第5話 橘 真盛

 その者は生まれながらにあまりに醜く、髪は針の様に銀色に光っていた。碧い瞳は闇夜を切り裂いたという。里に降りては人を攫い、人の血肉を食べて生きているのだとか、声を聞けば寿命が吸い取られるだとかあらゆる噂があった。その姿を見た者は皆怖れ、石を投げて追い払った。山に住んでいる鬼を退治しようと腕に自信のある者達が何度か山へ入ったが、誰も戻っては来なかった。

「バカバカしい」

 真盛は外舎人の話に嘆息した。

「どうせ慣れない山道に迷って戻って来れなくなっただけだろう」

 手であっちへ行けと払うような仕草をするが、外舎人は口をへの字に結んだ。少し怖がれば可愛げがあるものを……なんて考えても仕方がない。

「ですから、ちゃんと良い子にしていないとその鬼に捕まって食べられてしまうのですよ? なので、もう屋敷を抜け出さないで下さい!」

 頻繁に逃げ出す真盛にそう言ったのだが、真盛ははいはいと二度返事しながら日記を書いている。はいは一回! と言ったところで彼は聞かない事を知っているので外舎人はそれ以上何も言わなかった。この屋敷に召抱えてもらってまだ日は浅いのだが、二日に一度はこの橘家の嫡男が家を抜け出し、毎回総出で探し回る事になるのだ。そのせいで本来の仕事がはかどらない。いつの間にか勝手に帰って来るのだが、心配した両親が何処へ行っているのか聞いても口を開かなかった。

 良家のご子息といえどもまだまだやんちゃ盛りの七歳だ。遊びたいとか、探検したいとかいう気持ちも分からなくはない。けれども、行った先で事故にでも遭われたら舎人としてはいい迷惑だ。今の時分は父親が仕事で家にいないから脱出する好機に違いない。午後は笛の練習だの弓だの習い事が満載なのだが、その習い事の時間になっても戻って来ないことがあった。

「一体、何処へ行っているのやら」

 嘆息して外舎人が行ってしまうのを確認すると紙で出来た人形を一枚取り出した。息を吹きかけると途端に自分と同じ背格好になるが、顔は子供の落書きの様になっているし、一反木綿の様にペラペラだ。これでは自分の身代わりに出来ない。他人に見られでもしたらそれこそ妖怪だの妖しだのと大騒ぎだ。

「まあ、いいか」

 諦め、ただの小さな紙に戻すと呪文を唱えながら部屋の中をぐるぐる回り始めた。何回か回っているうちに忽然と部屋から姿が消え、鬱蒼とした森の中に佇むと頭をかいた。

「またか……」

 どうも、この呪術と言うのは便利なんだが、何分使い方が下手で仕方がない。理屈や手順は解っているのだが、想像力が足りないのだと我ながら思う。七歳でこれだけ出来れば十分だと褒めては貰えるが、年齢など関係ない。使いこなせなければどんな能力を持っていても意味が無いと思う。

 雑草を掻き分けながら道を進んで行くといつの間にか石段の上を歩いていた。あの男が見兼ねて手助けしてくれた事は直ぐに見当がつく。大きな山門を開いて中へ入ると、広い庭と大きな家があった。真盛は家へは行かず、直ぐ裏に回って小さな犬小屋を覗き込んだ。いつもなら小屋の入り口から足から見えるのだが、今日は小屋の中に居ないらしい。周りを見渡すと森の奥で灰色の小さい頭が見えてそっちへ向う。そこに三つか四つくらいの幼子が蹲っていた。

「どうした?」

 子供の視線の先に巣から落ちた雛鳥がいた。泣き喚く鳥の側にいた蛇が首を擡げて叢に入って行く。どうやら雛鳥が食べられない様に蛇を追い払った所らしい。子供が雛鳥の周りに指で円を描くとまだ飛べない雛鳥の体が宙に浮いて木の枝に乗った巣へ戻って行った。

 自分だったら見てみぬふりをするだろう。雛鳥が蛇に食べられるのも自然の摂理だから。でも、それを見捨てておけないだなんて優しい子だと思う。

「昔、俺が着てたやつだから着れるとは思うんだけど……」

 そう言いつつ持ってきた着物を差し出すが、うんともすんとも言わない。耳が聞こえていないのかもしれないし、人の言葉が解らないのかもしれない。どちらにしてもみすぼらしいので川へ連れて行って体を洗う様に言ったら理解した様なので耳は聞こえているのだろう。子供の背中は骨と皮ばかりな上に青痣や傷が沢山あった。

