第4話 椿
深夜、赤ん坊の泣き声に飛び起きて老人は赤子を抱き上げた。赤い髪をした赤子は、産まれてまだ間もないので二時間おきに目を覚ました。老人が赤子の背を撫でながら台所に立ち、ミルクが出来上がると哺乳瓶に入れて赤子の口に含ませる。その一生懸命にミルクを飲む姿に、老人は自分の息子が赤子だった頃を思い出して微笑んだ。
「やはり、可愛いのぅ……」
ふと、居間の床に印が浮かび上がった。丸い円形の陣が光ると、その中心に鳴神 智弥が姿を現す。老人はそれを見ると溜息を吐いた。
「何処へ行っておったのじゃ?」
ミルクを飲ませ終わり、噯気をさせようと縦抱きにして赤子の背中を軽く叩いた。赤子が噯気をすると、ゆっくりと横抱きにして揺らす。
「陰陽師の所へ」
「ああ、反魂の術か……」
老人が察して言うと、智弥は俯いた。
「教えては貰えなかったけどね」
「そうじゃろうな」
「けど本は見つけたんだ。これで祐を戻せるか試してみる」
老人の目は酷く哀しげだった。
「お前が居ないから、椿が泣いておったよ」
老人がそう言うと、智弥はそっと赤子を抱き上げた。ぎこちないながらも、愛おしそうに赤子を抱き締めている。
椿は祐が屋敷の封印をし直した翌日、左慶が屋敷から連れ帰った赤子だった。タオル地の布に包まれ、赤い水引で十本取りの椿結びが添えられていた。最初こそ二人は戸惑ったが、祐が呪詛の解体へ挑んだ折にこの子を呪詛から救い出したのだろうということは容易に想像がついた。あの屋敷の呪詛が千年前の鬼の呪詛だけでは無いと気付いたからこそ、この赤子を智弥に託したのだろう。けれども老人としては複雑な思いだった。
「ごめん。あとは僕が見るから父さんは寝てて良いよ」
智弥は自分の部屋のドアに手を伸ばしたが、不意に老人へ振り返った。
「ねえ、僕にまだ何か隠していることない?」
不意にそう聞かれ、老人は肩を竦めた。
「何の事じゃ?」
智弥の冷たい視線に老人は目を伏せた。
「あの屋敷の呪詛が千年前の鬼のものだけではない事を父さんは知ってたよね?」
老人は視線を明後日の方向へ向けた。鎌をかけられている。
「般若堂と呪詛の形態がよく似ておったからそうでは無いじゃろうかという仮説は立てたことがあったが、まさか本当にそうとは知らなかったの」
「般若堂?」
「以前、教えておいたじゃろう。鳴神家にはあのお堂には手を出すなという先代からの遺言がある。手を出すなと言われれば誰しも一度は気になって調べに行くものさ。あれは、儂にも手が出せなかった」
老人はそっと目を閉じた。
「あんたに何か出来るとは思わない」
「そうじゃろな。今では智弥よりも呪術の腕は落ちておる。ただ、こんな年寄りでもお前が好き勝手何処かへ行っている間、椿の面倒を見ることくらいは出来るのぅ」
少し皮肉って言ったのだが、智弥は冷たい視線を投げた。
「別に遊んでいるわけじゃない」
「そうかのぅ? 黄泉返りなんぞそれこそ暇人の道楽じゃと思うのじゃが……」
祐ならまだしも、智弥には出来ない事は解っていた。頭の良い子だから本人も直ぐそれに気付くと思っていたのだが、まだ心の整理がつかないらしい。弟の死体を式神にして、元に戻せないか日夜勤しんでいる。こんなことを彼が望んでなどいないことを知っていたからこそ見ていて辛いものがあった。
「あんたに何がわかる」
智弥は吐き捨てるように言うと、椿を抱えて部屋に入った。老人は豆電球の光が微かに照らす居間に立ち尽くしている。
