第6話 神崎と鉄
智弥が目を覚ますと、布団に寝かされていた。長い夢を見ていた気がする。真盛と、千年前の鬼との思い出に、思わず心が締め付けられた。
「とーとー、起きたぁ?」
幼い子供の声に智弥は視線を這わせた。三歳くらいに成長した椿が布団に上ってこっちの様子を伺っている。
どうやらここは父の本屋奥の小部屋らしい。
ふと、朦朧としながらも妖かしに襲われ、その後祐の様子が変わった事を思い出した。
「祐?」
いつもなら呼んだら直ぐ来るはずなのだが、どうやら抵抗されているらしい。自分のかけている式神化の呪詛も細い糸の様になって切れかけているのを感じる。式神化の呪詛が外れればあの子は完全に鬼になってしまう。否、もう鬼になってしまったのだろうか?
時仁は空に舞う黒い靄を凝視しながら冷や汗を流した。あれは鬼の呪詛に間違いない。今は山を覆っているが、直に裾野まで降りてくるだろう。般若堂の方もどうも封印が解かれてしまったらしい。時仁は自分が情けなくて溜息を吐いた。
「祐、里にはお前が守ろうとした人達が居るのじゃろう?」
否、彼の大切な人々を人質に捕り、彼を利用しようとしたことに気付いて時仁は拳を握り、店の中へ入った。椿の様子から智弥の意識が戻ったのだと思い駆け寄る。
「智弥、お前……大丈夫だったか」
「え? うん……」
時仁は嘆息すると崩れる様に座り込んだ。もう死んでしまうのではないかと心配していたのだが、病院へ連れて行こうにも、里に一台しかない救急車が走り回っていたのでここへ運んだ。呪詛の封印に綻びが出来て妖かしが動き出して居るのだろう。年寄りや病弱な者に取り憑き、病気を悪化させているということは簡単に想像がついた。
「祐が唱えた呪詛に覚えがある」
父の言葉に智弥は少し首を傾げた。
「罪の数だけ指を折るとかなんとか……?」
意識が朦朧としていたので全部は覚えていないが、父は頷いた。
「般若堂にかけられている呪いと同じものじゃ」
その話しに眉根を寄せた。智弥はこの般若堂の事をよく知らない。
「あの、代々手を出すなって言われている?」
父が頷き、智弥は呪詛の全文を思い出そうとするが頭が回らない。
「それがどういう……」
「鬼の、再来と言うことじゃろう」
父の声は酷く低かった。時仁の言葉を不安そうに聞いていた椿が外へ飛び出すと、辺りに黒い靄が立ち込めている。この靄は人に災いを齎すだろう。
「鉄、どうしよう……」
椿が呟くと、黒い中型犬が傍に寄り添った。
「梅」
犬が呟くと、椿は山へ視線を戻した。
「梅が香のその木ばかりは匂い来て異木の花は移りざりけり」
唱えると、急に白い犬が現れ、大きな口を開けると辺り一帯の黒い靄を食べていた。椿の周りの靄が消えると、ほっと胸を撫で下ろす。けれども弾ける様にその犬の姿が子供に変わると、椿は驚いて目を丸くした。白い狩衣姿の子供は駆け寄った椿を見上げるとこう呟いた。
「にが〜いのじゃぁ〜……何か甘い物をくれなのじゃ」
椿はポケットを弄ると、小さな飴玉を取り出した。袋を開けて中身を出すと、子供はそれを口に含んで嬉しそうに味わっている。
「うむ。良き」
子供の灰色の髪が揺れ、見る間にまた大きな犬神の姿に変わると、空を駆けて靄を食べている。
「鉄、あれは?」
「お前は知らないか。元々は人に降りかかる災いを喰らう神だったんだが……神代の大戦の折にあいつも漏れなく名を剥奪されてしまった」
椿が首を傾げると、鉄は溜息を吐いた。
「毎夜話して聞かせてやっただろう」
「つまんないんだもん。覚えてない」
「そういうところは俺に似たのか……」
鉄が呆れた様に言うと、伸びをした。
「般若堂の方を見てくる」
「鉄が封印したんじゃなかったの?」
「あいつが封印を解いたらしい」
椿が不安そうな顔をすると、鉄は目を伏せた。
「心配するな。お前は智弥の傍に居ろ」
「真盛が私のお父さんじゃないって本当?」
