第7話 呪詛
草葉の影に、虫が潜んでいる。伊織は眼鏡を掛け直すと巻物を広げた。上下に軽く振ると、巻物に書かれていた梵字が浮き上がる。
「闇に紛れし愚かな魂よ、地の底に沈め」
中空に浮いていた幾つもの梵字がそこここに潜んでいた蜂や虻を捉える。
「臨める者闘う兵皆陣烈して前に在り! 急急如律令!」
伊織の背後から呪符が舞い、呪符が梵字を跳ね除けた。一匹空へ逃げて行くのを見送ると、伊織は頬を引くつかせた。
「タイミング合わせろ。下手くそ」
「ああん?! 俺は、いっつも一人で妖怪退治してるの! 誰かと組むとかした事ねーんだよ!」
「うっわ、役立たず」
伊織はそこまで言って、不意に神崎の言葉を思い出した。
「だから、俺一人で十分……」
「呪符の枚数は?」
「三十枚お前が書かせただろうが!」
「ざっと見積もってこの山の周辺には今、五十匹くらいの妖かしが潜んでいる」
伊織の言葉に霞雲は神妙な顔をした。
「一匹につき一枚使っていても足りない。その上相手は蚤や壁蝨に擬態しているのも居る。そんな的の小さい相手に今のやり方では非効率だ」
「そんなのは放っておけば……」
「蚤に擬態した妖かしはよく肥えた飼い犬や飼い猫に寄生する。動物の血を吸った妖かしは夜叉になり、寄生した動物を殺す。動物が死んだら今度は人間の子供に寄生して宿主の血を吸い、地夜叉になる。その後は大人の人間に寄生し、やがて天夜叉になり、十人血を吸うと虚空夜叉になって空を飛び、人を襲う。たかが蚤一匹と侮ると痛い目見るぞ」
伊織が説明すると、霞雲は口をへの字に曲げた。
「細かい虫は人を病気にさせる。それは肉体的なものだけじゃない。精神的な病も誘発させる。切羽詰まった人間に取り憑くと、人の道から外れさせようとして刃傷沙汰を起こさせる。だから未然に防ぐ事が大事なんだ」
「大抵の人間は取り憑かれやしない」
「そりゃあ心も体も健康なら問題ない。けど、心に問題を抱えた人間が取り憑かれて、その健康な人間に刃物を向けないとは限らないだろ」
少しは勉強しろこの馬鹿! と言いかけて留まった。陰陽師の末裔とはいえ、本家から離れていると言っていたので、そういったことを知らないのだろう。かくいう自分も、神崎に教えられるまでは知り得なかった事なのでそこまで責める必要はない。無いけれども、この使えない自称陰陽師の末裔をどうしたものかと頭を悩ませた。
坊っちゃんならどうしますかね……
頭の中で神崎を想像する。彼は頭が良い。能力も実力もある。人の良いところを目敏く見つけて吸収する。伊織が気にも留めなかった人間にさえ声をかけ、その良さを引き出すのが上手い。あんな風に自分もなりたいと思う。けれどもどうしても悪態をついてしまう……
伊織はそう考えて溜息を吐いた。
「自称陰陽師は的の大きなものを祓って下さい。小さな虫は僕が祓います」
「最初っからそうしてれば良かったじゃないか! つうか自称じゃねぇ!」
「本当なら二手に分かれて掃除したいところを、ポンコツなあなたの為に仕方なくこの方法に変えるのですから、しくじったら置いていきます」
「きい〜〜!! 腹立つ〜〜!!」
霞雲が癇癪を起こすと、伊織は落胆した様に深い溜息を吐いた。これがどうにかなるとは思えないのだが、どうにかするしか無いのだろう……正直、霞雲を見ていると頭が痛かった。
布団に座っていた智弥の目にはやはり真っ白な和紙にしか見えなかった。椿が自分を許してくれて、呪いが解ければ読める様にしていたのだろう。だとすればこれは自分宛ての祐からの言付けで間違いない。それなら、その前の部分……千年前に白羽の矢を立てていた魂の生まれ変わりを集めて、呪詛の解体をする事で祐が蘇る事が出来る。という事だと思う。けれども具体的に、何人、何処に、どういった人なのかが記されていない。祐自身も把握出来ていなかったか、今回も何かしらの原因があって何人か亡くなっていた場合は……