「儂には分からんよ……」
老人はそう呟いた。ふと、白装束を着た少年が現れると、老人はにこりと笑みを浮かべた。智弥に式神にされた祐がこっちを見ている。首から下げた封じ結びが、白装束に引き立てられている。老人は徐ろに財布を取り出すと、お札入れから一枚の写真を出して祐に差し出した。
「これが儂での、これが妻じゃ。こっちが智弥で……」
老人は写真に写っている人物を指し示しながら説明した。優しそうに笑っている女性が二歳の子供を抱えている。子供が被布姿なのは彼の七五三を祝う折に家族写真を撮ったからだ。
その写真を、祐はじっと眺めていた。引っ越しの折に屋敷にあったアルバムは全て持ち出してしまっていたので、探していたのだろう。死んでも、体はそのことを覚えて居るのだ。無意識にそれを眺めているが、嬉しさも悲しさも何も伝わって来ない。ただ、そういう行動をとっていると言うだけで、彼にとっては何の意味も無い。
生きていた頃に見せてやれば良かっただろうかと何度も思ったが、見せれば自分が父親だと知ることになる。兄の存在を知り、呪詛の赴くままに儂や智弥を殺すだろうと想像した。自分が殺されるのは構わないが、智弥に危害が及ぶのは避けたかった。幼かった祐が、命懸けで救おうとした家族を自ら手にかけてしまってはそれこそ本末転倒だろう。
写真を見終わったのか、祐は老人の顔を見上げていた。元々表情の乏しい子だったが、一言も喋らないので尚更何を考えているのか解らない。否、何も考えてはいないのだ。考えられないのだ。
老人はにこりと微笑んだ。見様見真似で良いから笑ってほしい。けれども少年の顔は眉一つ動かなかった。
「どうした?」
碧い瞳が、ゆっくりと右へ左へと動いた。そんな様子が初めてだったので息を飲む。けれども智弥に呼ばれたのだろう。智弥の部屋へ入って行くのを見送ると、老人は肩を落とした。
智弥は赤子をベッドに寝かせるとそっと離れた。部屋の隅に、さっき呼んだ白髪碧眼の祐が佇んでいる。智弥は祐に近付くとそっと頭を撫でた。祐の右手を取ると、掌に指先で印を付ける。定期的にそうしないと式神化の呪詛が外れてしまうのを智弥は知っていた。
「もうすぐ戻してあげられるからね」
印を書き終える前に祐が不意に手を引っ込めた。智弥はそんな事が初めてだったので祐を見つめたが、祐の表情は変わらない。
「どうしたの?」
問い質すが、眉根一つ動かなかった。
「祐」
名前を呼ぶと祐は自ら右手を差し出すが、その手が小刻みに震えている。魂はもう無いので、生きていた頃の記憶もないはずだった。
「抵抗してる?」
そうだとすれば、それは体を乗っ取っている千年前の鬼の方だろう。千年前の鬼が、祐の体を乗っ取り、式神化の呪詛を外そうとしているのだと思う。
「僕の式神化の呪詛から外れると、屋敷から出られなくなるよ? そんなにあの屋敷が好き?」
返事など来ないと思って呟いた。
「楔が外れている」
不意に祐が口を開いた。けれどもその声は祐ではない。多分、千年前の鬼の方だ。
「生贄が不在だと何か問題でもあるの?」
「お前は自分が何をしているのか解っているのか?」
質問に質問で返され、智弥は嘆息した。
「弟を取り戻そうとしてるんだけど」
「どうしてそう執着する? お前は弟を鬱陶しく思っていただろう」