椿の言葉に鉄は首を傾げた。
「別に血の繋がりだけが親子の絆というわけではない。それに、今度はお前が産まれる行き先を自分で選べる様にとあいつはその姿に変えたんだろう」
「そうじゃなくて……」
椿は言いかけて目を伏せた。
「鉄は知ってたんじゃないの?」
ずっと屋敷で待ち続けていた頃の事を思い出す。双子の弟が何不自由なく両親と暮らす姿をずっと眺めていた。嫉妬に狂うと髪が紅く染まった。自分によく似た黒髪の弟を妬んだ。迎えに来ない父を恨み続けた。その思いが呪いになり、生まれ変わった智弥に纏わりついているのだろう。それなのに、父親ではなかったとなれば、自分は一体何をしていたのだろうかと憤る。ただの幸せな家族を妬み、地獄へ突き落としただけだ。
「俺の子供だと言ったら信じたのか?」
鉄の問いに椿は目を丸くした。どう見ても黒い中型犬だ。
「冗談」
「そうだろう?」
鉄はふふっと笑った。
「俺もまた、生まれて直ぐにこの姿だった為に捨てられた。それでも、気のいい女に拾われてな。恨むのが馬鹿らしくなった。だからお前も……俺がお前の心の支えになればと思った。けれど、お前が真盛を恨んだのなら俺のせいだ。俺がもっと、ちゃんと父親らしい事をしてやれればよかったんだが……」
鉄がそう呟いて走って行ってしまうと、椿は肩を落とした。
草木の間から赤裸の小鬼がひょっこり顔を出した。百足に擬態した仲間が、その鬼に声をかける。
「おい、見つかるぞ」
小鬼は肩を竦めると虻に姿を変えた。何処からともなく札が飛んできたが、虻はひょいと札を避けた。
「くっそ! 腹立つ!」
Tシャツにデニムジャケットを羽織っている霞雲が地団駄踏むと、隣に居た刹那が呆れた様に落胆する。ラウンドネックの白い長袖シャツから手を出すと頭をかいた。
「下手くそ」
「相手がチビすぎんだよ!」
「ほら、そっちの叢に五匹くらい居るわよ」
「札が足んねえ」
「まあ、きりが無いわね」
刹那はそう呟くと小高い山を見上げた。濃い緑のガウチョパンツの裾がスカートの様に揺れている。
「どんどん涌いてきてる」
「元を叩かなきゃどうしようも無いぞ」
刹那は頷き、溜息を吐いた。叢から蜂に擬態した小鬼が躍り出ると、刹那は霞雲の肩を掴んだ。二人の周りに結界が現れると、それに触れた蜂が焼き消える。それを見た他の虫が後退すると、霞雲は溜息を吐いた。
「それで? 俺が居るなら一緒には行かないって言ってたちびっ子二人は?」
「気が拾えないから多分、祓われたんだと思う。場所的にはあの高い山の向こう側かな? あの山の方からも呪詛が涌いてる。向こうは高さがあるからまだ時間は稼げそうだけど……まあ、先にこっちを何とかしとかないと死人が出るわよ」
「簡単に言ってくれるな……」
霞雲は震える手で人差し指と中指を立てた。
「え? ビビってんの?」
「ちょっと感じたことない妖気に武者震いしてんだよ」
そう言いつつも、疲れて来ているのだろう。刹那は溜息を吐くと妙な気配に振り返った。
獣道の先に三人の人影を見つけると、刹那は周りが静かになった事に気付いて霞雲から手を離し、結界を解いた。
「どうした?」
「何か変なのが来た」
霞雲も刹那の視線を追うと、背の高い男が一人、背中に少年を負って歩いている。黒地に白で龍の絵が書かれたTシャツに、サングラスをかけている。黒いズボンの左側にはチェーンが出ていて、それが後ろポケットに繋がっているらしい。その風体は真っ先にヤクザを連想させた。その後ろを白いワンピースの上に赤いパーカーを着た少女が付いて来ている。
「ほら、人いたじゃん」
男が背負っている少年に話しかけると、少年は眼鏡を掛け直して二人を凝視した。青いストライプのシャツに、黒のベストを着ている。この二人に不釣り合いな後ろに居た少女がひょっこり顔を出すと、霞雲と刹那が目を丸くした。
「すみません、道に迷ってしまって……」