そうこう考えてふと目の前に黒いシャツに白で龍が描かれた服が目についた。視線を上にずらすと、サングラスをかけた男だ。年齢は自分とさして変わらないだろう。ただ、妙に何処かで見た様な気がする。
「何だよ?」
「えと……君は……ヤクザか何か?」
「またかよ……」
溜息混じりに男が呟く。
「ただの通りすがり」
「神崎って言ってた」
椿が説明すると、智弥は右手を差し出した。悪い人ではないのだろう。
「僕は鳴神 智弥。始めまして。弟の手紙を読んでくれてありがとう」
右手を差し出したのに咄嗟に左手を出しかけて引っ込めたので、多分左利きなのだろう。
「大した事じゃねぇよ」
神崎がそう言って目を背けると、椿が神崎と智弥を見比べている。
「それより、今ここで何が起こっているのか教えて貰えるか? 取り敢えず山向こうのお堂の方は封じておいたから、今からこっちの山の方へ行こうと思っている」
神崎の話に老人と椿が驚いている。智弥もそれを聞いて目を伏せた。
「多分、弟の封印に綻びが出来て、封じられた呪詛が吹き出しているんだと思う」
「呪詛?」
「千年前、白髪碧眼の鬼が封じた呪詛じゃ。儂らは長いことその千年前の鬼の呪詛だと思っておったが、複数の呪詛が絡み合っておるようじゃ」
老人が説明をすると、椿が老人を見やった。
「さっき、白髪の兄ちゃん、御魂伏の刀を持ってた。つーちゃんが前に封印した筈なのに何であの刀があるの?」
椿の言葉に老人が狼狽える。
「ごめん、それの封印を僕が解いてしまったんだ」
智弥が説明すると、椿の顔が真っ青になった。
「……つーちゃんがおとーさんの事を恨んで呪ったから?」
「それは関係ないよ。僕がドジを踏んだだけ」
そうは言ったが、多分、それも一つの要因ではあっただろう事は明らかだった。
「ミタマフシ?」
神崎が聞くと、聞き馴染みの無い言葉に智弥と老人も椿を見つめた。
「千年前、あの刀を壊そうとしたけどつーちゃん出来なかった。けど、そのままにしておいたら禍いを呼ぶから封印するしか無かった」
椿の説明に神崎が困惑した表情を浮かべる。
「じゃあこの子は過去からタイムスリップしてきた口の達者な幼女で間違いないか?」
神崎が小声で智弥に聞くと、智弥は冷や汗を流した。
「えっとね……すごくややこしいんだけど、千年前に刀を封印した僕のご先祖様で、今はこんな姿だけど、長い間呪詛の封印の楔として捕らえられていたんだ。弟がそれに気づいて椿を逃してくれたんだけど……」
何処からどこまで説明すべきかと悩みながら手探りに話す。悪い人では無いだろうが、無関係な人にこれ以上話すのも何だか申し訳ない。
神崎は顎を触ると、智弥を見据えた。赤子の怨念が神崎の魂に貼り付いている。どうもその怨念が、そこに居る椿のものの様に思えた。椿の右手と智弥の右手を取ると握手をさせるように手を重ねる。
「詳しいことは知らん。けど、この広い宇宙の中の、沢山ある星の中で、同じ星に産まれて、人類が七十億居ると言われている世界で、殆どの人とは顔を合わすことなく寿命を終えてしまう。そんな中で、すれ違うだけでも奇跡なのに、考え方が全く違う者同士がお互いを認知し合うのはそれこそ三千年に一度咲くと言われる優曇華の花と出会うのと同じくらい奇跡の中の奇跡だと思う。そんな貴重な奇跡の中にあって、解り合えないのは本当に悲しい事だと思う。
けれども、そもそも出会うことすら出来ないのはもっと悲しいことだと思う」
神崎の話に椿が顔を上げた。
「だから俺は、椿も、智弥のことも、弥栄であれと願う」
椿の瞳に涙が浮かんでいた。神崎の左手を掴むと、椿が言葉を詰まらせる。