「そりゃあ子供だったんだから、お母さんの愛情を独り占めしたいと思うのは当然でしょう? 君は? お兄さんの真盛さんを鬱陶しく思ったことが一度も無かった?」
煽ったつもりだったのだが、彼の表情は変わらない。彼の視線が徐ろにベッドで寝ている赤子に注がれた。
「あれが何か解っているのか?」
「真盛さんが捨てた双子の片割れだよね? あの子の呪詛のせいで、僕の能力が封じられているんでしょう?」
彼の視線が睨む様にこっちへ向いた。
「生贄として屋敷の楔になった人間の魂が屋敷から出払っていると言えば理解出来るか?」
智弥の額から冷や汗が流れた。
「あの赤子を逃がす為に、お前の弟が一人で今、屋敷の封印を一手に引き受けている状態なのに、お前の我儘で弟を屋敷から引っ張り出す度にお前の弟が疲弊しているのは解っているのか?」
「本来、僕の役目だったんだから、僕が屋敷に……」
「そう、お前が屋敷に残れば全部丸く治まったんだ。呪詛の解体もそれで済むはずだった。それなのにお前は弟に嫉妬して自分の役目を押し付けた。屋敷の呪詛の解体さえ終われば、般若堂の呪詛をお前の弟が解く算段だった。それで私の役目は終わるはずだった」
彼の瞳が一層碧く輝いていた。
「お前が刀の封印さえ解かなければ、こんなことにならずに済んだ。子供だったとか知らなかったなんて能書は通用しない。お前のかけられた呪いを解いて貰えるように精々その赤子のご機嫌でも取っていろ」
彼の姿が部屋から消えると、智弥は溜息を吐いた。彼の言ったことに嘘は無いだろう。全部自分のせいなのだ。だから弟が犠牲になるのは間違っている。だから取り戻したいだけなのに、時間だけが悪戯に過ぎていくのがもどかしかった。
老人の名は鳴神 時仁と言った。年齢は今年で六十六になる。丸い老眼鏡をかけると、おんぶ紐で椿を背負った。いつもの様にお店のシャッターを開けると、不意に明神のことを思い出して目を伏せた。
あの子は、良い子に育ってしまった……
彼が繕ってくれた座布団に、また穴が開いて中綿が覗いている。文句も言わずにそれを繕ってくれた彼を思い出す。長く使いすぎて中綿が萎み、煎餅の様になると綿の打ち直しをしてくれたこともあった。多分それは、クレハから教わったのだろうと想像する。
時仁は開店の準備を済ませると裁縫箱を取り出して座布団の前に腰掛けた。足の指で針先を摘み、右手で針に糸を通そうとするが、老眼のせいか中々糸が通らない。否、老眼のせいばかりでは無いだろう。それ程長い間、自分は針に糸を通さなかったのだ。明神が代わりにしてくれていたから、そんなことも出来なくなっていたのだ。
「どなかた功徳を積まれたい方、この針に糸を通してはくれまいか」
思わずそう呟いていた。彼が居たなら直ぐにそれが阿那律の言葉だと理解しただろう。直ぐに駆け寄って糸を通し、あの話しは釈迦の説法中に居眠りをしたことを恥じ、不眠の誓いを立てて失明した阿那律が、衣の綻びを直そうとした時の話で……と、彼なら淀みなく話しただろう。彼のそういうところが面白くて好きだった。
いつだったか山月記の話しで会話が弾んだ事もあった。『千早ふる』の落語がラジオから流れた時に、元の歌の意味を聞いたら悩みもしないで答えていた。多分あの子は、屋敷に残っていた本を全部読んでいたのだろう。全部読んで覚えていたのだ。テレビもない、玩具もない、遊び相手もいないあんな山奥の屋敷で一人きり……さぞ寂しかっただろうと想像する。