黒い長髪の少女が言いかけると、刹那は思わず少女の両手を握った。
「可愛い! ちょっとうちでコスプレしてくれない?!」
「刹那、初対面でそれは嫌われるぞ」
霞雲が呟くと、目の前に手を差し出されて戸惑った。
「大丈夫か?」
男に言われ、霞雲は手を取った。立ち上がると、頭一つ分相手の方が高い。サングラスを掛けた男のシャツに龍の絵が描かれているのを見て少し肝を冷やした。頭の中に『ヤクザ』と言葉が浮かんだが飲み込む。
「坊っちゃん、やっぱり山を下りた方がいいですよ」
坊っちゃんと呼ばれているのを聞いて霞雲は尚更目を丸くした。
「いや、なんとなくこっちな気がするんだ」
男が獣道の先を指し示すと、霞雲は顔を真っ青にした。
「この先は止めとけ。なんかやばいから……」
霞雲が呟くと、男は伊織を下ろした。
「伊織、お前お嬢ちゃんとここで待ってろ」
「嫌ですよ! 坊っちゃんに何かあったらどうするんですか!」
「森の入口で足挫いた奴の台詞とは思えんな。心配するな。様子を見て来るだけだ」
「あの、私もついて行ってもよろしいでしょうか?」
「伊織と一緒にここに居ろ。直ぐ戻る」
男がそう言って行ってしまうと、霞雲は溜息を吐いた。
「なんなんだよあいつ」
「あ、自己紹介がまだでしたね。神崎さんです」
そこじゃねーよ! と言いたくなったが、思い留まる。
「私は刹那。こいつは霞雲」
刹那が少女の頭を撫でながら言うと、少女は少し恥ずかしそうにしていた。
「私は百合です。こちらは伊織さんです」
刹那と霞雲はそれを聞くと顔を見合わせてから伊織を凝視した。どう見ても男の子だ。
「え? 男なのに伊織?」
「言ってやるな。森鴎外の長男が於菟だったろ。あれに比べればまだグレーゾーン……」
刹那が霞雲を嗜めるが、伊織は眉根を寄せた。
「そんなこと無いですよ。剣豪、宮本武蔵の養子の宮本伊織からとったのでしょう。とても強そうでカッコイイ名前だと思います」
百合が説明すると、伊織は気恥ずかしそうにしていた。
「於菟さんも、日本が統治していた頃の台湾で医学部の教授をしていた立派な医師です。何も恥じる様なことはしていませんよ」
「え、マジ? 台湾って日本だったの?」
霞雲が聞くと、刹那と伊織が目を丸くした。
「霞雲、もうちょっと勉強しよう」
「情けない。そんなことも知らない日本人が居るんですか」
二人に呆れられ、霞雲は頭をかいた。
神崎がお堂の前に辿り着くと、黒い中型犬が座り込んでいた。神崎がサングラスを外すと、犬は神崎を見て尻尾を振る。
「俺を呼んでいたのはお前か?」
「如何にも」
犬がそう呟くが、神崎は頭をかいた。
「一人で来たのか?」
「あ? ああ……」
応えると、犬は深い溜息を吐いた。不意にお堂の扉が開き、暗いお堂の奥から髪の毛と長い黒い手が幾つも伸びる。神崎が眉根を寄せてそれを睨むと既の所で髪の毛や手の動きが止まった。
「何だこれ?」
「ここに迷い込んだ人間の怨念とでも言っておくか」
神崎はそれを聞くと左手を空に掲げた。両眼が碧く輝くと、その手を振り下げる。振り下げたと同時に空から雷鳴が轟くと、お堂から出ていた幾つもの髪や腕が千切れ、そこここに飛散する。神崎はお堂が無傷なのを見て眉根を寄せた。
「お前一人では話しにならん」
傍らでそれを見ていた犬が呟いた。人を呼びつけておいてその言い草かよと思ったが、確かにお堂目掛けて雷を落としたのに、お堂が無傷なのは少々厄介だ。
「あの山の北側に聡と彌、延が居る」
犬の話しに神崎は首を傾げた。
「一人は生憎、隠世に居る。荒御魂だけこっちに押し留めてあるからお前が呼び戻せ」
「勝手だな」
神崎はそう言いながら左手の人差し指を立て、中空をなぞった。お堂の周りを囲う様に銀の輪が掛かると、お堂の奥に潜んでいた虫達がお堂の扉を閉める。神崎はサングラスをかけると溜息を吐いた。
「何で俺が?」
「お前があの刀の本来の持ち主だからだ」