「つーちゃんも、とーととかんちゃんのいやさかを祈ってる!」
椿が叫ぶと、智弥の魂に貼り付いていた呪詛が弾ける音がした。智弥が頭を抱えると、椿が心配そうに神崎から手を放して智弥にしがみつく。神崎は安心して部屋を出た。
「弥栄か……」
老人はいつだったか明神もそう言っていた事を思い出した。
「日本民族最古の純真なる国語」
不意に智弥の声がして神崎が振り返った。椿を抱き締めている智弥が真っ直ぐに神崎の姿を捕らえている。
「神崎さん、僕に協力してもらえないでしょうか?」
智弥の言葉に神崎は腕を組んだ。弟の蘇りに協力しろと言われるのは目に見えている。
「断る」
智弥が意外そうな顔をすると、神崎は肩を竦めた。
「え? 断られる訳が無いと思った?」
「いいえ。弟の蘇りを申し出たら断られるとは思いましたが、まさかその前に断られるとは思いませんでした」
「ならどうする?」
神崎が不敵な笑みを浮かべると、智弥は嘆息した。
「呪詛の解体の手助けをお願いしたいと言ったら?」
「まあ、それなら了承しないでもないが……」
「呪詛の解体に弟の復活が必要不可欠だとしたら?」
神崎は眉根を寄せた。
「それならまた封印という形を取るのがベストだろ。死者の蘇りなど普通はありえない」
「体ならまだ置いてある」
智弥の話に神崎の表情がどんどん険しくなった。
「それをしたから、弟が命をかけてやり直した封印に綻びが出来ているんだろ。そんなことをして弟が喜ぶと本気で思っているのか?」
「弟の気持ちは正直どうでもいいよ。自分の蘇りを餌にしてまで僕を都合良く動かそうと策略している所が気に入らない。弟が僕を利用するなら、僕も弟を利用しようと思う」
なる程、和歌の嘘には気付いているのか。
「酷い兄弟だな」
「長幼の序であれば兄の言うことを聴くのは当然でしょう」
「お前のしていることは長幼の序じゃねえよ。血の繋がりを引き合いにして弟に首輪付けてるだけだろ。こんな兄貴なら弟が呆れて逃げ出すの解る気がする」
「利用出来るものは何でも利用するよ」
神崎は呆れて深い溜息を吐いた。取り敢えず、弟の蘇りに加担するふりをして呪詛の解体もしくは封印をしてさっさと逃げ出すのが得策だろう。
そうこう考えていると智弥が徐ろに椿の首に手を伸ばした。それに気付いた老人が慌てて智弥を後ろから羽交い締めにする。神崎が椿を抱き締めると、智弥は笑っていた。その鋭い眼光が神崎に向けられる。
「そんなにこの子が大事?」
「子供は国の宝だろ」
「国の宝ねぇ……」
「智弥! 呪詛に呑まれるな、しっかりしろ!」
老人の言葉に神崎は驚いて眉根を寄せる。
「赤子の呪詛は解いたのに?」
「その呪詛で抑えられていた別の呪詛が顔を出しただけじゃ。弟の封印が成功していれば、椿の呪詛を解いただけで済んだのじゃが、今は弟の封印に綻びが出ておるから……」
なる程、思っていたよりもややこしい。
「智弥! お前の名は鳴神 智弥じゃ!」
「あいつが言っていた通り、産まれて直ぐに殺しておくんだった」
智弥の声に椿が耳を塞ぐ。神崎は思いきり智弥の頭を叩いた。
「てめえ、何様のつもりだ!」
神崎が怒鳴ると、椿が驚いて萎縮する。
「お前はこの子の気持ちを考えた事が一度でもあるのか? この子があんたを恨んだ理由を……」
「神崎とやら、すまんが椿を連れて一旦出て行ってくれ」
老人が叫ぶ様に言うと、神崎は唇を噛み締めた。泣いている椿を抱えて外へ出る。神崎が出て行くのを見送ると、智弥は安心した様に笑った。
「お父さん、大丈夫だよ」
老人が驚いた様に手を離すと、智弥はゆっくりと立ち上がった。
「智弥……?」
「祐を探しに行ってくる」
困惑した老人の表情が眉根を寄せる。