不意に足の指に挟んでいた針を取り上げられ、時仁は驚いて針を取った者へ視線を投げた。いつの間にか白髪碧眼の祐が眼の前に座っている。時仁から糸を取り上げると、黙って針に糸を通した。時仁は目を白黒させていたが、彼の表情は変わらない。彼が糸の先を玉結びにすると、時仁に差し出した。
「ありがとう……」
そう呟いて針を受け取った時に、彼の指先が震えている事に気付いた。
「そうかい。言霊に惹かれてしまったのじゃな。すまなかった」
自分が発した言葉に、無意識に反応したのだろう。明神も善い言葉には敏感だった。それは母親が、善い言葉をいつも彼に聞かせていたからだろう。絵本を読み聞かせするのが普通だろうに、彼は絵本にあまり興味を示さなかった。彼が産まれた日から母親が実語教を読み聞かせていたので、二歳の頃には嬉しそうに全て暗唱していた。食前食後の感謝詞を教えたのも、十言の神咒も、ひふみ祝詞を教えたのも母親だった。自分は何一つ彼に教えなかった。あの子に屋敷を継がせる気が無かったから教えなかった。あの子には屋敷とは関係のない場所で母親と共に生きていて欲しかった。だからあの日、あの子も連れて屋敷を出て行くつもりだった。
「今更こんなことを言っても遅いが、あの日あんなことにならなければ、儂が生贄になって屋敷を封印するつもりでおったのじゃよ。けれども、それに気付いたからこそ封印を急いだのじゃろう?」
時仁の目に涙が浮かんでいた。
まだ幼い子供達に、こんなものを残すわけにはいかないと思っていた。妻も血の繋がらない智弥を可愛がってくれていたし、智弥も新しい母親に懐いていた。贅沢さえしなければ子供達が高校へ行くまでくらいの貯金はあったから、子供達の事は嫁に任せるつもりでいた。自分勝手だと詰られるのが怖くて言えなかった。けれども自分一人が犠牲になることで子供達が健やかに育つことが出来るのならそれこそ御の字だった。
『いーろーはーにー』
ふと、脳裏に幼い子供の声がして顔を上げた。いつの間にか祐の姿はない。けれども確かに、幼かった時の祐の声だった。
『ほーへーとー、ちーりーぬーるーをー』
辿々しく、けれども楽しそうに暗証する祐の声に時仁は頷いた。
花は咲いても散ってしまう。人も生まれ、やがて死ぬ。この世の中にずっと同じ姿で存在し続けるものは何もない。無常は生ある者の免れえない運命である。様々な因縁から生じる人生という険しい山を今日一つ乗り越えて、儚い夢、永遠にお金や家や自分自身が存在するという煩悩を捨てよう。
人生は苦しみや悩み・後悔が多いけれど、その中から小さな喜びを沢山見つけ、毎日を一生懸命大切に生きていこう。
現実から逃げないように、今をしっかり見つめて生きていこう。
……そういう意味の歌だった。
「……そうじゃな」
あの子は、きっと家族が生き残るのならば自分などどうなってもいいと思ったのだろう。今回の事も、百合が居たから自分が犠牲になることを選んだのだ。彼女に自分の知識を余すことなく教えたのだろう。自分の命に執着することよりも他人の幸せを願ったのだ。それなのに、式神にされてこの世に留まるなど、彼の本意では無いだろう。
「あの子は、儂を許してくれるじゃろうか?」
智弥を説得して空へ還してやる事も出来ない。無理矢理智弥から権利を取り上げて殺してやることもしない儂を、祐はどう思っているのだろうか?