「お前さ……何で逃げないんだ?」

 何故そんな仕打ちを受けてまでここに留まっているのか、何故逃げないのか……自力で歩けないわけではない。首の鎖も外してやったのだからいつでも逃げられるだろう。なのに、こいつはまだ屋敷のあの犬小屋に居る。もっと遠くの他の山奥に逃げるという選択肢もあるだろう。そうすれば少なくとも、殴られたりすることは無いはずだ。

 聞いていないのか、子供は何も答えなかった。答えたく無かっただけかもしれない。持ってきた着物を着せてやると河原に座らせて櫛で髪をといてやる。猫毛の様な細い髪が柔らかかった。

 綺麗なのになぁ

 日の光に照らされ、砂埃を洗い落とした髪は真っ白だった。老人の白髪と違って艶がある。まるで高級な絹糸だ。これを悪く言う奴らは嫉妬の塊だが、この良さを自分しか知らないという優越感がある。彼は自分だけの宝物だった。だから逃げればいいのにと思う反面、何処にも行かずにいてくれて少し嬉しい。

「あいつさ、俺の本当の父親なんだってさ。俺の母上に夜這いして出来た子だからこの屋敷に来いって言うんだ。勝手だよな」

 つい、愚痴を言っていた。どうせ返事なんて帰って来ないだろうし、こいつには解らない話だろうと思っていた。

「父上の事をその様に言ってはなりません」

 唐突に幼い声が響いた。

「え? お前、喋れるの?」

 驚いて子供の顔を見やると、子供は申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ございません。出過ぎた事を申しました」

 喋った。しかも丁寧な言葉を。その時に何かおかしいと感じた。あの男からはこいつは犬だと聞いていた。犬で作った式神だと。けれども式神なら、自分の身の回りの世話をさせる筈なのに鎖に繋いで折檻するなんておかしい。気に入らなければ元の姿に戻すなり、滅してしまうなり他に方法があるはずだ。

「……お前、名前は?」

 子供は首を横に振った。となると益々おかしい。式神は創るのに手順がいる。名前もその一つで形代に魂を固定させるためのいわば紐……まあ一種の呪いみたいなものなのに、それを無視して式神など創れるだろうか?

 気になって屋敷に戻ると男を問い詰めた。男は屋敷の奥で何やら呪いをしている。

「あのさ、あの犬って、本当に式神なのか?」

 真盛の言葉に男は振り返った。

「ああ」

「どうやったらあんなの創れるんだ?」

 男は顎髭を触りながら不敵な笑みを浮かべる。

「お前にはまだ紙を使った形代の式神しか教えていないからなぁ。呪殺でよく使うが、紙ではなく動物を使うのだ」

 男は淡々と話した。呪いをかけた犬の首を跳ねると本来なら呪殺対象の人間の首に喰らいついて相手を殺す。それを子宮に石ができて子を孕めない女に差し向けた事があったそうだ。本来なら犬が女の首を喰いちぎるはずが、子を産みたいという女の想念と、家族の元へ帰りたいという犬の思念とが共鳴したのか、犬の魂は女の子宮に宿った。女の病を喰らって腹から這い出てきたそれは犬とも人間とも似つかない姿だった。

「普通なら発狂ものを、あの女は可愛いと言って甲斐甲斐しく育てておったわ」

「その女の人はどうなったの?」

 まあ、いないということは嫌気が差して捨てて行ってしまったとかなのだろうかと真盛は思った。

「自ら産んだ子供に寿命を吸い取られて死んでいった」

 だからお前もあいつに寿命を吸い取られないように気を付けることだと言われた。そのつもりならとうにそうしているだろう。

 真盛は犬小屋に戻ると、小屋の前で姿勢よく正座している子供を見つめた。

「なあお前、母親はどうした?」

 何も言わない子供に嘆息する。

「答えろ」

「……私が殺しました」

「本当に?」

「はい」

 どう考えても、こいつにそんなことが出来るとは思えない。そんなことが出来るのなら自分を育てていた母親ではなくあの男を殺して寿命を奪ってしまった方がこいつにとっては良いはずだ。

「何故、母親を殺したんだ?」

「それが母の願いだったからです」

 子供の言葉に真盛は首を傾げた。

「何故?」

「私は母から産まれ出る時に母の病を飲み込んで出てきました。元々人間としての寿命も持ち合わせておりません。三年程で寿命を終える所を、母が自らの寿命を差し出したのです」