「手紙に書いてあったじゃろう。一人で来るなと……」
智弥がにやりと不敵な笑みを浮かべると、老人は冷や汗を流した。本当に、自分の息子の智弥なのか、それとも呪詛に囚われているのか解らない。
「あの子も自由にさせてやらないと」
そう呟いて智弥は裏口から出て行った。老人は彼の言葉の意味を探る。あの子『も』と言った。それが千年前の鬼も、祐の事も指して居るのだとすれば、蘇りではなく、式神の呪詛から切り離すという意味ではないだろうか? なら、大元の呪詛の封印が完全に外れる事を意味する……智弥はその封印の新たな楔になるつもりなのではないだろうか? その為に態と椿にあんな事を言って、神崎に椿を連れ出すように仕向けたのではないかと思った。
山の中をひたすら走っている小さな人影がある。青い袴姿の十歳頃の子供が息を切らせていると、目の前に見上げる程大きな山犬と出くわして足を止めた。懐に仕舞っていた総竹扇を開くと、中から灰と、金木犀の小さな花が溢れてくる。
「主人が、同じ時代に、同じ国で、同じ時を過ごせるようにと、二人の魂を結び止めてくれました」
そう言って、言葉を間違えたと思い、口籠った。
「間違えました。もう、私の主人ではありませんでしたね。彦様とお呼びするべきでした」
犬神は琥珀色の大きな瞳に左慶を映していた。
「まだ、こちらにいらっしゃるのですよね? 私もお会いしたいです」
左慶がそう言うと、不意に犬神の姿が狩衣を着た子供に変わる。子供は左慶に近付くと頭をかいた。
「残念じゃが、もうこっちにはおらん」
狛の言葉に左慶が残念そうに肩を落とした。
「椿を呪詛から逃してから直ぐこの世を離れたのじゃ。兄の式神化の呪詛のせいで荒御魂だけ残っておるようじゃが……現に、右慶の事も、清の事も解らなくなっておったじゃろう?」
狛はそう話すと、左慶の手から扇子を取り上げた。
「でも……」
「二人を結び止めたとしたならそれはお互いの思いなのじゃ。それをあいつのお陰だと思うのは左慶の勝手なのじゃが……」
そう言いながら扇子を閉じると狩衣の懐に仕舞う。
「俺様たちは、自分の役目を全うするだけじゃ。左慶は彦の兄を見張る様に言われておるのじゃろ?」
「正直、あんなのの従事は嫌です」
「手を焼いておるようじゃの」
左慶が嘆息すると、狛はにやりと笑った。
「右慶と清は、智弥を殺せば、彦の式神化の呪詛が外れて、彦があの世から戻って来ると思ったんじゃろうの。左慶もそう思うのか?」
問い質され、左慶は困っていた。
「解りません。私は主人……彦様の兄上に仕える様に命令されました。ですから智弥様に仕えるのが……」
左慶の話が終わる前に、狛は人差し指を立てて左慶の口元に当てた。
「なら、智弥の所へ行くのが筋なのじゃ」
「そんなこと解っています!」
叫ぶ様に左慶が怒鳴った。
「解っています……でも……」
脳裏に明神の姿が思い浮かぶ。右慶も清も皆居たあの頃が懐かしい。あの頃に戻れたならと何度思っただろう。智弥さえ居なければ、こんなことにはならなかったのではないだろうかと何度思っただろう。
「狛は、平気なのですか?」
「平気なわけあるかい」
狛の言葉に左慶は顔を上げた。
「彦がのうなったせいでこっちは毎日魚や蛙を自分で捕まえて料理せねばならんのじゃ」
左慶は呆れてその場に突っ伏した。
「こんのっ……」
「のうなってから、生きているものの有り難みに気付くなんぞ、俺様もまだまだじゃがの。彦が命懸けで守ろうとした兄貴じゃ。何か考えがあるのじゃろ」
「呪詛の解体ですか? でも、主人は彦様の蘇りに勤しんでいて、それどころではありません」
狛はそれを聞くと、何か考える様に腕を組んだ。
「まあ俺様も、彦の考えていることはよく解らんのじゃ。古い御魂を探すよう言付かったのじゃが、これが中々見つからんでのぅ……」