犬の話しに神崎は目を瞬かせた。
霞雲は不貞腐れた顔をしていた。というのも、陰陽師の末裔の端くれでありながら、大した活躍も出来ず、挙げ句後から来たヤクザっぽい男に呆気なく良いところを取られてしまった。その上、刹那と伊織に勉強しろと言われ、完全に落ち込んでいる。
「まあ落ち込むなって。取り敢えず一旦下山して、体力戻ったら逃げた妖かしの駆除を頼みたいんだ。これくらいで臍曲げるなよ」
神崎が背中を叩くと、霞雲は思い余って地面に転げた。刹那が慌てて起こすと、そのまま背に負う。
「大丈夫?」
「心が痛い」
「それは私にはどうも出来ない」
同級生の女に背負われ、霞雲は恥ずかしくて泣きそうになる。
「何でこんなやっすい洋紙なんか使ってるんですか?」
さっき、陰陽師だと話題になった折に残っていた最後の札を見たいと伊織が言ったので渡したのだが、それを眺めていた伊織が呟いた。
「多目に作るのに手書きが面倒だから印刷したの!」
「そんな手抜きをするから妖かしに逃げられるんですよ。良い和紙を見繕いますから、一枚一枚手書きして下さい」
「面倒臭いの! つうか今迄それでやって来たの!」
「今迄の事などどうでもいいです。今回使えなければゴミ以下です」
「うっわ、腹立つ〜!!」
霞雲はそう言うが、何分今は体力がない。百合はそんな話を後ろで聞いていて首を傾げた。
「あの……何の話をされているのですか?」
百合が恐る恐る聞くと、振り返った神崎が瞳を泳がせた。
「まあ、この世には目に見えない不思議な事があるってことさ。お嬢ちゃんが気にすることではない」
神崎はそう言うと山を下りた。駅のホテルを取ると、神崎は伊織をベッドに座らせる。
「刹那とか言ったか。伊織の事も看てくれ」
「なんか腹立つ」
刹那がそう言いながらもう一つのベッドに霞雲を座らせると、百合が刹那の手を取った。
「刹那さん、お願いします」
百合が跪き、上目遣いで懇願すると、刹那は少し頬を赤らめた。
「……まあ、悪くない」
その様子を見た伊織が眉根を寄せた。
「レズ……」
「私はちっちゃい可愛い子が好きなの! 猫や犬でも赤ちゃんの方が可愛いでしょ!」
「ロリコン」
「く〜! 腹立つ〜!」
刹那が悔しがると、神崎が伊織の頭を叩いた。
「他人の趣味に口を出すな。鬱陶しい」
伊織は頭を押さえ、眉根を寄せた。
「すみません、言い過ぎました」
伊織が頭を下げると神崎は溜息を吐いた。
「伊織、これから社会に出て、行く先々で自分のその口の悪さが災いして困っても、俺は守ってやれない。人から酷い仕打ちを受けた時に何も言い返せずに黙って相手に屈するよりは良いかと思っていたが、度が過ぎると人に嫌われるぞ」
神崎が諭す様に言うと、伊織は神崎に向かって軽く頭を下げた。
「お嬢ちゃん、伊織が二人に失礼な事を言わない様に見張っていて貰えるか。俺は山の北側に行って来る」
「私も行きます!」
百合が反論すると、神崎は肩を落とした。
「お嬢ちゃん、どうも危険な事が起こって居るらしい。ここに居れば刹那も霞雲も伊織も居る。だから俺が安心出来るんだ。俺の為にここに残れ。足手纏だ」
神崎がそう言って部屋を出て行くと、百合は落ち込んだ様に俯く。
「百合ちゃん」
刹那に呼ばれ、百合は振り返った。刹那が霞雲の背後に周り、霞雲の口を大きく左右に引っ張っている。不意をつかれて吹き出すと、顔を覆って蹲った。霞雲が鬱陶しそうに刹那の手を退けると、刹那は安心したように笑った。
「そうそう、百合ちゃんは笑っている方が可愛いよ」
百合はそれを聞くと顔を上げた。刹那は百合に近付くとそっと頭を撫でる。
「百合は花笑みと言うのよ。だから笑ってなさい」
「花笑み……」
蝉時雨の候、花笑みの君におかれましては……
ふと、頭の中に手紙の文章が思い浮かんだ。けれども誰からいつ貰ったものなのか思い出せない。何故か居ても立っても居られなくなった。
「私、ちょっと行ってきます」