 真盛は眉間に皺を寄せた。母親が自ら産んだ子供に執着するのは当然といえば当然だろう。

「そうか、じゃあお前は母が憎くて殺した訳では無いのだな」

「わかりません」

 意外な答えに一瞬狼狽えた。

「この世に産み育ててくれた事には感謝こそすれ、病は治ったのだからもう子は産めるのに、あるはずの幸せを手放してまで私を生かそうとする浅はかさには腹が立ちます」

 ああ、この子は本当に根っからの優しい子なのだろうなと思う。断る事が出来たならそれこそ突っぱねた願いだったのだろう。式神が産みの親の願いを違えるはずがない。この子が本当に人間の子だったならこんな事にはならなかったはずだ。



 ある日、真盛は庭先に立って呪術の練習をしていたのだがこれまた全く上手くいかなかった。男に聞くと手順は間違っていないはずだと言われたが、どういうわけか男にも出来ない原因が解らないらしかった。自分が書いた呪符に念を込めながら呪文を唱え、呪符を投げると悪霊を倒せるという割と簡単なものなのだが、悪霊に見立てた藁人形は無傷なままそこに立ち尽くしている。

 それで思わず、子供に愚痴った。

「何で出来ないのかな?」

 子供は瞳を宙に泳がせた。

「なあ、順番は間違ってないんだ。何が悪いと思う?」

 真盛の問いに、犬小屋の前で座って見ていた子供が周りを気にして真盛に歩み寄った。男が近くにいないことを確認したのだろう。

「……では不躾ながら言わせていただきます……」

 子供は真盛の周りを一周しながら真盛を見つめた。

「姿勢が良すぎます」

「は?」

「少し膝を軽く曲げて、肩の力は抜いてください。足は肩幅よりやや広めに」

「え? は? ちょっと待て、何でそんな……あいつそんなこと言ってなかったぞ?!」

 真盛は子供の言うとおりにしつつも、納得がいかない。

「真盛様は真面目すぎるので基本の型にはまった方が上達は早いでしょう」

「解った。遠回しに頭が堅いと言ってるんだな」

「そう言う意味ではありません、今のままやっていたら術の発動に時間が掛かります。私だったら真盛様が呪文を唱えている間に脳天打ち抜きます」

「うっわ、腹立つ! やってみろ!」

 言い終わるや否や、急に悪霊に見立てた藁人形の頭に穴が空いた。真盛が驚いていると、子供はゆっくりと息を吐く。

「……え?」

「真盛様には考え事をすると前屈みになって下を向く癖があります。そうすると今は良いですが歳をとってから肩凝りや腰痛、頭痛に悩まされます。これは全身の気の流れを妨げるからです。気の流れが悪くなると術も上手く行きません。全身の力を抜く練習をして下さい」

 そうなのか? と考えている間に自然と地面を見つめていた。気付かなかったが、本当にそういう癖がついていたのだろう。

「全身の力を抜くって……別に力を入れているつもり無いんだけど……」

「ご両親に厳しく育てて頂いたのでしょう。目上の人と接する事も多いので緊張する事が多かったのでしょう。良いことです」

 確かに、橘家の跡取りとしてはそうだろうが、逆に言えば呪術に不向きだという事だ。

「は〜あ〜」

 大きなため息を吐くと子供は続けた。

「瞑想をする時間を作ることをお薦めします」

「瞑想?」

「真盛様は真面目なので難しく考え過ぎるのです。一日に一度、何も考えずにゆっくり深く呼吸をすると良いです」

 言われると確かに、常にいろいろな事を考えていて頭を空っぽにしたことが無い。というか出来ない。橘家の事とか、本当の父親の事とか、呪術の事とか……そうか、色々考えすぎて頭の中がごちゃごちゃしてるから術に集中出来なくて上手くいかないのか。