左慶はそれを聞いて首を傾げた。
「狛は主人が亡くなったのに、まだ主人の為に動いているのですか?」
「彦の死を、俺様が無駄にするわけにもいかんのじゃ」
狛の言葉に左慶はこくりと頷いた。
白や桃色の蓮の花が咲いている。馥郁とした香りに目を覚ますと、右慶は自分が抱いていた清を見た。清も今しがた気が付いたのか、周りを見回している。一面、蓮の花が咲き乱れている水晶の様な泉の中を、小さな舟が二人を乗せて漂っていた。
「ここは……」
何処までも白い霧に覆われ、空は白んでいる。右慶と清が呆然としていると、不意に声がした。
「やっと来たか」
振り返ると、岸の上で胡座をかいている明神の姿に二人は目を丸くした。髪も瞳も黒く、紺の作務衣を着ている。生きていた頃と変わりない姿に二人は目を見張った。
「生きていたのか?」
「いや、どう見ても死んでるだろ」
明神が呟くと、二人は舟から下りて岸に上がった。清が嬉しそうに抱き着くと、優しく清の頭を撫でる。
「なかなか来ないから、現し世を楽しんでいるのだと思っていたんだが……」
そう呟くと、右慶を見据えた。
「智弥を殺せば、俺が蘇るとでも思ったか?」
「いや、智弥を怪我させれば出てくるかと思っていたが、お前じゃなかった」
「安易だな」
明神はそう言って立ち上がると、清の左手と右慶の右手を取った。道すがら歩いて、清が嬉しそうに明神が亡くなってからの事を話していた。京都の町並みが風情があって素敵だったとか、神戸の港町の夜景が綺麗だったとか、普通の女の子の様に、色々な服を着られて楽しかったとか、淀みなく話す清の声を明神は何度も頷きながら聞いていた。
「彦は、ここで何をしていたんだ?」
清が一思いに話し終わるのを見計らって聞いた。
「隠居」
「まだ若いくせに……」
「冗談だ」
明神が呟くと、右慶は顔を顰めた。
「まあ、そのつもりだったんだが、智弥の式神化の呪詛のせいで荒御魂だけこっちに来てないからな、輪廻にも行けないし、どうせ捜し物もあったしで、この辺りをずっとうろうろしていた」
そう話してふと右慶に視線を落とした。
「和歌でそっちを覗いた時に、右慶が女装させられているのを見て笑っていた」
「おま、それ今直ぐ忘れろ!」
右慶が顔を真っ赤にして抗議すると、それを聞いた清が神妙な顔をしていた。
「そんなご趣味が……」
「刹那に無理矢理着せられたんだ!」
右慶が怒ると、清が解っていると言って笑う。
ふと、明神が足を止めると目の前に見上げる程大きな門があった。金銀で彩られた門には瑠璃や珊瑚で装飾が施されている。大きな音を立ててゆっくりと戸が開くと、西陣織の垂れ幕が風に靡き、赤や紫の飾り結びの紐が垂れ幕と一緒に揺れている。仄かに花の香りが立ち込めていた。明神は座り込んで二人の手を繋ぐように重ねる。
「いってらっしゃい」
明神が呟くと、清は明神の肩を掴んだ。
「主人も一緒に……」
「俺はまだそっちへ行けない。けど、心配しなくても何れは追いかけて行くから、先に行って待っててくれないか?」
明神が優しく清の手を離すと、右慶は眉根を寄せた。
「彦はそれで良いの?」
「俺の気持ちは関係ない」
相変わらずの冷たい言葉に右慶が俯くと、愛おしそうに右慶の頭を撫でた。
「お前達はよく仕えてくれた。それに見合った来世を用意してやることくらいしか俺にはしてやれない。向こうでも、二人で仲良く手を取り合って生きていくんだ。俺には出来なかった事を、お前達には享受して貰いたいと思う」
そう話すと、明神は二人を抱き締めた。右慶と清が恥ずかしそうに顔を赤くすると、明神は二人を離した。開いた門の向こう側へ二人の背を押すと、清と右慶は何度も振り返りながら門の先へ歩いて行く。青く澄み渡る空には虹が掛かり、色とりどりの花が咲き乱れる道を歩くと、大戸が静かに閉まった。