百合はそう言うと、慌てて部屋を出た。刹那の声が遠くで聞こえたが、百合は振り返らなかった。
黒い犬に導かれるまま、神崎は無人駅に降り立っていた。
「こっちだ」
そう言われ、周りを見回しながら細い路地を歩いた。踏切に沿う様に人が一人やっと通れる程の道を歩いて行く。国道へ出て公園が見えると、神崎は首を傾げた。公園の真ん中で赤毛の子供が一人で遊んでいる。大人用のシャツを着ていて、腰に金魚帯を巻いている。近付くと、齷齪働く蟻の行列を眺めていた。規則正しく前に倣って歩く姿から不意に子供が顔を上げると、耳の後ろで二つ結びにした髪の先が肩に振れる。その様子に神崎は首を傾げた。
「それ、楽しいか?」
子供は黒いシャツに描かれた龍を見た後、サングラスをかけている男の顔にたじろいだ。
「ヤクザ?」
「あ? ああ、普段着だからな……」
「クロガネ?」
「ん? いや、俺は神崎って言って……お嬢ちゃん、一人?」
神崎が話しかけると、女の子はじっと神崎の顔を不思議そうに見つめている。
「とーとー?」
「は?」
神崎が聞き返すと、子供は周りを見渡すが、神崎と子供以外誰もいない。
「名前は?」
「……椿」
「そう、良い名前だな」
不意にサングラスの隙間から碧い瞳が見えると、椿は目を瞬かせた。
「鬼?」
「ん? ああ、この瞳か……ちょっと珍しいよな」
神崎がサングラスを取ると、碧い瞳が椿を映した。けれども幼子ではなく、十七、八程の着物姿の女が視えて神崎は目を丸くする。赤い長い髪の女がにこりと笑い、その瞳は済んだ金色をしていた。
神崎はサングラスをかけると、やはり目の前に居るのは幼子だった。
「……人間じゃない?」
神崎が聞くと、椿が不思議そうに神崎を見上げている。神崎の左手を取ると道路を指し示した。
「こっち」
椿に引っ張られ、案内されるままに本屋の前に来た。道路から三段程階段を下りた先に店のドアがある。椿が扉を開けると、ドアベルが音を鳴らした。
「じーじ、とーとー!」
椿が声を上げて店の奥へ入って行くと、神崎は店の中を見渡した。小さくて狭い空間に、背丈のある本棚が四つ並んでいる。入口のカウンターは本が何冊も重ねて置いてあり、天井には傘の無い豆電球が一つぶら下がっているだけで薄暗い。
「こっちだよー」
椿に呼ばれ、本棚の間を通って奥へ行くと、丸眼鏡をかけた老人がひょっこり顔を出した。部屋の奥には布団が敷かれ、誰か寝ているらしい。老人は神崎のシャツとサングラスを見て戸惑った表情をした。
「うちには大した金は無いのじゃが……」
「見ヶ〆料取りに来た暴力団じゃねぇよ。そこのお嬢ちゃんに呼ばれたんだ」
神崎の説明に老人は椿へ視線を投げた。
「椿が?」
椿はこくりと頷いた。
「それより、何だそれ?」
神崎は老人の内ポケットで鈍く光っているものを指し示した。老人が驚いて胸元を抑えると、そっと封書を取り出した。
「息子から貰った大切なものなんじゃ」
「見せろ」
老人が渋ると、椿が駆け寄った。
「じーじ、大丈夫だよ。見せてあげて」
椿に促され、恐る恐る老人が封書を差し出した。神崎がそれを取ると、老人に背を向けて手紙を開く。読み終えるとサングラスを掛け直して老人に返した。
「もう誰も恨んでないってさ」
神崎の言葉に老人は顔を上げた。
「普通の親子として過ごす時間は短かったかもしれない。あんたを恨んだ事が無いと言えば嘘になる。けれども人の親としてできる精一杯の事をあんたはしたんだと思う。だから、自分が守ろうとしたこの土地の中にはちゃんとあんたも、兄貴も含まれている事を忘れないでほしい。
残り無く散るぞめでたき桜花あり世の中果てがのうければ」
神崎が手紙の内容を話すと、老人の目から涙が零れた。
「そう……か……ありがとう」
老人がそう呟くと、椿がもう一つ封書を差し出した。智弥の方の封書を受け取ると、神崎は眉を潜める。封書の表書きに白い文字が浮かぶと、頭をかいた。