「下向いてますよ」

 子供に言われ、咄嗟に空を見上げる。

「あ〜自分の癖に腹が立つ!」

「怒ると気が乱れますよ」

 子供を殴りたかったが、八つ当たりだと思い留まった。折角ここまで助言してもらったのだ。ちゃんと出来るようになってやる。

 言われた通りに体勢を整え、大きく深呼吸する。頭の中を空っぽにして……呪文を読み上げる。

 ぽんっと空気が弾ける音がして持っていた呪符が散り散りになった時、子供が意外そうに目を丸くした。そんな表情を見たのが初めてだったからこっちまでびっくりする。

「……なる程」

「え? 何?」

「真盛様には攻撃の才能がありません」

「は?」

 そうなると、悪霊が寄ってきた時に自分ではどうする事もできないと言うことだ。

 落ち込んでいると、子供は地面に何か描いてみせた。

「人にはそれぞれ、得手不得手がございます」

 子供の落書きを見て、真盛ははっとした。彼が描いた陰陽の印を見ただけで、子供が何を言おうとしているのか解った。生まれつき、攻撃に対しての呪力が備わっていないのだ。零に何を掛けても零のままの様に、どう努力したって無駄になる。その表情を見て子供がにこりと笑う。

「流石、察しが良いです」

「けど、だったら使いものにならない」

「そんな事はありませんよ」

 徐に子供が藁人形を指し示すと、真盛はそっちに視線を這わせた。

「相手を注目するのは危険です。全体を観て下さい。深呼吸をして、心を落ち着けて下さい。自分の周りの空気が、自分の味方になります」

 子供に言われるままに景色をぼんやりと見ていると、真盛の周りの空気が真盛を囲う様に一定方向に動き始める。旋風に変わると、その風がだんだん真盛の周りを離れ、やがて藁人形に到達すると、旋風が藁人形を巻き上げた。真盛が嬉しそうに目を瞠ると、風が止んで藁人形が落ちて来た。

「凄い!」

 真盛が嬉しそうに燥ぐと、不意に子供の後ろに男が立っているのを見て真盛は血の気が引いた。男が子供の頬を殴ると、そのまま子供の小さな体が地面に転げる。

「何する……」

「犬の分際で主人に助言とは何事だ」

「俺が頼んだんだ! こいつは悪くない!」

 真盛が庇うと、男は不機嫌そうな顔をして屋敷に入って行った。

「ごめん」

「いいえ、私が余計なことをしたのです。申し訳ありませんでした」

 子供は衣の砂を払っていた。

「私は犬ですから……」

「お前は俺の弟だ」

 真盛の言葉に子供は不思議そうに目を丸くした。

「あんな呪詛がどーのこーの言ってたけど普通に考えてそれ可怪しいだろ。俺の母親だって夜這いしてんだからどうせお前の母親ともやることやってんだよ。それを見た目が少し他と違うからって適当に難癖つけてんだよ」

 真盛の言葉の意味が理解出来なかったのか、子供が首を傾げた。

「つまり、お前は俺の腹違いの弟なの!」

 子供の目が嬉しそうに輝いたのを見た時、まるで宝石の様だと思った。



 翌日、庭の隅で血だらけになって倒れている子供を見た時、何が起こったのか分からなかった。刀で滅多打ちにされ、肉の削がれた体に思わず目を背けた。それでも子供は生きていた。

 どうやら昨日、真盛が帰った後に子供は男のことを父と呼んだらしい。あれほど犬と罵っていた男の事だ。父と呼ばれた事に癇癪起こしたのだろう。首をあえて刎ねずに手足の骨を折ったのは痛みを長引かせる為だろう。恐る恐る子供の体に手を伸ばした。傷口を洗って……否、先ずは水を飲ましてやって、包帯は……屋敷の何処かにあるだろうかと頭の中がいたずらに混乱する。こんなにも生々しく赤い血が地面を這うのを真盛はまだ見たことが無かった。狼狽えている真盛に、子供は優しい眼差しを送った。

「真盛様はお優しいですね。こんなになってもまだ、助けようとなさるのですか?」

 それはひと思いに止めを刺してくれと言われているように思えた。

「当たり前だろう! 弟なんだから!」

 この言葉が、どれ程子供の心を苦しめ、蝕んだのかを真盛は知らない。

 真盛が手を翳して子供の気の流れを整えようとするが上手くいかない。浅い傷が三

つ四つ消えるが、大きな傷が塞がらない。真盛の目から涙が溢れた。こんな怪我すら満足に塞げない自分が情けなかった。真盛が涙を拭うと、子供はゆっくりと起き上がって座り直した。

