が同じだと思った。ただそれだけだ」

 嘘をついているようには見えなかった。彼が立ち上がって行ってしまおうとすると、思わず彼の腕を掴んだ。

「待って!」

 弾く様に手荒く振り払われて萎縮する。思わず涙が滲んだ。

「祐くん……」

 振り返った彼が睨むと、思わず後退った。

「二度とその名で呼ぶな!」

「じゃあ、何て呼べばいいの?」

「鬼でも犬でも、好きに呼べばいいだろ」

「なら祐くんでもいいじゃない!」

 百合が反論すると、少年は彼女の頬を叩いた。

「お前が俺の名前を呼ぶ度に呪詛が発動する。その呪詛はお前が俺を使役する為の呪詛だ。お前にその気がなくてもだ。俺にとっては兄貴からお前に主人がすげ替わるだけで自由になるわけでも、ましてや生きていた頃の人間に戻れるわけでもない。俺はお前の式神に下るのなんて願い下げだ!」

 彼の怒号に、体が小刻みに震えた。叩かれた頬の痛みよりも、恐怖の方が上回っていた。

「そんなの知らないよ……」

「何も知らないまま現し世を楽しんでいれば良いものを、下手に思い出してこんな所まで押しかけて来て……本当、碌でも無い女だな」

 頭の中に、薄っすらとここで過ごした事を思い出した。優しかった彼の事を思い出すと、涙が頬を伝う。

「ごめんね……」

 折角書いてくれた返事の手紙、何処に行っちゃったのかな? 思い出そうとするが、解らなかった。ここを追い出された時、七宝編みの籠鞄を持っていた。その中に紫色の風呂敷に包まれた財布と型紙と小町紅とバレッタがあった。その中の何処にも手紙は無かった。

「私が……蝶の意味を理解して、泣いて縋ってでもここに残れば、こんなことにならなかったの?」

 蝶となって翔び立つ事を許せと彼は言った。あの時は、他に好きな人が出来て、そっちの花へ心変わりしたのだという意味だと思った。だから、自分の我儘を通してここに残るのは間違いだと思った。

「知らない」

 彼の言葉に百合は目を伏せた。もう、自分が知っている明神くんではないのだとやっと悟った。

「ただ、お前がいなければ俺は死なずに済んだ」

 意味が理解できなくてゆっくりと顔を上げた。

「お前の切れた寿命に、俺の寿命を挿げ替えている。でなければ俺の名前を言い当てたくらいで呪詛が発動するはずない」

 まるで空が降ってくるような衝撃が走った。罪悪感と後悔が波の様に押し寄せてくる。

「どうして……?」

「生あるものは何れ死ぬものだ。だから別に寿命をお前に挿げ替えた所でこいつは何とも思ってない。死ぬのが早いか遅いかだけのこと。でなきゃお前に命を譲るなんて普通なら出来ない。でもやってのけている。自分の命を捨てる事で他の命が助かるなら安いものだと思っている。それは人だけじゃない。家畜も魚も、果物も草も……自分が死んで他の命を繋ぐ事は当たり前なんだ」

「そんなのおかしいよ!」

 思わず叫んでいた。自分のせいで大切な人が命を投げ出したなどと考えるだけで体が震える。彼だって生きたかった筈だ。生きて……

 不意に、どんな願いも叶える鬼の話を思い出した。

「明神くん、蘇って……元の優しかった明神くんに……」

「お前はとっくに死んでいる男の蘇りを望むのか? 男なら他に幾らでもいるのに最低だな」

「私だって、女の人なら幾らでも居るじゃない! それなのに……どうして私を選んでくれたの……?」

 花なら幾らでも咲いていたのに、どうして私に目を留めてくれたの? 勉強も出来ない、ミシンの使い方も、着物の着付けも知らなかった。字も丁寧じゃないし、姿勢だって何度も注意された。そんな自分を、一つ一つ教えて綺麗にしてくれたのは明神くんだった。こんな、どうしようもなかった自分を救い上げてくれたのに、私は彼に何一つ返す事が出来なかった。

「知らない」

 彼の言葉に脱力した。自分は、どんな答えが欲しかったのだろう? 愛していたからだと言って欲しかったのだろうか? それとも、ただの気紛れだと……何かの間違いだったのだと言われれば幾らかこの苦しみから逃れる事が出来ただろうか?

「返すから……」

 ゆっくりと言葉を繰り返した。

「返すから、私の命を明神くんに返すから……だから……」

 思い切り頭を叩かれて百合は萎縮した。

「お前は……お前の為に命を投げ出した男の分まで生きようと思わないのか! そいつの分まで幸せになろうと何故願わない? こいつの死を無駄にするつもりか?!」

「思えないよ!」

 大切な人を犠牲にして幸せになんてなれるはずがない……これから先、生きていく上で何度も彼のことを思い出すだろう。その度に、彼がいたなら、彼が生きていたならと何度考えることだろう。

「私……そんなに強くなれないよ」

 彼が呆れた様に溜息を吐いた。

「そんなに未練があるなら断ち切ってやるよ」

 百合が顔を上げると、彼は徐に刀を取り出した。月光を吸い込んだ刃が銀の光を反射させる。その刃を彼は自分の首に当てた。それを見た百合が顔を真っ青にする。

「やめて……」

「そうやって、一生苦しみ続けろ」

 刀を引くと、首の肉が削がれた。赤い鮮血が花弁に変わってそこここに散らばる。百合は咄嗟に彼に手を伸ばした。

「いやだ……」

 倒れた彼の首から刀を抜くと、首の傷口に手を当てる。次から次へと流れ出る紅い花弁に涙が止まらなかった。

「私だけ生きていてごめんね」

 刀の切っ先を自分に向けると、微かに微笑んだ。

「今度こそ獅子と牡丹でいようね」

 きっと、怒られると思う。けれども明神くんなら、優しく抱き止めてくれると信じていた。

「人知れず思ふ心は深見草花咲きてこそ色にいでけれ」

 懐かしむ様に呟いていた。あの頃に戻りたい。あの頃に戻って、全部やり直す事が出来たなら……そう思うと、月光を鈍く含んだ刃を胸に押し当てた。

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