「なんて書いてあるの?」
椿が問うと、神崎は顎を触りながら首を捻った。
「こっちはまた厄介だな」
神崎が封書を開けて中の手紙を開くと、眉根を寄せた。ポケットから二つ折りの携帯電話を取り出すが、圏外になっているのに気付いて蓋を閉める。
「ケータイ使えないのか」
「まだこの辺りは電波が来てないからのう……電話で良ければそこにあるが……」
老人はカウンター横の黒電話を指し示した。
「ねーねー、なんて書いてあるのー?」
「要約すると、一人で来んな馬鹿兄貴と書いてある」
突飛な言葉に椿も老人も目を剥いた。
「……そんな事が……」
老人が呆気に囚われていると、神崎はカウンターへ歩いて黒電話を取った。伊織達を待たせているホテルのフロントに電話し、部屋に繋ぐように交渉すると、電話口に伊織が出た。
「もしもし?」
「俺だ。伊織、お前まだ動けそうにないか?」
「まあ、刹那さんのお陰で足の痛みは消えたから動けなくは無いですけど……それよりちょっとこっちも立て込んでいて……」
電話の向こうで伊織が溜息を吐いた。
「坊っちゃん、そちらに百合お嬢さんはおられませんか?」
「は? 待ってろって言ったろ」
「急に飛び出して行ってしまったんですよ。刹那さんが追いかけたんですけど、見失ってしまったそうです。可能性としてはさっき入った山ではないかと思いますが……」
伊織の話しに神崎は頭を抱えた。
「じゃじゃ馬娘め……まあいい。さっきの山だったら、大元のお堂は封じておいたから大丈夫だろ。まあ雑鬼諸々は視えないし、直ぐ戻って来るんじゃないか?」
戻って来たら頭二、三発叩かねばと思ったが、相手が相手なので少々躊躇いがある。
「……仕方ないから伊織、お前霞雲と一緒に小鬼を始末しながらお嬢ちゃん探して来てくれ」
「え、嫌ですよ。今、隣で墨を磨らせて大洲和紙に呪文書かせているんですけど、文句がやたら多くて……」
「お前が横からちゃちゃ入れるからだろ!」
と、電話の奥で霞雲の喚く声が聞こえる。
「……俺は呪符を使わないから全く分からんから口出し出来んが、手柔らかにしてやれ。座標言うから刹那をこっちに飛ばして貰えるか?」
「そこは文明の利器を使いましょうよ」
「五分でいい。多分、刹那の方が目が効くから読めると思うんだ。俺では読み切れない」
電話口で伊織の溜息が聞こえた。
「中身しか飛ばしませんよ」
「構わん」
神崎が受話器を置くと、本屋の床に陣が浮かぶ。着物の上に若草色の被布法被を着た背の高い男が現れると、神崎は驚いて目を丸くした。受話器に手を伸ばしかけると、椿が興味津々で男を見上げる。男は椿を見ると思わず抱き着いた。
「可愛い! お人形さんみたい!」
そう言って椿を抱え上げる姿に、間違いでは無かったのかと受話器を置いた。何故、中身が男なのかとか、その風体は何なのかとか色々と突っ込みたいことはあるが、取り敢えず今は時間が無いからそこは置いておこう。
「刹那」
「賢兄、この子何? 聡兄の娘? 瞳の色が同じだね!」
そう言えば、さっき黒い中型犬の口からも聡という言葉を聞いた。
「聡?」
「長男だよ。忘れたの? 私が三番目。その次が爛、零、彌、延……」
不思議そうに応えると、神崎は頭を抱える。
「まあいい。これを読んでくれ」
神崎が手紙を差し出すと、男は目を細めた。
「千年前、呪詛の解体の折に目ぼしい魂に白羽の矢を立てていたが、疫病や戦に巻き込まれ、未熟なままその魂が空に還ってしまった。その魂の生まれ変わりを集めてから呪詛の解体に挑む様に……」
読み上げて貰うが、神崎は眉根を寄せた。
「そんなのが知りたいんじゃない!」
不意に店の奥から声がした。そう言えば布団に誰か横たわっていた様な気がするが、気にしていなかった。男が不思議そうに首を傾げて店の奥へ入って行く。神崎もついて行くと、男は布団に横たわっている人の額に手を翳している。気の流れを整えているのだろう。