「ちょっと待ってろ。今、傷薬とかを……」

 屋敷に戻れば専属の薬師が居る。薬草とかは詳しくないので一度家に帰って……と考えていた。

「大丈夫ですよ」

 言っているその場で頭から水鉄砲の様に血が吹き出ているのを見て真盛は顔が真っ青になった。子供は血の出ている部分を手で抑えるが、じんわりと血が滲んでいる。

「折角頂いたお着物を駄目にしてしまってすみません」

「着物なんてどうでも良いんだよ! なんとかしろ! 血を止めるとか傷口塞ぐとか!」

 真盛が半泣き状態で喚くと、子供は微笑した。何がおかしいんだと思っていたら、大きく開いて白い骨まで見えていた傷口にかさぶたが出来ている。真盛が子供を見ると、子供はゆっくりと立ち上がった。

「言霊の力ですね。とてもよく出来ておられます」

「言霊?」

「仮名序はご存知で?」

「あ? あんなもの四歳で暗唱し……」

 そう言いかけて、真盛は首を傾げた。

「あれも呪詛の類なのか?」

「まあ、見方によってはそうでしょうが、そもそもこの国は言霊の幸はふ国ですから、善言は福を招き、悪言は災いを招きます。特に呪術を扱う立場ですから、言葉はくれぐれも選んでお使い下さい」

 子供が丁寧に頭を下げると、真盛は嘆息した。

「何でお前はそんなことを知っているんだ? あの男はそんなことを教えてくれなかった」

「お父上は存じ上げないのでしょう」

 子供がそう言って目を伏せると、真盛は頭をかいた。

「じゃあ、お前は誰からそれを聞いたんだ?」

 真盛の質問に子供は不思議そうに真盛を見上げたが、目を伏せた。

「さて、真盛様ならどうご想像しますか?」

「山なんだから山伏や修験者くらいは入って来るんだろうけど、お前がその姿で教えを請うた所で相手にされないだろう。ともすれば母親辺りかとも思うが……」

「正解です」

 子供の表情はどことなく悲し気だった。触れてはいけなかったのだろうと察して真盛は聞くのを止めた。



 真盛が元服を迎えると、男は頻りと屋敷へ戻って来るように言うようになった。真盛には橘家があったし、何より許嫁が居たから帰るつもりなど無かった。のらりくらりと帰るのを渋っていたある日、母親が突然亡くなった。

 両目を抉られ、首を圧し折られて見つかった母の死が、あの男の仕業なのだと直ぐに見当がついた。

「母上には関係ないだろ!」

 屋敷へ来るなり男に詰め寄ると、男は素知らぬ顔をしてこう言った。

「何のことが全く分からんが……」

「こいつ!」

「真盛様……」

 男に食って掛かろうとすると、屋敷の庭から子供の声がした。否、もう出会ってから年月が経っていて七歳程に成長している。屋敷へ上がることを男から許されていないから屋敷へ入って来れないのだろう。

「真盛様の母上を殺したのは私です」

 振り上げた拳が震え、庭に突っ立っている子供を睨んだ。

「ほう、それは災難じゃったのう。まさか飼い犬が真盛の母を殺すなどと儂も思い至らなかった。これを機にその犬を処分したらどうじゃ?」

「黙れ!」

 真盛は怒鳴ると、そのまま庭に出て子供の前に立った。額の青痣や、藤衣の隙間から見える古傷が痛々しい。彼の瞳は虚ろだったが、真っ直ぐに真盛を見据えていた。

「なんで……そうまでしてこんなやつのご機嫌を取ろうとするんだよっ」

 子供の表情はまるで人形の様に動かなかった。

「真盛様の父上とは何の関係もありません。私が勝手に……」

「何でお前がそんな事をする必要があるんだよ!」

「羨ましかったのです」

 思わず子供の頬を叩いていた。子供が本当にそんな理由で真盛の母を手に掛けたわけではないことくらい直ぐに分かった。あの男の命令だと言えないことも分かっていた。あの男に振り向いてほしくて、あの男の言うことに抗えなかったことも解っていた。分かっていたのに、どうしても叩かずにはいられなかった。

 喪が明けて暫く経つのに真盛は屋敷に一切行かなくなった。あの子供のことは気になるが、そんなことよりも自分のことを優先した。けれども許嫁の娘が両目を潰されたと聞いて思わず怒りが込み上げた。

 それからは二日と開けずに屋敷へ通う様になった。それで周りに危害が及ばないのであればそれで良かったし、あの男から吸収出来るものは何でも教わって利用しようと思っていた。

 