「あの子たちは嬉しそうに歩いて行ったね」
三歳くらいの、秋津柄の甚平を着た子供が嬉しそうに話しかけてきた。首には掌に納まるくらいの丸い鏡を下げている。鏡を通した白い紐が菊結びになっていた。
「さっき来た大人は酷く怯えて門を潜ろうともしなかったのに」
「一水四見と言ってな。見る者の心によって、地獄の門にも、極楽の門にも変わる」
明神の言葉に子供はにこりと笑った。
「なあに? それ」
「同じ川でありながら、天人は水晶の道と見る。魚は自分の住処と見、人は命を繋ぐ水と見、餓鬼は火炎の海と見る。認識の主体が変われば認識の対象も変わる。こっちは現し世に比べてそれが顕著に現れる」
「ふーん、じゃあ、あの川の浅瀬で、小さな魚に食べられると騒いでいる亡者もそれなの?」
子供が指し示す先に、踝程も水のない川で溺れると騒いでいる者や、龍に食べられると悲鳴を上げ、同じところをぐるぐる回っている者達を指し示した。
「あの者たちは、生前悪い事をしていたから、自らの業によって苦しんでいるのさ。地獄に居ると思いこんでいるんだ。ああいうのは花の咲き乱れた山を見れば針の山に見えるし、人を見れば自分を責める獄卒だと思う。水の澄んだ池でさえ血の池と恐れる。教え諭した所で人の話しになど耳を貸さない。来世への門でさえ無間地獄の門戸と見るのさ。救いようがない」
「可哀想だねぇ」
子供がそう言ってふと、思い出した様に呟いた。
「あの子達、舟でこっちに来たよ? 大抵の人は橋を渡るか、川を歩いて来るのに」
「四等の舟だろ」
子供はそれを聞いて嬉しそうに微笑み、そこここで悲鳴を上げている人々を見つめた。
「そっか。生きているうちに三学の友に交わったんだね」
「お前にはここが地獄に見えるか?」
「う〜ん、林かな」
子供がそう言うと、そこここに木が生え、泣き叫んでいた亡者の声が聞こえなくなった。
「ちょっと静かすぎて寂しいこともあるけど、何処も痛くないし、さっきみたいにおかしなことをしている人を見ているのもちょっと面白いんだよね。最初にこっちへ来た時は閻魔様のお髭で遊んだんだ。閻魔様に菊結びの結び方を教えてあげたんだよ。それからね、実語教を暗唱したら喜んでくれてね、これをくれたの。この鏡で、生きていた頃の思い出を見る事も出来るんだ」
子供が笑うと、明神は子供の隣に腰掛けた。生前の行いを映し出す浄玻璃の鏡を子供は微笑ましそうに覗いている。明神にはその鏡に映る家族の姿が視えなかった。
「そうか。お前の親は良く出来た親だったんだな。三歳の子供に実語教を教えるだなんて……」
「いいでしょ〜? 前は勉強出来なかったからね。お母さんが読み聞かせてくれたんだよ。何処へ行っても困らない様に、教えてくれたんだよ。
でも、もう少し色んな本を読みたかったな。君が少し羨ましい」
子供の言葉に明神は視線を宙に投げた。
「俺は家族との記憶を懐かしむ事が出来るお前が羨ましい」
子供はそれを聞くと明神を見つめた。
「そっか、無い物ねだりだね」
「そうだな」
明神が右手を差し出すと、子供はにっこりと微笑んで明神の手を握った。
山奥の開けた場所に陣が浮かぶと、その中心に鳴神 智弥の姿が現れた。もう夕暮れ時だが、周りの木々に遮られて辺りは暗い。銀の輪を潜って中へ入ると、目の前にお堂が現れ、智弥は異様な雰囲気に多少尻込みした。ここが、代々手を出すなと言われている般若堂……智弥がお堂の扉を開けると、暗い板張りの部屋の奥に木乃伊の様な老人が、ぎょろりとこちらを見据えた。手足は枯れ枝の様に痩せこけ、肌の色は土と同じ色をしている。髪は抜け落ち、肉の落ちた頬には蛆が涌いていた。男は羨ましそうに智弥を見据えていた。