「とーとー……」
不意に背中の赤子が声を上げた。昨日まで泣く事しか出来なかったのに、もう喋り始めたのは普通の人間とは体の造りが違うからだろう。
「すまんの、智弥は今日は部活なんじゃよ」
そう呟くと座布団の穴を繕い始めた。
「とーと、いない、なんで?」
片言に幼い子供の声が聞こえた。
「じゃからの、今は……」
「また、すてられた」
椿の声に背筋が凍るのが解った。きっと記憶を無くした祐も、そう思っていたに違いなかった。
「そうではないよ。昼には帰ってくるじゃろうから、そうしたら一緒に遊んでもらいなさい。のう、椿」
「つ、ば、き?」
「そう、お前さんは椿じゃよ。怖い夢でも見ておったのじゃろう」
時仁の言葉に赤子は静かになった。前の記憶が時々夢に出てくるのだろう。そう思うと不憫で仕方がなかった。この子はきっと、千年前に橘 真盛に捨てられた双子の片割れだろうことは容易く想像がついた。
鳴神 智弥は学校を終えると一輌しかないディーゼル機関車に乗り込んだ。山の北側にある本屋で、父が仕事をしながら椿の面倒を看ているはずだ。部活なんか休むと言ったら、父に嫌な顔をされた。
「この子が本当にお前の子供だったなら休学してでも働いて責任取れと言いたいが、そういうわけでは無いのに勉強を疎かにして、弟の蘇りなどと娯楽に現を抜かすのであれば家から出て行ってくれ」
そう言われてぐうの音も出なかった。屋敷に入れるわけではないので、ここを追い出されると行き場がない。部屋を借りようとしたが、高校生なので当然親の承認が居るし、智弥の貯金では敷金や毎月の家賃を払って一人暮らしなど、到底出来るわけがない。バイトをしたいと言ったら勉強しろと言われ続けていたのでバイトはしたことが無かった。
無人駅に下り立つと、日差しが眩しかった。もう鈴虫が叢で鳴いていて、赤蜻蛉が空を飛んでいる。稲刈りをするコンバインの音があちらこちらから聞こえて来ていた。
大通りを右に曲がって商店街へ向かう途中、細い路地から何かに手を掴まれた。人の手ではない固い感触に見捩りするが、力任せに引っ張られて引き摺られる。誰も居ない路地裏に、幾つもの木の枝が伸び、その枝の先端が智弥の体目掛けて振り下ろされると、手足を貫通した。激痛から悲鳴を上げようとすると、喉に枝先が刺さってくぐもった声だけが溢れた。
自分は、死ぬのだろうか……?
智弥の脳裏に、幼かった頃の祐の姿が浮かんだ。あの子を助けてやれない自分が不甲斐ない。全部あの子に任せっきりで、自分は何一つ彼にしてやれなかった。
赤い血が流れてアスファルトに染み込む。浅い呼吸を繰り返すが、血が喉に詰まって咳き込み、痛みが意識を朦朧とさせた。智弥の体から外れた木の枝が寄り集まると、微かに声が溢れた。
「祐……」
木の枝が薙ぎ払われると、白髪碧眼の祐が智弥の前に立っていた。地面から木の根が生えるが、祐が根の一つを踏み潰すと他の根も枯れてしまう。葉のない枝が幾つも路地の細い空を覆い、切っ先が降ってくると、祐は左手に刀を握った。路地の先に立ちはだかっている大きな木の幹に刀を振り下ろすと、不意に金木犀の香りがして手元が緩む。
千早姿の清の胸に刀が深く突き刺さっていた。清の後ろにあった木の幹が割れると、祐の額に勢い良く扇が当たる。
「我が君は……」
清を後ろから抱き締める形で右慶が現れると、右慶は和歌を呟いた。
「千代にましませ さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
祐の手から刀が離れるが、刀は清と右慶の体を貫通していた。清は右慶の顔を見上げるとにこりと笑う。
「旅の夜の久しくなれば さ丹つらふ紐解き放けず……」
言い終わる前に清の体が金木犀の小さな花に変わると風に攫われて空に散っていく。右慶の姿も炭の様に変わると、刀が地面に落ちた。
「……彦」