 ある日、男は依頼の手紙を真盛に渡した。

「お前には儂が扱う秘術の全てを教え込んだ。だから、この屋敷を継ぐ為にこれからは仕事を手伝ってもらう」

 男の言葉に真盛はもう反論しなかった。下手に反論して機嫌を損ねて嫁に危害が及ぶのを恐れた。けれども、人を殺して金をせしめることがどうしても納得出来なかった。

「お前がやれ」

 真盛は子供に手紙を差し出した。中には隣村の全滅が書かれている。どうせ何処かの権力者の戯れか、民と何か諍いでもあってその腹いせだろう。真盛の手から子供が手紙を受け取ろうとすると、真盛が強く手紙を握り締めた。

 本当に、これで良いのだろうか? こいつはきっと断ったりしない。こんなまだ十歳にも満たない子供に手を汚させて……けれどももし今断られて、自分が上手く出来なければ自分の嫁に危害が及ぶだろう。そうなったら、自分は自分を許せるだろうか? 否、この子供を恨むのだろうか?

「了承しました」

 子供がそう呟くと、真盛は手を離した。真盛の手が小刻みに震えている。

「……すまない」

 背を向けて呟いた。卑怯な男だと詰って欲しかった。自分が助かりたい為に、自分が手を汚すのが嫌で汚れ仕事を回してきたのかと怒鳴ってほしかった。けれども、子供にそんなことが出来ないことは知っていた。

「真盛様はお優しい人です。どうかそのまま、お優しい真盛様でいて下さい」

 流石に嘘だと解っていた。真盛に気を使ったのだ。あの心優しい子供を鬼に変えたのは自分だ。自分があの男を殺せば良いのに、自分の手を汚すのが嫌だった。失敗して嫁が殺されるのが怖かった。かと言ってあの子供に、男を殺せと命令することほど残酷なことも出来なかった。

 男からの依頼を横流しして年月を重ねていくと、愈々子供の心は壊れていった。



 子供が十三になる頃、やっと男が病に倒れた。まあ人から恨みを買う仕事だし、人を呪わば穴二つ。そのしっぺ返しが来たのだろう。弱って何も出来なくなると真盛に面倒を看るように言って来たが、まあ今までの事があったので行くはずもなく……一切覗きに行かなかった。

 静かに数日が過ぎて、ある日真盛の眼の前に黒い刀が現れた時、やっとあの男が死んだのだと悟った。けれども、その呪詛に侵された刀に眉根を寄せた。あの男は、これのせいで頭がおかしくなったのではないかと訝しんだ。そんな刀を家に置いておくのも嫌なので真盛は久しぶりに屋敷へやって来た。持っていた刀を床に叩き付けると、男の死体と、その傍に座っている十三になった少年とを見比べる。

「死んでまで当て付けしやがって……」

 男が生きていたなら直ぐに諫めただろうが、今はもう張り詰めた糸が切れた様に白髪の少年は反論しなかった。

「俺は継がないからな」

 真盛の言葉に何を言い出したんだと少年が顔を上げる。

「父上の遺言ですよ?」

「んなもん知るか。お前が継げよ」

 少年の表情は固く、何を考えているのか解らない。喜んでいるのか悲しんでいるのか分からなかった。

「父上のご意思を曲げる訳にはいきません」

「勘違いするな。これは命令だ」

 真盛が冷たく言い放つと、少年は脱力したように俯いた。

「どうせここを出たって、その髪と瞳の色じゃあ行くとこ無いだろ。この屋敷もお前の好きにしていい」

 自分の外での生活を壊したくない。嫌なことを全部少年に押し付けた。

 少年が恐る恐る刀を手に取ると、真盛に頭を下げた。

「承知いたしました」

 真盛はそのまま屋敷を出ようとしたが、少年がどう思っているだろうかと少し気になった。あいつは賢い。全部こちらの思惑は把握している。それでも、この屋敷に残っても良いと言われて、居場所を与えられたことを喜んでくれているだろうか? それとも、男の後を追おうとしていたのを、真盛の我儘で押し留められたと怒っているだろうか?

「お前は最期まで看取ってくれたんだな。ありがとう」

 あんな男でも、彼にとっては父親であり、自分を造った主人なのだろう。



 一人であんな屋敷に居たのではつまらないだろうと身寄りのない女を用立ててやった。あいつもそろそろ二十歳になる。真盛もいつまでも元気で居られるわけもない。だから彼の行く末を案じて屋敷へ連れて行ったのだが、どうも上手く行かなかった。

「五人だぞ?」

 思わず、ある日彼に愚痴った。相変わらず彼は底のしれない顔をしている。

「俺が態々お前の為にと買ってきた女! そいつら全員山の北側の村でそれぞれ別の男と結婚してるじゃないか! 別にな、気に入らないとか相性が悪いとかはあっても、五人とも全員ってことは無いだろ?」