「あ……ああ……」
老人は溜息と一緒に萌葱色の瘴気を吐き出したが、智弥の周りに張られた結界に阻まれ、闇に溶けて行く。
「あなたは一体何故、ここに居るの?」
智弥の質問に、男は肩で呼吸をしているようだった。
「なんだ……また、聞くのか?」
男の言葉に智弥は目を伏せた。
「前にも同じことを聞きに来た子が居た?」
「ああ……もう、大昔のことだがな……」
男はそう話すと遠い昔を懐かしむ様に天井を見上げた。天井には無数の、自分が今まで殺していった人間の怨念がびっしりと張り付いている。それが長い髪や手になり、天井からぶら下がっていた。床下にも、同様に沢山の死霊が蠢いている。ここはまさに地獄だった。
「若い頃、女に惚れていた」
男が話し始めると、智弥はじっとそこに佇んでいた。
「それなのに、その女は他の男と結婚してしまった。子供まで出来て、なんとも幸せそうだった」
「そんなことは別にその人に限った事ではないでしょう」
「じゃが、儂はその手に入らない女を殺した」
老人の話しに智弥は眉根を寄せた。
「儂の女になれと言ったんだが、頑なに拒まれた。どうせ自分のものにはならないのならばと井戸へ突き落としたら、その女を助けようと追いかけて男も井戸へ落ちて行った。儂はまだ声のする井戸に蓋をした。それから直ぐじゃった。飢饉と疫病が流行った」
その話しに怒りが込み上げたが、智弥は必死に自分を抑えた。
「人が、ばたばた死んでいった。昨日まで元気だった近所の子供が、翌日の朝を迎えない。儂はあの夫婦の呪いだと思い、このお堂を建てた。不思議と疫病は無くなったが、何年かしてまた、飢饉が起こった。儂は恐ろしかった」
老人の目が恐怖で小刻みに震えた。
「神様への生贄にと、他所から買ってきた女を殺した」
老人の声が、低く闇の中に沈んでいく。
「騙して攫ってきた女も居た。何人か殺すと雨が降った。儂は歓喜した。これで食べ物が手に入る。これで食いつなぐ事が出来ると……それから飢饉が起こる度に生贄を捧げた。否、もうとっくに、そんなことはどうでもよくなっていた」
お堂の隅で蠢いていた怨霊が啜り泣く声がした。
「儂は殺した。自分が食つなぐ為に。自分が助かる為に。自分だけが長生きする為に……食べるものが無くなると、人を殺して食った」
天井や床下から怒号と悲鳴が響いた。地面を揺らす声に智弥耳を塞ぎたくなったが、必死に耐えた。
「ある時、いつものように食べ物を探していた。肥った女を見つけて殺した。殺してから、身籠っていたのだと知った」
智弥の顔が真っ青になった。
「その女を殺したら、刀を持った男が押し入って来た。儂が殺さないでくれと懇願すると、奴は願いを叶えてやると言った」
男の脳裏に、白銀に輝く刀を振り上げる人影が思い起こされた。
「それから、儂はここから出られなくなった。手足の指は切り落とされ、何日も熱に浮かされ、やがて手足が腐り始めた。蝿が飛んできて腐った肉に卵を産み付け、蛆が体中を這った。何日も何年も、空腹と渇きと、病に蝕まれる痛みに耐えた。耐えて……」
頭の中に、道に迷った旅人が雨宿りにお堂へ入ってくる姿を思い出した。もう朝なのか夜なのかも解らなくなっていた。
「お堂へ迷い込んだ人間を捕まえては儂の血肉にした。その瞬間は、血が喉を潤し、肉が腹を満たしてくれる。けれども食べ終わると、またすぐ腹が減ってしまう。その繰り返し……」
そう話してほくそ笑んだ。
「お前さんはこの呪詛に見覚えがあるんだろう?」
問い質されて、智弥は深い溜息を吐いた。
「ああ……千年前の、白髪碧眼の鬼と同じ呪詛だ」
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