祐が顔を上げると、右慶は静かに笑っていた。
「ありがとう」
右慶の姿が灰になって消えると、祐はゆっくりと瞬きした。右目の端から涙が一筋流れると、落ちた総竹扇に手を伸ばす。扇子を開いて右手に持つと、祐はゆっくりと呟いた。
「ちはやふる 結び定めし 緋御紐 解くに解かれぬ神授施なり」
和歌を言い終わると扇子を閉じて振り返った。辛うじて息をしている智弥を庇う形で左慶の姿が透けている。智弥の呪力が不安定で体を維持出来ないのだろう。それでも傷を少しでも治そうとしているが、振り返った祐の顔を見て左慶の顔が青褪めた。智弥を連れて逃げなければならないと思うが、体が動かない。祐が扇子を左慶に投げると、左慶と扇子が消えた。祐は落ちていた刀を左手に持つと智弥に近付いた。
「簡単に死ねると思うなよ? お前の罪を数えながら指を一本ずつ折ってやる。生きたまま体が腐って行くのは塗炭の苦しみだろうが、醜く朽ちてもその体から離れる事は許さん。肉が裂けて虫が集っても土に還ってはならぬ。畜生に四肢をもがれようと、決して……」
不意に背後から抱き締められ、口を塞がれた。祐が振り返ると、老人が悲しげに顔を歪めている。
「呪を吐くな。呪いなら儂が受けてやる。もう儂から子供たちを取り上げないでくれ」
時仁が懇願するが、祐は手を払い除けた。祐の発した言葉に反応して羽虫が何処からともなく集まって来る。その羽虫が小鬼の擬態であることは安易に予想がついた。
「子供を棄てておいて今更何を言う」
祐の睨む目に時仁は見捩りした。懐から呪符を取り出すが直ぐに燃えてしまう。
「醜く老いて恨み悔いておれば良いものを……」
「とーとー……」
幼子の声がして智弥へ振り返ると、一歳くらいの幼女が智弥に覆い被さる様にしがみついている。時仁は自分が背負っていたはずの椿が、いつの間に智弥の所へ行ったのか解らなかった。
「とーとー、またおいてくの?」
片言に聞くと、智弥は赤髪の幼女の手を握った。
「大丈夫……置いていったりしないよ」
枯れた声で呟くと椿はにこりと笑う。その様子に祐は溜息を吐いた。
「そいつは自分の保身の為にお前を捨てていく」
幼子が不思議そうに祐へ視線を投げた。
「何故ならお前はその男の子供ではないのだから」
「やめないか!」
時仁が祐の肩に触れようとしたが、弾かれてしまった。指先が焼け爛れて後退すると、祐は椿に近付いて膝をついた。
「血の繋がらぬ男を父と信じているのか、哀れだな」
祐の言葉に椿は耳を塞いだ。明るい赤い髪が見る間に深紅に変わっていく。
「これからは何処へも行かぬように鎖に繋いでおけばいい。お前が苦しんだ分の時間だけこいつを飼ってやればいい」
「トオツカミ」
椿が呟くと、祐の呪詛が止まった。
「エミタマエ……」
椿の瞳が金色に光ると、祐はたじろいだ。
「鬼哭より作に集りし蟲なれば、焼き滅せよ天の火の槍」
雲も無いのに空から雷が降ってきた。閃光が真っ直ぐ祐の頭に落ちたが、既の所で弾かれ、逸れた雷がアスファルトの地面に穴を開ける。直径二十センチ程の丸い穴が開くと、祐は溜息を吐いた。そこここに集まっていた羽虫が焼き消えてしまっている。祐は徐ろに刀を振り上げた。
「お前の言霊も利用価値があるかと思っていたが、潰しておく他ないらしい」
祐が刀を振り下ろすと、時仁が声を上げた。
「やめなさい!」
椿を庇おうとするが、振り下ろした刀が祐の首を貫くと、祐は驚いた様に目を丸くした。時仁も何が起きたのか分からず、椿を強く抱きしめている。祐の首の傷口から赤い花弁が溢れ、地面に散っていく。刀を引き抜くと血飛沫の代わりに赤い花弁が幾つも舞った。
「祓え給え、清め給え、惟神守り給え、幸え給え」
椿が唱えると、祐は自分の両耳を塞いだ。
「やめろ」
「隱神、坐りましませ」