 選り好みするなと言いたいが、まあ想像するに振っているのは明らかに女の方だろう。年齢には似つかわしくない白髪と、あの碧眼と、能面の様な顔が嫌がられているのだと想像する。

「自らの意志でここを去って行った者達が、何処で誰と幸せになろうと私には関係ありません」

 それを聞くと眉根を寄せた。そりゃお前はそうかもしれないが、自分の努力を無にされていい気はしない。

「お前な、こんな屋敷でずっと一人きりでいるつもりか? いい加減身を固めろよ。俺だっていつまでもお前の様子見に来られないだろ? 子供産まれたらもっとここには来れなくなるし、俺が死んだら、お前一人でどうするつもりだよ?」

「主人が居なくなりましたら、私はただの犬に戻るだけです」

 真盛が憐れむ様な、悲しげな顔で見つめた。

「勝手にしろ!」

 きっと自分が、彼をこんな風にしてしまったのだろう。



 そんな折に、人身御供として一人の娘が差し出された。その娘は病に侵されていて、自分の邸から一度も出たことがないのだと聞いた。そのせいか、彼女は今までに自分が連れてきた女達とは明らかに違い、彼に優しく話しかけていた。世間知らずとは噂に聞いていたが、そのおかげで見た目からの先入観が無いのだろう。

「和歌とか知らなさそう」

 二人きりの時にぽつりと呟いた。

「別に知らなくても生きてはいけるでしょう」

「お前な、和歌が出来なかったら恋愛出来ないんだぞ? 死活問題だろ」

「雅な方の考える事はよく解りかねますが……」

「お前だっていろはや仮名序は解るだろ」

「字は読めますが、私は手習いをしておりませんので歌は何とも……」

 それが意外だったが、言われてみればあの男がこいつに手習いなどさせるはずがない。

 少し不憫ではあったが、蝶ですら知らない彼女相手であれば別に教養など必要無いかと思った。

 この子なら彼の心を治せるんじゃないだろうかと期待した。あいつの方も満更でもなさそうだったから、このまま二人で幸せに暮らしてくれる事を願った。

 ーーたった二日、覗きに行かなかっただけだった。俺が居たら邪魔だろうと気を使ったつもりだった。それでも、ちゃんと仲良くしているか気になって覗きに行った。

 彼女の体に刀を立てつけている所に遭遇し、思わずあいつの襟首掴んで頬を叩いた。

「一体何をして……!」

 部屋中に赤い牡丹の花が散乱していた。心臓に突き立てられた刀に嫌悪し、もう手遅れだと思っていた。刀を抜くと、彼女の胸の傷口から赤い花弁が溢れた。傷を押さえながらゆっくりと見捩りし、そのまま部屋の隅に身を潜めた少女は、虚ろな目をしている。

「許して……」

 彼女が微かにそう呟いた。見る間に傷が塞がり、涙が頬を伝う。

「許さない」

 あいつが再び刀を振り上げるのを制した。

「やめろ! 自分が何をしているのか分かっているのか?!」

 刀を取り上げると、あいつは彼女を見下げた。

「嫌なら出ていけ」

 彼女が首を横に振ると、あいつが手を振り上げた。既のところで押し留めると、あいつは浅い呼吸を繰り返した。あいつの体を引きずって御簾の外へ出ると、彼女の啜り泣く声がした。

「一体何があった?」

 こんなにも、あいつが怒った所を見たことが無かった。だから何故怒っているのか分からなかった。

「体を治してやったのに元に戻せと言われました」

 あいつが深く溜息を吐いて、やっと言葉を漏らした。真盛は話が見えなかったが、ゆっくりと質問した。

「それは……体を治すのは、彼女が望んだことだったのか?」

「いいえ」

 成程、良かれと思ってしたことなのだろう。普通に考えれば、病に侵されて苦しんでいたのだから、治してやりたいと思うのは当然だろう。

「けど、今の彼女は人ではないだろう? 何で式神にして……」

「彼女は生きることを望んでくれませんでした」

 一気に血の気が引くのが分かった。

「だから、死なないように?」

 あいつが静かに頷くと、真盛は肩を落とした。

「人に戻してやれ」

 あいつが首を横に振ると、苛立った。

「俺の命令がきけないのか?」

 珍しくあいつが睨む様に顔を上げた。

「彼女はお前の人形じゃない。あんな風に命を弄んでいいわけない」

「ここに居るのが嫌なら出て行けば良いだけです。鎖で繋いでいるわけでも無いのにここに留まっているから、少々手荒くしただけで、彼女が出て行ってくれるのなら私もこんなことはしません」