「詳しい事は分からんから俺の想像でしか無いけど、弟からの恨み言が延々書き殴られていることを期待してたの? それとも、兄ちゃん救けてくれって命乞いでも書かれていると思ってた?」
「あんたに何が解る」
起き上がる力が無いのか、そのままの状態で呟いた。
「解るさ」
神崎が呟くと椿が神崎を見つめた。
「お前、この手紙読めなかったんだろ? 今みたいに取り乱してヤケ起こして一人で来ない様にという弟の思い遣りなんだ。自分で読めなきゃ、俺や刹那みたいなのを探すだろう。きっと探しているうちに色んな人と関わることになる。その人との関わりの中で、お前が心に受けた傷を、きっと誰かが埋めてくれる。だからやること済んだら、自分の事なんか綺麗さっぱり忘れて、自分の分まで幸せになってくれ。そういう意味で、白紙でお前に渡しているんだ。封書の表書きに『幸』の字が書かれている。これは手枷を外すという意味だ。弟への執着を捨てて幸せになって欲しい。そんな弟の思いを、兄貴のお前が踏みにじってどうする。兄貴なら弟の信頼に応えてやれ」
神崎がそう話すと、男が気付いた様に神崎が持っている手紙を指し示した。
「二枚目……」
「あ? 白紙だろ」
「みこのかみ かくしきこさば あまつちの かみをこいのみ ながくとぞおもう」
「また和歌か……」
和歌はよく知らないのでまた伊織に電話をしなければならないだろうかと思っていると、今迄寝転んでいたのに跳ねる様に起き上がった。手紙を取り上げ、紙を見つめている。その目には涙が浮かんでいた。
「祐……」
そう呟くと、神崎は体が透け始めた男を見た。そろそろ時間らしい。男は笑っていた。
「兄ちゃんには敵わないって、根負けしたんだろうね」
話していた男の姿が完全に消えると、神崎は溜息を吐いた。
「意味解るの?」
「みこのかみは古語で『兄』の事なんだよ。かくしきこさばは『そこまで言うのなら』あまつちのは『天地の』かみをこいのみは『神様に祈祷して』ながくとぞおもうは『長生きしようと思います』という意味なんだ」
普通に考えれば、まあ兄貴が蘇りを望むのであれば仕方ないから蘇ってやるよと、さっきの男と同じ解釈にはなる。けれども神崎は老人の手紙を先に読んでいるので、多分、兄貴にやる気を起こさせる為の嘘だろう。本当に蘇るつもりがあるのであれば、老人宛の手紙と内容が真逆になってしまう。そう思ったが、黙って置くことにした。
兄本人ではなく目の良い奴にしか視えない特殊なものにしていた。その上視えても和歌に精通していなければ理解出来ない様にしている。そして、老人宛の手紙が読める者にはその文字が視えない様にしていた。
人を集めて呪詛の解体へ挑めと書いてはみたが、多分弟に執着するあまり、それどころでは無くなってしまうだろう。だから、自分の蘇りを餌にして兄貴に発破を掛けたのだ。そう考えれば二つの手紙の違いに納得がいく。神崎は偶々老人の手紙を先に読んでしまったが、本来は兄が弟の蘇りの手段を探す中で刹那の様な目の良い人間に会い、先に兄へ渡した方の手紙を解読してもらう……というのが弟の考えだったのだろう。老人へ渡した方は呪詛の解体が全て終わってから解読すれば、兄へ渡した和歌が嘘だったのだと気付くという筋書きなのだ。
そう考えると、なんと歪な兄弟なのだろうかと気の毒に思う。
けれども、さっき老人宛の手紙を自分が読み上げてしまったので、それを聞いていたならば気付くのではないだろうかと訝った。まあ、自分にとって都合のいい方だけを信じると言うのであれば弟の思う壺だが……先に嘘だと気付いたとしても、自分の死を利用してまで背中を押しているのを踏み躙れる人などそうは居ないだろう。そこまで計算されているのがなんとも哀れでならなかった。
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