不意に黒い中型犬が椿の傍に寄り添った。祐はそれを不思議そうに見つめている。犬の体がどんどん大きくなり、見上げるほどになると祐は見捩りした。犬の目が開きかけると逃げるようにその場を走り去る。それを見た椿が叫んだ。
「クロガネ、行っちゃうよ!」
犬は元の大きさに戻って欠伸をしている。
「生憎、思念しか残って居なくてな。今の俺には威嚇する意外何も出来ん」
「それ、役立たずっていうのよ!」
椿が声を上げると、犬は振り返って溜息を吐いた。
「心配せずともお前が呼んだのだから来るさ」
椿と鉄の会話を聞いていた時仁は何が何だか解らなかった。
「椿、そちらは……」
どう視ても黒い中型犬だ。目が閉じているのか、毛足が少し長いせいか目は見えない。
「鉄だよ」
椿の説明に時仁は転びそうになった。
「いや、その……」
「千年前の白髪の鬼に仕えていた式神だと言えば良いか? それとも、鬼を屋敷に封じた阿呆の想念だと説明した方が良いか?」
鉄の話しに時仁はたじろいだ。
昼間なのに鬱蒼と茂る草木の影で薄暗い。祐がお堂を開けると、黴臭い重い空気が外へ漏れる。電気のない暗いお堂の中には人の肉片が幾つも絡み合い、丸い大きな肉の塊が宙に浮いていた。人の髪の毛や手足が幾つも生え、そこここについた目玉が白髪の少年を凝視する。
「醜く肥えたな」
髪の毛が蛇のように動いて祐に伸びるが、それを呆気なく踏み潰した。
「お前の望み通り生きている気分はどうだ?」
肉の塊のそこここについた口が小刻みに震えている。上にある口は助けてくれと言い、下についた口は許しを請うた。或いは渇きを訴え、泣き声を発する口もいる。
「ここには手を出すなと言っておいたのに妙な結界を張られたな。長い間居た割に人を食っていないだろう」
幾つもの口がそれぞれに言葉を発するので会話にならない。祐が刀を振り上げると、急に静かになった。唇の一つが恐ろしげに呟いた。
「何故それがまだあるんだ?」
「何故だと思う?」
祐が刀を振り下ろすと、肉が削がれ、悲鳴が上がる。口々に混乱と怒号が飛び交うと、傷口から赤黒い血と、髪や目玉、蛆や蝿が涌いて出た。
「やめてくれ、許してくれ」
そこここに張り付いた口が懇願すると、祐は肉の塊を睨んだ。
「お前はどうしたんだ?」
肉の塊についた口が一斉に噤んだ。
「お前は助けてくれと懇願した者を一人でも逃してやったのか? ここへ迷い込んだ人間を一人でも救ってやったことは?」
肉の塊から、冷や汗が吹き出した。
「ずっとここに居たのに一度も無かっただろう」
「腹が減っていたんだ」「体が朽ちて痛かった」「仕方がなかったんだ」「病の虫が疼いていたんだ」
肉の塊についた口が一斉に喋り出すと、祐は刀を振り下げた。お堂の中に悲鳴が木霊する。肉を削ぎ終えると、返り血に染まった祐はお堂の外へ出た。
「結界を外しておいてやるよ。そうすればまた人間なんて幾らでもやってくるさ。そうすれば喰うに困らないだろう」
「もう、許してくれ……」
床に落ちた唇が恐る恐る呟いた。
「お前が私に懇願したのをもう忘れたのか? 死にたくないと、長生きしたいと願ったではないか」
祐の言葉に唇は震えていた。
「儂はただ……助かりたかった……」
「そう、自分だけ」
言葉が終わる前に祐は遮った。
「生き延びたかった」
「叶えてやっただろう」
「死にたく無かった」
「心配するな。まだ死んでなどいない。腹が減るのも病気になるのも怪我をするのも生きている証拠さ」
肉片の唇はそれ以上何も言わなくなった。
祐が行ってしまうと、肉の塊から飛び出た羽虫や百足がぞろぞろと外へ出て行く。肉の塊の中から生えた手が其々に自分の肉体をかき集め、転がった目玉には涙がこびりついていた。咽び泣く声がお堂の至るところから聞こえる。
「……もう、終わらせてくれ……」
男の枯れた声が虚しく秋風に解けて行った。
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