「少々……?」

 聞き返すと、あいつが目を背けた。傷つけられる痛みは人一倍解っているはずだ。それなのにこんな凶行に走ったのは、彼女に生きていてほしいからだろう。けれども、こいつの心は歪んでいる。

「お前が良かれと思ってしたことが彼女に伝わらなくてもどかしいのは分かるけど、彼女はお前の玩具じゃないんだから……」

「解かっていました」

 真盛は首を傾げた。

「彼女はちゃんと理解していました。病を治したのも、辛くあたるのも、ここを出て幸せになって欲しいという私の思いも全部解っていました。それなのに、解っていてそれを選ばずにここで死ぬ事を選んだ彼女が許せません」

 成程、彼女の幸せを願っていたのに、それが叶わなくて癇癪起こしているのだ。

「もう許してやれ」

 あいつは首を横に振った。今まで怒った事が無かったから、自分なりの落とし前のつけ方が解らないのだろう。

「兎に角、一度頭を冷やせ」

 心根の優しい奴だから、頭に上った血が下がれば冷静になるだろうと思った。

 仕事があるので後ろ髪を引かれる思いで屋敷を後にした。

 ーー翌日、彼女の訃報を聞いたのは、噂好きの舎人からだった。

 どうやら真盛が屋敷を出た後、彼女は人間に戻って邸へ帰されたようだった。人身御供として差し出された姫が、病が治って帰って来たと、邸の者達は訝しんだらしい。けれども姫が帰されたその日のうちに邸で自殺したものだから直ぐに尾鰭がついて噂が広まった。

 真盛は屋敷へ行くと、彼女が居た部屋で呆然と座り込んでいるあいつの姿に声をかけた。

「百合姫が亡くなったらしい」

「……そうですか」

 御簾越しにあいつの溜息の様な声が聞こえた。

「こんなことならお前の嫁にしてやればよかったんじゃないか?」

 想像でしかないが、彼女はこいつに惚れていたのだろう。だからここを出るのを嫌がったし、無理に帰されて自死を選んだのだろう。

「出来ません」

 あいつの声は酷く低かった。

「俺は、自分のせいでお前がそんな風になったんだと思っていた。後ろめたかった。だからお前にもせめて少しでいい、人として幸せになってほしかった。なのに……」

「出来るわけないでしょう」

 言葉を遮られて苛立った。御簾を開けると、そこここに牡丹の花が散らばっている。藤衣が赤く染まっているのを見て目を伏せた。

「人として、女として、彼女だって何れ子がほしいと言い出すでしょう? その時に私の肉の削がれた体を見て、彼女がここを出て行くことを決意するに決まっている。彼女はまだ若い。だから外へ行けば男に不自由などするわけがない。私だって彼女の子が欲しい。自分と血の繋がった家族がほしい。けれどもそれだけはどうすることも出来ない。こんな欠陥品の傍で一生、他の夫婦が子に恵まれる様を眺めながらただ老いるだけの人生なんて送ってほしくない。だから……出て行ってほしかったのに……」

 真盛が呆れた様に大きな溜息を吐いた。

「別に子供なんかいなくたって仲睦まじい夫婦なんて幾らでも居るだろう。俺と菊菜みたいに……」

「真盛様には解りませんよ」

 それを言われてしまうとどうしょうもない。

「菊菜様はお二人子を成すでしょう」

 真盛がそれを聞いて驚いていた。もう子供なんて出来ないだろうと諦めかけていたくらいで、養子を迎える事すら考えていた。

「ただし、先に産まれた方を殺しなさい」

「それは予言か?」

 眉根を寄せ、真盛は問い質した。

「俺は自分の子供を殺したりしない」

「そうでしょうね」

 その言葉に、真盛は察しがついて睨む様に見下げた。

「それは俺への当て付けか?」

「……そう思われるのでしたら、そうなのでしょう」

「見損なった!」

 真盛は憤慨するとそのまま屋敷を出て行った。

 多分、態と怒らせる様な事を言って、愛想を尽かしてほしかったのだろうと思う。一人になりたくて、それであんなことを言ったのだと思った。



 それから何度か屋敷へ行ったが、あれ以来あいつの姿を見ることはなかった。

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